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「金閣寺」に表れた美

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Academic year: 2021

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わし方である。 ﹁花はかぎりこそあれ、そ h けたる礎などもまじるかし。 人の御かたちのよきはたとへむかたなきものなりけり﹂︿ 野分﹀との一文は、玉童の美容を花に陣営えたものであるが 園芸家・植物学者等その道の専門家は別として、花の美を 強まで調べ、これこそ完全美の花とこのように断ずる人が 幾人あろうか、また、筆を執る程の人にしても、花の美を かくまで詳しく書き表わし得る人があるうか。 作者は植物に詳しいっ且つ、叡智を以て鋭く観察し、巧 みな筆によって、植物を物語中に活躍させている。前記、 薬の観察と使用の如きは、その瓶一致といえよう。

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-び 源氏物語が固文学史上でも、また、世界文学上でも誇る べき不朽の一大ロマンであることは、私が今更諜々するま でもないが、以上は植物に関する面からみた源氏物語であ

サ 。 。

豊富な知識と鋭い観察力の所持者である作者は、巧みな 筆致で物語を書いた。植物の面においてもまた然りで、物 いわぬ植物も、物語中の恋の成行に、人と人との蔦藤に、 人物の栄枯盛衰に色どりと潤いとを与えている o 源氏物語は、一千年もの昔に書かれた。しかし、今日我 々がこれを謹む時、旧新の用語の相違というハンディキヤ ツプがありながらも、なお今日に草せられたかの様な新鮮 な感じを抱くのは、物語中に織りなされる人と植物の深い つながりや密接な融け合い、かその一役を買っているからで あ ろ う 。 作者紫式部は、源氏物語中に、実に巧みに植物を使って いる。幾多の物語中でも、源氏物語程笠場植物、がその効果 を挙げているものはないのではなかろうか。

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本 美

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付 ﹃金閣寺﹂は昭和三十二ヰ一月から十月まで、﹁新制﹄ に 連 載 さ れ た 一 一 一 島 一 一 一 ト ー 一 才 の 時 の − 長 編 小 説 で あ る り こ れ は 昭 和 二 十 五 年 七 月 ・ 一

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早朝に起った金閣寺放火事例が、素 材となっている。作者と小林秀雄氏との対談によると、作 者は事件の詳細や犯人である青年僧の経歴などを約街に調 査していることが分る o 事実、主人公に与えられている条

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々 が こ れ を 謂 す ﹂ 眠 、 車 内 夕 、 p e 件や小説の時代背景は、ほとんど同じである o ﹁ー前略|火をつけたことは悪いとは決して考えない。 金閣の美しさを求めて毎日訪れる参観者の群をみるにつけ 私は美に対し、次第に反感を強くしていった。世の中の美 は日分にとって醜いと感じたが、半面美に対するねたみを 抑えることはできなかった。これは自分たち若い世代のも のが悪い環境におかれているためかも知れない。あるいは 自分のドモリからくる精神的な苦しみからかも知れないが この考え方が醜いと感ずると同時にこれを強く打消しこれ でいいのだという矛盾した考え方に悩まされた挙句、悩む 自己に解決をつけるため、社会革新の立場から実際行動に 移るべきだと決意した。﹂これは昭和一一十五年七月四日の 朝日新聞に載せられた放火犯の告白である。これが真の告 白であったかは分らないが、一二島はこれに翼を得て、この 一 一 言 葉 の 奥 底 に 潜 ん で い る も の を 措 こ う と し た の で は な い だ ろ う か 。 ﹁美に対するねたみか一抑えることはできなかった﹂こと また﹁社会革新の立場から実際行動に移るべきだと決意し たしこと、これが意味するものは﹁美の破壊﹂であり、﹁ 甘い界崩壊﹂のイメージである。そしてまた、一火をつけた ことは悪いとは決して考えない﹂という道徳観の問題に、 三品の食指が動き、﹁これは自分たちの若い世代のものが 思い環境におかれているためかもしれない﹂ということに 同 情 し た と も 云 与 え る o それは、三島自身の﹁人間形成期で あった二十才前後の青春﹂が、戦争と敗戦の日本の暗黒時 代であったという共通点から来ているのではないかと思わ れ る o それはまた、﹃金閣寺﹄の主人公と作者はどういう 関係にあるか、という問題も生まれて来よう。 仁 〉 戦争下における主人公と美の立場 主人公︵溝口、金閣寺徒弟︶が、人生で最初にぶつかっ た問題は﹁美﹂というものである。それは彼の父が教えて くれた未だ見たこともない﹁金閣﹂であった。巻頭第一行 にあるように﹁幼時から父は、私によく、金閣のことを語 つ﹂てくれたのである。しかし﹁私には自分の未知のとこ ろにすでに美というものが存在しているという考えに、不 満と焦燥を覚えずにはいられなかった。美、がたしかにそこ に存在しているならば、私という存在は、美から疎外され たものなのだ。﹂と未知の世界にある美に強い不満と焦牒 を 示 し て い る が 、 そ の 時 、 十 三 才 の 彼 に は 、 ﹁ 美 ﹂ ’ と い う も のがどれ位の大きさのものか、どういう形をしているのか 分らず、美︵金閤︶は心の中で次第に途方もなく輝き出す のである o モして初めて現実の金閣に触れた時から、太平 洋戦争を中心に少年の金閣へ対する感情も高まっていく。 それは、連合軍の本土空襲によって一層強固なものとな ってしまった。それまでは、京都市でも強制疎開が急がれて

