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第二次世界大戦前後の台湾端午?龍船研究

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第二次世界大戦前後の台湾端午机龍船研究

黄麗雲 一 はじめに 台湾端午机龍船研究を大きく分ければ、終戦前と終戦後に時期を二つに区分することが できる。終戦前と終戦後の台湾端午机龍船の特徴は、「龍神信仰+清朝による開拓期と日本 統治時代の経済構造」及び「龍神信仰+国民党の非常時期と民進党による国際観光化の経 済構造」にある。それぞれが二回ずつ政治体制(帝国主義・軍事主義+独裁主義・民主主 義)と政策(拓殖・内地延長+大陸回帰・台湾独立)の変化に出会って、戦前開拓期と戦 後非常時期にある台湾社会の経済構造を裏付けることができる。また、古来の龍神信仰に よる宗教性の普遍と地域活性化の経済波及効果を反映している。 そして、第二次世界大戦前には台湾机龍船の早期の様子と酒の歴代の皇帝が実施した拓 殖事業に伴った折龍船の伝播と変遷について明らかにしておきたい。また、明治期、大正 期及び昭和期に日本人や台湾人の学者が研究した相関論文と資料が見える。三時期におけ る台湾端午机龍船の時代背景と政策による変遷を明らかにしておきたい。終戦後には、戦 後20年から国民党の「節約拝拝」政策による端午択龍船の変容及び民進党政府(2000・5・ 20)が民俗行事を国際観光化する政策の推進で、択龍船が性格的に様変わりした。 筆者はここで実証的な研究方法を用い、清代の地方志や日本統治時代の文献資料や1981 年から2006年まで実施したフィールド・ワークの調査結果について分析してみた。上記し た動機と目的で小論では第二次世界大戦前後におこなわれてきた台湾端午机龍船について、 その時代変遷と社会機能の働きを中心に模索してみたいと思う。 二 第二次世界大戦前の部 台湾択龍船についての研究は特にその早期の先行研究には未だ論文が見られない。しか も、早期と言っても、清朝期までにしか遡ることができない。それゆえ、参考に資する文 献も台湾と関係のある清朝地方誌の記録によるしかない。台湾地方誌の編纂は康照33年 に始められた。しかし、康照23年に編纂された『康照福建通志台湾府』によれば、台湾 府で行われた端午の節句は福州と同俗であるという記事が解読できた。それは康黙22年 に台湾は福建の版図の一部分に設置されたからであろう。.その後、台湾は一府三県という ように行政区画された。因みに康無期に『台湾府志』を始め、『諸羅県志』、『鳳山県志』、 ー 74 −

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『台湾県志』が次から次へと編纂されるようになった。乾隆期になると、かつての台湾地 方誌を重ねて修正したことがある。また、当時「首任巡台御史」である黄叔蠍により、『台 海使槌録』も完成した。それに台湾府台湾県に所属する膨湖鷹の風俗について『膨湖紀略』 という方誌も完成された。しかし、道光期において、『台湾志略』、『彰化県志』、及び新し く開墾された台湾北東地方についての『囁礪蘭志略』が編纂され始めた。また、光緒期に は、台湾全国を開墾した事業が殆ど完成したので、小さい地方についての方誌が見えてき た。『苗栗県志』、『恒春県志』、『苑裡志』、『新竹県志初稿』、『樹栂林志』がそれである。そ れらの地方誌の歳時五月項に出る台湾択龍船についての記事を下のようにまとめてみた。 I 清朝期の台湾「端午折龍船」 1康無期の方誌資料 (1)『康無福建通志台湾府』(全)士風  康照23(1684)年刊行 清明四月八日、及端午皆輿福州同 (2)『台湾府志』(二)巻七風土志歳時端午日  康照35(1696)年刊行 端午日、競渡雌云弔屈、亦以辟邪、無貴賎成買舟出道、中流請鼓歌舞凌波、遊人置竿 船頭、掛以錦旗、捷者奪標而去。 (3)『諸羅県志』(二)巻八風俗志歳時端午目  康照56年刊行 軍港、鍼水港等虞、則舟競渡、遊人雑唾、亦有置竿掛錦、奪標以去。 (4)『鳳山県志』(一)巻七風土志歳時端午日  康無58(1719)年刊行 端午俗間龍舟、遊人放彩、持豚酒餉之。 (5)『台湾県志』(一)巻一奥地志歳時端午日  康照59(1720)年刊行 五月五日、、、、、、、、近海居民筆問龍舟以為楽。 2乾隆期の方誌資料 (1)『台海使桂録』(一)巻四習俗  黄叔瑚  乾隆元(1736)年刊行 日初五至初七、好事者於海口浅慮、用銭或布為標、杉板魚船争相奪取、勝者鳴鍵為得 采、土人亦競為闘龍舟。 (2)『重修福建台湾府志』(一)巻六風俗歳時端午目  乾隆7(1742)年刊行 近海居民畢闘龍舟、錐日弔屈、亦以辟邪、無貴賎威買舟放中流、請鼓歌声凌波不絶、 或置竿船頭掛錦旗、捷者奪標鳴鈍而去、以為得采、三月泰、四月朔望、五月初一至初 五日、各寺廟及海岸各船、鳴縫撃鼓名目龍船鼓。 ー 751

