• 検索結果がありません。

アメリカ先住民の保留水利権 : 1908年ウィンターズ判決の検討

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "アメリカ先住民の保留水利権 : 1908年ウィンターズ判決の検討"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アメリカ先住民の保留水利権

―1908 年ウィンターズ判決の検討―

Tribal Sovereignty and Indian Reserved Water Rights:

An Examination of the Winters Doctrine

川 浦 佐知子

Sachiko K

AWAURA

Abstract

  This paper discusses Indian reserved water rights doctrine, known as the Winters doctrine, established by the U.S. Supreme Court decision in 1908. This study investigates the origin and development of the Winters doctrine, through the examination of major court cases that involves Indian water rights as well as Indian treaties and federal land acts that brought major land loss to native people and assisted the establishment of the American West.

  While the Winters doctrine assures priority of Indian water rights over states’ water use, the doctrine had not benefitted native tribes for more than half century. Western states have opposed federal jurisdiction over Indian water uses, and the Bureau of Indian Affairs and the Bureau of Reclamation have neglected irrigation projects needed in Indian reservations. However, the fundamental restraint for native people to practice their own water rights is the assimilation policy based on which Indian water rights was granted and interpreted.

  The Winters doctrine was long forgotten and resurrected by the U.S. Supreme Court in Arizona v. California decision in 1963. Through the efforts of Native American Rights Fund, Indian reserve water rights were finally put into practice, and in the 1980s, native tribes started to achieve water compacts with states. The redemption of Indian water rights was critical to native tribes’ sovereignty, and continues to be so.

はじめに

 2007 年「先住民族の権利に関する国際連合宣言」において,先住民の土地・領域・資源に関わ る権利が確認されて久しい。国家への包摂を余儀なくされた先住民にとって,土地や資源に関わる 権利は極めて重要なものであり,権利の実効性は独自の文化・伝統を有する集団としての存亡に関

(2)

わる。しかし,経済開発による先住民居住地の破壊や資源搾取は現在も世界各地で起きており,国 連宣言が謳う先住民の権利は未だその実効性に乏しいと言わざるを得ない。アメリカ合衆国の先住 民もこうした例に漏れず,条約や法で認められた資源の利用・管理に関する権利を行使できない状 況が長く続いてきた。なかでも乾燥した西部で生活する先住民にとって死活問題となる水資源をめ ぐる権利は,1908 年に合衆国最高裁判所(the U.S. Supreme Court)が先住民の保留水利権(reserved water rights)を認めたものの,水利権管轄を争う連邦と州の狭間に置かれ,1970 年代に至るまで 蔑ろにされたままであった。  先住民が集団として有する特有の権利,なかでも居住圏を確保し,領域での生活を可能とする資 源を確保する権利は,いかにして実効性を伴うものとなりうるのか。本稿ではこの問いに迫るべく, 司法において先住民の水利権が初めて認められた 1908 年合衆国最高裁判所 Winters 判決(Winters v. United States)1)に焦点を当てて検討する。

 ウィンターズ法理(the Winters Doctorine)が規定する先住民の保留水利権は,連邦によって先 住民のために保留された権利であり,連邦法によって管理されるが,保留地が所在する州は域内に おける連邦法の適用に反発してきた。  Winters 事件の背景には 19 世期末にかけての入植者の西部進出と西部諸州の成立,そしてそれ を可能にした先住民からの土地剥奪と連邦土地政策があった。Winters 判決における主な争点は, 二点に絞られる。一点はどのような原理に基づいて誰に水利権を認めるのかといった点であり,も う一点は水利権を管轄するのは誰なのかという点である。Winters 事件ではこの二点をめぐって合 衆国と州が争ったが,判決の行方によって領域での生活に大きな影響を受けるはずの先住民の観点 は不在であった。本稿ではこれまで議論の外に置かれてきた先住民の観点を射程に入れつつ,先住 民の土地権限を奪った条約締結,及び公有地とされた西部を変容させた土地法の検討を通して,先 住民の保留水利権を検討する。議論を通してウィンターズ法理が内包する課題を明らかにするとと もに,先住民部族にとって水利権行使が持つ意味を,部族主権の観点から考察する。  論を進めるにあたり初めに,ⅰ)1908 年合衆国最高裁判所 Winters 判決を概説するとともに,ⅱ) 事案の歴史的背景となる 18 世紀及び 19 世期のアメリカ土地政策について検討する。次に,ⅲ) Winters判決の基となった Winans 判決を検討した上で,ⅳ)20 世紀後半,ウィンターズ法理がど のように発展してきたのかを明らかにする。更にⅴ)保留権の根拠となる締結条約を精査すること で,保留水利権を部族主権の観点から検討する。上記検討を踏まえて,ⅵ)保留水利権の行使と部 族主権の関係について述べる。 1.Winters 事件と Winters 判決 1)Winters 事件の概要  Winters 事件は 20 世紀初頭,モンタナ準州北中部フォートベルナップ・インディアン保留地(Fort Belknap Indian Reservation)における水利権をめぐる係争であった。フォートベルナップ保留地は, 先住民がスィートグラスヒル合意(the Sweetgrass Hills Agreement)と呼ぶ合意2)において,グロス・

ベントレ(Gros Ventre)とアシニボニ(Asiniboine)のために保留された土地である。この合意は 1887年にブラックフット連合(the Blackfoot Confederacy)と合衆国との間で締結され,1888 年に 合衆国議会で承認された。アルゴンキン語族であるノース・ピーガン(North Piegan),ブロッド

(3)

(Blood),ノース・ブラックフィート(North Blackfeet),サウス・ピーガン(South Piegan)から なるブラックフット連合は,19 世期半ばの条約締結期,現在のアメリカ合衆国モンタナ州からカ ナダのアルバータ州に跨がる広大な地域を生活圏としていた。現在,連邦承認部族ブラックフィー トとして知られるのは,サウス・ピーガンである。1888 年の合意はフォートベルトナップ保留地, ブラックフィート保留地,フォートペック保留地の設立を定め,先住民の生活域を大幅に減じた。  フォートベルナップ保留地はカナダとの国境近くに位置し,ミズーリ川(Missouri River)から 分岐して北西に流れるミルク川(Milk River)が北境界をなす。保留地の主な水源となるミルク川 の水利権が争われた Winters 事件は,当初,1905 年合衆国巡回裁判所(the Circuit Court of the United States for District of Montana)3)で争われた。保留地上流の入植者が旱魃で水位の下がったミ

ルク川の水のほとんどを牧草やその他作物のために引水したため,保留地に十分な水が供給されな くなり,これを受けて保留地を管轄する合衆国が訴えを起こした,というのがその概要である。判 事ハント(Willam H. Hunt)は,保留地設立の基となる 1888 年の条約は水利権について言及して いないものの,保留地で先住民が生活するために灌漑が不可欠であることは明白であり,ミルク川 の水利権は合衆国に保留されると認めた。併せてハントは,保留地での灌漑はミルク川の水量のほ ぼ全てを必要とするとして,保留地上流の入植者が所有地にミルク川から引水することを禁じる中 間命令を出した。被告側はこれを不服として上訴したが,1906 年第九巡回区控訴裁判所(the Circuit Court of Appeals, Ninth Circuit)4)において先の禁止命令は正式に認められた。

 1905 年にフォートベルナップ保留地のための水資源確保の訴えが起きた背景には,大規模な水 資源開発があった。1900 年にはミルク川及びその支流に大型ダムと貯水池が建設されており,訴

訟が起こる以前から保留地に届くべき水が運河,排水溝,水路の利用によって奪われていた5)。ミ

ルク川の引水が正式に禁じられたことを受けて合衆国最高裁判所に上訴したマセソン・ディッチ社 (Matheson Ditch Company)6),クック灌漑会社(Cook s Irrigation Company)は,1862 年自営農地