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-いたが、少年には未だ実感として戦争が身近かになかった のである。しかし、夏休みが終って、工場へ勤労奉仕に行 くことになると、半日でも金閣の‘傍を離れることになる。 それが彼を不安にし、自分の留守中に﹁金閣は空襲で焼か れているかもしれない。﹂と思うようになる。 不動不滅の美の建築である金閣が、﹁灰になる﹂ことは ﹁滅び﹂を意味する。また、﹁減ひ﹂の可能性は一生﹂た おことを意味する。即ち、金剛不壊の金閣と少年とは、同 じ﹁生﹂を生きているという考えに達する。この考えは少 斗を虜にし、遠い世界での出来事のように思えた空襲も、 今ヤ彼と金閣にとっては、同じ危難となったのである o そ して、﹁いわば現象界のはかなさの象徴に化し、﹂唯の一生 物に過ぎなくなった金閣は、少年をはるかに超絶していた 位から急激に下降し、接近して,来たのである。 ﹁同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住 む陀界は同一の次元に属することになった。﹂とそう思う と、その金閣の悲劇的な美しさは一層増し、少年を喜ばせ たと同時に、彼が愛する美しい金閣とこの脆い醜い肉体の 持主の彼とが、同じ﹁火一によって、焼き亡ほされること も可能だ、つまり空襲によって、彼は金閣︵美︶と心中が 出来るということ。美と生死を共にすることが出来るとい う考えが、殆ど彼を酔わせたのである o こ の 考 え 、 か 、 最 後 の行為︵金閣寺焼亡︶にまで根強くもたらされたものと思 われる o この時から現実の金閣は、心象の金閣に劣らず美 しいものとなり、同次元に住むことによって金閣は主人公 を 受 け 入 れ た と 言 え る 。 , 同一次元にある今、金閣と生死を共に出来たら:::と、 彼にとっては戦争が勝とうと敗けようと、そんなことはど うでもよかったのである。彼はただ﹁生まれ変りたかった ﹂のだ o それは金閣の偉大な美に対して、自分があまりに 醜なる故か。それもあろうが、美に疎外される自分に恐怖 を抱いていたとも言える。﹁私は何ものかが私を殺してく れるのを待っていた o ところがそれは、何ものかが私を生 かしてくれるのを待っているのと同じことなのである。﹂ と、主人公は京都の空襲を待ち望みだした。 しかし、戦争はそれから間もなく敗け戦さとなり終っ た。︵主人公十六才の夏敗戦が彼に意味したものは、﹁絶 望の体験に他ならなかった o ﹂のは言うまでもないが、﹁ 断じて解放ではなかった。不変なもの、永遠なもの︵金閣 がそこに未来永劫存在するということを語っている、氷遠︶、 日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他なら なかった。﹂のである。 この考えは、三一島の告白小説と一般に言われ、また本多 秋五氏に﹁ここまであからさまに真実を書いてもよいか、 と思うほど赤裸々に真実が語られている o ﹂とまで言われ る小説、﹃仮面の告白﹄においても見ること、が出来る。

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-顎 醤 器 地 時 々 ! 一 F 英文で書かれた敗戦の降伏宣仏ビラを読んでから、一私 ﹂︵作者三島は終戦の年二十才﹀ば思う o ﹁ そ れ は 敗 戦 と いう事実ではなかった。私にとって、ただ私にとって、怖 ろ L い日々がはじまるという事実だった。その名をきくだ けで私を一一ぶるいさせる。、しかもそれが決して訪れないと いう夙に私自身合だましつ、、つけてきた、あの人間の﹃日常 生日﹄が、もはや否応なしに私にも明日からはじまるとい う事実だった。一と、﹃金閣寺﹄の場合と全く同じような 考え合述べている。 山北市の定、﹃金閣寺﹄においても、日常生活の復活と同時 に、向次元に住んで居た金閣の芸人も蘇り、﹁私﹂の醜を足 蹴にして再び金閣は、手の届かぬ以前よりもはるかに超越