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(3)『重修台湾府志』(三)巻十三風俗志歳時端午目  乾隆12(1747)年刊行 日初五至初七、好事者於海口浅慮、用銭或布為標、杉板魚船争相奪取、勝者鳴鈍為得 采、土人亦競為闘龍舟、謂至一年旺相、以上類啓志。 (4)『重修台湾県志』(二)巻十二風土志風俗  乾隆17年刊行 五月五日。中略。近海居民畢闘龍舟以為楽。土人亦号日間龍舟。 (5)『重修鳳山県志』(一)巻三風土志歳時端午日  乾隆29(1764)年刊行 五月五日。中略。好事者干海口浅慮、用銭或布為標、三板魚船争相奪取、勝者鳴鈍喝 采、銃口闘龍舟。 (6)『潜湖紀略』(二)巻七風俗紀歳時端午日  乾隆36(1771)年刊行 端陽節。中略。又将小漁船、或小枯仔船、彩画五色、鳴鈍角勝謂之闘龍舟、好事者干 海口虞所、竪標招人、相奪其標、用紅布一幅、銀牌一面、或一二銭三四銭不等、銅銭 数十文、用紅縄串成一串、奪得者以為得彩。 (7)『続修台湾府志』(二)巻十三風俗一歳時端午日  乾隆39(1774)年刊行内容は『台 海使桂録』と異なるところはないので、省略する。 3道光期の方誌資料 (1)『遺光福建通志台湾府』(一)風俗歳時  道光9(1829)年刊行 歳時項五月五日の龍舟競漕についての記載はない。 (2)『台湾志略』(全)巻一風俗  道光15(1835)年刊行 端午戯龍舟、懸蒲文祓除。 (3)『彰化県志』(二)巻九風俗志歳時  遺光16(1836)年刊行 五月初五日。中略。近海虞、作龍舟競渡之戯、兼奪錦標、先是初一日、以旗鼓迎龍頭、 沿門歌唱、日採蓮、所唱即採蓮曲也、寺廟海船、皆鳴鈍撃鼓謂之龍船鼓。 (4)『喝巧蘭志略』(全)巻十一風俗志民風  道光17(1837)年干昭子 端午節。中略。沿渓上下、以小駁船或漁舟競闘勝負、好事者用紅綬旗為標、挿諸百歩 之外、令先奪者鳴録喝采、蓋龍舟錦標之遺云。 (5)『囁嘱蘭廟志績補』歳時の記載無  道光18(1838)年刊行 4光緒期の方誌資料 (1)『彰湖療志稿』(二)巻八風俗紀歳時  光緒18(1892)年刊行 同『彰湖紀略』  乾隆36(1771)年 (2)『苗栗県志』(全)巻七風俗考歳時  歳時五月五目の項に龍舟競 ー 76 −

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槽の記載は無い。 光緒19(1893)年刊行 (3)『恒春県志』歳時の記載無  光緒20(1894)年 (4)『彰湖廟志』(二)巻九風俗紀歳時  光緒20(1894)年刊行 同『彩湖紀略』  乾隆36(1771)年 (5)『苑裡志』(全)風俗考歳時  光緒23(1897)年刊行 五月五目為端陽節。中略。他虞有闘龍舟之設、惟苑裡之港、前有挙行、今廃己久、人 猶著談及之。 (6)『安平県雑記』(全)節令  光緒23(1897)年刊行 日五月初一起至五日、寺廟及海岸各船、鳴鈍撃鼓名目龍船鼓、好事者於港口、結巾扇 等物為標、別小船争相奪取、土人亦競為闘龍舟。親友往来賀、略如元旦。挿布為標、 漁舟競取、日「門龍舟」。 (7)『新竹県志初稿』(全)巻四風俗考間俗  光緒24年(1898)刊行 濱海作競渡戯、郊舗送標到港、奪標者以標所緊玉環、銀標、播植等物奨之、観者冠蓋 如堵云。 (8)『樹柁林志』(全)風俗考歳時  光緒24(1898)年刊行 五月五日。中略。海濱則以龍舟作競渡之戯、而樹柁林堕不近海港故無此段光景。 以上の外に、嘉慶期の『績修台湾県志』及び成豊期の『囁蠣蘭療志』と同治期の『淡水 廊志』などによれば、「端午択龍船」に関する記載は殆どなく、あるとしても簡略なものに すぎないので、上記の乾隆期や道光期と大差はないと推測できる。 Ⅲ 日本統治期の台湾択龍船 中日馬閲(下関)条約の実現で台湾は1895年から日本政府に管理所有されるようにな った。1944年に太平洋戦争で日本は敗戦したので、50年間の台湾統治期が終結した。50 年の間に日本政府は先ず内地延長計画を実施して、台湾建設に投資した。その中に、台湾 机龍船という習俗行事は長崎ペーロンと同一視されていたので、台湾本地習俗として禁止 されず、逆に日本風を混ぜて盛大に催されるように変わった。とりわけ、大正期になって からは官方の行事として利用されたこともある。ただし、端午の日に限らない異例があっ た。また、競漕自体が請負的性質のあるものになった。以下、研究書籍の中に見る「端午 − 77 −

