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(1)

1934年互恵通商協定法成立

−連続性の視点から−

小山久美子

Abstract

The passage of the Reciprocal Trade Agreements Act in June 1934 marks a shift in the U.S. commericial policy history; from previous high tariffs set by Congress to a movement toward lowered tariffs by authorizing the President to negotiate bilaterally with other countries without Congressional approval. Scholars have often pointed the im- portance of the passage from the point of view of the dramatic discon- tinuity leading to the postwar trade-liberalizing system.

The object of this article is to add the significance of continuity to the

Act: the delegation from Congress to the executive branch described in

the Act followed a current of previous attempts to decrease Congres-

sional rights and to extend the executive discretionary power both in its

tariff history and American history. Such a change was not dramatic but

gradual. In addition, the president's authority in the Act was subject to

constraints including renewable limits to the negotiating authoriy, in

other words, renewals by Congress, and an obligation to be responsive

to the pressures of interest groups. The constraints were remains of the

previous tariff-making process, explaining that the U.S. could often

deviate from trade liberalization even in the postwar period.

(2)

は じ め に

互恵通商協定法 ( R e c i p r o c a lT r a d e  A g r e e m e n t s  A c t ,以下, 1 9 3 4 年法と する)はアメリカで 1 9 3 4 年 6 月 1 2 日に成立した。 1 9 3 4 年法は一つ前の通商法 である 1 9 3 0 年のスムート・ホーリ一法 ( S m o o t ‑ H a w l e yA c t ,  1 9 3 0 年法とす る)のわずか 3 頁にわたる修正版であるが, 1 9 3 0 年法が悪名高いのに対して,

1 9 3 4 年法の歴史的意義はきわめて大きいといわれている。 1 9 3 0 年法が大恐慌 下で広範囲にわたる品目に高関税を賦課し,アメリカの高関税政策のピーク を成した一方で, 1 9 3 4 年法の場合,アメリカは低関税化へと政策を転換させ た1)

0

1 9 3 4 年法は,第二次大戦後のアメリカ主導の自由貿易体制へと繋がっ ていく契機となったとして,高く評価されている。

アメリカでは, 1 9 3 4 年法に関して通史の中で成立要因が考察される場合が 多く(ただし戦後の研究に重点がおかれる傾向にある),しばしば分析され るのは経済的要因と議会要因であり,議会要因はさらに政党説,権限放棄説 などに分けられる。国際的視点からの説明もなされている

2)

。我が国の研究 史における 1 9 3 4 年法の位置づけは,輸出激減を招いた 1 9 3 0 年法の反省に基づ き,当時の国務長官であったコーデル・ハル ( C o r d e l lH u l l ) の強いリーダー シップの下,一転して関税引き下げを可能にさせた法であるとの見方が近年 ではとられることが多い

3)

。異なる見方としては, 1 9 3 4 年法は景気回復策の ーっとして成立したにすぎず,事後的にみて初めて画期的なものであったと のややトーンを落とした説明がなされる場合もある

4)

。が,ともあれ研究の 焦点は第二次大戦後,および現代の通商法におかれており,同法は転換点と して重要である,画期的であるとの言及に留まり,成立に関して詳述される ことは少ない。また,同法の成立の基盤,背景である産業構造,実業界の推 進派に焦点をあてた研究や,同法の政策主体を国務省としてその構想を考察 した研究のように

5)

,同法に焦点をあて詳細に検討したものは幾つかあるが,

それらもやはり同法の自由貿易化への政策転換を強調し,前提としている。

(3)

本稿の特徴は 1 9 3 4 年法に政策の大幅転換が意図されていたことを認めた上 で,転換そのものが議会の権限縮小,行政府の権限拡大というアメリカ史,

関税史の趨勢に沿った形で行われており,一気にというよりはむしろ連続的 な変革の一環と位置付けられることを主張する点にある。また転換に制約が 付された部分がその後も存続し,それまでの関税法の保護主義的側面を継承 していることもあわせてみていくが,それにより 1 9 3 4 年法以降もアメリカが しばしば保護主義に回帰する底流を理解することも可能になるのである。

