プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 : その(一)分析視角とメトーデ導入前史
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4 0巻 第2号. 平成2 年3月. Journalof Hokkaido University ofEducation(SectionIC) Vol .40 .2 ,No. March ,1990. プロイ セン教育 改革期における ペ スタロ ッ チ教授法 の. 導入過程に関する-試論 その (一). 大. 分析視角 とメトー デ導入前史. 崎. 功. 雄. Ein Versuch uber d i e Einfuhrung der Pestalozzischen N[ ethode wahrend ldungsreformzei der Bi tin PreuBen A k F h ----( 1 ) Di i d t V e spe e eser orsc ung unddi infdhrung---- e orgeschi chte der Methodese. Vonlsao OHSAKI. 1. は じ め に. プロイセン教育改革の眼目は, 人間形成及び国民形成の高らかな宣言と中央から地方に至るまで の国民教育制度の創出,及び,複雑ではあるが究極的に一元的な国家的な学校監督制度の構想であ っ 1 ) その改革 プロ グラムの法制化は 改革末期に所謂「ジ ーフ ンの普通教育法 た{ 案」が担ったわ ュ , ェ . , けだが, そ れ は, H.K6nig が 批 判 す る と こ ろ の G.Thiele の 理 解 と は 異 な っ た 意 味 に お い て も プ , ロイセン改革派官僚によ るという限定付き で, 「プロイセン国家の立法活動の頂点」として位置付け 2 } 国家=政治改革の論理と教育 改革の論理との結合が産み出した一 つの歴史的モヌメ られる( ント . であ っ た.. プロイセン改革の国家改革としての特質は, それが教育改革を行政改革の目標とも手段ともした l l ところにある. R.K0s e eck の述べるように, 改革の目的は身分的制度を打ち鞍すことにあり,「全 階層の最大限可能な自由という政治的及び……経済的必要性」 が 「全公民の諸力の自由使用を 樹立 3 ) プロイセン改革は したがって教育改革なの である だ せんとする大胆なテーゼ」を産み出した( . , . から, 行政は本質的に諸能力の自由な発達を自己の課題とすることを宜したのである. 「政府の採るあらゆる見解 措置及び提案に際してそれを指導する原則は 何人も彼が法律の限界内にあ , , り, 並 びにそれが一般的福 祉の促進に 必要である 限り, 今後, 所有, 市 民的権利 (Gerech t sam 及 び自 由の享受を制 限されないこ と, あ らゆる者に, 法的限界内 で, 彼の素質(An l Fah igke i t ) 能力( ) agen en , K f 及 び力 ( rat を道徳的並びに肉体的に最大限自由に発達させ行使させることを認め 且つそれに反し. ,. 4 ( }( てなお現存する障害を 法的方 法によ り可及的速やかに 除去すること でなけ れば ならない 」 1808年12 . 月26日 州官庁制度改善令). 9.
(3) . 大. 崎 功 雄. 改革の目標が「普遍的に人間的な自由と道徳」 (コゼレク) に置かれれば, それは必然的に教育改 革とならざるを得なかったが, しかしそれは国家政治の論理から招来するところの教育改革 であっ た. にもかかわらず, 教育改革が「教育」 (人間)の改革となるためには, 教育独自の論理を媒介と せ ざるを得ず, 改革のトレーガーたちは教育 のトレーガーたちに結び付か ざる得なかっ た. ここに, 政治改革から教育改革に迫る論理と, 教育の自律性を保証する教育改革の論理との見え ざる緊張が 生まれる. 求められる教育が, 国家の論理を超えて独自の論理と価値を追求する可能性が生まれて くるのである. 改革の保守化と後退の中で, この緊張は顕在化し矛盾となり, やがて教育独自の論 理の追求の可能性は窒息するに至るのであるが, 少なくとも改革の初期には, 楽観的調和が考えら れた. 新しい国民教育制度創出に緊急に必要なのは, 新しい教育実践であり, その担い手であった. したがっ て, 新しい教師の育成が求められなければならなかっ た. プロイセン改革の最高スタッフ たちは, この担い手をペスタロ ッチ教授法の普及者たちに求めた. 教育の自律性保証を基本理念と する改革のトレーガーたちは, 改革された (る) 政府の手によ;る, 請わば官許の教授法導入という 背理を敢えて冒してまでペスタロッチのメトーデを求めたのである. プロセインにおける ペスタロッ チ教授法の導入過程については, わが国においての研究は数少な 5 ) ドイ ツにおいては断片的研究も含めると相 当数に上る 比較的に詳細を伝えているもの いものの{ , .. 6 7 8 ( ) L W Seyf } B Gebhardt(1896)( ) E Spranger(1910) { 9 ) farth(1894 ) )( は, H.Morf(1865-1889 , . , . , , . . 1 2 1 1 { ) H Sh 1 3 ) C l o ) F Fi } W Suvern ( b E,Feucht (1928){ )( 1929)( , . , . scher (1939) , , c ane aum (1942 , ,. 1 ( 4 )などである これらは後年の研究であるが これに当事者の記録や論稿 公文書な Menze( ) 1975 , , . どを含めると, 史料群は相当なものになる. しかし, これらの研究の多くにおいては, プロイセン 改革の論理と教育改革の論理との緊張関係は自覚的には究明されていない. したがって本稿の課題 とするところは, プロイセン改革の当事者がペスタロッチ主義及びメトーデを如何なる角 度からと らえ, これを摂取しようとしたのか, また, 教育の実践的トレーガーたちとの関係がどのように作 られたのか, 教育への国家的関与がどのような自覚のもとで構想されたのかを, メトーデ導入の具 体的プロセスを追いながら, プロセイ ン改革の視座から (ペスタロ ッ チの側からではなく) 整理す る こ と に あ る.. 1 1 . 1808 年 の シ コタ イ ンと 教 育 改 革 - - 分 析視角 の 形 成 と か かわ っ て プロセインにおける ペスタロ ッチ教授法の導入は改革期と同時に始まるのではなく, 後述するよ 809年1月 31 日 の ニ コ うにかなり長い前史をもっている. しかし, 政府当局者による正式決定は,1 brecht ) の 三 人 連名 の 建 議 を 受 け た 同 年 2 月 13 ロ ヴィ ウ ス, ジ ュ ー フ ェ ル ン 及 びア ル プ レ ヒ ト (A1. 1 5 ( } 若しくは前年8月 23 日 の ニ コ ロ ヴィ ウ ス の 手 に 日の勅令 (ペスタロ ッチの許への派遣生決定) , 1 6 }以降であっ た 1 なるペスタロ ッチ教授法導入に関する提案{ . 808年から1809年にかけての時期は, 「 言うま でもなく ・ , 1808年11月 24 日のシュ タイ ン辞任とその謂わば置き土産となっ た プロイセ ン 王国における最高行政官庁の制度変革に関する勅令」 によって, 中央教育行政, 即ち宗務・公教育 局が形成され, 担当者も定められるなどして, 教育改革を プロモートする態勢が出来上がっ た時期 である. したがって, この時期の改革の指向性とペスタロッ チ教授法導入とは一体のものとして押 さえられなければならない. 本稿全体の分析視角を形成するために, 我々は, この時期周辺のシュ タインの二つの文書を検討し, プロセイン改革の推移における改革当事者による ペスタロッチ (教 授法) の位置付けを明らかに したい. 10.
