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身延山晩年における日蓮聖人 : 弘安四年正月から八月まで (日蓮聖人第七百遠忌特輯号)

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身延山晩年に、おける日蓮聖人

ーー弘安四年正月から八月まで||

上 回 本 日 Eヨ

再ぴ我が国を襲ってくるであろうという情報の渦巻くなかで、弘安四年の正月が明けていっ た o 世情騒然たる中にも、幕府は三月に高野山へ勧学院を創立して、記文を置くがいう余裕をみせていた。しかし、 元と 高 麗 の 兵 船 が 、 ( 11) 五月廿一日︿弘安の役﹀が起り、壱岐・対馬に移しい兵船が来襲し、侵略の火の手が挙がると、最早やこれを迎え打 つことに急であって、全く他をかえりみる余祐など徴盛もなくなっていたのである。 身延入山後、七回目の正月を世情とは逆くに、静閑たる環境の中で迎えられた聖人は、身の不調をかこちながム九%、 新春を迎えた悦びに浸っていたのである o 正月五日に駿河国富士郡にある重須殿の女房から、正月用の餅為的かと 菓子一簡が届けられた。その﹃御返事﹄には、 ﹁正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがご ︽ 3 v とく、日の東より西へわたりであきらかなるがごとく、徳もまさり人にもあいせられ候なり。 と正月一日を祝う心を述べられている。新春を賀す気持は聖人も又深いものがあり、新年の贈り物に対しては、必ず 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 田 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀ 礼状と共に心の能った年賀状がしたためられているのが通例であるが、右の一文もそうした年賀状の中では代表的な ものの一つに挙げられよう。この文に続いて、次のような地獄と仏についての注目すべき説を示している。 品 官 民 ﹁抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申経もあり、或は西方等と申経も侯。しかれど も委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぽへ候事は、我等が心の内に父をあなづ り、母ををろかにする人は、地獄其人の心の内に候。普へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。、仏と ︽ 4 V 申事も我等心の内にをはします。﹂ 地獄も仏も共に、我等肉身の内にあることを明らかにし、父母をおろそかにする者の内に地獄があることを示してい る。社会倫理の上からも両親をあなずることは誠ているが、特に聖人は身延の嶺から、両親のことを懐しく追憶され ることが、しばしばであった。また次に﹁我等は父母の精血変じて人なりて候へば、三議の根本姪欲の源也。いかで か仏はわたらせ給ベきと疑侯へども、叉うちかへしうちかへし案候へば、其ゆわれもやとをぼへ候。蓮はよきもの、 泥よりいでたり。﹂とあって、我等凡夫の出生は、三毒の根本・姪欲の源であり、仏とは縁の遠い存在であるかのご とくであるが、よく思案をすれば、あの蓮華が潟った泥沼の中から、清浄な花をつけるように、 いわれが悟れるので あるとしている。つまり三毒の身に仏果をうることのできる即身成仏の説を、わかりやすく説いている。 更に、正月の始めに法華経を供養することは、池より蓮の菅が開くのと同様であるとし、凡身の内に仏果のみのる ことを明らかにしている。相手が女性であるため、 わ か り や す い 響 を 用 い 、 教化の面にも細かな配慮がなされてい る 。 ま た 注 目 す べ き こ と に 、 ﹁今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきょせぬ。﹂という一 文があることである。日本中が正法の仇となったために、禍を千里の外より招くことになったというのであるが、こ

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れは明らかに元︵蒙古﹀の大寧が我国を攻めて来たことを指しているものといえよう。 国は、体にかげのそうがごとくわざわい来ベし。﹂ともあり、再び蒙古の軍勢によって、禍を招くであろうことを暗 ﹁法華経を信人はせんだんに、かをばしさのそなえたるが ﹁ 法 華 経 を か た き と す る 人 の に示しているものとも受けとめられよう。これに対して、 ご と し 。 ﹂ と あ っ て 、 一 文 を 結 ん で い る 。 真蹟は富士大石寺にあり、重要文化財に指定されている。七紙にわたる筆蹟も雄々としており、代表的な筆勢であ ﹃十字御書﹄或いは﹃重須殿女房御返事﹄と称されている。尚、重須殿については、石川新兵衛入道のこ とであり、女房は南条時光の姉であるといわれている。 る 。 古 来 、 占 ’ A ざ け 続いて正月十三日には、同じく富士の上野尼御前から、正月用の食糧ロ聞が数多く送られて来た。即ち﹁聖人ひとつ む し も ち か う じ っ︵筒﹀、ひさげハ提子﹀十か。十字百。あめひとをけ︵一桶︶二升か。柑子ひとこハ一節﹀、串柿十述。ならびに 門 6 v おくり候了。﹂とあるので、当時とすれば草庵の食膳を久し振りに賑ぎわすに足るものであったろうと考えられる。 ﹁春のはじめの御喜花のごとくひらけ、月のごとくみ (13) 聖人は早速に御礼状と、年賀状を兼ねた書信を記されている。 たせ給ベきよし、うけ給了﹂聖人の年賀状は、初春を喜ぶ言葉で始り、 いつも芽出たい祝福の詞で飾られている。 ところでこの書状には、弘安三年九月に死別した尼御前の子である七郎五郎のことを追憶して、慰めの情を寄せて いる。上野尼御前とは南条時光・七郎五郎の母であり、兵衛七郎の棄に当る人である。富士郡の上野に住し、西谷へ はいつも使者をつかわしてご供養につとめた外護檀越の代表的存在であった。この度も上記のような多種の品が届け ら れ て い る 。 書状の内容は、経文の中に﹁子はかたき﹂と記されたものがあるとし、実例として来は母を食い、安禄山は子に殺 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 田 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︿ 上 回 ﹀ 浄蔵によって放われ、生提女は子の目速によって助けられた例を出し、 され、為義は子の義朝に命を取られたことを挙げ、次に﹁子は財﹂という経文ありとして、法華経の妙荘厳王は子の ﹁されば子を財と申経文たがう事なし﹂と述 ベ、五郎七郎は﹁子は財﹂という経文にあてはまる立派な青年であったことを記している。わずか十六才で他界した この子は﹁心ね、みめかたち、人にすぐれて﹂いただけに、母としてはあきらめのつかない悲嘆であったろう。聖人 はその母の心情を察して、心のこもった慰みの文を綴られているのである。わが子に会いたくば﹁釈迦仏を御使とし て、りゃうぜん滞土へまいりあわせ給へ。﹂と説き、﹁南無妙法蓮華経と申女人の、をもう子にあわずという事はな ハ 8 v しととかれて侯ぞ。いそぎいそぎつとめさせ給ヘノ\。﹂と文を結んでいる。 ﹁霊山浄土﹂という言葉が用いられて いるが、身延の聖人は、此の御番に限らず死後霊山浄土で再会することをしばしば説かれている。従って法華経行者 ﹁霊山浄土﹂であることは間違いないものといえる。但し、この﹁霊山浄土﹂は死後でなくては行 ︽ 9 v くことのできない浄土ではなく、聖人の場合、﹁我等は積土に候へども心は霊山に住むべし﹂であって、聖人は心の面 の 死 後 の 浄 土 は 、 で常に霊山浄土へ往諾されていたと考えることができよう。 身延の谷で寒苦歓乏に耐えつつも、尚且つ一方で霊山に往詣される法説にひたっておられた聖人の心境には、こう した﹁心は霊山に住ベし﹂という純粋に宗教的な意識をもっていたことが肯けるのである。特にこの御替は、前の重 須殿女房に与えた御番と同じく、対告衆が女性であり、 しかも息子を若くして失った母への手紙であるため、霊山往 詣の思想は濃いものとなって現われているとも云える。真蹟は八紙で富士大石寺に在り、重要文化財に指定されてい る 0