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択龍船」資料と官方資料の中に見る机龍船記録をまとめて示してみます。 1研究書籍の中に見る「端午択龍船」資料 日本統治期(1895−1944)に日本政府は清朝のように台湾各地方についての地方志を編 纂しなっかた。だがしかし、台湾事務局によって、台湾事情を記録した文献を残してあっ た。それは清朝期に残したあらゆる地方志よりも台湾「端午択龍船」について詳しく記録し てあった。その文献の外に、日本人や台湾人の学者が研究した論文と資料が見えた。明治 期、大正期及び昭和期に見えたそれぞれの関係資料を大体次のように集められた。 *明治期(1868−1911) (1)『台湾事情一班』上巻(台湾事務局 中村印刷1898) 「5月5日。前略。濱海沿江ノ地ハ龍船二乗シテ競争ヲナシ彩船鼓楽弦管歌声酒ヲ載せ 妓ヲ携フルモノ江中二填満ス。両岸ノ観者堵ノ如シ其競争ノ旗ヲ奪フ時二於テハ人声鼎ノ 沸クガ如ク極メテ熱闘ス。中略。初一日ヨリ五日二至ル各廟ハ木ヲ以テ龍船頭ヲ製シ、拾 出シテ街二遊フ。従フニ彩方、親鼓、音楽ヲ以テシ、且ツ行キ歌フ。之レヲ龍頭船歌ト云 フ。香ヲ焼シ燭ヲ燃シ紙烏ヲ焚キ爆竹ヲ放チテ之ヲ祀ル者アリ。紅紙ヲ以テ銭ヲ裏ミ之ヲ 献スル者アリ。後略。」とある。 (2)『董風雑記』(佐倉孫三 国光社 国光書局1903) 「嘉島亦有端午之事。称日祭屈原之憂云。中略。大人則称闘船。壮夫八九人。乗軽肘。 試競漕。突然我短艇競走者也。而其挙動最究劇烈。或翻旗職。或鳴鼓鋸。観者歓呼。声如 雷露。可謂壮挙臭」とある。又、評日:「唯至其軽肘競走之事。則亦尚武之一端臭0」 (3)『膨湖風土記』(井田麟鹿 東京 以文館1911) 「陰暦五月五日、小漁船に五色を彩り、鳴録したり、角勝したりすることを閂龍舟とい う」とある。 *大正期(1912−1925) (4)『董湾』(武内貞義 台湾日日新報社1914) 「前略。臥龍船に用ひる船体は細長くて、外側には龍を描いてある。一に闘龍船ともい ふ。船は二又は三隻で一隻の漕ぎ手は十五名乃至三十名、鈍を鳴らして拍子をとる。権を 小形で両手を以って水をかく。出発点に集まり合図により漕ぎ始め決勝点に達して竹竿の 先端に挿しある旗を抜き取ったものを勝ちとする。市街地に近い地に行はれる。‡/絹巨船に − 78 −

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は観客も航路外に船を浮かべ又は陸上で鼓嘆声援をなし、競が終わると宴を催す。択龍船 の根元は屈原の塵を慰めるにあるも、台湾では水鬼(溺死者)を慰め溺死の難を免れんと するの思想に変じている。されば必ずしも五月五日前後と限らず溺死者頻発するときは随 時に之を行ふ。而して比の技は現在は一種の請負的性質を帯び、他地方の招きに応じて謝 礼を受け、観覧冨豪よりの賞を得るを目的とするものがある。」とある。 (5)『台湾風俗誌』(片岡巌 台湾日日新報社1921) 「前略。この日土人机龍船と称し、船を江に浮かべ盛んに競漕の技を演ず、龍船とは舶 先に龍頭あり、櫨に龍尾あり、船体に龍鱗を画きたるを以って名あり、一船の漕ぎ手十五 .名より三十名許り、盛んに稀を鳴らして進む、一回の競漕は二隻乃至三隻を以って行ふを 定めとす、この時観覧者、雲霞の如く真に壮観を極む、蓋し楚の屈原が坪羅に投じて死せ るを弔ふに出づといふ。」とある。 *昭和期(1926−1945) (6)『台湾民族性百談』(山根勇蔵 杉田書店1930) 「台湾人の間では、陰暦の五月五日を五月節といひ、又は端午節と称して、お祭り好き の台湾人のことであるから、例によって爆竹を放ったり、香を焚いたりしてお祭りをする のである。椋を作って食べたりなどもする。中略。台湾でも旧暦の五月五日に、折龍船を おこなふことは、北部にも南部にも毎年同じことである。」とある。 (7)『台湾冠婚葬祭と年中行事』(鈴木清一郎 南天書局1934) 「五月五日に「択龍船」の催しがある。中略。重湾に於ては淡水河及高雄港にて為すも の最も盛大で、近郷よりの観覧者頗る多い。元来は五月五日に行ふを例とするも、近来は 其の前後に於ても之を行ふやうになった。何れも優勝旗又は金牌を優勝者に贈るのである。 近来は龍船を用ひず単なるボート競漕にするのもある。」 (8)『競渡考』(中村哲 第四巻 第五号 武陵1944) 「五月の節句には台湾の各地でペイロン船と称ばれる舟の競漕が行はれる。一昨年の五月 士林の郊外でペイロン船の競漕が行はれるといふので、士林出身の知友に招待されたが、 相にく、時局柄、当日の競漕は取り止めとなり、それ以来大東亜戦争の進展と共に台湾で はペイロンの競漕は見られなくなった。」とある。 (9)『民俗台湾』(播洒禎「士林歳時記」第一巻六号 武陵1943) 士林街洲美の「端午折龍船」につき、 − 79 −