(4) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 (1). ( 1 ) 808年11月 24 日 の 謂 わ ゆ る 「政 治 的 遺 言」 で あ る が, そ れ は 正 しく は, T.v.シ ェ ー . まず, 1 ンの筆になり, しかも9つに整理された改革課題のうち, 第8と第9命題の構想・作成過程 にはニ 1 7 } 改革の集団的指向性 政治改革と教育改 コロヴィ ウスが協力したとされていることからみても( , , 革の同時性を示すものとして注目を要する.この文書は,ナポレオン=フランスの外圧のもとにあっ て改革を継続させる立場から執筆されたもので,その前文は次のような課題認識から始まっている. 「内部の 完成に 私は目標 を定めたの である 国 民(Vo lk)の中に 生 じる不調和 を止揚 し, 我々 を不幸に , .. する諸身分間の闘争を根絶し, 国民内部の各人がその能力(Kr f a t を道徳的方向に向かって自由に発展 させること ができるよう な可能性を法的に作り上 げ, かく してこ のよう な方法によ っ て, 国 民を して喜ん ( 1 8 ) で財産と生命を犠性に 供する ほ どに国王と祖国とを愛せ しめること が重要 であ っ た.」. 改革の継続と完成のために, 身分間の不平等を廃止し,「各人がその能力を道徳的方向に向か って 自由に発展させることができるような可能性を法的に作り上げ」るいう課題は, 先に 見た, 1808年 2月 26 日の州官庁制度改善令と同趣旨のもの である. ここに, 「人間」 と 「国民」 の形成という教 1 育改革の基本テーゼが提示されているのである. 次い で, シュ タイ ンは改革の課題を9つの命題 t (Sa )に整理する. 項目を要約して列挙すると, 第1に, 国王の統治権力の安定化(そのために ze 人身の自由と世襲隷農制の廃止, 統治権行使を国王の正式の委任者に限定すること) . 第2に, 司法 の独立(国王=最高権力のみに依存すること) . 第3に世襲隷農制の復活阻止, ゲジンデ規制令の廃 止である. そして 「これらの三つの命題のうちに, 臣民の自由と権利及び国王に対する臣民の忠誠 が基礎づけられる」 として, これらの命題を他に先行させている. lgeme ine Nat ional i i 第4命題は, 一般的国 民代表制 ( representat e neal on) で, 国 民 形 成 の 必 要 を最もよく特徴づけている. 「国 民が国家の活動に 参加することか ら排除されれ ば 国 民から 地方 公 共体の事 項 (Kommuna lange le , i t t ) の管理を奪う なら ば, や がて行政 (Gove ) は, 国 民にとって, 或は 無関心なものに な en rnmen genhe り, 或は個々 の場合には, 自 己と対立するものと 見なさ れるように なる であろう. したが っ て, 国 家存続 のため の犠性的行為に 際 して, 対立, 若 しくは少なく とも善意の欠乏が生 じる であろう.」 「したがっ て 私の計画は すべての能動的公民 即 ち 100フー フェ の土地所有 者 ある いは 農 業乃 , , , , , ,. 至製造業乃至商業を営む者, 精神的紐帯で国家と結び付けられている者が, 代議制への権利を有する, と いうもの であ っ た. このために 設けられるより 詳細 なプランに ついては, 私は既に 提案 した. 斯かる プラ ンを実行するか若 しく はそれを除去するかに, わ が国 家の禍福 が懸 かっているの である. 何故なら, この i l i t 方法によ ってのみ, 国 民精神(Na t )が積極的に 覚醒さ れ活力あるものになること が できるから ona s ge 1 { 9 ) で あ る.」. ここに, 周知のシュ タインの国民代表制論が明確な形をとって遺言されるのである 彼のすべて . の命題を貫くのは, 「国民精神」 の担い手である, 謂うところの 「能動的公民」 の育成であった . 第5命題は,「貴族と他の諸身分との結合によ って,国民が一つの全体にしっ かり結び付けられる」 ための前提としての, 「貴族身分の改革の必要性」 である・そしてそれを前提にして 第6に 「祖 . , , 「統治に対する等しい情熱をあ らゆる身分の中に生み出す ことが可能と 国防衛の一般的義務」 と‐ 」 なる. 但し, 「農民身分だけが, これまで長い間, 世襲隷農とされ来ったが故に, その人格的価値の 向上のために, なお積極的に支援される必要があろう」 とされる 第7命題は 「夫役 (Fr )」 onnen . , 11.
(5) . 大. 崎 功 雄. 廃止のための法的措置で, 農民の強制された 「労役 (Di t ) 廃止の可能性を法的に確定する」 必 ens e 要について である. 第8, 第9の命題は, 以上の諸施策を保証するための宗教及び教育改革の問題である. ここに, ニコロ ヴィ ウ スが, その構想段階で関与したとされる命題が登場するのであるが, 事柄の性質上こ こに全文を引用しておきたい. 「8 しか しな がら こ れらのすべての施策 が国民を内的に 発達させ るというその 目的を 完全に 達成し , , . igibses i ) が新 nn 国王及び祖国に 対する忠 誠, 信 頼, 愛 が真に成長するために は, 国民の宗教心 (derrel たに振興さ れなけ れ ばならない, 規則や命令だけ ではこ れを 行うこと は できない. だが, .この重要問題を真面 目に肝に 命 じること, ふさ. わしからざる聖職者を追放し, 無思慮な聖職志願者を退け, 神学者養成学校を改善し, 以て聖職身分の尊 ) をよ り適切に 整備 し, 外的礼拝 が満 足のいく 荘厳なもの 厳を回復すること, 及 び牧師税 (Pf arabgaben に なるように配慮 し, 以て 教会への 愛着を促進す ることは÷ 政府の 責務なの である. 9. この場合, 全体 的に も 同様 であるが, 教育 と教 授が最も期待さ れなけ ればならな・い, 人間の内的自然 i t i t ) (d ) に 基礎 をおく メ トー デに よ っ て, あ らゆる精神 的力 (Ge s eskraf einnere Naturdes Mens chen が内部から発達させ られ, あらゆる気高い生活の原理. i i )が促さ れ育 て られ, すべての一面 ebenspr nz p. 的陶冶が避けられる なら ば, そ して空虚な無関心によ っ てお ろそか に ,さ れてきた衝動, その 上に 人間の力 と 尊厳が宿 っ て いる ところの 衝動, 即 ち, 神, 国王 及 び祖国に 対する 愛 が慎重に育て られるならば, 私た { 2 0 ) ちは, 肉体的にも精神 的にも力 強い世代 が成長 し, より 良い未来が開 けるのを期 待 できる であろう,」. 「国民精神」 を形成する この第8, 9命題から窺えることは, まず第一に, 国民的一体性乃至は, 「 こと であり, そのための, 神-国王-祖国を一元的に把えた上での, 宗教心」の滋養と教育改革 で ある. 第二に,.求められる国民は, 能動的公民であり, 諸能力を発達させた心身共に「力強い世代」 目すべきは, この 二つの課題, 国民精神の育成 (国民形成) と諸能力の発達との関わ であ った. 注, りにおいて, 政治家シュ タイ ンに メトーデが意識されていること である. 繰返しをすれば,「人間の 内的自然に 基礎をおくメトーデによ って, あらゆる精神的力が内部から発達させられ, あらゆる気 高い生活の原理が促され育てられ, すべての一面的陶冶が避けられるならば, そしてこれまで空虚 な無関心によ っておろそかにさ れてきた衝動,その上に人間の力と尊厳が宿っ ているところの衝動, 即ち, 神, 国王及び祖国に対する愛めも慎重に育てられるならば, 私たちは, 肉体的にも精神的にも 力強い世代が成長し, より良い未来が開けるのを期待できる」 というのが, シュタイン (したがっ て, シ ェ ー ン と ニ コ ロ ヴィ ウ ス) の 確 信 であ る. こ こ でメ ト ー デ と は, 言 う ま で も なく ペ ス タ ロ ッ. チを発信源とするそれである. かく して, 政治改革の論理から教授の方法が自覚さ れたのであり, これに格別の注意を払う 必要がある. 「 プ ( 2 ) , シ ュ タ イ ン の 第 2 の 文 書 に お い て, よ り . さ て, 政 治 的 遺 言」に お け る 以 上 の ア ロ ー チ は・ 具体的に発展させられた, それは, 同じくシュ タインの辞任直前に起草されたもの で, v. シ ュ レ ッ i ld i herrvon Schrbt i ter タ ー (Fr chsf rei edr ch Leopo ,Re ,シ ュ レ ッ タ ー 兄 弟 の 兄, 当 時 プ ロイ セ ン. i t t 州=内務担当大臣であった) 宛に出された勅令 (Cab ne sordr e ,閣令) 案である. これは, 内閣交 代のため, シュタインから ドーナ内務大臣に引き継がれた文書に収められたが, 結局 ドーナの下 で は, 既に勅令案に盛られた内容は進行中であるから改めて発する必要はないとのニコロ ヴィ ウスの 1 2 } その経緯はともかくと 進言 1809年1月 7 日) により, 実際には発布されなか ったもの である{ ・( . 12.