法(the Homestead Act of 1862)7),及び 1877 年砂漠地法(the Desert Land Act of 1877)8)に則って

事業権を獲得し,モンタナ州法に基づいてミルク川の水を確保していた9)。1870 ∼ 1880 年代のモ

ンタナは,カンサス,コロラド,ワイオミング,ダコタとともに一大牧畜王国(Cattle Kingdom)となっ ていたが,そうした牧畜業の繁栄も水資源の確保があってのことだった。牧畜業社エンパイア・キャ トル社(Empire Cattle Company)もマセソン・ディッチ社らとともに,ミルク川からの引水を禁 止する命令を不服として合衆国最高裁判所に上訴した。 2)Winters 判決と水利権の管轄  1908 年 Winters 判決は,保留地の水利権は 1888 年に批准された合意を根拠として先住民に「保留」 されると判示した。インディアン保留地の設立目的を鑑みるならば,保留地における先住民の生活 ために水源が確保されて然るべきである,という点が主な判断理由だった。  最高裁 Winters 判決は,以下の三点を明らかにしている。ⅰ)「先住民の文明化」という保留地 設立の目的遂行のため,彼らが農業や牧畜業を営むための灌漑が必要である。ⅱ)保留地設立を規 定した条約に水利権についての記載はないが,保留地北境界をなすミルク川の水を先住民が利用す ることは想定されて然るべきである。ⅲ)保留地を管轄する連邦政府が水を保留する権利は,条約 が議会承認された 1888 年 5 月 1 日に発生しており,連邦政府が保留する水利権は州法から免除さ れるべきである。この三点のうち,先住民が保留水利権を行使する上で大きな障壁となったのは, 三点目の水利権の管轄にまつわる問題だった。水利権の範囲と優先権を決定する司法判断は州法に

(4)

基づくのか,連邦法の下に置かれるのか,という水利権管轄をめぐって合衆国と州が争ったことで, Winters判決後も先住民の保留水利権は実効性を持たないまま,宙に浮いた状態に置かれた。  Winters 判決は先住民の保留水利権を連邦法の管轄としたが,これは先に水利権管理を規定して いた州法と相入れなかった。西部諸州は水利権の範囲と優先権を決定する行政上及び司法上の規定 を州法で定めていたが,連邦管理下にある保留地先住民の水利権については州法の下で判断されて いなかった。藤田は,ⅰ)主権免除(sovereign immunity)10)を有する連邦政府には,州の手続きに 参加する義務がなかったこと,ⅱ)連邦政府が先住民の水利権の司法判断について連邦裁判所の管 轄権を主張し,州裁判所の管轄権行使に反発したこと,ⅲ)州機関及び州裁判所は,先住民の水利 権について必要事物管轄権(subject matter jurisdiction)を有していなかったことが,連邦法と州 法の狭間に先住民の保留水利権が落ちた理由であるとしている11)

  こ う し た 連 邦 と 州 と の 対 立 に 対 し, 合 衆 国 議 会 は 1952 年 マ ッ カ ラ ン 修 正(McCarran Amendament)12)を制定し,主権免除の原則を超えて合衆国を州裁判所の司法判断に参加させるこ

とを可とした。マッカラン修正以降,水利権をめぐる裁判において,州裁判所が先住民の保留水利 権を判断する優先法廷であることが判示されるようになった。1976 年 Colo. River Water Conservation Dist. 判決(Colorado River Water Conservation District v. United States)13)においては,マッカラン

修正は先住民の保留水利権の司法判断における連邦主権(federal sovereignty)の放棄であると解 釈された。1983 年 San Carlos Apache 判決(Arizona v. San Carlos Apache Tribe)14)においては,裁

判の効率性の観点から見て先住民の水利権を判断する優先法廷(preferred forum)は州裁判所であ るという,更に踏み込んだ見解が示され15),水利権に関する州の権限は 20 世紀後半に拡大した。 1980年代に入ると,先住民部族は保留水利権をめぐって州と直接交渉に入るようになった16) 2.Winters 事件の歴史的背景 1)西部開拓と水資源  Winters 事件は西部が急速に開拓され,州として合衆国へ編入されていくなかで起きた事案であ る。1803 年ルイジアナ購入によって,アメリカはミシシッピ川(Mississippi River)以西のロッキー 山脈に至る土地をフランスから獲得したが,数々の先住民集団が生活地としていた大平原グレート・ プレインズ(Great Plains)に開拓の手が入るようになるのは 19 世期後半である。1862 年発令の自 営農地法は 1 区画 160 エーカーの公有地を無償で払い下げることで,西部への入植を推奨するもの だったが,大平原は年間降水量が 500 ミリ以下の乾燥地帯であり,大アメリカ砂漠と呼ばれるこの 地域に開拓農民が入植することは簡単ではなかった。西部進出に乗り出したのは,金銀採掘で一攫 千金を狙う山師たちで,1860 年代から 1870 年代にかけてコロラドやネヴァダ,ロッキー山脈や大 盆地グレート・ベイスン(Great Basin)に進出した。1869 年にはユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)とセントラル・パシフィック鉄道(Central Pacific Railroad)が繋がれて,初の大 陸横断鉄道となるパシフィック鉄道(Pacific Railroad)が完成し,人や物資の大量輸送が可能になっ た17)。ミネソタのセントポールとワシントンのシアトルを繋ぐグレート・ノーザン鉄道(Great

Northern Railroad)が,1890 年にフォートベルナップ保留地の北,ミルク川北岸を通るようにな ると,牧畜業や穀物栽培を志す入植者たちが自営農地法に基づいて,保留地周辺の公有地に押し寄 せるようになった。

(5)

 連合会議(Confederation Congress)は西部に入植者を増やすことで,確実に西部テリトリーを 連合に編入していくこと目論んでいた。1785 年公有地条例(the Land Ordinance of 1785)18)は,公

有地を 6 マイル四方のタウンシップに分割し,更にそれを 1 マイル四方 640 エーカーの 36 セクショ ンに分割して競売にかけることを定めていた。併せて 1787 年北西部領域条例(the Northwest Ordinance of 1787)19)によって,西部各地区が人口増加に応じて代議員制の議会を有する準州 (territory)となり,更に人口が増えた場合には州憲法を有する州となるシステムが構築されていた。 フォートベルナップ保留地が位置するモンタナは 1889 年に準州から州に昇格し,連邦への加入を 果たしている。西部に入植者を呼び込んで人口増加を図り,州に昇格させて連邦に編入させていく ことは国家的事業であったが,この事業を推進するためには水資源を確保して,乾燥地を居住可能 な土地とする必要があった。合衆国議会はこの目的のために 1902 年土地改良法(the Reclamation Act of 1902)20)を制定し,西部の土地改良を図った。  1877 年砂漠地法は,土地改良を目的とした灌漑を 3 年以内に行うことを書面で示すことを条件に, 合衆国市民に砂漠地 640 エーカーを 1 エーカーあたり 1.25 ドルで売却することを定めていた。し かし砂漠地法は資金不足や水源に関する知識不足もあって,西部に入植者を呼び込む呼び水とはな らなかった21)。1902 年,合衆国議会は土地改良法を制定し,一定の州及び準州の公有地を売却し, その受領高を充当することで,西部乾燥地の灌漑工事建設を進めて土地改良を進める方策をとった。 土地改良法の下,内務省に開拓局(Bureau of Reclamation)が創設され,灌漑計画実施のための特 別土地改良基金が設けられた。土地改良法によって西部諸州における水利計画は大きく前進し,連 邦政府は水力発電によって得た歳入を糧に,1960 年代に至るまでに数百のダムを建設して乾燥地 の灌漑を進めた22) 2)土地改良法の影響  西部における土地,人口,産業の様相を大きく変えた土地改良法であるが,この法は大きな問題 を内包していた。最も大きな問題は,土地改良法は連邦が西部における灌漑計画の資金供給を担う 一方で,水利権に関しては州管轄となることを認めていたことである。1877 年砂漠地法と同様, 1902年土地改良法も水資源の利用に関しては,西部諸州の州法が定める「先占用の法理」(prior appropriation doctrine)を踏襲しており,他に先んじて水利用を始めた者が同一の水源から同一の 水量を継続的に利用する権利を有することを認めていた。連邦政府が水利計画のために費やした資 金は驚異的な額に上るが,水利計画がもたらす利は州民,州産業の手に落ちた。McCool は 1978 年の報告を基に,開拓局が費やした 36 億ドル余りの資金のうち,返済されたのは僅か 3%程度に 留まると述べる23)。灌漑費用の大部は連邦の基金が請け負っており,1980 年の内務省政策分析事 務局による報告では,灌漑面積 1 エーカーあたりに費やされた補助金は必要とされた費用の 57% から 97%を占めると試算されている24)  開拓局が採算の合わないダム建設を次々と押し進めた結果,土地改良法の対象となった西部 16 州において多くの河川の自然な流れが失われた25)。土地改良法が河川や土地に与えた影響は無論見 逃せないが,Winters 判決における争点であった連邦と州の関係を鑑みた場合,土地改良法には少 なくとも二つの問題があった。  土地改良法の第一の問題として,1902 年制定当初の目的が忘れ去られ,開拓局が不健全な土地 改良基金運用メカニズムを保持する機関となってしまったことが挙げられる。土地改良法は西部領 域の土地改良を進めることで移植者の呼び込み,人口を増やすことで準州を州に昇格させて連邦に

