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札幌大谷短期大学紀要30号 出雲路 英淳「『三帖和讃』の読誦について」

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(1)

ヱ1 『

帖 和

読 誦

 英 淳

研 究 課 題

 

稿は浄 土 真 宗の宗 祖である親 鸞 聖 人の残 し た著 述の 内, 『 帖 和

』に注 目し, そ の諷唱 の歴 史 と

景につ い て探 究 を

み る もので ある

親 鸞 聖 人は その生涯におい て

莫大

述を

に晩 年 にそ れ ら は

集中

して い る。 そ し て

日, 聖 人の代 表 的

著述

とい えば 『

教行証

』 と 『三

和 讃』 が挙 げら れ

両著

に浄 土 真 宗の

根本

聖 典 となっ てい る(tal}。 その 中で も 『 帖 和 讃』 は

真宗

各寺

におい て その全 般が諷 唱さ れ て お り真 宗 声 明として今 も伝 承 されて い る。 これは 『教 行 証 文 類 』 が 「

行巻

」 の

尾にあ る 「正

信念

仏 偈」 の みを読 誦 し, その他は余 り儀 式の 中に取 り入れ ら れ ない

対称 的

で あ る。

 

和 讃 と は本 来, 仏 教 歌 謡 と言 うべ き もので

す るに 「

本語

語 )讃 歌 」 とい う意 味で ある。 親 鸞 聖 人はこ の和 讃を

晩年

20

と五百 首 以 上 創 作さ れ てお り

そ れ らは大 き く分 けて五種 類の和 讃に分 類さ れ る が, そ の 五

の聖 徳 太子

係の和 讃二種 類 を 除いた残 り 三

類の和 讃をま と め て 『三

帖和讃

』 と

んでい る(tZ2)。 そ して, こ の 『 帖 和 讃 』 が数 百 年に渡っ て諷 唱されてき た訳である。

 

そ こ で本 論は 聖人の和 讃 創 作の背

か ら

考察

し, 聖人没

の教 団 形 成に おい て和 讃 が 諷 唱さ れ る 経 緯につ い て考 えて みたい。 ま た声 明 的 見 地か ら現

在行

わ れ てい る

和讃

の 「

」〔W

3)につ い て

その源 流につ いて も推 論を試み る もの で あ る。 注

1 

親 鸞 聖 人 (

1173〜1262

)の著 述は法 然 門 下 時 代に執 筆 し た と言わ れ る 『 観

寿

阿 弥     陀 経 集 註』 以 外は全て

60

歳 以 降に著 して い る。 例 えば 『教 行 証 文 類 』 の草 稿 本は

58

歳か ら

  63

歳に か けて大 半 を執 筆 して い るが

これが最も若い

の著 作で ある。 その後の

著述

76

  

に 『

僧 和 讃 』 を著し, 最 後の著 述は

88 歳

に お ける 『

如来名

』 である。 (

    越 正 道 著 「最 終 稿 本

教 行 信 証復 元 研 究 』 (法 蔵 館 〉より第

1

章, 最 終 稿 本 教 行 信 証の作 成     過 程の概 観

P ,

27

参 照。) 注

2 

親 鸞 聖 人の和 讃 を 年 齢 順に列 記 する と『 浄土和 讃

118

首,

高僧

和 讃

119

首』 (

76 歳

)『

  

子 聖

奉 讃

75

首』 (

83

)『大 日本粟 散 王 聖徳太 子奉

114

首』 (

85

)「正

和讃 116

首』

  

86

)にな る

こ の 内 『浄 土 和 讃

僧 和 讃 』 と 『正 像 末 和 讃』 を 併せて現 在で は 『三帖 和

  

讃』 と呼ん でい る。 尚, 『帖 和 讃 』 の名 称は従 覚 (

1295

1360

) (

願 寺

三世 覚 如の 次

)     著の 『慕 帰 絵 詞 』 (

1348

)の 中に 「『浄土』

『高 僧』 等三帖 和 讃 内の肝 要

…・

」 とあ り

こ れ

  

名称

初 出

と 思 わ れ る。

真宗

3

P

813

(2)

2

帖 和 讃』 の読誦につ い て 注

3

 

造 と は

1

っ の

と そ の 上下に

随す る

と で形 成 する旋 律の動 く範 囲を指 す。 そ

  

の中 心 音に よっ て低い 方か ら

1

重,

2 )

二 重,

3 >

三重 と呼んでい る。 こ の構 造は声 明    だ けで は な く平 曲や謡 曲に も用い ら れてい る。 (天 納 傅 中 他 編 『仏 教 音 楽 辞 典 』 (法 蔵 館 〉よ

  

り 「 」 の

項参

照。)

第 1 章

 

親鸞

聖 人 と

和 讃

 

親鸞

聖人は

9

歳で出 家さ れ

29

歳 まで比 叡 山 延 暦 寺に堂

と し て修 行さ れ た。 堂

と は

遣唐使僧

, 円

が中 国五台 山 竹 林 寺か ら持 ち 帰っ た 行の

1

つ 「常 行三 昧 堂の不 断 念 仏」 を行 ずる

で あ る(注’

行三昧と は 『摩 訶 止 観』第二 に ある

90

日間に渡る三

念仏

う。 ま た不

断念仏

と       しょうみょう は

常行

三昧を

素 化さ せ た

仏の

で 聖 人の

時代

に はこ の

念仏

明の節 付 けを して行 じてい た と言 わ れてい る〔E2) 。 この行 を聖 人 がい つ 頃か ら行じ てい たの か は

か で は ない が 聖人が堂

であっ た 事は妻である恵 信 尼の文 書か らも確か め ら れ て お り, この

か ら も 聖 人 が

明に

わ る生 活を 送っ て い た 事は明 らかで ある圃 。 そ れ

, 聖人 が

和讃

とい う

音楽

的 比重 の

い ジャ ン ル を布 教のた め に

し た

青年

期に 日

声 明の世 界に身 を置い て い た事 とは決 して無 関 係 とは思 え ない 覚 的な共 通

じ るので あ る。

 

ま た, 聖 人の音

感性

え る 上 で注 目し たい点は 聖人の和 讃が 『

秘 抄 』 の影 響 を受 けて い る とい う

である。 こ の 『

秘抄

』と は平 安 時 代 後 期に後 白河 法 皇によっ て撰 述された今 様 (い ま よう)歌 謡の

と もい え る

である。

当時

は全

10 巻

で搆

さ れ て お り, 今 様の諸

を知る

重な

歌集

世に も影 響を与えてい る附 。 又, こ の題 名の 「梁 塵 」 と は 『劉 公 別 録』 の中に記さ れ てい る よ うに 「歌

謡 ・音楽

」 を意

する。 要 するに 『梁 塵 秘 抄 』 と は 『歌 謡 集』 と同 義 語 なの であ る。

 