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二、弘安四年の春

節分も過ぎて春も立った二月十七日に、桟敷女房から﹁白きかたびら布﹂が送られて来た。御供養の主である桟敷 女房については、今のところつまびらかではない。桟敷というのは地名からきたもので、日昭の母と妙一尼、それに 円

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松野氏も、この桟敷に関連していたというが、さだかではない。真蹟には﹁さじきの女房御返事﹂となっており、さ じきの女房が果して誰なのか、更に研究を要するところである。建治元年五月二十五日付の﹃さじき女房御返事﹄に ︽

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は ﹁ 兵 衛 左 衛 門 殿 ﹂ の 名 が あ り 、 ﹁かたびら﹂の供養について自記されているので、この折りも﹁かたびら﹂の御供養 ふ み を行ったものと考えられる。また文永九年三月二十日付の﹃佐度御番﹄には、﹁此文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、 大蔵たう︵塔﹀のつじハ辻﹀十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給ベき人人の御中へ也。京・鎌倉に軍に し せ J J J A U ︺ 死る人人を番付てたび候へ。外典紗・文句二・玄四本末・勘文・宣旨等これへの人人もち︵持﹀てわたらせ給へ。﹂ (IS ) とある。ここでは﹁さじきの尼﹂となっているが、 ﹁さじきの女房﹂と同一人物か否か、この点も不明であるが、こ の﹁さじきの尼﹂は文面からみて京・鎌倉の情報を或る程度つかむことのできる立場の人で、仏典に関する文書につ いても入手可能な地位にあった者の一人であることが推察できよう。 ︵

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また文永十年四月廿六日付の﹃妙一尼御返事﹄には、最後の宛名が﹁さじき妙一尼御前﹂となっている。従って妙 一尼も﹁さじき﹂の名が冠せられているところから、この人も検討の対象となってくる。ところが妙一尼もまた生投

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年不明で、日昭の母、或いは姉、更に日妙の子で乙御前のことではないかとの諸説がある。古来、二人説・三人説も あ っ て 、 ﹁ さ じ き の 女 房 ﹂ と ﹁ 妙 一 尼 ﹂ ﹁妙一女﹂については、定った説がないのが実情である。 身 延 山 晩 年 に お け る 回 避 聖 人 ハ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀ しかし、今の﹁桟敷女房﹂に与えられた御返事には、 ﹁かたびら﹂の供養に対し、十種供養によせて功徳の大きい ことを明らかにしている。尚、末文に﹁あらあら申すベく候へども、身にいたはる事候問、こまかならず候。﹂と記 している。詳しく述べたいところであるが、 ﹁身にいたはる事﹂があるので、詳細については省略いたしたいという のである。この頃の聖人は又健康を害され、養静を要する状況であったことがわかる。本書の真蹟は、和歌山県の了 ﹃縮冊遺文﹄では、本書を建治四年に配している。しかし、 ︽ 店 ︾ 筆蹟から見て晩年の弘安四年をとる﹃昭和定本遺文﹄又は弘安五年とする﹃対照録﹄の方が妥当だとも考えられる。 法寺にある。二紙目に﹁二月十七日﹂の日付があるが、 二月に入り聖人は久し振りに叉長茶羅の染筆を行っている。即ち二月二日に﹁優婆塞藤原日生﹂宛のものと、 -, 俗 資光﹂宛の二幅が伝っている。日生に授予された長茶羅は、珍らしくコ一日﹂という日付がはっきり読みとることが で み c

現在池上本門寺に所蔵されている。資光へ授予された長茶羅にはコ一月 . 日 ﹂ と あ っ て 、 日数は入っていな ぃ。真蹟は熊本の本妙寺に所蔵されている。二幅共に弘安後期の曇茶羅として、中尊首題と四天王及び発字が大きく 太字で脅かれ、花押と署名も雄大に記されている。共に三枚継の用紙で、大きさもほぼ同形である。しかし、授与者 の日生と資光については詳しいことが伝えられていない。受茶羅本尊の授与があった点から推して、当時熱心な門下 の信徒であったことには間違いないものと考えられうる。 一か月後の三月十八日には、富士の南条家から、蹄鴎一俵が届けられて来た。その礼状が記されているが、真蹟は 伝っていない。日興の写本が現在富士の大石寺に所蔵されている。それによると、 ち し お ︽ U V 御乳盟一疋、盆に口付一人候。﹂とある。問題はこの﹁乳堕一疋﹂であるが、一説には馬のことではないかとしてい ︽

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る。﹁乳盟﹂という文字が使われているので詳しくは不明であるが、例としては﹃新勅撰和歌集﹄の中に、藤原雅経 ﹁叉かうぬし︵神主﹀のもとに候

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の 歌 と し て 、 0 0 0 ︵ m m v ち し 栂 ﹁くれないのちしほもあかず三室山いろにいづべきことのはも哉﹂とある。この場合は﹁千入﹂であっ て、幾回も染液にひたして、色を染めることを云うのである。 ︵ 却 ︾ ては叉紅葉の錦色かはるまで﹂とあるのでもわかるごとく、染色に関する語である。従って、聖人に帰依している富 ﹃ 十 六 夜 日 記 ﹄ の 一 節 に は 、 ﹁ 時 雨 け り 染 る 千 入 の は 土の熱原在住の神主のもとにある﹁御乳盟﹂という馬と口取の者一人を身延に召したいという意味ではないか、とす 門

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る説もある。しかし馬だとしたら、西谷の生活で果して馬の必要性がどの程度あったか尚疑問の余地があるようにも 考えられる。叉かりに馬であったとして、 ︽

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りをもしろくをぼへ候﹂という名馬の差し廻しがあった程であるので、難路遠方の南条家に依頼されなくとも、近か 一年後に身延を下山する際、波木井家から立派な﹁くりかげの御馬はあま 聞でまに合わすこともできたのではないか、とも考えられよう。或いは﹁神馬﹂として飼う予定であったかもしれな いが、この年の秋に草庵の大改修があり、従来の小庵から大坊・小坊・馬舎を備えた建造がなされている。この点に ﹁馬舎﹂を持つということは、当然馬の飼育が当時あったことを物語っ (11) ついては後に叉詳しく述べることにするが、 て い る と い え る 。 型人自身が常に馬に乗られていたかどうかは疑問であるが、訪ねて来る弟子・悶越の人々は、馬による交通を行っ ていたとも考えられるので、馬舎の必要はそうした而からも背けるのである。身延への入山、及び下山の際は、勿論 馬を使用されたものと考えられるが、病弱になられていた聖人自身が馬で山内、或いは山外に出られるということは 考えられないことのようにも推察できる。ともかく愛では﹁御乳盟﹂が馬であろうとする説は、 司

