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小山鼎浦における社会進化論 利用統計を見る

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小 山 鼎 浦 に お け る 社 会 進 化 論

柳  田  洋  夫

はじめに

本論考は︑明治三〇年代から大正期前半にかけて活躍した政治家・ジャーナリスト・教育者・社会学者であり︑キリスト者でもある小山鼎浦︵本名は東助︑一八七九︿明治一二﹀︱一九一九︿大正八﹀︶における社会進化論について︑加藤弘之との応答や︑著作﹃社会進化論﹄︵一九〇九︿明治四二﹀年︶に基づきつつ︑彼のキリスト教信仰との関連も含めての概括と考察を試みるものである︒このことには二つの目論見がある︒一つは︑今となってはほとんど思い起こされることもない﹁忘れられた思想家﹂である小山の思想の一端を明らかにすることである︒もう一つは︑一時期日本の思想界を席巻した感のある社会進化論について︑ささやかなりとも新たな一視角を提示することである︒後者について補足するならば︑小山の社会進化論についての包括的紹介や考察は皆無と言ってよいゆえに︑それを主題的に取り上げて論じること自体に︑それなりの意義は見出しうるものと思われる︒

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.小山と社会学

小山は︑東日本大震災で壊滅的な被害を受けたことでも記憶に残る宮城県本吉郡気仙沼町︵現・宮城県気仙沼市︶の生まれである︒一九〇〇︵明治三三︶年に二高を卒業し︑東京帝国大学文科哲学科︵社会学専修︶に入学するとともに︑本郷の中央学生基督教青年会館に入寮する︒そして︑海老名弾正が一九〇〇年に発刊した﹃新人﹄の編集・執筆に携わり︑一九〇二︵明治三五︶年三月二〇日︑本郷教会で受洗している︒一方︑彼が社会学を専攻した当時︑社会学講座の担当は建部遯吾︵一八七一︱一九四五︶であった︒建部は︑﹃普通社会学﹄︵全四巻︑一九〇五︱一九一八年︶という体系的著作によって日本における社会学を確立した人物である︒小山が社会学を選んだのは︑﹁この学問において多方面の趣味を満足し得ると思うたから﹂であった

小山が彼を訪れて︑﹁大学では社会学をやる︒将来国家のいろいろの実際問題にふれて世の中に貢献しようと思う ︒また︑吉野作造は︑ 1

思わなかった︒やはり経世の志が厚くして文科大学においてもそれに関係の深い社会学を専攻されたのであります 述べたと述懐し︑内ヶ崎作三郎は︑﹁一面には詩人としても立ち得た人でありますけれども︑文学者となり切ろうとは ﹂と 2

き︑﹁社会﹂とは︑それ自身が秩序を持つ統一体としてよりは︑急速で不均衡な工業化の過程で︑統一的な既存の秩序 のは︑日清戦争後の︑いわゆる﹁社会問題﹂が識者の口にのぼり始める頃からのことであった︒また︑そうであると 松本三之介に従って補足するならば︑そもそも﹁社会﹂という観念が﹁国家﹂と区別されるものとして意識化される して﹁経世の志﹂を遂げようとしたことにあるということになろう︒ 証言している︒これらのことから考えるに︑小山が社会学を専攻した動機は︑文学や思想への関わりを保ちつつも主と ﹂と 3

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からはみ出し︑おちこぼれた部分として意識されるところのものであった︒その意味で︑日本においては﹁社会﹂そのものが元来﹁問題的﹂なものとして成立したのであり︑﹁社会問題﹂﹁社会運動﹂﹁社会主義﹂﹁社会事業﹂などの用語もこのような事情に関わるものであるという

は︑十九世紀初めの旧体制の崩壊によって引き起こされた秩序の問題への対応ということであった ︒また︑西欧においても︑秋元律郎が述べるように︑社会学成立の根本要因 4

会に参加している︒また︑吉野に社会主義を熱心に鼓吹したのも小山であった 背景において社会学に接したのであり︑足尾銅山鉱毒問題に関心を持ち︑被害地を訪問し︑その報告のための街頭演説 ︒小山もそのような 5

﹁利福﹂を思うがゆえであるとも述べている 会進化の研究に向かったのも︑それがもたらすであろう多大な﹁経国済民の実務政策に関する一切の智識﹂ならびに 及変遷推移の理法を闡明して︑其要素︑条件︑動因を審らかにする﹂ことこそが﹁社会進化論の最大眼目﹂であり︑社 が社会学に進んだことは決して不自然なことではない︒そして自らもまた政治へと向かった小山は︑﹁社会の成立発達 において社会学と儒学との総合を試みており︑また自身政治家に転身してもいる︒ゆえに︑﹁経世の志﹂を抱いて小山 社会学は︑実践的また総合的性格を多分に伴う経世学的なものであったと言えよう︒ちなみに︑建部は﹃普通社会学﹄ ︒このようなことからも︑当時における 6

た 一方︑そもそも社会学が日本に紹介されたのは︑コントやスペンサーによる社会有機体論・社会進化論としてであっ ︒ 7

︒山路愛山の見るところ︑それは単なる学説としてではなく︑一つの革新的哲学体系︵山路によれば﹁不可思議論﹂ 8

﹇不可知論﹈︶として︑日本の思想界に甚大な影響を与えたものでもあった

は︑そのような状況において︑社会進化論の側面から社会学を学んだ成果である︒ ︒小山の著作﹃社会進化論﹄︵一九〇九年︶ 9

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2

.﹃社会進化論﹄について

田中浩は︑明治維新から大正期にかけての日本の西欧政治・社会思想の受容は︑社会進化論の圧倒的影響下にあったとしつつ︑その一例として︑明治四二年に小山が﹃社会進化論﹄を公刊して︑日本における社会進化論の影響を整理してみせたことを指摘している

ものであると述べているように︑小山独自の体系的社会進化論がまとめられたものではなく︑むしろ社会進化論史と呼 また︑﹁著者独特の研究を披露する者にあらず︑只英米学者の思想を類別叙説して︑多少の批評を加へたるに過ぎざる﹂ ただ︑その内容は︑小山自身が︑本著作は﹁英米学界に於ける社会進化論の小発達史﹂の叙述に終わるものであり︑ 想されたものであった︒ 強食﹂もしくは﹁優勝劣敗﹂的な世界観を導き出すような社会進化論に対するアンチテーゼの役割を担うものとして構 明らかにせんとする微衷﹂に促されてこの書を編むに至ったと述べている︒つまり︑小山の﹃社会進化論﹄は︑﹁弱肉 ﹁優勝劣敗﹂説に基づく社会進化論を念頭に置いての言葉であり︑小山は︑﹁此種の謬見を破って社会進化の何たるやを ち動もすれば弱肉強食主義を標榜して昂然恥づる所なきに至る﹂状態であると指摘する︒ここは明らかに︑加藤弘之の は生存競争自然淘汰説の謂にして︑是れ疑ふ可からざるの真理なれば︑人生社会の事只之を以て解釈す可きのみと︒即 序において小山は︑日本における進化論的知識はまだ極めて幼稚であり︑﹁世人復た往々にして思へらく︑進化論と ておきたい︒ 進化論についての概括は簡にして要を得たものであるが︑以下においては︑その﹃社会進化論﹄の内容について概観し ︒ほとんど無視されてきたと言ってよいこの著作に言及している点を含めて︑田中の社会 10

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ぶほうがふさわしいものである︒しかし︑そうではあるものの︑﹁大体の結構と着眼とは︑全く著者自身の見解に従ひたれば︑史的評論の中︑幾分か著者自身の考察を寓し得たりと信ず﹂と自ら述べるように︑対象の選択と排列そのものの中に︑また︑随所に差し挟まれる考察の中に︑小山なりの見解が込められていることは確かである︒なお︑小山以前の社会進化論関連の著作の中で重要なものとして挙げられているのは︑有賀長雄﹃社会進化論﹄︑ベンジャミン・キッド﹃社会の進化﹄︑建部遯吾の︑後に﹃普通社会学﹄としてまとめられることになる﹁社会学序説﹂﹁社会理学﹂﹁社会動学﹂︑浮田和民﹃社会学講義﹄︑遠藤隆吉﹃近世社会学﹄などである︒そして中でも︑建部の著作が小山に関係が深いものであるとされている︒ここで︑﹃社会進化論﹄の構成を以下に掲げておく︒