(6) . . . . . ● .●. プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 (1). 性 を 訴え る と こ ろ か ら 始 ま る. 1736 年 の プ リ ン キ ピア ・ レ グラ ティ ヴ ァ (Pr inc ip ia Re≦副l i at va). に逆上って農村学校制度の制度化の由 来を辿る件な どは, シュ ーフェ ルンの把握に近似 している 2 3 ) そもそも勅令 (案) 自身 ジューフェ ルンらの改革作業に言及しているのである 即ち が( , , , . 「ここ (プロイ セン諸州……引用者) では 行政は目下 外的状 況に制約 されてお らず 貴下 (v シュ レ ッ . , , ター大臣……引用者)はまさに財務, 警察, 宗務及 び学務担当の州長 官として, [教育改善のための……引 用者]手段 を結合しているの である. 一般的な 改革の提案さえも既に用意さ れて いる. 東 プロイ セン とリ タウエンに ついては 陸軍参事 官シェ フナー,西 プロイ セ ンにr ついては ジ ューフ土 ルン教授とヤ ッ ハマン校 2 4 { ) 長によ っ て である.」. 2 5 ) したがって 本勅令案はシュ タイン個人のものというより 同様の言及は後書きにも見られる( , . , 中央行政機構の改造, 新内閣誕生, 宗務・公教育局発足を展望してとらえるならば, プロセイ ン諸 州 (東西プロイセン) における改革の努力を踏まえて, 当面プロイセン諸州を先行させ つつも, そ i れを国家全体に広めていく基本的視点,.課題整理という性格を帯 びている. それは, Cab t t ne s- ordr eと して, 内閣全体の公式の立場として押さ えられるべき であり, だから, 改革が進行中との理 由で不必要とされるような個別的事案とは本来レベ ルを異に していた.(しかし, 一般的学校立法を 課題とするところま では掲げられておらず, 全体としては, 緊急な問題の整理・継続という性格が 強い. この点が, 改めて勅令を発する必要なしとした, 先のニコロ ヴィ ウスの進言に連なっ たもの と思われる.) さて, 提起されている9つの 原則の見出しを掲げると次の通りである. 「1 教育と教授は国民 (Na i t ) の事項である.」 on . 「2 知 識 では なく 理解 (Ver ins t inn), 道 徳 性 (Si l i andigkei t t ), 公 共 心 (Geme t t )及 s chkei , . R l i i i .び宗教心 ( e go t ) が民衆学校の目的である.」 sta 「3 宗教が特別の宗派の特徴に渉る限り その教授は地区の聖職者の手に留保されるのが最良 , . で あ る.」. 「4 教師はその職務のために適切に養成されなければならない 」 . . 「5 教師は生計を保証され 彼らの学童の両親から独立していなければならない , . .」 「6 学校の外的及び内的事項にあっては 特に 健康的で清潔な教室 適切な就学及び優れた , , . , 教科書と宗教読本を配慮しなければならない.」 「7 .. 青少年教育と国民教育 (Jugend=undVolksunterricht) と の 関 係 か ら,. 地 区の 説 教 師 と 教. l i d i t )とが民衆学校の監督者 であることが最も目的に 適っ 会監督官( s chenl nspekt o r en egei て い る.」. 「8 上級監督のためには 各州に 独自の しかもただ一つの当局がなければならない 」 , , , . . 13. ● . ・′. れるべきものである. しかも, この勅令 (案) には, 教育改革の全体像との絡みでペスタロ ッチの 思想, 教員養成そしてメトーデが押さ えられており, この点からも非常に興味深いもの である . 2 2 ) 前文は 同令 (案) の構成は, 前文とこれまた9つの原則 (Grundsa t ) 及び後書きである( z e , . 「新しい世代の教育と教授は 今や曾てよりも重要さを増した よ って 余は 必要な改善のため , , , . に, もはや時間を無駄に費やし, 以て新しい世代を失うことの無きよう望む」 と, 教育 改革の必要. .● .. ・ . .・ .. ・ . . ・● ● . . .● ●.・. して, それに盛られた内容は包括的で, シュ タイン辞任後のプロイセン政府の採るべき教育改革方 針の全体像がそこに見い出される. したがって, 先の 「政治的遺言」 とワン.セッ トとして考察さ.
