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自給的農業の変容−島の農業の商品生産へのあしどり−

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(1)

自給的農業の変容

自給的農業の変容

−島の農業の商品生産へのあしどり−

野木稔郎

はじめに

島の農業,とくに島が集中する九州西辺の島の農業は古くからの伝統的,

自給的農業の色彩が色濃くまつわりついているといわれてきた。しかし今日,

我国の農業はすべて商品,貨幣経済の舞台にのせられ,「営農」も好むと好 まざるとにかゝわらず,商業的農業,商品生産農業への途をあゆまねばなら ない。商業的農業とは農家が自家の消費のためにではなく,販売するために 行なう農業,即ち商品生産農業であるとするのが通常であろう。今日,日本 の農業は,その多くは、生産する農・畜産物を直接あるいは間接に販売する,

あるいは少くとも販売に振向けようとする農業であるといって差支えないで あろう。

島の農業,ことに おくれた ,自給的性格が強いといわれてきた九州西辺 の外海にうかぶ維島の農業も,きわめて近年のことではあるが,今日,明白 に商品生産にふみ出している。しかし,もちろん島の農家には生産する農産 物あるいは畜産物のきわめて僅かな部分しか販売にふリむけない農家,さら に全く販売しない農家が数多くある。このような農家は商業的農業,商品生 産農業が一般的な今日の日本の農業にも少なからずみうけられることはいう

までもない。きわめて僅少の生産物の販売にせよ,商品化ではあろうが,今 日,商業的農業,商品生産農業をいとなむというにふさわしい農家はその生 産物の極めて多くの部分を,中心部分を商品化する経営をおこなう農家であ ろう。島にとくに多い,商品化が全くない,あるいは極めて僅かな販売しか ない農家は,ここでは自給的農家となろう。しかしこれは自然経済,現物 経済を基調としていた時期の佳かな農畜産物を商品化していた農家とは明ら

(2)

1 2 2  

非主竹と*1:

i i 1  

かに異なっている。

農産物の商品化は,落政期にも, とくに幕末頃になると米殺を始め,藍二

L

紅花,棉花,菜種,生糸等々の商品作物といわれる作目について領主的商品 化がさかんになるが,これが主要な形態としても上層民を中心として「剰余」

部分を通じての農民的商品生産,そしてさ、やかな農民的商品化もひろくお こなわれるようになっている。しかし自給自足を強Hi

j l

jし 自 然 , 現 物 続 出 が基調となっていた藩政

m l

のさ、やかな商品化と,資本主義経済が深く伐透 している今日の,農外よりの収入を補う,生産物の小さな商品化とでは,農 業生産におけるその性格は異なっており,そしてまたその自給農産物部分の 農家生活にもつ志味も呉.なっている。とはいえ, しかしそれは自給生産であ り,その農業生産にも自給的性格がまつわりつきがちであることもいうまで もない。とくに品には通勤形態の雇傭その他,地元での兼業による貨幣収入 の機会が乏しく,永年,粗放な作目の生産にしたしんできた

j ; a j

の民業の技術 は低く,そして非合理な流通機構の根強さなどがみられるなかで

j ; a j

の農業の

自給的性格は強く残されがちである。

品の農業の自給的性格の強さは,いうまでもなく,生産物を全くI!反売しな い農家,あるいはきわめて零細な商品化しかおこなわない民家のみによって 示されるものではない。今日,なおも自給的色彩をまといつつも,商品生産 の途をあゅんでいる山の農家経営にしても,つい近年まで,いわゆる「高度 成長

J

期に至るまで,色濃く残されていた自給的雰囲気, 自給的構造の中か

ら漸く最近に至ってより明確に打ち出されてきたものであるO 島の農業が商 業的農業,商品生産農業の途へふみ出し,あゆみ続けるのは容易ではなかっ た。今日の商品生産農業を生み出すにいたる迄の,そして r高度経済成長」

の波に洗われる以前の島の農業の様相を西九州,長崎県の臨~J;

' j  

,対jふ 五

J

: j !

! : h

,小値賀

; i

),宇久山および壱 l

岐 j L i

をとり,検討して行くことにしたい。

1  .島における商業, i T H 3 経済と農業

一 藩 政

m l

以後の村民民業のあしどり一

九州本土と韓国とにはさま

j

し本土よリはむしろ韓国に近い村民は波あら

(3)

白給的民主ーの変芥

1 2 3  

い外 i i 止に狐立するい ] J 克の j みであり,向性 j J b としてのあらゆる性格を強くかねそ

なえた大 i~l~ の山 jみである。平坦地,耕地に乏しし藩政nJl には一時、、無高 η

ともされていた地域であるがい 1 0 万行の格式仰を与えられた対馬藩の財政を 支えた主要な柱は¥河 4 J i 行かといわれた朝鮮貿易であった。この朝鮮貿易 についてはもっぱら対馬藩がとりしきり,しかも「抜目のない商人」のよ うに J 辰野い,活発な商業活動を展開した。しかしこの対馬の最大の山外との

ホ商業グには対馬の農民のかかわりはきわめて小さかった。

'即ち,朝鮮貿易は対馬藩による専管貿易であり,その取扱いは藩士あるい は特権を与えられたきわめて一部の商人によってとりおこなわれ,厳重な藩 の統H j l ] のもとに,抜け荷, i l { J 買いはかたく禁止され,また朝鮮[ i t J けの主要な 千 百 荷 , j l o j ,銀,

l

芸品等の多くは本土から集められ,山内の産物は殆んどな く ,

!:,~の商人との,

とくに民民とのこのれ商業,貿易かとのかかわりはきわ めて少なかったのである。なお,朝鮮貿易の見返りとしてもたらされる蹟荷 が対馬蒋の財政を支えるのであるが,そのうちでもとくに主要な見返り物資 は人参,米であり,人参は本土に売りきばかれて必要な物資を手に入れ,米 はいうまでもなく米の産出のきわめて少ない対馬藩, j J J 民の生活を支える 主要な柱てあっ三:

また朝鮮貿易の場合と同様に本土へ移出されるきわめて保かな向の産物の

取扱い,また山内の商品流通についても藩はきぴしく取締り,山氏の Wr~W,

商品位消との接絹は強く規制さ h ,農民と商品経済とのふれあいはきわめて 小さかった。

もともと「山岳垂直 J ,耕地に乏しく[‑, 1 誌の産殺山氏を養ふに足らず」と

いうにふさわしい対応は,さらに j h i であることから,藩によって「一旦海路梗

塞の場合において民食補充の為めに栗悶,椅聞の繁殖が奨励」されてきた食

糧の乏しい孤 j ;

j であり,このような対馬からの仏外への食組炭産物の出荷は

始んど不可能であった。 j ; ; 外に移出される対応の産物としては盟かな林産物

が落の倭館がおかれている朝鮮の釜山の屑留民に,あるいは築前,肥前にあ

った村山滞の飛地に移出される,あるいは海産物が御免銀,出迎上を賦課さ

れた上て¥きびしい誌の取締リのもとに(!?(かに移出されるのがめだっのみで

(4)

1 2 4  

経 営 と H.

i 庁 あ っ 点 し か し こ の 品 外 移 出

li.