上記の如く本稿は, 1 9 3 4 年法成立を連続性の視点からあらためて考察する ことを目的としており,構成は次の通りである。まず l 節で 1 9 3 4 年法成立の 背景を明らかにする意味で,建国以来,..., 1 9 3 0 年法までのアメリカの通商政策 を政策別,制度別に概観し 2節で同法成立に至る過程を 3節で同法成立 後の動向を明らかにする。

1 節 1 9 3 4 年法成立の背景

1 9 3 4 年法は 1 9 3 0 年法 3 5 0 条のパート I I I を修正,加筆したものである

6)

。合 衆国憲法は関税設定権を議会に帰属するとしており, 1 9 3 0 年法まで関税は他 国との交渉によるのではなくアメリカが決定し,すべての国に同じ関税率を 適用する「単税自律的関税」が原則であったが, 1 9 3 4 年法により議会は大統 領へ一定の授権期間に限り(1 9 3 4 年法の場合は 3 年間),関税設定の権限を 委譲することとなり,関税は大統領による他国との二国間の「交渉による関 税」となった(締結した貿易協定は上院承認を必要とせず)7)。大統領は 1 9 3 0 年法の個々の関税率を,交渉相手国の関税引き下げや輸入制限撤廃を条件に,

50% の範囲内で引き下げることが可能となった。すなわちアメリカの関税は,

議会ではなく大統領(行政府)により,他国と互恵的に調整されるようにな

ったのである。アメリカでは 1 9 2 3 年に,条約締結の際の原則として無条件最

恵国待遇を採用するようになっており(それまでは条件付最恵国待遇), 

(4)

1 9 3 4 年法もそれを採用,したがって二国間交渉の成果は国際的に拡大し得る こととなった。かかる大統領への権限委譲は 1 9 3 7 年 , 1 9 4 0 年 , 1 9 4 3 年と更新 され,第二次大戦後においては交渉は GATTC 関税・貿易に関する一般協定) 体制下で多国間となり,一連の世界的なラウンド交渉でのさらなる関税引き 下げへと繋がっていった

8)

以下では, 1 9 3 0 年法までのアメリカの通商政策を政策面,制度面で概観し てみる。

1.関税史概観 一 政 策 面 一

アメリカの関税には,建国より 1 9 3 0 年法までの間,多かれ少なかれ国内産 業を保護する目的によりが含まれていた。さらに保護の程度に応じて以下の

5 つの期間に大別される。

1 7 8 9 " ‑ ' 1 8 1 5 年。この時期,保護主義政策は徐々に姿を現わしてきたが,全 般的にさほど重要ではなかった。但し企業部門(非農業)の一部からの保護 要求は建国当初より強かった。ハミルトン C A l e x a n d e rHam i 1 t o n ) は「製 造業者に関するレポート」で保護関税を提言した。が, 1 8 0 8 年までフランス 革命,およびそれに伴う戦争がアメリカの農産物に対して利益のある市場(輸 送部門の雇用も)を提供していたため,結果として保護関税手段による製造 業者への支援を支持する感情の高まりを妨げた。この時期の関税は主に歳入

目的であった。

1 8 1 6 " ‑ ' 1 8 3 2 年 。 1 8 1 2 年米英戦争後,ヨーロッパ(特にイギリス)との通商 が異例にも遮断された結果,多くの「幼稚産業」が発達段階,あるいはすで に発達することになった。よって 1 8 1 6 年の関税法は慎重に策定され,結果的 に保護関税が盛り込まれた。保護主義の頂点は 1 8 2 8 年の「唾棄すべき関税」

といわれるまでとなり,それは南部諸州の無効運動まで引き起こし,ジャク

ソン C A n d r e w J  a c k s o n ) 大統領が南部の連邦脱退運動を回避する施策をと

らねばならぬ程であった。

(5)