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一応馬だともいえるが、尚考える必要も残っているといえよう。 ﹁ 口 付 一 人 ﹂ と い う 語 か ら 考 え て も 、 この礼状では更に﹁故五郎殿﹂のことにもふれつつ、尚今後も法華経をあだむ者が現れて、たえることはないと思 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ︶

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︵ 上 回 ﹀ うが、法華経を﹁身にて心みさせ給候ぬらん。たうとしたうとし。﹂と結んでいる。これは法華経を身をもって守り 通したことに対する讃詞であって、恐らくは彼の熱原法難の折りに南条氏が、陰に陽に外護し、そのためその筋や周 固から﹁あだまれ﹂たことに対するねぎらいの言葉であったろうと解することもできよう。 ま た 此 の 月 に は 、 ﹁俗日大﹂に対し受茶躍が一幅授与されている。香川県高瀬の法華寺に保存されているが、右下 ﹁大広目天王﹂の脇に小さく﹁富士上野顕妙新五郎仁日興申与之﹂ と日興の添書がある。直接の授与者たる ﹁ 俗 日 大﹂については、さだかではないが、 いては日興の﹃白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事﹄の中に、 日興が後に富士の百姓新五郎へ与えた御本尊であることがわかる。この点につ ︽ 剖 ︾ ﹁ 富 士 上 野 新 五 郎 者 日 興 弟 子 也 、 仰 申 − − 与 之 − 百 姓 ﹂ と 明 記されている。更に左下﹁阿閤世大玉﹂の下には、 ﹁懸本門寺、可為末代重宝也﹂と日興の添番がみえる。従ってこ の御本尊は、本門寺に一度奉安されたものであり、永く重宝として尊重すべきであるとの注意書きのついたものであ る。さすがに堂々たる筆勢で、花押も雄大である。 、 三 大 秘 法 慕 承 事 に つ い て 四月八日、釈尊降誕会を期して、西谷では﹃三大秘法泉承事﹄即ち一般に三大秘法紗といわれている一番が完成し た。この御書は古来とかく論義され、現代でもその真偽について、種々論じられているものである。真蹟は存在せず、 写本として日親の筆によるものが京都本法寺にある。本書の宛名は﹁太田金吾殿御返事﹂となっているので、聖人の 檀那の中でも有力とされている下総の太田乗明に与えられたものであることには間違いないであろう。真蹟が伝わっ ていないため、真偽の両説はそれぞれ盛んであり一様ではない。

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今ここでその代表的なものを二・三挙げてみることにすれば、始めに真作であると云う側に立つ人に、三位日順が ある。日順は日興の法孫で、富士北山本門寺の大学顕であり、﹃本因妙口決﹄の中で、日蓮宗の大事を説きつつコニ ヲ,︽窃︾ 大秘法抄云、題目有三一意二玄云、能能可 ν習レ之﹂と本書を引用し、更に﹃擢邪立正抄﹄の中で、﹁法華者諸経中第一、 ︵ 部 V 富士者諸山中第一也﹂とし、故に富士へ法華本門の戒壇を建立すべき旨を説いて、﹁是即大聖之本懐御抄分明也﹂と している。これは日順が本書を所依として立論しているところからみてわかるごとく、真撰として扱っているのであ る

次に久遠成院日親は、本書を真撰とみて書写し、現に京都本法寺に保存されている。この外に身延の日朝も書写し ︵ U V ており、久遠寺に保存されている。一妙院日導・優陀那日輝等いずれも真撰とみなしているようである。下っては山 ︿ 却 ︾ 川智応・清水竜山らも共に真撰説を唱えている。これに対して本書を偽書であるとする見方もあり、顕本法華宗の学 ︵ m G ﹀ ︽ 却 V 者たる合掌日受・永日間日鑑らは共に偽書説を掲げ、田辺善知・盟国義遜らも、富士派を中心とした偽作であるとみな ( 19 ) し て い る 。 このように真蹟が現存しないため、真偽の論もやかましく、真偽未決の御番として永く扱われて来ているが、 方 では真蹟が存在していたことを記している文献もあるのである。即ち、寛正二年︵一四六一﹀に中山の学僧である本 円

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成房日実の著した﹃当家宗旨名目﹄によれば、中山に真蹟が在ることになっており、享保二十年︿一七三五﹀刊の玉 ︿ 招 ︶ ﹁正本富士重須本門寺有レ之﹂となっている。ところが中山にも富士にも現在のと 沢日好による﹃録外徴考﹄には、 ころ真蹟は存在していない。中山や富士に若し最初から保存されていたとしたら、当然﹃常修院本尊聖教録﹄及び ﹃富士一跡門徒存知事﹄の中に、その名が見えていなくてはならないはずであるが、これらにも見えないのであり、 身 延 山 晩 年 に お け る 回 避 型 人 ハ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︵ 上 回 ﹀ 不明の点も叉多いのである。 ﹁ 臆 説 ﹂ で あ る と こ と わ り つ つ 、 ︻ 羽 ザ 富木・大田等の教団の重立に、深秘の法門として口決相承されたもの﹂という見方をしている。こういうことであれ 鈴 木 一 成 教 授 は 、 こ う し た 諸 説 を ふ ま 与 え た 上 で 、 ﹁本紗の法門は聖人が六老僧や ば現在真蹟が存在しなくとも、又途中から真蹟が存在したと云う記録が出て来ても、無理からぬことであるとしてい る。しかし、仮りにそうであったにしても、文献的に証明されているわけではないので、やはり結論的には、真偽未 決の域を出るわけにはいかないと云えよう。尚、本書については、最近に至り、 コンピューターを用いて、統計的な 手法により、真偽の判別解折研究がおこなわれた。その中間成果が五十五年六月に﹁朝日新聞﹂から報道され、俄か ︽ 剥 ︾ ﹁日蓮宗新聞﹂等で見られるようになった。真偽についての論は、まだ今後も続くこ に叉真偽判別についての論が、 とであろうが、結論的にはやはり真偽未決となるであろう。しかし、山川智応、鈴木一成両氏の説くところから推し て、その距離は偽よりも、むしろ真に近いと見ることができるように考えられるのである。 本書の本文では、先ず神力ロ聞の結要因句を引用し、本化上行に付属した要法たることを論じている。また本法には A お ︶ ﹁ 但 専 限 − 一 本 門 寿 量 一 品 目 出 離 生 死 の 要 法 也 ﹂ と 論 じ 、 寿 量 品 を 要 法 と 定 め 、 此 の ﹁ 寿 量 品 所 = 建 立 一 本 尊 者 五 百 塵 点 当 ︽ 話 ︾ 初以来此土有縁深厚本有無作三身教主釈尊是也﹂と﹁本門本尊﹂を明示している。次に﹁本門題目﹂については、正 ・像と末法とのこ意があるとし、今末法の題目は﹁異=前代一互コ自行化他−南無妙法蓮華経也。名体宗用教五重玄五 字也。﹂と述べ、更に﹁本門戒檀﹂については﹁王法冥=仏法一仏法合=王法−王匡一向に本門三大秘密の法を持て︵乃 テ F ヲ y s J ’ キ ミ ヲ キ ツ V A 至 ﹀ 尋 下 似 = . 富 山 浄 土 − 最 勝 地 主 可 レ 建 − − 立 戒 檀 − 者 欺 。 可 レ 待 レ 時 耳 。 事 の 戒 法 と 申 は 是 也 。 ﹂ と 説 い て い る 。 しかも此の三秘については、本化として仏から直接に付属を受けたものであることを、次の通り明らかにしている