木材の場合であるが, I 木村山外輸出は削江 の{更なきと又収支の利多からず」とされる困難な交易であり,移出されるの は農産物ではなくイカ・ブリ等の水産物,薪,木村,椎茸,木炭等の林産物 が主要なものであるが,農民は直接にはその生産にたずさわるにしても,民 業,農民と商品,貨幣経済とのふれあいはきわめて稀薄で、あったのである。

また,対馬藩は島民の他国, とくに上方への進出にきびしい規制をもうけ るとともに,他国外来商人の未入,滞留にも厳主な枠を設け,藩外への商品 の流出はきびしく取締っていたが,藩内の商業にもさびしい規制を ) J I I え,と

くに在方への商工の進入を固く阻止し,町方には幾分なリとも商業の進展は はかられたものの,在方の商工は極力制限され,商品.11:幣経済の良村への 浸 i 閏は防圧されていた。

由来,対馬藩は中世的な藩士土着の社会体

f

J ! J I を有し,兵 ; g ' k 分離以前的なも のが近世にも残存し,また被官,名子のような隷民体i/J I J が持く存イ : 1 し,土地 制度としては「地分け」的な慣行を有し,木庭作の焼畑耕作が行わtL,土地 の丈量には蒔称が用いられるなど総べての方面においてプリミチーブな形態 を有し, このような後退的,停滞的な対馬の民村社会,土地 i l i Jj皮にもかか わらず,対馬藩の朝鮮貿易にみられるように割合に早くから商品, i T f i ? 税 j 庁 的な側面の肢行的な先進性がうかがわれるが, しかし,これは白然続出的な 田舎社会の後退性を否定し去る程のものではなく . t k 村社会への n 百 1 1 ‑ J I 続出の 侵 潤 は 防 止 さ れ た の で あ よ

対 馬 で は 最 大 の い 商 業 か で あ る 朝 鮮 貿 易 は い う ま で も な し そ の 他 の 山 外 への商業もきびしく規制され,山内の商品経消についても,五下落体ilJJj W l の民 政の基調である農民層の商業および都市との接簡を極力防止しようとする政 策は,対馬が隔絶された波荒い外海におかれた孤山であることと相まって,

きわめてきびしくつらぬかれ,士、 I 馬の農業には商業的民業の芽生えは F f i んど みられなかった。

明 治 4 年の廃藩置県後,商品,貨幣経済に対する藩の規HiJjはなくなったが,

交 易 , 商 業 の き わ め て 困 難 な 事 情 は 始 ん ど 変 る こ と な し そ し て , 農 産 物 の

品外移出が殆んどみられなかったことはいうまでもない Y 交通,巡輪子 f 支も

(5)

自給的民業の変容

1 2 5  

除々にと冶のえられ,明治 1 6 年には博多との間に汽船の就航をみるものの,

遠い孤品から波荒い外海を渡つての本土との住未は困難をきわめた。それに しても水産物,林産物の島外,木土への出荷,また本土からの物資,資本の 流入も増加し,商品,貨幣経済に入リこんで行くにせよ,何よリも耕地は乏 しく,食糧の自給が全く不可能な対馬て酬は養蚕等が僅かに自給的におこなわ 7 )   れていたが,農耕は殆んど食用農産物,主食,主食代替作物の生産に終始し i

この自家食料生産の自給的農業の基調は明治,大正,昭和と固く維持され,

山内では僅かの野菜などが商品化されるにせよ,向外への農産物の出荷は殆 んどみることが出来なかったのである。しかし貨幣経済の侵透とともに大正,

昭和則へと次第に [ i l J 上してくる食生活,生活水準の [ u J 上にともなう生活資材 および僅かながら購入される肥料等の生産資材の支払は農家のたずさわる兼 業としての林業(とくに生産される木炭の対州馬による運搬あるいは木材の 伐採,搬出等への従事,また製炭原木,坑木等への立木売却等),または漁業 による水産物の仏外,本土等への販売,その他大工あるいは鉱山等への就労 による賃金収入,出稼ぎ等による送金等によリまかなわれた 8 )

食院を始めとする生活,生産資材の本土依存は漸次,増大して行き,対馬 に も 商 品 , 貨 幣 経 済 は 確 実 に 佼 透 し て 行 く が 昭 和 j 切に入っても品内の一部 の地区に切干甘しょ等の僅かの農産物の商品化はみられはするが,対馬の民 家の作付の基調は殆んど変ることなく,対馬の農業の自給的性格は巳然とし て強く維持されていた 9 )

戦前の対馬農業の姿態は大きく変ることなく戦後に持越された。敗 i i 浅まも

10) 

ない昭和 2 お 5 年 の 士 士 対 、 J

Jυl

ち水田はその2 お 5.5% に

j

過品ぎず' さらに農家の耕作規模はきわめて零細であり,

5 反未満府がほほ、半数をしめるが,このような零細民家によって畑地が多く,

傾斜地の多い,きわめて狭少,零細な耕地のうえに対馬の農業はいとなまれ ていた。耕作には,

~N;U= 年男子はせいぜい良繁 j切に従事する程度であり,良

作業はもっぱら婦人,若人の子に委ねられ,生産力はきわめて低く,主要な 作物である甘しょ,ー友,米についても収益は長崎県平均にくらべてもその 6

;切ないし 8

'~i[IJ 紅皮に過ぎず,その他の作目としては大豆,野菜類等があるが,

(6)

1 2 6   t

正 午 ? と 杭

i 庁

これら伝来的な自給的食粒作物は品の農家の食粒

i

をまかなうにもほど速し 博多までの定期(貨客)船の往来は

1日l固という,交通運輸手段もまだき

わめて不備で、あったこの時期!の農産物の「商品化

J

とは,供出の対象となっ た米で生産の

10.6%

,麦で9.3%に過ぎず,、自由販売かを含めても

20%

程度 と推定され,食糧不足期のきびしい統制のしカ通れていた時期であったが「商 品化」はきわめて僅かであった。農家の兼業は

87%

(一種兼56%,二種兼3

1

%)におよび、,主要な兼業は林業,林業賃労働けが卜│馬による木炭述搬も), 

あるいは漁業であり,そこからもたらされる年間 4~5 万円程度にすぎない 貨幣が現金総収入の 7~8 訓に相当する農家が少くないという状況であった。

即ち,この時期

j

の対馬の農業は,劣悪な耕地,それも木庭,

‑ t ; J

J替畑,山畑の 多い畑地,そして僅かな水固という構成に林野の自給野草により飼育可能な 対州馬,対州牛を唯一の生産手段として組みあわせ,主として婦人,老人の 手による生産性のきわめて低い自給的農業であり,主に男子は林業,漁業,

