25日(毎月1回25日発行)ISSN 0919-4843
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2002
こベる刊行会N0.114
部落のいまを考える⑮ 特権の要求から、共感の創出へ 一行政内個人情報保護をめぐる個人的な実験の中間報告山城弘敬
ひろば⑬部落問題についてなぜ書くのか
一曽野綾子さんの怒りに応えてすみだいくこ
全国水平社創立からちょうど入十周年。この三月末で、「法」が期限切れを迎えました。 各地とも思いの外、「静かな」移行で、あったようです。「既定の事実」視されていたことも あ る の で し ょ う が 、 「 法 と 制 度 」 が も た ら し た 、 部 落 問 題 を め ぐ る 状 況 の 変 化 の 大 き さ を 思わざるを得ません。 と は い え 、 「 同 和 問 題 解 決 を 目 標 に し た 特 別 措 置 」 が 終 了 し た に も か か わ ら ず 、 「 達 成 感 ・ 成 就 感 」 を 表 明 す る 人 が ほ と ん ど い な い の は ど う し た わ け か 。 や は り 閑 題 は 、 八 十 年 を 費 や し て な お 、 「 宣 言 」 を 越 え る よ う な 、 人 間 の 結 ぴ っ き 、 関 係 、 そ れ を 表 現 す る 言 葉 をわたしたちはっくりえていないということに帰着するのではないでしょうか。 この交流会では、「自分以外の何者をも代表しない」ということを前提に、「部落とは何 か」「部落民とは何か」をめぐる議論と思索が重ねられてきました。「人間と差別」につい て関心を寄せるみなさんの参加をお待ちしております。 全体討論のテーマ:「部落のいま一転換か終罵か」 話 題 提 供 者 : 山 本 尚 友 石 元 清 英 パ ネ ラ ー : 山 城 弘 敬 山 下 力 司 会 : 住 田 一 郎 日程/10月5日 出 141侍 開 会 18時 夕 食 19時 再 開 21時 懇 親 会 10月6日(日) 91侍 再 開 12時 解 散 I
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人間と差別をめぐって
日 時 /10月 5日 出 午 後2時 ∼ 6日(日)正午 場 所 / 大 谷 婦 人 会 館 〔 大 谷 ホ ー ル 〕 ( 京 都 ・ 東 本 願 寺 の 北 側 ) 京都市下京区諏訪町通り六条下ル上柳町215 TEL (075) 371-6181 交 通 /JR京 都 駅 か ら 徒 歩8分 、 地 下 鉄 烏 丸 線 五 条 駅 か ら 徒 歩2分 、 市 バ スJ烏 丸 六 条 か ら 徒 歩 2分 費 用 / A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) ご注意/※会場にはなるべく公共の交通機関をご利用のうえ、お越しください。 ※宿泊の方は洗面用具をご用意ください。 ※参加費は当日受付にてお支払いください。 申込み/ハガキ・FAXま た は イ ン タ ー ネ ッ ト で 、 住 所 ・ 氏 名 ( ふ り が な ) ・ 宿 泊 の 方 は 性 別 ・ 電 話 番 号 ・ 参 加 形 式 (A・ Bの い ず れ か ) を 書 い て 下 記 あ て に お 申 込 みください。 阿 吟 社 干602-0017 京 都 市 上 京 区 上 木 ノ 下 町73-9TEL (075)414-8951 FAX (075)414-8952 E-mail: [email protected]
締 切 り / 9月30日 働 五条通
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七条通 京都ヲワー0 .第1日目の夜には恒例の懇親 会を開きます。各地の名産・ 特産の持ち込み大歓迎ですの で、よろしく。部落のいまを考え る ⑮ 山城弘敬︵児童厚生員︶
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,し、 行政内個人情報保護をめぐる個人的な実験の中間報告共感の創出へ
今年三月初旬から、行政内の住民情報保護の取り組み に着手した。小さな規模の、個人的実験であった。 友人たちの手助けを受けながらも、定まった組織を作 ったわけではない。むろん既存の運動組織に依存もしな かった。きわめて個人的な行為である。 数の論理と組織神話の信奉者からすれば、このような 行為は、何の社会的影響も与えることができぬはずだ。 しかし、社会的な影響力という面では、それなりの成果 をあげている。すでに、 いくつかのマスメディアで、大 きく取り上げられている。これまで見落とされがちであ ったいくつかの問題について、 スポットライトを当てる ことに成功した。同時に、その改善策をある程度提示す ることができた。私の住む四日市市に限定した話ではあ るが、その改善策は現実化されつつある。 ここでは、こうした私の個人的な取り組みについて、 部落問題の観点をふまえた中間報告をしたい。 行政内部には、膨大な量の個人情報が蓄積されている﹀ それらは、固から市町村にいたるまで、それぞれに存在 し、管理・利用されている。話題の﹁住基ネットワー ク﹂は、日本に住む国民一人ひとりに、固有の番号をつ ふ ﹄ J、
