2021年度 須磨学園中学校入学試験
国 語
第 3 回
(注 意) 解答用紙は、この問題冊子の中央にはさんであります。まず、解答用紙を取り出して、 受験番号シールを貼り、受験番号と名前を記入しなさい。 1.すべての問題を解答しなさい。 2.解答はすべて解答用紙に記入しなさい。 3.字数制限のある問題については、記号、句読点も1字と数えること。 4.試験終了後、 解答用紙のみ提出し、問題冊子は持ち帰りなさい。 ※ 設問の都合上、本文を一部変更している場合があります。一
次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。 日本でも、発達障害の人の就労を 支 し 援 えん する動きが始まってい ま す。 2 0 1 2 年 に I T 関 連 企 きぎょう 業 に 就 職 し た 伊 い 藤 とう 直 なお さ ん 28歳さい ( 取 材 当 時 ) の ケ ー ス を 紹 しょうかい 介 し ま す。 伊 藤 さ ん は、 小 学 6 年 の ときに高機能 自 じへいしょう 閉症 という 診 しんだん 断 を受けました。友達からは「 冗 じょう 談 だん が通じない」などと言われることもありましたが、大学まで は大きな問題もなく 穏 おだ やかに生活できていました。 壁 かべ にぶつかったのが就職活動です。面接で は A 臨機応変 に答え られず、 応 おう 募 ぼ 書類 も a シボウ ⌇ ⌇ ⌇ 動機や「将来どんな人物になりたい か」といった設問の答えがなかなか記入できなくて、つまずい てしまいました。 ■ 注 トーキル・ソーンさんが言っていた通り、自閉スペクトラム 症の人は言葉を文字通りに受け取り、自分を「盛って」発信す ることが苦手です。将来の見通しがつかないのに、将来の目指 す b ゾウ ⌇⌇ について書くことは、伊藤さんにとっ て c ヒジョウ ⌇⌇⌇⌇ に難し い課題でした。 障 害 者 自 立 支 援 セ ン タ ー に 相 談 し た と こ ろ、 「 ア 普 ふ 通 つう の 就 職 活 動は難しいのではないか 」と言われ、精神障害者保健 福 ふく 祉 し 手帳 を取得することになりました。さらに、地元の精神科の医師に 支援機関 が d ウンエイ ⌇⌇⌇⌇ する就労移行支援サービスに通うことを 勧 すす められました。 そこでは、就職準備のトレーニングや企業での体験実習がお こなわれていました。伊藤さんは、グループワークを通じてコ ミュニケーションを学んだり、ビジネスマナー の e ケンシュウ ⌇⌇⌇⌇⌇ を 受けたりしました。 「それまでは、自分が思っていることと反対のことを言われる と、真っ向から否定してしまっていたんです。でも、それでは いけない、ということをグループワークのなかで学びました。 なるべ く イ 同意、同調し、補足というかたちで自分の意見を付け 加える ことを心がけるようになりました」 (伊藤さん) 伊藤さんは、とにかく早く就職したいという思いを 抱 いだ いてい ました。きちんとした仕事に 就 つ き、安定した収入を得て、実家 の家族を支えたいと考えていたのです。 【 Ⅰ 】、就労移行支 援サービスに通っている間に、現在働くIT関連企業を紹介さ れたときは、職種や仕事内容にはこだわらず就職することに決 めました。 この会社はそれまで、身体障害のある人を採用したことはあ りました。しかし、発達障害のある人を採用したのは伊藤さん が初めてのケースです。 伊藤さんは就職した当初、自閉スペクトラム症の人がよく 陥 おちい る「適当にやっておいて」の 罠 わな にはまってしまいました。当時 の f ジ ⌇ ョウ ⌇⌇ シ ⌇ で あ る 窪 くぼ 田 た 妙 たえ 子 こ さ ん か ら、 「 植 木 に 適 当 に 水 を や っ ておいて」と言われた際に、下の受け皿から 溢 あふ れるほど水をや り続け、 床 ゆか を水 浸 びた しにしてしまったのです。 