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ぷ速に一民ってしまったのである o l l 未来永劫、不朽 不滅の美にコそして彼は一比類一川市く小さい醜い虫のよ ろになって一しまった。 山じ濯によって生まれ変ることの出来なかった少年は、自 分日身で﹁ J 新しき時代﹂を作らねぽならない。工場の指導 者であった士官は、公然と、問屋になることを宣言し、ト ラック一杯の物資を自分の家へ持ち帰った o 豪胆で残酷な 鋭い日をした士官、か、少今の日の前で悪へ向って駆け出す の か 1 けんたがら、少年はこの世の中が敗戦のため騒然とし、 混乱している時にどう生まれ変わるべきか考えねばならな か っ た 。 披 の 吃 り か ら 生 ま れ た 暗 い 性 格 か ら し て 、 自 ら 一 三 一 口 ぅ﹁新しき時代﹂への光明は、あまり期待できない。﹁世 間の人たちが、生活と行動で悪を味わうなら、私は内界の 悪にできるだけ深く沈んでやろう、﹂と思う o 手はじめに ﹁老師︵金閣寺住職︶に巧くとり入って、いつか金閣を手 に入れよう o ﹂また﹁老師を毒殺して、そのあとに私が居 据る﹂という一見他愛ないもののように思えるが、彼の﹁ 内界の思﹂の芽生えとして、あるいは金閣︵美︶へ対する 執着からしてみると、一種の底知れぬ無気味さを感じさせ られるのである o 眠れぬ夜、不動山に登り、彼は京都の灯を見ながら、 ﹁戦争がおわって、この灯の下で、人々は邪悪な考えにか られている。︵中略︶この無数の灯、か、悉く邪まな灯だと 思うと、私の心は愚められる o どうぞわが心の中の邪悪が 、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この日の前の おびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように/ ﹂と考える。これは作者自身の敗戦に対する反発かもしれ ないが、終戦前、主人公が空襲を夢みていた時、﹁美とい うことどけを思いつめると、人聞はこの世で最も暗黒な思 想にしらずしらずぶつかるのである。﹂と言っている。後 者は純粋な愛情の結果、同一危難である空襲によって、令一 閣と共に滅することを夢みていたので、未だ﹁悪﹂の思想 は芽生えていなかった。しかし、敗戦後の今、京都の灯を 見つめながら、﹁私の心の暗黒が:::﹂と言う時、すでに 一~.

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﹁私は内界の悪にできるだけ深く沈んでやろうノしと決心 した後でもあるので、﹁悪﹂の芽生えが十分に感じられ る。金閣への愛を保つためには、今や金閣を確実に自分の ものにするより他に方法はないのである。即ち﹁私の心の 時開示が・・・・夜の暗黒と等しくなりますように/しとい う﹁孜の暗黒﹂は、万物を包み隠し、万物を支配するもの として認識されているものである o ヘ サ ︵ 道徳上におげる﹁美と悪﹂の問題 この作品で私が疑問に感じたことは、道徳性の皆無とい うことだった。主人公を仏に仕えさせながら、作者はその 宗教的モラルをも表現していない。これは作者が意図した 同症ではなかろうか。 実在の放火事件を素材としたこの作品が、免れ得ない問 題は、放火事件そのものが持つ非人間的な反社会性である はずである。昭和二十五年当時の新聞を調べると、事実こ の事件が報道された時、世間は惇然とし犯人を非難し、同 情する者などいなかったようだ o 中村光夫氏は﹁彼︵放火 犯︶会小説の一主人公に選ぶことは彼の行為の反社会性を作 者がそのまま背負いこむこと﹂になる、と一言っておられ る 。 では何故三島は非人間的な犯人を主人公に選んだのか。 新聞℃はこの事件の犯人は﹁分裂型の男?﹂と、東大教授 談を載せていた。﹁﹃分裂型﹄の犯罪の特徴は、動機がは っきりしないのにその犯罪が極めて冷酷である。﹂という の よ に 。 この冷酷さは道徳性のないことを意味するの℃はない か 。 一 一 一 島 の 他 の 作 品 、 例 え ば ﹃ 獅 子 ﹄ や ﹃ 愛 の 一 渇 き ﹄ の 女 主人公たちによっても代表されるもので、あの残忍刻薄な 主人公は﹁金閣寺﹄の主人公にも通ずるところがある。こ れは、奥野健男氏が言われるように、三島が敗戦によって ﹁良心と呼ばれている超自我の消滅﹂を経験したというこ とからすれば、考えられないことでもない。 これが﹁一二島の仕事全体の底流にあるもので、彼にとっ ては﹁生活とは:::或る残酷な是認の決心﹂であり﹃人生 は見事に前提と目的を除去された形で現前する﹄ものであ る。そこに、彼にあっては、道徳の空位をみたすものは美 の 7てという事情があるらしい o ﹂ と 本 多 秋 五 氏 は 一 立 回 っ て おられるが、﹃金閣寺﹄において主人公の道徳性、が描かれ でいないことは、奥野氏、が言われる三島における﹁良心と 呼ばれている超自我の消滅﹂の精神が意図したものであっ て、本多民の言われる﹁道徳の空位をみたすもの﹂が、﹁ 金閣の美﹂ということになるのだ。﹁悪徳の誇示﹂とまで は行かないが、作者は主人公に﹁悪は可能か﹂という警句 を吐かせることで、道徳に対する作者自身の抵抗を表わし ているように私には思われる o つまり私の考えは、道徳性