一元的な管理を目指すものらしい。 私がここで、﹁らしい﹂などとあいまいに表現するの こベる 1がなく、詳しく知らないからだ。私の関心は、私自身の 手の届く範囲が中心である。行政内部の個人情報につい ていえば、市町村のレベルが関心の中心となる。 私自身が、市役所で働くという事情もあり、市内部に おける市民の個人情報の扱いのずさんさについては、以 前から幾度も耳にしていた。少なからぬ職員にとって、 住民情報を引き出す端末は、インターネットに接続され た端末と同じ気軽さで扱われてきた。 無論、良心的な職員も多数いる。実際、私のところに、 ﹁このようなひどい状態になっているから、何とかして ほしい﹂などという声が、幾度も聞こえてきた。私自身 も被害者であり、住民情報端末から引き出された私の個 人情報が、私を攻撃する材料としても使われてきた。た だ、どれも証拠がない。その是正を求めるのは、きわめ て 困 難 で あ っ た 。 ﹂うした状況の中で、私はあるキーワードをヒントと して、個人的な実験を試みた。それは、﹁自己情報の管 理権﹂である。この言葉は、﹁住基ネット﹂と一体であ りながら、成立することなく継続審議となった﹁個人情 報保護法案﹂をめぐる議論の中で知った。当初この法案 に対する批判は、﹁メディア規制﹂をめぐる論点が中心 ではあった。しかし、初期の段階から、市民自身の﹁自 己情報の管理権﹂もしくは﹁コントロール権﹂の問題と して、それが法案に明記されていないという批判も存在 し た 。 不勉強な私には、この﹁自己情報の管理権﹂がいかな る内容のものであるのかまで、理解することができなか った。どうやら、自分自身の個人情報の内容を確認し、 誤りがあれば訂正を求める権利を指すようだが、よくわ か ら な い 。 このような場合、﹁もっと調べる﹂派と、﹁自分で考え る﹂派に分かれるのだが、不精な私は後者である。ない 知恵を絞って、あれこれ考えてみた。 そこで思いついたのが、﹁内容の確認﹂や﹁訂正を求 める﹂という権利にとどめるのではなく、﹁自分自身の 個人情報がどのように利用されているか確認し、不当と 思われる場合は、その停止を求めるのも﹃個人情報の管 理権﹂に含めてもよいのではないか﹂ということだ。 石川貞夫は、﹁個人は、自己に関する情報の流れをコ
ントロールする権利を有している﹂と主張するが、その 具体的内容は定かではない。深瀬和敏の﹁プライバシー の積極的側面である自己情報コントロール権を具体的に 四つの請求権︵閲覧、訂正、削除、中止︶で保証すること により:::﹂との認識と、あまり変わらないとも思われ る︵共に﹁ジユリスト﹂九四六号より︶。 以前から感じていたことであるが、そもそも権利など というものは、行使しないと意味がない。行使しない権 利など、ないに等しい。 また、法律というのは、社会を統合する規範であって、 そこに書かれていない権利は存在しないとは限らない。 ある種の権利を、それが法に明記されていないとしても、 その正当性を主張する人が現れ、それを社会が容認すれ ば正当な権利として存在すると思うのである。 その権利に普遍性があり、かつ社会の容認が大きい場 合、法に明記されるとして、それにいたる過渡期もある だろう。法に明記されなくとも、その行使を正当化され うる権利があるということである。 だから私は、﹁個人情報の管理権﹂について、﹁その利 用実態を知る権利﹂や﹁利用の差し止めを求める権利﹂ を含むべきものであると考え、同時にそのわかりやすい 行使の形態を模索することとした。 ワ
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し 個 人 不 情 ツ 報 ト へのアクセスログに着目した。 ある程度の規模のネットワークシステムでは、ホスト コンピュータへの接続の記録がとられる。これは、シス テムの安全性の確保に絶対必要な措置である。故障やプ ログラムのパグなどの被害を最小限に食い止め、速やか なシステムの復旧のために必要なのだ。 住民情報ネットワークのアクセスログには、私自身の 個人情報がいっ、誰によって引き出されたかが記録され ているはずである。この開示を受けることが、個人情報 の利用実態を知る権利の第一歩と考えた。 四日市市には、﹁個人情報保護条例﹂と﹁公文書公開 条例﹂がある。前者では、行政内部の個人情報の開示と 訂正請求ができる。後者では、電磁的記録も含めて公文 こベる 書の開示請求をすることができる。この二つを利用し、 3私個人へのアクセスログと、全市民へのアクセスログの 開示請求をした。これが三月十二日である。 ﹂ の 問 題 が 表 面 化 し て か ら 、 一 部 の メ デ ィ ア は 、 ﹁ 四 日市市には、アクセスログの公開請求の制度がある﹂と 報じたが、これは正確ではない。四日市市の二つの条例 は、他の自治体のそれと比べて、特段に変わった内容で はない。アクセスログの開示を認めるとも、認めないと も書かれていない。そもそもアクセスログの開示請求な ど、誰も想定していなかった。 この私の請求に対して、﹁開示するか、検討させてほ しい﹂というのが、当日の回答であった。十五日という 開示期間内には、答えは出なかった。総務省にまで問い 合わせたようだが、﹁全国的にも例がない﹂とのことで、 一ヶ月の延長手続きをとられてしまった。もっともこの 間に、総務省からの返事も来たわけであり、他の自治体 においても、同様の請求を行うことがよりたやすくなっ たことは、まちがいない。私が開示請求の際に費やした、 少なからぬ努力がこれによって軽減されるだろう。 四月末、全市民分も個人分も部分開示された。﹁職員 の プ ラ イ パ 、 ン