(7) . 大 崎 功 雄 「9 .. ) に 払 わ れ る 公 共 の 尊 敬 は, 教 宗教, 国民教育と学校教育 (Volks=und Schulunterricht l S h l t ) にも当然払われなければならない.」 会と学校にも, 聖職者と教師 ( c u eu e. 2 6 } )事項ととら 大まかに整理すると, 教育を身分的事項から国民的(したがって, 国家的でもある( 教育目的の明確化 ( 第2原則 ) 学校の宗派主義の克服 (第3原 える改革の基本方向 (第1原則) , , 則) , 学校の内的・外的整 , 教員養成の緊急整備 (第4原則) と教員の経済的地位保証 (第5原則) ( 第8原則 ) ( 第7原則 備 (第6原則) と上級監督 教師と聖職者の尊厳の確立 学校の下級監督 ) , , (第9原則) となっている. 本稿では, ペスタロ ッ チ教授法導入との関わりの点からのみ, これら. 2 7 ) を 検 討 して お き た い( .. 第1の原則 では, 学校が身分や設置者等の違いによっ て差別されてはならないこと, 就中, 困窮 した民衆学校の整備, 都市と農村における民衆学校の適切な管理の急務がうたわれている.「ここに 混入している, 国王の学校と貴族の学校との, 教会学校と村落学校との, 西 プロイセンの慈善学校 l (Gnaden )とその他の学校との相違は, それ故中止する.」「貴族と パ トロンは共同の学校整 en schu 備に手を差しのべるべきであり, 特に 困窮した学校及び教師の生計を配慮しなければならない. 貴 族と参事会がこの点で立ち遅れていることは不当 (un t ) である.」 学校を身分の枠を超えた国 r ech 民的事項とするという把握は, やがて, 教育目的論の深化に伴い, ジュ ーフェ ルンら教育改革担当 者においては公普通学校の概念を生み出すのだが, シュ タインの勅令案においてはまだ不明確であ る. ただ, 学校間の相違をなくすという課題は, それを原則的に追求すれば, すべての学校を規定 する一般的学校規則を当然にも必要とすることとなろう. 第2の原則は, 民衆学校の目的論である. シュ タインは, ここにおいて ペスタロ ッチを評価する のであり, したがっ て, その評価の仕方には注意を要する. 原則の説明全文を掲げておこう. 「若者が見たり 感じたりすることは明瞭にされなけ ればならない 同時に 彼 らの 身体は熟練するま で , , , i に 陶 冶さ れ, 市 民精神(Burge )と宗教心が覚醒さ れ, 育 ま れなけ れ ばならな い. 自らが正しいもの, rs nn 良いものと認めることを, 彼らはまた 愛し, 実行しなけ ればならない. そ れ故, 民衆学校はよ り力 強い世 代を産み出すために力を尽きなければならない. こ の事業を望み, 成就するために は, それ自体に対する 情熱が必要 である. そ れ無 しには, どんな偉 大なことも, どんな良いことも成功 しない. それ無 しには, 2 8 )も プロイセ ンの農村学校制 度を実現 できなか っ た であろう 斯 かる教育に最も重要 なの シ ュ ルツ博士( . は, ペスタロ ッ チの諸原則 と経験 である.」. この第2原則では, 見出しも含めると, 理解(分別) , 身体の熟練=技能, 公共=市民精神, 道徳 2 9 ) 前二者は 「政治的遺言 の中で述べられ 性, 宗教心の5 つの教育目的が設定されたことになる( 」 , . ている精神的=身体的藷能力の陶冶に相当する. 後の三者は, 「国民精神」や国民的一体性の育成と の関わりにおいて述べられた目的に相当する. (なお,1808年9月1 6日に出されたもう一つの別の 勅令においては, 「適切な知識と能力, 力強い意欲, 市民精神及び宗教心が, それゆえ学校が実現し なければならないものなのである.」として, 全般的には市民精神や能動的力の育成に力点がおかれ 3 0 ( ) て い る.). そして重要なことは, これらの目的実現の上で, ペスタロッ チの原則と経験が重視されているこ とである. 換言すれば, 諸能力の陶冶, 「国民」育成という, プロイセン近代化の政治課題からペス タ ロ ッ チ の 教 育 原 則 に 接 近 し た の で あ り, そ の 逆 で は な い と い う こ と で あ る. こ こ か ら, ペ ス タ ロ ッ. チ教授法導入の前提に関わるプロイセン行政当局の立場について, 幾つかの可能性が予想されるこ 14.
(8) . . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する-試論 (1). ととなる. 第一に, シュ タイン的方向とペスタロッチ的方向とが, 当面, 目的・理念においても一致すると 把えられたこと, 第二に, にも拘わらず, プロイセン近代化に 必要な人間と国民の形成という政治 課題の枠組みにおいて ペスタロッチが理解されたということ, したがって第三に, その政治課題か ら演揮される教育目的に役立つ限りにおいて ペ スタロッチは位置付け られるの であ って, ペ スタ. 理とは別次元において, 教育独自の論理の形成が可能となり得るということ, そして第五に, それ を保証できるか否かは, 国家政治の教育への関与の仕方, 換言すれば, 「学校監督」のあり方に懸っ ているということ である. これらの点は, ペスタロ ッチのメトーデ導入に関わって, 教育改革の進 展の中で, 見え ざる岐路として, 実は登場してくるのである. ところで, シュ タイ ンの勅令案では, 教員養成, 教員の経済的地位向上と社会的評価の向上など, 民衆学校教師の全体的レベ ル・ア ッ プに関する事項が中心となっている. メトーデ導入は, 民衆学 校教師の養成, 資質向上の必要性を直接の引き金に しており, したがって, 教員養成の課題が特に 検討されなければならない. 第4命題がそれである. やや煩雑な説明 が付されているが, フォ ロー して お き た い. l ま ず, 東 プ ロイ セ ン 州 に 現 存 す る 二 つ の 農 村 学 校 教 員 ゼ ミ ナ ー ル (Landschul ) の ehrerseminar in=Dexen)の ゼ ミ ナ ー ル で あ る が, 前 者 現 状 が指 摘 さ れる. イ エ ンカ ウ と ク ライ ンニデ ク セ ン(K1 e. は小額の基金しかなく, 後者はそのうえ私的機関であり, 且つ不適切な場所に設置されている. そ して, それぞれが, 毎年僅か四人の教員を養成しているにすぎないというお粗末な状況が確認され るが, シュ タインはこの二つのゼミナールの改善ではなく, 新しい方策を勧告している. 一つは, i i 巡 回 ゼミ ナ ー ル(ambul )の設置で, もう一つは現職教員の再教育である. 巡回 erendeSemi na r en l f ゼミナールは, 教科(Schu )に特に優れている教師と聖職者の許で, 一 人につき二~ 三人の 生 ach 徒を教師に向けて養成するという, 簡易教員養成の構想である. 1 805年には, 東 プロイセンとリタ ウエンで9つの巡回ゼミナールが提案されていたという. 勅令案は, これを更に追求することを提 案している. 現職教員の継続教育については, ポーゼンのゼミナー ル校長イエ ツィ オロウスキー iorowski (Jez ) と ゲ ルリ ッ ツ の ゼ ミ ナ ー ル 校 長 ブ ル グ ン ト (Bur ) を呼び寄せることが提案さ nd g1 れ て い る. 彼 ら に つ い て は, プ ロ イ セ ン 政 府 は 王 命 に よ り, ゲ ディ ケ, ニ ー マ イ ヤ ー, シ ュ タイ ン i inbar バ ル ト (G.S.Ste t ) に よ っ て, 教育 さ せ, 更 に ペ ス タ ロ ッ チ 及 び オ リ ヴィ エ ー ル (0l ) vi er 3 1 ( ) の 許 へ の 遊 学に よ り, 謂 わ ゆ る メ ト ー デ を 心 得 えさ せ て あ っ た と いう . イ エ ツ ィ オ ロ ウ ス キ ーは. ペスタロッチ教授法導入に直接かかわった人物であるから, シュタインのこの提案は注目しておく 必要があ. る. 以上のように,.シュ タイ ンは民衆学校教師の養成を緊急な課題ととらえ, 効果的に, 大量に養成 (再教育) できる施策を提起する. ペスタロッ チのメトーデは, 直接にはこういう角 度から関心が 向けられたわけ である. ( 3 808年9月1 6日に実際に出された勅令 ) . シュ タインの辞任期における二つの文書 (正確には1 も含めて三つの文 書)から,プロイセン改革のトレーガーが如何なる前提 でペスタロッ チ乃至メトー デに臨んだか, その意図するところが明らかとなる. 第一に, プロイセン改革の課題から教育の領 域に課せられた目的, 人間と国民の形成に合致するものとして, ペスタロ ッチの教育原則が迎えら れたということ である. 第二に, プロイセン改革という国家論の枠内でペスタロッチは受け入れら 15. .・ ● ● . ●● ●.. ロ ッチの思想に忠実か否かは問題とはされていないということ, 第四に, その裏返しとして, 教育 の実際は教師=教育家に任されざるを得ないから, 教師の教育認識の深化次第では, 国家政治の論.