緒論第一章 進化論の由来第二章 社会進化論の先駆第三章 ダルウヰンの社会進化論第四章 ダルウヰンの社会進化論︵承前︶第五章 スペンサーの社会進化論第六章 スペンサーの社会進化論︵承前︶第七章 ダルウヰン︑スペンサーの学説比較第八章 ウオレース︑ハツクスレーの学説第九章 ドラモンド︑クロポトキンの見解

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第十章 キツドの社会進化論第十一章 バルドウヰィンの社会進化論第十二章 ウオードの社会進化論結論 小山によれば︑社会進化論は三つの意義に解される︒その第一は﹁自然淘汰説の社会学的応用﹂であり︑第二に﹁専ら社会の進歩を講ずる﹂ことであり︑第三に﹁社会の一般的研究に基きて其進化の原理を探究﹂することである︒ここで︑第一と第二のアプローチは通俗的なものであり︑第三の行き方こそが﹁科学的解釈﹂であるとされる︒それは︑﹁先づ社会とは何ぞやの問題を究め︑その性質と体制と機能を明らかにして︑後ち始めてその進化の事実と理法に及ぶ﹂という方法であり︑これこそが当然なされるべき社会進化論のアプローチである︒ところが実際には︑社会とは何かという問題への取り組みは︑対象自体の際限ない複雑多様さのゆえに﹁渾沌未明の歎﹂に陥る他ないのであるから︑その科学的探究に没入するよりは︑社会についての﹁常識的概念﹂を前提的基礎として研究を進めるのが有利であるという︒そもそも社会とは︑﹁一大事実﹂として存立するものであり︑また︑﹁生活と直接不可離の関係ある﹂ところの﹁渾一的実在﹂でもあるからである︒この﹁渾一﹂という言葉は︑建部が﹃普通社会学﹄においてしばしば用いたものであり︑建部はその語を︑

‘u nit y’

‘E in he it’

︑またスペンサーの用いる

‘e nti ty ’

に相当するものであるとしている︒建部は︑社会とは﹁事実﹂であり﹁実在﹂であるということをふまえて︑それが﹁渾一﹂のものであることを強調する︒また︑学者はしばしば︑社会が渾一体であることを忘れて部分と全体を混同し︑渾一という全体性を﹁不可知﹂であると速断してその全体性そのものを見失う弊があるという︒また︑コントとその追随者たちこそが宇宙また学問の﹁渾一﹂もしくは﹁統一﹂を説いた偉大な

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る創始者であると称揚している

すべき所の事なり 斃れざれば必ず⁝⁝変遷の次第ある者なり︑此に其全体を指して社会の進化と謂ふ︑是れ即ち社会学に於いて専ら解釈 このことについて補足するならば︑有賀長雄は︑﹁凡そ社会の一旦発生したる者︑若し中途にして斃るれば已まむ︑ 化﹂について研究するほうが実際問題としては生産的だというのである︒ 回の強弁にも見受けられる主張をなすに至っている︒いたずらに社会の本質論に振り回されるよりは︑むしろその﹁進 観念に出立点を置くは却って成心に煩はされざる科学的観念に到達するの安全なる方法と認むると得べし﹂と︑前言撤 らず︑其進化の事実︑法則︑理想を究めて而して後︑始めて完成せらるる者なりと謂わざる可からず⁝⁝社会の常識的 と理法を究むるも亦必要不可欠ならずとせず﹂︑﹁社会の科学的観念は︑単に其性質︑体制︑機能の如何を究むるに止 が︑結局のところ︑﹁社会の性質︑体制︑機能の如何を究むるも素より必要不可欠なりとは謂へ︑其進化発展する事実 べきではないとすることは︑議論の後退あるいは矛盾にも思われる︒そのことについては小山も承知しているのである それにしても︑社会とは何かという本質論の必要をいったんは説いておきながら︑その問題についての探究を進める 張することの積極的意味合いを求めるとするならば︑以上のような建部の見方を考慮する必要があろう︒ ︒小山が︑社会とは﹁渾一的実在﹂であるとする常識的解釈にとどめるべきであると主 11

現象にして社会をして社会たらしむる所以の者なり の理を講ずるの学なり⁝⁝政府あり︑宗教あり︑儀式あり︑産業ありて︑其各一も亦進化するは其の一般︑即ち本然の 第﹂すなわち﹁進化﹂であるというのである︒さらに︑﹁社会学は古今東西の別無く︑一般に社会と称すべき者の進化 ﹂と述べている︒社会学が専心すべき対象は︑社会が存続する限り必然的に伴ってくる﹁変遷の次 12

また小山は︑社会進化を論ずるにあたっては︑概念︑事実︑法則︑理想の四つの観点があるという︒ここで概念とは 発想が色濃く反映されていると言えよう︒ 然﹂︶であるゆえに︑社会学とはそもそも﹁進化の理﹂を講究する学なのである︒小山の議論にも︑このような有賀の ﹂と述べている︒有賀によれば︑﹁進化﹂こそが社会の本質︵﹁本 13

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演繹的方法の基礎であり︑事実と法則は帰納的方法の基礎であるとされるが︑とりわけ﹁法則﹂に関しては︑帰納法のみならず﹁類推比論﹂の方法も否定できない︒そして︑従来はあまりにも﹁生物学的比論﹂に偏り過ぎていたものが︑近年になって﹁心理学的比論﹂の方法が採られるようになったという︒しかしながら︑社会進化論は依然として比喩にとどまっている点において不十分であり︑社会学の研究は︑それよりさらに一歩を進めて﹁法則﹂確立の時代に進むべきであるとされる︒さらに︑﹁理想﹂に関して︑その観点を導入することは﹁科学的社会進化論﹂の範囲を逸脱することになるのではないかという疑念を顧慮しつつ︑﹁当代の現実は即ち過去の理想にして︑当代の理想は即ち将来の現実﹂であるゆえに︑また︑﹁倫理学﹂﹁政治学﹂﹁経済学﹂はその根本思想を﹁社会理想論﹂の造詣に依拠せずにはいられないゆえに︑﹁理想﹂は大きな影響を及ぼすものであるという︒そして︑﹁社会理想の探究は科学領域より一歩を進めて宇宙観と関係を結ばざるを得ず﹂として︑その探究はさらに﹁全宇宙に於ける人類社会の意義如何の問題に侵入せざるを得﹂ないと述べる︒さらにそこにおいて︑﹁器械的因果律的宇宙観﹂か︑﹁唯物論﹂か︑﹁唯心論﹂か︑また﹁渾一観﹂のどれを採るかという大きな問題に逢着し︑そのようにして考察の方法は﹁科学的﹂より﹁哲学的﹂に移るか︑もしくはその両者の総合がなされる可能性もあるという︒小山にとってはそのような大きな総合こそが目指すべき地点であり︑そこまで達しなければ︑社会学が自然科学に超越し︑﹁社会的精神的諸科学を統合﹂する学にはなりえないというのである︒このように︑見方によってはとりとめもない大仰なヴィジョンが社会学に託されているが︑小山のさしあたってのアプローチは︑社会進化論を﹁生物学的﹂段階と﹁心理学的﹂段階を経て﹁純社会学的﹂なものへと変遷する三段階の﹁発達史﹂として再構成することである︒そして︑その三段階論と照応するかたちで各章が構成されている︒すなわち︑社会進化論の﹁準備時代﹂について論ずる第一章と第二章に引き続いて︑ダーウィンとスペンサーを扱う第三章から第七章が︑第一段階の生物学的段階もしくは﹁唯物論的﹂段階︑第八章から第十章までのウォーレス︑ハックスレー︑ド