伊 藤 さ ん は「 適 当 」 な 量 が ど の く ら い か わ か ら ず、 「 土 が 完 全に 湿 しめ るまでやればいいだろう」と考えました。土の表面を見 ていると、なかなか水が十分に行き 渡 わた っているようには見えま せん。じょうろでどんどん水をやっているうちに、下の受け皿 から水が溢れてきました。しかし土ばかり見ている伊藤さんは そのことに気づかず、水をやり続けました。 窪田さんは 、 ウ どうして溢れているのに水をやり続けるのか わ からず、とりあえず水やりをストップさせました。伊藤さんに 「 適 当 に 水 を や っ て 欲 ほ し い と 言 っ た ん だ け ど ……」 と 言 う と、 伊藤さんは「適当、というのはどういうことでしょうか」と聞 きました。そこで、窪田さんは「適当」では通じないのだ、と いうことを実感したのです。 「 自 分 の 指 示 が B 曖 あいまい 昧 だ っ た ん だ、 と わ か り ま し た。 そ こ で 以 前、支援機関の人から『自閉スペクトラム症の人には ※ を使って具体的に物事を伝えたほうが通じやすい』とアドバイ スをもらっていたことを思い出したんです。その場にコップが あったので、 『この植木にはコップ1 杯 ぱい の水をあげてください』 とお願いし直しました。すると、それからきちっと、同じ曜日 の同じ時間にコップ1杯の水をやってくれるようになったんで す。ほかの 植 うえ 木 き 鉢 ばち も大きさに合わせて、コップ2杯、コップ5 杯 と 水 の 量 を 決 め ま し た。 そ う し た ら、 う ま く い き ま し た 」 (窪田さん) 水を溢れさせてしまったのは1回だけです。それから5年、 伊藤さんは欠かさず観葉植物に水やりをしています。観葉植物 は、伊藤さんが入社する前よりもいきいきと 茂 しげ るようになりま した。 この入社早々の一件によって、窪田さんやほかの 同 どうりょう 僚 は エ 伊藤 さんに対してどう対応したらよいのか よく考えるようになりま した。入社から1ヵ月は、支援機関の担当者に相談しながら特 性を理解していきました。 仕事の指示の出し方も、曖昧さを極力なくし、具体的に言う よ う に な り ま し た。 【 Ⅱ 】、 早 く や っ て 欲 し い 仕 事 に つ い て、 「 急 い で い る 」 と い う こ と を 伝 え る だ け で は ま だ 曖 昧 で あ り、 「 〇 〇 時 ま で に や っ て く だ さ い 」「 今 す ぐ 始 め て く だ さ い 」 といった指示をしています。 伊藤さんはマルチタスクが苦手で、仕事の優先順位を決めら れなくなることがあります。そういう場合は、複数の仕事を同 時 に 指 示 せ ず、 一 つ 終 わ ら せ た ら そ の 次 の 仕 事 を 指 示 す る な ど、順番に伝えるようにしています。 【 Ⅲ 】、一番先にやる べきなのはこの仕事、次はこの仕事、と紙に書いて明示するこ ともあります。 変化に対応できない、という特性もあるため、 突 とつぜん 然 の指示は 避 さ けるようにしています。固定業務以外の単発の仕事がいくつ か入ってきたときには、仕事の順序を明確に指示し、勤務場所 や仕事内容を細かく決めます。また、時間を区切って進めたほ うがいい仕事は、ストップウォッチを使って作業時間を 10分単 位で計るなど、伊藤さんに合ったやり方をいろいろ編み出して います。 伊藤さんは、得意なことと不得意なことがはっきりしていま す。 得 意 な 仕 事 は、 デ ー タ 入 力 や 数 字 な ど の チ ェ ッ ク 業 務 で す。パソコンに書いてある 15桁けた くらいのシリアルナンバーもす ぐに覚えることができます。