(9) . 大 崎 功 雄. れたのであり, ペ スタロ ッチ個人の思想あるいは教育の論理 への忠実さが求められたの ではないと い う こ と で あ る. した が っ て 第 三 に, 当 然 の 事 な が ら, プ ロ イ セ ン 改 革 の ト レ ー ガ ー に と っ て ペ ,. スタロ ッチの異質な部分が意識された場合, それは捨象されるか無視されるのであり, 改革の論理 の吟味へとはつながらない. そして第四に, とりわけ民衆学校の教員養成と いう 緊急課題に沿って ペスタロ ッ チ (メトーデ) は受容された, ということである . しかし, こう した政治〒国家改革の論理は, その対局として, 教育のレベ ルでの実際と知見を集 積することとなり, 教育のトレーガーを大量に創出する. それは, 国家政治の論理とは次元 を異に する教育独自の論理を産み出す契機ともなる. プロイセン改革のトレーガーたちが改革を進行させ るとき, この国家政治を超えた教育の論理, あるいは教育価値をどう自覚し得たか, ここに改革当 事者の種々層も生じる. 因に, 所謂初期フムボルトと後期フ ムボルトの溝を埋める説明も此処に見 出される であろう. つまり改革政府による教育改革の結果, その延長線上に, 政治や国家の論理を 超えた教育の論理が生まれることを認めるか否かによ って, 溝が埋められるかあるいは溝のまま で あるかが決まる であろう. また, フムボル トとジューフェ ルンとの相違も此処に 見出される であろ つ.. 我々は, 以上のような分析視角を踏まえて, 以下にペスタロ ッ チ教授法の導入過程の具体的 プロ セスを検討する.. 1 1 1 ) プロイセ ン改 革 以 前 1 . ペ スタ ロ ッ チ 教授 法 の 導入 の過 程 ( プロイセンにおける ペスタロ ッチ教授法の導入過程は, 幾つかの段階, 若しくは局面に区分でき る. まず, 大局的には, プロイ セン改革期以前と改革期とに 区分される. 改革のプロ グラ ムに組み 込まれたものかそう でないのかの相違である. さらに, 国家政府当局者の関与の有無という観点か らも区分さ れる. 民間レベ ルでのメ トーデ導入と政府当局者の 意志によるそれとは, 一応区分され る必要があろう. これは, 改革期以前にも, 一定の限度内 で生じる相違である. また, ペスタロッ チ周辺の人々からの間接的導入と ペスタロッ チその人への直接的関わりを求める政策との違いも, 時期区分の際の一つの指標となる. 最後に, プロイセンの教員養成政策の変化や体系化乃至成熟の 経緯の中で, ペスタロ ッチとの関わりをとらえる必要があろう. 以上のような指標を考慮に入れる と, 1808年11月 24 日の宗務・公教育局設置を一つの分岐点とすることができる. 本稿口にお,いて みたように, 改革スタート時点を教育改革推進態勢の成立期ととらえたい. 改革期以前については, ①プロイセンにおけるペスタロ ッチ (教授法) 紹介の開始期 ( 1801-03 年) 1 3年4月 80 , ②プロイセン政府が民衆教育政策の見地からペスタロ ッチ教授法の調査を開始し( 23 日…ゲディ ケ宛勅書) 1803年12月 31 日, 1804 年 1月 19 , 暫定的・限定的適用を承認する時期 (. 日勅令) ,.③ ペスタロ ッチ教授法を巡る論争の激化期, 調査の継続と実験学校 (プラーマンの学校) 設立期 ( 1803-05年) 1 807-08年) に区分されよ , ④プロイ セン教育改革開始に向けての準備期 ( う. 一方, プロイ セン改革期については, ①ツェラー招階準備とペスタロ ッチへの公的接触開始期 ( 1 808年) , ②宗務・公教育局設置及びツ ェ ラー招噂, ペスタロ ッ チの許への留学生派遣決定期 (民 衆学校教員養成政策の模策期) ( 1 808一09年) 1 809一1811年1月) , ③ツェ ラーの模範学校期 ( ,④ 派遣留学生帰国とメトーデ普及期 ( 1 812年-) 1 81 6年-) に区分 で , ⑤解放戦争による中断以後 ( きよう. この区分は, 一応の目 安であって, 必ずしも厳密ではない. 事柄によ っては前後に重なり 合う・ し, また継続して進行する場合もある. ただ, 変化の意味を特徴づけるという程度の区分 であ 16.
(10) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 (1} る.. 本稿では, これらの時期区分を一応の目安としてそれに従いながら, 事実過程を追うと共に改革 のトレーガーたちの 意図と構想, その種々層について明らかに するものである. そこ でまず, 改革 期以前における ペスタロッ チ教授法の導入過程について検討しておきたい. 1. プ ロ イ セ ン に お け る ペ ス タ ロ ッ チ の 紹 介 開 始. 改革期以前の プロイセンにおいても, 知識人を中心にペスタロ ッチは相当に知られていた. 1788 年 に フ ィ ヒ テ は 『リ ー ン ハ ル ト と ゲ ル ト ルー ト』 を 感 激 を 以 て 読 ん で い る し, 1794 年 に は リ ヒ タ ー. スワイ ルのペ スタロッ チを訪ねてもいる. ジューフ ェ ルンと並んで教育改革の中心人物となるニコ l berg)と 共 に イ タ リ ア 旅 行 途 次 ノイ ホ ー フ を 訪 ね, ペ ス タ ロ ッ ロ ヴィ ウ ス は, シ ュ ト ル ベ ル ク(Sto. 91 チに見えるている. 更に彼は 『リーンハルトとゲルトルート』 に深い感銘を受けている. 時は17 年 晩 夏, ニ コ ロ ヴィ ウ ス 24 歳, ペ ス タ ロ ッ チ 45 歳 の こ と で あ る. 彼 は そ の 年 の 冬 に こ の 書 物 を も. う一度読み直してもいる(利 これ以降の両者の年齢を超えた交わりは, プロイセン改革期における 804年, オイ メ トーデ導入に決定的な役割を果たすことになるのである. そのニコロ ヴィ ウスは, 1 i l l t i ) で ペ ス タ ロ ッ チ の 活 動 に つ い て 報 告 も して い terar t sche Gese schaf テイ ン文芸協 会 (Eu n Li 3 3 ) る( .. ペスタロ ッチは, 教育改革のトレーガーの一人にこのように比較的早くから知られていたのであ る が, プ ロイ セ ン の 多く の 知 識 人 に 知 ら れ る よ う に な る の は, 別 の ル ー ト か ら で あ る. W.v .フ ム ボ. 3 4 ( )によると 「彼(ペスタロ ッチ…引用者)に最初に注意を向 t ルトの伝記作者でもある B rd .Gebha , け,その後ず っと注意を保持し続けたのは,ビースターによって指導された新ベ ルリン月刊誌(Neue. ( 3 5 )こ の 月 刊 誌 は 『ベ ル リ ン 月 刊 誌 (Ber l ini l in i i f Ber t t ) で あ る.」 sche Mona sche Monatsschr , { 3 6 ) 『 l ini i Schr f ter t )』 を そ の 前 身 と す る 総 合 学 芸 誌 であ る . ゲー プ )』 sche B1at , ベ ルリ ン 週 報 (Ber. ハルトの指摘に導かれてこの新ベ ルリン月刊 誌の目次を繰ると, ペスタロ ッチ及び彼に関わる論稿 が相当数掲載されている. 因みに, 関係論文の著者と標題を年代順に挙げると次の通り である. tusGrune o1 Jus ): 「ペ ス タロ ッ チの教 803年2月 (第9巻); プロイ セン管理局参事 官J r .グルーナー ( l i bUcher f )」 科書の予約購読の勧め (Auf e Pestalozzischen Schu orde rung Zur Pranumeration aufd 「 o1 ‐ 803年3月 (第9 巻);陸軍参事官J y): ペ スタロ ッ チ 教授法入門 (Zur Einl .W.ヒムリー (Himl h d P l i h U i h i i t i t t t ) t d e ung n e es a ozzsc e n errc sme o e 」 l i tund Pes ta o1 )」 803年10月 (第10巻);ヒムリ-: 「カン トと ペスタ ロ ッ チ (Kan ozz o1 ): 「フ ォ ン・ロ ホウと ペ ス タ ロ ッ チ (vonRochow emann 8 0 4年2月 (第1 1巻);説教師キーマ ン (Ki i talozz )」 und Pes. t ):「ペスタロ ッ チ とオリ ヴィ 01 804年3月(第11巻); 枢密財務顧問官 W.A.von クレ ヴィ ツ(K1 z ewi ’ ivi sund ol e s Lahrarten)」 エー ルの教授方法について (Ueber Pestalozzi 「 t te ineBi tnoch 01 n Wor 804年4月(第11巻);J .E.ビースター: もう 一言, 教育に 関 しての要望(Ei ,e in padagogi k i h t ) scher Ru c sc 」 01 ): 「ペ スタロ ッ チにつ いて. 編 者への 手紙か 804年11月 (第12巻); 教授 E .Ch .トラ ッ プ (Trapp iefen an den Herausgeber )」 ら (Ueber Pestalozzi .ln Br i o1 805年3月 (第13巻);ヒムリー: 「最初の教育, 並 びに 教育 書案内 (Ueberd eerste Erziehung; i h d b N i a L i t t )」 ne s o zenzurp agogsc en t eratur. 17.