1 8 3 3 " ‑ ' 1 8 6 0 年。この時期は保護主義政策が厳しい攻撃を受けた。南部と北 部との間の取引により生まれた 1 8 3 3 年のいわゆる妥協関税に続き 1 0 年間,関 税は下降傾向を辿り, 1 8 4 2 年法でこの傾向に歯止めがかかったものの,再び 1 8 4 6 年法は 1 8 3 3 年法の原則へ戻った。同原則は 1 8 5 7 年法でも繰り返された。

1 8 6 1 " ‑ ' 1 9 3 0 年。高関税支持の共和党が南部,北部の対立の中から 1 8 5 4 年に 発足し,以後新しい関税法が議会により約 7 年毎に通過した。この間,クリー ブランド ( G r o v e rC l e v e l a n d ,  1 8 8 5 " ‑ ' 8 9 ,  1 8 9 3 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 9 7 年),ウィルソン (Woodrow Wilson ,  1 9 日 ‑192 1)大統領政権期以外は,全体的に関税は急上昇した。

保護関税は 1 8 6 1 年のモリル ( M o r r i l l ) 関税で再び導入され, 1 8 9 0 年法で強 められた。 1 9 2 2 年法は高率保護の原則を農産物へと拡大した最初の関税法と して特筆すべきであり, 1 9 3 0 年法は保護主義の頂点を成したとしてよく知ら れている

9)

1 9 3 0 年法までアメリカの関税は圏内産業を強く保護する意味合いを有し,

また議会のロッグローリング(丸太転がしといわれる議員の利益協力体制) 現象により,関税率は極度の保護主義に陥る傾向にあった

10)

2 . 行政府の拡大傾向 一 制 度 面 一

1 9 3 4 年法は前述した通り,制度面では関税設定権の立法府から行政府への 委譲,すなわち行政府の権限拡大を意味している。以下でそれまでの行政府 の動向はどのようであったかをアメリカ史全体,関税史から考察する。

( 1 )   アメリ力史全体

アメリカの行政府の規模の大幅拡大はおよそ 2 0 世紀になってからの現象で ある。建国者たちは概して,大きな政府より,小さな政府を好み,強い行政 はやっと勝ち得た自由を人々から奪う傾向にあるという恐れを持っていた。

行政権は大統領にある,と合衆国憲法第二条にあるだけで,憲法ではほかの

ことには触れられぬまま,何ら政府の省,機関の明記はされていなかっ

(6)

f

こ11)

省の設置時期に言及するならば, 1 7 8 9 年に設置された省は,外務省(現,

国務省)と戦争省(現,国防省)であり,これらを設置するにあたり,議会 は大統領が指令,指示する方法で業務を実行するよう命じた。これにより大 統領の管轄下としての行政府が確立されることになった。次は(同じく 1 7 8 9 年であるが)財務省が設置された(但し議会は財務事項へかなりの支配権を 維持) 0 1 8 4 5 年には内務省ができた。商務省,労働省,農務省、の設置時期は 各々,アメリカ政治への圧力団体の影響があった時を反映しており,アメリ

カ経済の 3つのセグメントが政治的に強くなった時期と一致する。アメリカ 経済が 1 9 世紀の最後の四半期までほぼ農業志向であったため,農務省が最初 につくられた(1 8 6 2 年に法制化されたものの, 1 8 8 9 年までは農業コミッショ ナーにより監督されており, 1 8 8 9 年になってコミッショナーの地位は長官ラ ンクにまで引き上げられた。目的は農家所得の改善,アメリカ農産物の海外 市場拡大などであった)。商務省は 1 9 0 3 年に設置されたが,以後 1 0 年間は労 働事項と一緒に取り扱われた。商務省の当初の任務はアメリカの対外および 国内の通商を促進することであり,アメリカの経済力,技術力が発展するに つれ,権限が拡大されていった。 1 9 1 3 年に組織労働者が自身の省を確保する 影響力を十分に持つようになり,労働省(役割は労働者の福祉全般の促進) が別個の省として分離された。

