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国語教科書のなかの土佐日記――「門出」の授業案を中心に――

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国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 七一 【論文概要】   『 土 佐 日 記 』 は 高 校 の「 国 語 総 合 」 の 教 科 書 の 多 く に 採 録 さ れ る 古 典 の 定 番 教 材 の 一 つ で あ る が、 必 ず し も 古 典 の 初 学 者 に 親 し み や す い 内 容 の 作 品 と は い い が た い。 現 行 の 国 語 教 科 書 を 用 い つ つ、 生 徒 に『 土 佐 日 記 』 へ の 興 味 を も た せ る よ う な 授 業 を 行 う た め に は、 副 教 材 を 活 用 す る な ど の工夫が必要であろう。また、 高校での授業において最新の 『土佐日記』 研究の成果を取り入れる必要はないにせよ、 諸研究が明らかにしてきた 『土 佐日記』のもつ虚構性の問題などをふまえて授業を行うことで、 生徒に、 単なる日々の実録としての「日記」としてではなく、 すぐれた「日記文学」 としての『土佐日記』の魅力・おもしろさを伝えることができると考える。 【キーワード】土佐日記   門出   国語総合   国語教科書   古典教育     はじめに   二 〇 一 五 年 に 行 わ れ た 和 歌 文 学 会 第 六 十 一 回 大 会 1 で は、 「 和 歌 を 学 び、 教えるということ」と題した、和歌教育についてのシンポジウムが開催さ れた。石塚修氏・渡辺健氏・渡部泰明氏の三名のパネリストによる提言は いずれも刺激的なものであり、発表後のフロアとの質疑応答も含めて実に 有意義なシンポジウムであったと思う。初等・中等教育における古典教育 のあり方についての議論は、和歌文学会のみならず古典文学に関する他の 学会や研究会においても活発化しているようである。また近年、古典教育 に 関 す る 書 籍 や 初 学 者 向 け の 古 典 文 学 に 関 す る 書 籍 も 多 数 出 版 さ れ て い る 2 。 教 育 界・ 研 究 界 双 方 に お い て、 「 今 後、 古 典 教 育 は ど う あ る べ き か 」 という問題への関心はいよいよ高まっているといえよう。   こうした学界の動向の背景には、昨今の古典教育を取り巻く環境の目ま ぐるしい変化があろう。二〇〇九年の学習指導要領改訂によって、小学校 でも古典の授業が本格的に導入されたことにより、初等・中等教育を通じ て古典の授業が行われることとなった。一方で、少子化に伴い児童・生徒 の数は減少の一途を辿っているが、それは教科書の発行部数の減少とも直 結しており、そのために教科書の作成に際しても様々の困難が生じている と い う 3 。 古 典 教 育 を め ぐ る 環 境 は 必 ず し も 明 る い と は い い が た い の が 現 状である。   しかしまた、古典教育のあり方に関わる議論の活発化は、そのような外 的 要 因 ば か り に よ る も の で は あ る ま い。 む し ろ そ の 根 本 に は、 「 生 徒 や 学

国語教科書のなかの土佐日記

   

――「門出」の授業案を中心に

  ――



 

 

 

