第八十五回
仏教文化講演会記録
切
経
伝
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経
録
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録
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から考えるーー
国際仏教学大学院大学学長落
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木目先生 ただ今から講演会を始めます。ご紹介のように、今日は第八十五回の仏教文化講演会でございまして、落合先生に私も非常に関心を持ってい る大蔵経目録の内容につきましてご講演をいただきます。 落合先生につきましては、皆さんのお手元にご案内が参っておるかと思いますが、改めてごく簡単に先生のご経歴とご業績等につきまして、 ご紹介をさせていただきます。 落合先生は一九四八年のお生まれで、大正大学、そして悌教大学の大学院で学ばれました。 その後、私の言葉で申し上げますと長い仏教文献研究の旅に出られました。その聞に私の友人を通じまして落合先生とお会いすることができ まして、今に至るまで私は先生の知人と自認しておりますが、 いろいろな機会にお教えをいただくということが続いてまいりました。 今回は私の同僚から﹁誰か大物の先生を選んでください﹂と言われまして、大物なら落合先生だろうということで、お忙しいと思いながらも お願いしましたところ、快諾していただきました。予想外というのが、私の本音でございましたが、こうして来ていただけることになりました。 先生はすでに仏教文献学の世界的権威と申して誰一人反対する人はなかろうと思います。それこそ東アジア一帯に足跡を示されてまして、仏 典調査、そしてシンポジウム、国際学会への参加、これを長年来続けておられます。先ほど、伺いましたところ、実は昨日北京からお帰りにな 一切経伝播の鍵を握る経録一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録
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ったばかりでございました。そういうお忙しい中、わざわざ私どもの講演会に来ていただいたことは、本当にありがたいことだと思っておりま す 先生のご著作は、非常にたくさんございまして、すでに何点かはお手元のチラシに書いてございますが、先生が今お務めの国際仏教学大学院 大学のホl
ム ペl
ジを開げていただきますと、先生のご経歴、ご業績の主要な事柄は書いてございます。今日は、 いちいち先生の大作の書名を 申し上げませんが、非常にたくさんございますので、ぜひ皆さんそれをご覧いただきたいと思います。 現在、先生は研究でお忙しいのに加えまして、大学院大学の学長の要職にありますので、先ほどの私の最初のお願いの時も、ご講演をお引き 受けいただくことは、困難だろうというふうに思ったしだいでございます。 この数年は、私も先生から毎回いろいろ貴重なご著作、ご業績を頂戴しておりまして、今日はその中のごく一部を持って参りました。これは 先生が、近年携わっておられる文献研究の精髄と申しますか、こうした著作をもう何冊も私の手元にお届げくださいまして、私の周辺の者から も何回も問い合わせが来ているようなことでございます。こうした著作をすでに何冊も頂戴しておりますがこれに加えまして、私にとって非常 に情報量の多いニュースレタ!も頂戴しております D たいへん興味深い内容で、是非とも皆さんも、何らかの機会にご覧になればと思っており ま す 。 ちょっと紹介が長くなりましたが、 どうしても私は皆様にもう一つご紹介したい先生のお言葉がございます。正確を期すためにその文章を読 ませていただきますが、 それはどこでお見受けした文章かと申しますと、先生が学長として書いておられる次のようなお言葉でございます。ち ょっと長いですが、是非とも皆さんにも聞いていただきたいと思っております。 ﹁大正蔵の大半をテキストデl
タ化したSAT
、CBETA
の出現で研究のスピードは格段に速くなり、比較研究が容易になりました。しか し読解そのものの深化は人聞が行うものであり、これだげは豊かな研究環境の下で自然の時間の流れに従わなければなりません。私たちの心の 中にある心内時計は往時と少しも変わりませんロ先人が、仏教思想の奥義理解のために命がけ(一所懸命) で格闘し編み上げた言葉の綴りの中 に、その真の意味を見出す瞬間こそが何にも代え難い仏教学研究の意義が存するのであります。﹂こういう文章でございます。これ拝見したと きに、涙が零れそうでした。これぞ、我ら研究者の中の研究者という思いがいたしました。この場を借りまして、先生、この文章を頂戴できましたことを本当に感謝して おります。ありがとうございました。 近年、データベースは、本当に山ほど出てきました。私も日々使っております。でもやはり読み解くのは我々の努力、これが無いとい貯ませ ん 今日の先生のお題はまさしく、大蔵経の閲覧に非常に重要な経録というものの最新の研究でございます。私も心して拝聴したいと思っており ます。後ほど、質問等の時間があるかもしれませんので、皆さんとご一緒にお聴きしようと思います。私の思いがこもってご紹介の言葉が妙に 長くなってしまいましたが、これからご教示いただきたいと思います。それでは先生、よろしくお願いいたします。 落合先生 ただ今ご紹介に預かりました落合でございます。過分というかこれ以上ないようなお言葉を木田先生からいただいて、 ただ今ちょっとしゃべ れなくなったんですけど。そんなに苛められるようなことはしておりませんので。先ほどの報告書もみんなで集まって報告書、 シンポジウムを 聞いたものであります。 どちらかというと私は口だけで、 口でおだてて﹁みんな、 どうですか?﹂というように進めるのが得意というか、 口先人間というか、そうい うような感じでございまして、本当に真剣にやったというような経験はほとんどないんでありますけども、実はこういう研究に従事するような きっかけというのがありまして、 ちょっと本題から離れるんですけども。 もともと私はインド仏教の中観派の月称、チャンドラキ
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ルティのものを学部のときにやっておりましたけれども、そのときにだんだんだんだ ん不思議なことが分かってきました。 中国で、何でチャンドラキ1
ルティは紹介されなかったのか、と。これだけの学匠が中国に伝えられて知られてないはずはないだろう、 と いろいろ見たところ、タl
ラ ナl
タというチベットの仏教史の中にチャンドラゴl
ミンという人、仏教文学などの得意な人ですけども、その チャンドラゴl
ミンとチャンドラキl
ルティが論争しているというのがタl
ラナ 1 タに出てくる。そうしたところ、義浄の著述、南海寄帰内法 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録一
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一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 一 四 伝の中にチャンドラゴ
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ミンのことだというふうに言われている場所がありまして。ところが、それが月官というんですね、チャンドラゴl