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﹁比三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮惟に自=教主大覚世尊一口決相承せし也。今 ︽ 訂 ︾ 日蓮が所行は霊鷲山の瑛承に芥繭計りの相違なき色も替らぬ寿量口聞の事の三大事なり。﹂とあるごとく、﹁口決相承﹂ の で あ る 。 したものとして受けとめられている。これは純粋に宗教的境地における相承であり、まさに神力別付の付属を受けた とする自覚から発したものといえよう。 ﹁本化仏使﹂としての立場でなくては表現できない言葉ではないかと考えら れる。三大秘法について、明確に解説をされ、末法の﹁教﹂を詮明すると共に、末法における﹁師﹂についても同時 に明解な答を与えられた御番として、注目すべき一番であるといえる。先述のごとく真偽の論も残っている点から考 えると、そうした点も含めて、所説の教義上からも問題の番であるということもできよう。

四、弘安四年の夏

( 21 ) 四月に入って聞もない五日に聖人は、 ﹁僧日春﹂宛の曇茶羅をしたためられた。九二・一糎に及ぶ丈のほとんど全 紙 に わ た っ て 、 大きく首題が書かれているのが特色である。僧日春が如何なる人物か、 詳しいことは伝っていない が、恐らく病弱の聖人を訪ねて、西谷へ来た人々の中の一人であったろう。真蹟は沼津岡宮の光長寺に所蔵されてい る。又十七日には﹁俗真広﹂宛の曇茶羅が書写されている。これは五四・二胞の丈で、前の御本時に比較すると小型 で あ り 、 筆の跡も細目になっている。 又四天王がなく党字が左右に大書され、 ほぼ丈の長さ一杯に及んでいるのが 特徴である。通称を﹁若宮御本尊﹂と呼び、京都の本園寺に所蔵されている。 ﹁若宮御本尊﹂と称する由来について ︽ 羽 ︶ は、弘安元年七月五日に沙門日門に授与された御本尊についても、同様の通称がつけられている。 また下旬に入って廿五日には、﹁比丘尼持円﹂に与えられた曇茶羅が一幅書写されている。これは中尊首題の﹁経﹂ 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︵ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀ の文字が、特に一段と大きいところに特徴がある。京都の本満寺に所蔵されているが、右下﹁大広目天王﹂の脇に、 ﹁ 甲 斐 国 大 井 庄 々 司 入 道 女 子 同 国 曽 弥 小 五 郎 後 家 尼 者 日 興 弟 子 也 仰 申 与 之 ﹂ と あ り 、 ま た 、 ﹁ 可 レ 為 − 一 本 門 寺 重 宝 − 也 ﹂ 会却︾ ともある。更に、左下花押の近くには﹁孫大弐公日正相伝之﹂と日興の添書が付されている。これも叉日興の関係者 チ シ キ の一人であったことがわかるが、日興は﹁甲斐国曽根五郎後家尼者寂日房弟子也、仰日興申−−与之−、但聖人御滅後背 − m 合叩︾ 了﹂とも記しているので、先きの御本尊の添書との聞に相異するところもあり、断定するわけにはいかないが、恐ら キ ー く﹁背了﹂といった理由から、孫の大弐公日正が、これを相伝する結果となったものとも推察できよう。ところでこ の大弐公であるが、日郷の﹃日興上人御遷化次第﹄によると、御葬送に当つての行列次第の中に、二人の大弐公がい ﹁御輿﹂の前陳右に三位阿閤梨ら六名の門弟が名をつらねている中に、大弐公が記 されている。もう一人は同じく﹁御輿﹂の後陳右に、伊予阿閣梨ら六名の門弟がつらなってる中の一人に、大弐公の ︷

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名が出ているのであ匂叉﹁御造物配分事﹂を記録した中にも、二名の大弐公がいたことを伝えているので、この御 たことがわかるのである。即ち、 本尊に記された人物は、二名存在した大弐公の何れに当るか、更に研究を要するものといえよう。 さて、その翌廿六日には﹁比丘尼持淳﹂へ授与された憂茶羅の染筆をされている。この頃は陽気もよく西谷を訪ね て来る僧俗も多くなり、聖人の病状もかすかながら少康をえた感もあって依願に応じ、筆を執られる機会も多くなっ ていったものと考えられる。それにしても連日筆を執られ曇茶羅・消息文等を書き遣された西谷での生活は、病状次 第に進み表弱を重ねた身にとって、相当な負担となっていったものと考えられるのである。入滅一年前の聖人はすで にその時の近きを悟り、できる限りの力をふりしぼって弟子・檀越の請いに応じ、御本尊の授与も、次第に数をまし ていかれたとみることができよう。入滅までの約一年間に現存十五幡に及ぶ受茶羅の染筆があり、この間の事情を物

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語っているといえよう。この持淳尼あての御本尊は、鎌倉妙本寺に保存されている。 ﹁御そらう︵所労︶いかん。叉去文永十一年四月十 キ ザ 邑 両 日 制 二日の大風と、此四月二十八日のよの大風と勝劣いかん。いかんが聞候といそぎ申せ給候へ。﹂という真蹟一紙が京 二日後の二十八日の夜、突然に大風が吹き荒れた模様である。 都本因寺にある。大風のあった門下の一人に御見舞いを兼ね、詳しい情報をえようとされ、この一文を送られたもの と考えられる。世はまさに蒙古の大寧が再度目本総攻撃を開始しようとしているという情報が入り乱れて、世上の不 安はつのる一方の時だけに、この大風も我が国の前途を暗示するかのごとく受けとめられた向きもあったことであろ ぅ。聖人は﹃立正安国論﹄でも明らかにしているように、亡国の前兆として天変地夫をとらえられている面もあり、 他国伎一過の難の前兆の一つとみなされたものともいえよう。 五月に入り聖人の健康状態は、 一向に回復を迎えず、衰えをつのらせていった。そんな頃、池上宗仲・宗長の兄弟 ( 23 ) から、鎌倉八幡宮造営について、 工事にはずれた旨の知らせが届いた。そこで池上兄弟を慰め励ます意味から一番が 記されていった。 ﹃八幡宮造営事﹄がそれであり、廿六日付で発送されている。真蹟は現存していないが、 ﹃ 延 山 録 外﹄本の写本が伝えられている。それによると、﹁此七八年が問、年々に衰病をこり候つれども、なのめにて候つる が、今年は正月より其気分出来して、既一期をわりになりぬベし。其上、齢既六十みちぬ。たとひ十一今年すぎ候と