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「古老の話に「西仔叛進前就有机、西仔来台湾叛的年造新云々」(活仏戦争以前巳競漕が あった、フランス人が台湾に来攻した年に新しく造った云々)とある。亦日く。「西仔打無 関亦孫大人呼龍船来港尾机、鳴洲美勝十三庄所以有封船王的故事云々」(フランス人の攻略 空しく、亦孫開華提督は龍船を淡水に呼び来たりて競漕を行った。わが洲美は十三庄に勝 ったので封船王の故事がある云々)。中略。畏くも、聖上陛下が皇太子殿下に在せし御時、 台湾行啓の柳こは明治橋にて洲美の人の択龍船をご覧遊ばされたと承り聞く。亦、洲美の 龍船は台北橋付近にも行う事数回に及んだという」とある。 (10)『民俗台湾』(呉婿賊「折龍船」武陵1943) 「宜蘭河には、三、四隻の大きな舟で仕立てられた、台湾芝居の舞台が出来上がる。贅 をつくしてきらびやかに飾った舟には、芸者や役者の演芸と共に、賑やかな笛太鼓の音が 入り乱れて、さながら百花礎乱の有様である。その間を、襟の高い台湾服を着た賑やかな 娘達が、晴れやかに笑顔で舟に乗ってぬっていく」とある。 (11)『民俗台湾』(国分直一等「村の歴史と生活一中脛墓地の湖口を中心として一」 第三巻 第九号 武陵1943) 「又海岸地方にては菖五月五日に折龍船の合を催す。中略。錦の標を奪ふ数隻の龍船が 歓鼓のうちに力漕を続けたものである。」とある。 (12)『民俗台湾』(朱鋒「台南年中行事記」(中)武陵1943) 「台南城外の五条港口では五大姓(埠頭苦力、黄、許、察、虞、郭)が択龍船を推し拾 標を行う。」とある。 2 官方資料の中に見る択龍船記録と写真 (1)折龍船御台覧(高雄)『行啓記念写真帖』大正12(1923)年 (2)択龍船競漕『光栄の墓湾』大正15(1926)年 大正15年高松宮殿下・北白川宮大妃殿下奉迎記。御旅情を慰め奉りし、「折龍船競 漕」高雄築港桟橋にて台覧 (3)端艇競漕大会『高雄港勢展覧会誌』昭和6(1931)年 昭和6年5月1日の午後一時より新州庁前高雄川に於て合図、花火打ち上げと同時 に端艇競漕大会が開始された。 (4)折龍船余興活動(台南)「台湾文化三百年記念会」昭和6(1931)牛 ー 80 一

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昭和6年に「台湾文化三百年記念合」が台南で十日間開催された。余興活動の一つ として、折龍船が行われた。 (5)台北橋付近にて開催された折龍船競漕会『台湾大年表』昭和10(1935)年 昭和10年10月28、29、30日に台北橋付近にて択龍船競酒会が開催された。 さて、台湾「端午択龍船」の早期変遷についていくつかの点をまとめることができた。 要点は次の通りである。第一に呼び名の変遷である。第二に奪標提供者の性格である。第 三に龍船の様式である。第四に目標になる印である。第五に前段行事を行うこと。 大戦後の部 終戦後、台湾は国民党政府に管理されるようになった。蒋氏政権が中心になった台湾 は戦後の片付けと政策の更新で、20年間の行政整理期に入ったことがある(『台湾光復 二十年』1965)。習俗行事としての机龍船競漕も台湾各地方の都合によって、中止を復活 させた時期がそれぞれに違った。また、『基隆市志』(基隆市文献委員会1954 p4503) によれば、「前略。自中日戦争後未再挙行、光復後時輿時廃。」とある。つまり、終戦20 年後の台湾択龍船は毎年の端午の日に必ず行なわれたわけではなくて、ある地方では挙 行されたり、有る地方では中止された経緯がある。筆者は1981年に台湾「端午机龍船」 について研究し始めた。当時、台湾端午折龍船は中止される場合が殆ど無くなった。し かし、観光推進する意味で変身しつつある台北端午択龍船が見えてきた。以下、筆者が 2006年まで長年に亙って集めてきた実地調査とアンケート調査した成果を経緯、組織、 祭祀の面を中心に図表一から図表互までまとめてみた。事例としては大きいものしか取 り扱わないことにした。ここで筆者は清朝からの頂港、下港のわけ方に従い、大きく台 湾を北部と南部とその他のように区分して置いてみた。また、北部を北地域と西地域に 分けてあげた。そして、北部と対称させるために南部を南地域とした。それに、東地域 と離島である金門、馬祖、膨潮をその他としてみた。 1 台湾北部における机龍船 清朝時代、基隆と士林にある机龍船はそれぞれ漁民組織と宗親(林氏と郭氏)の生活共 同体行事として組織された。また、組織構造の背後に地理生態と生業の条件が根本的な骨 ー 81−