ミ ンで、チャンドラは月ですから、 カンはクァンと言うんで意味と音を合わせた。しかし義浄は別のところで﹁そういう翻訳の仕方は間違いだ﹂ と言っているわけです。それで﹁これはもしかしたら違うんじゃないか、 はっきり調べなきゃいけない L というのがきっかげでありまして、大 正蔵を疑ったのはその時初めてなんです。 ﹁ 大 正 新 情 大 蔵 経 は 、 これは違うんじゃないか?﹂ということで、芝の増上寺にあります﹁高麗大蔵経を見せて欲しい﹂と。今日のように韓 国から二種類の影印版が出てる時代ではありませんから、﹁どうしてもその現物を見せて欲しい﹂と言ったところ、﹁今までそういう理由で訪ね てきた人は誰もいないし、そもそも大正新情大蔵経は高麗版が底本でしょう﹂と。﹁なんでそれでもう一度あなたやるんですか?﹂という疑問 ですね、増上寺さんの。 先方にとっては大変ですから、それでもどうしても見たいというのが学部生ですから、やっぱりそれはちょっと受け付けられないと思います よね、今日でも。それをなんとかお願いしたいということで、あの手この手で何回も何回も行ったわ砂ですげども、最後は当時のお金で十六万 ぐらいかかるんじゃないかということです。﹁業者を呼んでセッティングして、南海寄帰内法伝四巻をきちっと写すにはそれぐらいかかるよ﹂ と。﹁あなたそれでも良いのか?﹂と一言われて、十六万というと今で言うと五十万以上の金でしょうかね。ともかくこれは無理だなと思ったん ですりども、親に借金したらできるかなというんで、﹁いや、 それはもうなんとしてでもやりますJ
ま さ か 、 その返事が返ってくるとは思わなかったみたいで、﹁じゃあ、確認で聞きますけども、この一字が、あなたが推測しているこの字が 月官と違うと言うんで、違ってる字が高麗版にあったとしたら、世の中変わりますか?﹂ って一育った。その時、ものすごい衝撃を受けまして、 世の中変わりつこありませんよね、 一文字で。何見ても、何しようが仏教の研究でそこまでの、まさかゴl
タマ・プッダではありませんけども、 そうじゃありませんから、私たちはそういう勉強をしている人間で、そんな変わりっこないので、﹁あ、 それは変わらない﹂というふうに言う べきだったんですけども、そこで火が点いちゃつたんですね。これは絶対に引き下がらないと、向こうが駄目って言うんだったらそれはもう仕 方がないけど、﹁いや、世の中は変わりませんけども、なんとか見せていただけませんでしょうか﹂ って、もう一度頭を下げたんですね。で、 もう返事が無かったんです。後日連絡がきて、﹁撮影するから﹂。で、いよいよそれがマイクロフィルムに焼き付けされたのが出てきたので、見せてもらったんですけども。大正蔵と同じでした。これはもう 勉強止めようかなと思ったんですけども、 し か し 、 いろいろ他のことが分かりまして﹁あ、これはもうちょっと大正蔵も一からきちっと全部、 チェックし直さなきゃいけないな﹂と他のことでいろいろ分かってきたんですね。 そういうことで次から次に展開しました。南海寄帰内法伝に書かれている、あれは南海の国から書を寄せるというんで、今のインドネシア、 シ ュ リ
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ピジャアという固から書いて寄越したわけですけども。そこに﹁自分が翻訳した物ともう一つ大唐西域求法高僧伝というものを一緒に 送ります﹂と書いてあるんです。ところがこれは牧田諦亮先生の京都宅で大唐西域求法高僧伝を輪読会で読んで、 それでほぼ仕上げて、それを 形にしようとしてたときに、私が解題を書く役をさせられて、長年疑問に思っていた大唐西域求法高僧伝は、これはおかしい題名だと、内容と 合わないというふうに、なぜそんな名前を付けたのかずっと疑問だったんです。それでどうもおかしいんじゃないかと、 つまり古い写本にはも しかしたら違う書名が書いてある、大正蔵のフットノl
トにもちらつと書いてあるんですね。 ですからこれを徹底的に調べてみようと言うんで、 高麗版から宋版、それから元版、明版、それから日本の古写経、天理大学にある奈良朝の写経、それから敦燈本のペリオ本(司・ N C C H ) 、これ南 海寄帰内法伝の巻一があります。そういうのを見ていきますと、なんと、違う書名がペリオ本にあり、そして天理、これは奈良時代の写本です げども、ここにも違う書名があるんですね。それから名古屋の七寺の一切経の南海寄帰内法伝にも別の書名がある。別の書名は大周西域行人伝 な ん で す 。 つまり周、則天武后の時代、六九五年前後ですけどもその時に大周ですから、これは別に後に大周から大唐に変えるのは構わないんですが、 西域行人伝、旅人ですね、そういう旅人の旅行記であるという。 ですから私が長年訳註研究をやったときに不思議だなと思ったのは、その書名 が求法高僧伝ではない。これは西域行人伝になるとぴったりくるんです。私の義浄に対する、義浄はどんな人物かというものとが一致するんで す。義浄は大唐西域求法高僧伝などとは書かない、まあ勝手に思い込んでいたわけですけど、それで、 ですから刊本と写本と総合的に見ていっ て、そしてその隠されたあるいは隠してしまった何かを掘り出す、 つまりそれが分かったときは先ほど木田先生が言ったように、非常に感激し ま し た ね 。 さらに京都の法金剛院という名刺がありますよね、双ケ丘のところに。あそこに古い目録があります、これはもともと法隆寺にあったんです 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 一 五一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 一 一 一 六 けども、しかし私は法隆寺のものは中世興福寺の配下になってたんで、興福寺の現存章疏目録だと思います。そこになんと、大周西域行人伝一 巻という名前が出てきたんです。 つまりもともとあった書名のほうが日本に伝わっていたという、これを見た瞬間もう一人で騒いでおりました けども。やっぱり、何か隠したんですね。 で、だんだんだんだん分かってきたのが、開元録の七百三十年智昇が書いた関元十八年の関元釈教目録、非常に重視されておりますげども、 しかし私が見るところではたくさんの間違いと、それから何よりも大きな謎がそこに秘められているんです。どうも智昇の前に改編と言います か編集作業がある。そのトップの、当時は玄宗皇帝ですけど、玄宗皇帝が直に出したかどうかは分かりませんけれども、たいへん大きな事業が 行 わ れ て 、 一切経がずいぶん直されたんです。そういう証拠が日本の平安時代の写経の中から、その片鱗が出てくるんです。 何か違うなって言うんで、何かおかしいなって言うと、﹁あ、これもともとの本だ、元にあったものだヘ つまり梁高僧伝のようなものでも長 安には二種類あったという。で、日本に両方伝わってきているんです。そういうことが、次から次に分かってきましたので、これは関元録の前 に大きな編集事業が行われたと。 つまりそれが分かると何が分かるかというと、例えば一例ですげども、最近ジャン・ナティエさんあたりが一吉 い始めたかもしれませんけれども、般若心経は玄突が訳したものではないと、これは良く言われるようになりました。なぜならば、玄突が西域 に向かったときに砂漠で観音様を念じたけれども効験がない、それである人から教わった般若心経を呪したところ自分が行く道が聞けてきたと いうことで、般若心経は良いものだということを伝記に書いたんです。でもその般若心経はしかし玄突は帰ってきてから訳したもんでしょ、と。 その前に般若心経はなかったんじゃないかと、 それはおかしいという議論ですね。 つまり般若心経は帰国後玄突が訳したものです。 ではその前に何の般若心経があったんですか、 と。羅什訳あったんじゃないかと。羅什訳は先ほど言いました関元録の中にはじめて出てくる。 開元録は開元十八年、七百三十年。玄突さんが帰ってきたのは西暦で言うと六四五年ですから、後に作られたものですよね。 つまり、羅什訳般 若心経という大明呪経というのは玄突が行く前にはなかったよということが証拠になっているわけです。 しかし、開元録のそういう氏素性をきちっと見ていきますと開元録のときにいろんなことをやったんですよね、 いろんなことをやりました。 つまり、羅什訳の般若心経と言われる般若波羅蜜大明呪経というのは、もともとあったんです。三蔵記集以来ずっとありました。それに羅什訳 というふうに付けたのが関元録です。智昇もおそらく関わったんじゃないかというふうに思いますけど。 つまりそういうことで、玄笑三蔵が西
