ヱ1 『
三
帖 和
讃
』の
読 誦
に
つい
て
出
雲
路
英 淳
研 究 課 題本
稿は浄 土 真 宗の宗 祖である親 鸞 聖 人の残 し た著 述の 内, 『三 帖 和讃
』に注 目し, そ の諷唱 の歴 史 と背
景につ い て探 究 を試
み る もので ある。
親 鸞 聖 人は その生涯におい て莫大
な著
述を残
し特
に晩 年 にそ れ ら は集中
して い る。 そ し て今
日, 聖 人の代 表 的著述
とい えば 『教行証
文類
』 と 『三帖
和 讃』 が挙 げら れ両著
は共
に浄 土 真 宗の根本
聖 典 となっ てい る(tal}。 その 中で も 『三 帖 和 讃』 は真宗
の各寺
院
におい て その全 般が諷 唱さ れ て お り真 宗 声 明として今 も伝 承 されて い る。 これは 『教 行 証 文 類 』 が 「行巻
」 の末
尾にあ る 「正信念
仏 偈」 の みを読 誦 し, その他は余 り儀 式の 中に取 り入れ ら れ ない事
と対称 的
で あ る。和 讃 と は本 来, 仏 教 歌 謡 と言 うべ き もので
要
す るに 「日本語
(和
語 )で書かれた讃 歌 」 とい う意 味で ある。 親 鸞 聖 人はこ の和 讃を晩年
の約
20
年
の間
に何
と五百 首 以 上 創 作さ れ てお り,
そ れ らは大 き く分 けて五種 類の和 讃に分 類さ れ る が, そ の 五種
の中
の聖 徳 太子関
係の和 讃二種 類 を 除いた残 り 三種
類の和 讃をま と め て 『三帖和讃
』 と呼
んでい る(tZ2)。 そ して, こ の 『三 帖 和 讃 』 が数 百 年に渡っ て諷 唱されてき た訳である。そ こ で本 論は 聖人の和 讃 創 作の背
景
か ら考察
し, 聖人没後
の教 団 形 成に おい て和 讃 が 諷 唱さ れ る 経 緯につ い て考 えて みたい。 ま た声 明 的 見 地か ら現在行
わ れ てい る和讃
の 「重構
造 」〔W・
3)につ い て,
その源 流につ いて も推 論を試み る もの で あ る。 注1
親 鸞 聖 人 (1173〜1262
)の著 述は法 然 門 下 時 代に執 筆 し た と言わ れ る 『 観無
量寿
経・
阿 弥 陀 経 集 註』 以 外は全て60
歳 以 降に著 して い る。 例 えば 『教 行 証 文 類 』 の草 稿 本は58
歳か ら63
歳に か けて大 半 を執 筆 して い るが,
これが最も若い年
齢の著 作で ある。 その後の著述
は76
歳
に 『浄土 ・高
僧 和 讃 』 を著し, 最 後の著 述は88 歳
に お ける 『弥
陀如来名
号徳
』 である。 (鳥
越 正 道 著 「最 終 稿 本,
教 行 信 証の復 元 研 究 』 (法 蔵 館 〉より第1
章, 最 終 稿 本 教 行 信 証の作 成 過 程の概 観P ,
27
参 照。) 注2
親 鸞 聖 人の和 讃 を 年 齢 順に列 記 する と『 浄土和 讃118
首,高僧
和 讃119
首』 (76 歳
)『皇
太子 聖
徳
奉 讃75
首』 (83
歳
)『大 日本粟 散 王 聖徳太 子奉讃
114
首』 (85
歳
)「正像
末和讃 116
首』(
86
歳
)にな る。
こ の 内 『浄 土 和 讃・
高
僧 和 讃 』 と 『正 像 末 和 讃』 を 併せて現 在で は 『三帖 和讃』 と呼ん でい る。 尚, 『三帖 和 讃 』 の名 称は従 覚 (
1295
〜1360
) (本
願 寺第
三世 覚 如の 次男
) 著の 『慕 帰 絵 詞 』 (1348
)の 中に 「『浄土』・
『高 僧』 等三帖 和 讃 内の肝 要…・
・
」 とあ り,
こ れが
名称
の初 出
と 思 わ れ る。(
『真宗
聖教
全書
』第
3
巻
,P
.