(6)

編入させる,その一助となるべきものだった。しかし西部 16 州が成立した後も開拓局による基金 運用は継続し,連邦政府が西部諸州の水利計画のために巨額基金を供出するメカニズムが根本的に 見直されることはなかった。

 土地改良法は 1902 年から 1939 年の間に改正を重ね,借入金の限度は 2000 万ドルに拡大され, 返済期間も 40 年に延長された。1939 年に土地改良事業法(the Reclamation Project Act of 1939)26)

が制定されると,自治体や産業のための水供給,水力発電,洪水防止や水路建設といった灌漑以外 の事業についても基金の利用が可能となり,事業規模は更に拡大した27)。1902 年の土地改良法は 補助金の返済を前提としているものの,利子の返済は求めていなかった。このような厚遇下で,灌 漑事業者は連邦から潤沢な資金供出を受けるばかりで,返済責務を果たさなかった。こうした連邦 と灌漑事業者との歪んだ関係が長期に亘って続いたことで,1908 年 Winters 判決以降も先住民の 保留水利権は顧みられることなく,先住民が必要とする灌漑計画は推進されないままとなった。  第二の問題は,1902 年の土地改良法が連邦の水利管轄権に言及していない点である。第八条は, 土地改良法が州や準州が規定する水利用に関する法に抵触しないことを明言している28)。第八条の 文面に基づいて解釈するならば,西部公有地を取得した者の水利権は自ずと州法によって管轄され ると理解される。水利権を規定する法理には,水域に隣接する土地所有者のみに水利権を認める沿 岸権(riparian rights)の法理と,先んじて水源を発見し継続使用してきた者に水利権を認める先 占用(prior appropriation)の法理があるが,西部諸州で採用されていたのは先占用の法理であっ た29)。沿岸権においては土地権限の委譲に伴って水利権も移るが,先占用権においては土地所有と 水利権は分けて考えられ,先に水利用を始めた者の権利は土地の譲渡に関わらず維持される。乾燥 地である合衆国西部での水利権が争われた Winters 事件では,沿岸権の法理は当てはまらず,先占 用の法理における先占者をどのように規定するのかが争われた。  Winters 事件においてマディソン・ディッチ社ら上訴人は,1900 年のダム及び貯水池の建設をもっ て水利用の初期の優先日(early priority date)を主張し,保留地監督官は保留地における先住民に よる農業及び牧畜のための水利用は1889年から始まったと主張した。合衆国最高裁Winters判決は, ミルク川の水利権は 1888 年の合意によって連邦に保留されたと考えられるべきであり,これは 1889年にモンタナ準州が州に昇格したことによって損なわれるものではないと判示している。先 住民が水利用における初期の優先日を有すると認めたこの判示は,それまで州法に基づいて水利用 を図ってきた私的利用者の優先権を脅かすことになった。藤田はこのことがウィンターズ法理が実 践されることなく,50 年に亘って低迷した主な理由であると分析している30) 3)保留水利権の実際  合衆国東部諸州が採用する沿岸権の法理では,水路に隣接する土地所有者のみが水利権を有し, 水利用は水路に隣接する土地区画のみで可能となる。消費水量が制限される沿岸法に対し,最初の 引水日を基に水利権を定める先占用の法理では,最も古い優先日を持つ先占者が当初利用した同じ 水量を同じ水源から継続的に利用することができ,続く利用者は残りの水量しか利用することがで きない。土地改良法が制定された当時,西部における先占用の法理が合衆国議会においてどの程度 議論されたのかは後の検討に委ねられるが,西部土地の灌漑に莫大な補助金を提供しながら,連邦 法による水利管轄権が土地改良法において言及されなかったことは,連邦によって保留された先住 民の水利権が著しく損なわれる元凶となった。  1902 年開設の開拓局は,既に 1910 年の時点で深刻な状態に陥っていた。合衆国議会が土地改良

(7)

の認可権限を内務長官に委ねたことで,計画認可のプロセスは極めて政治的なものとなっていた。 西部諸州の議員は功績を挙げるためこぞって計画申請を行い,内務長官は十分な選別を行うことな く基金拠出を認可した。開拓局の一部では水利権に係る連邦の権限を拡大し,州の権限を抑制しよ うという試みも存在したが,その試みはことごとく西部諸州の行政機関によって砕かれた。開拓局 は連邦と州とを調整する能力を持たないまま,州法に服従する形で西部諸州の水利権を扱い続けた31) 非先住民,特に大規模事業者の灌漑事業が推し進められる一方で,先住民保留地が必要とする灌漑 計画は十分な資金を得ることなく留め置かれた。フォートベルナップ保留地においては,1903 年 にインディアン局が灌漑に着工したものの,1985 年に至っても完成を見ていない32)

 先住民の後見たるべきインディアン局(Bureau of Indian Affairs)も,先住民の保留水利権を擁 護することをしなかった。インディアン局はウィンターズ法が述べる水の「有効な活用(beneficial use)」を狭義に解釈することで,州法との妥協を図ろうとした。インディアン局が有効な土地活用 の方策として,非先住民への大規模な保留地土地の貸し付けを行った結果,灌漑された先住民土地 の 71%は非先住民の農地となり,多くの保留地で非先住民の存在感が増す結果となった33)  1908 年 Winters 判決が定めた先住民の保留水利権は,それ自体で自動的に先住民に実利をもた らすものではなかった。官僚政治に飲み込まれ,50 年以上も忘れられた法となった先住民の保留 水利権は,再び見出され,適切な行使のあり方が議論される必要があった。コロラド川の水利権を めぐってカリフォルニア州とアリゾナ州が争った 1963 年 Arizona 判決(Arizona v. California)34)におい

て,1908 年の Winters 判決が再確認されたことで,先住民の保留水利権は新たな展開を見ること となった。以降,司法の場において保留地に必要とされる具体的な水量や水利用の範囲,水利権が 発生する優先日の解釈や,連邦水利権の管轄をめぐる問題が更に検討され,20 世紀後半,先住民 の保留水利権を定義するウィンターズ法理が発展した。 3.ウィンターズ法理と先住民 1)ウィンターズ法理への道  ウィンターズ法理の基盤となるのは,条約に基づく「保留権」という考え方である。この保留権 の法理(reserved right doctrine)は,1905 年 Winans 判決(United States v. Winans)35)において初