その他賃労働等の兼業に従事するというのが支配的形態であった。

きわめて劣悪な生産,市場条件しかもちえなかった対馬の農業の自給的性 格は,その後もながく維持され,戦後の日本農業を大きく変えていく「高度 成長」期に至るまできわめて濃厚に残されら。対馬にも「高度成長」の余波 が漸くおよんできたと思われる昭和

3 5

年の世界農林業センサスによるほかは ないが,対馬の農家のうち,全く農産物の販売のない農家が52.3%,販売が あっても生産資材の購入費を漸くイ賞なつのではないかとされる

2

万円以下の 販売額しかない農家が22.1%,計7

4

.4%'このほ f),これに反し

3 0

万円以上の 販売がある農家は僅か

0.3%

しかない。そしてこの時期にも,その販売額には 吋寺殊林産物グとしてあっかわれることもある椎茸が若干,含まれている。

椎茸はこの時期以後,人工栽培が急、速にひろまり,対馬の最も主要な生産 物となって行くのであるが, しかしこれはいわば林業生産の延長線上にある ものともいえよう。対馬も,除々に商品経済,貨幣経済の波にひきこまれて いくが,これにたいする対馬の対応はその豊かな水産資源,林産資源,即ち 自然条件の有利性の上にたって,その水産物,林産物を販売することによっ てであり,僅かに食糧を補給するに過ぎない農業生産,良産物からの商品生

(7)

自給的良業の変容

1 2 7  

産の展開はついにみられず, 自給的色彩の 5 郎、農業にとどまることになる。

対馬に商業的農業の展開が殆んどみられなかったのは,このような遠隔の 僻地のみじめなまでに耕地の乏しい地域では,この時期,あえて異.とするに 足りないであろうが,品内の道路も全く不備, というよりはつい近年まで集 落から集落への交通も小船に依存せざるをえない地域も少なからずみうけら れたような白内交通もきわめて不便であった対馬は,明治以降も島内にも市 場条件を欠きつづけてきたという事情もあずかっていることもあったといえ よう。きわめて乏しい耕地, きわめて低い農業の生産力は対馬の本戸制度に よる土地制度を長くったえ,存続させたが農地を全しあるいは殆んどもち えない入寄留層,分家寄留層が主として商業,商業的な漁業にたずさわり,

農地,林地を確保した木戸層の農民,給人系はその農地,山林にとじこもり,

資源の売却, とくに立木販売に依存してきたきらいがみられ,良業での商品 生産,商業的農業にふみ出そうとする姿勢は殆んどみられず, 自給的色彩の

きわめて強い農業をながく維持することになったといえよう。

1)山本又次「付.l.!

0 ; i f t

の商業と生産

J j J 

i九川文化史研究所紀要」第一号,九州大学九州 文化史研究所,昭和

l 2 6

3月.11

ページ。

2  )  l 事政 W l

の朝鮮とのい

n

坊勿は,tJ

H 0 f l l f

の朝鮮

‑ ; j

と釜山におかれた藩の和館との

I B J

に 行

i L .  

ill物 , 公 貿 易 , 私

t Z

坊の別

l

があった。進物とは士れちからの進物,公貿易は朝鮮 か ら 付

! . ! 0

に刈し初

l l

i"したもので,貿易というものの献上,礼物であり,実

n

的 に は 歳 幣,そして返礼といえようO 私貿易は糸,段物,人参等の交坊をする通常の!なリ│であ るが,いずれも藩によってとりしきられ.

i

輸入さiLた商品」は大阪に述ばれ,市中の

!庁薬間以.;f

1

間以手に辺ばれた。なお人参は対応

j

寄の咋買品であり,持1ft家, ,~fl 家 へ の 問 符

l i J l

にもつかわれた。「輸入

M d

としてはその他特産

I I J 1

等 が あ る が と く に 市 安 で あるのは米であった O 一方,付!.!~から送られるのは:r[ú]. 占月トri. 明 1t. :rH.  M

U t Y . 工 芸

I I J l

その他であるが,これらのうち,飢の一郎などの庄山はあったが殆んど本土, とく に大!;反,博多,江 r

i

と 11J,:j を ;111 じて{也 IEし本土各J也,あるいは ìflþ 外の産品をも仕入iL たのである。村町教ff会的円、

J ! . ! 0

; 1

'j 

t t . J  

昭和

3

7)  J .   305

ページ

‑308

ペ ー ジ お よ び

利上 J

.U& 

. 1 ;  

j l

,L~~科IIÎ 集委 II 会「新村.l.!0 ,('j

t t :  J  1 9 6 4 年 4)  J .   2 9

ページ.

408

ページをみられたい。

(8)

1 2 8   経 営 と 経 i 庁 3)  4) 前出「対 H & ! : . ' i  

~,;tJ

2 5 7 ページ, 2 6 2 ページ ‑263 ページ。「新対馬!:民主 J 4 0 1 ぺー

ン。

5  )前出,宮本又次「対馬藩の商業と生産方 J 1 1 ページ。なお,宮本又次「対応村落の 身分構成 J r 経済学研究 J 1 6

2 号 ,

I

司「対馬村誌の土地制度と武粗 J r 経消学研究」

1 6

巻 3

号,参照。

)明治に入っても「長山~Hr,~統計者J にあらわれる村民の山外に移出される出産物とし

ては大豆等が僅かにみられるぐらいであるが明治末, 4 2 年 , 43 年の山外へ移出される 対馬の産品としてあげられているのは、木材,薪,木炭,椎茸等の林産物および錫その 他の海産物であり,農産物は姿をみせていない。九大林政学教室「北九州林業実態調 査報告書四一対応の林業構造」昭和2 8 年 , 8 7 ページ,なお前出「新村民山誌」参照。

7  )水田のきわめて少ない対馬では,畑作物としては麦類とくに大去が明治則を通じて その大半をしめ,甘しょがこれに続き,その他大豆,粟,そば等であるが(長崎県「長

崎県史 J 近代篇「普通畑作農業の展開 j 参照)耕地が乏しい士、j .l.!~で[土木佐{1:,切替畑

も巳然、として長く残されており,大正も後期!の 9 年 ‑12 年の平均作付を而‑f

WI

員にあげ てみれば麦類2 , 4 2 7 町,甘しょ 1 , 2 3 7 町,稲5 9 8 町,蕎麦3 7 4 町,栗 1 7 4 町,あるいは大根1 2 8 町,大・小豆等豆類その他1 5 2 町といつように殆んど大部分が主食用の自給作物であり,

その他としては僅かな桑の植栽, 1 2 . 7 町が目だつ程度である (各年次「長崎県統計 書 J ) 。また,養蚕は古くからおこなわれていたものであるが,明治以降,その普及がは かられたものの,その展開は容易ではなかった。それでも昭和初期に至ると僅かにひ ろまり,桑栽培面積56.5 町,栽培戸数6 9 5 戸,繭生産量8 2 1 立を数えた(昭和 5 年「長 崎県統計書J ) 。