813
)ヱ
2
「三 帖 和 讃』 の読誦につ い て 注3
重
構
造 と は1
っ の中
心音
と そ の 上下に付
随す る音
と で形 成 する旋 律の動 く範 囲を指 す。 その中 心 音に よっ て低い 方か ら
1
)初
重,2 )
二 重,3 >
三重 と呼んでい る。 こ の構 造は声 明 だ けで は な く平 曲や謡 曲に も用い ら れてい る。 (天 納 傅 中 他 編 『仏 教 音 楽 辞 典 』 (法 蔵 館 〉より 「重 」 の
項参
照。)第 1 章
親鸞
聖 人 と和 讃
親鸞
聖人は9
歳で出 家さ れ29
歳 まで比 叡 山 延 暦 寺に堂僧
と し て修 行さ れ た。 堂僧
と は遣唐使僧
, 円仁
が中 国五台 山 竹 林 寺か ら持 ち 帰っ た 行の1
つ 「常 行三 昧 堂の不 断 念 仏」 を行 ずる僧
の事
で あ る(注’) 。常
行三昧と は 『摩 訶 止 観』第二 に ある90
日間に渡る三業
所得
の念仏
を言
う。 ま た不断念仏
と しょうみょう は常行
三昧を簡
素 化さ せ た念
仏の事
で 聖 人の時代
に はこ の念仏
を声
明の節 付 けを して行 じてい た と言 わ れてい る〔E2) 。 この行 を聖 人 がい つ 頃か ら行じ てい たの か は定
か で は ない が 聖人が堂僧
であっ た 事は妻である恵 信 尼の文 書か らも確か め ら れ て お り, この事
か ら も 聖 人 が声
明に携
わ る生 活を 送っ て い た 事は明 らかで ある圃 。 そ れ故
, 聖人 が和讃
とい う音楽
的 比重 の高
い ジャ ン ル を布 教のた め に多
く著
し た事
と青年
期に 日夜
声 明の世 界に身 を置い て い た事 とは決 して無 関 係 とは思 え ない感 覚 的な共 通性
を感
じ るので あ る。ま た, 聖 人の音
楽
的感性
を考
え る 上 で注 目し たい点は 聖人の和 讃が 『梁塵
秘 抄 』 の影 響 を受 けて い る とい う事
である。 こ の 『梁
塵秘抄
』と は平 安 時 代 後 期に後 白河 法 皇によっ て撰 述された今 様 (い ま よう)歌 謡の集
大成
と もい え る書
である。当時
は全10 巻
で搆成
さ れ て お り, 今 様の諸様
を知る貴
重な歌集
で後
世に も影 響を与えてい る附 。 又, こ の題 名の 「梁 塵 」 と は 『劉 公 別 録』 の中に記さ れ てい る よ うに 「歌謡 ・音楽
」 を意味
する。 要 するに 『梁 塵 秘 抄 』 と は 『歌 謡 集』 と同 義 語 なの であ る。そ し て そ の 『 梁 塵 秘
抄
』 の第
二 巻 「 法 文 歌」 (ほ う もん の うた)
に は聖人の和讃
と類似
す る点
がい くつ も認め られ る ので, そ の論 点 より考 察 を 進め る事と す る。 そ れ は次の3
項目 に集約
さ れ る と考
え られる。 す な わち1
) 内 容, 2
) 形 式,3
) 音 節 数に おけ る類 似 点で ある。
この内, 最 も類 似す ると思 わ れ る 『法 文 歌 』 と 『和 讃』 を比 較 検 討 して み よ う。
まず 「仏 歌 (ほ と け の うた)」第
一
首 を 示 す。
釈 迦の正覚な る こ と は 此の度 初め て思ひしに 五百 塵 点 劫よ り も彼
方
に仏
と見え た ま ふ (法 文 歌一
22
)〔庄5〕この歌は法
華
思 想に基づ く歌である が, この歌 と内 容, 表現 と も大 変 類 似す る 「和 讃 」 が親 鸞 聖 人 の著し た 『浄 土和讃
』 の中
に見
え る。 弥 陀 成 仏の こ の か た は い まに一
卜劫と と き た れ ど 塵 点 久 遠 劫よ りも出 雲 路 英 淳
13
ひ さ し き
仏
と見え た ま ふ(
『浄
土和讃
』 よ り 「大経
意」第
5
首
)圃双
方
の歌と も内容的
には久 遠成
仏の思 想を歌っ た も の で ある が, 先の 「仏 歌 」1
句 目の 「釈 迦の 正覚
」 と 『大経
意和讃
』第 5
首の1
句 目 「弥 陀 成 仏の こ のかたは」 の部 分が異 なる以 外,
こ の 二首 は 極めて類 似 性の高
い内容
と思わ れ る。次の例を示 す。 ま
ず
『 法 文 歌』 の中
に次
の よ う な歌
が あ る。 観 音 深 く頼
むべ し う か 弘 誓の海
に船
泛べ 沈め る衆 生 を 引き寄せ て 菩 薩の岸まで 漕 ぎ渡る (法 文 歌一158
) この2
首に極めて類 似 する 『和 讃 』 が ある の で, 生 死の苦 海ほ とりな し ひ さ し くしずめ る わ れら をば弥陀
の悲 願の ふ ね の み ぞのせ て か な らずわ た し け る (『浄 土
高
僧和
讃 』 よ り 「龍 樹 菩 薩」 第7
巻 首 )圃これ ら
3
首
を比較
す る と内 容の上で は, 罪の重さに深 く沈んで い る衆 生を引き 上げ
て船に乗せ,
菩提
の岸 (
彼岸
の世界
)へ引接
す る凡 夫 衆 生の救 済 を 歌っ てい る。
その意 味で は 三首は共 通して仏 の 衆生救 済を説い てい る。 もっ と も救
い 主は 「観音菩薩
」 「法華経
」 「如 来の誓
願」 と各々 異なっ て い る が, いず
れ も苦悩
す る わ れ ら衆
生を救
うとい う本
質は変わ ら ない 。 ま た, こ の場 合, 海 を人間 界,岸
を彼岸
の世界
に譬え て表 現 し てい る事も見のがせない 類 似 点である。更
に,次
の例
は聖 人の教
え と共
通 する, 思 想 的 類 似性
の高
い歌として注 目 したい。
弥 陀の誓ひ そ
頼
も し き 十 悪五逆の人な れ ど一
度御名
を称
ふ れぼ来
迎引接疑
はず (
法文歌
一
30
)
〔渕こ の歌は
念仏
の教えに基づ く歌で あ り 「十
悪五逆
」 とい う所
か ら考
え て原典
は 恐 ら く 『観無
量寿
経』の下 品 下 生 段に基づ く歌 と思 わ れるが(網 , 内 容 的には法 然上人, 親 鸞 聖 人の説 く専 修念