めて明言され,その法理が Winters 判決において適用されている。

 Winans 事件は,ワシントン州コロンビア川におけるヤカマ・ネーション(Yakama Nation)36)

漁場に関わる事案であった。カスケード山脈(Cascade Range)から太平洋へと流れるコロンビア 川(Colombia River)は,ワシントン州とオレゴン州の境界をなす。コロンビア峡谷(Colombia River Gorge)奥に位置するセリオ滝(Celio Fall)は,ヤカマ,ウマティラ(Umatilla),ネズパー ス(Nez Perce)の伝統的漁場であった。1890 年代,セリオ滝近隣に自営農民法によって土地を得 たウィナンズ兄弟(Lineas & Audubon Winans)がワシントン州の許可を得,この漁場でフィッシュ・ ウィールを用いた商業漁業を始めたが,これによって大量のサーモンが捕獲され,先住民が必要と する魚が捕獲できなくなった。ウィナンズ兄弟は更に,ヤカマの人々の漁場へのアクセスを封じる という積極的妨害行為に至った。こうした状況に対する先住民からの訴えを連邦地方検察官が受け, 合衆国と先住民が原告となってウィナンズ兄弟を訴えたのが Winans 事件である。先住民の漁業権 は 1855 年ヤキマ条約(the Treaty with the Yakima, 1855)37)において保障されており,1896 年,合

(8)

衆国巡回裁判所はウィナンズの行為は違法であるという判断を下した38)  1855 年条約第三条は,通常使用する場所及びこれまで慣例的に漁業を行ってきた場所における 先住民の漁業権を明記しており,保留地だけでなく保留地外での先住民の漁業従事についても認め ていた39)。セリオ滝はヤキマ保留地域外北に位置するものの先住民の伝統的漁場であり,巡回裁判 所判事ハンフォード(Cornelius H. Hanford)は,先住民のセリオ滝での漁業権は条文に従って認 められて然るべきであると判断した。これに対し,ウィナンズ兄弟はワシントン州から漁業権を得 ていることを理由に,漁場の排他的使用を主張し控訴した。

 1905 年 Winans 判決においてマッケナ裁判官(Joseph Mckenna)は,先住民部族が有する条約 権利に対する支持を鮮明に打ち出し,ウィナンズ兄弟の上訴を退けた。Wilkins & Lomawaima は マッケナ判事の意見書は,ⅰ)条約解釈のあり方,ⅱ)州と連邦の関係,ⅲ)先住民の保留権の三 点を明確に示した点で意義深いと分析する。まず第一に,マッケナ判事は条約権利の法理を引いて, 条約は先住民の側に立って先住民が理解するであろうように解釈されるべきであるとした。第二に, 合衆国は先住民が有する権利を守る権限を有しており,その権限において先住民の漁場を守るよう, 州に便宜を求めるのは妥当であるとした。この見解は州に対する連邦の優位を示すものであり,州 と連邦は対等の立場(equal footing)にあるという主張に打撃を与えるものだった。第三のポイン トが,ウィンターズ法理に関わる先住民の保留権への言及となる40)  マッケナ裁判官は意見書において,先住民にとって漁場を取り戻すことは,呼吸のために大気が 必要であるのと同じくらい生存に不可欠であると述べ,先住民にとって生活状況が変わり,生存に 関わる権利の抑制が求められるようになったものの,それは権利の限度の問題であって権利の剥奪 ではないと主張した。併せて条約が定義する権利について「条約はインディアンに対する権利の承 認ではなく,むしろ彼らからの(合衆国への)権利の承認である」という解釈を展開し,合衆国に 対して承認されていない権利は先住民側に保留される,と結論した41)。マッケナ裁判官によって明 らかにされた,「条約において規定されていない権利は,先住民がそれまで通り保留する」という 条約権利の解釈が,保留権の法理である。藤田は保留権の法理は,アメリカ・インディアン法にお ける重要な構成要素をなすと述べており,部族主権を検討する上でも鍵となると考えられる42) 2)Winans 判決と Winters 判決  Winans 判決は司法において,初めて「保留権」という考え方を提起した。Winters 判決におい ては,保留権の法理が踏襲されて「保留水利権」が先住民に認められた。両判決とも先住民に保留 される権利を扱っているが,当然のことながら違いも認められる。Winans 判決と Winters 判決の 違いをまとめたものが表 1 になる。この違いを見ると,保留水利権が即座に先住民に実利をもたら す法理とならなかった要因が窺える。  まず第一に,条約で認められていた先住民の権利であるが,Winans 判決において争点となった 伝統的漁場での先住民の漁業権が,1855 年ヤキマ条約において明記されていたのに対し,Winters 事件で争われた保留地における水利権は,1888 年の合意で言及されていなかった。そのため判決 において,保留地における水利権は保留地設立の目的に照らして黙示的に認められるとされた。関 連して,Winans 判決において漁業権が先住民の生存権として認められたのに対し,Winters 判決 では水は先住民の「文明化」のために必要な資源として扱われ,合衆国が先住民のために保留する 財産という位置づけであった。Winters 判決では乾燥した西部における貴重な水資源の管轄権をめ ぐって州と連邦が争い,「先占用の法理」において重視される水利用の最初の優先日が争点となった。

(9)

 条約条文において先住民の生活圏や生活様式がどこまで認められ,尊重されているのか,という 点は権利の発生に係る問題を含んでおり,先住民が有する権利の及ぶ領域や権利行使の範囲に大き く関わる。Winters 判決では黙示的に先住民の水利権が認められたものの,あくまで連邦の信託責 任(trust responsibility)を介しての権利であり,水利用の範囲は「有益な利用」に限定された。 また,この「有益な利用」の定義も連邦,特にインディアン局に任されることとなった。Winters 判決で認められた保留水利権が保留地内での行使に限定される一方で,Winans 判決では先住民が 慣例的に漁場としてきた保留地域外での漁業が認められた。司法判断においてヤカマ・ネーション に認められた漁業権は,先住民の「文明化」を掲げる同化政策の枠組みを超えて判断されたもので あり,ヤカマの人々に漁業,狩猟,採取という伝統的生活様式を継続する権利が認められた,と解 釈できる。  両事案を隔てる最も重要なポイントとして考えられるのが,事案への先住民の関与の度合いであ る。Winans 事件は魚を捕獲できなくなった先住民が連邦の検察官に窮状を訴え,数名が合衆国と ともに原告としてウィナンズ兄弟を提訴した。対して Winters 事件において,上流域での水資源搾 取によって引き起こされた保留地の窮状を訴えたのは保留地監督官であり,最高裁へと至る訴訟全 体を通しても先住民の視点・見解は不在であった。Shurts は Winters 事件を,保留地上流におけ る大規模ダムや貯水池計画によって,水を得られなくなった下流域の住民が起こした裁判と見る。 1898年の時点で,ミルク川から保留地への引水を州に要求したのは保留地監督官ヘイズ(Luke Hays)だった。しかし,ヘイズは保留地監督官としてではなく一個人として水利権を要求してい 表 1 Winans 判決と Winters 判決 Winans判決 Winters判決 1.条約上の表記 先住民の漁業権は条約で明記されており, 問題となったのは権利が及ぶ範囲や領域で あった。 条約に水利権への言及はなく,先住民の水 利権は「黙示的に」認められた。 2.権利の種類 問題となったのは生存権で,これまで慣例 とされた漁業による生活存続のための基本 的な権利として検討された。 水利権は財産権として扱われた。先住民の 文明化という,保留地の設立目的を遂行す る上で必要とされる水資源が問題となっ た。 3.権利の行使 先住民の漁業,狩猟,採取の権利について言及された。 「水の有益な利用」が求められ,農業や牧畜業のための水利用が想定された。 4. 権利が認めら れる領域 保留地域外,条約締結以前の生活圏にも先 住民の漁業権が及ぶと考えられた。係争と なった場を含む領域での先住の事実や,領 域での生活様式(狩猟採取)が認められた。 保留水利権が認められたのは,保留地域内 のみであった。保留地及びかつての生活圏 での生活様式への言及はなかった。 5.優先日 先住民が伝統的漁場を使用する権利が条約 で認められていたため,使用の優先日は争 点とならなかった。 先んじて使用したものが水利権を有する 「先占用の法理」が関わるため,水利用の 優先日が問題となった。 6. 先住民の訴訟 への関与 先住民が提訴し,後に合衆国が原告となっ て漁場占有者を訴えた。 保留地監督官が州に申し立てをし,後に合 衆国が灌漑事業者らを訴えた。 7.争点 州が発行する漁業権と先住民の条約権利が対立した。 水利権管轄をめぐって州と連邦が対立した。