8  )農家がたずさわる兼業としての林業, とくに製炭業あるいは漁業および j ; a j 内,厳原 町等にある本土資本の亜鉛鉱山の扉備についてはさしあたり拙稿「対馬の民林業の問

J r 長崎大学調査団「対馬の経済と社会

j

長崎県, 1 9 6 5 年 J 所収および「木炭の生産,

流通機構と農協 J r  r 経済論双 J 9 の 5 ,昭和3 7 年 J 所収の対馬の部および前出「北7 し 州林業実態調査報告書四一対局の林業構造」の佐須村および琴村の項をみられたい。

9  )昭和初期の作付も大正期と殆んど変らない。昭和 5 年の「長崎県統計書」により,

作付面積の大きい)1[員に列挙すると麦類2 , 3 2 1 . 3 町,甘しよし167.2 町(切干甘しょ 1 3 , 045

貰),稲639.6 町,蕎麦232.9 町,大豆1 8 6 . 6 町,栗1 1 3 . 6 町,小豆5 1 . 8 町,その他野菜,

(9)

自給的民業の変容 1 2 9  

花 弁

324.6 町(うち大根 1 0 3 . 8 町)が主要なものである。即ち殆んどが粗放な,自家食 糧としての自給作物である。

10) 対応の昭和 25年の農業については前出 I~ヒ九州林業実態調査報告書(四)

対!芯の 林業構造」によるところが多い。

1 1 ) 本戸制度についてはとりあえず河地貫一「離山地理学 J 1 9 6 7 年 , 4 0 3

ページ

‑415

ージを参照されたい。

2  .商品生産へのあゆみ

「高度成長」期へむけての五島,小値賀,

宇久,壱

l

岐農業の商品生産への歩み A 

j J b 列島

対馬から南に下って,東支那海に向ってひろがる長崎県の西の海には,壱 山支島,平戸諸島,五山列島等々,有人,無人,数百のおびただしい品々が展 閉じている。これらのうち常住人口をもっ島も,壱岐,福江島(五島列島) など若干の島々を除いて,多くはきわめて耕地の乏しい島である。なかでも 五島列島の上五白地区の山々,中通 ' ; j { j ,若松島, 日の出, また奈留品等の品 々 は 対 馬 と 同 じ よ う に , 山 向 的 地 形 の 品 で あ り , き わ め て 耕 地 に 乏 し し 品 の人々の多くは漁業に依存して生活するいわば漁業の白である。これに対し,

下五品, とくにその主島,福江,t;,)は水田こそ少ないが広い畑地がひろがる,

漁業よりは農業に大きく依存する大型の農業の

j

みである。

自給的性格の強い品の良業も,好むと好まざるとにかかわらず,商業的農 業,商品生産農業への途を辿らねばならなかった

O

今日,商品生産農業の展 開には, とくに島内に市場をもたない出では,本土への出荷,輸送のために 一定規模の出荷量をまとめることが主要で、あり,そのためには一定規模の栽 培,飼養が, したがって一定規模の生産基盤が,ある程度の農地が必要とな ろう。下五山,絹江山は広い畑地とともにそれなリの規模の民家数をもち,

本土への交通運輸条件も対馬,その他の小規模離 j J J の多くにくらべれば、まだ 忠まれた

j

みである。

まず,下五 ! : , ' j , t M 江 j みからみていくが,この j ;

j の 1 2 業も,明治,大正,昭

(10)

1 3 0  

経 営 と 経

i 斉

和と時の流れとともに次第に商業,貨幣経済の波にまきこまれ,主として自 家食糧,主食として栽培されてきた主作物の甘しょ(切干し)の本土への出 荷も除々に増加し,養蚕も商業的農業の動きをみせ,換金作物としての葉た ばこ等の栽培も展開し,また島外へ出荷されて現金収入をもたらす仔牛生産 も進展をみせる等,農産物の商品化,島外,本土へむけての商品生産として の農業も戦後にむけて次第に進展してきていた;とはいえ,五仏福江島の 作付の殆んど大部分は伝来的な粗放な自給的な食用作物の作付であり,これ らの農産物の商品化は行なわれてはいたが,福江島の農業は未だきわめて自 給的性格の強い農業の様相をみせていたということが出来ょう。

福江島の西の端に束支那海にむけて広い畑地のひろがる,下五島農業の「原 型」をもっともよく伝えるといわれる三井楽町がある。戦前,昭和の初めか ら戦後まもなくの三井楽町の農業についてその作付の推移をあげると粗放な 自給的作目がその殆んどをし吟ている(表

1

)。これらの主要な作付以外の零 細な作付としては,三井楽町役場の資料には蚕豆, とうもろこし,ごま,そ ば,だいこん,にんじん,ごぼう,さといも,きゅうり, とまと,なす,す いか,ねぎ,たまねぎ,かんらん,はくさい等々の種々の野菜,その他緑肥 作物,また,なし,かさ,みかん, もも,び、わ, うめ,ぶどうなどの果実が あげ、られている。しかし,これらはいずれもいつまでもなく農家の自家用と

(

1

)三井楽町の主要な作付の推移(昭和

5

昭和2

5

年) (単位,町)

※三井楽町役場資料による。

して栽培されていたものである。いずれにせよ,三井楽町の作付の大部分は 甘しょ,小麦,大豆であり,それに僅かな面積の水稲,陸稲の作付があるが,

いずれにせよ三井楽町の作付の大部分は在来の食用の自給的な,組放な作目 によってしめられていたといえる。しかし(表

1

)によっても気づ、かれるよ うに,まず,この時期

j

の動きとして水稲の作付が大はばに増大していること,

(11)

自給的農業の変容

1 3 1  

麦類にたいして切干しとして出荷しうる甘しょの作付がより大きく増加し,

そしてさすがに,自家食糧であった粟,黍の作付が消滅しようとしているこ と,即ち,商業的農業が伸びてくるなかで自給食糧としての麦,また雑穀の 作付を減少させ,代って商品としての役割ももっ作物,甘しょ,同じく自給 食糧の役割をふくめて品のもっとも渇仰する水稲の作付が大はばに増大した ことがみられる。また桑の栽培がいちじるしく衰退し,消滅しようとしてい ること,また普及するかにみえた除虫菊がこの時期には全く姿を消している こと,また表

l

には示していないが衰退した桑園に代るように換金作物と して一度は消滅した葉たばこが再度導入され,栽培面積を急速に拡大して行

( 3 )  

くのもこの時期であった。その他,古くから農家に現金収入をもたらしてき た役牛としての和牛仔牛の生産があり,その辺境的商品生産形態も後にみる ようにこの頃から役肉用牛の生産へと歩き出そうとしていた。ごのような作 付形態がこの時期の福江島のお、よその農業の様相を示すものであるが,自 給的性格を強くたもっといわれながら品の農業も商品,貨幣経済の波にあら われては商品作目を導入,普及させょっと試みてはきた。しかしその商品生 産農業の展開はきわめて困難であった。