そ し て そ の 『 梁 塵 秘

』 の

二 巻 「 法 文 歌」 (ほ う もん の うた

に は聖人の

和讃

類似

す る

がい くつ も認め られ る ので, そ の論 点 より考 察 を 進め る事と す る。 そ れ は次の

3

項目 に

集約

さ れ る と

え られる。 す な わち

1

) 内 容

, 2

) 形 式,

3

) 音 節 数に おけ る類 似 点で ある

この内, 最 も類 似す ると思 わ れ る 『法 文 歌 』 と 『和 讃』 を比 較 検 討 して み よ う

まず 「仏 歌 (ほ と け の うた)」

首 を 示 す

    釈 迦の正覚な る こ と は     此の度 初め て思ひしに    五百 塵 点 劫よ り も

  

と見え た ま ふ (法 文 歌

22

)〔庄5〕

 

この歌は法

思 想に基づ 歌である が, この歌 と内 容, 表現 と も大 変 類 似す る 「和 讃 」 が親 鸞 聖 人 の著し た 『浄 土

和讃

』 の

え る。     弥 陀 成 仏の こ の か た は      い まに

卜劫と と き た れ ど       塵 点 久 遠 劫よ りも

(3)

出 雲 路   英   淳

13

   

ひ さ し き

と見え た ま ふ

和讃

』 よ り 「

大経

意」

5

)圃

 

の歌と も

内容的

には久 遠

仏の思 想を歌っ た も の で ある が, 先の 「仏 歌

1

句 目の 「釈 迦の 正

」 と 『大

和讃

第 5

首の

1

句 目 「弥 陀 成 仏の こ のかたは」 の部 分が異 なる以 外

こ の 二首 は 極めて類 似 性の

内容

と思わ れ る。

 

次の例を示 す。 ま

『 法 文 歌』 の

の よ う な

が あ る。 観 音 深 く

むべ し       う か 弘 誓の

泛べ 沈め る衆 生 を 引き寄せ て 菩 薩の岸まで 漕 ぎ渡る (法 文 歌

一158

)  この

2

首に極めて類 似 する 『和 讃 』 が ある の で,     生 死の苦 海ほ とりな し      ひ さ し くしずめ る わ れら をば

   弥陀

の悲 願の ふ ね の み ぞ

   

のせ て か な らずわ た し け る (『浄 土

』 よ り 「龍 樹 菩 薩」 第

7

巻 首 )圃

 

これ ら

3

を比

す る と内 容の上で は, 罪の重さに深 く沈んで い る衆 生を引き 上

て船に乗せ

菩提

岸 (

彼岸

世界

)へ

引接

す る凡 夫 衆 生の救 済 を 歌っ てい る

その意 味で は 三首は共 通して仏 の 衆生救 済を説い てい る。 もっ と も

い 主は 「

観音菩薩

」 「法

華経

」 「如 来の

願」 と各々 異なっ て い る が, い

れ も

苦悩

す る わ れ ら

生を

うとい う

質は変わ ら ない 。 ま た, こ の場 合, 海 を人間 界,

彼岸

世界

に譬え て表 現 し てい る事も見のがせない 類 似 点である。

 更

に,

は聖 人の

え と

通 する, 思 想 的 類 似

い歌として注 目 したい

  

弥 陀の誓ひ そ

も し き     十 悪五逆の人な れ ど

  

度御名

ふ れぼ

  来

引接疑

ず (

文歌

30

〔渕

 

こ の歌は

念仏

の教えに基づ く歌で あ り 「

」 とい う

か ら

え て

原典

は 恐 ら く 『

観無

寿

経』の下 品 下 生 段に基づ く歌 と思 わ れるが(網 , 内 容 的には法 然上人, 親 鸞 聖 人の説 く専 修

仏の思 想に通じ る もの である。 こ の場 合は対 応 する 『 和 讃』 は見 あた ら ない が, 『 歎 異 抄』 に お け る 「悪 人 正

取 り し た もので あ り,

に愚

禿親鸞

到来

を 予見し てい る よ う な

で あ る。

 

こ の

に も, い くつ か の

類似点

を挙 げる

がで き る が, 以 上の

か ら も 双

類似性

は認め ら れ る と思 わ れる。

 

次に

2

) 形

の類 似 点につ い て言 及 する。 そ も そ も 「 法 文 歌」 は

般の今 様と同じく 「

4

句で

L

首」 とい う 数 え方を す る が, 聖 人 の 『

讃』 も ま た 「

4

1

」 と して独 立 し, これ を

本 来

和 讃は七五調の句 を 幾 重に もつ なげて ゆ く形を取 り, 例えば源 信

僧都

の 『

十楽和讃

』 の ように何 十 句 も続 けて

1

つ の和 讃に してい る例 もある

従っ て

4

句 を

1

首 と して独 立さ せ た形の 和 讃は親 鸞聖人以

に は存 在し ない と言っ て良い 。 それ故, こ の型は和 讃 史上初め て の形 式 とい える の である。 その意 味に おい て 「

4

1

首」 の 形 式 を持っ て い る 「法 文 歌」 は親 鸞 聖 人の和 讃 形 式に       ほ と り 生 死の

苦海

辺な し

仏法

真 如

遠 し 妙 法

蓮華

船筏

 

来 世の衆生渡 すべ し (法 文 歌

210

{tt7)  これ ら と比べ てみ よ う。

(4)

4

『三帖 和讃』 の読 誦に つ い て お ける先 蹤 的 存 在 と言 えよう

こ の点は先 学の研 究に よっ て も指 摘さ れ てい る所である脚 D

  更に

3

)韻 律につ い て で あるが

「 法 文 歌」 の韻 律 (音 数 ) を全

220

880

句に つ い て調べ てみ る と 本 来, 日本 語の リズム と思わ れて い た 「

7 ・5 調

」 で はな く, む し ろ 「

8 ・5 調

」 の

い 事 が 解っ た

つ まり 「

3

4

5

」 や 「

4

3

5

よ り も 「

4

4

5

の リズムで

出来

上が っ て い る訳である が, 聖 人の 『

和讃

』 も

同様

に 「

8

5

調

」 の

い の で あ る。 そ こで 「

法文歌

220

首,

880

と 『

帖和讃

351

1404

韻律

を比

す る と

の よ う な

果になっ た。         韻 律 数の比

Mfi

(tu2) 8

5調      7

5言周 4

・4 ・5

   