(11) . 大. 崎 功 .雄. o1 805年3月 (第13巻); (執筆者不明); 「教育 書へ のもう 一 つの寄 与. 説教師 ヴィ ッ テ氏によ る ペ ス. , タロ ッ チの学園報告 (Nochein Beitragzum padagogischen Literatur: Berichtdes Hrn Predigers Wi t )」 t e. o1 ter 805年6月 (第13巻); トラ ッ プ: 「ペ スタロ ッ チに つ いて, 第二の手紙 (UeberPestalozzi .Zwei. Br i f )」 e 01 l i= 805年7月 (第14巻); トラッ プ: 「ペ スタロ ッ チに つ いて, 第二の手紙 (結) (UeberPes ta ozz. f (Besch ter Br i l zwei e uB)」 01 i 805年・ 9月(第14巻); 枢 密高 等財務官クレ ヴィ ツ:「南プロイ センの 学校制 度の 歴 史と現状(Ges ‐ ch lung des St dpreuBi i hulwesens tel chte und Dars schen Sc )」 01 8 0 6年6月. im.ob i thGOB1 (第1 ): 「下層 5巻);枢密高等検閲参事官ゴスラー (Gehe s ons ra er .Revi. i 民衆の 状態の必須の改善に ついて (Uber d e h6chstnothwendige Verbesserung des Zustandes der untern Volksklassen)」. 01806年9月 (第16巻); ゴスラー: 「下層 民衆の 状態の 必須の改善に ついて (結)」 01 810年1月 (第23巻);ヒムリー:「ペ スタロ ッ チの理 論と 実践 (Pestalozzische TheorieundPestal ‐. )」 ozzi sche Pr axi s lkreu 01 811年3月 (第25巻);フォ ン・カ ールクロイ ト伯 爵・ th): 「ペスタロ ッ チ及 び (Grafvon Kar ige Wor 彼の信奉者たちの教育 の本質についての正 しい評価 のために (Ein t e zur richtigen Beurthe‐ ’ iner Anhanger i lung der Erzi talozzi )」 ehungsWesens Pes sund se o1 811年4月(第25巻): 枢密顧 問官ヒムリ -:「ペ スタロ ッ チ週報における 教育 情報に 関する暫定的発 iges Wo 言につ いて (Ube tder Pestalozzischen Wochen Schrift,die Padagogischen rein vorlauf r 3 { 7 ) Mi lungen betref fend)」 t thei. 新ベルリン誌上の一連の論文では,180 3年2月の グルーナーのものが一番最初 で, 多くは1 804- 5年に集中している.この時期はペスタロ ッチ評価を巡る論争期と言ってよい であろう.この グルー 3 8 }は こ の 論 文 を 1802 年 12 月 15 日に 任 地 (Fr ナ ー( ) か ら発 して いる し, ま た 「一般 新聞 anken Igeme ineZe i (AI tung)一. 及び 「ドイ チ ャ ー・メ ル ク ー ル. (Deut )」 中 の 批 評 ( 1801 年 scher Merkur. 3 9 }を伝えてある l h l 12月以降) に言及したり, イート ( t ) の報告 ( 1 802年8月){ ,Johann samue プ ペ ことなどから, ロイセンにおいては1 801~2年頃から スタロッチは各層にかなり知られ始めて いると見られる. そして新ベ ルリン誌が, その後これを急速に広めたものと思われる. したがって, 18 00年代初頭を プロイセンにおける ペスタロ ッチの紹介期と言ってよかろう. ヘルバ ルトの 「直観 の ABC に つ い て の ペ ス タ ロ ッ チ の 思 想」も 1802 年 に 著 さ れ て い る し, 彼 自 身 1799 年 ブ ル ク ドルフ に ペ ス タ ロ ッ チ を 訪 ね て い る の で あ る.. さて, この紹介期のペ スタロ ッチは如何に受け入れられたか. 新ベ ルリン誌上の個々の論文の検 討は別の機会に譲ることとして, おおよその特徴を追っておきたい. グルーナーの論文は, ブルク ドルフの ペスタロ ッ チの学園を調査したイートの報告に言及し, それを「この教育上の発見(メトー デのこと…引用者) の 一般的重要性を述べ る」 のに最適なものと評し, さらにペスタロッチの事業 の偉大性と人格の素晴らしさを称え,,次のように述べる. 「……しか し 彼の偉大な事 業が意図した偉 大な目的を達成 するという ことは 人類の真の幸福によ り親 , , 密 で率直な関心を寄せる者すべ ての心か らの願 いなの であ る. ペ スタロ ッ チ自身は, 彼が厭 わしい長い年 月 の間, そのために 苦 しみ な がら献身してきた望 み以外に何も望ん でい ないの である. 彼 が収穫すること 18.