福江島三井楽の場合にみた除虫菊,葉たばこと同様に白からの出荷輸送に 好都合な商品作目である五島の繭も‑養蚕は輸出に大きく依存する商品生産 であったという事情もあるが一同様な運命を辿った。もともと五島でも養蚕 は古くから在来種の飼育がおこなわれ, 自家用にあてられていたが,商品化 されるようになって, とくに大正初期に桑の改良増殖がおこなわれ,桑園面 積,収繭高も大はばに増加し(表

( 去

2)五自の養蚕の推移(明治44年 昭和 5年)

),大正末期,商品生産に至っ たことをうかがわせるが,この頃,

養蚕組合による共同飼育もおこな われるようになり,大正末から昭 和初期にかけて展開し,五山の良

明治

4 4

大 正

1 2

昭和 5

飼 主 戸 数

2

043

2

1 7 6   3

2 5 1  

桑問団関

収 繭 高

8.99

480 石 1 3 1 .   9  " 1

1 3 8 1 1   318.8  4 5

780t1 

※長崎県統計書による。

家に現金収入をもたらしてきた。しかし大平洋戦争とともに衰退し,戦後に は殆んど消滅してしまうのである。また三井楽町の場合にみたように姿を消

(12)

1 3 2  

経 営 と 経 済

してしまった除虫菊,葉たばこについても,除虫菊のように輪入その他の原 料におされて価格の低迷がもたらされたなどの理由もあるが, 自給的,伝来 的な,組放作物の生産に甘んじ,馴れしたしんできた五島の農民には栽培技 術がともなわず,導入された商品作物の栽培も程なく中止され,杜絶えてし

まうのは珍らしいことではなかった。

しかし,戦後も時の経過とともに下五品の農業も僅かながらその様相を変 えることになる。戦後の窮迫した食糧事情が落着きをみせてきた昭和3

1

年の 三井楽町の作付は,町役場の資料によると,その耕地,

1

4 1 7 . 7

町の

95%

しめる畑地の作付で, もっとも大きいのはまず甘しょ

( 7 8 9 . 5

町)であり,つ いで裸麦・小麦

( 6 4 5 . 9

町),大豆

( 3 9 3

町),菜種

( 6 5 . 6

町)葉たばこ

( 6

1.

3

町)

とならぴ,僅かな水稲および陸稲

( 6 3

町)と続くが,さきの昭和

2 5

年にくら べて作付の動きていめだつのは大豆が減少し,葉たばこの大幅な増加が目をひ くのみであり,大きな変動はみられない。ただし,もっとも作付の大きい主 作物の麦,甘しょは昭和

2 5

年にくらべて作付面積は若干減少している。しか し,これらの主作物, とくに甘しょの生産高はこの時期にかけて飛躍的に増 加しているのは,甘しょの単位面積あたりの収量が大はばに増大しているか らであり,一方,投下労働は減少し,きわめて生産性の高い甘しょ作がおこ なわれるようになっていぷ;三井楽町の農家に現金収入をもたらす作目には 甘しょの他に麦と葉たばこ,あるいは大豆,そして仔牛があったが甘しょが もっとも大きし農家にもたらされる現金収入のお、よそは大量に市場に出 荷され,きわめて生産性の高い商品作物となっている甘しょによるものであ

r

高度成長」の波及を前に貨幣経済に深くひきこまれようとしている三井 楽町の農家の生活を支える最も重要な商品作目て、あった?

もともと,甘しょは周知のように風潮害等の自然災害に強く,水の乏しい 離島の自然条件,土地条件にかなった作目であり,古来,生で,あるいは乾 燥されて,水田の少ない五島では近年まで麦とともに主食として島の農民の 生命を支えてきた作物である。それが島外,本土に出荷され, {,殿粉原料,ア ルコール原料等の工業原料として商品化されて行くが, とくに戦後は甘味資 源対策の一環として価格支持政策の対象としてあっかわれるが,甘しょは澱

(13)

自給的良業の変容

1 3 3  

粉,切干しに加工された場合,離島,五島からの出荷でも輪送上の不利はき わめて少なく,本土地域からの出荷と殆んど同じ条件であり,購入肥料等の 生産資材の輸送運賃,また本土への出荷輪送運賃についても県経済連の取扱 い,プール計算により本土地区と殆んど同じ条件であり,離島から本土地区 に向けて出荷される農産物としてはきわめて好都合な農産物であった。生産 性も,戦後とくに,商品化の進展とともに大はは、に高められた甘しょは五島 では本土の米にあたる農産物であり,五島の農産物を代表する最大の農産物 商品となったのである:

甘しょと並

v i ;

作付面積をもっ麦,裸麦および、若干の小麦は三井楽町の例で も甘しょとともに作付の大半をしめるが, もともと五島では甘しょ 麦‑甘 しょ,あるいはこれに大豆,休閑をさしはさんだローテーションを中心とす る主要な畑地利用方式によって栽培されてきたものである。麦は甘しょとと もに五島の農家の主食としての役割をになってきたものであるが,甘しょが 貨幣経済が侵透しつつある五品の農家の家計を支える最大の農産物商品とな ってきたこの時期にもまだまだ自給食糧としての役割を大きく残していた。敗 戦直後にくらべれば麦類の出荷も伸びてきているが,甘しょに対しその販売 はまだまだ少なし米食率の低いこの地域での自給食糧その他,自家消費に向 けられていたことをうかがわせる:

甘しょ販売額の多少はあれ,甘しょと麦の作付が畑作の大半をしめ,基幹 作目となっているのがこの時期の三井楽町,五島のみならず,この海域はも ちろん西日本各地の離品に広く見られる作目構成であるが, さらに五島,福 江島にみられるょっにこれらの耕作の使役のために和牛を組合せ,生産され た仔牛を出荷し,現金その他を手に入れるのもまた古くからおこなわれた

j 誌

の辺境的商品生産の形態であった。後にみられるようにこの時期の島牛の飼 養目的はまだ農耕のための使役の意味が大きし役利用および厩肥生産を第 ーの機能としており,その零細規模の飼養はおくれた生産構造に規制された 自給的畜産の性格をまだ強くとどめていた。しかし,福江出の農業が自給的 農業生産の構造を強くとどめながらも商品生産の方向へと大きく踏みこんで くるにつれて,甘しょ作の商業化の進展とともに,おくれた伝来的な生産,

(14)

1 3 4  

経 営 と 杭 j

出荷態勢を残していたかにみえる品牛の飼養の態勢もより大きく商業化の方 向を打出そうとしていた。即ち,和牛の用途が伎役から食肉への移行の部

J

が伝わってくるなかで,使役用の和牛仔牛の出荷がいまだ大勢をしめてはい たが,そのなかに肉用牛の素牛生産にとりくむ動きがみえ始め,出荷体制も 畜協,畜産組合,そして農協,畜協を組織する畜述(五品畜産販売民業協同 組合連合会)へと展開し,きわめて不充分ではあったが出荷体制は整備の方 向を歩み始め, さらにまた県,市町村等の指導,援助とともに,これらの畜 産組織も生産態勢の整備にもかかわり,出荷,生産体制整備への歩みがみえ 始めていたのもこの頃であった。)