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保護﹂﹁ネットワークシステムの安全性﹂ を理由に、職員番号も所属コ1
ドも部分開示である。通 常ならば﹁非開示﹂となるところであるが、交渉の末の. 暗号化しての﹁部分開示﹂である。 問、使用端末、所属コl
ド、職員コl
ド の 七 項 目 、 日 当たり四十七桁の数字と文字の組み合わせである。これ一一 らを、個人分として二百二十件と、市民全体分として約一 開示された内容は、事由、年月日、開始時間、終了時 件 二 千 万 件 の 開 示 を 受 け た 。 過去十六年分とはいえ、並大抵の分量ではない。解析 に時間がかかっている。︵現在も解析作業は続行中︶そ れでも不正アクセスらしきものは、大量に発見された。 そこで、より不正を明確にするために、十人ほどに依頼 し、それぞれに個人情報へのアクセスログの開示請求を 行ってもらった。同時に、先に開示された私自身のアク セスログ中、公務とは推定できぬもの五十五件の調査要 求を行ったわけである。 この先はすでに報道されていることであるが、五十五 件中四十九件までが、誰がアクセスしたのか﹁不明﹂、 四十一件までがアクセス理由も﹁不明﹂であった。細 か く い え ば 、 アクセス者が明らかになった六件は、 いずれも公務のためとはいえ、行政内手続きを無視した 目的外アクセスであった。﹁公務推定﹂となった八件は、 アクセスの根 要するに﹁誰がアクセスしたか不明だし、 拠の文書も存在しないが、 パターンから推測して、公務 であった可能性がある﹂という無責任な代物である。 これらを除外しても、私の個人情報への全アクセス中 の約二割が、こじつけの説明すらできなかったわけだ。 アクセスログの開示によって、個人情報のずさんな管 理実態を明らかにするという当初の目的は、すでに達成 された。そしてこの中で、それまで私自身も気づかなか った、行政内部の個人情報保護に関するいくつかの問題 点 に 気 が つ い た 。 ﹁公務員は悪いことをしない﹂この信じがたい言葉を、 この間何度か耳にした。私自身の取り組みの中でも聞い たし、同時進行していた﹁住基ネット﹂をめぐる議論の 中 で も 聞 い た 。 私のように行政内部で働いている人間だけではなく、 普通に新聞を読んでいる人なら、その言葉がまったくで たらめであることは知っている。 だが不思議なことに、行政内での個人情報の取り扱い については、この信じられないことが前提になっている。 では、行政のシステムすべてが、﹁公務員性善説﹂に貫 かれているかと問えば、そうでもない。 行政内部での、公金の取り扱いは、性悪説に貫かれて いる。たった一本のボールペンを購入するにしても、煩 雑な手続きが要求される。これはその象徴だろう。 ではなぜ、同じ公務員が扱うにもかかわらず、公金は 性悪説に立ち、住民情報は性善説にたってシステムが構 築されるのであろうか? 情報は引き出しても減ることはない。おそらくその相違 が、扱いの違いに反映されているのだろう。 公金は使えば減ってしまう。 その背景には、住民情報の持つ重みに対する無理解が 存在する。そもそも、どのような情報がネットワークシ ステムの中に存在し、それが何を意味するのかという基 本的なことを、管理職が理解していなかった。 四日市市では、住民情報ネットワークが、﹁住民情報 こぺる オンラインシステム﹂という名で呼ばれている。これに 5
アクセスできる職員は、約五百名。しかし誰もが、同じ 情報にアクセスできるわけではない。所属ごとに必要な 情報をまとめ、﹁画面開放確認書﹂というものを出す。 こ れ に 応 じ て 、
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カ l ドの権限設定がなされる。ID