3 ・4 。54

・3 ・

5 その他 計 法 文 歌 38253 % 18826 % 10515 %

456

720

三帖和 讃

50743

26022

%   i18916%

22519

%         ’ 1

181 ※双方 共,

1

つの句が

3

部 分に分か  れる (例え ば

3 ・4 ・5

) ものだ  け を対 象にした。 従っ て 「 極 楽深  重の衆 生は」 の句な ど は 2部に し  か分 かれ ない の で そ れ らは省い   た

 

つ ま り双 方 共, 従

の 「

7

5

調 」 に と ら わ れない 表

, つ ま り

漢語

を そのま ま 用い る

法を

く取 り入 れてい る とい う点が特 徴 とい える。 この場 合の漢 語 と は仏 教 用 語が主であり, これ ら は無 理に和 語に直 す と意 味が薄 れ た り, 異 なっ た りする恐れが あるため仏 教 語 をそ の ま ま用い る事で 「

8 ・5

」の調 子が生 まれ た もの と考 え られ る

この事は注 目すべ き点であり, 当 時の歌とい え ば 「 歌」 が文 学の主 流であ り

師 法 然 上 人 も和 歌 を用い られ た 方で ある が

そ う した 時 代に親 鸞 聖 人は あえて 「和 歌 」 で はな く 「和 讃」 に よっ て

生を教 化し た とい う

は, よ ほ どこ の分野 に

通し な ければ 出 来る事で はない と思わ れ る

そ れ故, 親

聖 人は以 前よ

D

梁 塵 秘 抄

に 「法 文 歌」 を 深 く

研究

さ れ, そ の

特性

を知 り尽 く し た上で そ れ を晩

和讃

り入 れ てい っ た と

え ら れ るの で ある。

 

以上, 表 現, 形 式,

律の上か ら 「 法 文 歌」 と親 鸞聖人の 『和 讃』 との類

点につ い て言 及し た 訳で あ る が, その

果双

には

くの

類似点

存在

す る

か め ら れ た。 そ し て

創作年代

え る と 『

秘抄

』 が

平安後

期に撰 述さ れ てい る

か ら 「法 文 歌」 は

親鸞

聖 人 の

和讃

の お手

に なっ た可 能

め て

い と

え ら れ る。

 

そ れ故, これ らの考 察によっ て親 鸞 聖 人の和 讃は中世の音 楽である今 様の様 式 を持ち歌 謡 的 性 格 の強い もの である

か め ら れ た。 つ ま り

親鸞和讃

性格

い 聖

とい う

である。 しか し, 単に歌 謡 的 性 質が あ る だ け で 「 和 讃」 が数百

間も諷 唱 さ れ

け た と

え る の は説

力に欠け る

な ぜ な ら大 衆 歌 謡である今 様 だけ が変 化 もせ ずに約 七 百 年 間 も

宗 門の根 本 聖 典と して唱え続 けら れる と は考 え ら れ ない か らで ある。

 

やは り親 鸞聖人の和 讃は形

こそ

今様

風であ る が

っ て も

和讃

1 首

1

首が

れ た内容であ り, 教えの根 本 を的 確に と ら え, その領

を歌にしてい るか らこそ

世の 人々 が真 宗の根 本 聖 典に 取り上 げた と考 え る方が 自然である

特に 『帖 和 讃 』 は聖 人の根 本 思 想 を歌っ た もの で あ りこの 点が 『教 行 証 文 類 』 の和 語 版(tt 13)である と評さ れ る由 縁 と思わ れ る。

(5)

出 雲 路   英   淳 Z5

 

つ ま り聖人の和 讃は その内 容 も形 式 も共に優 れて いたか らこそ門 弟は じ め

くの 人 々 に

し ま れ かつ

研修

さ れ たの だ と

え る。 ま た 聖人 自身も和 讃 を教 化の ため に使っ て お り例えば 如

願 に つ い て

専信

房へ

てた

手紙

力の領

来の願 力を述べ た

尾 に

讃を二 首 記し てい る。

  

弥 陀の本 願 信 ずべ

       

力成

に は

    

本 願 信 ずるひ とは みな

          

の心

い た ら ねば       摂 取 不 捨の利 益に て      大 小 聖 人みな な が ら

    

无 上 覚 を ばさ とる な り

              如来

の弘 誓に乗

な り〔EI4 》

 

この

和讃

共通点

は 「み な 」 とい う言 葉が入っ てい る点で あ り, これは専 信 房に対 し如 来の誓 願 を

ずる

, 残らず

わ れ るのだ か ら

な く

実の教 えに励む事 を願っ て

聖 人が記 し た もの と思わ れ る

 

ま た逆に

直弟

か らの手

に和 讃を信 心の証 文 と して示してい 例 もあ

これ は聖 人の直

慶信

房か ら 聖人へ ら れ た

あ る

   

无量

寿経

』 に 「信 心 歓 喜」 と候

『華 厳 経』 を 引て 『浄 土

和讃

』 に も 「

心 よ ろ こ ぶ其人

  

を,

如来

とひ と し と説き た まふ

大 信 心は仏 性 な り, 仏 性 即ち如

な り」 と

せ ら れて候に

  

略 )ま た 「真 実 信 心 う , 正

聚の

に入 る, 不退 の

に入 りぬれ ば, 必 ず 滅 度に さ と     ら しむ」 と候{E15)。 (カ ッ コ は筆 者 加 筆 )

 

これ は如 来の信 心につ い て 自 らの領 解 を語 り, 日

夜念仏

え る生 活を送っ てい る事に対 する御 意 見 を伺 うた めに送っ た 手 紙である が こ こ に も

和讃

心の証し と して記さ れ てい る とい う事は 聖 入の和 讃が門 弟た ち の

に も

え ら れ てい た

と して注 目し たい こ の 中の和 讃は文の中に 組み込ま れ てい る の で解りづらい が

本来

4

1

の形

である。 これ は聖 人 自身で はな く直 弟が 和 讃 を書いてい る訳で, そ れ も

ら の

領解

し た

え に沿っ た内 容の和 讃 を記 す 程

研 鑽 を続 けてい る とい う点に おい て改め て

和讃

及し た

さ と深さ を

感ず

る。 そ れ は

4

1

首 とい う短い 形 式に し た事が普 及し た理 由である と考え ら れ,

和讃

性質

り易 く意 味 深い

えて 「 読 み易い 」 とい う要 素が 加

さ れ て, よ り

層 近 の に っ た と想 像で き る

 

この ように

和讃

は聖人 の

当時

か ら門 弟た ちによっ て次 第に広 まっ て ゆく訳である が, 聖 人 没 後 も途 断 える事 な く聖 人の

言葉

と し て

用さ れ た。 『歎 異 抄 』 第

15

章に登 場す る

和讃

は その

好例

で ある

   

こ れをこ そ,

生に さ と り を ひ ら く本 と は ま ふ し さふ らへ

『和 讃』 にい は く「金 剛堅固の信

  