一二をばいかでかすぎ候ベき。﹂と語っている。身延へ入山して間もなく、頑強の身にも病の生ずるところとな も り 一年毎に衰退していった聖人は、此の書にもある通り、正月より吏にその度を加え、 一 期 の 終 り に 近 . す い た こ と を悟られている。聖者は自身の臨終近きを悟るといわれているが、聖人も本書において、 たとえ十のうち一つ今年を 過ごすことができたとしても、 一年二年と生き延びることは不可能であろうと云われた通り、自身の余命を自覚され 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︿ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︵ 上 田 ︶ て い た の で あ っ た 。 ﹁あらあら申すベく候へども、身にいたはる事候問、こ まかならず侯﹂とことわっている通りであるが、この頃になると﹁此程上下人人御返事申事なし。心もものうく、手 すでに二月十七日の桟敷女房宛の書信にも先述のごとく、 もたゆき故也﹂という状態にまで衰弱が進んで来ており、筆を執ること自体、容易でなかったことがわかる。よく物 事を見通す眼力と卓越した思考力を持ち、如何なる困難をも乗りこえて来た不屈の気慨を身につけた型人ではあった

﹁老・病﹂の二つの波が寄せては返す中で、次第に頑健な身体は、衰えを深めていったのである。この間には山 間僻地での不自由な衣・食・住から来る影響や、西谷の生活環境から来る陰湿な土地や不健康な条件等も加わり、門 下檀信徒からの御供養があったとはいえ、晩年の聖人を支えるには、不備が多く思うにまかせぬ点も多々あったこと ︽日切︾ は云う迄もなかろう。入山以来、毎年のことながら、春から秋へかけてのシーズンは、遠国からはるばる入山の師を 慕って、門弟や檀越が来訪し、教えを乞う数は次第に増えていったのである。しかし、この頃はそうした人々との対 話も、直接聖人の被労に響いて行った。 事なれば苦を忍で﹂しるされるに至ったのである。 ﹁手もたゆき故﹂さすがに返事も書けない状態ながら、池上兄弟へ敢て﹁大 し 内容は八幡宮の造営については、番匠であった兄弟が、担当をはずされたことは、議奏した者がいた為であろうと 三往はなに事つけても辞退すべき事ぞかし。宰議臣等がことを左右よせば、悦でこそあるべきに、望る L 事 一 失也。﹂とさとしている。また日本国の一切衆生が誘法の罪によって、釈迦・多宝・十方分身の諸仏等に捨てられた 合 物 ︾ 時、八幡宮のみを造営してみても﹁力及給ぺしゃ﹂と述べ、かえって造営の大番匠をはずされたことは﹁天の御計欺﹂ としている。その理由は、かつて文永の役の時、大風が吹いたが、又今年も四月廿八日に大風があった。しかるに四

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月廿六日は八幡宮の上棟式であったと云うから、三日の内に大風ありと云うことは疑いないものとなった。と述べて 円 仰 ﹀ いるのである。やがて此の文に見える﹁大風﹂は、本書には記されていないが、﹁弘安の役﹂によって、﹁文永の役﹂ の時と全く同じ状態を呈していたことが知られるに至るのである。最後に﹁返返穏便にして、あだみうらむる気色な くて、身をやっし、下人をもぐせず、 よき馬にものらず、鋸・鎚手にもち、腰につけて、 つねにえめるすがたにてお わすベし。﹂と、番匠としての日常生活における在り方に至るまで、細まやかな注意を与えているのである。ここに ︽ 綿 ︸ も聖人の豊かな人間性が窺えるが、又一面、法華経の菩薩行を詩にたくして表したという宮沢賢治の詩の一節を幼梯 とさせるものがあるように考えられる。恐らく賢治もこうした聖人の御番を一見し、影響を蒙ったもではないかと考 えられる。単に宗教上の問題だけではなく、人間対人間として、世に処する上での教示を与えられるということは、 門下檀越にとっては、宗教上の﹁師﹂であると同時に、人生におけるリーダーとして、此の上もなく心強く、 ﹁ 生 き ( 25 ) る﹂上での活力となっていったであろうことは、推察にかたくないところである。 チ ヲ 民 民 ﹁此事一事もたがへさせ給ならば、今生には身をほろぼし、後世には悪道に堕給ベし。返返法華経うらみさせ給事な かれ。﹂と結んでいる。如何なることがあっても法華経をうらんではいけないとする訓誠は、 円 相 ︾ 華経をすつる、地獄の業なるべし﹂という﹃関目抄﹄の文と、同意のものといえよう。宛名は大夫志と兵衛志の両名 宛になっており、この兄弟から来た手紙の御返事である。病身で﹁上下人人﹂にすべて出すべき消息文を、 ﹁ 替 に 付 け 悪 に つ け 法 一 切 断 つ ているなかで、敢て筆を執られた聖人の心中は、この池上兄弟のことを如何に深く考えておられたか、察するに余り あ る も の が あ ろ う 。 次に、此の年の春から夏へかけての書簡と見られている﹃上野殿御番﹄ ハ 一 紙 断 簡 ﹀ が あ る 。 ﹁ 故 五 郎 殿 の 十 六 年 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︵ 上 回 ︶ が聞の罪は江河の一てい︵君、須由︿の聞の南無妙法蓮華経は大海の一てい等云均一とあるので、南条氏宛の断簡で あることは間違いないものと考えられるが、前後の真蹟が欠けているので、御番全体の文意を知ることはできない。 恐らくは真蹟一紙の第一行目最初に﹁あぢわい、大海の一滞は五味のあぢわい﹂とあるので、南条家からなんらかの 御供養があり、その礼状として記されたものとも考えられよう。京都妙伝寺に真蹟は所蔵されている。 ついに二度目の国難がやって来た。元の将軍泡文虎は高麗軍と共に、大船団をもって博多に総攻撃を 仕掛けて来たのであ知︾比の重大: l スは鎌倉在住の人々から、直に西谷の聖人へ急報されるに至った o そこで聖 人は六月十六日付で、次のような書状を発し、門下の人々に対し厳しい訓示を与えている。﹁小蒙古人寄=来大日本 品 キ 且 国 − 之 事 、 我 門 弟 蛙 檀 那 等 中 若 向 − − 他 人 − 将 叉 自 不 レ 可 レ 及 − 一 言 語 一 。 若 違 = 背 此 旨 一 可 レ 離 = 門 弟 一 等 曲 、 所 = 存 知 一 也 。 以 − − 此 F A