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ドは、端末を立ち上げる際に必要 ち な み に 、 なだけではなく、情報を引き出すたびに必要となってい る。それなりに高い水準のシステムである。 必要な情報だけを取り出すことを意識したシステムだ から、不必要な情報が出てこないと誤解をしていた節が あ る 。 たとえば、同和施策として、固定資産税の減免措置が ついこの間まであった。﹁この制度適用を受けているか について、端末から引き出せるか﹂という私の聞いに、 すぐ答えが返ってこなかった。どうやら、考えてみたこ ともない質問だったらしい。ここに、ひとつの住民情報 の軽視の姿勢が見てとれる。 数日後に返ってきた答えは、﹁そのような情報は、入 力されていない﹂であった。だがこれも間違いである。 現場で端末を日常的に操作し、固定資産税の仕組みを 理解している職員であれば、減免措置が取られているこ とは、すぐ掌握することができる。また、減免率も推測 できるため、同和減免の有無は、端末から引き出せる情 報 な の で あ る 。 その気があれば、自治体単位であるが、同和施策を受 けている人と、その親戚縁者の人名一覧の作成は、まつ たく可能なのである。 ほかにも障害者手当ての受給状況など、このシステム から引き出すことのできる、センシティブな情報は数多 くある。このことにさえ気づかないのだから、住民情報 の持つ重さの理解がないといえる。 もっとも、行政だけを攻めるわけにはいかない。部落 解放運動もまた、この意味を理解していなかったように 思 わ れ る 。 部落解放同盟は、住基ネットの稼動に反対している。 その主張を読む限り、すでにほとんどの自治体で稼動し ている住民情報ネットワークシステムについての言及が ほとんどない。そこで指摘されるセンシティブ情報は、 ﹁犯罪歴﹂などがあげられているに過ぎない。同盟のこ の問題に対する理解が低いのか、あるいは四日市市以外 の自治体のシステムでは、このようなセンシティブ情報は引き出せないのであろうか。ぜひともその真相を知り
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住民情報端末を扱う職員の意識は、そのシステム構築 の思想に左右される。システムが、住民情報の持つ重み を理解していないところで構築されるなら、その端末を 扱う職員の意識も低いレベルにとどまる。逆にその重み を理解し、高い水準のセキュリティl
システムを構築す るのであれば、おのずから職員の意識も高くなる。 四日市市の具体的な姿を紹介しよう。I
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ドの権限設定は、各所属 の業務に応じて決められる。しかしこれが厳密でなかっ た。たとえば、保険年金課というセクションがある。保 先 に 書 い た よ う に 、 険と年金の一一つの業務をこなしている。ここで必要な住 民情報は、保険と年金とでは異なる。にもかかわらず、 課として一括して﹁確認書﹂を提出するため、個々の職 員にとっては、業務上不必要な情報を引き出せる。 役所の縄張り主義の弊害といってしまえばそれまでだ が﹀業務の必要性に応じて権限を狭く設定するという姿 勢が不充分である一例だ。 ﹁確認書﹂が形式的に出されれば、何でも通したと思 われるケ1
スもある。ある所属は、使用理由の欄に﹁所 掌事務のため﹂としか書かれていなかった。要するに、 ﹁仕事で使うから﹂という意味のお役所言葉である。﹁オ こんなもの受理するなよぉl
﹂と思わず口に してしまった、極端な例ではあるが、これも実態のひと イ オ イ ! つ で あ る 。 また驚くべきことに、所属長自身が、自らの出した ﹁確認書﹂の内容を知らぬケl
スが目立った。許可され た 条 件 を 知 ら ず 、 ﹁ 公 務 で あ れ ば 、 アクセスしても問題 ない﹂との勘違いを平気でしている。管理職がこれでは、 端末操作をする職員の意識が高くなるはずがない。ID
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ドの管理についても同じことがいえる。 応 、 ﹁I
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ド管理基治こが定められ、﹁適正に管理しなけ ればならない﹂と明記されている。しかし実態は、まっ た く ず さ ん で あ る 。 私の個人情報への不審アクセスの調査に際し、そのほ とんどが﹁使用者不明﹂と回答し、それについて謝罪の こベる ひとつもないということに、問題点が浮き上がってくる。 ﹁使用者不明﹂の中には、実際は使用者が明らかなも 7のが多数含まれている。しかし、ヵ
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ドの貸し借りが横 行する職場がいくつかある。それをたてに、自分が行つ たアクセスも、﹁自分ではない﹂﹁記憶にない﹂といって 責任逃れが行われる。これが問題なのだ。ID
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ドをクレジットカードに置き換えれば、よく わかる。たとえ他人にカl
ドを貸したとしても、 そ の カードで使われた金は、カードの名義人が払わねばなら ない。後は名義人と、借りた人物との関係の問題である。 ﹁ ヵl
ドは貸した。しかし誰に貸したかわからない。 だから、私は責任をとりません o ﹂世間で通らぬ主張を、 ず さ ん 平気で通そうとする姿勢が、個人情報の杜撰な管理に拍 車をかける。これへの対処は、何も難しくない。問題がI