みてきたような下五島地区の農業に対し,上五島の品々の農業の商品生産 への歩みはきわめておぼつかないものであった。これらの島は古くから,藩

政均 j

にも,漁業,水産物の出荷,これらにたずさわる人々のかかわりをめぐ って,商品,貨幣経済との接触はありえたし,貨幣経済の洗礼はうけたであ ろうが

9 )

盟かな漁業資源に比べ,農業の基盤はあまりにも劣悪であり,ここ では商業的農業が育っていく条件はまず,殆んど,なかったといえよう。上 五島の品々は,山林,急傾斜地が多く,耕地は今日でも,これら白面枯の6.8

%にすぎず,農家の耕地面積はきわめて零細狭少であり,まず,耕地条件が 劣悪,生産基盤を殆んど全く欠いていたといつしかなかった。昭和

3 0

年の上 五島地区(奈留町,若松町,上五品町,新魚目町,有川町,奈良尾町)の農 家の耕作規模は同年の臨時農業基本調査によれば0.3町未満が全農家の72.2%

をしめ,それも要改良土地, しかも急傾斜地が甚だ多しきわめて狭小な田 畑が山腹,谷あいに散在している, といつのが上五品農業の耕地条件であっ た。作付は,キ且放な畑作物が殆んどであり,上五島地区の農業を典型的に示 すとみなされる新魚目町の農業をとってみれば

1 1 )

その昭和3

1

年の作付でもっ

とも大きいのが甘しょ

( 2 9 9

町),次いで麦

( 2 0 0

町)および野菜類等

( 8 8

町) であり,これらの多くは自家消費にあてられ,出荷は僅かな切干甘しょなど がみられるぐらいである。即ち,この地区の切干甘しょの出荷とは

5

1 0

俵程度を出荷する農家がもっとも多く,出荷量の大きい農家でも

40

‑50

俵程度であり,

500

依以上の出荷量をもっ農家が少なからず見出される下五山,

(15)

自給的良業の変容

1 3 5  

福江島にくらべれば極めて零細といわねばならず,このような零細な切干し の出荷はせいぜい農協等からの僅かな生産資材の購入の支払いにみあうか,

みあわないかの出荷額にすぎないであろう。このような農家の様相は上五島 地区としては幾分なりとも水図面積の大きい上五島町,有川町においても変 りはなしそれなりに微量の米の出荷もみられるが,僅かではあるが, もっ とも主要な,むしろ唯一ともいえる商品化される農産物としての切干し甘し ょの出荷は新魚目町の場合と同様で、あり,その他いくばくかの畜産物,和牛 の出荷があるが,めほ、しい商品作物とてなし下五島地区に比べ,さらにま た,耕地条件は劣悪であり,農機具の装備もれめは しいものはないかといわ れる程,貧弱であり,農作業は主として老人,婦人の, しかも殆んどホ人力か によって行なわれる農耕の生産性,収量はきわめて低く,食糧事情が好転し,

q出稼ぎの収入がいしゾと耕地が荒れてくるといわれる,また,野菜を作っ ても売るのが恥ずかししゾなどという声も聞かれた上五島地区の農業は,漁 業,出稼ぎ,山林労働その他の雇傭によって支えられる,食糧入手のための きわめて自給的性格の強い農業といわねばならなかった。このような自給的 性格の強し、農業,農家はもちろん上五島のみではなし下五島の零細農家の 滞留する地区に随所にみい出されることはいうまでもない。零細な農家がき わめて多い漁村地区の切干し甘しょの販売,出荷の様相は上五島の場合と同 様であり,周辺地区に規模の大きい畑作農家がある場合には,数百俵, とき には

1

000

俵近い切干し甘しょを出荷する農家のかたわらで数俵の切干しし か出荷しない農家の姿がみられることはいうまでもない。

上五島地区で切干し甘しょに次いで出荷額が大きいのは和牛仔牛であったJ2)

しかしその飼養形態は,まず飼養農家卒が下五島地区は

68%

であったのに対し,

上五島地区は

20%

にすぎず,飼養規模は

1

頭飼養が飼養農家数の49.2%

頭飼養が28%,即ち

1‑ 2 9 T I

飼いが多く,その飼養目的は下五島が使役であり,

そして生産であったのに対し,急傾斜の,狭少,零細な耕地が多い上五品で は飼養目的は使役あるいは生産もあるが,育成の役割が大きしいわば下五 島の育成地帯としての位置をもつものであった。

もともと古くからの和牛の生産地帯であった五山列山は,昭和

2 5

年以降,

(16)

1 3 6  

経 営 と 経

i i T

飼養頭数は減少或いは停滞気味であったが,昭和

25

年当時,年々

3

000

頭 程 度の仔牛が海を渡って本土へ出荷されており

1 3 )

その他,畜速の開設する各地 区の市場を経由しない頭数,また,出荷頭数の把握が困難な成牛の出荷もあ り,古くから和牛は品外,本土に販売されて,品外からの稼得,現金収入を 五島の農家にもたらしてきた。五品の和牛の飼養目的はいうまでもなしそ の重粘な土壌の耕作にあたっての使役であり,そして生れた仔牛が売却され てきたのであったが,肉用素牛としての用途にも振向けられるようになって くる。昭和

3 5

年頃は和午の飼養目的は役より肉にむけられていた時期である しかし五島では使役の意味がまだ大きく残されていた。この時期におけ る五島の和牛の飼養目的は役利用が大きく,そして厩肥生産が重要で、あり,

そのきわめて零細規模の飼養はおくれた農業生産構造に規制された自給的畜 産という性格をまだ強くとどめていた。しかし,この時期には古くからおこ なわれてきた和牛仔牛の商品化形態にはなお辺境的商品生産の性格をとどめ つつも,前にふれたように出荷組織の整備の方向,改良への動きを見せ始め,

商品生産的畜産展開への方向を打ち出そうとしていた。とはいえ育成地帯的 性格をもっ上五島地区ではその飼養形態にも,また出荷形態にも,商人支配 の強さ,市場外流通の姿態にもみられるように,その販売方法の不合理な形 態が,下五島にくらべても,まだより多く見出され,辺境的な商品生産の性 格をより強くとどめていたといえる。

上五島地区の農業に商業的農業の展開が殆んどみられず, 自給農業の性格 を強くとどめていたのは,まず何よりもその劣悪な耕地条件,市場条件によ るであろうが,これに対し,下五島地区の農業は水田こそ少ないが広い畑地 をもち,輪送条件は上五島にくらべれは、まだ忠まれた事情にあり,その恵ま れた耕地条件の上にたって商品化の進展とともに農業技術,労働生産性をひ き上げてきており,粗放な作物の耕作に終始し,労働力の面からも商品生産 的農業への発展を制約されながらも, 自給作物であった食糧農産物の商品化 によって商品生産農業の発展に対応していた。即ち,伝統的な自給的農業を 基盤に,その延長線上にではあるが, 自給的農業を可能にする範囲で商品生 産農業への途を,その展開の途を歩み出そうとしていたということが出来よ