” −

8 3 旨 − 可 ヒ チ − 人 々 − 侯 也 。 ﹂ と あ る 。 門 下 に と っ て 再 度 の 蒙 古 来 襲 は 、 六 月 に 入 り 、 まさに聖人が予言した他国侵逼の難の適中を現 し、二度にわたって予言が現実のものとなったことに対する驚きであると同時に、大いに自慢すべきことでもあった のである。門下の人々が他に向って予言適中に対し誇らしげな言動をとったことも無理からぬことであったろう。 しかし、聖人はこうした門下の態度を厳しく誠しめているのである。確しかに予言が適中したことは、綿ばしいこ とであるが、これは他国によって我が園が攻められるという悲しむべき予言の適中であって、決して嬉ぶべきことで はない。如何に予言の適中とはいえ、自国が攻められ大難に値って数多くの戦死者や負傷者を出している事実からみ たとき、単に予言の適中という事だけをとらえ、他の悲しみゃ不安をよそに、自慢けな言動をとるようならば、 -, 日 越の門下﹂としてふさわしくない者であるとしている。聖人の﹁国思を報ぜんがため﹂という国を思う気持が如実に 現れた一文と言うことができよう。国が亡びることが最大の難であると考えていた聖人にしてみれば、当然の言葉で

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面積の大小を云うのではなく、正法流布を行っている本化仏使の住所であって、

J ︿ 弱 ︾ ﹁日蓮日本第一法華経行者為=豪古退治大将こと云う自負をもたれていた点から推して、正法・正師の国 自 ︾ ﹁大日本国﹂とある点について、諸説があるが、この場合は国勢・ ︿ 制 ︾ ﹁日蓮は日本国の棟梁也。﹂との自 あったものともいえよう。尚、本文に﹁小蒙古﹂ 覚 を 持 ち 、 を﹁大﹂とし、これを攻める国を﹁小﹂とされたものと推察することができるであろう。本書の写本は本満寺本が伝 っ て い る o そ れ に よ る と 、 ﹁ 日 真 純 一 叩 私 自 、 日 蓮 大 菩 麓 御 真 筆 直 奉 レ 拝 − − 写 之 一 者 也 。 但 御 筆 草 也 。 所 持 人 者 桜 井 弥 次

a v

ー 郎也、但御袖判也。無−−御名乗一見事御筆也﹂とあるので、日真は真蹟を直接拝写したことになっているので、真債が 当時は現存していたと考えることもできうる。 さて、次に月が替り、七月に入って最初の日、聖人は曽谷二郎から来た書状を見て、その返信を記されている。此 の 御 書 は 日 興 の 写 本 が 、 富士重須本門寺に所蔵されている。 ﹁曽谷二郎入道殿御返事﹂となっている。世上は蒙古の来襲によって、緊張と不安の渦巻く中にあり、困難のまった ﹁世間事正乞岳山似法一法華経第二云先人命全一阿鼻獄一等云一茂とあって、 日 付 は ﹁ 弘 安 四 年 間 七 月 一 日 ﹂ と な っ て お り 、 宛 名 は ( 27 ) だ 中 で あ っ た 。 経文の解説を以 下 行 っ て い る 。 即ち正法たる法華経を信じない人々は入阿鼻獄であるとし、弘法・慈覚・智証の=一大師をあげて、 誘 法 の 邪 義 で あ る こ と を 明 ら か に し て い る 。 ﹁ ム 町 三 大 肌 川 町 一 − 未 顕 真 気 低 − 非 レ 跡 ⋮ ∼ ∼ 一 一 世 仏 限 本 一 懐 之 舗 内 − 、 称 究 − − 一 切 衆 生

A 国 ︾ 成 仏 之 道 − 、 深 重 罪 過 現 未 来 諸 仏 争 可 レ 窮 ν 之 乎 。 争 可 レ 救 レ 之 乎 。 ﹂ と 厳 し く 批 判 を 下 し て い る 。 この邪義を破する為 に折伏逆化の化噂を進めて来たが、流罪死罪の大難に値う結果となったことを述べ、終りに﹁蒙古牒状己前依=去正 嘉・文永等大地震・大馨星之告−再三雄 ν 奏 ν 国 主 敢 無 = 信 用 一 、 然 而 日 蓮 勘 文 組 叶 − − 仏 意 − 故 此 合 戦 既 興 盛 也 。 ﹂ と 困 難 に 先 き が け て 瑞 相 の あ ら れ た 時 、 再 三 に 諌 暁 を 行 っ た が 、 つ い に 聞 き 入 れ ず 、 他 国 侵 一 過 の 難 が 現 実 の も の と な っ て 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ︶

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身 延 山 晩 年 に お 吟 る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀ 二度まで起ったことをあげ、今日の日本が議古に攻られて苦難に値うのはいたしかたのないことであるとしている。 ﹁ 愛 貴 辺 与 = 日 蓮 − 師 檀 一 分 也 。 難 ν 有 漏 依 身 随 − 一 国 主 − 故 欲 レ 値 − − 此 難 − 欺 。 ﹂ と 誘 法 者 と 共 に 難 に 値 う こ と を 説 き 、 Z キ ル セ ヲ ヒ 内 ヲ ト モ = h v − m p 品 川 セ Y 品︽砲 V ﹁ 唯 一 心 可 ν レ 期 = 霊 山 浄 土 一 欺 。 設 身 値 − 厄 難 一 心 同 = 仏 心 一 今 生 交 − − 修 羅 道 − 後 生 必 居 = 仏 国 乙 と 説 い て 結 ん で い る 。 今 生には身を兵難修羅道に置いても、心は仏国霊山浄土に居することを得るものであるとしている点に注目すべきであ るう。愛では一応、身と心とを区別し今生に難に値うことと、後生に霊山浄土を期することとを、 一 人 の 人 生 の 現 実 とその延長線上で認められているのである。ここで云う﹁後生は必ず仏国に居せん﹂というのは、 ﹁ 霊 山 浄 土 ﹂ を 指 しているものであることには疑いないものがあろう。要するに蒙古来襲について、聖人自身はこの現実の困難を、ど のように受けとめられていたかを知る上で、極て重要な一番であるということができよう。真蹟は現存しないが、日 興の写本が富士重須の本門寺にある。 次ぎに八月八日、光日上人宛の﹃御返事﹄の中にも、同様に﹁其人命終入阿鼻獄﹂の経文を引いて、此の経文の解 説を進めている。真蹟十一紙は曽て身延に保存されていた。光日上人とは光日尼ことであり、安房国天津の人で、聖 ︽ 伺 v 人とは旧知の間柄であった。子の弥四郎の手引きで入信したといわれているが、光日尼の詳しい生没年は伝っていな ぃ。本文はほぼ前書である曽谷二郎入道に宛た文商と前半は共通している。後半は﹁光日尼御前はいかなる宿習にて 法華経をば御信用ありけるぞ、又故弥四郎殿が信じて候しかば子勧めか。此功徳空しからざれば、子と倶に霊山浄土 ︽ 侃 ︾ へ参り合せ給ん事、疑なかるべし。﹂と述べているので光日尼の人物についても手がかりがえられる。子の弥四郎は ︻ 位 ﹀ すでに文永十二年︵一二七五﹀年若くして亡くなり、聖人は番を送って慰められている。 ﹁今の光日上人は子を思あまりに、法華経の行者と成給ふ。母と子と供に這山浄土へ参り給ベし。其時御対面いか