(10)

ており,先住民や合衆国と名を連ねての要求ではなかった43)。Winters 事件は,保留地及びその下 流域への引水を要求するものであったが,保留地が特定の目的を持つ連邦信託地であったが故に, 結果的に先住民の保留水利権が検討される訴訟となった,と考えられる。  Winters 判決で先住民に認められる保留水利権は,あくまで合衆国庇護下での権利である。部族 主権の観点から見るならば,Winans 判決において先住民に所与の権利として認められた「漁業権」 に比べると,先住民が「保留水利権」を行使するに当たって越えるべき障壁は高いと言わざるを得 ない。

 Winans 判決が認めた先住民の漁業権は,1960 年代にレッドパワー・ムーヴメント(Red Power Movement)と呼ばれる先住民運動が台頭すると新たな展開を見せた。ワシントン州は規制を設け て先住民の漁業権を抑圧したが,先住民は州の禁止区域での漁業を決行してこれに抵抗した。この 抵抗としての漁業「フィッシュイン(fish-ins)」は,先住民の条約権利の行使を象徴するものとし て扱われた。一方の先住民の保留水利権は 1980 年代,先住民の権利運動を牽引したアメリカ先住 民権利基金(Native American Rights Fund, NARF)が最重要課題として取り組み,権利行使への道 筋がつけられた。NARF の支援を得て,1980 年代以降,先住民部族は州との交渉を経て水利権合 意を取り付けるようになっていった。 4.ウィンターズ法理の展開 1)1963 年 Arizona 判決と PIA 基準  先住民の保留水利権に言及した Winters 判決であるが,部族が実利を得るまでには多くの時間と 労力が必要とされた。Shurts は 20 世紀前半,判決当初 30 年のウィンターズ法理は現在のウィンター ズ法理とは異なると述べる44)。行政府の官僚主義や州と連邦の管轄権争いによって,行使が妨げら れたままだった先住民の保留水利権は,1963 年 Arizona 判決によって再び司法の場で検討される ようになった。Arizona 判決以降,1976 年 Cappaert 判決(Cappaert v. United States)45),1984 年

Adair判決(Adair v. United States)46)といったケースにおける司法判断の積み重ねによって,ウィ

ンターズ法理は発展した。  ウィンターズ法理発展の一契機となった Arizona 判決では,アリゾナ州とカリフォルニア州がコ ロラド川とその支流の水利権を争った。州間の水利権訴訟において,関係河川流域に存在する 5 つ の保留地47)の水利権を合衆国が主張したことで,先住民の保留水利権が改めて検討されることに なった。1963 年 Arizona 判決における争点の幾つかにおいて,ウィンターズ法理が再確認されて いる。  まず第一に,先住民の保留水利権は合衆国が保留地を設立した日をもって保留されるという解釈 が展開され,併せて保留地設立後に拡大された領域についても,保留水利権が保障されることが確 認された48)。アリゾナ州は 1912 年の州昇格によって,可航河川であるコロラド川下部の土地権限 を与えられており,アリゾナ州はこれを理由に連邦がコロラド川の水を保留する権限はないと主張 した。これに対し合衆国最高裁判所は,連邦政府は保留地設立に際しコロラド川からの引水を想定 していた,としてこれを退けた。第二に,先住民の水利権は保留地設立を承認した合衆国議会,及 び行政命令に支配されるとし,連邦によって保留される水利権であることが確認された。アリゾナ 州は州間の紛争解決と同様の原理に基づいて,州と保留地の水利権問題も解決されるべきだと主張

(11)

した。これに対する判断は,州と保留地を同義に扱うことはできない,というものだった。先住民 は保留地管轄に係る相当の権限を有するものの,保留水利権については連邦の管轄を免れないとい うのがその理由だった。第三に,保留地設立を定めた連邦の「行為」によって,黙示的に連邦によ る水資源保留が認められることが確認された。アリゾナ州は,保留地のために水の保留が意図され た証拠はないと主張したが,裁判所は乾燥地である係争地区で灌漑なしに生活することは不可能で あり,この事実を抜きに保留地設立を合衆国議会が承認したとは考えにくいと判断した49)  Arizona 判決では州間で水資源をどう分配するかが検討されたが,その同じ枠組みにおいて先住 民保留地の水利権が議論された。係争において州と保留地の相違や,州と連邦の関係がより踏み込 んだ形で論じられたことで,ウィンターズ法理は新たな視点を持って確認されることになった。 Arizona判決における最も重要な点は,保留されるべき水量の具体的な算定方法についての議論が されたことであろう。ブラック裁判官(Hugo Black)は保留されるべき水量の算定について,実 際に灌漑可能な面積(practicably irrigable acreage, PIA)を潤すために必要な水量が保留されるべ きであると判示している。1 エーカーの土地を 1 フィートの水で潤すための水量が 1 エーカーフィー トという単位になるが,判決では認定された 5 つの保留地における灌漑可能な土地のために,100 万エーカーフィートの水が必要であると示された50)。1963 年 Arizona 判決によって,保留地の灌漑 のために確保されるべき水量が議論され,PIA という水量算出基準が示されたことで,水量の算出 はその後の水利権係争における重要な争点となった。 2)1976 年 Cappaert 判決における連邦水利権

 1976 年 Cappaert 判決では連邦の水利権(fedral water right)が扱われ,保留水利権の法理は先 住民保留地以外の連邦土地にも適応可能であると判示された。この事案は,ネヴァダ州デスバレー 国定史跡(Death Valley National Monument)域内の洞窟デビルスホール(Devil s Hole)の地下水 に生息する絶滅危惧種デザートフィッシュを保護すべく,合衆国が連邦管轄域内の地下水の権利の 確認を求めたものである。カルフォルニア州,ネヴァダ州,ユタ州,アリゾナ州などは,米墨戦争 (1846 年―1848 年)終結に係る 1848 年グアダルーペ・ヒダルゴ条約(the Treaty of Guadalupe

Hidalgo)51)によって合衆国の所有となった土地である52)。デスバレー国定史跡は遺跡保存法(the

American Antiquities Act of 1906)によって 1933 年に設立され,デビルスホールはトルーマン大統 領によって 1952 年にデスバレー国定史跡に追加された。  この事案に先住民の保留水利権が直接関係することはなかったが,連邦政府が特定の目的に使用 されていない,利用可能な水を保留しようとしたかどうかが争われ,これを判断する上で保留水利 権の適応範囲が議論されることになった。Cappaert 判決では,連邦の水利権は連邦法に基づくが故 に州裁判所で紛争解決されることはなく,連邦裁判所がその任にあたるべきであると判示された53)  Cappaert 判決において,ウィンターズ法理は保留地だけでなく,連邦土地全てに適応されうる ことが確認された。Cappaert 判決は国定史跡を設立した連邦の「行為」によって,史跡設立の目 的を果たすために必要な水は黙示的に連邦に保留されるとしたが,これは Winters 判決を追認する ものだった。一方で先住民にとってこの司法判断は,保留地とその他連邦土地における保留水利権 はどのように区別されるべきなのかという問いを残した。先住民が部族自治を行う保留地は,国立 公園や国有林といった他の連邦土地とは明らかに性質が異なる。しかし,Arizona 判決が先住民に よる保留地での自治の事実を認めつつも,連邦の水利権管轄を強調したことから分かるように,連 邦の水利権管轄という点から見るならば,保留地と保留地以外の連邦土地における保留水利権の差