(17)

t

J

給的民主の変容

1 3 7  

う。そのかぎり自給農業の腕帯をなおも身にとどめつつ,自給的農業の色彩 をなお色濃くとどめながら,そのま、市場経済のなかにまきこまれ,商品生 産農業発展の方向をめざしていたということが出来ょう。

五島列向周辺の海域の山々の農業が,このような, とくに上五島地区にみ られるような農業を営む品々がしばしばみらけられるなかで,同じくこの海 域,長崎県の西の海に位置する品々のなかには,五品列島の場合とさほど変 らない耕地条件にありながら,商品生産的農業への志向,市場対応への姿勢 についてきわめて積極的な態勢を示してきた品をみい出すことも出来る。ま た同時にそのような姿勢をとりながらも商品生産の展開がさほどめだたない 島もみうけられる。上五島の北に位置し,歴史的,地理的にかつては,五島 列島であった小値賀山,宇久山,そしてそこからや 3 北に位置するこの海域

では数少ない水田の広い大型の民業の!~~,壱岐,これらの島々の商業的農業 へのとりくみについて次にみて行くことにしたい。

小値賀

j : b

,宇久山そして壱

1 1 1

支山

小値賀島

1 9 5 0

年世界農林業センサスでは小値賀島は,その属島を含め て田

1 1

1.

9

町,畑

6 5 0 . 1

町,農家戸数

1

1 1 6

戸の,外海におかれた小規模な 離島であるが,その良業の作付も,敗戦間もない昭和

2 5

年では, もっとも大 きいのは,主に主食用, 自給用の麦類

( 3 9 2

.4町),甘しょ

( 2 4 0 . 2

町)であり,

次に大豆

( 1 1 6 . 5

町),水稲(1

0 8 . 7

町)がこれにつづき,粟

( 5

1.

9

町)の作付 もおこなわれ,そして,そら豆

( 4 8 . 8

町),小立

( 2 7 . 3

町),すいか

( 2 5 . 2

町) の順にならんでいるO 食組不足の敗戦直後といっ時期ではあるが,やはり粗 放な,伝統的な,そして自給食杭としての作物が大部分をしめていたこと,

栽培目的,形態に自給的民業の性格が色濃くまつわりついていたことはみて きた五j誌の場合とほほ、同様で、ある。しかし,これらとともに統制,価格支持 制度のもとにない,すいか等の野菜その他豆類等の市場の競争にもまれる作 目が少面積とはいえ敗戦後間もない時期!に,この島では栽培され,少なから ず出荷されていた。

もともとこのj与の商品作物へのとりくみはかなり古くからみられたが,小 {l在 J~lll;i~ の商業的民業への足どりをあとづけてみると大正中期i 以降,桑閑而 Ff

(18)

1 3 8   主主主?と経

ifi がいちじるしく拡大し,この海域の島としては養蚕は特殊ともいえる普及が みられるのであるが,昭和

5

年の

83

町を頂点として桑園は激減し,昭和

1 0

には早くも痕跡をとどめる程度となった。かわって,大正1

0

年頃取入れられ た輪出向ゆり根およびすいかの栽培がさかんとなり, うち輸出ゆ

t )

根は養蚕 が下火となった昭和

8

年には6

4

町の作付となり,長崎県の島原半島の産地と ともに全国的な主要産地となり,品外,国外に輪出されて現金収入をもたら していた。しかしゅり根は大平洋戦争の開戦とともにアメリカ

r i l J

けの輪出が 社絶え,すいかの作付は昭和

1 2

年には

54.5

町におよび小値賀すいかとして佐 世保市場を中心に長崎,五島,福岡市場に出荷されていたが漸次,衰退し,

とくに戦争とともに作付制限令によって 栽培は縮少されることになる。とは いえ,これらは生産の統一と流通の共同化によって出荷体制の整備がはから れてきたものであり,また古くから小値賀牛として名があった和牛も早くか ら,明治

40

年には定期的な牛市が開設されており,離.品としての不利な出荷 条件の緩和をはかり,有利な販売体制をととのえ,商品的生産に踏みこもう

としてきた対応の姿勢はこの海域の離品としてはきわめてきわだっていた。

このように商品作物を導入し,商業的農業にとりくもうとする姿勢が養われ てきた背景には,豊かな水産物の出荷をめぐっての商業,貨幣経済との深い 接関が早くからみられた地区ではあったが,イワシ刺網を中心とする小資本 家的漁業経営にたずさわった農家の商品,貨幣経済に対するとりくみにもみ

られるような商業的感覚があったことがうかがわれる。

昭和

25

年以降も,さとうきび,さらに再び,輪出

r i l J

けゆり恨がとり入れら れ,また葉たばこの導入,その他,抑制とまと,えんどう,みかん等,新た な商品作物を求めての歩みは続けられる。しかしこれら商品作物栽培の前に は,まず,品のきびしい自然条件がたちはだかっている。 j誌の水,干,風害 などの荷酷な自然災害にいためつけられ,さらにはその地理的条件などから もたらされる劣悪な市場条件,そして激しい価格変動等にゆさぶられ,蓄積 の乏しい農家の作付は程なく萎縮あるいは消滅して行く姿が多くみうけられ るなかで,かえって島の自然条件を有利に生かして栽培が続けられる作目も あゆ,その様相は様々である。戦後に導入された作目のうち,さとうさび,

(19)

自給的農業の変容

1 3 9  

ゆり十l{は普及することもなく姿を消し,昭和 29 年になるが導入された葉たば こは,またたく聞に普及したものの7./(,干,風害などの打撃をうけ,作付 面積は縮少し,昭和 3 1 年頃を最盛期として栽培面積は凋落に向い, また,昭 和 3 0 年頃導入されたみかんは頭初,ある程度, 1 5 ヘクタール程の植栽をみせ たが, f H1もなく潮風害にみまわれ,全く成長の芽をつみとられてしまう。こ れに対し, i f : l l i l i iJそさい類,とくにえんどうは,小値賀品の気候が冬期,比較 的高温で夏作物の在図期間を延長する条件をもっていること,そこで白から の出荷輸送が高温時期を避けることになり, 日持をよくし, したがって海上 輸送の不利な条件を緩和していること,などが保温資材‑の開発,発達にも持 ち堪え,その栽培が長くつづけられ,今日にもおよんでいる。即ち, !与の自 然条件,気象条件を有利に利用している事例であろう