心の

 

さだま る と き を ま ち え て ぞ

 

弥 陀の心 光 摂 護して

 

なが く生 死 をへ だて け る

導 讃

1

  

と は さふ らふ は

信 心の さだま る と きに, ひ と た び摂 取 してすてた ま わざれば, 六

廻 す    べ か らず(t’161

(カ ッ コ は筆 者 加 筆 )

 

』は

直弟

であ る唯 円(ta17)の著とい わ れ て お り聖人の信心 を

き留めた文 書 と し て大 変蕈:要 な 聖教で ある

この では

他力

の さ とりとい もの の と らえ方につ い て自 力の さ とりとの相 違 を説 き, さ とりと は全て如 来の願

に よっ て成 就せ し むる事 を 重ね て述べ , その

で聖 人 の言 葉 として

述の和 讃を引 用 するの である。

(6)

6

『三 帖 和讃 の読誦につ い て

 

こ の よ うに和 讃 は 聖 人の生の言 葉と して文 書の中に

用さ れ てい る。 そ し て,

和讃

の持つ布 教 的

質が聖人 没

には

々重 要

さ れ,

忌, 月 忌の際に は聖人の遺

ぶ 意 味か ら次 第に勤 行の

和讃

り入 れ る ように な り, そ れ が定 着 して い っ た もの と推 測 する。

えば,

専修寺

には聖人

実筆

のある『帖 和 讃

稿 本〔庄 18)と共に聖 人の高 弟で あっ た顕

上 人の

写本

(注 ’9)が

さ れてい る が, これ ら は 『帖 和 讃 』 を順 番に編 集 し

その上に四 声 点や左 訓ま で

し てい る と い う事か ら恐 ら くは順

誦 あるい は諷 唱す る た めに整えた もの と考 えら れ る の であ る。 そ して, その事は和 讃の性 格か ら見れ ば, ごく

自然

傾 向

とい え る の か も し れ ない。

 

それでは次に和 讃が門

で, どの よ うに諷 唱さ れ て き た の か, そ の経 緯につ い て史 料 を 基に 探 っ てゆ く事に し よ う。 そ こ か ら

和讃

が真 宗 教 団の

で ど の よう な 役 割 を果 た してきたの か につ い て も併せ て考えて み たい

1

 

村芳

郎 著 『日本仏 教 入 門 』 (角 川 選

25

照。 注

2

 

山田文 昭 著 『真 宗 史 稿 』 (法 蔵 館 )よ り本

論,第

「不

断念仏

」 の

, 参 照

3

 

『 恵 信 尼

文書

三 通には 「こ の文ぞ, 殿の比

の 山に堂

つ と めて お は し け る が, 山 を 出

  

で て, 六

堂に百日こ も らせ

て」 とあり, 親 鸞 聖 人の修 行 期 を記 す 貴 重な

史料

と し て重

  

である。

真宗

聖 教 全 書

5

巻よ り

P

106

参 照。) 注

4

 

後 白

1127

92

)撰 述の 『梁 塵 秘 抄 』 は当 初

10

巻に加え て

秘抄

伝集

  

10 巻

20

巻で

構成

さ れ た と推 測 する

現 在で はこ の 内

秘 抄

1

2

, の

2

  

巻 『梁 塵 秘 抄伝 集 』第

10

14

, の

5

さ れてい る。

今様

に も

民の生

  

らの音 楽 的

自叙

伝も

録し て お り, 文

音楽

芸 能 史の重 要 な 資 料になっ て い る。 (棚

光 男

  

著 『後 白 河 法

講談社

メ チエ )よ り

第 1

章, 後 白 河 論 序 説, 及び

前掲書

仏教音楽辞

  

典』 よ り 「 梁

秘 抄」 の

項参

照。

56789D

 

     

 

ユ 注

注 注 注

武 石 彰 夫 著 『仏 教 歌 謡 』 (塙 書 房 )よ り第三

「三

帖和讃

を め ぐっ て 参 照。 『真 宗 聖 教 全 集 』 第

2

巻,

P .

492

。 秦 恒 平 著 『梁 塵 秘 抄 』 (

NHK

ブッ クス

311

P

227

及 び 注

5

前 掲 書

P .

84

参 照。 『真 宗 聖 教 全 集 』 第

2

P

502

。 『

塵 秘 抄

P .

226

。 『

無 量 寿 経 』 下 品 下 生 段には 「下 品 下 生

 

或有衆

 

作 不

善業

 

五逆

悪」 とあり五 逆

  

悪の順 序が逆になっ て い る が

内容的

である

(『真 宗 聖 教 全 集』 第

1

P

65

11

 

4

1

首の形 式が親 鸞聖 人和

徴であり

かつ 『法 文 歌』 との関 係に つ い て

及し た

  

の は多 屋 頼

大 谷

大学

教 授である

氏の著 書 『和 讃 史 概 説 』後 編,

三 章, 第二節に詳しい 。

  

その後, 前 述の

夫らに よっ て更に双 方の

係が

明 さ れ た

12

その

分は韻 律が 「

3 ・3 ・5

」 「

3

5

5

」 の句で今回は ま と め て, その

と し て     数 えた。 注

13

阪 東 性 純 著 『

親鸞和讃

信 心 を う 』 (

NHK

出 版 )よ り

序章

, 親 鸞の生 涯 と著 作, 

P .

15

    参 照

(7)

出 雲 路   英   淳

17

14

 

真宗

聖 教 全 集』 第

2

巻,

P

716

専信

房は遠 江

現在

岡 県 西

部)

の人。 『 門

交 名 帳』

  

光 源 寺 本に は直 弟 と して で はな く 「上 人 面 授 」 の人 と し て, 直

と は

別扱

い の

6

の内の

1

  

人に記さ れ て い る

名帳

』 の

で遠江

出身者

はこ の

信 房 ユ名で ある。 ( 『真 宗 史 料 集 成 』     第

1

P

1001

参 照

) 注

15 

真 宗 聖 教 全

2

巻,

P

675

陸 (現 在の茨 城 県 〉の人。 『交 名 帳s は 聖 人

  

の直 弟子 と し て真 仏

真宗高

田派の

2

の次に記さ れてい る。 注

16

15

に 同 じ

P

787

17

円 房は

常陸

国 河

田の人。 生没

は未

である が, 真 仏の弟 子であ り聖 人 面 授の弟了 :

  

し て

当時

の門

で は 重要な人 物であっ た。 『歎 異 抄 』の中で は第

9

章,

13

章に唯 円の名が

  

あ る

か ら, この

編作者

と さ れて い る。 正応 元 (

1277

) 年には上 洛 して覚 如 (本 願 き第

  