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ラモンド︑クロポトキン︑キッドの学説が︑第一段階から第二段階である心理学的段階への過渡期である﹁物心二元論﹂的段階である︒そして︑第十一章のバルドゥインが心理学的段階への到達点もしくは﹁唯心的﹂段階と位置づけられ︑第十二章のウォードが︑﹁社会動学的考察﹂もしくは﹁物心渾一論﹂に立つものとされている︒ウォードに関しては︑明確に第三段階の﹁純社会学的﹂段階に︑または小山自身が最終目的とする﹁物心渾一論﹂的段階に位置づけられているわけではないが︑それは︑彼の見るところ︑ウォードは未だ暫定的先覚者のひとりでしかなく︑社会学はさらなる﹁大成﹂を目指さなければならないからである︒このようにして︑﹃社会進化論﹄は彼の社会学発展史観に沿う順序で論者が排列され︑いわば社会進化論の進化論という体裁をなしている︒そしてそこには︑生物学的進化論から社会進化論を経て︑社会学が学問として自立する過程が思い描かれているのである︒ここで︑﹁心理学的﹂段階について︑その背景を確認しておきたいのであるが︑秋元はまた︑建部社会学の確立期とほぼ時を同じくして︑新たな社会学の潮流たる﹁心理学的社会学﹂の導入が︑遠藤隆吉︑樋口秀雄︑小林郁らによって行われたことに触れている︒それは︑﹁社会学は国の興亡の学問なり﹂として︑社会学は﹁強国の樹立及び経綸による皇運の天壌無窮﹂をはかるところに目的が置かれなければならないと述べる建部の国家主義的﹁綜合社会学﹂に対抗するものであったと秋元は見ている︒また︑遠藤が︑﹁社会は人間の集合なり︒個人なければ社会なし﹂として︑個人主義の立場から発言していることに着目している︒そして︑このような心理学的社会学の登場によって︑個別科学としての社会学の道がつけられたと述べている

媒介に併存しているように見受けられる︒このことは︑その社会学の構想における二つの大きく相反する契機について 心理学的段階を重要なものとして位置づけていることにおいて社会契約説的・個人主義的であり︑この二つの側面が無 のためであると主張する面において︑建部的な有機体論的・国家主義的姿勢を反映するものである︒しかし一方では︑ このような背景を考えるとき︑小山の構想する社会学は︑﹁渾一﹂的アプローチを志向し︑その目的も国家の﹁利福﹂ ︒ 14

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小山はほとんど意識していなかったことを示すものであろう︒しかしそれは︑綜合社会学から︑その後に展開を遂げることになる個別科学としての社会学への過渡期ゆえのことであるとも言えるであろう︒小山の著作全体についてのまとめを提示することは︑紙数の関係からも難しいので︑彼の主張をよく反映していると思われる部分に限って簡単に見ておきたい︒まずダーウィンについて︑﹃種の起源﹄よりも﹃人類の祖先﹄︵

T he

D esc en t o f M an , 1 87 1

︶のほうが社会学においては重要な功績であるとされている︒そして︑﹁同情﹂と﹁互助﹂に基づく﹁社会的本能﹂もしくは﹁社会的共同性﹂︑さらには﹁道徳的感情﹂がすでに動物の段階から存在することをダーウィンが明らかにしたことを強調している︒また︑文明社会が﹁道徳の高度なる標準﹂を有するようになれば︑自然淘汰の作用は弱まり︑﹁同情︑模範と模倣︑理性︑経験︑利己心︑教育︑及び宗教的感情﹂が進歩の原因となっていくことをダーウィンが論じていることが︑ややもすれば閑却されているが︑この点は極めて肝要であると小山は念を押してもいる︒また︑スペンサーが︑﹁社会学原理﹂より進んで﹁倫理学原理﹂へと至ったことを小山は重視し︑﹁倫理と社会とは本来相分かつを得ず﹂と述べ︑さらに︑﹁社会進化論﹂と﹁宇宙目的論﹂との交渉が必然的に生じることになるとしている︒そしてまた︑ダーウィンとスペンサー以後︑社会活動を﹁生存競争の現象﹂として見るか︑それとも﹁協力互助の作用﹂として見るかという﹁二大着眼点﹂が明らかになってくると述べるが︑彼自身は︑社会進化論における目的論的考察と協力互助を重視している︒また︑牧師であり生物学者であったドラモンド︵

H en ry D ru m m on d, 18 51

18 97

︶について︑彼はダーウィンの生存競争︵

str ug gle fo r e xis te nc e

︶に対して﹁他の生存の為めの努力﹂︵

str ug gle fo r o th er s l ife

︶を提唱したこと︑また︑﹁愛﹂こそが進化の﹁一大原理﹂であり︑細胞分裂の段階から発現している﹁自己犠牲﹂と﹁協力互助﹂が自然界の法則であるとしたことが紹介されている︒そして︑それによってドラモンドは自然淘汰説の欠陥を補い︑また︑﹁生物学と倫理学及び社会学を握手せしめた﹂としてその功績が称揚されている︒さらに︑クロポトキン︵

Pjo tr A lje ks jeje vic h

(11)

K ro po tk in , 1 84 2

19 21

︶の﹃相互補助論﹄について︑社会の成立する基礎を﹁本能的良心﹂に求めたその著作は︑ドラモンドの思想をより根本的また精緻にとらえたものであるとしている︒また︑ハックスレー︵

T ho m as H en ry H ux le y, 18 25

18 95

︶が﹁宇宙活動﹂と﹁倫理活動﹂とを分け隔てたのに対し︑クロポトキンはその両者の橋渡しを試みた点において︑いっそうダーウィンを正統的に継承しているとする︒さらに︑イギリスの社会学者キッド︵

B en jam in K id d, 18 58

19 16

︶が︑社会は理性よりも宗教の力によってはじめて利他的行為をなすに至ったと述べたことを紹介している︒そして︑結論において︑進化の﹁目的﹂は︑人間の知・情・意という﹁内在力﹂を満足させることによって﹁幸福﹂と﹁自由﹂を実現することにあるとされる︒また︑社会進化論は︑文化・社会体制・政策などの﹁実質観念﹂を考究しなければならないと彼は言う︒そして︑そのようにして﹁宇宙渾一観の高処に登りて無窮の人類生命を色読﹂することができるならば︑﹁社会進化論の講明も︑亦以て其極致に至れりと謂ふべき﹂であると小山は結ぶ︒

3

.加藤弘之への応答

以上のように︑﹃社会進化論﹄は︑進化における﹁目的﹂の必然性を強調し︑また︑名こそ挙げられてはいないが︑加藤弘之の﹁優勝劣敗﹂的進化論理解に対しての反駁を意図したものであった︒一方小山は︑この著作が出された一九〇九年に先立って出された︑加藤弘之﹃吾国体と基督教﹄︵一九〇七︿明治四〇﹀年︶ならびに﹃迷想的宇宙観︱︱﹁吾国体と基督教﹂の批評の批評﹄︵一九〇八︿明治四一﹀年︶という二つの著作に対する応答として二つの論説を発表している︒一つは︑﹁国体進化論﹂︵一九〇七︿明治四〇﹀年︶であり︑これは︑﹃吾国体とキリスト教﹄に対するものである︒もう一つは︑﹁加藤博士の疑問に就いて︱︱基督教信者としての実際的解釈﹂︵一九〇七︿明治四〇﹀年︶

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であり︑﹃迷想的宇宙観﹄に対するものである︒まず︑﹁国体進化論﹂についてであるが︑小山の議論を追う前に︑加藤の﹃吾国体と基督教﹄について概略を述べておきたい︒この著作は︑キリスト教が﹁吾が国体に大害あるもの﹂であることを﹁科学的に証明﹂することを意図したものである︒加藤によれば︑﹁国体﹂とは﹁日本民族の大父たる帝室が萬世統治の大権を掌握して族子たる吾吾臣民を撫育したまい又族子たる吾吾臣民が其統治を受けて臣子たる道を盡く﹂すことであり︑それは﹁世界万国に絶えてない所の無比﹂なるものである︒そして︑キリスト教や仏教のような﹁世界教﹂は︑﹁全人類と云うもののみを眼中において国家と云うものを殆ど眼中におかぬ﹂ものであるから﹁国家のために頗る不利﹂なものであると言う︒彼によれば︑そもそも国家とは﹁独立生存する﹂ところの﹁最大有機体﹂であるゆえに︑本質的に﹁自国の利益﹂を目的とするものである︒したがって︑﹁世界教﹂は国家と背馳するものに他ならず︑中でも︑﹁天皇よりも天父が貴い︑吾が国家よりも世界が重い︑日本臣民たるよりもコスモポリタン︵世界民︶がよい﹂とするキリスト教は︑とりわけ﹁忠愛心﹂を損なうものであり︑国体にとって害になるものであると加藤は断じている︒そのような加藤の国体論に対して小山は︑国体の本質とは﹁民族的確信﹂であり︑それは﹁民族一般の精神活動﹂また﹁千古一貫の大精神﹂であるという︒そしてそれは民族の続く限り永遠に存続するものであるがゆえに︑﹁不朽の生命﹂を有するものであり︑ゆえに︑﹁進化﹂と﹁発展﹂を伴うものであると述べる︒さらに小山は︑先に見た加藤の国体についての定義に賛意を示し︑皇室中心的な﹁族父統治﹂の思想を肯定しつつも︑その﹁根幹﹂たる﹁民族精神﹂を中心として﹁枝葉﹂また﹁華実﹂︵皇室を暗に指しているものと思われる︶が生育するという比喩を提示している︒加藤が︑あくまでも﹁帝室﹂が臣民を撫育する主体であることを前提とする国体観を示しているのに対し︑小山は︑それが﹁確信﹂というかたちをとるものではあるにせよ︑﹁民族精神﹂︵それはおそらく引き続き見る﹁民﹂の精神でもある︶の側にある程度の主体性を認めるべきことを示唆しているようにも見受けられる︒