仏の思 想に通じ る もの である。 こ の場 合は対 応 する 『 和 讃』 は見 あた ら ない が, 『 歎 異 抄』 に お け る 「悪 人 正機
」説
を先
取 り し た もので あ り,暗
に愚禿親鸞
の到来
を 予見し てい る よ う な歌
で あ る。こ の
他
に も, い くつ か の類似点
を挙 げる事
がで き る が, 以 上の点
か ら も 双方
の類似性
は認め ら れ る と思 わ れる。次に
2
) 形式
の類 似 点につ い て言 及 する。 そ も そ も 「 法 文 歌」 は一
般の今 様と同じく 「4
句でL
首」 とい う 数 え方を す る が, 聖 人 の 『和
讃』 も ま た 「4
句
1
首
」 と して独 立 し, これ を一
首と数え る。
本 来,
和 讃は七五調の句 を 幾 重に もつ なげて ゆ く形を取 り, 例えば源 信僧都
の 『十楽和讃
』 の ように何 十 句 も続 けて1
つ の和 讃に してい る例 もある。
従っ て4
句 を1
首 と して独 立さ せ た形の 和 讃は親 鸞聖人以前
に は存 在し ない と言っ て良い 。 それ故, こ の型は和 讃 史上初め て の形 式 とい える の である。 その意 味に おい て 「4
句1
首」 の 形 式 を持っ て い る 「法 文 歌」 は親 鸞 聖 人の和 讃 形 式に ほ と り 生 死の苦海
辺な し仏法
真 如岸
遠 し 妙 法蓮華
は船筏
来 世の衆生渡 すべ し (法 文 歌
一
210
)
{tt7) これ ら と比べ てみ よ う。ヱ
4
『三帖 和讃』 の読 誦に つ い て お ける先 蹤 的 存 在 と言 えよう。
こ の点は先 学の研 究に よっ て も指 摘さ れ てい る所である脚 D。
更に3
)韻 律につ い て で あるが,
「 法 文 歌」 の韻 律 (音 数 ) を全220
首880
句に つ い て調べ てみ る と, 本 来, 日本 語の リズム と思わ れて い た 「7 ・5 調
」 で はな く, む し ろ 「8 ・5 調
」 の句
が多
い 事 が 解っ た。
つ まり 「3
・
4
・
5
」 や 「4
・
3
・
5
」 よ り も 「4
・
4
・
5
」 の リズムで出来
上が っ て い る訳である が, 聖 人の 『和讃
』 も同様
に 「8
・
5
調
」 の句
が多
い の で あ る。 そ こで 「法文歌
」220
首,880
句
と 『三帖和讃
』351
首
,1404
句
の韻律
を比較
す る と次
の よ う な結
果になっ た。 韻 律 数の比Mfi
(tu2) 8。
5調 7。
5言周 4・4 ・5
3 ・4 。54
・3 ・
5 その他 計 法 文 歌 38253 % 18826 % 10515 %456
%720
三帖和 讃50743
%26022
% i18916%22519
% ’ 1,
181 ※双方 共,1
つの句が3
部 分に分か れる (例え ば3 ・4 ・5
) ものだ け を対 象にした。 従っ て 「 極 楽深 重の衆 生は」 の句な ど は 2部に し か分 かれ ない の で そ れ らは省い た。
つ ま り双 方 共, 従
来
の 「7
・5
調 」 に と ら わ れない 表現
, つ ま り漢語
を そのま ま 用い る手
法を多
く取 り入 れてい る とい う点が特 徴 とい える。 この場 合の漢 語 と は仏 教 用 語が主であり, これ ら は無 理に和 語に直 す と意 味が薄 れ た り, 異 なっ た りする恐れが あるため仏 教 語 をそ の ま ま用い る事で 「8 ・5
」の調 子が生 まれ た もの と考 え られ る。
この事は注 目すべ き点であり, 当 時の歌とい え ば 「和 歌」 が文 学の主 流であ り,
師 法 然 上 人 も和 歌 を用い られ た 方で ある が,
そ う した 時 代に親 鸞 聖 人は あえて 「和 歌 」 で はな く 「和 讃」 に よっ て衆
生を教 化し た とい う事
は, よ ほ どこ の分野 に精
通し な ければ 出 来る事で はない と思わ れ る。
そ れ故, 親鸞
聖 人は以 前よD
『梁 塵 秘 抄 』特
に 「法 文 歌」 を 深 く研究
さ れ, そ の特性
を知 り尽 く し た上で そ れ を晩年
の和讃
創作
の中
に取
り入 れ てい っ た と考
え ら れ るの で ある。以上, 表 現, 形 式,
韻
律の上か ら 「 法 文 歌」 と親 鸞聖人の 『和 讃』 との類似
点につ い て言 及し た 訳で あ る が, その結
果双方
には多
くの類似点
が存在
す る事
が確
か め ら れ た。 そ し て創作年代
を考
え る と 『梁
塵秘抄
』 が平安後
期に撰 述さ れ てい る事
か ら 「法 文 歌」 は親鸞
聖 人 の和讃
の お手本
に なっ た可 能性
が極
め て高
い と考
え ら れ る。そ れ故, これ らの考 察によっ て親 鸞 聖 人の和 讃は中世の音 楽である今 様の様 式 を持ち歌 謡 的 性 格 の強い もの である
事
が確
か め ら れ た。 つ ま り親鸞和讃
は謡
う性格
の強
い 聖教
とい う事
である。 しか し, 単に歌 謡 的 性 質が あ る だ け で 「 和 讃」 が数百年
間も諷 唱 さ れ続
け た と考
え る の は説得
力に欠け る。
な ぜ な ら大 衆 歌 謡である今 様 だけ が変 化 もせ ずに約 七 百 年 間 も一
宗 門の根 本 聖 典と して唱え続 けら れる と は考 え ら れ ない か らで ある。やは り親 鸞聖人の和 讃は形
式
こそ今様
風であ る が何
と言
っ て も和讃
の1 首
1
首が優
れ た内容であ り, 教えの根 本 を的 確に と ら え, その領解
を歌にしてい るか らこそ後
世の 人々 が真 宗の根 本 聖 典に 取り上 げた と考 え る方が 自然である。
特に 『三帖 和 讃 』 は聖 人の根 本 思 想 を歌っ た もの で あ りこの 点が 『教 行 証 文 類 』 の和 語 版(tt 13)である と評さ れ る由 縁 と思わ れ る。出 雲 路 英 淳 Z5
つ ま り聖人の和 讃は その内 容 も形 式 も共に優 れて いたか らこそ門 弟は じ め