このように行政府の発展が比較的遅かったのは,前述の如く「大きな政府

への恐れ」のほか,アメリカ史に特有の多くの要因である,オープンなフロ

ンティア,民間企業の強さ,レッセフェール哲学の浸透などが挙げられ,当

初の連邦政府への期待は州,地方政府へ割り当てられたこと以外の分野の業

務を行うことに限られていた。また権限分立主義の下で,議会とホワイトハ

ウスはそれぞれの支配権をめぐり争っていたが,ほぼ 1 9 世紀の聞は議会の方

が強かった。その他にもスポイルズ・システム(政党と選挙への貢献によっ

て連邦政府官僚を任命する制度)の影響力,政党の力が強く,連邦政府の仕

(7)

事は一族の利益とみなされ,各選挙後に転職者が非常に高かったことも,統 合的,行動的な行政府の成長を抑制していた理由の一つであった

12)

しかしながら, 1 9 世紀末頃より変化が現れ始めた。経済政策プロセスへの 政党の政治的影響力を軽減しようという動きが起こってきた。これは政治的 腐敗への反動が増したことに加えて,公務員のプロフェッショナリズムの高 まりにもよる。改革と科学管理への訴求は地方レベルから起こり,後に州,

連邦レベルで採用された。キャッチフレーズは効率性と公正であった。かか る運動に関与した人々は,独立委員会制を主張した。アメリカでは三権分立 下で行政部門が勝手に動くことができないため,立法府から様々な権限委譲 をされた,しかし立法府からは独立,自由の委員会がつくられることになっ た。独立委員会制の趣旨は,社会・経済問題は政治的操作を通じて解決され 得ず,委員会の専門家による科学的調査を通じて,適切な政策決定が導き出 され,解決されるという考えにあった。そこでは訓練を受けた,公平な専門 家が確立された原則,公益に従って,科学的な知識により資源管理から保護 関税までの問題と取り組むことが重要であり,数多くの狭い利害を満たすと いう責務からは解放されるというものであった。委員会設立の最初の試みは,

1 8 8 7 年の州際通商委員会 C I n t e r s t a t eCommerce C o m m i s s i o n :  I C C ) であり,

その後徐々に(特に 1 9 2 0 年代)に委員会設立は盛んとなった

13)

。企業の自発 性に基づく,企業と政府の協力関係を主唱するフーヴァー CHerbert H o o v e r ) が商務長官,大統領として活躍した時期には,かかるボランタリ ズムにより委員会設立が活発化し,幅広い政府再編が行われていた

14)

( 2 )   関税史において

関税設定を制度面から歴史的に概観すると,建国以来 およそ 1 9 世紀まで は議会での関税設定(ただし大統領の署名を必要とする)が中心であった。

建国当時,通商に関して大統領に付与された主な権限は,大統領の見解で

公共の安全が要求していると判断された場合,アメリカの港の入出を禁止で

(8)

きる(さらに大統領が妥当と思えば続行,中止できる)権限のみであった。

大統領は早くも 1 7 9 4 年にこの権限を付与され, 1 7 9 8 年 , 1 7 9 9 年 , 1 8 0 6 年 , 1 8 0 7 年 , 1 8 0 9 年 , 1 8 1 0 年にフランスやイギリスがアメリカの通商を妨害する のをやめるならば,大統領の布告によりアメリカ港を開港できる権限が立法 化された(1 9 世紀初期は他国船で入港した場合差別的な税を賦課する政策を とっている国が多く,この傾向は強まりつつあったが, 1 8 1 5 年にアメリカは 他国船での入港に対する差別を廃止した法を通過させた)。

しかしながら, 1 9 世紀末になると散発的に,大統領に他国との協定締結を 通じた関税取引の権限が付与されるようになった。 1 8 9 0 年のマッキンレー ( M c K i n l e y ) 法はアメリカ商品への不平等,不当な関税を課す国へ追加的関 税を賦課する権限を大統領に付与し,ブレイン(J amesB l a i n e ) 国務長官の 主導下で 1 8 9 1 " ‑ ' 1 8 9 2 年で 1 6 の互恵協定が締結された J897 年にはディングレー