域に行ったときに出会った、益州、成都で会った人から伝授して請して持っていたものは、これは羅什訳ということが言えるわけですロ しかし、実際は羅什訳じゃないんですね。後の人が編集して羅什訳の般若経から編集したものでありますけれども、それが羅什訳という名前 が付けられたのは関元録の前です。ということで経録をしっかり理解していくと、ぜんぜんその般若心経がナティエさんが言うように本人がサ ンスクリット本を作って、本人が訳して般若心経を作ったのかと、少なくともそこまでは言えなくても、何かおかしい。おかしいことは何もな いんです。玄英三蔵という人は、そこまでの疑経を作る人ではないと絶対私は思いますし、学問的にもそれは否定されるというようなことにな り ま す 。 ということで、この関元録は七三
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年でありますが、その後密教関係などの経典なども入れて、西暦八OO
年に作られたのが貞元録でありま す。その貞元録は中国からなくなりました。そして、韓国に残ったんです、高麗版のほうに。この韓国の高麗版を元にして大正新情大蔵経はで きております。 できているけれども、何かおかしいんですね、日本に伝わったものと何か違う、 ということが古来より言われてました。それで、 それをしっ かり調べられたのが塚本善隆先生でありまして、日本に残っている古本貞元録を調べられて論文を脅かれていて非常に画期的な論文でありまし たけれども、しっかりとした貞元録というものが塚本善隆先生のときには見つからなかったんです。 たまたま私がその義浄のことをやっている中で尾張名古屋の七寺一切経の貞元録を見たら、もう腰が抜けんばかりに驚いたんです。非常によ くできているんです。これはすごいと。何とか報告書に出そうというんで、七寺古逸経典研究叢書の第六巻の中にそれを入れさせてもらいまし たけれども、そこからはいろんなことが読めるんであります。 ちょっと話の順番が変わっちゃったんで、申し訳ないですけども、その七寺の貞元録のほうを見てみますと、これはぺ1
ジで言いますとレジ メの九ページになります。九ページに七寺一切経のことを少し書いておりますけれども、これは七寺からいろんな変わった疑経が出てきたのは なぜかというのは不入蔵ということがあるわけです。不入蔵というのは入蔵しないというんで、要するに目録に入れないという、そういうもの がリストにされていて、なおかつ書写、写経までされている。これは写経しちゃいけないという命名ですよね。ですから中国には、敦爆本も含 めて不入蔵に該当するものはほとんどゼロに近いです。 一切経伝播の鍵を握る経録 七一切経伝播の鍵を握る経録 二 一 八 敦纏本でそれが不入蔵かもともとあったものか分からないですけど、 一本だげありますけれども、あとはないんです。日本は何回も何回も書 写してきでるんです。これも驚いたんですけども、その不入蔵のリストって何が不入蔵かというと、先ほど言いました智昇が開元録を作ったと き に 、 一一八部二四七巻ほどはリストの中に入れちゃいげないよという、それが開元録は不入蔵という名前は書いてなかったんです。貞元録の ときに不入蔵と書きますけれども、概念は同じです。 つまりそれをリストアップしたんです。なぜかというと、これは明らかにその前の大周録、 則天武后の時代の六九五年にできた武周録、大周録、これに対する猛烈な批判です。 つまり、言うてみますならば政治的なんです。 ですから大周録の誤りに対する智昇の批判というのは当たっているし鋭いし、もう言うことな いです、すばらしい。 しかしすばらしいんですけど、他のところまですばらしいかというとそうじゃないんです。手抜きまではいきませんけれども、ぜんぜん調べ てなかったりするんです。そういうことで不入蔵は大周録にあるおかしなものを全部外しましたよ、 というんで、これとこれとこれだっていう、 つまり大周録を意識した目録が関元録の不入蔵なんです。 その不入蔵がそのまま貞元録、 八
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年円照のものに引き継がれて、そして誰が持ってきたかというと弘法大師、空海さんです。空海さんが 八O
六年、持って帰ってこれが基本として広まった白 日本はいったい何をやったかというと、その不入蔵のリストのものを写してしまったんです。これは写してしまったという言葉はちょっと正 確じゃないかもしれませんけれど、当初は勘経と言って、勘は考えるの勘ですけども、どうもなんかおかしいんじゃないかというんで、あえて 写して調べていったんですね。それは正倉院文書の中に残っております。勘経したと。研究所を作ったということなんですが、それの内容がど んなであったかという報告書も何も書いてない、ただそれだけなんです。 つまり考えたんです。おかしいことがたくさんある、 と い う こ と で 、 それを書写したお寺があって、それは東大寺ですし、 そして法隆寺です。 いろんなことが分かってきたのは、石山寺の一切経もそうです。七寺もそうですけど、七寺の元になった法勝寺、今の京都の動物園の辺りにあ った法勝寺。こういうところはみんなそれを写したんです。 ですから七寺のは法勝寺のものを基本にしているので、尾張名古屋でも苦労して、尾張から京都まで出てきて法勝寺のものを写しています。不入蔵のリストに入っているものが大半です。これが、七寺の古逸経典と言われている非常に珍しいものでありますけれども、そういう物を写 してやったものと、今度は写さないグループがあるんです。写さないグループの代表は何かというとこれは法然さんの選択集(せんちゃくしゅ うてあるいは選択集(せんじゃくしゅう) でしょうか。この選択集の中に大乗の経典は何々から何々であるという章がありますけれども、 そ こに大乗の経典は大般若経から法常住経までであると、その後の数字が間違っているんですけど、ともかく最後は法常住経なんです。しかし、 七寺も法勝寺も法隆寺も東大寺も石山寺も、これじゃないんですよ。慈仁問八十種好経です。このレジメ九ページの真ん中に慈仁菩薩が三十二 相八十種好を尋ねたという、これは疑経なんでありますけれども。これが大乗経典の最後なんです、貞元録の。 こういうこつ流れがある。ですから法然上人がご覧になられた比叡山の黒谷の報思蔵一切経は法常住経で終わっている。だから清水寺もこれ と同じだと書いてありますんで、清水寺も同じ系統です。しかし主流と言いますか、比叡山は、 では主流ではなくなるのかつて言いますけど、 比叡山も一蔵だけでありますのでなんとも言えないんですが、もう一つの系統は慈仁問八十種好なんです。 そういうことでこれがはっきり分かるわけでありまして、七寺一切経の持っている価値はそういう日本の勘経する、調査研究する、中国はこ ういうふうに智昇が駄目だって言ったものを日本は結構考えたんです。それで、研究所まで作った。 そうしていろんな答えなり、考えなり出てきたんでしょうけど、 それは埋もれてしまいました。七寺にはまだその半分ぐらい残っております ので、まだまだていねいに調べていかなければならないわけですけども、このように経典目録は極めて重要なんであります。それは、 一 切 経 を 書写するということだけではなくて、それぞれの経典がどこに位置づけられるかという経録の歴史というのは、これは大乗なのか小乗なのかと いう議論が起きた経典がありまして。それが、あっち行ったりこっち行ったりするわけですね。 つまり論争があったというわけですから、実際 にそういうものを見ていくと、今日的観点からもどっちに入れたら良いのか分からないという、そういうものがあるわけです。 ですからそういうようなものを丹念に調べていくといろんなことが分かるんじゃないかなということであります。 その前に戻りますが、八ページに写真が載っております。これは河内長野の金剛寺でありますけれども、この金剛寺も非常にいろんなものが 所蔵されていることが分かったわけでありますけれども、ここに断簡がありまして、これはお経の経典の一部ではないんです。ですから何かと い う と 、 一切経を写経するうえで指針書となる、そういう一番大事な目録を作るという、これが最初のやり方でありまして、その現物が残って 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 一 九