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-の皆無は﹁悪行﹂を呼び、また同時に、道徳性の一空位は﹁ 美﹂によってみたされる。即ち、道徳性の空伎は﹁美﹂と ﹁思﹂によってみたされ、これらの交会において生じる現 象が、三島文学の根本ではないかということだ。 帥 三島芸術の根本思想 はとんど回避と見られる道徳性の問題、この道徳性の空 位に入り込もうとする悪、そして美、これを生んだ登場人 物の異形。これは﹃金閣寺﹄のみならず、﹃仮聞の告白﹂ ﹁愛の渇き﹂﹃青の時代﹄そして最近作の﹃美しい星﹄に 至 る 一 連 の 一 二 r品の歩んで来た思想過程であるかもしれな い。主人公たちの戦争に対する異常さ、美と愛に対する﹃下京 ム品、その根底に息づく﹁悪行一。すべてに共通する道徳観 の問題、主人公たちの冷淡や残忍ざもまたそれ九の異常、 回 一 ハ 形 で あ る こ と 。 こ の 一 二 島 の 根 本 思 想 を 奥 野 氏 は 次 の よ う に 一 一 一 日 っ て お ら れ る。一一一島の﹁人間形成期であった二十歳前後の宵春をまる ごとのみこんだ、戦争と敗戦の体験によって得たものであ る。戦争期、三島は自己のすべてを賭け、現実への一密着と思 想による抽象を繰返しながら、戦争とは何か、人間とは何か 世界とは何か、美とは、人生とは、死とは何かを終末の日 で聞い続けた。彼は戦争の圧縮状況の中で、現実とは何で あるかを知った。そして敗戦は一切の秩序の一解体であり、 人生の終末であり、世界崩壊であり、内部世界の、超’

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設 の消滅であることを体験した O L ﹁ここに彼はこの世にあ り得ぬ究極の美とロマンを、人間のはかなさ﹂合、そして そこから生まれる人聞の残忍刻薄なアンチ、ヒューマニズ ムが、敗戦の﹁孤独な密室ではくくまれ、次第に抽象的存 遍的な思想に転化されて行った。﹂この根本思想はつまり ﹁自己の一長術の粘とならない現実を強引に捨象し、日入だげ を、芸術的関心事だけを切り弘二うとする。一それは況完 から剥離である o ﹂﹁現実への出口を失伝った作名の忠想 は、表現に逆流し、芙の中に思想を塗りこめる。その忠担 は文学作品という梨空の表現世界によっての A 検 討 、 一 ﹂ れ 、 きたえられ一て来たのだと。 こういう三’片の芸術が意図すると−ごっに﹃金問守﹂のあ らゆる同組性は生まれたものと思われる。そして一二 r山 口 、 ﹁勺金問寺﹄にい旧いて白己独自の吐界をつくりあげ、思刊山 を 完 結 さ せ 、 そ し て 白 ら 焼 き 払 う 戸 一 と に よ っ て 、 前 川 上 の 世 十 一 ん を表現した。﹂のである。︵紙而の都合で論文前半のみ要 し た ο ﹀

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