四国大学紀要,A 49:71-78,2017 Bull.SkikokuUniv.A 49:71-78,2017

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七二 国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 生に古典のおもしろさを伝えたい」 、「古典に興味をもつ若い人を増やした い」という、教育者・研究者の、率直かつ切実な願いがあると思われるの である。稿者もまた、若い人たちに古典の魅力を伝えたいと願い、その方 法を模索する教員の一人である。   上記のような古典教育に関する学界の動向をふまえたうえで、 本稿では、 『 土 佐 日 記 』 4 を 例 に と っ て、 高 校 で の 古 典 の 授 業 の 方 法 に つ い て 具 体 的 に 提案してみたい。ただし、もちろん、古典を授業でどのように教授するか については、教員がその古典作品をどのように解釈しているかによるとこ ろも大きいだろう。それゆえ授業の取り組み方には様々な方法がありえよ うし、またそうあるべきだとも思う。本稿はあくまでも、稿者の大学での 実践例 5 に基づく、 『土佐日記』の教授法についての一提言である。       「国語総合」の教科書における『土佐日記』   『 土 佐 日 記 』 は、 土 佐 守 の 任 を 終 え た 紀 貫 之 が、 承 平 四 年( 九 三 四 ) 十二月二十一日に土佐国を出発し、翌年の二月十六日に都の自宅に帰るま で の 日 々 の 出 来 事 を 描 い た 旅 日 記 で あ る。 高 校 一 年 生 の 必 修 科 目 で あ る 「 国 語 総 合 」 の 教 科 書 の 多 く に 採 録 さ れ て お り、 高 校 古 典 の 定 番 教 材 の 一 つとなっている。   しかしながらもちろん、 そのことは、 『土佐日記』が古典の初学者にとっ て解しやすい、親しみやすい作品であることをただちに意味するわけでは ない。むしろ『土佐日記』には、現在でもなお解釈が分かれている難解な 表現が散見し、 容易には現代語訳しがたいような箇所も少なからず存する。 それにもかかわらず『土佐日記』が高校古典の定番教材として採用され続 けてきたのはなぜだろうか。   その理由は様々に考えられるが、まず第一に、同日記が「仮名文による 最 古 の 日 記 文 学 」 6 で あ る こ と、 作 者 が「 『 古 今 和 歌 集 』 撰 者 の 一 人 」 7 の 紀 貫 之 で あ る こ と な ど と い っ た、 そ の 文 学 史 的 意 義 が 挙 げ ら れ よ う 8 。 ま た、 同 日 記 が、 土 佐 国 か ら 都 へ 帰 る ま で の 旅 の 出 来 事 を 綴 っ た「 旅 日 記 」 9 と い う 明 確 な 枠 組 み を 有 し て い る こ と が、 初 め て 日 記 文 学 に 接 す る 生 徒 に とって比較的馴染みやすい教材と捉えられてきた一因であるとも考えられ る。   さて、本稿の執筆時点(二〇一七年九月)においては、九社の教科書発 行会社により、全二十四冊の「国語総合」の教科書が出版されている。そ のうち十八冊に『土佐日記』が採録されているが、日記中のどの箇所を取 り上げているかには教科書間で差異がある。そこでまず本節では、各教科 書における『土佐日記』の採録状況を概観することとしたい。   次表は、現行の「国語総合」の教科書(二〇一七年度以降に高校に入学 した生徒が使用するもの)を対象に、それぞれが『土佐日記』中のどの記 事を採録しているかをまとめたものである。 大修館書店 教育出版 三省堂 東京書籍 発行会社 新編国語総合   改訂版 精選国語総合   改訂版 国語総合   改訂版   古典編 新編国語総合 国語総合 精選国語総合   古典編 明解国語総合   改訂版 精選国語総合   改訂版 高等学校国語総合   古典編 改訂版 国語総合   古典編 精選国語総合 新編国語総合 教科書名・教科書番号 347 346 345 343 342 341 339 338ナシ 門出・帰京 門出・忘れ貝・帰京 ナシ 門出・忘れ貝・住吉の明神・帰京 門出・忘れ貝・住吉の明神・帰京 ナシ 門出・忘れ貝・帰京 337門出・忘れ貝・帰京 335阿部仲麻呂・帰京 馬のはなむけ・羽根という所・ 333 332馬のはなむけ ・ 羽根といふ所 ・ 帰京 ナシ 『土佐日記』の採録箇所 ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ 更級日記 ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ 採録状況 他の日記の