(12) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 (1) ではなく, 人類が彼の蒔いた高価な種 子の果実を享受するという こと, このこと が彼の望みなの であり, { 4 0 ) 彼は普遍的幸福 (す べての者の幸福…引用 者)・以 外何も知 らなか っ たの である.」. グルーナーに代表される受容の仕方は, ペスタロッ チの人道主義的見地と, それに基づく教授法 の評価からであった. そのうえでグルーナーは,「最高の, 一般的適用可能性に支えられているこの 教授法を導入することだけでなく, それを詳細に知り, 完成することもこれによって可能となる」 )」 を 一 般 に 知 らせ (ペ ス タ ロ ッ チ を 資 金 面 で 援 と して ペ ス タ ロ ッ チ の 「基 礎 書 (E1 ementarbucher. 助するためにも) それを購入することの必要性を強く訴えるのである. ところで, 如上の様な人道主義的見地と教授法の結合は何を意味している だろうか. グルーナー が紹介するイ ートの報告そのものでは どのように認 識されていたのか. 「若しこの教育が一度存在すれば, 地方には勤勉な農民が, 国家には有用な従順な公民が, 技術には熟練 な手が, 祖国には正義な防衛者が, 家庭にはよ い父と母と子と が, 徳には 友が, そして宗教には信奉者と 告白者とが欠けるよう なことは確かに なく なる であろう.」「互いに 下か ら上へと, また 上から下へと 適切. な計画の下になる学校における平等な国民教授,斬かるものは未だ如何なる文明国にも存在しないもので ある が, それは国家にとっ て評価 し得 ざるほ どの大き な恩恵 であるこ とは 明らか であろう. 併 し正に この 方法が多くの国民に 導入さ れれ ば, こ の方法が総ての此等の国民にお ける 人間の紐帯となり, 如何 なる 外 交的紐帯よりも無限に 強いものに なりは しまいか.……」「吾々 は斯く して初めて次のように信ずること が. 出来るであろう. 若し人間の醇化と幸福とが国民教育の本質的要件をなすということを吾々が知るなら ば, この人間の醇化・人間の幸 福化こそ 政府 が真に 真面目に考 えるべ きこ と であると. 国民教育に して若 し現状のまま であるならば, 君等の革命はた だ益々 深く 奴隷と貧窮とのう ちに国民を導き, 君等の憲 法は 蜘妹の巣であり, 君等の 改革さ れた立法は改善されて ない 人間の為に は厭うべ きもの である. ここ で言う ことは完全に特にスイ スに 当てはまる. スイ スには他 の如何なる国よりも国民教育 が必要 である. スイ ス 4 1 ( ) においてそれが何 処より も可能 である. その影響は何処よりも速か で有意義 で有益 であろう.」 イ ー トに お い て 把 握さ れ て い た の は, ペ ス タ ロ ッ チ の メ ト ー デ が 「自 然 の メ トー デ」 で あ り, 全 て i terr )」 の 根 底 に 採 用 さ れ 得 る も の で あ り, そ れに よ り, 若 者 が 発 達 の 「基 礎 教 授 (E1 cht ementarun. し, スイス革命を支える人間へと成長することができるというものであった. したがって, そこに は単なる人道主義的見地が見出されるのではなく, 「改革された立法」に相応しい「改革された人間」 の育成に 主眼があった.「互いに下から上へと, また上から下へと適切な計画の下になる学校におけ ペ る国民教授」 , 要するに一般的な国民教育の創出がそのために 是非とも必要であった. スタロ ッ チ のメトーデは, まさにこの課題に応えるものと理解されたのである. しかし, グルーナーにおいては, このイー トの把握は十分に理解されていただろうか. 我々はこ れを読みとることはできない. 人道主義的見地と教授法の結合以上のものをそこにはま だ見出せな いのである. だから, このような立場は, それだけ では, そのまま プロイセン近代化への展望の指 1 1世 自 身, 同 じ 標 に は な ら な い. 後 に 述 べ る よ う に, プ ロイ セ ン 国 王 フ リ ー ドリ ヒ ・ ヴィ ル ヘ ル ム1. 見解を主張しつつ身分制の堅持を並列するの であるから. 問題は, メトーデを教授の効果性, 合理 性の枠を越えて, 民衆の発達とどのように関 連づけてそれを把握するかにあった. 要するに, 問題 は グルーナーの言う 「人類の真の幸福」 の内容にあった. にも拘わらず (あるいは, そう であるか らこそ) , ペスタロッ チ教授法が, 教育内容の向上とそこから導かれてくる民衆児童の発達の可能性 を媒介として, 農民・市民層の階層 分解を助長するという結果を内包するとき, プロイ センにおけ 19.
(13) . 大 崎 功 雄. る如上のような人道 主義的 見地はそれ自体 分解し, 一方では後退が現れると同時に, 他方では明確 ことになるのである. な近代化の プロ グラ ムと結合した教育認識にと って代わられる、 グルーナーに見られるペスタロッ チへの初発の接近態度は,やがて プロイセン国王政府の対応(そ れは, メトーデの効率性・効果性のみに限定さ れ, 人道主義的見地は後退する) , そしてペスタロ ッ ′ チの評価を巡る論争へと短期間のうちに発展していく この1 803年以降のうごきについては稿を改 . めたい. (続く) (Aug.17,1989). 付記: [なお, 本稿は昭和63年度及び平成元年度文部省科学研究費 (一般 C) による研究成果の- 部 で あ る.]. 註 1 l he lm Si ( ) 拙稿 「『プロイセン国家における学校制度の構成に関する一般的法律案』 ( l 1 819年) とJohann Wi rn ve . 『 『 -- とくに 学校監督』 の制度と機構の解明を中心に -- そのH~( 」 ( 北海道教育大学紀要 (第一部C)』 第35 巻 第2号~第3 9巻 第2号 昭和6 0年3月~平成元年3月) 参照. iona l i l l i i l ) H.K6nig:ZurGeschichtederburger z ( 2 chen Nat er ehungin Deut sch andzwi schen1807und1815 ,Te i 2 v l k v l B l i i l S 4 S U v l k d h f 3 8一9 1 9 7 i h t rc t sgese zentwur vom Ja re s s en o segener erag, er n ; tverns nter , o un wi ,, i . hen 1819 i i l L i i, ver . tung neu herausgegeben von Dr te ミ に ; ner・Ei n. e e e ag der Durr ・~ . Gunnar Thi ・ , epzg. Buchhand l 3 ungl91 .WI .ケーニヒは, ティ ーレが 「ジューフェ ルンの教育法案はプロイセン国家の立法活動の頂 ,S 点にある」としていることに対し, 「法案」はプロイセン国家の活動の産物ではなく, プロイセンの民主々義的伝統. に帰属するものだと批判する. ティ ーレの評価は, 19 13年という出版年におけるプロイセン・ドイツ国家の反動性 を免罪する歴史の偽造だと批判するのだが, 首肯し切れない. 「法案」が単なる運動や思想のレベルではなく, 国家 改革という一連の行政=政策レベルの改革として産まれたところに歴史的意味があるのだから, ケーニヒの評価の 枠組は首肯できない. ティーレの問題は, むしろ, プロイセン改革以前と以後との連続性に力点を置き過ぎ,「法案」 の近代的特質を薄めている点にあろう. lag form und Revol i t ver tl967 l 1 3enzwi tgar t t K1 e s chen Re ut on )・R. K0sel eck:Preu ( 3 .158-9 . . Erns ,S ,Stut i i - und Fi i i al -,Pol nanzbeh6rdenvom 26 ( chtungderProvinz ze 4 ) Die verordnu略 wegenverbα繋紀rterEinr . i form de Dezember1808 t tvon Me er:Di eRe rverwal ‐ .1808 年 12月 26 日の州官庁制度改善令 第34条, in ,Erns ipz igl912 i i inund Hardenberk l t i ungsorgan sat onunt erSte agvonDuncker & Humbl ot nchenundLe . ver ,hd , S .202 .. 5 ( ) 最近のものとしては, 石井正司『直観教授の理論と展開』 明治図書 198 1 1 .159一18 , pp . テーマからも明らか なように, ペスタロッチ一主義のプロイセンにおける展開を見るところに主眼があり, プロイセン改革の論理にお いてそれをとらえるというものではない, 1 { )-1889 in hur1865 ter t ( 6 ) H. Morf:Zum Biographie Pestalozzis . 4 Bde . . ,斬J tz1894 ( 7 ) L. W.Seyffarth:Pestalozziin PreuBen. Liegni . i hodei l i tal t ( ozz schen Me n PreuBen 8 ) B.Gebhardt:Die Einfuhrung derPes n 1896 . Ber . 1 3 } 1910 ( } ( lhe lm von Humbo ldtundd i l dungswesens ingenl965 ( e Reform desBi 9 ) E.Spranger Vi . Tub . , I Augus l l in wur i her Pes ( 1 D E. Feucht: Car t ze i i O t t 1 3en tal er t tembe emberg s に ; ozz an smusin vvur rg und Pr eu ,e stut tgar tl928 . lhe 1m suvern l i i l 1za ter Fr 1 1 ( ) vv.Suvern:Johann vvi reformernachdem Ti s eden . Langensa . PreuBensschu l929 . i form・ Res tgar taurat tl939 1 ( 2 ) F.Fischer:Ludwig Nicolovius on . Stut . Rokoko.Re . lozz i lzal942 inebaum:Pes ta 1 ( ) H.Schi 3 ang eund Auskl . Ernt . Langensa . ,1810-1827 l dungs i l he lm vom Humbo l dts ( 1 4 ) C. Menze:Die Bi reform 杯J . Hannoverl975 . far i th:a ( 1 D B.Gebhardt:a 5 vern:a .0. .a .0. .a .32 .St .a .0. .32 . ,S.28-29 , L.V.Seyf ,S , VV ,S. 20.