経理の数字チェックもほとんどミ スがありません。領収書の金額と 申 しんせい 請 金額が少しでも 違 ちが ってい たら、それを見つけ出すことができます。もともと鉄道が好き で 詳 くわ し い こ と も 、 経 費 精 算 の チ ェ ッ ク 業 務 に 活 い か さ れ て い ま す 。 「 彼 かれ は C オールマイティー ではないけれど、いくつかの能力にす ごく 秀 ひい でている」と窪田さんは言います。 「ファイルを少しのズレもなく番号順に並べたり、私たちがダ ブルチェックでも 見 み 逃 のが したようなミスを見つけ出したりできる んです。それは、本人にとってはなんでもないことなんですよ ね。でも、私は 素 す ば 晴 らしいと思います。また、彼は本当に 素 す 直 なお で、正直で 一 いっしょうけんめい 生懸命 仕事をしています。その姿勢は、見習わな ければいけないと思います 。 オ 彼がいることによって、周りの人 たちにもいい 雰 ふん 囲 い き 気 が生まれています 」(窪田さん) (NHKスペシャル取材班『発達障害を生きる』による) 注 トーキル・ソーン … デンマークで自閉スペクトラム症の 人の就労を支援する会社を立ち上げた人物。の設問 問一 線部 A ~ C と同じような意味を表す言葉として最 も適当なものを後からそれぞれ一つずつ選び、番号で答え なさい。 A 「臨機応変」 1 一 いっちょういっせき 朝一夕 2 当 とう 意 い 即 そくみょう 妙 3 無 む が 我 夢 むちゅう 中 4 理路整然 5 用 よう 意 い 周 しゅうとう 到 B 「曖昧」 1 不 ふめいりょう 明瞭 2 不合理 3 未消化 4 無関心 5 無分別 C 「オールマイティー」 1 活発 2 温和 3 勤勉 4 優 ゆうしゅう 秀 5 万 ばんのう 能 問 二 【 Ⅰ 】 ~ 【 Ⅲ 】 に 入 る 言 葉 と し て 最 も 適 当 な も のを後からそれぞれ一つずつ選び、番号で答えなさい。 【 Ⅰ 】 1 さらに 2 また 3 むしろ 4 そのため 【 Ⅱ 】 1 しかし 2 しかも 3 ただし 4 たとえば 【 Ⅲ 】 1 逆に 2 だから 3 また 4 それでも 問 三 「 普 通 の 就 職 活 動 は 難 し い の で は な い か 」( 線 部 ア )とありますが、そのように言われるのはなぜですか。 その理由の説明として最も適当なものを次の中から一つ選 び、番号で答えなさい。 1 伊藤さんは、言葉を文字通りに受け取るので、面接にお いて冗談が通じないから。 2 伊藤さんは、自分の良さを強調して話したり、まだわか らないことについて書いたりするのが苦手だから。 3 伊藤さんは高機能自閉症の診断を受けており、普通の就 職活動をすることは難しいから。 4 伊藤さんは、自分が就労移行支援サービスを利用しなけ ればならないことに気づいていないから。 5 伊藤さんは、自分を「盛って」発信することが不得意な ので、ほかの人の将来の見通しを立てられないから。 問 四 「 同 意、 同 調 し、 補 足 と い う か た ち で 自 分 の 意 見 を 付 け 加 え る 」( 線 部 イ ) と あ り ま す が、 そ の よ う な 発 言 の例として最も適当なものを次の中から一つ選び、番号で 答えなさい。 1 たしかにあなたのおっしゃることはもっともです。しか し、そのやり方では成果が出ません。 2 あなたのおっしゃる通りだと思います。さらに○○する ともっと効果的だと思います。 3 あなたの意見に対して異議はありません。早く作業にと りかかりましょう。 4 あなたの意見には○○という視点がぬけていますが、ほ かの部分については正しいと思います。 5 あなたの意見に賛同します。