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ドの登録者に責任を負わせばよい。 生 じ た 場 合 、 誰かに貸したのであれば、それを証明する責任が登録者 にあり、証明できなければ、全責任を負わせればよいわ けだ。このような原則を確認するだけで、ID
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ド の 杜撰な管理は、おのずから改善される。 今回の問題を通じて、私はいくつかの改善策を要求し た 。I
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ドの貸し借りには、必ず文書で記録を残す こと。カードの権限設定を見直し、利用目的に応じ権限 を精査すること。すべてのアクセスについて、それが公 務であることを証明する文書を確保すること。外部から の照会については、電話をかけなおして相手方を確認す るだけではなく、電話の発信履歴をとること等々。 四日市市は、この要求に応じ、できるところからの改 善策を実施しつつある。基本的には、﹁個人情報は公金 と同じ﹂という思想に転換しつつあるわけだ。 市民のアクセスログを開示するということと合わせて、 きわめて安全性の高いシステムに生まれ変わった。実際、 もっとも不正アクセスの対象となった﹁住民記録照会﹂ は、問題発覚以降激減している。市民センターに限って も 一日平均百二十件も減少している。わずかの期間に、 おそらく日本でもっとも個人情報が保護された自治体に 生 ま れ 変 わ っ た 。 四日市市がこの秋導入を予定していたのが、I
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カ ー ドの指紋認証システムである。この実施より前に、予算 をかけずに安全なシステムに生まれ変わったのは、皮肉 なことだ。だがここには、思想の違いがある。科学技術 を万能化する思想と、人と技術の相補関係を求める思想 との違いである。住民情報ネットワークという、科学技術の粋を集めた システムに、自分の個人情報へのアクセスログを請求す るという、人間の要素が加わったことが、最大の要因で ある。同時に、行政と市民の関係のあり方を考える際に も、きわめて示唆的な出来事であると考える。 日本における個人情報保護の取り組みは、現在市民レ ベルからのものも含めて、多様に存在する。しかし、こ の課題に最も早くから組織的に取り組み、実績を上げた のは部落解放運動ではなかったのだろうか? 他人の戸籍や住民票がたやすく見ることのできる時代 に終止符を打ったのは、解放運動である。就職に際し提 出する履歴書の統一用紙を作成し、その利用を各企業に 迫った取り紐みの中心に、解放運動はあった。これによ って、部落民だけではなく、数多くの人々が企業の不当 な就職差別から解き放たれた。 だが残念なことに、部落解放運動は自らの果たした社 会的役割に、あまりにも無自覚であった。個人情報のデ ジタル化とネットワーク化という新たな時代に対応し、 自らの勝ち取った個人情報保護の成果を発展させること について、あまりにも無頓着であった。 私がかねてから主張するように、部落問題という社会 現象を、部落問題として認識するのは、その思想的な一 つの立場の表明に過ぎない。実際には、部落問題と認識 される社会現象は、他の多様な視点から別の把握をする こ と が で き る 。 多様な視点を切り捨て、部落問題という観点にこだわ ったからこそ、一方において大規模な行政施策を実現さ せたが、他方においてそれら行政施策が特権化し、市民 の共感を生み出すことを困難にした。 部落を取り巻く物的環境は大きく改善しながら、そこ とその近くに住む人々の人間的なつながりは、思いの外 改善されていない。 このような状況下で、部落解放運動が求められるのは、 従来の特権を求める運動から、市民の共感を創出する運 動への転換ではないだろうか? 今回の私の個人的実験とは、その可能性の実験である。 個人情報の保護という、部落解放運動が取り組んできな がら、その普遍化を放棄してしまった課題に着目した。 こベる 9
そしてこれは、時代背景の変化を考慮し、新たな市民運 動を模索する実験でもあった。 ﹁自己情報の管理権﹂を拡大し、﹁自己情報の利用実態 を知る権利﹂の主張を、アクセスログの開示という手段 を通じて展開するというものである。私のように、何の 組織的背景もなければ、社会的権威のない人聞にとって、 新たな概念の権利の正当性の主張だけでは、誰も耳を貸 さない。実際にその権利を行使し、実質的に意味を持つ ものであることを証明しなければならない。 はたしてその試みは成功した。予定より大きくなりす ぎたとはいえ、実験は実験である。絶えず収束を意識し、 運動としての量的な拡大は、意識的に避けてきた︵その ため、調査要求した不審アクセスは、個人攻撃・結婚等 の身元調査・組織的大量アクセスと思われるものに限ら れ、個人的な覗き見等は除外した︶ 0 逆にいえば、そうした制約を取り払ってしまえば、 くらでも市民運動として拡大できるという自信を得た。 だがこの先の問題は、私個人の手におえるものではない。 個人のレベルを超え、組織的な取り組みを望む私の意志 を伝えて、中間報告を終えたい。 なお、当初この問題は、住民情報ではなく、戸籍情報 をめぐって提起する予定であった。四月には、両方とも 開示されたのであるが、四日市市の場合、住民情報のほ うがはるかにセキュリティのレベルが高かった。戸籍情 報は、国の仕様に準じ、個人で問題を明らかにするには 困難であったからだ。逆にいえば、戸籍情報をめぐる運 動的課題は、ちゃんと残されているし、全国共通の土俵 で 展 開 で き る 。 事態が順調に推移しているなら、この文章が読者の目 にとまるころに、今回私が釣り上げた獲物の一部が何で あったのか明らかになるだろう。 v