(14) . プロイセン教育改革期におけるペスタロッチ教授法の導入過程に関する一試論 (1) far th:a 1 ( の B.Gebhardt:a . ・o. ・30一31 ・a .seyf ,S .a .0. , L.VV ,S.16‐17 A C M O s 1 5 5 3 7 の ( 1 .a ・ enze:a ・ ・ ・ , . , nm. formmin i ium Ste in l l 1 t ( め Das Re l i 1 1 s er sg e-Ver ag n1968 . hr . von 日.Schee .1 ,Bd ,Akademi .1136 ,Ber ・ ,S. なお, 簡潔な整理は, 石川澄雄 『シュタインと市民社会』 御茶の水書房 1 972年 22 1~2 2 3頁参照. ( 1 9 ) Ebenda .1137-1138 . ,S 偶の Ebenda ・1139 . ,s αD F,Fi scher:a ,26一28 ,a ,a ,oリ S , .0り S ,267 , B,Gebhardt:a. d 1一26にほぼ全文が収録されている. 以下, 特に断らない場合, 同書による. また, t:a 鰹 ) B r .Gebha .a ,0. . ,S ,2 F s cher:a .Fi .a .0りS .265一267 が 比較 的 詳 しい 解 説を 試み て い る. な お, フ ィ ッ シ ャ ー に よ ると, こ の 勅 令 (案) l he lm Antonvon) であ る ( tz ). の起草は 1808年9月 16 日 で, 起 草 者 は クレ ヴィ ツ (K1ewi ebenda .264 ,265 ,Wi ,S. ◎ 例えば, 後年のものであるが, 「起草さるべき一般的学校規則及びそれに基づくべき州学校規制に関する覚書」 lgeme i ne SChul ordnung und daraufzu grundende ( 18 17年8月 8日) (Pr o memoria,einezuentwerfendeal Provi ia l-Schu lordnung bet f fend i t te des Unt nz ) ,in re zgebung auf dem Gebi e err chtswes e Gese ensin , Di PreuBen laut i l i i tens tucke mi t Er ter t e1817bi s1868 erungenausdem Mi ni s um derge chen s . Vom Jahr . Ac , i iz ina l-Ange l i Unter t l i t S 1 プリ 7-1 r s-und Med ン キ ピア・ ch egenhe en 但 し ー は n1869 ジ フ ルン ュ ェ .Ber . . , , ,. レギュラティ ヴァも含めて, それらは特殊な学校規則であり, 現存するものは内容面及びその適用範囲の面で不十 分であるとして, 一般的学校立法の必要性を強調するものであった. 吃 ) B.Gebhardt:a 4 .a ・22 . .o. ,s i なお, こ こ に 言 及 し て い る ジ ュ ー フ ェ ルン の 提 案 は, 1808年 8 月31 日 の 「覚 書 (Promemor a)」 であ る (W.. 「 Suve 14 12一1 ) r n:a .a .○ . .1 ,S . これは, 後に詳述するが, ペスタロッチ教授法の導入と 全学校制度の徹底的で 内的な改革」 を提案している, このジューフェルンの提案への回答は1 80 8年9月16日に出された, もう一つ別の dnung 勅令 (or ) でなされている. なお, この勅令では, . 既に一般的な教育改革の必要と, その際の教育目的が, プロイセン改革の一環として雄弁に語られている. 「余の確信にしたがえば, 一般的兵役義務, 世襲隷農制の廃止, 所有権の拡張, 一般に昨年1 0月 9 日及び本年7月 27日の勅令並びに時代の精神が, 一般的な教育と学校の [改革 lwi …引用者]計画を要求するのである. ……その際重要なことは, 雑多な博識(Vi )なのではなく, 全ての e r s s e ey 者が必須のことを知り且つ行えること……, 彼が自己の職業を愛すること, 彼がそれを忍耐強く熱意をもって遂行 l tburge すること, 自己のためにではなく, 彼が公民及び世界市民として ( ) と して 属 し r a sstaats-und als Wel l l f t )の最善のために自己犠性を払って行うことなのである. 適切な知識と能力, 力強い意欲, ている社会(Ge s e s cha i l i i i t a t 市民精神 (Bu ) が, それゆえ学校が実現しなければならないもの-なのである.」 ) 及び宗教心 (Re rge r s nn os g i i t tnach.F,Fi (z ) er scher:a ,a ,0り S,264一5. 「余は貴下が余の精神で学校制度を熱心に支援することを信頼するものである 余は余の言明を規則として貴下 , に与えるものではなく,貴下の提案を更に期待するものであり,ただ本令を以て貴下の努力のために諸困難を前もっ て取り除くことを望むだけである. 1 79 8年陸軍参事官シェフナーが余に提出した提案は, その際良策であろう. 貴 k i 下(シュレッタ-…引用者)が彼(シェフナー…引用者)と宗務局参事官ポロウスキー(Bo )及びニコロヴィ rows. 錦. i ウス, ジューフェルン教授と教区監督官ヴァイス (We ) と相談されれば, その成果はまさしく目的に適ったもの s と な ろう.」 (B.Gebhardt:a ) .a .○. .26 ,S. 隣 ) この第1原則で述べる「教育と教授は国民の事項である.」に関して, 179 4年の一般ラント法の規定「学校は…… i 国家の施設である」 (第2編第1 2章第1条)との関連については一考を要するであろう. F s che rは, ALR の規 .F t t 定と同一だとする Ri 8 0 7年のいわゆる10月勅令以後に初めて可能となる諸身分間の相 e rのとらえ方を批判し, 1 違=障害克服を所与として考えられる 「国家の内的拡大」 ととらえている. 学校間の差別の廃止を中心内容とする F i 5 第1原則の理解としては, 正当であろう (F ) 736年のプ s che r:a . .a .○ . .26 ,S . もとより, この第1原則は, 1 リンキピア・レガラティ ヴァ以来の国王の施策に照らして現状を批判するという手法をとっているが, こうした手 法をもって改革以前との原理的接続ととらえるべきではない. むしろ, それは, 改革の正当性と緊急性の根拠とし て挙げているととらえるべきで, 改革の原理とは異なる次元の問題である. 19年のジューフェルンの普通教育法案」と幾つかの点で共通する部分がある. 特 師 これらの原則を通覧すると,「1 8 l に第1~第3原則は 「法案」 の基本視点と共通する. 又, 第5原則では 「一般的な学校税(Schu abgabe 」導入が示 Schu l be i t 唆されており, 「法案」 に お ける 「学校負担( )」の構想が既に見られるのである. 即ち, 「 ‐ ‐不平等な rage le i l t 学校基金の代わりに一般的な学校税を導入することが特に重要である. 学校制度は国民的事項 (Na ona ange 21.
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