一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 金悶寺蔵 r貞元録』巻三十断簡a 二 二
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いたということであります。 これを見ますと、上のほうの貞元録巻三十断簡a
の と こ ろは弘明集十四巻で始まっていて、後ろのほうのところに 始まっているのが三階仏法四巻です。その三階仏教の典籍 がずらっと書いてあとまで行くんですけども、実はこれよ りももっと続きます。しかし断簡でありまして、これしか 残っていないんです。 七寺のほうは最後まで残っています。もちろん塚本先生 が調べられたときには復元がされておりまずから、きちつ と全部載っておるんですけれども、これは高麗版にはない ん で す 。 つまり大正蔵にはこのリストは入っておりません。 唱 叫 挺b
. .:.< ....<.,....:"!t必詰 金剛寺蔵『貞元録』巻三十断簡b それはどういうことかというと、 大正蔵の貞元録をSAT
で調べてもCBETA
で調べてもこれは出てこないんです。 五回目、六回目ぐらいで終 つまり当時の唐では信行の三階教に対して、弾圧を何回も繰り返して最後には、 つまり完全に弾圧された。その三階仏教の教団の典籍を載せている貞元録はとんでもない目録だと。中国の後半のほ わってしまうんですけど、 う、宋の時代もそうですけども、貞元録を作った円照に対して非常に批判的なんです。こんな弾圧された邪教の三階教の物を載せるとは何事か それは というので、結局中国からは貞元録はなくなっちゃったんです、ないです。高麗に伝わったものが高麗国のほうでは載せたんですけど、 この三階仏法などが入っていないものでありますから、 おそらくは韓国、高麗のほうでカットしたのでなくて、中国の唐のほうの時代に、ゃっ やがて と削ったものが使われていたんだと推測できます。しかしそれすらも批判され、 なくなるわけですよ。 ぱりそんなに批判されるからそれだけを削りましょう、 高麗のほうには残りました、しかし完全ではない。では、日本に残ったものが完全かというと、これはやはりディテールに亙りますとなかなか難しいんでありまして、弘法大師、空海さんが将 来したものが原本に近いはずなんですが、未だに私、復元できないんです。最終的に五三五一巻なのか五三九一巻なのか、あるいは違うのか。 石清水八幡宮の記録に残っている巻数が正しいのか、 一体どれが正しいのか分かんないんです。 真言密教のそれなりの寺院は、空海さんの将来した目録に載るものをなるべく集めるんです。 つまりそれが一切経よりもそっちのほうが重要 なんです。これは、宗派仏教と言いますか、やっぱりそうなりますよね。 一切経よりもやっぱりそれは教行信証、どっちが大事だ、 一切経と教 行信証とどっちが大事、それはもう間違いなく教行信証に宗派のほうではなるんじゃないでしょうか。 海土宗でも選択集のもし法然さんが直筆で書かれた、題だけじゃなくて本文も書かれたものがあったら、これはもう一切経どころじゃないと 思います、浄土宗の者にとっては。 つまり宗派仏教ではどうしてもそういうふうに転回するわけでありまして、そうするとこれを近世に写した写本貞元録というものは、南都の 泰然さんという方なんですけども、この方は真言密教系のそれなりの寺院の方であったと思います。先ほど紹介した金剛寺のほうも空海さんの 関係のものを集めて書写しているんです。揃えるようにしているんですよね。これは、本来的なことでありますから、 つまりそこから疑問、そ してちょっと校訂をしなきゃいげないなというふうに、なってきたんだと思います。 それで、このレジメの一ページの本文の真ん中より下のところですが、近時、東京の害賠の販売目録に﹁安元二年﹂の奥書がある江戸時代写 本が掲載されました。それを見て、 ﹁安元二年、あれこれ、なんだったつけ? え 、 あ れ ? え?﹂西暦一一七六年です、院政期です。もうじき鎌倉時代になりますけれども、 これは七寺一切経の貞元録の書写された奥書が一一七六、安元二年です。だけど、写真に写ってる販売目録でしたから、そんなはずはない。こ れは新しい写本だ。おかしいなあって言うんで、すぐ本郷の琳浪閣というところですけども、そこへ行きまして見せてもらったら、 やっぱり近 世の写本です。その写本は、これ見ても分かるでしょ? 三ページ、これが安元二年と言われていて紹介されたものですけど、これは江戸時代 の写本です。どなたが見ても誰が見ても、紙質から何から、江戸時代のいつごろかということぐらいまで分かりそうな写本ですけど、著者奥書 がないんです。安元二年は元奥書です。本来もともとあった底本にあったころです。そして、 ていねいにていねいに写していった姿があります。 一切経伝婦の鍵を握る経録
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一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録
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この下のほうの写真には、 四行目、貞元新定釈経目録巻第三十、そして新訳目録外経十六部廿六巻二帳。それで小さい字で何か書いてありま す、赤字で。その赤字を上に拡大しました、﹁白下廿一行文校本元﹂です。下より二十一行の文は校本なし。 つまりこの新訳以降校本にはない と。これがまた驚きなんですよね、校本というのは校訂本のことですから、貞元録を江戸時代にわざわざ奈良から、これ南都泰然師と書いてあ ったんですが、その南都の泰然さんという人が尾張まで行って三十巻を全部写しちゃったんです。 一筆じゃないので何人かのお坊さんが、合力 で 。 それを二十策、二十とじに袋とじにしたんで内容は三十巻。これ全部写すにはやっぱり一か月ぐらいはかかると思いますけど、それを写して この朱筆でいろいろこういうふうにやってるわけですけども、ここに出てきたのは校本です。校訂本がもうすでにあったんだということが私に とっての驚きなんですが、じゃあ一巻からちょっと見てみます。 二ページに戻りますけど、二ページの上から七行目、第一策というのが書いてありますが、第一策というのは第一冊ということですけども、 それは貞元録の巻て巻二が合冊になっているんですが、これ五九丁あって、そして一人の一筆で異本注記がある。異本注記というのは、 カ タ カナで﹁イ﹂と書いてあるんです。それの注記があるというのは非常に重要なことでありまして、写本なり刊本でもなんでも、異本注記がある ということは校訂してたということです。 つまりそういう意識が高かったということになります。 テキストというものは文字は、やっぱり間違いが出てくるわけです。大正蔵も結構間違っているんです。結構というか、そんな一ページに何 か所もというわけではないです砂ども、間違いがあります。ですからSAT
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も間違いがあるんです。CBETA