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小山はさらに︑このように国体に﹁進化﹂の概念を導入することは︑﹁国体不動﹂の思想に悖るという批判を招く可能性があることに自ら言及しつつ︑彼の言う国家社会の進化とは︑﹁部分と全体の一致調摂したる有機発達﹂を意味するものであると述べる︒そして︑そうであるとき︑﹁少数人の頭脳に描き出せる一時代の理想空想﹂によって﹁千載連綿の伝統を有する民族全体の確信﹂が動かされることはありえないと反駁する︒それは︑小山の見るところ︑全体と部分との調和を破壊する︑悪しき意味における﹁革命﹂に他ならない︒さらに︑国体の進化を歴史に即して具体的に示すために小山は﹁国体進化の史蹟﹂について述べる︒日本の歴史は︑記紀神話に記されている預言時代と成立時代を経て︑まず﹁国体進化史上﹂の﹁二大現象﹂を経験したという︒それは︑聖徳太子の︑仏教による改革の試みと︑藤原鎌足の︑儒教による改革の実現である︒小山は特に後者のいわゆる大化の改新に着目し︑孝徳天皇の詔における﹁復當有信︑可治天下﹂︵小山は﹁信あれば天下を治むべし﹂と訓んでいる︶という言葉が大いに注意するに値するものであると言う︒なぜなら︑天皇が︑﹁族長の権威﹂のみではなく︑同時に﹁民の信﹂を得ることによって︑﹁百姓を治む可き道徳的権威﹂を樹立し︑﹁大権の活動範囲﹂をいっそう拡大したことをこの言葉は示すからである︒ここでは︑﹁民﹂の﹁信﹂が何程か主体的なものとしてとらえられており︑その意味で︑先に見た﹁民族的確信﹂についての主張を具体的に一歩進めたものでもあると言えよう︒小山はまた︑そのようにして︑﹁大日本帝国﹂が﹁単なる一民族一姓氏の団体に止まらず︑天孫人種を中心として︑何処にも膨張し如何なる人種をも包容し得べき偉大の国体を現出﹂したのだと言う︒また︑大化の改新の当時において︑国体の本質は寸毫も傷つけられることなく︑﹁支那国体の美所﹂を﹁吸収同化﹂しえたのであり︑そこに﹁国体の進歩的変化﹂を認識できると述べている︒さらに︑王朝時代以後︑﹁政権武門﹂の﹁国体消衰﹂の時代を経て迎えた﹁王政復古﹂は一面において﹁維新﹂であることに小山は注意を促す︒というのは︑大化の改新においては︑それまでの統治者の﹁血族的権威﹂に﹁道徳的権

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威﹂が加えられたのに対し︑明治の王政復古においては︑さらに﹁合理的普遍的権威﹂が加えられたからである︒また︑そのような﹁壮大の生気﹂が吹き込まれたことにより︑明治の臣民は︑﹁伝来の確信﹂を固めるとともに︑それを﹁開廣﹂するに至ったのであると彼は言う︒要するに︑明治維新以来︑国体はいっそう進化し︑また︑外へと開かれたものとなったということである︒そのようにして小山は︑加藤の﹁世界教﹂批判に反論する足がかりを示す︒そして︑﹁国体﹂とは︑それが﹁道徳的合理的﹂である限り︑﹁世界教と相扞格する些かの理由無くして︑寧ろ之を包容し摂取し同化する﹂ものであるとする︒そのようにして︑﹁万古不易の原理﹂を内に持ちつつ﹁生々化﹂する民族的精神たる国体は︑世界教と齟齬扞格を来すものとなるはずはないと小山は言う︒このようにして小山は︑加藤の国体論を認めつつ︑それはより広く︿外なるもの﹀または︿異なるもの﹀を包摂するという意味での進化の歴史をたどってきたものであるから︑世界教たるキリスト教も受け入れてしかるべきであるという論法で︑キリスト教の擁護を試みている︒ただし︑一つ指摘するならば︑国体の﹁千載連綿の伝統﹂を重視し︑﹁革命﹂的進化を否定して﹁部分と全体の一致調摂﹂した漸進的進化について述べていることは︑加藤のかねてよりの主張に重なるものであり︑その点も含めて小山は結局のところ︑加藤の主張に反駁するというよりは︑それを補強する結果に終わっているように思われる︒次に︑﹁加藤博士の疑問に就いて︱︱基督教信者としての実際的解釈﹂であるが︑その前提となる加藤の﹃迷想的宇宙観﹄について概要を見ておきたい︒この著作は︑書名の副題に﹁﹃吾国体と基督教﹄の批評の批評﹂と示されているように︑﹃吾国体と基督教﹄への批判に対する加藤のさらなる反駁を集めたものである︒彼はまず︑﹁目的論的宇宙観﹂は︑それが﹁超自然法﹂を前提とすることも含めて﹁迷想﹂に過ぎないものであり︑それに対して︑﹁超自然法﹂を否定する﹁因果的宇宙観﹂は﹁正想﹂であると断ずる︒そして︑あらゆる宗教は﹁迷信﹂であり︑神なるものも﹁化物﹂に過ぎないものであるとする︒さらに︑﹁宇宙の本体﹂は﹁霊妙的﹂なものでもなければ﹁心霊的﹂なものでもないゆえに︑仁︑愛︑正しさ︑善さなどという﹁至徳﹂を具備していたわけではなかったが︑進化を経て社会的生存が始まっ

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たゆえに道徳が起こり︑また︑﹁利己﹂から﹁変性進化﹂を経て﹁利他﹂が生じたのであるという︑道徳後天説的見解を主張する︒そして︑加藤を批判する一六名の思想家に対して反論を試みるのであるが︑その対手の中には︑海老名弾正︑山路愛山︑浮田和民︑武本喜代蔵︑井上哲次郎︑そして小山らが含まれている︒小山に対する加藤の応答は︑まず︑日露戦争後の国体論が健全なる発展を失って﹁無謀﹂なるものになってしまったという小山の見解に対して︑日露戦争後においてこそ国体はますます健全なる発展を遂げつつあるのであって︑キリスト教のみが国体を﹁不健全﹂なものにしている︑ということである︒そして︑小山の︑﹁吾国体の進化は⁝⁝外国の開化をも取るに基因したのであるから︑今日又外国から世界教が入って来たとて吾国体のために心配すべき道理は毫もない﹂という趣旨の発言について︑自らは決して﹁外国輸入の開化﹂を否定する者ではないが︑キリスト教は︑﹁人格的の神﹂を﹁宇宙万物の造化主﹂として︑同じ人格の天皇の上位に置いているゆえに︑﹁吾が世界無比の国体を害﹂するものに他ならないというのである︒さらに加藤は︑小山ならびに海老名らは︑﹁人格神を信ずるのではなくて真とか善とか云う理想を神と認めて居る﹂者たちであると︑彼らの自由主義神学的思想を指摘し︑そのような﹁似而非なる宗教的﹂のものは﹁最も価値なき信仰﹂であるから︑断然放擲してしまったらよいであろう︑と述べている︒加藤は基本的に自らの見解をモノローグ的に反復するのみであり︑他の思想家との議論においても︑あまりダイアローグとはなりえていない感がある︒しかし︑相手の曖昧な立場や議論を衝き︑また︑さらなる挑発によって結果的に議論を継続発展させていくという点においてはある才覚を感じさせるところがある︒そして︑その才覚は︑本書の末尾において最大限に発揮されている︒加藤は︑﹁講後の問題﹂として二つの問いを提出する︒その﹁第一問﹂は︑﹁神若しくは宇宙本体がもしも全知全能であり︑また情意を有し随って至仁至愛の大徳を有するならば︑何故に自然界の⁝⁝矛盾︵動物ならびに人間が自己と同一有機体なる動物植物を食餌とせねば生存する能はざるが如き残忍なること︶が存するであろうか﹂である︒そして﹁第二問﹂は︑﹁ここに甲国が乙国に対して戦端を開ける場合に於いて甲国の開戦が若