世)

教授

し た と伝え られ る。 (

菊村

著 『

鸞辞

東京

出版

)よ り く

円〉の

    参 照。) 注

18 

生 桑 完 明 氏によ る と 『親 鸞 聖 人 真 蹟帖 和 讃 国 宝

』 の内, 実

の真

は 『浄 土

和讚

』 の

  

題 名

巻 頭の 『称 讃 浄 土 経 』文, 巻 尾の 『

楞厳経

』 文, 『浄 土

和讃

』 全

, 『

高僧

和 讃』

  

の題 名

像 末 和 讃 』の第

1

首か ら第

9

首まで の

9

首の み が聖人 の

筆跡

め ら れ, そ の他

  

は別 筆 と の調 査 結 果で あっ た。 又,

書写

し た 人

は 『

・高僧

』 の二 和 讃につ い て は禾だ

  

特 定できてい

和讃

表紙

に 『

釋覚然

』 と あ る事か ら

然 房が書 写 し た人 物

  

と考え ら れ る。 この

然 房は 正 元 元

1259

の聖人の

書簡

にその名

がある事か ら聖 人 面

  

授の

1

と思わ れ る (『

親鸞

真蹟

帖和讃

国 宝

本 解

説』 参 照。) 注

19

1226

1310

後 (新 潟 県 )の人。 初めは真 仏 上 人に師 事 し た が, の ちに 親

  

聖 人に

帰依

し, のちに

田派の

三世 と なっ た。 現 在, 専 修 寺に残されてい る顕 智 写

  

帖和讃

』 は

奥書

きに 「正応三 (

1290

) 年 庚 寅 九 月 十 六 日令 書 写 之 畢」 と記さ れ てい る

2

 

諷 唱

略史

 

前章

で は

和讃

構造

と性 質を確か め, その上で諷 唱 する背 景 を考 察 し た が, ここ で は歴

的に親 鸞 聖 人の没

和讃

が 人 々の間で どの ように唱 え られ 広 まっ てい っ たのかにつ い て具

体的

に考え て ゆ きたい

 

まず

史料

と して挙 げたい の は意 外に も真 宗 関 係で は な く天台

宗僧侶

の記 録である。聖 人 没 後

5

〔1年 頃の

述で 「 頃の在 家 信 徒の中には 『阿 弥 陀 経 』 も 『六 時 礼

』 も

まずに

信 (親 鸞 聖 人の事 ) の

っ た

和讃

ばか り唱えてけしか らん」 と い う内 容で ある

これ は 『愚

記』 と題 する著 述で ある

    阿 弥 陀 経 読 まざる事

   

当 世

向 念 仏 して在 家の信 者を

め 愚 禿

信と 云う流 人 作 し為る和

じて同 音に

  

念 仏を 唱る

事有

り,

量寿 経に 三

輩往

生の相を説に,

向 専 念 無 量 寿 仏の文 有 り, 是を

本説

  

念仏

と 云 う名 言 出で来る云て

阿 弥 陀 経も

まず六時 礼 讃 も勧 行せず, 但 男 女 行 道し て

  

六字の名 号 ばか り唱え

讃を同 音に謡 長せ り。 (書き下し文 筆

)( tv

1}

(8)

18

帖 和讃 』 の読 誦につ い て

 

これ は宗

側の史

で はな く他 宗の記 述であ る事か ら

こ の 中の和 讃 諷 唱は事

え て

い だ ろう。 た だ し, 「 謡 長」と あ る

か ら

々 とし た

回し で余 り品の良 くない

で あっ た

え られ, その声が, 『 愚

記』で

皮 肉

ら れ る 理 由に なっ た もの と想

で き る のである。 そ して, 和 讃や 念 仏に節をつ けて勝 手に唱え る とい う

傾向

地に起 こっ た ようで, そ の事 を戒 める ように本 願

覚如

上人は 『改 邪

』 の

に触れ, 単に歌 を歌 う よ うに念 仏 を唱 えて も決 して往 生の 因 には な ら ない事 を 説 き

名念仏

の本

調し た。

   

祖 師の御 意 巧と して は ま た く

念佛

の こは ひ tS

い か や う に ふ し は か11i (t「

2) , と

  

いうお ほ せ な し, た だ

陀 願

の不 思

夫往

生の

佗力

途 ばか り

行 化

と め

  

し〈 き音 聲の御 沙 汰さ らに こ れ な し, (

中略〉

音曲

さ らに

生の

眞因

にあ らず, ただ 佗 力    の

心 を もて往 生の時 節 をさだ め ま し ます 條(tt3) ,

 

覚如

上 人 は

親鸞

聖 人の

曽孫

であり直

会っ た事はない はずで ある が, あ えて聖 人の名を挙 げて注

を う な が し てい る とい

は聖 人 没 後に門 弟の間で様々 な 考 え 方が現 われて そ れ が深

化し てい た

を 示 す

述 と思わ れ る

特に多 念 義の念 仏は数に こだわる念 仏であ り

仏 往生 の本

と もい う べ き浄土

で も, い つ の

に か唱

名念仏

を芸 能 化す る傾 向が強まり法 然上人 もあえて制

〔E‘) を記 して念 仏が世 俗 化 する

を懸

し てい た。

然,

親鸞

聖 人 と も

念 念 仏につ い ては注 意 を うな が して い た が, や は り

開祖

らの没

には

生 的に現わ れ て き た動きと考 え られる。

 

ま た

覚如

上人の

長男

で あ る

存覚.

ヒ人 は

念仏

和讃

を唱 える際の心が けにつ い て 『破 邪 顕 」 の 中で 次の ように述べ てい る。

   

に和 讃の事。 か み の ご と きの

文 不 知のや か ら経

の深理 を も し らず,

釈義

の奥

を も

  

わ き まえがた きゆへ に い さ tsか の経 釈の こ ころ を や は らげて 无

の と も が ら にご 〉うえし め

  

んがために

と きノ弋

佛に くはへ て こ れ を誦し も ち ゐ るべ き よ し, さ づ けあ たへ らる 〉 もの

  

な り。 これ ま た

生の正

にあらずた S

仏の

助行

な り。

中略)

この

和讃等

は まな び や すき が

  

ゆへ , も し

称名

にもの うか ら ん (物 足 りない )と き, かつ は

聲を や す め し めん が た め に,

  

こ れ を し め し を か る 5 ばか りな り。 しか りとい ひ て これ を誦せ ざ ら ん もの

生を えざるべ きに

  

あ らず。

生の正 業はたs

南 無 阿 陀 仏の

行な り(ti5) 。 (カ ッ コ は

筆者

 