のほうは高麗版を もう一度見て、大正蔵のほうの間違いというのを訂正して、赤字で埋めてってますよね。結構あるんです。 それからちなみに大正新情大蔵経も、初版と最近の版とでは違うんですよ、厳密に言うと。それ、私現場を見まして、やってるとこでちらつ と 見 て た ら 、 みんななんか作業をやってるんです。何の作業をやってるかと言うと、これは鈴木学術財団というところで日本大蔵経、大日本仏 教全書というのを復刻版を出したんです。そこに私もいまして、最初に見た光景が﹁あの人たち、何をやってるんだろう、切り貼りで﹂ っ て 。 それがちょうど鈴木学術財団では、早稲田大学の学生さんが四、 五人やってるんですよね。大蔵出版のほうでは二人の人がそれをやってました、 直してるんですよ。大正蔵もなんか変で、 ときどき詰まってるようなのが出ますけど、あれ、直したんです。それは直したということはどこにも書いてないし、 つまり普通だったら版が違うということになるんです貯どそれも書いてない。ごく僅かですよね。 一 巻 に つ き 、 五か所とか十か所とかそれぐら いでしょうね。これと同じことを台湾の続蔵経のところでも同じことやってたんで、 ちょっと私笑ってしまったんですけど。そうやって細かく や っ て る ん で す 。 で、高麗大蔵経の写真版が出たときに、それをすぐ私も関心があったんで見てましたけども、第一の発見はあの写真版の高麗版、東国大学校 版の黒いほうですけども、出てきたのは何かというと活字なんです。木版でしょ、高麗大蔵経は。それが活字が埋め込まれているんですロそれ で一体なんだろう、これ?って言うんで、 いろいろ見ていくと、結構活字があるんです。これは、親切に影印版を出したときに、刷ったところ で字がうまく出ないところがある。それを、大正蔵を切り貼りして青焼きのところに貼り付けて、影印版に乗せてるんです。 つまりそれをやると我々は疑っちゃって、使えなくなるじゃないかと。だからそういうことは絶対やって欲しくないわけです。もう最近は、 ですから黒い表紙の高麗版のほうの影印版じゃなくて、大きい緑色のほうの高麗版大蔵経を使うようにって指導せざるを得ないわけです。 それで、昨日北京から帰ってきましたけども、それは北京の中国国家図書館で先ほど言いました南宋思渓版、この影印版を出しましょうと。 それは中国国家図書館にあります。でも四三
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帖しかない。あと一五OO
ぐらい足りないんですね。 で、﹁なんとか日本の大きなお寺で出し てくれるところありませんか?﹂っていうような話から愛知県の岩屋寺さんが非常に好意的に﹁学問研究のために努力しましょう﹂ということ で出していただいて、重要文化財指定ですけども、それで一五OO
帖ほど撮影して合冊して、今編集作業をやってるんです。その恩渓版のほう もやっぱりいろいろな問題点が残っております。そういうのを丹念に見ていきますといろんなことが分かるんですけど。それを話していると時 聞がなくなるので。 今の異本注記のところに諸本というのがあって﹁本﹂というのがあるんです、赤い字で書いている。この﹁本 L ていうのは何なんだろう?と。 見ていきますとこの﹁本﹂と書いてあるのは、第一策、第二策、第三、 四 、 五 、 つまりこれは貞元録の巻十巻までなんです。これまで﹁本﹂と いうのが出てくるんです。そのあと出ないんです。﹁これは校本、 かなあ?﹂と、分かんないんですけど、また、皆さん考えがありましたら教 えていただきたいんですけど。貞元録三十巻のうち一巻から十巻までを本という泰然さんの注記があって、こちらの本にはなんと書いてあるか 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録一
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一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二二四 というと、それは校注の印なんです。 それで四ページのほうの第二十策、上のほうに赤い字で書い 近世写泰然師 r貞元録』巻三十 てあります。そこのところに、この一筆であります。そして、 異本注記があって二本﹂というのはある本という意味ですが、 そこにはこう書いてあると。﹁七寺のとは違う﹂と言うんです ね で校本、これが三か所校注があるんです。その三か所というの は、先ほどの二十一行の文章は校本にないと。寸己上校本無﹂ というのと﹁己下紙数校本無﹂、この三か所のところに寸校本﹂ と。これは貞元録の入蔵録の巻二十九、三十ですので、校本の か、これをきっちりやっておかないと写経事業というのは行えないので、ちゃんとやるわけですけど。 有無というのは入蔵録の校本を作るのは、非常に正しいという これは別の考え方ですけど、もしかしたら巻三十、二十九もたぶんそうなんだと思いますが、二十九と巻三十、この校本を作って、それで第 一巻から十巻までは校本みたいなのを作ったけども、それ以上作るのをもうちょっと良いかなあと、疲れたなというんで止めたのかもしれませ んね。その辺りは分かんないんですが、私にとって驚きは、江戸時代に写経事業をやるわげでもないのに、なぜ校本を作ったのか? 校本まで作る理由はいったい何処にあるのかと言いますと、これはやはり何度も申し上げますように、日本に伝わっているもの、そしてこの 版です。じゃあ思渓版の底本は? ときには黄葉版。黄柴版は底本は明の嘉興蔵、明版です。その明版の底本は何かというと元版の普寧蔵です。元版の底本は何かというと宋思渓 さ て ? この辺りになると﹁さて?﹂。開宝蔵の底本は、福州版の底本は、 さ て ? と な る ん で す ね 。 福州版というのは、大正蔵に宮本と書いてあるんです。なんで福州版が宮本なのかというと、あれは宮内庁の宮本なんですね。宮内庁脅陵部 にある福州版なんです。こないだ非常に驚いたんですけれども、宮内庁書陵部にあるものは混合でありまして、福州版というのは福州という地
名ですけども、実は二つに分かれてるんです白東禅寺版と関元寺版。両寺は近くなので、昔京都に東寺と西寺というのがありましたけども、そ れぐらい近くの寺が福州にあったんです。 今、東禅寺のほうはありません、開元寺のほうは残っておりますけども、 一本も開元寺には版はないんです。それが宮内庁にある、 で、混合 蔵 で す 。 そこで法華経のところが寸変だ変だ﹂ということが起きまして、法華経のサンスクリット本と何かこの場所が当たっているかどうかというの を調べていく中で、なんと宮内庁の書陵部にある福州版は、法華経は東禅寺版と開元寺版二つ入っていたんです。これはちょっと気が付かなか ったですね、そういうきちっとしたりストを作成していなかったもので、﹁え、これ二つあるよ﹂。 で、片方のほうは今から見たサンスクリット本ですけども、正しいです。どっちか忘れましたけど片方のほうは、間違ってる。間違っている のが全部、開宝蔵、高麗版、宋、元、明の中にあるんです。正しいのが一か所だけ福州版の東禅寺か開元寺だったかに残っていたんですよね。 これは今のサンスクリットと比較するとこっちのほうが正しいだろうと、 しかもそれできちっと読めるんだということが分かったわけで。 そういう一字分かっても世の中は絶対変わりませんけれども、そういうのが一字でも分かると非常に嬉しいですね。 福州版というのはほとんど同じなはずなのに、二種類あったんだというのがこれが驚きなんです。 ですから福州版と言っても、これは東禅寺 版と開元寺版に分けて影印版を出さなきゃいけないんじゃないかと。そしたら北京に行って、寸また来てください﹂と言われたのは﹁この福州 版の影印版を出したいっていう人がいる﹂と。﹁それ、日本にしかないので、なんとかお手伝いね﹂、寸いや、それはそもそも基本的に無理です よ﹂と﹁莫大なお金がかかるだけではなくて、だいたい許可が下りない﹂と。そういうことを申し上げたんですけども。中国は普からそういう ときには白髪三千丈じゃないんですげども、﹁お金のことは心配しないで結構です﹂寸いや、簡単に計算しても五億、 一