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︽ 回 v にうれしかるべき﹂と結んでいる。ここでも﹁霊山浄土﹂が示され﹁其時御対面﹂という言葉からみてもわかるよう ﹁後生﹂を指していると考えられる。先きに逝った弥四郎と霊山浄土で対面することができるというのであるか ら、霊山浄土のありかたが示されているものと考えられうる。 間七月、大風雨にあって議古の軍船は、再度の打撃を受け、涼没して、我が国の難は、かろうじて脱れることがで きた。七月から八月へかけて、聖人の健康状態は陽気も定まった為かいく分持ちなおして来たようである。書簡もこ の た め 発 信 さ れ て い る が 、 一つには先きにふれた蒙古来襲が、聖人をして更に筆を執らずにはおかない事態となって 現れた為ともいえよう。いずれにしても聖人の病状は、すでに衰弱の度を深くして、平常のごとくにはいかないもの であったことは事実であったといえる。食慾も常のようにはなく不快の日々であったようである。 め う が 二十二日にはそうした聖人のもとへ、治部房日位から、白米一斗・裳荷の子・はじかみ一還が送られて来た。日位 (29) は後に中老僧の一人に数えられる程で、数多い門人の中でも代表的な弟子の一人であった。 畠 ︻ 臼 v して聖人の門下となり、﹁晩築三隠駿州有度郡池田之郷乙とあるごとくで、池田本覚寺の開山として知られている。真 ﹃ 統 紀 ﹄ に よ れ ば 、 幼 に 蹟はないが本満寺本の写本が伝っている。本文では法華経を供養する者は必ず仏になることを説き、法華経の為に勧 持口聞の難をも覚悟すべきことを説いて、更に経文が﹁当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河国賀島荘は、殊に目 ︻ 情 ︸ 前に身にあたらせ給て覚へさせ給候らん。﹂と現実になって生起したことを示している。これは弘安二年に起った熱 ︽ 侃 ︾ 原法難のことを指しているものと考えられる。 日興らと共に事に当って活躍したことがわか る o 又、法華経の行者たる聖人に対し上下こぞって迫害を加えるため、一切の仏神に祈念を捧げても還って鰍となり、 日 位 は 此 の 法 難 の 時 、 他国に攻められ、歎き悲しむことになると、兼ねて人々に申し聞かせきて来たことを述べている。最後に﹁御使いそ 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ハ 上 回 ﹀ ぎ候へば委くは申さず候。叉々申ベく候﹂とあるので、御供養の品々を届けに来た使者に、その手で持たせて帰した こ と が わ か る 。 翌二十三日は、摩尼女に対して一幅の曇茶羅が図顕されている。鎌倉の妙本寺に所蔵されているが丈五

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粧・幅三 一組ながら、筆勢にはいささかの表えもなく、首題・発字・花押共に他の御本尊と同様、力量感を持っている。授与 ︷ W V 者の摩尼女が如何なる人物かは不明であるが、摩尼とは宝珠の意味もあり、仏弟子の中にも、摩尼駿陀という人もい たことから考えて、たんなる俗ではなかったろうと推察できよう。聖人ご在世の当時は、こうした出家でも俗でもな いといった、調わば中間層の人々で、篤信の徒が、意外に多くいたようにも考えられる。 か く し て 聖 人 は 、 弘安四年という困難の嵐吹きすさぶ中で、 内には慢性化しつつ次第に悪化していった消化器病 ︵下痢︶に耐えながら、困難に対処すべき道、正法によって国土を守るべきことを説き続け、弟子や信徒を励まし、 教化を続けられたのであった。 ︹ 註 ︺ ︿ 1 ︶ ︿ 2 ﹀ ︵ 3 ﹀ ︵ 4 ﹀ ︵ 5 ﹀ ︵ 6 ︶ ﹃ 日 本 宗 教 史 生 設 ﹄ ︵ 笠 原 一 男 編 ﹀ 一

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七 頁 八 幡 宮 造 営 事 に よ れ ば 、 此 の 年 正 月 よ り 気 分 が す ぐ れ ず 、 重須殿女房御返事定遺一八五五頁 同 同 一 八 五 六 頁 ﹃ 日 蓮 聖 人 真 蹟 集 成 ﹄ 九 巻 ・ 二 七 五 頁 上野尼御前御返事定遺一八五七頁 申 ’ a 惨 事 時 聖 人 と は 清 酒 の こ と を 指 す 。 ﹁ 既 一 期 を わ り に な り ぬ ベ し ﹂ ハ 一 八 六 七 頁 ︶ と 述 べ て い る 。 ︵ 7 ﹀ 同 同 一 八 五 八 頁

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同 同 一 八 五 九 頁 千 日 尼 御 前 御 返 事 同 一 五 九 九 頁 桟 敷 女 房 御 返 事 同 一 八 六

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頁 さ じ き 女 房 御 返 事 同 九 九 七 頁 佐 渡 御 書 同 六 一

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頁 妙 一 尼 御 返 事 同 七 二 ニ 頁 ﹃ 本 化 別 頭 仏 祖 統 紀 ﹄ 二 五 巻 一 、 及 び ﹃ 本 化 聖 典 大 辞 林 ﹄ 三

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三九頁、更に﹃健神﹄五二号三三頁︹註︺四四の拙論等を参 照 さ れ た い 。 ハ 日 ︶ ﹃ 日 蓮 大 型 人 御 真 蹟 対 照 録 ﹄ ︵ 立 正 安 国 会 編 ﹀ を 参 照 。 ︵ 時 ︶ ﹃ 日 蓮 聖 人 真 蹟 集 成 ﹄ 一

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巻参照 ︵ 口 ﹀ 上 野 股 御 返 事 定 遺 一 八 六 一 頁 ︿泊﹀﹃本化聖典大辞林﹄には、﹁馬の毛色の千入染めたる紅葉の如く深紅なるにや﹂︵二四

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六 頁 ﹀ と 述 べ て い る o ハ 却 ﹀ ﹃ 新 勅 撰 和 歌 集 ﹄ ︵ 恋 一 ・ 六 八 三 ﹀ ︿

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﹃ 十 六 日 記 ﹄ は 阿 仏 尼 の 作 、 ﹃ 新 校 群 脅 類 従 ﹄ 第 一 五 巻 七 一 一 良 ︿幻︶日蓮聖人遺文全集講義﹄二六巻一一頁 ︵

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渡 木 井 股 御 報 定 遺 一 九 二 四 頁 ︵お﹀参考として、聖人の誕生した年は、承久四年壬午である o つまり干支は﹁午﹂であるため、特に馬を愛しておられたとする 考え方もできよう o 例えば﹁夫と馬となくばいかでか日建か命はたすかり候ベき﹂︵兵衛志股御返事一五