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国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 七三   この表からは、教科書への『土佐日記』の採録状況について、次のよう なことが読み取れよう(なお以下、各教科書は書名ではなく発行会社名+ 教科書番号のかたちで表すこととする。例えば東京書籍の 『新編国語総合』 は東京書籍 332と記す) 。   ①   『 土 佐 日 記 』 を 採 録 す る 十 八 冊 す べ て が、 日 記 の 冒 頭 の 記 事 を 採 録 し て い る( 見 出 し は「 門 出 」 も し く は「 馬 の は な む け 」。 十 二 月 二十一日条・二十二日条を取り上げる教科書が多いが、二十四日条ま で取り上げるものもある) 。   ②   教育出版 341・第一学習社 361の二冊を除く計十六冊が、日記の最末の 記事を採録している(見出しは「帰京」 。二月十六日条) 。   ③   十一冊が、 「亡き子」 に関わる記事を採録している (「羽根といふ所」 、 「忘れ貝」 、「亡き児をしのぶ」 、「亡児」 。ただし日記末尾の「帰京」に も亡き子に関する記述がみられるが、それを除いての数字である) 。   ④『土佐日記』以外の日記文学として『更級日記』を採録する教科書が 三冊あるが、それらはすべて『土佐日記』を併せ採録している。   ④ は 結 局、 「 日 記 」 と い う 文 学 ジ ャ ン ル を 取 り 上 げ る「 国 語 総 合 」 の 教 科書が、もれなく『土佐日記』を教材として選んでいるということでもあ る。 こ れ は と り も な お さ ず、 『 土 佐 日 記 』 が 日 記 文 学 の 代 表 作 と し て 生 徒 に認識されるであろうことを意味しており、その点でも『土佐日記』をど のように授業で扱うかは極めて重要な問題であると考えられよう。   もとより、高校の古典における『土佐日記』の授業をよりよいものにし てゆくためには、日記中のどの記事を教材として取り上げるべきかという 観点から、教科書の内容を総合的・体系的に再検討する必要があろう。し かしながらこの度の論考の目的は、現行の教科書の教材を活かしつつどの ような授業を行うことができるかということの提案にあるため、本稿では ひ と ま ず 教 科 書 の 内 容 の 見 直 し の 問 題 に つ い て は 言 及 し な い こ と と す る。 上記のことを念頭におきつつ、次節以降では、生徒に『土佐日記』のおも しろさ、魅力を伝えるための具体的な授業の方法について、稿者なりの提 言をしてみたい。       「門出」 (一)   前 節 の ① で 述 べ た よ う に、 『 土 佐 日 記 』 を 取 り 上 げ る 教 科 書 は す べ て 日 記 の 冒 頭 部 分 を 採 録 し て い る( 「 門 出 」 ま た は「 馬 の は な む け 」) 。 左 に、 日 記 冒 頭 の 十 二 月 二 十 一 日 条・ 二 十 二 日 条 を 掲 げ よ う( な お 以 下、 『 土 佐 日記』本文の引用は新日本古典文学大系による) 。     男もすなる日記といふものを、女もしてみむ、とて、するなり。     それの年の十二月の二十日余り一日の日の戌の刻に、門出す。その よし、いさゝかに物に書きつく。     ある人、県の四年五年はてて、例の事どもみなし終へて、解由など 桐原書店 第一学習社 筑摩書房 明治書院 数研出版 発行会社 新   探究国語総合   古典編 高等学校   改訂版   新編国語総合 高等学校   改訂版   標準国語総合 高等学校   改訂版   国語総合 高等学校   改訂版   新訂国語総合 古典編 国語総合   改訂版 精選国語総合   古典編   改訂版 新   高等学校国語総合 新   精選国語総合   古典編 新編国語総合 改訂版   高等学校   国語総合 改訂版   国語総合   古典編 教科書名・教科書番号 363 362 361 360門出・かしらの雪・帰京 ナシ 門出 門出・亡児・帰京 359門出・亡児・帰京 357 356 354 353 351 350 349門出・亡き児をしのぶ・帰京 門出・亡き児をしのぶ・帰京 門出・帰京 門出・帰京 ナシ 門出・帰京 門出・忘れ貝・帰京 『土佐日記』の採録箇所 ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ 更級日記 更級日記 ナシ ナシ ナシ ナシ ナシ 採録状況 他の日記の