多
くの 人 々 に親
し ま れ かつ研修
さ れ たの だ と考
え る。 ま た 聖人 自身も和 讃 を教 化の ため に使っ て お り例えば 如来
の誓
願 に つ い て専信
房へ宛
てた手紙
の中
で他
力の領解
と如
来の願 力を述べ た後
,末
尾 に次
の和
讃を二 首 記し てい る。弥 陀の本 願 信 ずべ し
願
力成
就の報
土に は本 願 信 ずるひ とは みな
自
力
の心行
い た ら ねば 摂 取 不 捨の利 益に て 大 小 聖 人みな な が ら无 上 覚 を ばさ とる な り
如来
の弘 誓に乗ず
な り〔EI4 》この
和讃
の共通点
は 「み な 」 とい う言 葉が入っ てい る点で あ り, これは専 信 房に対 し如 来の誓 願 を信
ずる者
は皆
, 残らず救
わ れ るのだ か ら迷
う事
な く真
実の教 えに励む事 を願っ て,
聖 人が記 し た もの と思わ れ る。
ま た逆に
直弟
か らの手紙
の中
に和 讃を信 心の証 文 と して示してい る例 もある。
これ は聖 人の直弟
慶信
房か ら 聖人へ 送ら れ た文の一
部であ る 。『
大
无量寿経
』 に 「信 心 歓 喜」 と候。
『華 厳 経』 を 引て 『浄 土和讃
』 に も 「信
心 よ ろ こ ぶ其人を,
如来
とひ と し と説き た まふ,
大 信 心は仏 性 な り, 仏 性 即ち如来
な り」 と仰
せ ら れて候に,
(
中
略 )ま た 「真 実 信 心 うる人は , 正定
聚の数
に入 る, 不退 の位
に入 りぬれ ば, 必 ず 滅 度に さ と ら しむ」 と候{E15)。 (カ ッ コ は筆 者 加 筆 )これ は如 来の信 心につ い て 自 らの領 解 を語 り, 日
夜念仏
を称
え る生 活を送っ てい る事に対 する御 意 見 を伺 うた めに送っ た 手 紙である が, こ こ に も和讃
が信
心の証し と して記さ れ てい る とい う事は 聖 入の和 讃が門 弟た ち の間
に も広
く伝
え ら れ てい た例
と して注 目し たい 。 こ の 中の和 讃は文の中に 組み込ま れ てい る の で解りづらい が本来
は4
句
1
首
の形式
である。 これ は聖 人 自身で はな く直 弟が 和 讃 を書いてい る訳で, そ れ も自
ら の領解
し た考
え に沿っ た内 容の和 讃 を記 す 程,
研 鑽 を続 けてい る とい う点に おい て改め て和讃
の普
及し た広
さ と深さ を感ず
る。 そ れ は4
句1
首 とい う短い 形 式に し た事が普 及し た理 由である と考え ら れ,和讃
の持
つ性質
の内
,解
り易 く意 味 深い事
に加
えて 「 読 み易い 」 とい う要 素が 加味
さ れ て, よ り一
層 近しい もの にな っ た と想 像で き る。
この ように
和讃
は聖人 の在
世当時
か ら門 弟た ちによっ て次 第に広 まっ て ゆく訳である が, 聖 人 没 後 も途 断 える事 な く聖 人の言葉
と し て引
用さ れ た。 『歎 異 抄 』 第15
章に登 場す る和讃
は その好例
で ある。
こ れをこ そ,
今
生に さ と り を ひ ら く本 と は ま ふ し さふ らへ,
『和 讃』 にい は く「金 剛堅固の信心の
さだま る と き を ま ち え て ぞ
弥 陀の心 光 摂 護して
なが く生 死 をへ だて け る」
(
善
導 讃1
と は さふ らふ は
,
信 心の さだま る と きに, ひ と た び摂 取 してすてた ま わざれば, 六道
に輪
廻 す べ か らず(t’161。
(カ ッ コ は筆 者 加 筆 )『歎異
抄
』は直弟
であ る唯 円(ta17)の著とい わ れ て お り聖人の信心 を書
き留めた文 書 と し て大 変蕈:要 な 聖教で ある。
この 章では他力
の さ とりとい うもの の と らえ方につ い て自 力の さ とりとの相 違 を説 き, さ とりと は全て如 来の願力
に よっ て成 就せ し むる事 を 重ね て述べ , その中
で聖 人 の言 葉 として前
述の和 讃を引 用 するの である。ヱ
6
『三 帖 和讃』 の読誦につ い てこ の よ うに和 讃 は 聖 人の生の言 葉と して文 書の中に
引
用さ れ てい る。 そ し て,和讃
の持つ布 教 的性
質が聖人 没後
には増
々重 要視
さ れ,年
忌, 月 忌の際に は聖人の遺徳
を偲
ぶ 意 味か ら次 第に勤 行の中
に和讃
を取
り入 れ る ように な り, そ れ が定 着 して い っ た もの と推 測 する。例
えば,高
田派
の本
山専修寺
には聖人実筆
のある『三帖 和 讃 』草
稿 本〔庄 18)と共に聖 人の高 弟で あっ た顕智
上 人の写本
(注 ’9)が残
さ れてい る が, これ ら は 『三帖 和 讃 』 を順 番に編 集 し,
その上に四 声 点や左 訓ま で付
し てい る と い う事か ら恐 ら くは順番
に読
誦 あるい は諷 唱す る た めに整えた もの と考 えら れ る の であ る。 そ して, その事は和 讃の性 格か ら見れ ば, ごく自然
な傾 向
とい え る の か も し れ ない。それでは次に和 讃が門
弟
の間
で, どの よ うに諷 唱さ れ て き た の か, そ の経 緯につ い て史 料 を 基に 探 っ てゆ く事に し よ う。 そ こ か ら和讃
が真 宗 教 団の中
で ど の よう な 役 割 を果 た してきたの か につ い て も併せ て考えて み たい。 注1
田
村芳
郎 著 『日本の仏 教 入 門 』 (角 川 選書
25
)第
七章
,参
照。 注2
山田文 昭 著 『真 宗 史 稿 』 (法 蔵 館 )よ り本
論,第
二章
「不断念仏
」 の項
, 参 照。
注3
『 恵 信 尼
文書
』第
三 通には 「こ の文ぞ, 殿の比叡
の 山に堂僧
つ と めて お は し け る が, 山 を 出で て, 六
角
堂に百日こ も らせ給
て」 とあり, 親 鸞 聖 人の修 行 期 を記 す 貴 重な史料
と し て重要
である。
(
『真宗
聖 教 全 書 』第
5
巻よ りP
.