(12)

は明確ではない。Cappaert 判決における判示は,先住民のために保留されるべき水量の算定が, 先住民保留地以外の連邦土地の基準に引き下げられかねないリスクを孕んでいた。

3)1984 年 Adair 判決における「超記憶的な時代」

 1984 年 Adair 事件は,Winans 判決で認められた保留権と Winters 判決が定めた保留水利権が, どのような関係にあるのかを明らかにしたケースである。この事案では,保留地設立を定める条約 において先住民の漁業権が認められている場合,先住民の水利権が発生した時点をどのように判断 するのかが争点となった。

 係争の地となったのはオレゴン州南部とカルフォルニア州北部を流れるウィリアムソン川 (Williamson River)とクラマス湿地(Klamash Marsh)で,この地では保留地設立以前からクラマ ス族(Klamath Tribe)が漁業を行っていた。1864 年,クラマス族はモードック族(Moadoc)やス ネーク族のヤフースキン・バンド(Yahooskin band of Snake Indians)とともに,クラマス条約(the Treaty with Klamath, etc., 1864)54)を締結し,オレゴン中南部に位置するクラマス湿地とウィリアム

ソン川流域を含む約 80 万エーカーの保留地を得た。クラマス条約第一条は,保留地内における漁業, 狩猟,採取の排他的権利を部族に認めており,第二条では農業への転業を財政的に支援する旨が約 束されている。

 1887 年一般土地割当法(the General Allotment Act)55)がクラマス保留地に導入され,先住民家長

に 160 エーカーの土地が与えられた。それ以外の土地は「余剰地」と見なされたことで,部族は保 留 地 の 4 分 の 1 を 失 う こ と に な っ た。20 世 紀 半 ば, 連 邦 政 府 は 1953 年 決 議 108 号(House Concurrent Resolution 108)56)をもって,先住民との信託関係を一方的に終結させる連邦管理終結政

策へと舵を切ったが,クラマス族は決議 108 号による即時解体を言い渡された部族の一つだった。 1954年クラマス族管理終結法(the Klamath Termination Act)57)が施行され,1961 年には部族保留

地の管理終結が言い渡された。合衆国は段階的に部族土地の購入や公用収用を行ったが,その一環 として 1958 年にクラマス湿地を野生保護地区として購入し,1961 年と 1973 年に保留地の広大な 森林地を購入して国有林とした。これによってかつての保留地土地の 70%が連邦所有となった58)  1984 年 Adair 判決の発端は,1975 年に合衆国がオレゴン州地区地方裁判所に対して,ウィリア ムソン川の排水領域の水利権の確認を求めたことであった。翌 1976 年に合衆国とクラマス族が原 告となって,当該地区の水利権を求めてオレゴン州を提訴。1977 年,地方裁判所は部族は超記憶 的な時代(time immemorial)から漁業権,狩猟権を保護するために必要な水利権を有すると判示し, 水利用の優先を決める二種の基準を言い渡した。一つは,かつての保留地土地を現在も所有する先 住民個人が該当するケースで,彼らの農業従事に必要とされる保留水利権の起点は 1864 年の条約 締結日に遡るとされた。もう一つは狩猟や漁業のために保留される水利権で,これは超記憶的な時 代に遡ると判断された。判決では併せて,漁業,狩猟のための水利権は,農業のための水利権に優 先すると判示された59)  原告,被告の双方が上訴して争われた第九巡回区控訴裁判所判決では,保留水利権は保留地設立 の目的に限って黙示的に保留されること,保留されるべき水量は保留地設立の目的達成に必要な量 に限られることが確認された。Winters 判決においてマッケナ裁判官が示した「条約が規定してい ない権利は先住民が継続して保留する」という見解は引き続き踏襲され,条約解釈に両義性がある 場合には先住民の利益が優先されるよう解釈されるべきであると判示された。ウィンターズ法理の 原則が確認された上で,控訴裁判所は次の二点を明らかにしている。第一に,直接の水使用を要し

(13)

ない,漁業や狩猟の継続のために必要とされる水利権を先住民に特有の権利として認め,これに州 の管轄権や先占用の法理を適応することを否定した。第二に,1864 年の条約によって保留された 水利権は,1954 年の部族管理終結法によって無効とならないことが判示された。これは 1954 年の クラマス族管理終結法が部族の水利権を破棄しないことを規定しており,また 1864 年の条約にク ラマス族がそれまで有してきた,生存に関わる権利を減する文言がないことによるものだった。  1984 年合衆国最高裁判所判決は,巡回区裁判所の見解を踏襲するものだった。クラマス族が有 する狩猟・漁業の継続のために必要な水を保留する権利の起源は,条約締結の 1864 年ではなく, 超記憶的な時代に遡ることが確認された。ここに条約締結に依拠しない先住民の水利権が規定され, その起点は合衆国史を超えた「超記憶的な時代」とされることとなった。Adair 判決において先住 の事実に基づいてクラマス族の権原が認められたことは,先住民の部族主権を考える上で意義深い と言えよう。 4)ウィンターズ法理の要点  1963 年 Arizona 判決によって蘇ったウィンターズ法理は,その後,どのように先住民の保留水 利権を規定したのか。藤田は 20 世紀後半になって発展したウィンターズ法理の要点を,以下の三 点にまとめている。  第一に,ウィンターズ法理において,先住民の水利権は保留地を設立した連邦の「行為」によっ て保留されると規定される。連邦の「行為」は主に先住民との条約や合意を指すが,大統領の行政 命令(executive order)もここに含まれる。故に条約保留地であるか,大統領の行政命令による保 留地であるかに関わらず,部族の保留水利権は保障される。ウィンターズ法が重視するのは,先住 民保留地を設置した連邦の意図や行為であるため,条約や合意において水利権に関する言及がある かどうかは問題とならず,水利権は「黙示的」に先住民に保留される。また,保留地設立の時期が 州の成立に優先するかどうかに関わらず,部族の水利権は黙示的に保留される。上述の理由から, 部族の保留水利権の実態と内容は連邦法によって決定される。  第二に,連邦法の下に置かれる保留水利権は,州法が採用する先占用権と幾つかの点で異なる。 最も重要な違いとして,先占用権が使用しない場合において失われるのに対し,保留水利権は不使 用によって失われることがない点が挙げられる。また,保留地設立に先んじて水利権を有する者が 水を使用していなければ,部族は保留地設立の目的を遂行する上で必要とされる全ての水を利用す る権利を有する60)。部族が保留地設立以前から生活圏とする特定の河川で継続的,且つ習慣的に 漁業を行ってきた場合で,条約において合衆国がその権利を認めている場合には,水利権の優先日 は「超記憶的な時代」と設定される。こうしたケースにおいては,水利権に二つの優先日が存在す ることになる。  最後に,先住民の保留水利権は先占用の法理に従わない。そのため,仮に灌漑可能な保留地面積 を潤すほどの水量を使用しない時期が続いたとしても,保留地設立の目的のために必要とされる水 はいつでも使用できることになる。併せて,先住民は水利用の優先日が後になる順位者と水利権を 共有する義務を負わない61)  1963 年 Arizona 判決以降,司法において先住民の同化を前提とした保留水利権と,条約が先住 民に認めた漁業,狩猟,採取のために必要な水利権との関係が明らかになった。併せて,保留水利 権によって先住民に確保されるべき水量が具体的に議論されるようになった。保留水利権が保留地 のみならず,連邦管理の及ぶ土地全般に適用されることが明らかになったことで,保留地以外の連