( D i n g l e y ) 関税法が成立し, 1 9 0 7 年までに幾つかの協定が大統領布告によ り施行となったが,関税引き下げを伴ういわゆるカッソン ( K a s s o n ) 協定 は上院の批准を必要とし,批准が得られず締結されなかった。 1 9 0 9 年のペイ ン・オールドリッチ (Payne‑ A l d r i c h ) 法はアメリカ通商へ不当な差別をし ていない国を特定し,大統領の布告によりアメリカへの輸出品すべてに対し て最低税率を適用することを規定していた

15)

関税が,前述の如く歳入手段から保護手段へと発展するにつれ,議員は特 定利害を擁護することを強いられ,選挙民をなだめるような保護主義的な関 税表をつくるようになり, 1 9 世紀末, 2 0 世紀初には関税引き下げの希望が表 明されながらも,実効性のある関税引き下げがなされず,関税引き下げとい う形での譲許を含んだ協定の批准を上院はしてこなかった。

世紀転換期頃より,政策決定に携わる人々の中に既存の制度を改革する必

要があると主張し,実行した人物が現れ始めた。例えば,セオドア・ローズ

ベルト (TheodoreR o o s e v e l t ) ,ウッドロー・ウィルソン,ロパート・ラ

フォレット (RobertRaFo l 1 e t e ) ,ウィリアム・カルパトソン (W i 1 1 iam

(9)

C u l b e r t s o n )   ,ハーパート・フーヴァーらであり,ニューディール期以前に も解決方法を異にしながらも,議会による関税設定の問題の本質を認識し,

議会から関税を切り離す改革の必要性を主張する人々が存在していた。ロー ズベルトやラフォレットは予め決定された基準により関税率を決定する独立 の委員会の設置を追求した。ウィルソンは当初,政党政治による関税改革(政 綱への政党のコミットメントがロッグローリングによる関税設定プロセスに 代わり得る)を主張して委員会制の考えに反対していたが, 1 9 1 6 年に考えを 変え,支持するようになった。結果として 1 9 1 6 年に,議会とは独立している ものの,議会のための関税に関する事実収集機関として関税委員会(メンバ‑

6 人は大統領による指名)が設置されることになった。

1 9 2 2 年法では,関税委員会という新概念に,保護を適正にするための基準 としての内外生産コストの平準化方式が加わった,伸縮関税条項が包含され た。同法では関税委員会が生産コスト平準化の調査答申を大統領に行い,大 統領がそれに基づき上下 50% 内で関税率変更の決定を行うことになった。

1 9 3 0 年法では伸縮関税条項が修正され(関税委員会が上下 50% 内で関税率変 更の勧告を行い,大統領はそれに可否を下す)維持された。 1 9 2 2 年法, 1 9 3 0   年法は関税委員会のみならず,大統領に関税調整権を共有させたことが特徴 的である。すなわち, 1 9 2 0 年代にはすでに,世紀転換期頃より現れ始めた,

関税設定権における立法側から行政側への権限移行はかなり進行していたの である

16)

1 9 3 4 年法における議会の権限縮小,大統領,行政府への大幅な権限委譲は これらの動向が前提となっているといっても過言ではない

17)

2 節 1 9 3 4 年法成立に至る過程 1.コーデル・ハルの構想

1 9 3 4 年法成立における政策転換はコーデル・ハル C C o r d e l lH u l l ) の見解

(10)

が契機となっていた。テネシー州出身のハルは, 1 9 0 7 年に下院議員となり,

1 9 0 8 年に議会で最初にスピーチを行い,その際に高関税と国内の経済的独占 との癒着について言及した。このようにハルは早い時期から,輸入を実質的 に禁ずる程の高関税には反対であった。ただしハルの貿易に関する見解は,

ハル独自のものではなく,南部の民主党議員の例にもれないものであり,同 じテネシー州出身で民主党のマクミリン下院議員 ( B e n t o nMcMilin ,  1 8 8 6   ' " ' ‑ ' 1 8 9 9 年に下院歳入委員会に関与)の低関税支持の見解を受け継いでいた。