106
参 照。) 注4
後 白
河法
皇(
1127
〜
92
)撰 述の 『梁 塵 秘 抄 』 は当 初,
全10
巻に加え て,
『梁
塵秘抄
口伝集
』全
10 巻
の計
20
巻で構成
さ れ た と推 測 する。
現 在で はこ の 内,
『梁塵
秘 抄 』第
1
,第
2
, の2
巻 『梁 塵 秘 抄口伝 集 』第
10
〜
14
, の5
巻
が残
さ れてい る。今様
の他
に も庶
民の生活
心情
や自
らの音 楽 的
自叙
伝も収
録し て お り, 文学
や音楽
芸 能 史の重 要 な 資 料になっ て い る。 (棚橋
光 男著 『後 白 河 法
皇
』(
講談社
選書
メ チエ )よ り第 1
章, 後 白 河 論 序 説, 及び前掲書
『仏教音楽辞
典』 よ り 「 梁
塵
秘 抄」 の項参
照。)
56789D
ユ 注
注
注 注 注注
武 石 彰 夫 著 『仏 教 歌 謡 』 (塙 書 房 )よ り第三章
「三帖和讃
を め ぐっ て」 参 照。 『真 宗 聖 教 全 集 』 第2
巻,P .
492
。 秦 恒 平 著 『梁 塵 秘 抄 』 (NHK
ブッ クス311
)P
,
227
及 び 注5
前 掲 書P .
84
参 照。 『真 宗 聖 教 全 集 』 第2
巻
,P
.
502
。 『梁
塵 秘 抄 』P .
226
。 『観
無 量 寿 経 』 下 品 下 生 段には 「下 品 下 生者
或有衆
生作 不
善業
五逆
十
悪」 とあり五 逆と
十
悪の順 序が逆になっ て い る が内容的
は同
一
である.
(『真 宗 聖 教 全 集』 第1
巻
,P
.
65
。)
注11
4
句1
首の形 式が親 鸞聖 人和讃
の特
徴であり,
かつ 『法 文 歌』 との関 係に つ い て言
及し たの は多 屋 頼
俊
大 谷大学
教 授である。
氏の著 書 『和 讃 史 概 説 』後 編,第
三 章, 第二節に詳しい 。その後, 前 述の
武
石彰
夫らに よっ て更に双 方の関
係が解
明 さ れ た。
注12
その他
の部
分は韻 律が 「3 ・3 ・5
」 「3
・
5
・
5
」 の句で今回は ま と め て, その他
と し て 数 えた。 注13
阪 東 性 純 著 『親鸞和讃
一
信 心 を うた う 』 (NHK
出 版 )よ り序章
, 親 鸞の生 涯 と著 作,P .
15
参 照。
出 雲 路 英 淳
17
注14
『
真宗
聖 教 全 集』 第2
巻,P
.
716
。専信
房は遠 江(
現在
の静
岡 県 西部)
の人。 『 門侶
交 名 帳』光 源 寺 本に は直 弟 と して で はな く 「上 人 面 授 」 の人 と し て, 直
弟
と は別扱
い の6
名
の内の1
人に記さ れ て い る
。
『交名帳
』 の中
で遠江出身者
はこ の専
信 房 ユ名で ある。 ( 『真 宗 史 料 集 成 』 第1
巻,
P
.
1001
参 照。
) 注15
『真 宗 聖 教 全集
』第
2
巻,P
、
675
。慶
信房
は常
陸 (現 在の茨 城 県 〉の人。 『交 名 帳s に は 聖 人の直 弟子 と し て真 仏
(
真宗高
田派の第
2
世)
の次に記さ れてい る。 注16
注15
に 同 じ。
P
.
787
。
注17
唯
円 房は常陸
国 河和
田の人。 生没年
は未詳
である が, 真 仏の弟 子であ り聖 人 面 授の弟了 :とし て
当時
の門弟
の間
で は 重要な人 物であっ た。 『歎 異 抄 』の中で は第9
章,13
章に唯 円の名があ る
事
か ら, この著
の編作者
と さ れて い る。 正応 元 (1277
) 年には上 洛 して覚 如 (本 願 き第三
世)
に教授
し た と伝え られ る。 (菊村
紀彦
著 『親鸞辞
典 』(
東京
堂出版
)よ り く唯
円〉の項
参 照。) 注18
生 桑 完 明 氏によ る と 『親 鸞 聖 人 真 蹟三帖 和 讃 国 宝本
』 の内, 実際
の真筆
は 『浄 土和讚
』 の題 名
,
巻 頭の 『称 讃 浄 土 経 』文, 巻 尾の 『首楞厳経
』 文, 『浄 土和讃
』 全文
, 『浄
土高僧
和 讃』の題 名
,
『正像 末 和 讃 』の第1
首か ら第9
首まで の9
首の み が聖人 の筆跡
と認
め ら れ, そ の他は別 筆 と の調 査 結 果で あっ た。 又,
書写
し た 人物
は 『浄
土・高僧
』 の二 和 讃につ い て は禾だ特 定できてい ない が, 『正
像
末和讃
』 は表紙
に 『釋覚然
』 と あ る事か ら覚
然 房が書 写 し た人 物と考え ら れ る。 この
覚
然 房は 正 元 元(
1259
)年
の聖人の書簡
にその名前
がある事か ら聖 人 面授の
1
人と思わ れ る (『親鸞
聖人真蹟
三帖和讃
国 宝本 解
説』 参 照。) 注19
顕智
房(
1226
〜
1310
?)