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しも不義に出たものであったときには︑甲国の臣民にして基督教徒たる者は国家主義よりも寧ろ世界同胞主義を重しとして此不義戦に加わらず︑却って義なる乙敵国を助くべき筈のものであろうか︑将世界同胞主義よりも寧ろ国家主義を重しとして此不義戦に加わり以て義なる乙敵国を倒すべき筈のものであろうか﹂というものである︒第一問は神義論的問いであり︑第二問は義戦論的問い︵この場合は﹁不義戦論的﹂問いとでも呼ぶべきであろう︶であると言えようが︑第一問は︑﹁基督教の実に迷信であるや否﹂かが問われるものであり︑第二問は︑﹁基督教が国家就中吾国体に有害であるや否﹂かが問われるものであると付け加えられている︒このことからも窺い知れるように︑これらの問いは︑加藤自身の純粋な学問的探究心から出たものというよりは︑とりわけキリスト教徒に︑加藤の国体論に従うのかどうかを迫り︑踏み絵を踏ませるがごとき意味合いを多分に帯びたものである︒それに対する小山の応答である﹁加藤博士の疑問に就いて︱︱基督教信者としての実際的解釈﹂であるが︑これは︑特に如上の二つの問いに対するものである︒小山は︑彼が伝え聞くところの︑加藤のすぐれた﹁品格徳性﹂や︑学問における﹁絶倫なる精力﹂や﹁独創的見識﹂に対しては尊敬の念を示している︒しかし︑進化は認めるが︑自然の矛盾を調和する﹁統一原理﹂を認めないという点において加藤とは立場が異なるとして︑自らはもっぱら﹁基督教徒﹂としての立場から答弁すると告げる︒そのことは︑﹁論理﹂以上に﹁信仰﹂に立脚して応答することを意味するが︑それは︑加藤の﹁何故に﹂や﹁如何にして﹂という論理的答えを求める問いとは根本的に異なる見地に立つということでもある︒また︑小山によれば︑﹁信仰﹂とは︑﹁単に理性を満足せしむのみならず︑全人格をも満足せしめねばならぬ﹂ものである︒そして︑﹁基督教の福音は︑本来説明を與ふるにあらず︑只一種の根本的解釈を與へ︑之によって人々の全人格を満足せしめんとするものである﹂という前提に基づきつつ︑彼はキリスト者また信仰者としての立場から加藤に応えようとする︒小山の主張は次のようなものである︒すなわち︑一見﹁残忍酷薄﹂と思われる自然界の現象の奥にも﹁愛の精神﹂が

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宿っていることを感得できるならば︑矛盾と思われた自然界の事実の中にも﹁調和﹂を見出すことができる︒そして︑調和は人間の知情意を満足させるゆえに︑そこに信仰が立ち︑その信仰が全ての矛盾を統一する︑というのがキリスト教の福音である︑ということである︒このようにして︑加藤の問いに対してキリスト者は﹁理論的哲学的﹂に﹁説明﹂するのではなく︑﹁実験的倫理的﹂に﹁悟得﹂せしむるのであるという︒また小山は︑﹁生物進化論﹂から﹁物心渾一的宇宙観﹂へ進むことによって加藤の問いをはじめて﹁合理的﹂に解釈できるのであるという︒﹁物心渾一的宇宙観﹂とは︑﹃社会進化論﹄においても社会学の最終目標として示されていたものであり︑それは︑因果論的宇宙論を超えた︑﹁進化論と有神論﹂が﹁融合調和﹂された学問体系の構想である︒いずれにせよ︑加藤には﹁馬の耳に三味線﹂かもしれぬと言いつつ︑小山はあくまでも﹁神は愛である﹂というキリスト者の信仰に基づきつつ︑以下のように述べる︒

基督教徒は神は愛なりといふ根本真理を固く信じて居る︑万事は此一大真理から演繹的に考へる︑思へらく総ての生物は神の一時に創造せられた者ではない︑進化の順序を経て樹の育つが如く漸次に発生せしめたる者である︒従って進化の低度に在る者に仕へねばならぬ︑不適者は適者にその生存を譲らねばならぬ︑生物各己の利福は︑生物全体の為に犠牲とせられねばならぬ︑この奉仕と自損と犠牲と生物全体の拠って以って向上発展する根本の法則で個体各己に就いて見れば残忍の観もあるが︑生物全体より見れば寧ろ祝福すべきである︒神は愛なり︑決して無用なる惨劇を地上に行はしむる筈はない⁝⁝消極的に言へば犠牲の精神︑積極的に言へば愛の精神︑之を把持するのが人間の務である︑と斯く吾々は信じて疑はない︒

加藤にとって残忍酷薄に見える事柄も︑﹁神は愛なり﹂という﹁根本真理﹂に基づいて︑﹁愛の精神﹂もしくは﹁犠牲

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の精神﹂という観点から捉え直すならば︑それはむしろ﹁祝福﹂すべきものであると小山は述べているのである︒第二問に対しては︑簡単に次のように答えている︒すなわち︑﹁日本臣民﹂である以上︑﹁仮令正義の名は他国に在りとも之に加担する如き没分暁漢﹂ではない︑ということが一つ︑もう一つは︑加藤がそのような疑問を提出したのは︑キリスト者に﹁友国家的の言語を吐かしめ︑依って基督教排斥の口実を作らんとする下心﹂による﹁愚問﹂である︑ということである︒有事においては正義よりも国家の利害のほうが優先されるのは当然のことである︑というのが小山の応答の趣旨である︒ちなみに︑﹃二問三駁︱︱加藤博士の二問に対する三駁論﹄︵警醒社︑一九〇九︿明治四二﹀年︶という著作には︑小山の他に︑加藤直士︵一八七三︱一九五二︑宗教哲学者︑﹃基督教世界﹄主筆︶︑渡瀬常吉︵一八六七︱一九四四︑日本組合教会牧師︶による応答が収められている︒小山との比較の意味で︑それらの主張を簡単に見ておきたい︒まず︑加藤直士は︑﹁形而上﹂または﹁人格的唯心論﹂の領域を知らない加藤弘之の﹁唯物論﹂主義は時代の思潮とはかけ離れた稚拙なものであるゆえに︑その二つの問題も価値なきものであると言う︒そして︑第一問に対しては︑神の﹁全知全能﹂とは︑神自らが定めた﹁進化の理法﹂に従うものであるとする︒また︑一見無残な現象も︑﹁万有進化の途上に於ける必然通過すべき過程﹂であって︑﹁宇宙経営の大局﹂から見るならば︑それはむしろ﹁至仁至愛の事相﹂であるとする︒そして︑﹁犠牲は愛の法則である︑犠牲のない所には進歩もなく向上もない﹂とし︑また︑矛盾の上に存する﹁一大調和﹂︵加藤はこれを﹁神の摂理﹂とも呼ぶ︶から見るならば︑﹁悪も善となり︑不義も義となり︑残忍も慈愛となる﹂と述べる︒第二問については︑カエサルのものはカエサルへと教えたキリストや︑上への服従を説いたパウロに基づいて︑﹁敬神と愛国とは二にして一つである﹂とし︑また︑実際に多くのキリスト者が国家のために戦ったことを引き合いに出して︑﹁自国の滅亡を傍観して世界同胞の幸福を企図する﹂ことは︑﹁己の如く爾の隣を愛せよ﹂という﹁基督教倫理の根