ところで、○○については どうなっていますか? 問五 「どうして溢れているのに水をやり続けるのか」 ( 線部 ウ )とありますが、その答えを説明したものとして最 も適当なものを次の中から一つ選び、番号で答えなさい。 1 窪田さんが、伊藤さんの能力を過信してしまい、伊藤さ んの水やりをストップさせるのがおくれたから。 2 窪田さんの予想とは反対に、伊藤さんが土を完全に湿ら せる前に受け皿から水が溢れてだしてしまったから。 3 「 適 当 」 と い う 言 葉 を 伊 藤 さ ん な ら ば 理 解 で き る だ ろ う と窪田さんがあやまった判断をしてしまったから。 4 伊藤さんが、水やりに集中しすぎて窪田さんからの指示 を忘れてしまい、受け皿を見ていなかったから。 5 伊藤さんにとって「適当」という言葉は分かりづらく、 「土が完全に湿るまで」と 解 かいしゃく 釈 してしまったから。 問六 ※ に入る漢字二字を本文中から探して、ぬき出し て答えなさい。 問題は、裏面に続きます。
一
問七 「伊藤さんに対してどう対応したらよいのか」 ( 線 部 エ )とありますが、その答えを説明したものとして最も 適当なものを次の中から一つ選び、番号で答えなさい。 1 支援機関の担当者に相談しながら、伊藤さんの特性を理 解したうえで、電話などの業務をお願いする。 2 伊藤さんは同時に多くの業務をするのが苦手なので、複 数の業務をまとめて説明した後に、優先順位をつける。 3 伊藤さんの特性を理解し、困っていることがないかどう かいつも直接 確 かくにん 認 しながら業務を指示する。 4 伊藤さんの得意なことと苦手なことを 把 は 握 あく して、仕事に 優先順位をつけたり、細かく指示を出したりする。 5 伊 藤 さ ん は 突 とっぱつてき 発 的 な 業 務 が 苦 手 な の で、 単 発 の 仕 事 が 入ってきたときには伊藤さん以外の人に任せる。 問八 「 彼 が い る こ と に よ っ て 、 周 り の 人 た ち に も い い 雰 囲 気 が 生 ま れ て い ま す 」( 線 部 オ ) と あ り ま す が、 そ れ は なぜだと考えられますか。その理由を説明したものとして 最 も 適 当 な も の を 次 の 中 か ら 一 つ 選 び 、 番 号 で 答 え な さ い 。 1 伊藤さんにとってはなんでもないことだとしても、ほか の 人 が 見 逃 し た ミ ス を 見 つ け て く れ る 伊 藤 さ ん の お か げ で、仕事のミスを減らせているから。 2 自分の得意な業務において特に意識しなくても確実な仕 事ができ、実直に役割を果たす伊藤さんの姿勢が、周囲に も良い 影 えいきょう 響 をあたえているから。 3 データ入力などの業務をまちがえることなく進める伊藤 さんへの 信 しんらい 頼 が社内に生まれ、おたがいに信頼しながら仕 事ができる職場になっているから。 4 伊藤さんは、ほかの人と比べて苦手なことがあるため仕 事の能率は悪いが、素直で正直で一生懸命な仕事ぶりに、 周りの人たちは感心しているから。 5 鉄道が好きであるなど、人とはちがう特性を生かし、周 囲からの信用を得た伊藤さんのようになりたいと、周りが あこがれるようになったから。 問九 〰 〰 〰線部 a ~ f のカタカナを漢字で答えなさい。 a シボウ b ゾウ c ヒジョウ d ウンエイ e ケンシュウ f ジョウシ