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七四 国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 取りて、住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る 知らぬ、送りす。年来よく比べつる人〴〵なむ、別れ難く思ひて、日 しきりに、とかくしつゝ、のゝしるうちに、夜更けぬ。     廿二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船 路なれど、むまのはなむけす。上・中・下、酔ひ飽きて、いとあやし く、潮海のほとりにて、あざれ合へり。   さて、各教科書では原則として、古典本文のあとに、その文章について の設問がいくつか示されている。例えば第一学習社 361では「門出」の本文 のあとに「学習」の見出しを立て、次の三つの課題を掲げている。    一   本 文 中 か ら、 事 実 を ぼ か し て 書 い て い る 部 分 を 抜 き 出 し て み よ う。    二「船路なれど、 むまのはなむけす」という表現のおもしろさを考え てみよう。    三 男 も す な る 日 記 と い ふ も の を、 女 も し て み む と て、 す る な り 。」 の「 な る 」「 な り 」 に つ い て、 違 い が わ か る よ う に、 そ れ ぞ れ 文 法 的に説明してみよう。   一は「 そ れ の 年 」 や「 あ る 人 」 と い っ た 朧 化 表 現 へ の、 二 日 記 中 に しばしば出てくる諧謔表現への注意を喚起するものである。 また 三は冒頭 の一文を例に、伝聞推定の助動詞「なり」と断定の助動詞「なり」の違い を学ばせようとするものであろう。他の会社の教科書でもおおむね同様の 設問が掲げられている。それぞれに有意義な課題であるが、しかし、実際 の授業では、これらの設問に対する解答を示すだけでは不充分であるとも 思われる。例えば 一 「事実をぼかして書いている部分を抜き出してみよ う」という課題は、生徒が古文の表面的な意味を理解できているかどうか の確認をするためには有効だが、それだけで『土佐日記』という作品への 理解が深まるとはいいがたい。生徒の興味関心、あるいは学力レベルを考 慮したうえでの話ではあるけれども、ここでは更に一歩踏み込んで、朧化 表現を用いることの意味や、それによる表現上の効果を考えるような学習 を授業に組み込む必要があると思う。   こ れ と 同 様 の こ と が 三 つ い て も い え る だ ろ う。 『 土 佐 日 記 』 を 単 な る 事 実 の 記 録 と し て の「 日 記 」 で は な く、 多 分 に 虚 構 を 含 ん だ「 日 記 文 学 」 として読み解くためには、この「男もすなる日記といふものを、女もして み む、 と て、 す る な り 」 と い う 冒 頭 の 叙 述 を い か に 解 す る か が 鍵 と な る。 こ の 問 題 に つ い て は 今 日 に お い て も な お 様 々 の 見 解 が 提 出 さ れ て お り 10 、 定 解 を み な い が、 『 土 佐 日 記 』 と い う 作 品 の 本 質 に か か わ る 重 要 な 問 題 で あることは間違いない。この問題に唯一の「正解」を提示することは極め て困難であるが、むしろそれゆえにこそ、高校の授業で、この女性仮託の 問題について生徒と意見を交わす機会を設け、作品理解の促進を図ること が重要であろう。   とはいえ、古典を本格的に学び始めたばかりの高校一年生にとって、作 者が書き手を女性に仮託することの理由や、出発の年などがあえてぼかし て表現されていることの意味を考えるのが、かなり困難な課題であること もまた確かであろう。そこで次節では、上記の問題に生徒自身が主体的に 取り組めるような学習環境を生み出す方法について、具体的に考えてみた い。       「門出」 (二)   生徒に『土佐日記』の文学としての特質を考えさせるための教材の工夫 として、第一学習社 359・ 360・ 361にみえる「古典のしるべ 4   「日記」と「日 記 文 学 」」 と 題 し た コ ラ ム は 注 目 に 値 す る。 当 該 コ ラ ム に は 概 略 以 下 の こ とが記されている。平安時代の男性貴族は、子孫に先例を伝えることを主 たる目的として漢文体の日記を記した。一方で平安時代には仮名で書かれ た日記もあり、これは主に女流作家が書いたので「王朝女流日記」とも呼