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本主義﹂からしてもありえないと述べている︒次に︑渡瀬常吉の応答であるが︑そもそも加藤が﹁宗教的歓喜﹂や﹁宗教的霊威﹂についての﹁実験﹂を持たないのにもかかわらず︑宗教的信仰を打破しようとしていること自体が﹁非科学的﹂であると渡瀬は言う︒第一問に関しては︑キリスト教が進化論をいかに﹁消化応用﹂しつつあるかを知らないまま問いを提出していること︑また︑﹁基督教徒を試験せんとの心﹂から出されたのであるに過ぎないことを批判している︒また︑加藤の問いは︑﹁心中の苦悶﹂から発せられたものとは異なる︑﹁誠実﹂を欠くものであるゆえに﹁愚問﹂に他ならないのであり︑真実に回答を要する誠実なる問題であれば︑その問題に苦しむこと自体が﹁尊貴なる行為﹂であると述べている︒渡瀬の見るところ︑加藤の場合はそもそも︑神の存在もその愛も信じてはおらず︑神の愛と残忍な行為との矛盾に自らが﹁煩悶﹂することもないのだから︑問題を提出する資格はないのである︒しかしながら︑第一問については︑まず︑人類は動植物を食物としていると同時に︑それらが﹁其の生を遂ぐる様に︑骨折る﹂存在でもあり︑その﹁仁愛﹂の行為によって︑また︑人類の﹁宗教的倫理的思想﹂の進展によって︑残忍さは次第に減じていくはずであると言う︒また︑動物相互においても相親しみ相愛す情があること︑また︑加藤自身が﹁変性的愛己心﹂というものを説いたように︑愛己心が愛他心へと進化することによって︑残忍も救われるはずであると述べる︒いずれにせよ︑生命と真理そのものである神が︑万物の上にその力を﹁発成展開﹂して︑﹁至仁至愛﹂に﹁統合帰一﹂せしめるところを静かに﹁観察研究﹂すべきであると渡瀬は説く︒第二問については︑実際には欧米諸国が自らの国益を追求してやまないこと︑また︑欧米の主権者はむしろ神への服従を誓うゆえに国民より絶対的尊敬を受けていることなどを反証として挙げている︒また︑政府も人民もそろって不義の開戦に賛成する国などない︑と加藤の仮定そのものを否定する︒渡瀬によれば︑戦争とはそもそも︑﹁互いに自家の正義を主張し︑他の不義不正を責め︑互いに譲らぬ所から最後の手段として武力に訴ふる﹂ものなのである︒そして︑

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キリスト教徒は︑﹁自国の荒廃存亡﹂を弁えないような者ではない︑と反論している︒以上︑いずれの回答も︑特に加藤の第一問に対しては︑犠牲そして調和という観点から反駁している︒しかし︑国家権力によって﹁犠牲﹂が喧伝また強制され︑また﹁愛﹂や﹁正義﹂もしくはそれに類する観念が︑その﹁犠牲﹂への動員の口実として用いられるおそれがあることは容易に想像できるし︑実際にそのような顛末を歴史は経験してきた︒また︑その﹁犠牲﹂の正当性を保証するものとして︑最終的に実現されるであろう︵もしくは見出されるであろう︶﹁調和﹂への希望が述べられるが︑そのような楽天的世界観は︑自由主義的キリスト教思想によるものではあったとしても︑キリスト教において本質的なものであるとは言えない︒なぜなら︑聖書における終末とは︑現実世界の発展の延長上にあるものとは異なる︑上よりの超越的﹁神の国﹂の到来を示すものであり︑またそれは︑あるカタストロフィーを経てもたらされるものでもあるからである︒かくして小山たちは︑﹁国体﹂とは何かということを原理的に問い直すことも能わず︑その口吻とは裏腹に︑キリスト教を擁護する試みに受け身で終始したようにも見受けられる︒それは︑明治二〇年代における﹁教育と宗教の衝突﹂論争におけるキリスト者側の対応を彷彿とさせるものでもある︒ただ︑加藤をあからさまに否定することなく︑不十分ながらも︑信仰者という立場から︑両者の立脚地の懸隔を弁えつつ︑比較的穏やかな調子で語りかけようとしている小山の姿勢自体は評価してよいと思われる︒

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.小山における社会進化論とキリスト教

小山の﹃社会進化論﹄が刊行された一九〇九︵明治四二︶年は︑ダーウィン生誕百年に当たる年でもあった︒雑誌﹃太陽﹄︵明治四二年六月一日︶には︑巻頭に浮田和民による﹁チャールス︑ダルウィンの誕生百年祭に就て﹂という小文が掲載され︑学芸欄には︑加藤弘之︑田中茂穂︑志賀重昂︑姉崎正治︑島村抱月︑金子筑水︑中島孤島︑建部遯吾︑加藤玄智らによる︑ダーウィンならびに進化論をめぐる論考が掲載されている︒小山は︑とりわけ姉崎に触発されて︑﹁進化論と基督教﹂という論考を﹃新人﹄︵明治四二年七月一日︶﹇三・九五︱一〇三﹈に寄せている︒進化論とキリスト教との関連をめぐる彼の考えがまとまったかたちで示されている資料でもあるので︑その重要と思われる点について見ておきたい︒小山はまず︑生物学的ダーウィニズムとは︑生存競争︑自然淘汰︑適者生存の法則によるものであると押さえつつ︑それを無制限に人類社会に応用することを戒め︑人類の心理学的・社会学的性質が生み出す現象については︑別の法則を考えなければならないという︒さらに︑進化論とキリスト教との関係について︑そもそもアウグスティヌスの思想には進化論的な萌芽もあったが︑イギリスにおいては︑ミルトンの失楽園的宇宙創造観が思想界を風靡している頃に進化論が勃興したゆえに︑両者は衝突することになったのであるが︑﹃種の起源﹄公刊後四半世紀を経過してからは︑進化論とキリスト教とが手を結ぶようになったという︒ちなみに︑日本においては︑これまでも言われているように

︑進化論の受容は比較的容易に行われた︒﹃種の起源﹄ 15

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が刊行された一八五九年は︑日本におけるプロテスタント開教の年とされていることが象徴するように︑日本にとって進化論とキリスト教はいずれも︿外来﹀で︿新来﹀のものであり︑そのことだけでも︑両者は有無を言わさぬ魅力を放つものであった

と︑の三点を指摘している に︑社会進化論には︑全事象を網羅し尽くしてそこに﹁システム﹂を透視するという綜合原理としての側面があったこ あったこと︑第二に︑それが当時の日本の最重要課題であった﹁開化﹂を学術的に正当化する理論であったこと︑第三 に関連して︑松浦寿輝は︑当時の日本の知識人にとっての進化論の魅力は︑第一に︑それが生成途上にある最新理論で えに︑はじめから両者は並列的にとらえられ︑その総合と調和への興味をそそるものであったとも思われる︒このこと ン的進化論が形而下的な方面から︑また︑キリスト教が形而上的方面からそれぞれ解答を与える思想に見受けられたゆ ︒さらに︑ややうがった見方にはなるが︑﹁人間とは何か﹂という根源的な問いに︑とりわけダーウィ 16

ただし︑植村正久は︑進化という発想そのものに留保を付して︑以下のように述べる︒ 問いの立て方にはそもそも意味がないということにもなるだろう︒ ことであろう︒また︑そうであるとき︑日本においては︑﹁なぜキリスト者が進化論を容易に受け入れたのか﹂という 000000 ︒これらのことは︑キリスト者であると否とに関わらず︑明治の知識人の多くに当てはまる 17

抑此の二氏﹇﹁スペンセル﹂と﹁ドレープル﹂﹈の開説したるところは天下の社会に普遍なる一大事実を論じたるものに非ず︑各其の見る所に局して社会の二大傾向を発見したるのみ︒二大傾向とは何ぞや︑即ち進歩及び衰亡瓦解の傾向是れなり︒此の二つの傾向社会のうちに存するは二氏の所説に由りて愈明白になれり︒然れども二者何れか勝利を社会に制して歴史の事実となるべきか︒此は種々の境遇に由ることなり︒決して之を概説し去るを得べからず︒蓋し社会の消長は許多の境遇に由れりといへども徳義の関する所最も大いなりとす︒ドレープルの説にては終に徳義の衰ふるに至るを以て社会亡滅の因由と做せり︒余深く其の高見に

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服せざるを得ず︒実に道徳の消長は社会存亡の起因なり

︒ 18

植村によれば︑社会には﹁進化﹂のみならず﹁衰亡瓦解﹂という傾向もあるのであり︑その両者のいずれが作用するかについては多くの要因によって決定されるのであるが︑特に﹁徳義﹂もしくは﹁道徳﹂の消長が社会存亡の重要な起因となるというのである︒ここには︑﹁堕落﹂︑また神の前における義という聖書的観念が間接的にではあれ響いているようにも思われるし︑そのようにして進化論とは一定の距離をとる姿勢に︑植村ならではの特質を見出すこともできるであろう︒小山に戻るならば︑﹁基督教と進化論とは︑最早闘争の時代を過ぎて︑調和の時代に進んで居る﹂という彼にとって︑進化論とキリスト教との調和ならびに融和は必然であった︒まず︑進化論がキリスト教に与えた影響について︑キリスト教自体を進化論的に考察する思潮を勃興せしめたことが挙げられる︒小山は以下のように述べる︒