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ひ ろ ば ⑩
部落問題について
なぜ書くのか
ー曽野綾子さんの怒りに応えてすみだいくこ
曽野さんを硬直させたものは? 藤田敬一さんが﹃こぺる﹄︵旧・ロ月号︶の後書きに 引用された曽野綾子さんの怒りの中身について私もずっ とこだわっています。さらに今年の同誌三月号で松井安 彦さんが、曽野さんと同じ東京の出身者として﹁彼女の 言わんとする感覚はよくわかります﹂と曽野さんへの理 解を示されたことと合わせて、では、私はなぜ部落問題 について他者に伝えようとするのか自問してきました。 曽野さんは﹁どうして差別問題を是正しようとする人 は、こうも差別を知らせること、教えこむことに熱心な のだ怜己とあきれておられます。私は差別問題を教えこ もうという気はないのですが、差別の実態を知らせるこ とにはまことに熱心な人間です。とくに差別によって傷 つき損なわれた部落の人たちの﹁被差別の痕跡﹂をたど り、共同体に伝承された﹁被差別の文化﹂として明らか にしていくことが自分の生涯の任務だと思い込んでいる 人 間 で す 。 曽野さんのほかにも部落問題が意識や話題に上ること のない日常を送っている人は日本全国にたくさんいると 思います。数年前、米国で開かれた講演会で日本の社会 問題について話をしたある日本人の学者︵東京在住︶は、 部落問題についてアメリカ人から質問され﹁その問題が 深刻だったのは太平洋戦争以前のことで、今はもうほと んど問題になっていない﹂と答えたそうです。質問した 人は納得せず﹁そんなはずはない、あなたが知らないだ けではないのか﹂と反論したそうですが、講演者は﹁少 なくとも東京など大都市周辺では問題にならない﹂と突 っぱね、その見解に同意した日本人が何人もいたと、実 際にその講演を聞いたアメリカ人から聞きました。 私にはその学者が東京周辺の被差別部落の存在を知ら ず、かつ部落解放同盟などの運動団体のことも聞いたこ とがないとは考えられません。﹁あなたが知らないだけ ではないのか﹂とアメリカ人に言われて腹が立ったのも うなずけます。本人に確認もしないで憶測するのは良く ないのですが、彼は知らなかったのではなく、﹁もはや 深刻な社会問題にはなっていない﹂と本気で考えていた こベる 11の で は な い で し ょ う か 。 しかし藤田さんが引用された曽野さんの文章から感じ るのはもっと感情的なしこりとイラ立ちです。本来なら、 ﹃ 私 日 記
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﹂︵曽野綾子著・海竜杜刊︶の原丈を読んで意 見を述べるべきですが、藤田さんの引用部分のみの感想 であることをまずお詫びします。曽野さんの率直な表現 からあふれ出ている激しい怒りは、部落問題の押しつけ という﹁非礼﹂︵曽野さんの表現︶にずっと我慢しつづ けた末の爆発かもしれません。この﹁非礼﹂というとら え方に対して松井さんは曽野さんに理解を示しておられ ます。つまり交際・結婚相手の出身を気にかけるどころ か関心を示したこともない人たちに、こんな差別がある、 あんな差別もあると押しつけがましく啓蒙するのはあま りにも失礼だということでしょう。 曽野綾子さんはクリスチャン作家として人間の良心の 有りょうを見つめてきた人だと思います。部落差別の存 在など聞きたくもないと思っている人だとは私にはどう しても思えません。彼女をここまで硬直させた何かがあ ったのではないかという気がします。たとえば、私もそ の一員である部落解放同盟などの運動団体が押し付けて きた立場性の問題。人聞を﹁差別する立場﹂と﹁される 立場﹂の一一つに分けて、非部落の人をそのまま差別する 側に組み込む強引さなどです。 私は現在米国に住んでいますが、昨年の九月一一日の テロの直後、ブッシュ大統領の演説をテレピで開いて非 常に不快になりました。﹁テロリストの側に立つのか、 私たちの側に立つのか、どちらかしかない﹂というあの 演説です。テロを容認するのかしないのか、しないなら 米国の政策を支持できるはずという短絡と倣慢はそれ以 前にもしばしばありました。