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組みとなっている。 図表一 北地域における臥龍船共同体事例の現状比較図 項 目 地名 台     北 淡    水 基   隆 ±   林 山  峡 現名 (台北 国際龍 舟賽) (淡水鎮龍舟 賽) (基隆漢底 龍舟賽) (洲 美 里 龍 舟 祭) (三峡龍舟 賓) 開   始 日本領台時代 1 9 8 1 清 1 8 0 0 清 1 7 2 1 終戦後 中   止 太平洋戦 争 な し 漁民多忙 期 太 平洋戦争 な し 復   活 1 9 7 4 な し 不  定 屈原 宮 (1979 建) な し スポ ンサー ①救 国団 町役所 郷役所 ① 宗親炉 主会 祖 師廟 委 員 会 ②獅子会 ③中華 民国総 会 区漁会 ② 屈原宮委員 会 /体育会 町役所 場   所 (訂淡水河 中興橋 ②淡水河 中正 橋 ③基隆河 大直橋 漁 会 近 くに あ る 淡 水河支流 漁港 双渓 河 三峡河 儀   式 簡式龍 王祭 簡式龍王祭 龍 王祭 龍 王祭 簡式龍王祭 祀 る  神 屈原 屈原、蝿祖 龍 王、鵜祖 屈原、蝿祖 龍王 目   的 無事平安 大漁祈願 、 無事平安 大漁祈願 、 無事平 安 無事平安 無事平安 祭 祀関係者 体育会 町長 漁 会理 事長 ① 林、郭宗親 体育会 クラブ委 員 職 員の代表 炉 主会 ② 屈原宮委員 町長/委員 総会組長 漁民 行 天宮 委員 祖師廊 委員 漁民組織にサポートされてきた基隆貢寮郷の机龍船にとっては、前段行事である龍王祭 の祭祀関係責任を持つ集団は昔は炉主会であったが、後になって、漁会となり、また直接 運営関係のある行天宮廟委員会になった。両方とも漁民メンバーを中心に組織されたもの である。そして、漁の生業にこだわっているので、龍神信仰とその支流である栂祖信仰が 当然に机龍船競漕の祈願対象となり、鎮祭神として祭られるに至った。また、林、郭両氏 の宗親に運営されている士林洲美里机龍船の祭祀主神は水仙尊王とされる屈原である。副 神として林氏の祖先である嫡祖を祭ることは勿論である。台湾光復後、立派な屈原宮が完 − 82 −

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成したが、その祭祀運営は宗親炉主会の外に、屈原宮管理委員会の手によるようになった。 毎年臥龍船の前段行事として古式龍王祭(鹿港のと少々異なる)がこういった祭祀集団に より営まれている。屈原が転格した水神信仰と祖先神が転格した媚祖信仰の混合で台湾一 般の龍神信仰という民間俗信となった。基隆と士林の机龍船にみる端午の生活共同体行事 とは単なる台湾の民間俗信である龍神信仰のモチーフだけであり、その競漕自体は漁村集 落の力を表現し、また宗親組織の構造を反映し、信仰単位の集団思想を露呈している。 図表二 西地域における机龍船共同体事例の現状比較図(一) 項 目 地名 桃    園 桃    園 桃     園 桃   園 現名 (龍渾龍舟 賽) (大 園龍 舟賽) (観音龍舟 寮) (八徳龍 舟賽) 開   始 1 9 4 0 1 9 7 1 1 9 7 5 1 9 8 1 中   止 大池水量 不足 海水浴場 汚染 海水 浴場汚染 近年 中絶 近年 中絶 復   活 不定 1 9 9 7 な し な し スボ ンサ 郷役所 郷役所 ロー タリクラブ 毎年違 う 国際青年 商会 育商会 観光協会 青 商会 場   所 観光大池 ①海水 浴場 ②釧頭 池 ③華興 池 観 音海水浴場 大南水 上楽園 儀   式 筒式龍王祭 簡式龍 王祭 龍 王祭 簡式龍 王祭 祀   神 天神 水神 関聖帝君 な し 龍 王 な し 目   的 無事平安 無事 平安 無事平安 無事 終了 祭祀 関係 者 郷長 商会代表 地方首長 育商 会 地方 首長 青商会 不定 ー 83 −