(14)

邦管理地における水量算出の基準が,どのように先住民の水利権に影響するのかについては依然, 課題が残るものの,20 世紀後半の司法判断の蓄積によって,保留水利権は先住民にとって行使可 能な権利となるべく歩を進めたと言えよう。 5.部族主権と保留水利権 1)条約締結から保留地設立へ  1908 年 Winters 判決においてマッケナ裁判官は,「条約はインディアンに対する権利の承認では なく,むしろ彼らからの(合衆国への)権利の承認である」という解釈を展開した。実際,合衆国 は条約を通して余念なく先住民に対する要求を突きつけ,周到に合意を取り付けた。条約締結の意 味合いは時代とともに変化した。当初,先住民集団と合衆国との友好条約であったものが,先住民 の居住領域を限定する条約へと変わり,更には先住民に土地権限の委譲を迫り,最終的には先住民 を保留地へと追い込む条約へと変容した。合衆国は条約締結によって段階的に権利を拡大し,先住 民の土地を剥奪していった。Winters 判決において重要な判断材料となったのは,フォートベルナッ プ保留地設立を定めた 1888 年の合意であるが,この合意締結に至るまでには数々の条約,合意, 行政命令が存在した。1888 年の合意に至る経緯を見るならば,どのように先住民の保留水利権が, 農業や牧畜業といった生業のための水利用を前提とするものに限定されていったのかが垣間見え る。  フォートベルナップ保留地を居とするアシニボニとグロス・ベントレが関係する条約,合意,行 政命令,及び関係する出来事の一覧が表 2 である。アシニボニはヤンクトン・スー(Yankton Sioux)の一団として五大湖周辺を生活域としていたが,1600 年頃に分離して西へ移動した。グロス・ ベントレはヒダッサ(Hidatsa)とも呼ばれ,マンダン(Mandan),アリカラ(Arikara)と同盟関 係を結びつつ,ブラックフット連合の一部をなしていた。アシニボニは同盟関係にあったクリー (Cree)とともに,グロス・ベントレを 1774 年にハドソン湾交易所で,1843 年にはスィートグラ スヒルで攻撃しており,両部族は敵対関係にあった。

 合衆国が複数の西部先住民部族ととり結んだ 1851 年フォートララミー条約(the Treaty of Fort Laramie with the Sioux, etc., 1851)62)は,ホースクリーク条約とも呼ばれる。この条約締結にアシニ

ボニとグロス・ベントレは,シャイアン(Cheyenne),スー(Sioux),アラパホ,クロウ(Crow), マンダン,アリカラとともに関わった。条約第五条はそれぞれの部族のテリトリーに言及しており, アシニボニにはミズーリ川とイエローストーン川に挟まれた地域が,グロス・ベントレにはマンダ ン,アリカラとともにミズーリ川とパウダー川(Powder River)に挟まれたモンタナ準州南東部の 土地が約束された。この条約は合衆国と先住民部族の友好,及び部族間の和平を謳っているが,合 衆国にとって最も重要な点は,先住民から移植民の安全な通行の約束を得たことだった。

 1855 年にはブラックフット連合が条約(the Treaty with the Blackfeet)63)を締結。条約ではブラッ

クフット連合,フラットヘッド(Flathead),クーテナイ(Kootenai),ネズパースの領域がそれぞ れ定められ,ブラックフット連合にはモンタナ中部からカナダの北サスカチュワン川(North Saskatchewan River)に至る,広大な土地が認められた。アシニボニには共用狩猟区域での狩猟が 認められた。この条約は二つのポイントを持つ。まず一点目は,共用の狩猟区域が設けられたこと である。共有狩猟地域とされたのは,ミズーリ川とミルク川の分岐点を起点とするカナダ国境近く

(15)

の北領域と,イエローストーン川が南下し 3 つの川に分岐するスリーフォーク(Three Forks)を 含む南領域の二つの地域だった64)。狩猟区域での居住は禁止され,区域への出入りや時期について はルールが定められた。各部族には条約が定める領域に留まることが求められたが,その一方,合 衆国民の領域通行は認められていた。二点目は,合衆国が道路や電信設備,軍の駐屯地を建設する 許可を取り付けている点である。1855 年の条約は先住民部族の移動を制限するとともに,入植者 を西部へ送り込む布石を打つ内容となっている。ブラックフット連合はこの条約以降,徐々に領土 を失っていくことになった。  1855 年の条約締結にグロス・ベントレは,ブラックフット連合の一員として参加したが,この 条約は結果的に部族に不利に働いた。条約において南狩猟区域とされたスリーフォーク域はグロス・ ベントレの生活圏だったが,この区域での居住が認められなかったことに加え,区域内で狩猟を行 う権利をグロス・ベントレ,マンダン,アリカラからなる部族同盟は得られなかった。1861 年に グロス・ベントレはブラックフット連合を離れ,その後は連合と対立するようになった。  1860 年代に入ると,西部における合衆国と先住民部族の衝突は先鋭化した。1865 年にはボーズ マン街道(Bozeman Trail)の建設を妨害するラコタ・スーやシャイアン,アラパホの鎮圧のために, 合衆国軍はパウダーリバー遠征を実施。締結条約の内容も大きく変わり,先住民の土地を奪い,合 衆国への服従を宣誓させるものとなった。1866 年の条約(the Treaty with the Assiniboine)65)によっ

て,アシニボニはミズーリ川とイエローストーン川を境界とする領域や,ノース・ダコタ準州フォー トユニオン(Fort Union)近郊の土地などを失った。この条約において合衆国は部族に道路や軍事 施設の建設許可を求めたが,一方で第五条において非先住民がアシニボニの土地に居住・入植する ことを禁じるとともに,部族が土地を合衆国以外の者に委譲することを禁じている。将来の保留地 設立を窺わせる内容であるが,この 1866 年の条約は批准されることはなかった66)

 グロス・ベントレは 1868 年,合衆国との合意(the Agreement with the Gros Ventre Tribe of Indians)67)を締結している。この合意によって,1855 年合意でグロス・ベントレがブラックフット 連合とともに認められていた領域は縮小され,且つその権限が合衆国の下に置かれた。第三条が規 表 2 アシニボニとグロス・ベントレが関わる条約・合意・行政命令 1851年 フォートララミー条約 アシニボニとグロス・ベントレの領域が示される。 1855年 ブラックフィート条約 狩猟地域の設定とその共同使用が定められる。 1866年 アシニボニ条約 議会批准なし 1867年 フォートベルナップ設立 1868年 グロス・ベントレとの合意 1871年 合衆国,先住民との条約締結を終了 1873年 グラント大統領の行政命令 ブラックフィート,グロス・ベントレ,ブロッド,リバー・クロウなどの部族のために保留地を設定 1874年 1873 年行政命令の領域縮小 南境界の一部が北上 1875年 グラント大統領の行政命令 ミズーリ川とイエローストーン川の間の領域を一部追加 1880年 ヘイズ大統領の行政命令 ミズーリ川からマッスルシェル川へと至る領域で削減 1884年 リトルロッキーで金が発見される。 1888年 1888 年合意 ブラックフィート保留地,フォートベルナップ保留地,フォートペック保留地設立 1890年 グレートノーザン鉄道,ミルク川北岸の敷設完了

(16)