世界中を震憾させた事件の 直 後 と は 一 三 口 え 、 ﹁ 二 つ に 一 つ ﹂ と い う 倣 慢 さ を 見 せ つ け ら れ る と ﹁ − ア ロ リ ス ト の 側 と 言 、 つ な ら 吾 一 し た 、 心 理 状 能 叫 に 陥 つ た も の で す O 部落差別によるトラウマ 松井さんは、人を見るときに﹁部落出身かどうか﹂を 気にもかけず、それどころか世間にそういう偏見がある ことさえ知らずに育った人たちの立場にもっと理解と敬 意を持たなければ対話も始まらないはずと言われます。 松井さん、ここを私なりに読みこむと、人間の立場には ﹁差別する立場﹂と﹁される立場﹂のどちらかだけでは なく、﹁しない立場﹂も確実にあるのだから、その立場 をもっと信頼して人間関係を深めていく方が部落問題の解決には好ましいはずということになります、松井さん、 ちがっていたら訂正してくださいね。私も﹁部落出身で ないなら差別者の予備軍﹂というような短絡的な思考は 嫌いです。また﹁知らないが故に差別しない立場﹂もあ ると考えます。しかし、同時にその立場のもろさと危う さも強く感じています。 松井さんは福岡で結婚後、東京に帰省した折にはじめ てお連れ合いを両親や親戚に紹介したそうですが、﹁そ ういう場合でも彼女の出身地域について、特に関心が示 されることはありませんでした﹂と書いておられます。 現代の日本ではそういう結婚のケ
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スが確実にふえてい ると私も思います。松井さんのお連れ合いが仮に部落出 身であっても、松井さんはもちろん、親や親族は気にも かけなかったかもしれませんね。 曽野さんや松井さんと同じように私も部落の外で生ま れ、部落問題が話題に上ることはほとんどないような環 境で育ち、部落出身者と結婚しましたが、結婚のとき夫 の出身地域のことは問題にもなりませんでした。しかし、 ﹁結婚差別はもはや深刻ではない。私たちがそのいい例 だ﹂と言い切れないのは、深刻な状況は依然としてあり ますし、被差別部落がかかえてきた傷の深さを実際に部 落に住んで感じるようになったからです。さらに言えば、 交際・結婚相手の出身地域を気にもかけない人がふえて くることはもちろん望ましいのですが、部落問題の解決 はそれだけではないという思いがあるからです。 松井さんの論点は、﹁他人の出身地域など気にもかけ ない﹂という人がいることを認め、その生き方に敬意を 払うことからしか対話は始まらないということですね。 私も同感です。しかし、﹁出身かどうか気にもかけない﹂ 人が増えていく一方で、依然として被差別部落出身ゆえ の心理的な葛藤や癒しがたい傷をかかえて生きている人 がいるという事実が私のもう一つの論点です。私が部落 問題について語りつづけたいのは、差別をしないであろ う人にもその事実について提起していっしょに考えてほ し い か ら な の で す 。 ともすれば部落差別は、差別する人がいなくなれば解 決するとどちらの側からも考えられてきたと思います。 差別する人は少なくなっているという事実から﹁出身者 が卑屈にならなければ、自然に解決しますよ。気にしな い人の方が多いのですから﹂という言い方をする人にも たくさん会いました。部落の中にも﹁部落の外の人聞が 差別をしなくなれば、部落問題はなくなる﹂と本気で考 えている人が少なくありません。それは一面の真理でし ょう。しかし、私が被差別部落での生活をとおして学ん こぺる 13だことは、長い被差別の歴史を引き継いできた人たちが 心の奥にかかえた傷が部落問題の解決を困難にしている と い う 局 面 で す 。 ここ数年、心因性の外傷︵トラウマ︶については認識 が広まっていますが、部落出身者のなかにも、ある種の トラウマをかかえている人が多いと思います。直接・間 接の被差別体験によって彼らがこうむった傷は深く、そ の傷口からにじみ出る﹁何か﹂は、歳月を引きずって共 同体の隅々にまで浸透しているのではないでしょうか。 当然ながらコミュニティに住んでいる出身者ほど、外の 世界に交わったときの心理的落差が大きく、傷口をさわ られることが多いようです。差別されることによって部 落民が引き受けなければならなかった代償の大きさを知 ったとき、あらためて部落差別に対する怒りがこみ上げ ま し た 。 いくら外の世界で育った私でも、彼らの傷口が見えた らそこにさわらないように気をつけます。しかし、彼ら が痛がるのを見て初めてさわってしまったことに気がつ くことが多いのです。一番参ったのは、彼ら自身もその 傷のありかと深さがわかっていない場合です。﹁痛い﹂ と感じて初めて自分の傷に気がつくのですから、しばし ば動揺して感情的になっています。﹁どこがどう痛かっ た﹂という説明など聞けるはずがありません。痛がり方 もさまざまで、その場で怒鳴る、泣きだす、あとで仲間 を誘って抗議に来る、悪口を言いふらす、信用しなくな るなどの形でお返しが来たとき、ああ、傷にさわってし まったのだと、うかつな私でもやっと気がつくのです。 ﹁さわった覚えはない﹂と言ったところで、痛がってい る人はぜったいに納得しません。本当に痛いのですから。 もちろん、痛がるふりをして駆け引きに使う人もけつこ ういましたが、一般的にはこの駆け引きの方がよく知ら れているのは非常に残念です。私は部落出身者がかかえ るこの見えない傷を﹁被差別の痕跡﹂として見据えて行 きたいと思うようになりました。部落差別を知らない人 にも知らせたいと思ったのはそのためです。 多数派の無頓着と少数派の屈折 友人に思い切って部落出身を告げたら、﹁そんなこと 関係ないやん﹂とあっさり言われて腹が立ったという出 身者は少なくありません。私の夫は部落出身ですが、 ﹁付き合いはもうできないと言われたら怒り、関係ない と言われでも腹が立つというのは、部落出身者の甘え だ﹂と言い切ります。﹁関係ないやん﹂としか言えなか