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国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 七五 ば れ る。 そ れ は 人 生 の あ る 時 期 に お け る 体 験 を 振 り 返 っ て 記 し た 回 想 録、 自叙伝の趣をもち、 「日々の記録としての日記とは性質が異なる文学作品」 である。その仮名による日記文学の元祖が、貫之が女性になりすまして書 い た『 土 佐 日 記 』 で あ る。 『 土 佐 日 記 』 は 門 出 か ら 帰 京 ま で の 五 十 五 日 間 の記録を、何も動きがない日も含めて一日も漏らさずに記すが、 「これは、 『具注暦』のような官製の暦に毎日日記をつけていた男性官僚の習慣ゆえ」 のものである。作者は「女性のふりをして仮名で書いたけれども、やはり 男性的な日記の形式にとらわれたのである」 。   このコラムには、生徒の『土佐日記』への理解を深めるための、様々の 工夫が凝らされている。もとより現行の「国語総合」の教科書では、他の 教材との兼ね合いの問題もあるのだろうが、必ずしも『土佐日記』に多く のページが割かれているとはいいがたい。特に第一学習社 361などは冒頭の 「 門 出 」 だ け を 採 録 し て い る が、 当 該 箇 所 だ け を 取 り 上 げ て『 土 佐 日 記 』 の魅力全般を生徒に伝えるのは容易ではなかろう。先掲のコラムは、そう し た 教 材 の 制 約 を 補 う こ と を 目 的 と し て 収 録 さ れ た も の と お ぼ し い。 『 土 佐日記』を単なる実録としての「日記」ではなく、 あくまでも「日記文学」 として読み解くことの重要性を説くものであり、教科書編纂者による工夫 の跡が窺われる。   ただし一方で、文学史的知識をコラムの文章によって学ぶだけでは、生 徒が漢文日記と仮名日記との差異を現実的なものとして捉えにくいのでは ないかという懸念も残る。如上の問題意識から、生徒が『土佐日記』によ り関心をもち、理解を深められるような授業形態の一例として、男性がも の し た 漢 文 日 記 の 影 印 と、 『 土 佐 日 記 』 の 影 印 と を 副 教 材 と し て 用 い る こ とを提案したい。ひとくちに漢文日記といっても色々あるが、例えば『御 堂 関 白 記 』 を 用 い て み て は ど う で あ ろ う か。 『 土 佐 日 記 』 よ り も 成 立 年 代 は下るが、藤原道長の自筆本が残っている点で資料的価値が高く、また生 徒も道長のことは中学校の歴史の授業で習っているはずなので、彼らの関 心を惹きやすいと考える。   さて、この取り組みのねらいは大別して二点ある。一点目は、古典の写 本がどのようなものであるかを知ることを通じて、生徒に古典への親しみ と関心をもってもらうことにある。近時、写本・版本や影印本を用いた授 業の実践例が複数報告されており、くずし字を通じた授業においては、適 切な教材を用いることで生徒の古典への関心を高めうるとの指摘もなされ て い る 11 。 ま た そ も そ も『 土 佐 日 記 』 は、 紀 貫 之 自 筆 本 を 藤 原 為 家 が 忠 実 に書写した本(いわゆる為家本)と、更にそれを臨模した青谿書屋本が現 存する点において極めて注目すべき作品であり、 その意味でも、 『土佐日記』 の写本を影印によって授業で紹介することは意義深いと考える。   なおその際、写本間で本文に異同があることをについてもぜひ言及した いところである。これまで古典文学作品を教科書の活字を通じて享受して きた生徒にとって、実はその本文が研究者による校訂を受けたものに過ぎ ないこと、その一方で各写本の間には様々な理由によって生じた本文異同 が存することなどは、新鮮かつ興味深い事項として迎え入れられるよう。   こ の 取 り 組 み の ね ら い の 二 点 目 は、 漢 文 日 記 で あ る『 御 堂 関 白 記 』 と、 仮 名 日 記 で あ る『 土 佐 日 記 』 と の 間 に 様 々 な 相 違 点 が あ る こ と を、 ま ず、 視覚的・感覚的に生徒に味わってもらうことにある。更に、発展的な課題 ではあるが、両者の叙述の相違点と共通点について生徒に考えさせてみる のも一案だろう。相違点・共通点ともに様々な観点からの指摘が考えられ るが、 以下、 そのなかでも重要と思われることがらをいくつか挙げておく。   ま ず 両 者 の 相 違 点 を 考 え て み た い。 『 御 堂 関 白 記 』 は 漢 文 体 で 書 か れ て おり、その内容は基本的に日々の行事や政務に関わる備忘録的なものであ る。一方で『土佐日記』は原則として平仮名で表記された和文で書かれて おり、その内容は、土佐国を出発して帰京するまでの日々の出来事を記す ものである。そこには低い身分の人物や童 ・ 女性が多く登場し、 更に、 折々 に 詠 ま れ た 和 歌 や、 船 上 か ら 見 た 風 景 な ど に 関 わ る 記 述 も 含 ま れ て い る。