定するブラックフット連合とグロス・ベントレのために保留された土地は,現在のモンタナ州北部 にあたる。カナダとの境界が北境界,ロッキー山脈が西境界となる,ミズーリ川,ミルク川とその 支流ティトン川(Titon River)に囲まれた地域であった。合衆国は当該地域からのクロウ族の退去 を命じ,ブラックフット連合とグロス・ベントレの占有地とすることを定めている。更に,配給等 を行うためのエイジェンシーを建設した暁には,グロス・ベントレが永続的に居住するための保留 地を設置し,農業従事を支援することを合意文は約束している。第六条は合衆国が道路や橋,電信 施設や軍施設だけでなく,エイジェンシー,学校,商店,製材所,駅などといった施設の建設のた めに,域内の土地を必要なだけ使用できることを明言し,またそのために必要とされる資材につい ても域内から調達できるとしている。第七条はグロス・ベントレが合衆国に従属すること,合衆国 法に従うことを規定している。この合意は議会批准されていないが,後にこの合意によって保留さ れた領域内に,ブラックフィート保留地,フォートベルナップ保留地,フォートペック保留地が設 立されることになる。 2)先住民同化と保留水利権  1868 年のグロス・ベントレとの合意は,部族のための保留地確保と保留地での農業従事に言及 している点において,それまでの条約と異なる。西部開拓の妨げになるとして,バッファローは 1880年代に至るまでにほぼ殲滅され,先住民は狩猟生活を維持することができなくなっていた。 1867年にはミルク川流域にフォートベルナップが建設されており,アシニボニとグロス・ベント レを指揮・監督するエイジェンシーとして機能していた。  1871 年,合衆国は先住民部族との条約締結を終了するが,実際にはこの後も先住民との条約・ 合意締結は続いた。特に 1873 年から 1880 年にかけては,行政命令によって頻繁に先住民の占有領 域が変更された。グラント大統領による 1873 年の行政命令は,グロス・ベントレ,ピーガン,ブロッ ド,ブラックフィート,リバー・クロウといった部族のために,ミズーリ川からその支流のサン川 以北の分割されていない領域を保留地として設定した。しかし,大統領は翌 1874 年,再び行政命 令を発出し,サン川より北に位置するマリアス川(Marias River)ヘ南境界を移動させて保留地を 縮小した。1875 年の行政命令では,グラント大統領がミズーリ川とイエローストーン川の間の領 域の一部を追加し,領域を拡大している。次に発行された 1880 年の行政命令では,ヘイズ大統領 によってミズーリ川南に認められていた地域が保留地から外された。1880 年の行政命令は,先住 民のために保留した領域一帯をブラックフィート保留地と称したが,実際にはアシニボニやグロス・ ベントレといった 1855 年合意に関わった部族もこの地を居住区としていた。  上述の行政命令は詳細に保留地境界を設定しているものの,保留地設立の目的には言及していな い。1873 年の行政命令は,移植者の流入や居住から保留された公有地を先住民のために保留する としている。この点はその後発出された行政命令において明記されていないものの,その後も継続 して踏襲された定義であると考えられる。興味深いことに 1880 年の行政命令に至っても,部族の 共有使用となっていた大規模な狩猟区二地区はそのまま先住民に保留されている。1873 年から 1880年にかけて何度も保留地境界が変更されたものの,モンタナ準州北部に認められたブラック フィート保留地は全体として大きく面積を減ずることはなかった。この状況を大きく変えたのが, Winters判決で議論された 1888 年の合意だった。  1888 年の合意はフォートベルトナップ保留地,ブラックフィート保留地,フォートペック保留 地の設立を定め,モンタナ州に居住する先住民の居住地域を大幅に減じた。先住民の居住地域が縮

(17)

小された背景には,鉱山従事や自営農業を目指して西部へ流入した人口の増加や,牧畜業の興隆, そしてそれを支えた鉄道敷設があった。当時,モンタナ準州は金や銀の発掘によって地域経済が潤 い,1884 年には現フォートベルナップ保留地内北に位置するリトルロッキー(Little Rocky)でも 金が発見された。1888 年にはグレートノーザン鉄道が近郊での操業を始め,ミルク川流域への移 植者の流入を後押しした。保留地領域の縮小は,州昇格を目指すモンタナ準州の望むところでもあっ た。  合衆国とブラックフィートら先住民部族との間で交わされた保留地設置の取り決めは,1886 年 12月 28 日に合意され,1888 年 5 月 1 日の議会承認を経て批准された。1888 年の取り決めは名称 としては「合意」であるが,条約と同等の重みを持つ。保留地境界を定めただけの行政命令と異な り,条約締結終了となった 1871 年以前の締結条約と同様の構造を持ち,保留地設置の目的につい ても明記されている。第一条では部族の永久的居住地として,分割された保留地が各部族に与えら れることが述べられており,第二条では合意の下,部族は土地における権利,権原を全て放棄し, それを合衆国に託すことが求められている。第三条はエイジェンシー単位で支給される配当金につ いて説明するとともに,それまで部族が配当を受けてきたエイジェンシー毎に保留地が設置される ことを示唆している。また,保留地において農民,職人,労働者のいずれとなるかの選択は,各先 住民に任されるとし,インディアン局のブランド名で牧畜業を始めるために,畜牛が提供されるこ とを謳っている。  Winters 判決で問題となったのは,水を保留する理由となる「保留地の設置目的」であった。 1888年合意の第五条は,「勤勉を習慣とすることを奨励し,労働に報いるために畜牛などの家畜, 日用品や衣類,生活の糧,農具などを与える」としており,土を耕し作物栽培を行うか,牧畜業に 携わることで経済的な自立を目指すことを奨励している。第六条は有益な改善を実現した者には土 地の所有が認められるとし,1887 年一般土地割当法の規定同様,家長に 160 エーカーの土地が与 えられることを説明している。第三条及び第五条から,保留地において先住民は小規模農家となる か,牧畜業を営むのか,そのいずれかを選ぶことが求められていたことが窺える。  Winters 判決において認められた先住民の保留水利権は,合衆国が先住民に押し付けた「同化」 という目標を達成する上で必要とされる水資源が,先住民に保留されることを認めるものだった。 これは Winans 判決が,先住民が古くから続けてきた生業を条約権利として認めたのとは大きく異 なる。この違いは先住民独自の価値観に基づいて,部族が保留水利権を行使することを難しくして いる要因の一つであると考えられる。 6.保留水利権行使と主権 1)州の台頭と条約権利  1888 年の合意によって,ブラックフィート族にはブラックフィート保留地が,グロス・ベント レとアシニボニにはフォートベルナップ保留地が,アシニボニとナコタ,ラコタ,ダコタのスーに はフォートペック保留地が永久的居住地として割り当てられた。翌 1889 年,モンタナ準州は州昇 格を果たした。保留地を設立して先住民を合衆国管理下に置くことは,西部諸準州が州に昇格し, 東部独立 13 州と同等の地位を得る上で重要であったが,それは準州にとって域内の土地が連邦に よって留保されることを意味した。

参照

関連したドキュメント

Apalara; Well-posedness and exponential stability for a linear damped Timoshenko system with second sound and internal distributed delay, Electronic Journal of Differential

The only thing left to observe that (−) ∨ is a functor from the ordinary category of cartesian (respectively, cocartesian) fibrations to the ordinary category of cocartesian

This equation encompasses many important integral and functional equations that arise in nonlinear analysis and its applications, in particular integral equations (1.1), (1.2),

For the multiparameter regular variation associated with the convergence of the Gaussian high risk scenarios we need the full symmetry group G , which includes the rotations around

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

Instead an elementary random occurrence will be denoted by the variable (though unpredictable) element x of the (now Cartesian) sample space, and a general random variable will

We have formulated and discussed our main results for scalar equations where the solutions remain of a single sign. This restriction has enabled us to achieve sharp results on

So far, most spectral and analytic properties mirror of M Z 0 those of periodic Schr¨odinger operators, but there are two important differences: (i) M 0 is not bounded from below