基督教其者は忽然として世界に出現し︑千九百年間固定の形体を存して居る者でなく︑希伯來民族の心理と境遇との間に胚胎せられ︑基督の人格に於て最高潮に達し︑過去十九世紀間盛衰消長はあったが︑進化の一路を辿り來りし霊的生命なりてふ思想の勃興従って教会︑教理︑聖典其外一切の宗教的現象的眞理を進化論的に発達史的に考察する傾向は︑孰れ皆進化論の基督教に與へた新光明であって︑自分一個の私見から見ると︑基督教は進化論の光明に浴して図らず蘇生したのである︒第二に基督教の眞髄と形骸生命と衣裳の区別を明らかにしたこと︒即ち基督教の聖典が伝説の與ふる物理的生物学的世界観は基督教の根本生命にあらず︑信仰は専ら人間心内の実証経験なりといふ思想の勃興︒従って基督教の倫理的精神的性質は益々明白の度を加へ︑創世記の伝説を固執するや否やと云ふ如きは︑最

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早全く第二義第三義の問題となったのである︒﹇三・九九︱一〇〇﹈

そもそも自由主義神学的傾向の著しい小山であるが︑その姿勢は︑進化論によっていっそう強化され︑進化論とキリスト教の調和というよりは︑キリスト教が進化論に包摂されるが如き趣が感じられる︒このことについては追って考察したい︒一方︑進化論とキリスト教との相違については︑進化論は宇宙を﹁器械的因果的物質的﹂に見る傾向があるのに対し︑キリスト教は﹁有機的目的論的﹂に見ようとすることが挙げられている︒さらに︑古来よりのキリスト教的人間観の要点と認められている﹁人類堕落説﹂と進化論との矛盾について︑小山は﹁原罪説も贖罪論も︑進化論に依って始めて新光明を得︑眞解釈を得ると信じて居る﹂と述べているが︑その論拠を示すまでには至っていない︒ただ一方で︑﹁進化論は益々基督教の楽天観を明白にする︑然るに進化論殊にダルヰニズムの生存競争説は以って人生の一切を説明するには足らぬ︑少なくも人類の心理的社会的進化を説明するに不満足である︑基督教は生存競争とは宛も正反対の観ある献身犠牲の福音である﹂と述べている︒﹁献身犠牲﹂をその核とする﹁心理的社会的進化﹂論を確立することにより︑原罪説も贖罪論も進化論的に説明することが可能になるというのである︒ただ︑小山にとっての原罪とは︑神との関係における背きなどではなく︑﹁我﹂における内心の﹁分裂﹂の問題である

緯を叙述している︒また︑﹁視よ是れ其の人なり﹂︵﹃基督教世界﹄大正二年一〇月二三日︶では︑﹁基督教の生命は全く の主著の一つである﹃久遠の基督教﹄において︑自身が信仰の遍歴を経て最終的にイエス・キリストへと立ち戻った経 このことは︑小山においてイエス・キリストはどのように位置づいているかという問題にも関わってくる︒彼は︑そ 向を伴うものとなっている︒ ﹁専ら人間心内の実証経験﹂ということになり︑キリスト教の把握においても︑超越との関係がきわめて希薄になる傾 ︒そうであるとき︑彼にとっての問題は 19

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基督の人格に在り︒基督の人格は︑救世の力なり︒永遠の福音なり︒基督の人格と心合霊応する処︑そこに信仰の秘義存す︒まことの神は基督を通じて始めて吾等の光となる﹂﹇三・一六九﹈と︑キリストへの尊崇を表明している︒また︑﹁聖誕祭の感﹂︵﹃基督教世界﹄大正二年一二月一八日︶では︑﹁吾等が憧憬する精神的新文明の中心仁核は︑常に新たなる基督夫れなり﹂﹇三・一八六﹈と言われているが︑ここで﹁新たなる基督﹂という言葉が問題を孕んでくる︒たとえば︑﹁基督教の未来派﹂︵﹃基督教世界﹄大正三年三月五日︶﹇三・一九〇︱一九五﹈では以下のように述べられる︒

未来派の子たちが愛する耶蘇はナザレの耶蘇では無いのである︒吾︑ナザレの耶蘇だと謂って︑歴史家の描き出して居るやうな昔の耶蘇では無いのである︒耶蘇は未来に生まるゝのだ︒否永遠に未来の人たるべき運命を有って居るのである︒久遠の基督?それが未来派の耶蘇であらうか︒恐らく然らずと謂ひたい︑久遠といふ言葉を分析して見ると︑三世一貫の思想がある︒雄大な崇高な思想だ︒けれども三世一貫といへば︑﹁すでに顕れて居る﹂という考へが先立つ︒過去に於ても現在に於てもといふ暗示が含まれる︒未来派の子らは之を満足に思はぬ︒⁝⁝だから未来派の子らは言ふ︑歴史上の耶蘇は眞実の耶蘇では無い︑眞実の耶蘇はナザレに生まれなかった︑ヨルダンの河水にも浸されなかった︑十字架の上にも磔殺されなかった⁝⁝眞実の耶蘇は永遠に生きる︒否︑さう言っては不十分である︑全く未来に生るゝのだ︒人間の心といふ清い殿堂中に生まれる︒否︑さう言っても不十分であらう︑結局耶蘇は永遠に生まれざる未来の人だ︒

ここでは︑キリストの実在と事績も否定され︑真のキリストは﹁未来﹂において﹁人間の心という清い殿堂中﹂に生

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まれるものとされている︒このように︑小山においてキリストはその内実としては限りなく相対化されていく存在であり︑このことは︑彼における進化論とキリスト教における関係にも当てはまるものである︒先の﹇三・九九︱一〇〇﹈の引用をまとめ直してみるならば︑キリスト教とは︑ヘブライ的状況の中に生まれたものがキリストの人格において最高潮に達し︑その後も進化の路をたどっていった﹁霊的生命﹂であるということになる︒そうだとすれば︑小山自身の主観的尊崇の念にもかかわらず︑イエス・キリストは︑それ自体が﹁霊的生命﹂を有して永遠に自己発展する﹁基督教﹂の単なる一プロセスに還元されてしまうことになるだろう︒そのようにして彼においては︑キリスト教こそがイエス・キリストをも超え包む自律的で永続的な進化の主体とされている︒その意味で︑その著作のタイトルが︑﹃久遠の基督﹄ではなく︑﹃久遠の基督教 0﹄﹇圏点は柳田﹈とされているのはきわめて象徴的なことである︒さらに言えば︑﹁火焔の中にも神はあらず︑雷鳴の中にも神はあらず︑神は﹃我﹄てふ者の衷に在り︒⁝⁝我が衷なる神︑我に在りて生くる基督︑約言すれば﹃我﹄其者の意義と価値とを闡明せんとする所に︑少なくとも方今の問題は存するにあらざる乎﹂﹇三・二〇八﹈と︑﹁列王記 上﹂一九章の言葉を借りて言われるように︑小山にとって究極の問題は︑キリストではなく︑どこまでも﹁我﹂であり︑そうであるとき︑キリスト教自体の自己進化の動因となるものが究極的にはその﹁我﹂なのである︒このように︑若干自己撞着的ではあるが︑﹁独我論的キリスト教﹂とでも呼ぶのがふさわしいような特色が小山のキリスト教思想の根底にはあり︑そのことが︑イエス・キリストそのものをも凌駕する﹁キリスト教﹂の自己発展の根拠となっていると言ってもよいであろう︒このようにして︑小山においては︑進化論とはキリスト教と調和するものである以上に︑進化論が基督教を包摂するがごとき影響力を持つものであった︒実際に︑﹁基督教と進化論﹂︵﹃基督教世界﹄明治四一年一月一九日︶において︑﹁進化論の社会的適用を試みた結果が︑自ら基督教の真理を包容するに至りたる事実﹂があると彼は述べている︒また︑キリスト教神学的に言えば︑このことには︑摂理論と聖霊論の欠如ということが関係していると言えるだろ

(27)