存覚

上 人は

讃 を 唱 える事 は否 定 して い ない が, そ れ はあ くま で

助 業

であっ て正 定の業   } ない

べ てい るのである。 又, こ の 中で

仏に加えて

和讃

を誦す

れ てい る が

これは現 在の真 宗 各 派で行わ れ る

勤行

である 「念 仏

和 讃 」 の形 式の源 と も な る記

で注 目し た い 。 し か し, こ の頃は ま だ

団の形

成初期

の段 階で あり

聖 教の編さ ん も

儀式

立し てい なか っ た。 そ れ 故, 存

上 人の この教えが どの 程 度 門 弟の間に伝わ ったのか 興味深い 所である。

 

っ て こ の時

に お い て声 明の形

を具

体的

わ し た も の は 『算 頭 録』が最も明

と思 わ れ る。 これ は仏 光 寺 派の僧, 了 源が門 徒に示 し た制 法であ り, そ の 中に声 明の作 法と して の記 述がある

   

六時ノ ツ トメ (往生

礼讃)

ノ ツ ト メ ヲパ フキ テ 三トナ 光 明

和 尚 (善 導 大 師 )の礼 讃

  

ニ カヘ テ, 正信 念 仏 偈 等ヲ諷 誦セ シ メタマ ヘ , マ タ

仏ノモ ノ ウ カ ラム トキハ , 和 讃ヲ引 声

  

シ テ五 首マ 七 首ヲ モ諷 誦セ シ メタマ ヘ リ ト ,先 師 明 光 ヨ リウ ケタマ ハ リ キ 圃 。 (カッ コ は

者     加 筆 )

(9)

出雲 路  英  淳

19

 

この著は元 徳 元 (

1329

) 年に書かれ た もの であ り本 願 寺の覚 如

存 覚 両 上 人 とも 同 時 代の

ので あるが この

文を

る限 り

和讃

は この時

にも既に諷 唱され てい た と考えて良い だろ う

し か も

和讃

に 「

信念仏偈

」 (略し て正

信偈

)も唱 え る

示 し てい る点は興

深い 。 い わ ゆ る 「

信偈

念仏

和讃

」 の形は

願 寺 教

か ら始め ら れ た とい う記 述が

数多

くある が, そ れ以

に仏 光 寺の

勤行

に既に

り 入 れ ら れ てい た

声明

の歴 史 上,

え直さ な け れば ならない 点である

 

ま た, 「

タ 七

諷 誦」とある が, こうい う形で行 う勤

は現

で も

田派に残っ てい て 「 和 讃, 五首 引」 と言わ れて い る. 恐ら くこの形

真宗

期か ら

え ら れ た もの と思わ れ るが, そ れ が現 在のよ う な 「

構造

」 になっ てい た か ど う か記 さ れ てい ない のが

残念

で あ る。

 

こ れ ま で

和讃

心に し て諷 唱の歴

を見て き た

で あ る が,

和讃

歌謡性

宗教性

々 な

で人々 に受け入れ ら れ

真宗教

団が形

さ れ る 以

か ら

自然

の う ちに

し ま れ

が っ てい っ た

料の 中か ら読み取 れる。 しか し同 時に和 讃 諷 唱は まだ

般 的 は な く真 宗教 え本 質 極め た者か, あるいは

部の熱 狂 的な信 者 以 外は 「

和 讃」 の形 式を知ら なか っ た し又, 統 治 者 側 もそれ 程 積 極 的に呼びか けた訳で は ない の で勤 行と して は ま だ試 験 的な状 況で あっ たの か も し れない

 

や は り蓮

上 人 が登

す る まで の

真宗教

勤行

とい えば 『

礼讃

』(「e8)だっ た と思わ れ る 。 そ れ は蓮 如 上 入の

十男

, 実 悟の記し た 『

科御坊事

』 に

しい 。

   

61

, 昔は 六時 礼 讃 を朝 暮の勤 行 也

。讃

念 仏は近 年の事 なり

。讃

念 仏 蓮 如 上 人 卅 ばか り の御

  

よ りと

申候

。 越

寺は

持 な くて

留守衆

, 堂

衆斗候

, 文

比ま で は

朝暮

の行

  事

に六

時礼

た る と て

 

礼讃

』 は 元 々,

わ れ てい る

勤行

で, あの 『

然 草』圃 に も 登場 する

に人々の間 で は

んに

じ ら れ てい た 聖

で あ る。 ま た, この

史料

で 「

越中瑞泉寺

」 を

に取り上 げて, 六

時礼讃

っ てい る

事実

し てい る が, こ れ は

極端

と し て

げた ものと思わ れ る

はこの

瑞泉寺

寺第

五世,

綽如

上 人 が

立 さ れ た

寺院

(庄 1 °) , こ の上人の

品を見る と全 てが浄土宗の形 式で真 宗の特 色が

斉 残されてい い の で ある。 つ ま り綽 如 上 人の肖像 画は浄

L

宗 の衣を ま とい 使 用し た声 明 本は全て浄土宗の本, そ して有 名 な 「 勧 進 本」 に も浄 土 宗の思 想をと り入 れ た

内容

なの である。 もっ と も綽

上人

身は大 変な碩 学であ り朝 廷からも重 要 視されて い た ほ どの人

である か ら対 面上, 浄土宗の形 式 を真 似る事で他 宗 派 と の融

をはか っ た との

方も で き る。   し か し, その ような妥 協 的 考 え方は独 自性 を 失 わせ る結 果にな り

その

例 として瑞 泉 寺 を挙 げ た もの と 思 わ れ る が, い

れ にせ よ

真宗

の独

性は蓮

上人が第八世 を継 承されるまで開 花で き な かっ た と

え ら れ,

綽如

上人か ら

蓮如

上人の頃まで は仏 光 寺 派 や三門 徒 派が隆 盛 を誇っ てい た

。特

仏 光 寺派の発 明 し た 「

名帖

」 は大 流行 し, 仏 光 寺の門 前は大い に にぎわ っ た。 こ れ は信 心 決 定 を 金 銭に よっ て定め血 脈 譜に 自

名前

肖像

画を

き, そ れで往生極 楽の証 し とする

b

の で ある。 誰が見て も, こ のよう な行 為は正 統で はない が

こうし た 現世 利 益の行い は 民

か救 い の道を 必 死 で

そ う と してい る ま さ しく凡 夫の姿で あ り, そ れほ どに世の中が乱れ てい た とい う 事で あろ う

そ の意 味で蓮 如上 人の登 場 は歴

の必 然と言え るか も し れ ない 。 上人は こうした現 世

(10)

20

『三 帖 和 讃 の読誦につ い て 利 益 的 行 為 を最 も嫌い

親 鸞 聖 人の教 えに還る事 を 強 調 し た

 