ハルの貿易自由化支持は第一次大戦中には平和と結び付けて主張されるよ うになっていった。ハルは「適度の繁栄と貿易の機会がなければ,経済ナシ ョナリズムという手段へ必然、的に(各国は)頼るようになり,最終的にはも っと攻撃的な形を採るようになるだろう」と述べるようになっていた。 1 9 1 6 年にハルは,すべての国が同程度の関税引き下げに同意するような計画を支 持し,この態度は 1 9 2 0 年代も変わらなかった。関税引き下げを導くような,

何らかの協定が締結されることを望んだ。しかしながらハルの「通商の規制 は平和と繁栄を脅かす J というウィルソン的世界観は,当時の行政府内,議 会内で時代錯誤的として激しい反対にあった。

大恐慌はハルの経済的リベラリズムへの傾倒を強めることになった。 1 9 3 0 年にハルは第一次大戦後のアメリカのリーダーシップはヴィジョン,道徳的 勇気,建設的能力に欠けており,かかるリーダーシップ下での過去 1 0 年間の 世界の,ならびにアメリカの経済的孤立政策が現在のパニックの唯一の根本 的原因だとし, 1 9 3 0 年法の高関税が大恐慌を長引かせているのだとみなし f

こ18)

1 9 3 2 年になると,民主党が議会において支配的となり,ハルの見解が民主

党全国大会の政綱で受け入れられた。政綱は, 1 9 3 0 年法をアメリカ製品の外

国市場を失わせると同時に国内の生産コストの上昇を招くことで国内産業に

有害だと激しく非難しており,互恵的な関税引き下げのための協定を支持す

る内容であった。

(11)

かかる状況で提起されたコリエル C C o l l i e r ) 法案(ただしフーヴァー C H e r b e r t  Hoover) が 1 9 3 2 年 5 月 1 1 日に拒否権を発動したため成立せず)は 大統領に対して,国際会議を召集して貿易障壁の削減への参加国を募ること,

ならびに関税引き下げを盛り込んだ互恵協定を交渉することの権限を付与 し,求めたものであった。コリエル(J ames Co l 1 i e r ,下院歳入委員会委員 長)はこの協定の目的は輸出減少の傾向(1 9 2 9 ' " ' ‑ ' 1 9 3 2 年で輸出額が1/ 3 強激 減)を変えるためと説明していた。またコリエル法案は, 1 9 3 0 年法の伸縮関 税条項で包含された大統領の権限を剥奪し,関税委員会の勧告は議会へ直接 なされることを規定していた

19)

1 9 3 3 年にローズベルト C F r a n k l i nR o o s e v e l t ,  1 9 3 3 年 3 月 4 日政権発足)が 国務長官にハルを指名したのは,同政権が貿易拡大へコミットする前兆であ った。とはいえ,ローズベルトは直ちに貿易拡大策を採ったわけではなく,

当面は慎重姿勢をとった。ローズベルトは互恵貿易協定を支持した民主党政 綱をすすんで行うことに個人的に関与していなかった。ニューディールの最 初の年は新しい対外経済政策はなかった。景気回復のためにローズベルトが 選択したのは全国産業復興法 C N a t i o n a lI n d u s t r i a l  Recovery A c t :  NIRA)  と農業調整法 C A g r i c u l t u r a lAdjustment Act:AAA) であり,貿易拡大は 1 9 3 3 年の優先事項ではなかった。むしろ,これらは輸入制限を増すことを明 示していた。

ほぽ同時期,ハルは 1 9 3 3 年 5 月 3 1 日にロンドン経済会議へアメリカの多数

の代表を率いて出かけていった。 6 月 1 2 日に会議が開催され, 6 6 カ国の代表

が出席したものの,関税引き下げと通貨安定というハルの望みは叶わなかっ

た。自国のメンバーも含めて代表たちの中にハルの貿易自由化の信念を分か

つ人はほとんどいなかったのである。ハルは諸外国の賛同を得るにはアメリ

カが貿易自由化を後押ししているという証拠がますます必要だと考え, 1 9 3 3  

年 8 ' " ' ‑ ' 1 0 月で 4 回にわたり閣僚会議でそのことを提起したが,失敗に終わっ

20)