次の文章は、 坂 さかぐち 口 安 あん 吾 ご 『 肝 かんぞう 臓 先生』の一節です。戦後、町 医者の赤城先生には、すべての 患 かんじゃ 者 が肝臓 炎 えん に思え、一生を 肝臓病患者の 治 ちりょう 療 にささげることを決意しました。以下はそ れに続く場面です。読んで、後の設問に答えなさい。 (なお、 現在正しいとされている表記と異なる部分がありますが、元 の作品の表記を尊重しました。 ) 一 いっかい 介 の 注 1 足の医者として 全 まっと うすべく志をさだめた上は、あくま で 臨 りんしょうか 床家 としての本分のみを果すべきだ。 粉 ふんこつさいしん 骨砕身 して治療に 当り、病人の苦痛をやわらげ、一日もすみやかな 治 ち ゆ 癒 にの み 注3 腐 ふ 心 しん して、 伊 い ず 豆 の辺地の何百人かの人々の手足となってあげるこ とが大切なのだ。 かく観ずることによって、先生は安心を得た。 否 いな かく観ずる ことによって、その時以来、さらに 逞 たくま しい 闘 とう 志 し に燃えたち、 診 しん 察 さつ を 乞 こ う人々のあらゆる肝臓の苦痛をやわらげんものと 堅 かた く心 に期するところがあったのである。 そこで先生は冷静の上にも冷静を重ねて例外なく 腫 は れている モロモロの肝臓をつぶさに観察し、一方に 慢 まんせいてき 性的 な進行性と、 一方に 甚 はなはだ しい 伝 でんせんせい 染性 のあることを 突 つ きとめた。家族の一人がこ の肝臓炎に 侵 おか されると、数年のうちに、家族の全員に伝染する ことも確かめたのである。 ア かくて先生はその 由 よ って来たるところに結論を得た が、これ ぞ戦争がもたらしたイタズラ 小 こ 僧 ぞう の 末 まってい 弟 の一人だ。コロンブス によってもたらされ た 注 4 スピロヘーテンパリーダが 忽 たちま ちにして全 世 界 を 侵 しんりゃく 略 す る に 至 っ た の も 戦 争 の せ い で あ る。 鎖 さ 国 こく の 別 天 地、 日 本 を 侵 略 す る に 最 も 多 く の 時 間 が か か っ た と は い え、 ヨーロッパの侵略におくれることたッた六十年で、日本人の鼻 を落しているのである。 日支事変によって、日本と大陸とに 莫 ばくだい 大 な人員物資の大交流 が行われ、大陸の肝臓炎が輸入されてきたのだ。はじめ先生は こ れ を 大 陸 カ ゼ と よ ん だ。 ス ペ イ ン カ ゼ が 心 臓 を 侵 し た よ う に、大陸カゼは好んで肝臓を侵すのである。元来肝臓炎は 風 か ぜ 邪 に 随 ずいはん 伴 して起りやすいが、肝臓病者がカゼをひきやすくもある のである。 か く て 大 陸 渡 と 来 らい の 風 邪 性 肝 臓 炎 は 今 や 全 日 本 を 侵 し つ つ あ り、赤城風雨先生の 診 しんりょうしつ 療室 に戸をたたく患者のすべての肝臓を 腫れあがらせているほどの 暴 ぼう 威 い をふるうに至っているのだ。 先生はこれを流行性肝臓炎と命名して患者に説明したが、町 の人たちにはオーダンカゼと言ってきかせるのが一番わかりや すいことを発見した。 その時以来、先生は 寝 しんしょく 食 をなげうって流行性肝臓炎の臨床的 研究に 没 ぼっとう 頭 した。そして数種の手当を 工 く 夫 ふう したが、患者はそれ によって急速に肝臓の痛みがとれるので、これをきき伝えて 訪 おとず れる肝臓病者が激増し、呼吸器病者 は A にわかに 影 かげ をひそめてし まった。 しかし先生の 憂 うれ うるところは、自らの肝臓病たることを自覚 する人々ではなかった。今や自覚することなく、大半の日本人 が流行性肝臓炎に侵されているのである。いかにしてこれを知 ら し め、 正 し い 治 療 を 与 あた え て や る べ き や。 先 生 は あ せ り に あ せった。 そ れ は イ 昭 和 十 四 年 、 お 正 月 、 某 ぼう 家 け に 於 お け る お 茶 の 会 の 出 来 事 だ 。 余興に福引があった。と、一人の 娘 むすめ がひきあてたクジが「 赤 ⌇ 城風雨先生 ⌇⌇⌇⌇⌇ 」 というのである。 