は越
後 (新 潟 県 )の人。 初めは真 仏 上 人に師 事 し た が, の ちに 親鸞
聖 人に帰依
し, のちに高
田派の第
三世 と なっ た。 現 在, 専 修 寺に残されてい る顕 智 写本
の『三
帖和讃
』 は奥書
きに 「正応三 (1290
) 年 庚 寅 九 月 十 六 日令 書 写 之 畢」 と記さ れ てい る。
第
2
章
和
讃
諷 唱略史
前章
で は和讃
の構造
と性 質を確か め, その上で諷 唱 する背 景 を考 察 し た が, ここ で は歴史
的に親 鸞 聖 人の没後
,和讃
が 人 々の間で どの ように唱 え られ 広 まっ てい っ たのかにつ い て具体的
に考え て ゆ きたい。
まず
史料
と して挙 げたい の は意 外に も真 宗 関 係で は な く天台宗僧侶
の記 録である。聖 人 没 後5
〔1年 頃の記
述で 「近 頃の在 家 信 徒の中には 『阿 弥 陀 経 』 も 『六 時 礼讃
』 も読
まずに善
信 (親 鸞 聖 人の事 ) の作
っ た和讃
ばか り唱えてけしか らん」 と い う内 容で ある。
これ は 『愚暗
記』 と題 する著 述で ある。
阿 弥 陀 経 読 まざる事当 世
一
向 念 仏 して在 家の信 者を集
め 愚 禿善
信と 云う流 人 作 し為る和讃
を謡
い , 長じて同 音に念 仏を 唱る
事有
り,無
量寿 経に 三輩往
生の相を説に,一
向 専 念 無 量 寿 仏の文 有 り, 是を本説
とし
一
向念仏
と 云 う名 言 出で来る云て,
阿 弥 陀 経も読
まず六時 礼 讃 も勧 行せず, 但 男 女 行 道し て六字の名 号 ばか り唱え
彼
の和
讃を同 音に謡 長せ り。 (書き下し文 筆者
)( tv・
1}18
『三帖 和讃 』 の読 誦につ い てこれ は宗
門
側の史料
で はな く他 宗の記 述であ る事か ら,
こ の 中の和 讃 諷 唱は事実
と考
え て良
い だ ろう。 た だ し, 「 謡 長」と あ る事
か ら長
々 とし た節
回し で余 り品の良 くない雰
囲気
で あっ た事
が考
え られ, その声が, 『 愚暗
記』で皮 肉
ら れ る 理 由に なっ た もの と想像
で き る のである。 そ して, 和 讃や 念 仏に節をつ けて勝 手に唱え る とい う傾向
は各
地に起 こっ た ようで, そ の事 を戒 める ように本 願寺
の覚如
上人は 『改 邪抄
』 の中
で節
の事
に触れ, 単に歌 を歌 う よ うに念 仏 を唱 えて も決 して往 生の 因 には な ら ない事 を 説 き, 称名念仏
の本意
を強
調し た。祖 師の御 意 巧と して は ま た く
念佛
の こは ひ tS“
きい か や う に ふ し は か11i (t「・
2)をさだむべ し , というお ほ せ な し, た だ
弥
陀 願力
の不 思議
凡夫往
生の佗力
の一
途 ばか りを自
行 化佗
の御つ と めまし〈 き音 聲の御 沙 汰さ らに こ れ な し, (
中略〉
音曲
さ らに報
土往
生の眞因
にあ らず, ただ 佗 力 の一
心 を もて往 生の時 節 をさだ め ま し ます 條(tt3) ,覚如
上 人 は親鸞
聖 人の曽孫
であり直接
会っ た事はない はずで ある が, あ えて聖 人の名を挙 げて注意
を う な が し てい る とい う事
は聖 人 没 後に門 弟の間で様々 な 考 え 方が現 われて そ れ が深刻
化し てい た事
を 示 す記
述 と思わ れ る。
特に多 念 義の念 仏は数に こだわる念 仏であ り念
仏 往生 の本家
と もい う べ き浄土宗
の中
で も, い つ の間
に か唱名念仏
を芸 能 化す る傾 向が強まり法 然上人 もあえて制戒
〔E‘) を記 して念 仏が世 俗 化 する事
を懸念
し てい た。法
然,親鸞
の両
聖 人 と も多
念 念 仏につ い ては注 意 を うな が して い た が, や は り開祖
らの没後
には自
然発
生 的に現わ れ て き た動きと考 え られる。ま た
覚如
上人の長男
で あ る存覚.