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七六 国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― これらは、男性による漢文日記からはおよそ窺いえないモチーフであると いってよいだろう。   こ の 両 者 の 相 違 点 に こ そ、 『 土 佐 日 記 』 の 書 き 手 が 女 性 に 仮 託 さ れ た こ との理由が潜んでいるのではなかろうか。この日記が女性の手になるもの であることが作品の冒頭で宣言されることで、仮名散文による叙述が可能 となった。そしてそのことによって、子どもや女性が和歌を詠む様や、屏 風 絵 さ な が ら の 美 し い 風 景、 ま た 書 き 手 が 折 に ふ れ て 抱 い た 感 懐 な ど と いった、漢文日記では取り上げられることのない多様なモチーフを描写す ることが可能となったと考えられるのである。   一方で、二つの日記の共通点として注目されるのは、両者がともに毎日 の記録を書き留めた 「日録」 の体裁をとることである。なぜ 『土佐日記』 は、 仮名による日記という新たな散文文学のジャンルを切り開きながら、日録 という形式は漢文日記のそれをそのまま踏襲したのだろうか。この問題に ついて、生徒に自由な意見を述べさせてみるのも有意義であろう。   なお当該の問題について、先述の第一学習社のコラムでは、作者が「や はり男性的な日記の形式にとらわれた」ゆえの所為とみなしているが、そ の見方には再考の余地があると思われる。稿者の見解を述べておけば、 『土 佐日記』が五十五日間の旅の記録を一日も漏らさず記すのは、漢文日記の もどき 0 0 0 ・パロディとして、実録性を装うためのことと考えられるのではな か ろ う か 12 。 つ ま り こ れ を、 作 者 に よ る、 す ぐ れ て 戦 略 的 な 文 学 と し て の 叙述の方法であったと捉えておきたいのである。       「門出」以外の記事の教材としての意義   前 節 ま で で は「 門 出 」( 「 馬 の は な む け 」) と 称 さ れ る 日 記 冒 頭 部 分 を 中 心に論じてきたが、本節では、それ以外の記事の教材としての意義を考え てみたい。   第 二 節 の ②・ ③ で 述 べ た よ う に、 『 土 佐 日 記 』 を 採 録 す る「 国 語 総 合 」 の教科書十八冊のうち、十六冊が日記末尾の「帰京」を、十一冊が亡き子 に 関 わ る 記 事( 「 羽 根 と い ふ 所 」、 「 忘 れ 貝 」、 「 亡 き 児 を し の ぶ 」、 「 亡 児 」) を教材として取り上げている。そもそも亡き子に関する記述は、日記最末 の記事(教科書に「帰京」の見出しで採録される、二月十六日条)を含め て日記中に六箇所みられ(十二月二十七日条、 一月十一日条、 二月四日条、 二 月 五 日 条、 二 月 九 日 条、 二 月 十 六 日 条 )、 日 記 全 体 を 貫 く 重 要 な 主 題 の 一つとみなされてきた。多くの教科書が亡き子についての記述を有する記 事を採録するのもゆえなしとしない。   しかしながら、亡き子に関する記事を授業で取り上げる際に留意したい のは、近時、この亡き子が実は虚構の存在である可能性が高いとの見方が 有 力 視 さ れ て い る こ と で あ る 13 。 こ の 点 を ふ ま え た う え で、 い ま、 亡 き 子 に関係する記事の一例として、東京書籍 333・ 334が採録する「羽根といふ所」 (一月十一日条の一部)の内容を検討してみよう。     今 し、 羽 根 と い ふ 所 に 来 ぬ。 稚 き 童、 こ の 所 の 名 を 聞 き て、 「 羽 根 といふ所は、鳥の羽根のやうにやある」と言ふ。まだ幼き童の言なれ ば、人〴〵笑ふ時に、ありける女童なむ、この歌を詠める。      まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな    とぞ言へる。男も女も、いかで疾く京へもがなと思ふ心あれば、この 歌よしとにはあらねど、げに、と思ひて、人〴〵忘れず。この羽根と いふ所問ふ童のついでにぞ、また昔へ人を思ひ出でて、いづれの時に か忘るゝ。今日はまして、母の悲しがらるゝことは。下りし時の人の 数 足 ら ね ば、 古 歌 に、 「 数 は 足 ら で ぞ 帰 る べ ら な る 」 と い ふ 言 を 思 ひ 出でて、人の詠める、      世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな    と言ひつゝなむ。   「羽根といふ所」は、 「羽根」という地名に興味を惹かれた女童が和歌を