先生が 驚 おどろ いたのもムリはないが、 一座の人々も目をみはり、そも何物が当るか と B カタズをのんだ のも当然だ。読みあげられた答えは四文字。 曰 いわ く「肝臓先生」 。 そ の 景 品 は 牛 肉 の ヤ マ ト 煮 に の カ ン ヅ メ 。 こ れ を 象 の ひ く 四 ツ 車 に の せ 、 長 い ヒ モ が つ け て あ っ て 、 ひ っ ぱ る 仕 し か 掛 け に な っ て い る 。 司会者が立上って、 「さて、この景品には一つの約束がついております。まずクジ をお当てになったお方がヤマト煮のカンヅメを赤城先生のオツ ムに乗せてさしあげます。赤城先生はオツムのカンヅメを落さ ずに象をひいて、三べん座を 廻 まわ っていただかねばなりません」 クジを当てた娘は、美しくて、しとやかで、この町で評判の お 嬢 じょう さんであった。事の意外に驚いたのは赤城先生とお嬢さん だ が 、 一 座 の 人 々 は ヤ ン ヤ 、 ヤ ン ヤ と 大 よ ろ こ び 、 大 カ ッ サ イ 。 お嬢さんも仕方がない。意を決して、カンヅメを赤城先生の 頭にのっけてあげる 。 注 6 サラバと先生も立上ろうとしたが、カン ヅ メ が 落 っ こ ち そ う で グ ア イ が わ る い か ら、 か る く 手 で お さ え、象をひッぱって静々と三度廻った。 拍 はくしゅ 手 カッサイ、鳴りも やまず。 記念すべき一日であった。 まこと に C ウカツ 千万な話だ。赤城先生はこの日に至って、自 分が町の人々に「肝臓医者」とよばれていることを、はじめて 知ったのである。 先生と肝臓炎との出会は、はじめから劇的 奇 き 怪 かい 性 突 と っ ぴ 飛 性をは らみ 、 注7 煩 はんもん 悶 、混乱 、 注 8 先生をして右往左往せしめてきた。ために 先生は骨をけずり肉をそぎ、したたる 汗 あせ に 血 けつるい 涙 のにじむ月日を 重ねたのである。しかも 尚 なお 、力足らず、患者は激増し、流行性 肝臓炎は日本全土を侵略しつつある 。 注9 慟 どうこく 哭 したい悲しさだ。 しかし、この日、鳴りやまぬ拍手大カッサイを 耳 じ だ 朶 にのこし て、 静 せい 坐 ざ 冥 めいそう 想 した先生は 、 ウ 深く心に期するところがあった 。こ れ 注 ぞ 10 神の告げたもうシルシであろう。慟哭をすて よ 注 。 11 狐 こ ぎ 疑 をす て よ 注 。 12 逡 しゅんじゅん 巡 をすて よ 注 。 13 汝 なんじ の力足らざることを 嘆 なげ くな。肝臓医者 とよばれることこそ光栄である。余生をあげ、血涙をしぼり、 骨をけずり肉をそぎ、汝の息の限り、肝臓炎と 闘 たたか え! 闘え! 闘え! 流行性肝臓炎と! 闘え! 闘え! 闘え! (坂口安吾『肝臓先生』による) 注1 足の医者 … ここでは、病人がいればどこへでも歩いて 向かう医者のこと。 注2 臨床 ……… 実 際 に 病 人 と 接 し て 観 察 ・ 治 療 を す る こ と 。 注3 腐心 ……… あることを成しとげようと、心をなやませ ること。 注4 スピロヘーテンパリーダ … 梅 ばいどく 毒 という病気の原因とな る病原体。悪化すると鼻が落ちるとおそれられた。現在は きちんと治療すれば治る。 注5 日支事変 … 日中戦争。 注6 サラバ …… それでは。 注7 煩悶 ……… なやみ苦しむこと。 注 8 先 生 を し て 右 往 左 往 せ し め て … 先 生 を 右 往 左 往 さ せ て 。 注9 慟哭 ……… 声を立てて泣き悲しむこと。 注 10 神の告げたもうシルシ … 神様のお告げがあった 証 しょうこ 拠 。 注 11 狐疑 ……… 疑問な点が多く、どうするべきか決心がつ かないこと。 注 12 逡巡 ……… 決断がつかずためらうこと。 注 13 汝の力足らざること … お前の力が十分でないこと。