った相手の気持ちを推し量り、そこから対話を始めるべ きだというのです。そうかもしれません。しかし、自分 にとってこの上なく重いものを理解しようとしない友人 に抱くイラ立ちゃ怒りこそ私にとって部落問題そのもの なのです。多数派の側で生きてきた人聞の無頓着に対す る少数派の屈折した感情でもあります。 打ち明けられた方の立場で考えると、思いつめた友人 の表情からとっさにそうとしか三尽えなかった気持ちもわ かります。二人の友情にとって部落出身かどうか大した 問題ではないと本当に思っていたら尚更です。また、部 落出身者が自分の痛みに絶対的な価値を置いてそこに留 まろうとしたら、理解者も遠ざかり部落問題の解決が遅 れるという正論にも納得できます。しかし被差別の痕跡 はそう簡単には消えないだろうというのが被差別部落で 生きてきた私の実感です。 ある同和保育所の所長さんの体験ですが、それまで順 調に進んでいた保育所と部落側の話し合いの風向きが急 に変わったことがあります。支部の責任者は、部落のな かでは理論家・知性派で知られる活動家でした。それま で解決の方向に向かっていた話し合いがなぜ突然悪化し たのか、思い当たることのない所長さんは樵惇して相談 にこられました。話を聞いて私が感じたのは﹁学歴﹂に 対する彼女のあまりにも無頓着な感覚です。その活動家 の豊富な知識と理路整然とした話しぶりから当然大学を a 卒業していると思い込み、活動家と一対一で話すときは それを前提にしていました。私は﹁推測に過ぎないが﹂ と念を押して、﹁もしかしたら:::﹂と所長さんのその 無頓着を指摘しました。彼女は世間の学歴信仰そのまま という人ではないのですが、﹁大学を出たすばらしく知 的な部落の理論家﹂と勝手に思い込んでしまったうかつ きがあったのでしょう。﹁同和保育所に勤務しながら、 実は世間の学歴信仰そのままかと信用できなくなったの ですね﹂と彼女は肩を落としました。 しかし彼女をもっと打ちのめしたのは、その活動家が どう考えても大学を卒業しているとしか思えない口のき き方を彼女の前でしていたことです。その活動家の人間 的な弱さを指摘するのは簡単でしょうが、理論的な明附 さに感服してか自分を尊敬さえしている相手の﹁無責任 なイメージ﹂に乗ってしまった活動家の複雑な心理状態 は、長年部落に住んでいるとピンとくるものがあります。 社会の主流︵多数派︶のなかで生きてきた人間のうか つさ、無頓着、屈託のなさ、無神経などに非常に敏感に 反応し、時には容赦しない被差別者の感性は、私には自 らが生きてきた世界を映しだす鏡でもありました。 こベる 15
部落差別の存在も知らず、知っていても気にもかけな い人たちが増えてきたのはうれしいことです。しかし被 差別者の傷はまだ癒えていないし、それどころかマジヨ リテイ︵多数派︶と接触し融合するなかで、その傷がひ どくなる状況も見てきました。ではその傷はいつどのよ うにして癒えていくのか、あるいは癒えることがないの かを見つめることは、マジョリティとマイノリテイの境 界で生きている人間の義務とさえ思っています。私が被 差別者の見えない傷について語りつ弓つける目的は、彼ら の代弁でも多数派への啓蒙でもありません。差別しつづ けた主流派への同化・融合を潔しとしない心理、﹁それ では世間は通らない﹂と説教されたときの﹁そんな世間 はこっちから願い下げや﹂というひらきなおりなど、私 には非常に興味深い部落出身者の心情です。 部落のなかでもっとも忌み嫌われる態度は﹁ハク︵部 落の外の人間︶づら﹂、つまり非部落の人の真似をした りふりをしたりすることでしょう。﹁ハクづらして﹂と 軽蔑されている人のなかには、外の世界の価値観を知っ たために少しでもそれに近づこうと背伸びしてがんばっ ていると思える人もいました。部落に入ったばかりの頃 は、それを﹁ハクづら﹂とさげすむのはあんまりだと思 いましたが、次第に多数派への同化が必ずしも部落問題 の解決ではないということに気がついたのです。私にと ってはコミュニティに住む部落民のその心情こそ、掘り 下げるべき部落問題になりました。 部落差別の存在も知らず、気にもかけないという人が 増えれば増えるほど、私は私にとっての部落問題、つま り﹁被差別の痕跡﹂について語りたくなりました。それ を読んで﹁私にこんなことを知らせようとするのは非礼 だ﹂と怒る人は、一体どのような部落問題を知りたいの かぜひ教えてください。部落問題そのものに関心がなく 知りたくもないというなら、それは﹁礼儀﹂のレベルで はなく、人間としての生き方の問題でしょうから、﹁な ぜ知りたくないのか﹂というあなたの人生観を率直に語 っ て い た だ き た い の で す 。
鴨水記 マ