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億は軽くかかります よ﹂っていうふうに言ったんですけども。小さなものでもたくさん集まると、六千帖(巻)もあると、これは一点一万円でも六千万円ですよね。 それは何の費用かというと、 いろんな費用が出てきますけど、﹁それは一億、二億じゃとてもじゃないけど、 できる話ではありませんよ﹂﹁そち らは心配ない﹂という話で。心配ないんだったら、私が今度行くときの渡航費ぐらい出してくれたら良いのに、 それは出さないんですよね。 で す か ら 、 よく分からないんですけど、今中国は仏教復興で、信者さんがそういうのをそれぞれ一巻ずつ納めて、何とか古い姿を伝えたい、 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 二 五一切経伝播の鍵を撮る経録 二 一 一 六 残したいというんでがんばる人たちがいますので、そういうことを期待しての言葉なんでしょうけど。 で す か ら 、 一箇所でも違うということが、研究者にとってはおもしろいんですが、 一般の信者さんにとってはそんなことよりも、復元して欲 しいということですね。私どもはやっぱり一字が福州版という括りじゃなくて、やっぱ東禅寺と関元寺で違うんだ。ところがそれをよく調べて いきますと、宋思渓版と非常によく似ているんです。 で、新たなことが広島大学の佐々木先生が発見されたんですけども、大般若の巻二百二十のところで変わってるんです。何が変わっているか というと、本の作り方が変わっているんです。五折と六折、変えちゃったんです。 つまり福州版のやり方をそのまま大般若で刷ってて、二百二 十のところでいわゆる思渓版のやり方になったんです。これで説明がつく。最初は福州版のやり方を踏襲して、大般若の二百二十のところから、 いわゆる恩渓版六折にしたんです。こういうふうにずっと調査していきますと、それも別にたいしたことではないんですけども、しかし研究者、 我々にとっては寸そうだつたのか、これで何か納得がいくな﹂ ってんで俄然やる気が出てくるんです。やる気だげであって、 お金もお酒も何に も出ないんですけども、 でも気持ちは重要でして、気持ちがこもっていないとやる気がでませんし、何か分かってこないと開けないんです。分 かつてくるとその見方で切り替えていこうと、 いうことができます。 ですからこの泰然さんという人が、なんでこの時代に貞元録の校本まで作ってやろうとしたのかという、これ私非常に関心を持つのは、先ほ ども言いましたように三階教の関係だけでも当然関心を持っても良いはずなんです。でも違うわけです。江戸時代、もうすでに高麗版は見られ るようになります。 完全な形じゃないんですけども見られるようになっております。これは浄土宗のほうですと忍激さんですけど、建仁寺のものと比較しており ます。しかしこれは完壁ではなかったんです。 幕末になって丹山順婆という福井の浄勝寺の板東本の臨写本を作った方です。丹山順護はそれで有名ですけれども、しかし丹山順欝の真骨頂 は高麗版と黄柴版を全部校訂したことです。これが現在浄勝寺に残っております。足かけ十一年かかってお弟子さんたち七名と建仁寺に通った んです。このときも最初に建仁寺に行ったとき、﹁わしの寺はそんな、 お経を取り出してごちゃごちゃやるそういう寺じゃない、禅の寺だ。帰 りなさい﹂と帰されたんです。翌年また行って、蝦夷の昆布商人かなんかがお金を出してくれて、当時の一
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両という今ですと一億ぐらいでしょうか、それぐらいを持っていったんです。﹁これは信者さんがこうやって出してくれた。これからいろいろご迷惑をかけますので礼金で す。﹂、寸そんな金持ってきてわしが動くと思うのか。帰れ。﹂って帰されたんです。建仁寺のお坊さんもなかなか気骨がありますけども、丹山順 務は三年自にまた行ったんです。 寸 ど う し て も や り た い 、 どうしてもこれは黄柴版と高麗版を比較して、全部校訂したい﹂ということですね。で、住職はちょうど対馬に巡錫 に行ってちょうど帰ってきた。そのころ帰るっていうんで待ってたんです。すると向こうから見えてきて、今度はもうお金も何も、 ただ一人で 門のところにいて﹁何としてもお願いしたいヘ で、その姿を見た住職は寸分かった﹂と﹁お前さんの気持ちは充分に伝わった L と。﹁今後は何 の心配もいらないからどんどんやってくれ﹂と応援して、足かけ一一年、高麗版そして黄撲版。 私はそれまでそういう話は知っていたんですけども、福井の浄勝寺でその黄紫版を開けて、見てびっくりしたんです。﹁これは一体どういう やり方で校訂したのか?﹂ なおかつ奥書のところに何月何日一校し了わるです。何月何回二校し了わる、何月何日三校し了わる、三回ですよ、三回やってるんですよ。 それを一切経全部やってるのかなと。大般若は三校というのが基本なんですけれども、その三校が全部、全部は見てませんけどサンプリング で取り出したものみんな三校しているんです。 こ れ は 、 ちょっと考えられないぐらいのすごい事業ですよね。しかも間違いがほとんどない。 つまり、それは読み上げてたんでしょうね、見 てこうやったんじゃなくて、二人一対になって読んでいって、それでやったんだと思います。 で、十一年かけて成し遂げました。 翌年、建仁寺の経蔵は焼けてしまったんです。これやってて良かったなあと思う、その安堵感も束の間です。真宗の上の方々はこの黄柴版が もし焼げたらどうなるんだ?ともう一セット作れというふうに丹山順護に命じたわけです。そのいろんな費用も出してるわけでしょうけど、こ れは私残念でならないんです。というのは丹山順麓は、その後いろんなことに気が付いてくるんです。丹山順墾はそういった刊本のことをやっ てるだけじゃなくて、分かってましたから、 つまり内容が読めたわけです、分かったわけです。 それで次どこへ、行ったかというと日本の古写経なんです。日本の古写経を途中から集め始めて、 いろいろ見ているんです。残り、また校訂 本の同じ作業を、丹山順替というすばらしい学僧にそれを命じたのは上の方の気持ちは分かりますけれども、残念でならないです。それが終わ 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 二 七
一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二二八 っ て 、 しばらく経ってから亡くなられました。その間に日本の古写経にあるそういうさまざまな問題点あるいは解決できることがいろいろあっ た ん で す 。 ですから、丹山順馨が金蔵論の写しを持っていてたのはものすごく私も驚きでありまして、それまで金蔵論はどこにあるんだろうとか、敦燈 や韓国とか探していたところで、なんだ日本にも法隆寺本と、大谷大学は法隆寺本ですが、それから興福寺の興福寺本ですね。もう一本は丹山 順葱が福井の浄勝寺に。これはたぶん法隆寺本の写しだろうと思うのですけど、まだ調べてないですよ、あるんですね。そういうふうに日本の 古写経の重要性というのが、丹山順慈は見え始めていたんだと思います。しかしそれに着手できなかった。 で、私は日本の古写経のこといろいろ申し上げているんですけど﹁日本の古写経が一番良いとかすばらしいですよ L というんじゃなくて、何 かをやるときには比較検討ですから、やはり敦燈本が出てくることによっていろんなことが分かってきた。でも敦燈本と刊本を比べているだけ じゃ分からないことがたくさんあるんです。日本のものを加えるとそれでも分からないことはたくさん残っておりますけれども、 いろんなこと が分かってくるんです。こういうふうにバランスの取れた、しかも日本の古写経は外国の方がやるにはものすごくハンディが大きいんで、日本 人の研究者があるいはどっかの機関がコツコツコツコツ、費用もかかりますし丹念に調べてやっていかないといけないということで、なかなか 進まないわけですけども。 でもこれは日本人がやらなければいけない仕事、しかも内容はそれだげのものは持っている。限界は何かというと、限界は唐の長安のあるい は中原、洛陽も含めた中原仏教の一切経のテキストの復元はほぽ可能です。その前の六朝時代はこれはまったくできなかったです。その前は分 からない。もうダ