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国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― 七七 詠 む 前 半 部 と、 亡 き 子 へ の 思 い が 語 ら れ る 後 半 部 と か ら 構 成 さ れ て い る。 眼前の愛らしい女童の姿につい亡き子を重ね合わせてしまい、帰京を手放 しで喜べないでいる母の姿は哀れを誘うが、 この条について、 『古今和歌集』 の 羇 旅 部 の 四 一 一 ・ 四 一 二 番 歌 を 典 拠 と し て 構 成 さ れ た も の で あ る と の 指 摘 が あ る こ と 14 は 看 過 で き な い。 『 古 今 和 歌 集 』 の 当 該 歌 の 本 文 は 次 の 通 り である (なお本文の引用は新編国歌大観によるが、 適宜私に表記を改めた) 。 武蔵の国と下総の国との中にある隅田河のほとりに至りて、都の いと恋しうおぼえければ、しばし河のほとりに下りゐて、思ひや れば限りなく遠くも来にけるかなと思ひわびてながめをるに、渡 し 守、 「 は や 舟 に 乗 れ、 日 暮 れ ぬ 」 と い ひ け れ ば、 舟 に 乗 り て 渡 らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なくしもあら ず、さるをりにしろきとりのはしと足と赤き、河のほとりにあそ びけり。京には見えぬ鳥なりければ、 みな人見知らず。渡し守に、 「これは何鳥ぞ」と問ひければ、 「これなむ都鳥」といひけるを聞 きて詠める    名にし負はばいざ事とはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと (四一一)      題しらず         よみ人しらず    北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて来し数は足らでぞ帰るべらなる (四一二) この歌は、ある人、男女もろともに人の国へまかりけり、男ま かり至りてすなはち身まかりにければ、女ひとり京へ帰りける 道に、帰る雁の鳴きけるを聞きて詠めるとなむいふ   紙幅の都合上『土佐日記』と『古今和歌集』との関係性について詳述す ることは避けるけれども、 留意したいのは、 『土佐日記』の「羽根といふ所」 の 記 事 が、 『 古 今 和 歌 集 』 と い う プ レ テ ク ス ト に 基 づ き 巧 み に 構 成 さ れ た ものであることである。先にも述べたように、亡き子が貫之による虚構で あるとすればなおのこと、当該条で語られる亡き子への思いは、この旅日 記に通底する「喪失感」 15 の象徴としての表現と捉えるべきであろう。   しかしながら、各社の教科書のなかには、日記中で繰り返し語られる亡 き子への思いが実は虚構に基づく可能性があることに言及するものはない ようである。もちろん、高校の授業においてあまりに複雑な議論に立ち入 る必要はなかろうけれども、この「亡き子」が虚構の存在である可能性に ついて、授業のなかでごく簡単にでも紹介することは意味のあることでは なかろうか。それはやはり、 『土佐日記』が単なる事実の記録としての「日 記」ではなく、事実を再構成し、時に虚構をも含み込みながら作り上げら れた「日記文学」であることを解するための一助となると考えるからであ る。     おわりに   本 稿 で は、 「 国 語 総 合 」 の 定 番 教 材 で あ る『 土 佐 日 記 』 を 題 材 に、 現 行 の国語教科書に基づく具体的な授業の実践法についての稿者なりの試案を 述べてきた。もとより、古典の授業をどのように行うかについては、対象 とする生徒の立場に関わる要素も大きいと思われる。例えば、その授業が 大学入試に古典を必要とする生徒に向けたものであるか否かによって、授 業の内容は大きく左右されよう。教育現場では、そのような実情に沿った 臨機応変な教授法が求められるはずである。   一方で、これからの古典教育のあり方について考える際に、常に稿者の 頭を悩ませてきたのが、教育と研究との関係性である。高校での古典の授 業 に 最 新 の 研 究 成 果 を 反 映 さ せ れ ば す ぐ れ た 教 育 が 実 現 で き る か と い え ば、多分そうではあるまい。結局のところ、よりよい古典教育を行うため に重要なのは、古典研究の成果をどのように教育現場に還元し、また教育 の 場 で の 実 践 例 を ど の よ う に 研 究 に 昇 華 さ せ て い く べ き か と い う 問 題 を、 教育者・研究者の双方が不断に考え続けていくことなのだろうと思う。