一
ヒ人 は念仏
と和讃
を唱 える際の心が けにつ い て 『破 邪 顕正抄 」 の 中で 次の ように述べ てい る。っ ぎに和 讃の事。 か み の ご と きの
一
文 不 知のや か ら経教
の深理 を も し らず,釈義
の奥義
を もわ き まえがた きゆへ に, い さ tsか の経 釈の こ ころ を や は らげて 无
智
の と も が ら にご 〉うえし めんがために
,
と きノ弋念
佛に くはへ て こ れ を誦し も ち ゐ るべ き よ し, さ づ けあ たへ らる 〉 ものな り。 これ ま た
往
生の正業
にあらずた S’
念
仏の助行
な り。(
中略)
この和讃等
は まな び や すき がゆへ に , も し
称名
にもの うか ら ん (物 足 りない )と き, かつ は音
聲を や す め し めん が た め に,こ れ を し め し を か る 5 ばか りな り。 しか りとい ひ て これ を誦せ ざ ら ん もの
往
生を えざるべ きにあ らず。
往
生の正 業はたs’
南 無 阿 陀 仏の一
行な り(ti5) 。 (カ ッ コ は筆者
加筆
)存覚
上 人は和
讃 を 唱 える事 は否 定 して い ない が, そ れ はあ くま で助 業
であっ て正 定の業 }では ない 事を述
べ てい るのである。 又, こ の 中で念
仏に加えて和讃
を誦す事
に触
れ てい る が,
これは現 在の真 宗 各 派で行わ れ る勤行
である 「念 仏一
和 讃 」 の形 式の源 と も な る記述
で注 目し た い 。 し か し, こ の頃は ま だ教
団の形成初期
の段 階で あり,
聖 教の編さ ん も儀式
の様
も確
立し てい なか っ た。 そ れ 故, 存覚
上 人の この教えが どの 程 度 門 弟の間に伝わ ったのか 興味深い 所である。従
っ て こ の時代
に お い て声 明の形式
を具体的
に表
わ し た も の は 『算 頭 録』が最も明確
と思 わ れ る。 これ は仏 光 寺 派の僧, 了 源が門 徒に示 し た制 法であ り, そ の 中に声 明の作 法と して の記 述がある。
六時ノ ツ トメ (往生
礼讃)
ノ ツ ト メ ヲパ フキ テ 三時 トナシ, 光 明寺
和 尚 (善 導 大 師 )の礼 讃ニ カヘ テ, 正信 念 仏 偈 等ヲ諷 誦セ シ メタマ ヘ リ , マ タ
念
仏ノモ ノ ウ カ ラム トキハ , 和 讃ヲ引 声シ テ五 首マ タ七 首ヲ モ諷 誦セ シ メタマ ヘ リ ト ,先 師 明 光 ヨ リウ ケタマ ハ リ キ 圃 。 (カッ コ は
筆
者 加 筆 )出雲 路 英 淳
19
この著は元 徳 元 (
1329
) 年に書かれ た もの であ り本 願 寺の覚 如,
存 覚 両 上 人 とも 同 時 代のも
ので あるが, この条
文を見
る限 り和讃
は この時代
にも既に諷 唱され てい た と考えて良い だろ う。
し か も和讃
と共
に 「正信念仏偈
」 (略し て正信偈
)も唱 え る事
を指
示 し てい る点は興味
深い 。 い わ ゆ る 「正信偈
一
念仏
一
和讃
」 の形は本
願 寺 教団
か ら始め ら れ た とい う記 述が数多
くある が, そ れ以前
に仏 光 寺の勤行
に既に取
り 入 れ ら れ てい た事
は声明
の歴 史 上,考
え直さ な け れば ならない 点である。
ま た, 「五
首
マ タ 七首
ヲモ 諷 誦」とある が, こうい う形で行 う勤行
は現在
で も高
田派に残っ てい て 「 和 讃, 五首 引」 と言わ れて い る. 恐ら くこの形式
は真宗
の初
期か ら考
え ら れ た もの と思わ れ るが, そ れ が現 在のよ う な 「三重構造
」 になっ てい た か ど う か記 さ れ てい ない のが残念
で あ る。こ れ ま で
和讃
を中
心に し て諷 唱の歴史
を見て き た訳
で あ る が,和讃
の歌謡性
と宗教性
が様
々 な形
で人々 に受け入れ ら れ真宗教
団が形成
さ れ る 以前
か ら自然
の う ちに親
し ま れ広
が っ てい っ た事
が史
料の 中か ら読み取 れる。 しか し同 時に和 讃 諷 唱は まだ一
般 的な行い で は な く真 宗の教 えの本 質 を見 極め た者か, あるいは一
部の熱 狂 的な信 者 以 外は 「念
仏一
和 讃」 の形 式を知ら なか っ た し又, 統 治 者 側 もそれ 程 積 極 的に呼びか けた訳で は ない の で勤 行と して は ま だ試 験 的な状 況で あっ たの か も し れない。
や は り蓮
如
上 人 が登場
す る まで の真宗教
団は勤行
とい えば 『往
生礼讃
』(「e8)だっ た と思わ れ る 。 そ れ は蓮 如 上 入の十男
, 実 悟の記し た 『山科御坊事
』 に詳
しい 。61
, 昔は 六時 礼 讃 を朝 暮の勤 行 也。讃
念 仏は近 年の事 なり。讃
念 仏 蓮 如 上 人 卅 ばか り の御歳
よ りと
聞
え申候
。 越中
瑞泉
寺は住
持 な くて留守衆
, 堂衆斗候
の間
, 文明
の始
比ま で は朝暮
の行事
に六時礼
讃申
た る と て候
。『
往
生礼讃
』 は 元 々,浄
土宗
で行
わ れ てい る勤行
で, あの 『徒
然 草』圃 に も 登場 する程
に人々の間 で は盛
んに行
じ ら れ てい た 聖教
で あ る。 ま た, この史料
の中
で 「越中瑞泉寺
」 を特
に取り上 げて, 六時礼讃
を行
っ てい る事実
を記
し てい る が, こ れ は最
も極端
な例
と し て挙
げた ものと思わ れ る.
,実
はこの瑞泉寺
は本
願寺第
五世,綽如
上 人 が建
立 さ れ た寺院
(庄 1 °)であるが , こ の上人の遺
品を見る と全 てが浄土宗の形 式で真 宗の特 色が一
斉 残されてい ない の で ある。 つ ま り綽 如 上 人の肖像 画は浄.