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の世界みたいに分かんないですね。その前になると、敦燈本でもそれはなかなか分かんないです。これぽっかりは もうどうしょうもない。ですから、竺法護の訳語でも寸これはおかしいな、 おかしいな﹂と言っても何ともしょうがないんです。もうちょっと 古い写本があれば、 でも敦鍾本でも限られてますから、 それで惰唐の唐になるともう一定の規範性が出てくる。私が問題にしているのは唐の一 切経と後の宋代に成った関宝蔵(北宋萄版)それからそれを元にしてできた高麗版、そして高麗版も高麗初離版と高麗再難版、その聞に金蔵が 開宝蔵を底本にしている。最初はこのステレオタイプ的にこういうふうに思ってたんですが、なんかおかしいんです。それでいろいろ分かって きたのは、関宝蔵も一回じゃない。開宝蔵も二回、三回ぐらいあったんじゃないか。それは、再離版が開宝蔵を見ているにも関わらず何かおかし い ん で す 。 で、関宝蔵も二回、三回やっぱり刷り直しがあって、刷り直したときに大正蔵の細かいところ、大日本仏教全書とか日本大蔵経を直すのと同 じようにチョコチョコ、チョコチョコって直している。ですから開宝蔵は今まで見ることができませんでしたけども、五年前でしたつけ、方広 錯先生などがその写真版を出しました。その十二巻の中で驚いたのは、﹁諸蔵皆此の一句がく﹂というんです、そういう文言が入っているんです。 開宝蔵が校訂していたなんてのは知らなかったんで、﹁えっ、校訂してるの?﹂ って。さらにその後の驚きというのは大宝積経百十一巻です けども、そのとき
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で調べたら、大正蔵、日本の聖語蔵があってそれを見てて、それがちゃんと入っているんだな、 と。と思ったんで すが、今丸善で前半部分は見ることができるんで、丸善のCD
で百十一巻を聞けて、また驚いたんです、開宝蔵と同じように欠けているんです。 でも大正蔵はちゃんと書いてあるんです、別の文言が入っているんです。これは何だ?ってよく見たら、朱で補っているんです、朱筆なんです よ。そこまでは大正蔵は書いてない。﹁あ、これ関宝蔵と日本の聖語蔵の、天平の写経とそこのところは同じなんだな﹂、この一句が欠けて、 み んな問題にして、そして二つの解釈をサンスクリットかチベットかなんか分かりませんけど、途中で入れ込むようにしたんですね。 それが二つに流れて埋め込まれていくようになってんですけど、元はどうしてもそれがなかった。そういう欠けていたところが、関宝蔵と日 本の聖語蔵が同じだという。 でも、大正蔵とそれを元にしてSAT
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で見たそれだけでは分からない。開けてみて、﹁なんだ、朱で 書いてある﹂、朱をあたかも本文のように大正蔵は打ってたわけです。 ですから、必ず今はいろんなことが、敦燈本もIDP
なんかで見ること ができますので、見なきゃいげない。 私も学生さんを指導している中で﹁これ明版にこう書いてあるので、明版を実際見てください﹂ って言ったら、﹁先生、何で見なきゃいりな いんですか?﹂﹁だから、見たらいろんなことが分かるから実際にちょっと努力して明の嘉興蔵でもなんでもいいから、見てください﹂ っ て 。 ﹁でもこの通りに書いであるんじゃないですか?L寸そうですよ﹂ って。寸それ疑うんですか?﹂ っ て 。 疑うというか、確認しなきゃいけないです。確認していくと、自分がこの大正蔵のフットノl
ト(脚注) で書いであったものと実際に見ると ﹁あ、なんだ、こんなことか﹂ っていうことが、まあ一O
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に一回ぐらいですけども、あり得るんです。その一OOO
に一回か、二O
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に 一回か知らないけれども、やっぱりそういうのが重要でありまして、何事も一つ一つ確認して、進めていかないといけないということであります。 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二二九一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録 二 三
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ですから、古典研究というかそういう仏教学のテキストの研究においては、そのことをコツコツとやらなきゃいけないけど、やらなければな らないというふうに言われると嫌なんですけども、やっぱり自分で一字でも違うのを見つけて﹁誰もこのことを見てないな﹂と思うと何となく うれしいんです。そのなんなくうれしいところで、この研究を止めずに今まで続いていたようなもので、 とても木田先生がおっしゃるようなこ とは全然ありませんので、 ほんとに今でも調査に出ていくときには一兵卒で出ていきますし、経箱を運ぶときもがんばって運ぶようにしており ま す 。 やっぱり体を動かしてやっていかなげればならないので、そういうところからいろんなところから、 フィールドワークでも明版は明の嘉興蔵 という嘉興ですけども、あれは実際に刷ったのは径山寺(きんざんじて径という字を書く径山寺で、杭州の禅宗の五山の筆頭の寺院ですげども、 そこは文化大革命のときに全部泊されたんですよね。今復興しています、どんどん建ってすごいんですけども、明版を刷ったところに版木のか けら残つてないかなって、そしたら住職に笑われましたげど﹁そんなん無いですよ﹂ って。﹁でも連れててってください L って。ほんとに何も ないとこなんです。 ご﹂れは掘ったら何か出るんじゃないですか?﹂ って﹁いや、ありません L ってシラっと言われたんですけど、 ちょっと頑張っていろいろや ってたら、木じゃないんですよ、陶片がざくぎく出てくるんです、焼き物が。 で私、普から一度は宋の時代の白磁っていうのを、実際割れてるところを見たかったんですげど、白磁や青磁の陶片が沢山ありました。白磁 の上に金彩できれいに書いてあるんです。これは南宋のほうは特にそうですけども、金は採れませんでしたから、北方の金の固から宋のほうへ、 密輸というか交換して、 それを使ってたんだと思います。そういう磁器がたくさん出てきて、 その中に天目茶碗があるんです。もちろん欠けて いました貯ど、これはもう貴重なもんですよ。本当は一つぐらい持って帰りたいんですけど、捕まったらあれですから断念しましたけども。 良く考えて見たら天目茶碗というのはあそこなんですよ、もともとは。それで窯が移ったんです砂れども、その天目山の端っこにあるのが径 山寺。ですからそういうのは書物に書いてあるでしょうけど、実際に行ってちょっとしつこく尋ねていくと、何かいろんなことが分かってきて おもしろかったんですけど。 先々週行きました径山寺でのシンポジウムがあったときには、宋代のお茶会をそのまま復元したんだという。そして天目茶碗が出てきて、そして宋代のやり方では先にお茶をいただいて、後でお菓子をいただくんだって。そんなんどこに書いてあるんかなあっていうんで、天目茶碗の お茶をいただきましたけれども、その径山寺も往事の姿を残すぐらいに復元、復興されてきております。 しかし大事な明版を刷った明版の一巻、それから版木自体も何にも残っていないです。私は、可能性あると思うんです。 つまり全部燃やすと 言っても、あれ燃やすのたいへんなんです。これぐらいの版木ですから、さきほども木田先生と龍蔵の話をいたしましたけれども、龍蔵は約一 万枚ぐらい版木が足りなかったんです。中国、北京政府のほうは世界中にその固い版木を求めて、見つけました。ブラジルにカリンの木が一万 枚。これものすごく高かったらしいですけども。私も一枚ぐらいこれを買おうとしたら、これだけで六