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七八 国語教科書のなかの土佐日記   ――「門出」の授業案を中心に   ―― ――――――――――――― 1   二〇一五年十月十日、於岡山大学津島キャンパス。 2   例えば梶川信行編 『おかしいぞ!国語教科書   古すぎる万葉集の読み方』 (笠 間 書 院、 二 〇 一 六 年 ) や 土 方 洋 一『 古 典 を 勉 強 す る 意 味 っ て あ る ん で す か?   こ と ば と 向 き 合 う 子 ど も た ち 』( 青 簡 舎、 二 〇 一 二 年 ) な ど が 挙 げ ら れ る。 ま た『国語と国文学』 (九二―一一、 二〇一五年十一月)では「教育と研究」と題 した特集が編まれた。なお近年、大学での古典教育についても様々な提言がな されている(小林ふみ子 ・ 中嶋真也 ・ 中野貴文 ・ 平野多恵「古典文学をアクティ ブ・ ラ ー ニ ン グ で ま な ぶ   和 歌 を 演 じ る ワ ー ク シ ョ ッ プ 」( 『 リ ポ ー ト 笠 間 』 五八、 二〇一五年五月)等) 。 3   教 科 書 協 会「 教 科 書 発 行 の 現 状 と 課 題( 二 〇 一 七 年 度 版 )」 二 〇 一 七 年( 最 終 閲 覧 日   二 〇 一 七 年 九 月 二 十 日、 http://www.textbook.or.jp/ publications/ ) 4   現 存 伝 本 は す べ て『 土 左 日 記 』 の 表 記 で あ り、 そ れ ゆ え 書 名 を『 土 左 日 記 』 と 表 記 す る べ き だ と の 見 解 も あ る( 東 原 伸 明「 は じ め に 」『 土 左 日 記 虚 構 論   初期散文文学の形成と国風文化』 (武蔵野書院、二〇一五年)に詳しい) 。極め て重要な指摘であるが、現行の国語教科書では原則として『土佐日記』の表記 が用いられていることをふまえ、本稿では便宜的に『土佐日記』の表記を用い ることとする。 5   四国大学で二〇一七年度前期に開講された「古文講読」の授業(文学部書道 文 化 学 科 一 年 生 と 日 本 文 学 科 一 年 生 を 対 象 と す る ) に お い て、 『 土 佐 日 記 』 を 取り上げた。その際、日記の影印本(青谿書屋本のもの)を資料として配布し た と こ ろ、 学 生 か ら は、 『 土 佐 日 記 』 に よ り 興 味 を も て た と の 反 響 が あ っ た。 特に、書道を専攻する書道文化学科の学生は写本の筆跡等にも関心を寄せたよ うである。 6   東京書籍 333の解説。 7   第一学習社 361の作者解説。 8   現行の中学校の国語教科書には、仮名の日記文学を教材として採録するもの はない。つまり、中学・高校と古典の授業を受けてきた生徒が初めて授業で習 う日記文学作品が『土佐日記』であることとなる。 9   例 え ば 第 一 学 習 社 361の 解 説 に は、 「 土 佐 守 の 任 期 を 終 え た 作 者 が、 国 司 の 館 を門出してから帰京するまでの旅日記」とある。また教育出版 341・ 342では『土 佐 日 記 』 は「 日 記 と 紀 行 」 と い う 章 の 中 に、 「 土 佐 日 記・ 奥 の 細 道・ 俳 諧 」 の 順 で 位 置 付 け ら れ て い る。 こ れ は、 『 土 佐 日 記 』 と『 奥 の 細 道 』 と の 紀 行 文 と しての性格を重視した構成といえよう。 10   諸説については注 4東原著書第一章に詳しい。 11   加藤直志・加藤弓枝・三宅宏幸「くずし字による古典教育の試み―日本近世 文 学 会 に よ る 出 前 授 業 ―」 (『 名 古 屋 大 学 教 育 学 部 附 属 中 高 等 学 校 紀 要 』 六一、 二〇一六年十二月) 12   『土佐日記』中には「十二日。山崎に泊れり。 」「十三日。なほ、山崎に。 」の よ う な ご く 短 い 記 述 の み か ら 成 る 記 事 が 散 見 す る。 神 田 龍 身 氏( 「『 土 佐 日 記 』 ― 言 葉 と 死 」『 紀 貫 之   あ る か な き か の 世 に こ そ あ り け れ 』( ミ ネ ル ヴ ァ 書 房、 二〇〇八年) )は、 『土佐日記』においては「日並という形式自体が対象化され、 いかにも日並らしく記されている」と指摘するが、 まさしくその通りであろう。 13   長谷川政春 「土佐日記へのアプローチ」 『紀貫之論』 (有精堂、 一九八四年) 等。 14   長谷川政春「土佐日記の方法―紀行文学の発生と羇旅歌の伝統―」 (『東横国 文学』一四、 一九八二年三月) 15   注十二神田著書第六章。

参照

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