そ の蓮

上 人が

30

歳頃

で あ るが

におい て も

か ら脱け出し

真宗

儀式

め ようと す る

き が

出始

め た。 その

蓮如

上 人 の父,

存如

上人(醐 で ある。

史料

にも ある ように蓮

上 人が

30

の頃に

式が 『

時礼讃

』 か ら 「

讃念仏

」 つ ま り 「

和讃

念仏

」 に

変更

さ れ た とある が蓮 如 上 人が

8

承 さ れ るの は

43 歳

である

か ら, こ の

英断

っ たのは

第 7

存如

上人とい

にな る。 これ は

真宗教

団に とっ ては画 期 的 試みで,

覚如

存覚

上 人の 頃の和 讃 諷 唱 と は異な り, 正

式 作 法の

に親 鸞 聖 人の和 讃を組み入れ る とい う事で ある。 これに よっ て

真宗

は よ う や く独

の形

っ て声 明を行 うようになっ た。 こ の事は当 時の弱 小 寺 院である本 願

にとっ て は 小 さ な

出来事

だっ たの だ が, や が て

蓮如

上人の

になっ て その効 力は発

さ れ る。 そ れ が, 文 明

5

1473

な わ れ た 『信 偈

和 讃 』 の開 版で ある。 蓮

上人は布 教 活 動の

環 として こ の声 明 本 を 出 版 した。 その時, 父である存 如 上 人の形 式 を 継 承し 『三

和 讃』 と 『正 信 念 仏 偈』 を加 えて 四冊

として世に出 した の である。 この 「

和 讃 」 のス タ イル は かつ て仏 光 寺 派の了 源によっ て提 唱さ れ てい たが, 蓮 如 上 人が知っ てか知 らずか

番 先論 破 しした 派の形 式を 用 い る とい うの は,

と も歴

肉とい え よ う。

 

この文 明

偈 ・和讃

」 の

真宗

門徒

勤行

の際には 正信

偈 ・念仏 ・和讃

の形で

う よ うにな り, そ れ 以

こ の ス タ イル が

定着

し た。 そ し て, そ れ 以

わ れ てい た 『

礼讃

』 は

らに

か れ た{t“]3) 。 この形 式が現

に おい て も

願 寺 教 団を

心 に し て そ の

後脈

々 と受け

が れてい くの で あ る。 注

1 

愚 暗 記 』の著 者は長 泉 寺 別 当, 孤 山 隠士 と名 乗 る者である。 長 泉 寺は現 在の

井 県 鯖 江 市     街にあっ た天 台 宗 寺 院で ある。 尚, 『愚 暗 記 』は 上下二 巻よ りなっ て い た よ うである が, 現 在

  

で は こ の上 巻の み が現 存してい る。 (『真 宗 史

集 成』 (同 朋 舎 ) 第

4

,P90

719

) 注

2

  「は か 」 と は 「博 士」 の事で声 明 譜の記 号の事で ある。 因み に真 言 宗 は音 高 表 示 を 目的と       こいん                                                                   め やす

  

し た 「

」 を 用い, 天 台 宗で旋 律 を象 徴 的に記 号 化 した 「目安 博 士 」 を 用い る。 こ の

  

当 時は

況か ら考えて 「目安 博 士 」 の事 を指 してい る と思 わ れる が

上 人 以 降の

真宗

声     明では博 士は簡 略 化 された

現 在で は博 士と言 わ ず 「 節 譜」 と称 するのが

般 的で ある。 注

3

 

真 宗 聖 教 全 書 』 第

3

巻,

P .

78

9

。 注

4

 

この

制戒

と は法 然 上 人が浄 土 宗の教えにつ い て, 正 しい教 えの中で念 仏 する事を願っ て,

  

と か く

道に走ら ん とする者 を戒め るた めに記した 『 ヶ 条の制 戒』 の事で ある。 その

  

条に は 「黒 闇

己 が ふ て

芸 能 と し

,名利

檀越

  

を望む。 恐 ら くは自 由の 妄 説を

して世 間の人 を狃 惑せ よ。 班 惑の過 殊に重し

」とあり念 仏

  

の芸 能 化を懸 念してい る。 ( 『 定 本

親鸞

聖 人全

』 (法

館 )

第 5

巻,

P .

138

) 注

5

 

真 宗 聖 教 全

3

巻,

P

169

。 存 覚 上 人は覚 如 上 人の長 男であるが,

2

度 も

絶させ ら れ,

  

本 願 寺の継 承は次 男の善 如が受 け た。 尚, 存 覚 上 人は著 述の 中に和 讃を指

と し て

げる

  

が あ り, 例 え ば 「 女 人 往生聞

』 (『聖 教全 書』

3

巻,

P

116

)や 『浄 土 見 聞 集 』 (『同 書』

P .

   

382

)に も 『 帖 和 讃 』 を引 用して い る

(11)

出 雲 路 英  淳

2J

6

 

観 無 量 寿 経 』 散 善 義に は浄 土 門 内の行を 正行 と雑 行の 二

に分け, 更に 正

分 し て,

  

1

) 読 誦,

2

) 観 察,

3

) 礼 拝

, 4

) 称 名,

5

) 讃 歎 供

の五

と し た。 その上で

4 )

  名

を 正

(阿 弥 陀 仏の本 願に選 定さ れた 浄 土 往 生のた めの正 しい と なる行 為 )と

L、

  

そ の

を助

(往 生の助け となる行 為 )とした。 (『真 宗 大 辞 典』 の第二 〈正助二業〉の

  項

参 照。) 注

7 

真宗史料集

第 4

巻,

P

568

8 

礼 讃 』 は 『六

時礼讃

』 とも

す る。

中国

の善 導 (

613

81

撰 述 。 日 没, 初 夜,

  

後夜

, 晨

, 日

の六

を初め と す る諸 仏に礼 拝 する際に用い る文 集

  

にお け る

礼拝儀式

は建 久

3

1192

に京 都八坂の引 導 寺で法 然 上 人 とその門 弟 たちに

  

よっ て行っ たのが始ま りで あ る。

仏教音楽辞典

』 (法

蔵館

)〈往 生 礼 讃 偈〉参 照

) 注

9

 

徒 然 草 』 第

227

段は 『六時 礼 讃』 につ いて

か れ てお り 「六

時礼讃

法然

上人の

  

楽とい ひける僧, 経 文を集めて作 りて勧めにし け り, 云 々」と あ る。

松尾聰著

』     (清 水 書 院 )

P .