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一方、基隆(漁港)と士林(半農半漁)の祭祀と競漕事例は台湾における机龍船のモデ ルと見なすことができる。その他の北地域の台北机龍船は政治的要素が強い。淡水机龍船 は漁港の催し物であるので、基隆のパターンとほぼ同じである。三峡机龍船は台湾光復後、 政府の推進によりできたもので、士林と同じく廟委員会の管理になるが、政府の力が介在 していることから台北のパターンに近い。しかし、台北のパターンはもともと士林の支流 で、根本的な龍神信仰は変わらないと言える。士林にある「洲美里龍舟文化祭」は2004 年から旧の「士林洲美里龍舟寮」を祖形として変容したものである。「台北国際龍舟賓」も 1996年から旧名の「台北中正杯龍舟寮」を変名したものである。 桃園県の龍渾机龍船は西地域で最古のものであり、目本領台時代から始まった。催し場 所は関帝を奉る南天宮の池にある。従来の龍神を中心にした水神の外に、天神をも祭って いた。それを北地域の士林祭祀パターンの簡略化したものである。但し、祭祀と競漕の運 営責任者は地方の経済的リーダーによるものである。このような経済的リーダーの地方紳 士は血縁関係がバラバラで、宗親炉主会を組むまでの力を持たないので、代わりに商会を 組織し、政府の指導を仰ぎながら龍澤の命脈を握るほどの影響力を持っている。その中で、 端午机龍船行事はその生活共同体の現れであり、近年になると南天宮の地方観光事業の宣 伝手段にもなった。龍澤の観光趣旨に対して、大園の机龍船は最初観光協会の介入により、 海水浴場で催されていたが、一度釧頭池に場所を変更した。近年は政治家の介入によって 華輿池で行われるようになった。獅子会の青商会の斡旋によって、経費運営が行なわれて いるそうであるが、龍澤の組織性格と異なることはない。祭祀対象はごく一般の龍神信仰 の水神であり、簡式龍王祭を行なう。観音と八徳の机龍船行事も龍澤や大園のものと大体 同形式で、地方の観光事業を招来するためにあると言える。 図表三 西地域における折龍船共同体事例の現状比較図(二) 項 目 地 名 新       竹 田     栗 南     投 彰   化 現 名 (新 豊 郷 龍 舟 賓 ) (竹 南 龍 舟 賓 ) (日月渾 龍 舟 賽 ) (鹿 港 龍 舟 賽 ) 開   始 1 9 8 5 年 前 か ら 台 湾 光 復 後 台 湾 光復 後 清 朝 時 代 中   止 不詳 な し ① 資 金 不 足 ② 1 9 8 3 年 中絶 1 9 9 9 年 福 鹿 渓 整 治 復   活 不詳 な し 1 9 8 2 2 0 0 0 一 84 −

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ス ボ ンサ 県 社 会 課 町 役 所 郷 役 所 民 俗 芸 能 委 員 郷 役 所 地 和 宮 管 理 委 員 会 地 方 機 関 青 商 会 .△. フこて 青 商 会 な ど 場   所 ① 紅 毛 港 ② 池 和 宮 に あ る 池 中 港 渓 日月 滞 ① 福 鹿 渓 ② 吉 安 水 道 儀   式 簡 式 龍 王 祭 龍 王 祭 簡 式 龍 王 祭 龍 王祭 市巳る  神 王 爺 婚 祖 な し 龍 王 水 仙 尊 王 ・目   的 無 事 平 安 無 事 平 安 無 事 終 了 無 事 平 安 祭 祀 関 係 者 郷 長 ・社 会 課 職 員 町 長 政 府 機 関 首 炉 主 委 員 会 委 員 地 方 首 長 長 ・救 国 匝 ・企 業 団 体 日月澤の観光目的を除外すると、新豊郷、竹南、鹿港において行われている机龍船は前 述した士林や基隆や龍澤の事例と余り変わりはないと言える。新豊郷が王爺を祀って簡式 龍王祭を行う。王爺とは関聖帝君と同じく英雄の祖先神で龍神の転格とされる。唯一、言 及しなければならないのは鹿港の机龍船事例である。鹿港の龍王祭は清代からの古い由諸 をもっている。台湾光復後、台湾の民俗を発揚する使命を持っていたので、全国民俗芸能 委員会の下で伝統を維持し続けている。近年、さらに政府の指導によって観光の性格が強 く活動している傾向が見える。 2 台湾南部における択龍船 図表四 南地域における折龍船共同体事例の現状比較図 項 目 地名 嘉      義 台       南 高    雄 現名 (東石龍舟賽) (台南龍舟賽) (高雄龍舟 賽) 開   始 1 9 8 3 清朝 時代 日本領台時代 中   止 な し ① 1 9 0 0 年事故 ① 太平洋戦争 ②太 平洋 戦争 ③ 1 9 6 2 年事故 (訪港湾汚染 ー 85 −