う︒ここで比較のために︑小崎弘道の﹃我国の宗教及道徳﹄︵一九〇三︿明治三六﹀年︶における第八章﹁進化論と基督教 する折衷の論理として機能したことは明らかである﹂と述べ︑その国家主義的傾向との関連を示唆している このことに関して︑鵜沼裕子は︑このような小崎の﹁内在的理﹂の発見は︑﹁時に応じて諸価値の無限抱擁を可能と 思い起こさせるとするのである︒ たというのである︒そのようにして小崎は︑進化論こそがキリスト教神学に神の摂理と聖霊の内在という重要な事柄を て天地を造りて後之を放任し去りたるにあらず︑常に世界と共に住して之を教導啓発しつゝある﹂ことが明らかにされ して︑進化論の助けによって︑キリスト教における﹁神の常導の義﹂と﹁神の内住の理﹂が明らかになり︑﹁神は始め 聖霊の恩祐に因れりとなさざるべからず﹂と︑小山とは異なって︑教会の歴史における聖霊の働きを強調している︒そ リスト教神学における聖霊論の欠如である︒そして︑﹁基督教会は聖霊の降臨を以て生まれたり︒以後二千年の発達は 小崎が憂慮するのは︑﹁聖霊の教理は基督教の教理中学者の最も等閑に附し去りたるものなり﹂と述べるように︑キ の内に存する﹂ものであることが明らかになるというのである︒ 存在であったが︑進化論によって︑宇宙は神によって継続的に﹁化育﹂されるものであり︑また︑神はもっぱら﹁宇宙 意図が含まれている︒言い換えれば︑理神論的キリスト教においては︑神は創造後はただ宇宙より﹁超絶﹂するだけの して﹁進化の信仰もまた神の一動作﹂に他ならないことを示すことによってキリスト教神学を正しい方向に導くという しているが︑﹁理神論﹂に当たるものである︶の影響を進化論によって一掃し︑﹁神の普遍内住的たる特性﹂を明らかに べきや﹂ということであるが︑そこには︑進化論が勃興した頃になお残存していた﹁デイズム﹂︵小崎は﹁一神説﹂と ﹂での議論を見ておきたい︒小崎にとっての﹁現今の大問題﹂とは︑﹁如何に進化の理法を基督教の教理に応用す 20

示する自然的事実の世界と対峙する︑人間的な精神と信仰の世界の自立性・存在性に乏しいゆえに︑忠君愛国的な臣民 本三之介は︑小崎の議論は︑進化論の世界をもっぱら聖化し受容しようとする姿勢にとどまるものであり︑進化論の提 ︒また︑松 21

(28)

道徳や国体観念の強化へと至ったとしている

重点を置いて聖霊論を主張したこと自体は︑一つの神学的方策としては特に誤りであるとは言えないであろう ︒ただ︑小崎が︑理神論的傾向に対抗するために︑神の超越よりも内在に 22

する必要があると思われる︒ 崎の神学と︑その国家主義的傾向とがなぜ︑いかにして結び付くに至ったのかという問題については︑より慎重に検討 ﹁我﹂に一貫してこだわった小山であっても︑帝国主義的国体論を疑うことはなかった事実を考え合わせるならば︑小 ︒また︑ 23

おわりに

今日において社会進化論は︑もはや過去の思想であると言ってよい︒さらに︑田中浩に従って言うならば︑社会進化論は︑一見︑すべての政治・社会現象を説明しているようでいて︑実のところ何ごとも説明しえていない空疎な理論であるとさえ言えるものである

は︑自由や民主主義を拡大しようとする一切の闘争を否認する結果に導くという 等の是正を訴える闘争や運動に対しては︑漸進的進化主義の名において︑常にそれらを過激なものとして否定し︑結局 あることを否定し︑平等化への要求は人間を怠惰にさせるという論法の有力な根拠であり続けているとともに︑不平 このことに関して︑これも田中に従うならば︑権力者にとって︑社会進化論的思考方法は︑人間が本来自由・平等で 論を論ずることにいったい何の意味があるのかという疑念は当然浮かび上がるであろう︒ そのことを逆説的に立証しているように思われる︒そうであるならば︑現在︑社会進化論を︑ましてや小山の社会進化 ︒確かに︑スペンサーの理論が左右双方の側によって自らの主張の根拠とされたことが︑ 24

とっては時代を超えて大いに利用価値を有するということであろうが︑小山もそのような漸進的進化主義の枠内にあっ ︒まさに加藤弘之の論法が権力者に 25

(29)

たことは先に見たとおりである︒ただ︑そのような権力者側にのみ都合のよいはずの社会進化論の論法が︑いっそう広範にわたる影響を及ぼす可能性があり︑実際に現代においてそうなりつつあることが大きな問題であると思われる︒加藤は︑スペンサーの

‘S ur viv al of th e F itte

と述べている 日常性そのものの支えとして機能していており︑そうであるとき︑社会ダーウィン主義はいかなる場所にも自生しうる ウィン主義が棲みついていると指摘している︒そして︑かつて帝国主義的な拡張を支えていたこのパラダイムが︑今や くドキュメンタリーの常套句である﹁弱肉強食の世界﹂などという言葉に︑きわめて悪質で日常的なかたちで社会ダー に︑また︑不況下における﹁生き残りをかけた企業努力﹂︑スポーツにおける﹁サヴァイヴァル・レース﹂︑自然界を描 富山太佳夫は︑多国籍企業が大きな力をもつグローバル世界において﹁国際的競争力をつける﹂ことが叫ばれること せるところがある︒ たが︑この言葉自体︑ある抗いようのない実感とともに一種ア・プリオリな絶対的原理として迫ってくるものを感じさ

st’

という概念に対応するものとしてして﹁優勝劣敗﹂という訳語を考案し︑それを﹁天理﹂であると標榜し 26

ロポトキンに依拠しつつ︑進化における﹁相互補助﹂を高唱したことは︑この時代に改めて思い起こしてよいだろう そうであるとき︑小山が︑ダーウィンにおける﹁同情﹂と﹁互助﹂という﹁社会的本能﹂に着目し︑ドラモンドやク ているということにもなるだろう︒ ともに︑加藤的社会進化論が有無を言わさぬ自明の﹁天理﹂として︑いっそうのリアリティと深刻さをもって立ち現れ 上昇志向とともに社会進化論が受け入れられたが︑現在においては︑﹁劣敗﹂もしくは﹁弱肉﹂側への転落への不安と ︒これに付け加えるならば︑加藤や小山の時代は︑国家と個人における﹁優勝﹂もしくは﹁強食﹂側への 27

あらず︒同情的行為を否認する者にあらず﹂と︑進化論は社会福祉政策を否定するものではないことを強調してもいる︒ 彼は︑﹁進化論は決して感化院を無用視する者にあらず︒施療院を贅物とする者にあらず︒弱者の死滅を慫慂する者に ︒ 28

(30)

そのことは︑政治家としての彼の姿勢にも反映されている︒たとえば﹁大正二年二月立候補宣言﹂﹇一・五六四︱ 五七二﹈に表明されている綱領や政策提言は︑﹁経済的民族的膨張﹂は﹁日本の国是﹂であるとしていること︑また︑﹁対独宣戦の目的を貫徹し⁝⁝独乙植民地に対する自由処分権を確保﹂すべきことを主張している点などにおいて︑対外的には︑ほどなくして第一次世界大戦を迎えようとする当時の帝国主義的風潮の域内にあるものである︒しかし一方でそれは︑﹁貧富の懸隔を緩和﹂すること︑﹁農村の疲弊を匡救﹂すること︑また﹁東北振興﹂を訴えるものであり︑東北の厳しい現実を目撃し体感してきた者としての思いを窺わせるものがあると同時に︑その弱者へのまなざしにおいて︑彼の進化論理解に通ずるものが感じられる︒以上のことから︑たとえそれがいかにか細い 000声であったとしても︑小山鼎浦の説く社会進化論に︑いささかなりとも現代的意義を︑またキリスト者としての彼なりの思いを見出すことができるものであると考える次第である︒なお︑小山の宗教思想について開拓的な業績を残している大内三郎によれば︑小山のキリスト教へのアプローチには︑︵一︶自己中心的思考法︑︵二︶進化論的方法︑︵三︶諸主義統一の方法の三つがあり︑特に︵一︶が重要であるという

に即して考察を行い ︒このことは︑今後の小山研究にあたっても︑大きな示唆となるものであり︑実際に︑本稿の論者は︑すでに︵一︶ 29

めて︑小山鼎浦の思想をトータルに捉えていきたいと考えるものである︒ いう言葉で示されていた︑︵三︶諸主義統一の方法について考察し︑最終的には︑これら三点の思想的連関の探究も含 ︑また︑今回は︵二︶の課題に取り組んだ︒次は︑小山の社会進化論においても﹁渾一的﹂などと 30

参照

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