二L
宗 の衣を ま とい , 使 用し た声 明 本は全て浄土宗の本, そ して有 名 な 「 勧 進 本」 に も浄 土 宗の思 想をと り入 れ た内容
なの である。 もっ と も綽如
上人自
身は大 変な碩 学であ り朝 廷からも重 要 視されて い た ほ どの人物
である か ら対 面上, 浄土宗の形 式 を真 似る事で他 宗 派 と の融和
をはか っ た との見
方も で き る。 し か し, その ような妥 協 的 考 え方は独 自性 を 失 わせ る結 果にな り,
その一
例 として瑞 泉 寺 を挙 げ た もの と 思 わ れ る が, いず
れ にせ よ真宗
の独自
性は蓮如
上人が第八世 を継 承されるまで開 花で き な かっ た と考
え ら れ,綽如
上人か ら蓮如
上人の頃まで は仏 光 寺 派 や三門 徒 派が隆 盛 を誇っ てい た。特
に 仏 光 寺派の発 明 し た 「名帖
と絵
系図 」 は大 流行 し, 仏 光 寺の門 前は大い に にぎわ っ た。 こ れ は信 心 決 定 を 金 銭に よっ て定め血 脈 譜に 自分
の名前
と肖像
画を描
き, そ れで往生極 楽の証 し とするb
の で ある。 誰が見て も, こ のよう な行 為は正 統で はない が,
こうし た 現世 利 益の行い は 民衆
が何
か救 い の道を 必 死 で探
そ う と してい る ま さ しく凡 夫の姿で あ り, そ れほ どに世の中が乱れ てい た とい う 事で あろ う。
そ の意 味で蓮 如上 人の登 場 は歴史
の必 然と言え るか も し れ ない 。 上人は こうした現 世20
『三 帖 和 讃』 の読誦につ い て 利 益 的 行 為 を最 も嫌い,
親 鸞 聖 人の教 えに還る事 を 強 調 し た。
そ の蓮
如
上 人が30
歳頃
の事
で あ るが,本
願寺
におい て も浄
土宗
の色
か ら脱け出し真宗
独自
の儀式
を定
め ようと す る動
き が出始
め た。 その提
唱者
が蓮如
上 人 の父,存如
上人(醐 で ある。前
の史料
にも ある ように蓮如
上 人が30
歳
の頃に儀
式が 『六時礼讃
』 か ら 「讃念仏
」 つ ま り 「和讃
と念仏
」 に変更
さ れ た とある が蓮 如 上 人が第
8
世
を継
承 さ れ るの は43 歳
である事
か ら, こ の英断
を行
っ たのは第 7
世存如
上人とい う事
にな る。 これ は真宗教
団に とっ ては画 期 的 試みで,覚如
,存覚
上 人の 頃の和 讃 諷 唱 と は異な り, 正式
に儀
式 作 法の中
に親 鸞 聖 人の和 讃を組み入れ る とい う事で ある。 これに よっ て真宗
は よ う や く独自
の形式
を持
っ て声 明を行 うようになっ た。 こ の事は当 時の弱 小 寺 院である本 願寺
にとっ て は 小 さ な出来事
だっ たの だ が, や が て蓮如
上人の代
になっ て その効 力は発揮
さ れ る。 そ れ が, 文 明5
(1473
)年
に行
な わ れ た 『正信 偈・
和 讃 』 の開 版で ある。 蓮如
上人は布 教 活 動の一
環 として こ の声 明 本 を 出 版 した。 その時, 父である存 如 上 人の形 式 を 継 承し 『三帖
和 讃』 と 『正 信 念 仏 偈』 を加 えて 四冊本
として世に出 した の である。 この 「正信
偈一
和 讃 」 のス タ イル は かつ て仏 光 寺 派の了 源によっ て提 唱さ れ てい たが, 蓮 如 上 人が知っ てか知 らずか一
番 先に論 破 しようとした 派の形 式を 用 い る とい うの は,何
と も歴史
の皮
肉とい え よ う。この文 明
本
「正 信偈 ・和讃
」 の開
版後
,真宗
の門徒
は勤行
の際には 正信偈 ・念仏 ・和讃
の形で行
う よ うにな り, そ れ 以後
こ の ス タ イル が定着
し た。 そ し て, そ れ 以前
に行
わ れ てい た 『往
生礼讃
』 は傍
らに置
か れ た{t“]3) 。 この形 式が現在
に おい て も本
願 寺 教 団を中
心 に し て そ の後脈
々 と受け継
が れてい くの で あ る。 注1
『愚 暗 記 』の著 者は長 泉 寺 別 当, 孤 山 隠士 と名 乗 る者である。 長 泉 寺は現 在の福
井 県 鯖 江 市 街にあっ た天 台 宗 寺 院で ある。 尚, 『愚 暗 記 』は 上下二 巻よ りなっ て い た よ うである が, 現 在で は こ の上 巻の み が現 存してい る。 (『真 宗 史
料
集 成』 (同 朋 舎 ) 第4
巻,P90
,719
) 注2
「は かせ 」 と は 「博 士」 の事で声 明 譜の記 号の事で ある。 因み に真 言 宗 は音 高 表 示 を 目的と こいん め やすし た 「五音
博
士 」 を 用い, 天 台 宗で旋 律 を象 徴 的に記 号 化 した 「目安 博 士 」 を 用い る。 こ の当 時は
状
況か ら考えて 「目安 博 士 」 の事 を指 してい る と思 わ れる が,
蓮如
上 人 以 降の真宗
声 明では博 士は簡 略 化 された。
現 在で は博 士と言 わ ず 「 節 譜」 と称 するのが一
般 的で ある。 注3
『真 宗 聖 教 全 書 』 第
3
巻,P .
78
〜9
。 注4
この
制戒
と は法 然 上 人が浄 土 宗の教えにつ い て, 正 しい教 えの中で念 仏 する事を願っ て,と か く
外
道に走ら ん とする者 を戒め るた めに記した 『七 ヶ 条の制 戒』 の事で ある。 その第
六条に は 「黒 闇の 類
,
己 が才を顕さん と欲ふ て,
もつ て浄土教を芸 能 と して,名利
を貧し檀越
を望む。 恐 ら くは自 由の 妄 説を
成
して世 間の人 を狃 惑せ よ。 班 惑の過 殊に重し。
」とあり念 仏の芸 能 化を懸 念してい る。 ( 『 定 本
親鸞
聖 人全集
』 (法蔵
館 )第 5
巻,P .
138
) 注5
『真 宗 聖 教 全
集
』第
3
巻,P
,
169
。 存 覚 上 人は覚 如 上 人の長 男であるが,2
度 も義
絶させ ら れ,本 願 寺の継 承は次 男の善 如が受 け た。 尚, 存 覚 上 人は著 述の 中に和 讃を指
針
と し て挙
げる事
が あ り, 例 え ば 「 女 人 往生聞
書
』 (『聖 教全 書』第
3
巻,P
.
116
)や 『浄 土 見 聞 集 』 (『同 書』P .
382
)に も 『三 帖 和 讃 』 を引 用して い る。
出 雲 路 英 淳