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芸呂とあり、 又諌暁八幡抄︿一八三一頁︶には官頭より馬についての詳しい記述が見られ、馬について相当に知識も豊富であったことが わ か る 。 ︵ M ﹀﹃日蓮宗宗学金書﹄讐す巷ハ興尊全き二七頁 ︿ 勾 ﹀ 同 第 二 巻 ハ 輿 門 集 ﹀ 二 九 八 頁 ︵ 部 ﹀ 同 同 三 五 五 頁 ハ幻﹀﹃日蓮聖人御遺文講義﹄第七巻三四八

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三 五 二 頁 身 延 山 晩 年 に お け る 回 避 聖 人 ハ 上 回 ﹀ ハ 8 ︶ ︿ 9 ﹀ ︿ 叩 ︶ ︿U ﹀ ︿ 臼 ﹀ ハ 日 ﹀ ︵ M ﹀ ( 31)

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身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︿ 上 回 ︶ ハ沼﹀﹃日蓮聖人遺文全集講議﹄第二六巻六七|八頁 ︿鈎﹀﹃日謹宗宗学金宙﹄顕本法華宗部一五頁・三八二頁 ︿ 却 ﹀ ﹃ 日 蓮 聖 人 の 本 尊 論 ﹄ ハ 田 辺 普 知 著 ﹀ 二 七 六 頁 。 並 に 車 問 義 遜 博 士 は コ ニ 大 秘 法 紗 の 研 究 ﹂ ︿ ﹃ 大 崎 学 報 ﹄ 七 九 号 ﹀ の 中 で 、 偽 作 説 を と っ て い る 。 ︿ む ﹀ ﹃ 当 家 宗 旨 名 目 ﹄ 上 巻 参 照 。 ︿詑﹀﹃録外徴考﹄下巻九 ハお﹀﹃日蓮聖人御遺文講義﹄七巻三五六頁 ︿制﹀﹁日蓮宗新聞﹂昭和五六年九月一日号で、﹁三大秘法紗の真偽判別研究﹂と題して、立正大学伊藤端叡助教授は、同新聞の 第 一

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一 号 に 冠 賢 一 教 授 が ﹁ 真 偽 説 の 組 本 的 誤 り を 問 う ﹂ と い う 一 文 に 答 て い る 。 ︵ お ﹀ 三 大 秘 法 妙 定 遺 一 八 六 三 頁 ︵ お ﹀ 同 同 一 八 六 四 頁 ︵ 幻 ︶ 同 同 一 八 六 五 頁 ︵ 犯 ︶ ﹃ 御 本 尊 集 目 録 ﹄ ハ 立 正 安 国 会 ﹀ 一 五

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頁 参 照 。 ︿羽﹀﹃日蓮聖人真蹟集成﹄第十巻参照 ハ却﹀﹃日蓮宗宗学全書﹄第二巻︵興尊全集﹀一二ハ頁 ︵ 但 ﹀ 同 同 ニ 七 三 頁 ︵ 位 ︶ 同 同 二 七 六 頁 ︵ 必 ﹀ 大 風 御 嵩 定 遺 一 八 六 六 頁 ︵ “ ﹀ 八 幡 宮 造 営 事 同 一 八 六 七 頁 ︵ 必 ﹀ ﹁ 日 蓮 聖 人 晩 年 の 健 康 を め ぐ っ て ﹂ ︵ ﹃ 大 崎 学 報 ﹄ 一

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= 一 号 ︶ で 宮 崎 英 修 博 士 は 、 聖 人 の 病 気 、 療 養 、 発 病 の 時 期 等 に つ い て 詳 説 し て い る 。 ︵ 必 ︶ 八 幡 宮 造 営 事 定 遺 一 八 六 八 頁 ハ 灯 ﹀ 同 同 一 八 六 九 頁 ︵ 必 ﹀ 宮 沢 賢 治 の 代 表 作 た る ﹁ 雨 − − モ マ ケ ズ ﹂ の 詩 に は 、 菩 離 と し て の 生 き 方 が 示 さ れ て い る と 忠 わ れ る 面 も あ る が 、 御 書 と 相 い

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〆「 f「 〆 「 〆 「 〆 ヘ r「 f「 〆 「 f「 f「 f「 〆 「 f「 〆 「 〆 「 rヘ〆肉、 rヘ rヘ 67 66 65 64 63 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 」〆」,、J 、J 、J 、J 、J 、J 」 〆 」 〆 、J 」〆、J 、J 、J 」 ’ 」 〆 」J、J 通ずるところがあるといえよう。﹃近代日本の法華仏教﹄四四八頁以下の拙論を参照。 関 目 抄 定 遺 六

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一 頁 上 野 股 御 曹 同 一 八 七

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頁 ﹃日本宗教史年表﹄︿笠原一男編﹀一

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七 頁 小 諜 古 御 暫 定 遺 一 八 七 一 一 良 ﹃ 本 化 聖 典 大 辞 林 ﹄ 一 一 一

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三 頁 、 及 び ﹃ 日 蓮 聖 人 遺 文 全 集 講 義 ﹄ 二 六 巻 七 八 頁 等 に 詳 し い 説 が あ る 。 参 照 。 撰 時 抄 定 遺 一

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五 三 頁 与 極 楽 寺 良 観 香 同 四 三 二 頁 ﹃ 録 外 考 文 ﹄ 巻 三

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十 一 骨谷三郎入道殿御報定遺 同 同 同 同 ﹃ 本 化 聖 典 大 辞 林 ﹄ 光日上人御返事 光 日 房 御 曹 光日上人御返事 ﹃ 本 化 別 頭 仏 祖 統 紀 ﹄ 治部房御返事 熱 原 法 難 に つ い て は 、 顕誘法紗 一 八 七 一 頁 一 八 七 四 頁 一 八 七 六 頁 一 四 五 七 頁 定遺一八七九頁 同一二ハ一一良 同 一 八 八

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頁 十 一 | 二

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定遺一八八二頁 ﹃ 穣 神 ﹄ 五 一 号 四 九 頁 の 拙 論 を 参 照 さ れ た い 。 定 遺 二 六 二 頁 ( 33 ) 身 延 山 晩 年 に お け る 日 蓮 聖 人 ︿ 上 回 ﹀

参照

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1941年7月9日から16日までの週間活動報告で述べる。

第1四半期 1月1日から 3月31日まで 第2四半期 4月1日から 6月30日まで 第3四半期 7月1日から 9月30日まで

 当第2四半期連結累計期間(2022年3月1日から2022年8月31日)におけるわが国経済は、ウクライナ紛争長期化

継続企業の前提に関する注記に記載されているとおり、会社は、×年4月1日から×年3月 31

令和4年10月3日(月) 午後4時から 令和4年10月5日(水) 午後4時まで 令和4年10月6日(木) 午前9時12分 岡山市役所(本庁舎)5階入札室

大正13年 3月20日 大正 4年 3月20日 大正 4年 5月18日 大正10年10月10日 大正10年12月 7日 大正13年 1月 8日 大正13年 6月27日 大正13年 1月 8日 大正14年 7月17日 大正15年

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

本協定の有効期間は,平成 年 月 日から平成 年 月