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復   活 な し ① 1 9 4 5 ① 1 9 5 7 ② 1 9 7 5 ② 1 9 7 2 スボンサ 郷役所 ① 「三郊」貿易組合 市体育会 先天宮委員 会 ② 台南市商会 ③台 南市体育会 企業団体 場   所 東石港 ① 五条港 ① 高雄港 ② 安平運河 ② 愛河 ③ 左営蓮池塘 ④ 愛河 儀   式 簡式龍王祭 龍王祭 簡 式龍王祭 祀 る  神 五年千歳 巡海 元帥 ①龍王 媚祖 ② な し 目   的 無事平安 無事 平安 ① 無事平安 ② 無事終 了 祭祀 関係 者 県長 市長 ① 炉主会 委員会委員 鎮海宮 責任者 ② 市長 地方首長 安平 ⅨⅨ長 地方首長 地方 首長 企業団体首長 上に見る東石港の机龍船は基隆のパターンで説明できる。祀る神の五年千歳は王爺と同 格の神様で龍神の祖先神の転格と見なされる。また、台南の事例は安平机龍船の後身であ るので、鹿港の事例のように、歴史的・伝統的である。台南は台湾の古都として国際的な 観光事業の推進が狙われている。その一つとして台南の机龍船行事が近年政府の教育体健 課の下にある台南市体育課の指導を仰ぎ、昔の安平区五条港の盛況を復活させるつもりで、 鹿港とは異なる方向で伝統を守ることに努力している様子が見える。それに、高雄の事例 は日本領台時代に炉主会に斡旋された龍王祭のように古い形式であるのに、開催場所が四 回変更したことで、宗教儀式が徐々に簡略化されてきて、遂に龍王祭が完全になくなった。 昔の行事共同体は基隆のような炉主会組織であったが、現在は市体育会と企業団体の複合 組織である。高雄の机龍船は台湾の大都会である台北と違い、また台南とも異なる。 − 86 −

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3 台湾東部とその他地域における択龍船 図表五 東地域と其の他における択龍船共同体事例の現状比較図 項 目   地 名 台   東 台    東 花     蓮 宜     蘭 膨   湖 現 名 (蘭 峡 龍 舟 賽 ) (活 水 節 ) (鯉 魚 津 龍 舟 賽 ) (二 龍 村 龍 舟 賽 ) (影 湖 龍 舟 賽) 開   始 1 9 8 2 1 9 9 9 1 9 7 6 清 1 6 6 1 年 前 酒 16 65 年 前 中   止 1 9 9 9 な し 不 詳 ① 1 9 8 2 ② 県 政 府 の 干 渉 太 平 洋 戦 争 復   活 浩 水 節 と合 併 な し 県 政 府 企 業 団 体 1 9 8 3 1 9 7 9 ス ボ ン サ 郷 役 所 県 政 府 青 商 会 鯉 魚 渾 炉 主 会 県 体 育 会 漁 会 場   所 紅 頭 海 灘 椰 油 海 灘 森 林 公 園 簡 式 龍 王 祭 洪 武 蘭 江 馬 公 漁 港 儀   式 な し な し 龍 王 王 母 娘 娘 金 母 娘 娘 龍 王 祭 簡 式 龍 王 祭 祀 る  神 な し 婚 祖 無 事 平 安 無 事 終 了 関 帝 聖 君 海 神 目   的 漕 ぎ 技 見 せ る 漕 ぎ 技 見 せ る 委 員 会 委 員 地 方 首 長 企 業 団 体 首 長 無 事 平 安 無 事 平 安 祭 祀 関 係 者 郷 長 地 方 首 長 県 長 音 商 会 代 表 な ど 炉 主 会 会 員 県長 地 方 首 長 漁 会 代 表 台東の二事例とも原住民が中心に行う競漕行事であるので、祭祀儀式がなくて、漕ぎ技 を見せる競漕である。鯉魚澤の事例は龍津の事例に近い。王母娘娘と金母娘娘を祀って拝 むのも嫡祖崇拝の子宝と見なすことができ、祖先崇拝になり、龍神信仰の転格とみてもい い。二龍村の祭祀組織と競漕の催し方は独特で、村落共同体の性格が強い。特に龍頭主会 − 87 −