350〜1

) 注

10

瑞 泉 寺は明 徳 元 (

1390

) 年

綽 如 上 人によっ て現 在の

山 県

井波

町に

立さ れ た。

谷派

  井波別院

の通

で ある。

11

 

如 上 人 〔

1396

457

) 年は本 願 寺 第 六 世 巧 如 上 人の長 子 と して生ま れ た。 蓮

上人の思     想 体 系は存 如 上 人の指 導に依る所が多い。

12

 

現在

で は 『往 生 礼

』 の勤 行 は浄 土 宗

西 山 浄 土 宗

時 宗

融 通

におい て は主 要な

  

聖教であり

真宗本

派に お い て も

わ れて い るが 真 宗 大 谷 派に おい て 『往生

讃』

  

特殊

場合

で あり,

通常

は用い ない 。 第

3

章 

重構 造

につ い て

 蓮如

上人が開 版さ れ た文 明

偈 ・

帖和讃

は, そ の

広く流

され

願 寺の勤 行 式は, そ れ ま での 『

礼讃

』 に

わ っ て こ の 『正

信偈 ・

和讃

』 を用い る ように変わっ てい っ た

そ し て, 蓮 如上 人の晩

に は, この

式が既に

定着

し てい た ようである

そ れ は 『金 森 』 にある上 人の

葬儀

次第

る と現

わ ら ない

内容

である

る。 こ こ に は 「

信偈 ・和讃

」 と あ り 和 讃は 『 正像

和 讃』 か ら選んで い る。 そ して 「 初重

二 重

三重」 と

讃を明 記して い る

か ら, 三 重

構造

様式

が 公の

儀式

に も

わ れ てい た

史料

と し て

目し たい 困 1 。

 

こ こ で 「

構造

」 に つ い て, その源 流を

っ て み る

に し よう。 まず 「 」 とい う意

で あ る が,

端的

えぼ 「

旋律

構造

し て

心 と な っ てい る

さに

け ら れ た

名称一

1 と 言え よ う

従っ て 「三 重 構 造」 とい うと

中心 に な る音が 三 つ 存 在す るとい う意 味で

初 重

二 重

三重の順に音が高 くなる

とい う意 味 も含 ま れ てい る。   とこ ろで, こ の 「 重 構 造」 の ル

ツ につ い ては諸 説 あっ て 確 定で き ない た め, 今 回は その説 を

介し て

後の研

立て た い と

え てい る。 まずは 『堅 田

本福寺

明 誓

聞書

』 と 『山 科 御 坊 事』 の 二 つ の記 事につ い て で ある。 これを 列 記 して示 す

(12)

22

『三 帖和 讃 の読 誦につ い て 大 谷 殿 様 御つ と め は北 野の釈 迦 念 佛 を

かたどりた まふ とかや

(本 福 寺 聞 書 )dv2) 和 讃を

佛に くはへ

申事

の次

は 口

, 九 重に これ を さ だ む と

当時

は や うく 品は三 重ばか りにて候。 口伝

次 第 心

ら れ

度事

に て

( E3) 。

科御坊事)

 

こ の 二 つ の文 を 併せ て考 えてみ る と 「

」 の ヒン トに な る と思わ れ る。 つ ま り

当初

, 九 重 構 造であっ た 和 讃が次 第に 三重に なっ た, とい う記 述である

そ して 「

念仏

」 と は ま さ し く 「 九 重

念仏

」 を

っ た

であっ た 。 こ の

は現

京都

にある大 報 恩

の事で

蓮如

上 人の時 代 は浄 土 宗の寺であっ た。 つ ま り 『

山科御坊事

』 の

の 「九 重」 と は こ の大 報 恩 寺で 行 わ れた 「 九 重 念 仏」 の

し てい る と

え ら れ る。 この 「 九重

念仏

」 と は 『観 無 量 寿 経』 の九 品 思 想 瀏 か ら取 られ た もの であり念 仏 を 九 重に

け て唱え た よ う で あ る。 し か し九重 の場 合は

重か ら九 重まで順 に

くな るの で は な く, 三重まで

が 上 が る と 四 重 は

1

つ 下がっ て二 重と同じ高さ になる

そ して

                          

五重 も

1

っ 下がっ て初 重と同 じ高さ に な り, 六 重で再 び 上がっ て 二 重と同 じ高さ になる訳 である

従っ て九 重とい っ て も音は

3

種 しか な く初 重の音が

3

回, 二重の

4

回, 三重 の音が

2

回登 場す る

に な る。 これ を 図 に

くと次の ように な る。 恐らく史

か ら

測し て, この 「九 重 念 仏 ll の内の

最初

の 「 」 だけを

り 入 れ た との

り立つ の で あ る(澗 。

 

次の説は 「会 法 事 讃 』 に関 係す る とい う

で あ る。 これ は

真宗十

派の

の三門

派に も関

す る事 なので まず三門 徒 派につ い て述べ る

と す る。 この

鎌倉後期

か ら室 町

中期

にか け て

も 極 端な念 仏 を 唱え た

団であり, 前

で 示 し た 『

愚暗記

』 の

念仏

もこの三門

の人々 で は ない か と

わ れ る程である。 こ の

団は現 世

益のた めの 呪術 的

仏を勧め て活 動し て お り,

覚如

, 存

覚両

上 人 も注

し てい た

団で あっ た。 彼らの

徴は皆で

鸞聖人の和 讃を唱え る事で, 三門 徒と は

は 「

讃門徒

」 つ ま り

和讃

を唱え る 人 々 とい う

意味

で あった ら しい。 こ の讃 門

た ち が

和讃

に 『五会

法事讃

』 を唱え てい た とい う の である。

 

法事讃

』 と は

照の

で あ り正

名称

は 『

念仏略法事讃

』 と

す る。

容は 五

(宮 商 角 微 羽 )の曲 調に合わせ て修 する時の作 法を略 述し た もの で

37

種の讃 文が挙 げてあ る。 この讃 文の

, 三

の文が 『

行 証 文 類』 行

用さ れて い る所か ら, 『会 法

事讃

』 その も のは決し て真 宗と無

係な書で は ない   。 そ し て, この作法 を行 ずる際, 五

に分け て 唱 え る訳だ が 五音は音 を取る事が 困 難である た め, 五音を簡 略 化 し三音に して唱え

そ れが 三 重 念 仏の基 礎 に なっ た の で は な い か とする説である。 こ の説は大 胆な仮 説が多 く含 ま れ る の で史 料 不 足の

は 否 定で き ない が, 三門 徒 派 との 関 係を考え る と今 後 充 分 検 討すべ き課 題 と思わ れ る〔 注η 。

 

最 後に真 言

に伝わ る 「

』 に関

す る

で あ る。 『

』 と は

口 に言えば 長 大な仏 教 声 楽 曲であるが , これ と大 谷 派の 三重 念 仏の形 式 と に類 似 点があるの で そ れを示そう (“8) 。    

1

)三 重形式であ る事。

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