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万と言われましたけれども。それで全 部復元して、今刷って、 それをお寺に納めると。 あれ燃やすの大変です。 でもお寺には残っていないんです。ということは、良くあることなんですけども、元版の大普寧寺というお寺もこの 間行ったんですけど、そこに何も残っておりません。しかしその周囲を見たら、周囲っていうのは村々です。これはお寺にあった敷石じゃない かなっていうのが、結構みんな持っていくんですよね。万里の長城も剥がして家の壁にしたとか何とかそういうのがよくありますけれども、結 構どこかにそういう版木が残っている可能性がある。 ですから、径山寺にとってはその明版が非常に重要な歴史上のことですので﹁そういうの を一枚で良いからなんとかどこかで見つけてくださいよ﹂とお願いしてきたんですけども。 いろいろ、明版とか元版とか関宝蔵とかいろいろ最 近関わってきて、もともとの日本古写経のそういう一字一句の重要性、 一字千金の値がするような、そういうものに対しての研究というものが 若干疎かになってるんですが、この泰然師の作った二十策の貞元録、江戸時代に書写したこれは非常に重要な、この時代こういうことをやった 人たちがいたんだと。これは先ほど言いました忍激、それから丹山順護、こういうあまり有名じゃないんですけども、私は丹山順襲がほんとに 世界史的な意味で重要な人物だというふうに思っておりますけど。 泰然師はちょっと変わった方向からしっかりと校本まで作ったという。この明治大正につながっていく、近代の仏教学の基礎的なことはもう すでに江戸時代で十分そういうことがされていたんだということが分かっただけでも、すばらしいことだなと思いますが、 さらにもう少し詰め ていきますと、先ほども言いましたように般若心経は玄突訳ではないということについても、反論できることが経録から見えてくるんでじゃな いかなというところであります。 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録一
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一切経伝播の鍵を握る経録
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これはちょっと時間遅れて始まったので、質疑応答もあるでしょうから、ちょっと雑ぱくでこれとは全然関係ないような話ぽっかりになりま したけれども、あれこれ勉強してたということでお許しいただければありがたいと思います。以上で終わりたいと思います、どうもご清聴あり がとうございました。 木田先生 落合先生、ありがとうございました。後半ますますおもしろくなってきましたし、もっとお話を聞きたいところなんですが。お時間も迫って きましたので、もし会場のほうから質問がございましたら、挙手をお願いいたします。 落合先生 何でも結構ですんで。 木田先生 私のほうからちょっと問題提起と言いますか、話題を出させていただきますと、 一切経というのは膨大な量があったんですけども、それの目 録、その重要性というのはあんまり今まで皆さんおっしゃらなかったと思います。 実は私の専門は中国史でして、昔、機会がありまして北京に留学しましたら最初に言われたのは目録学をやれということで、ほんとに何回も 言われました。だいたい、中国学の分野には四本の鍵があって、この分野をやるについては四つのキーワードですか、四つの基礎学聞がある。 歴史地理学とか職官学とか年代学とか、 そういうものを挙げていく中で目録学、これが重要なんだと言うことを本当に何度も言われまして、そ れから私も急に各種の目録を購入するようになったんです。 仏教の世界でも、ほんとに今日先生もお話になられましたように、あれだけ膨大な目録という形でずいぶん前からいろいろなものが出ていて、 それを今日改めておさらいさせていただいたという、そんな感じがいたします。皆さんもいくつかの目録、実はどっかで自にされていると思いますが、その面からどうでしょうか、何か皆さんのほうから質問等ございます でしょうか? 落合先生 目録学と言いますか、関元録なんかは国訳一切経とかそういうのがなくて、結局みんな読めるという形で、そのままになってんですけども。 先ほども言いましたように般若心経のそういうあれでもきちっと読めてないということから、 いろんな問題が起きてきたんじゃないかなと。昔 の方はだいたい分かっていたと思うんです。 ですから、今はやっぱり目録学もきちっとそういうところの重要なところは、書き出すなり国訳一 切経的なものも作る必要があるんかなというふうに思いましたけども。 木田先生 今日も先生がたびたび言っておられたように、実際にものに当たっていちいちその内容を確かめる、これはほんとに貴重なご提案だなと思い ます。私もついついデータベースに頼って安直なことをやることがございますけれども、やはりほんとに目を使い、足を使い、手を使い、 い ち いち対校して調べるということは極めて重要なことなんだなと、改めて思いしらされた、今日はそんなご講演だったかと思います。 質問等、よろしゅうございますか? さ て 、 一応私のほうも紹介させていただきますと、私は今龍谷ミュ
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ジアムの館長を兼務しておりますけれども、実は本日六時までは﹁鏡御 影﹂という本山の非常に重要な親鴛様の肖像が出ておりまして、今から先生に付き従いましてミュl
ジアムのほうに行って、それを。 落合先生 私が先生に付き従うんで。 一 切 経 伝 播 の 鍵 を 握 る 経 録一
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一切経伝播の鍵を握る経録 二 三 四 木田先生 いえいえ、もう一度鑑賞したいなと思っております。実は今日の六時にその肖像をまた本山にお返しするという、そういうお約束になってお りまして、今から私は龍谷ミュ
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ジアムに向かうつもりでございます。その道すがら、あるいはまた向こうでちょっとお時間があろうかと思い ますので、そういうような機会にまた先生にご質問いただけると思います。 ご ざ い ま す か ? ど う ぞ 。 受講者 ご発表ありがとうございました。非常勤講師をしていますウエノと言います。インド仏教を研究していますもので、こういう分野でご講演を 聞くというのはすごい新鮮であったんですけども、目録の重要性と言うことを木田先生も含めて今ご指摘をしてくださったと思うんですけど。 索人でも分かるこういう研究なり、論文なり、初めて目録っていうことを、中国の仏教の中で通覧すると言いますか、目録というのはこういう もんだという入門編の先行研究のようなものが、良いものがあったら教えていただきたいんですけども。 落合先生 専門的なものといえば、平川彰先生が中国の経録ということで脅かれていることが、だいたい今までの一番最初の入門書みたいな論文ですね。 著作集第五巻かなんかだったかな? 中国の経録ということで、 ま い 。 受講者 ありがとうございます。 木目先生それではよろしゅうございますか? まだしばらくお時聞があろうかと思いますので、その機会にお尋ね等ございましたら、ぜひ先生にお尋ねなさってください。 今 日 は 先 生 、 ほんとに貴重な体験も踏まえてのお話を頂戴しまして本当にありがとうございました。先ほどの径山寺のお話、私も身に染みて 拝聴いたしまして、今度行くときには地表を眺めながら何か出てこないか、もう一回眺めてみたいと思います。ほんとにありがとうございまし た 落合先生 ど う も 。 木田先生 それでは最後にもう一回、先生に熱い感謝の意を込めまして拍手を送りたいと思います。 一切経伝播の鍵を握る経録 二 三 五