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(炉主会)による上村と下村の競漕で競争し合っている。その他の膨湖事例はもともと福 建系の机龍船行事であるが、台湾光復後、昔とはかなり異なる形になってしまった。漁港 で行なわれているが、基隆のパターンには当てはめられない。 四 終わりに 明末清朝初期からの移民歴史を織り込んだ台湾端午折龍船は後の台湾歴史と政権の変遷 によって、幾多変貌してしまった。清朝開発期には農耕儀礼と厄払い行事として活躍した。 目本領台時代の50年間においては、最初有志者や川辺の労働者間の競技として企画され た盛況のある見物であり、終戦前の最盛期といわれたが、太平洋戦争によって中止された。 戦後、蒋介石の統一政策によって、台湾択龍船の競技が軍隊の特訓として利用されること もあった。その時期に折龍船の競漕専用船がいくつかの漁港以外では殆ど形として統一さ れていた。しかし、蒋経国の軍事非常時期の解禁につれ、特に国民党政権末期の李登輝時 代になると、台湾各地で民俗行事と全民運動のモデルとして盛んに開催された。しかし、 民進党政権の陳水扁時代になると、台湾北地域における折龍船が観光パッケージ化され、 経済革新と国際宣伝のため伝統を守りながら観光パッケージや龍舟文化祭となった一方、 2003年には、高雄、宜蘭が夜間競漕を初めて実施し、国際観光客の夜間活動を開発した。 2005年に中国旅遊局が台湾を視察したことがあり、端午の龍舟競漕の体験活動は観光商品 として将来性があると思う。もう一つ台湾における仏教団体が海外へ拡大したことによっ て、旧端午の目に異国で龍舟競漕の遊び活動が行われることがある。2006年5月21日に 仏光山南アフリカ末寺の主催によって開催された「南非彩虹盃龍舟錦標寮」に南アフリカ・ ヨハネスブルグ協会とマレイシア支会は参加したことがある(「人間福報」2006.5.25よ り)。端午の節句の一大行事とされるドラゴンボートレースは、アジアでは台湾、日本の外 に大陸、韓国、香港、タイ、シンガポール、ラオスなどでも行われている。更に、最近西 洋のイギリスやアメリカやオーストラリアでも東洋の真似をして船の競漕を行なうことが あった。このように龍舟競漕は漢字文化圏に影響を与えただけでなく、現在、観光発展、 国際交流、世界平和を目指してその役割を果たしていくことが期待される。 − 88 −

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参考文献 1・黄麗雲1985「台湾における龍舟競漕の現状調査について」『日本学報』大阪大学 2002「ドラゴンボートレースの現状と観光開発の一考察−台湾龍舟競漕∴ 沖縄爬音巨船・長崎ペーロンを事例として」『旅の文化研究所』‖号 2007「台北州美里龍舟文化祭一屈原宮観光計画的期待−」『台湾風物』57巻 3期 台湾風物雑誌社 2008「屈原宮と台北州美里龍舟文化祭」『国学院雑誌』109巻1号 国学院 2008「台湾における「端午択龍船」の早期変遷について−清朝の方志資料と 日本統治期の相関資料を主に−」『教育実践学論集』9号 兵庫教育大学 2008『台湾における端午折龍船の研究一長崎ペーロン及び沖縄バーリーとの 比較を通じて−』博士論文 兵庫教育大学連合大学院 2・徐元民2000「龍舟競渡的歴史」『台湾龍舟競渡之伝承』運動季刊 行政院体育委員会 3・池田末利1978「龍神考一祖神の動物転格の一例一」『東方学』六 4・『台南州要覧』1938 台南州台湾日日新報社台南支局 5・『重修台湾省通志』巻三 第二章 第五節 〈五月〉 台湾省文献委員会 6・『桃園県志』巻二 人民志 内政部志書審核委員会審査 桃園県文献委員会編印 7・『桃園県議』1988巻五 文教志 第四章歌謡桃園県政府 8・『南海文献』1956第四巻上期台南県文献委員会発行 9・陳正祥1954『基隆市志』文物篇57番 基隆市文献委員会編印 10・『台北県志』1960巻七 民俗志 台北市文献委員会編印 11・『三峡鎮志』1993 三峡鎮公所印 12・『中国方志叢書』昭15(1940)日本・台湾総督府編 成文出版社 13・孫嘉生、醇紹元 光緒20(1894)「膨湖磨志」『台湾全誌』中央図書館台湾分館特蔵 14・台湾省政府新聞虞編1965『台湾光復二十年』台湾省政府 15・台湾経世新報社 大正14年(1925)∼『台湾大年表』台北 台湾国家図書館所蔵 16・台北市文献委員会1960『台北県志』巻七 民俗志 台北市文 17.伊能嘉炬 明34(1901)『台湾志』文学社 18.小川琢治 明29(1887)『台湾諸島誌』東京地学協会 19.賓藤四郎 昭10(1935)『安平港調査記』台湾総督府交通局 20.藤崎精四郎 大正7(1918)『台湾南支那事情』台湾案内社 − 89 −

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大正15(1926)年「折龍船競漕」高雄築港桟橋にて台覧

日拠時期五月端午淡水河龍舟競賽  台湾国家図書館所蔵 2000年台南龍舟賽の小型龍舟(筆者撮影)

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2001年台東活水節龍舟賽(主催者提供)

参照

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