O

しかし,おおむね,品では新しい商品作目が導入されても,まず栽培にあ たっては苛酷な自然条件にさいなまれ,出荷に際しては, とくに今日の品に とっての宿命的な条件,劣悪な出荷,輸送条件のもとにたつことを余儀なく され,このような不利な条件が加味されることにより,商品作物栽培の消長 は甚だしく, とくに自然災害による手痛い痛手をうけでは島の農家の乏しい 蓄積ではその痛手に耐えることはきわめて困難で、あり,また再び伝来的な作 目,甘しょ,麦の栽培にもどってしまう。甘しょ,麦の作付は,いうまでも なく自給のためと同時に,出荷して貨幣を取得するためである。現金入手の 途は,古くからのい出稼ぎの j ; y 小値賀島の農家では島の農・漁業の不振とと

もにさらに出稼ぎへの傾斜を強めて行くことである。ともあれ,漁業,出稼 ぎをめぐっての商品貨幣経済とのかかわりをもってきたこの島の商品作自の 導入,作目の選択,構成にはこの海域の白としてはそれなりに, ともかくも 積極的な商品作目導入の立欲,商業的農業にとりくもうとする姿勢はみるこ

とが出来る。

宇久山 自給的性格がきわめて強いとされるこの海域の j 誌の民業にも小値

j

みのような商品生産的農業への指 r i l J を示す尚もあることをみたが,なお小

値賀 j : J の民業の性格をみるとともに外海におかれた畑作主体の小規模な j 誌の

民業の本土市場への出荷の事↑百をみるために,小 1 i { I T l 山とや、以かよった良

(20)

1 4 0  

経 営 と 経

i i i

業生産の条件と商品化の動きを示すと思われる,隣接する宇久島の農業の敗 戦後の商品生産のあゆみを小値賀の農業と対比してみることとしたい。

宇久島は

1 9 5 0

年世界農林業センサスによれば田

202.8

町,畑

750.5

町,農家 戸数1

2 3 9

戸の島であるが,小値賀島より島の規模も田,畑もや冶大きく,漁 業への依存とともに,農業生産の比重が大きい,農業の品ともいえる外海の 離島である。戦後の宇久島の農業の様相をみるために,まず

1 9 5 0

年農林業セ ンサスにより,昭和2

5

年の作付を面積順に列挙すると,麦類

( 3 8 3 . 9

町),甘 しょ

( 3 7 8

町)および大豆

( 3 1 5 . 1

町)がほぼ同列に並び,それにフ防局(1

9 2

町) が最も主要な作目であり,これらから大きくはなれて,大根(1

8.7

町),かは、

ちゃ ( 1 0 . 7

町),小豆(1

0 . 5

町), そ ら ま め (9町)があリ,またすいか

( 2 . 8

町),そば(1.

4

町),栗(1.

3

町)なども僅かながら栽培されている。この作 物構成を隣島の小値賀島と比べると麦,甘しょ,大豆,水稲までの順位は同 じであり,これらの作物が作付の大部分をしめ,圧到的に大きいこと,また この時点では葉たばこの作付はいずれも導入されていないことも同様で、ある。

ただ宇久島は小値賀島より,そら豆,すいか,小豆などの作付が少ないこと がめだっている。宇久島の作付はいずれにせよ,伝来的な,粗放な普通作,

食糧農産物がきわめて大きな割合をしめ,自給的作物の栽培に終始しており,

これらはこの海域の品々がそうであったょっに,自家食糧に向けられるとと もに,販売されて若干の現金収入を農家にもたらしてきた。自給的性格をな お強くとどめる農業ではあったが,伝来的な,普通畑作物中心の商品化はお こなはれてはきている。しかし,この時期,宇久島では小値賀品に比べ,す いかなどの野菜のようなより市場競争にさらされることになる商品作物栽培 の芽生えはきわめて小さかったといえよう。

宇久島,小値賀島の農業の商品生産への踏み込みの遠いは,この海域の品 々も、高度成長グの波に漸く洗われるようになる昭和35年頃になるとよりあ きらかに見られるよつになる。作付面積では,二つの品を比べてみると(表

),耕地面積,とくに水田がより大きい宇久島が,甘しょ,麦,大豆などの 伝来的な畑作物および水稲がいずれも小値賀山より大はは、に大きいのに対し,

商品化される野菜は,僅かな面積の,佐世保に駐留する占領軍向けの特殊な

(21)

自給的農業の変容

1 4 1  

(

2

)昭和

3 5

年,宇久,小値賀作目別作付面積 (単位 ヘクタール)

注「世界農林業センサス

J による。

とまとを除いて, とくに主要な出荷野菜であるすいか,あるいはそら豆など は小値賀島が大はばに大きしまた大麦から切替えられたもっとも,大きい販 売額をもっ裸麦に次いで大きく重要な商品作物である葉たばこもまた小値賀 島がはるかに大きい

j

。即ち,宇久島,小値賀島ともに普通作中心の農業であ ることに変りはないが,宇久島がより普通作中心の商品化の途を歩んでいた のに対し,小値賀島はより激しい市場競争にさらされることになる野菜,あ るいは当初から商品作物として出発している葉たばこ生産の展開が大きく,

小値賀の農業が商品生産的農業の方向をよりさしせまっておいもとめていた ことをうかがわせるものであろう。この背景としては,前にも述べたように 小値賀島では豊かな水産物の島外出荷をめぐって,本土との往来は藩政期 からさかんにおこなわれ,明治中期には小値賀は「上五島一円の商業の中心 地」とみなされるように,商工業も盛んであったといわれること,そして農 家にも小資本家的漁業を営むものがあり,また小値賀島の農家は藩政期,明 治初期から捕鯨,稲刈り,炭坑,酒造業に傭われて出稼ぎとして本土に渡る ものが多く,商品,貨幣経済との接関も早くからおこなわれ,なんらかの形 態で漁業にもかかむる農家の間にも貨幣経済にたいする感覚が培われたであ ろうと思われること,そこで水産物の出荷態勢にもみられるように,既にふ れた和牛仔牛の出荷,野菜の出荷形態にも当時としては合理的な体制を組織 するなど,市場対応、の姿勢にもみるべきものがあったことなどがあげ られよ う。これに対し宇久山も,小値賀山よりは小さいとはいえ豊かな漁業資源を 持ち,藩政期にも宇久島, とくに神浦港を基地として本土の漁船も集まり,

これにともない本土へ海産物を移出する商人,廻船業者もあらわれ,島外へ の荷を扱う商取引もおこなわれ,また明治に入ると品民の漁業出稼ぎもめだ ったが,しかし明治も中頃以降,汽船の大型化にともない本土の漁船も基地

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しかし,農業生産活動をこの視点、から検討することは

2 客としての市民の欲求充足モデル 図 1

る”Fath’r〜”の歌い出しの歌詞は、この当時にはすでに多くの人々に歌われていたと考えら れる。さらに、William(2008)の研究によって

7石,いず れも米高表示:第 6表( 2 ) 欄〉の比率は 25.9%にも達

ようになった。農業信用はすべて農業協同組合を通して組合員に融資され