(12)

しかしながら 1 1 月に入り(1 1 月 1 1 日),ローズベルトがようやく状況の緊 急性を認識し

21)

,新しい関税法案を起草するための通商政策行政委員会 ( E x e c u t i v e  Committee on Commercial P o l i c y ,委員長はセイヤー ( F r a n c e s S a y r e ) 国務次官補)の設置を認めた。委員は財務省長官 ( W i l l i a mW o o d i n )   ,  商務省長官 ( D a n i e lR o p e r ) ,農務省長官 (HenryW a l l a c e ) のほか,関税 委員会の委員長,農業調整局 (AAA),産業復興局 (NRA) の長官たちで あった。元ハーバード大学法学部教授であり,ウィルソンの娘婿であるセイ ヤー委員長は,国務省の大半のメンバーと同様,経済ナショナリズムには反 対であり,ハルのリベラルな考えに賛同していた。同委員会は大量生産の製 品,輸出用の農産物のための輸出市場の回復による国内経済復興を最優先課 題とし,そのため高関税により保護されている部門の保護の削減,撤廃が必 要であるとの結論から,仕事を開始した。まず議会による従来のシステムは 関税引き下げに繋がらないという委員会全体の合意があった。例えばハルは 従来のシステムの主な欠点として利害関係者の介入を批判し,特定の利害の 影響を議員が受けるため,関税引き上げの結果になってしまうことを指摘し た。さらに,委員会はアメリカが他国との互恵行動なしにアメリカ一国で関 税引き下げをしても,貿易拡大に繋がらないであろうということで合意した。

一方的な引き下げ行動は国内市場を輸入との競争激化にさらすにすぎないと して,上院批准が必要な協定の選択肢を最初は検討したものの,実際にアメ リカでこれまでかかる協定が締結されたのは地理的,政治的に関係のある特 殊な少数事例のみであったため,委員会は上院批准を要しない協定のみを通 じてアメリカはこれまでの関税調整のジレンマを解決するという結論を出し た

22)

。かかる協定こそが特定の利害圧力から切り離された関税調整の方法を 提供するのであり,互恵的な譲許と引き替えに関税引き下げを可能にするの だと結論づけた。大統領への権限委譲の合憲性の点では,すでに 1 9 2 2 年法伸 縮関税条項が 1 9 2 8 年に最高裁から合憲との判決を受けていた

23)

通商政策行政委員会の小委員会は, 1 9 3 3 年 1 2 月 1 8 日に通商政策の包括的計

(13)

画に関する報告書を提出した。第 1部において議会は関税率変更の権限を行 政府へ委任し,行政府はこの権限を通商政策と結び付けて行使するという,

二つの主要原則が新法案の骨子とされ,第 2 部では通商政策提言の概略が述 べられ,輸出産業の利害が最優先され,保護関税に依拠し存続している弱小 産業の利害を切り捨てる立場が表明されていた。通商政策行政委員会は 1 9 3 4 年初に,かかる趣旨の法案を起草した

24)

2 . 議会状況

ローズベルトは 1 9 3 4 年 2 月 2 8 日に議会指導者たちをホワイトハウスに招き,

国務省が中心となって起草した案を通商政策行政委員会と共に検討するよう 指示した。出席者は副大統領のガーナー(J ames G a r n e r ) ,ハル,ウォーレ ス,ピーク ( G e o r g eP e e k )   ,セイヤーなどの行政府高官,ならびにロビン ソン(J o s e p hR o b i n s o n ) 上院議員,ハリソン ( B y r o nH a r r i s o n ) 上院財政 委員会委員長,レイニー (HenryR a i n e y ) 上院議長,バーンズ(J ames B y r n e s ) 下院マジョリティ・リーダー,ダウトン ( R o b e r tDoughton) 下 院歳入委員会委員長などの民主党の議会指導者たちであった。そこで法案,

今後の戦略が検討され,是認された。 1 9 3 4 年 3 月 2 日,ローズベルトは下院へ,

起草案への支持を明言したメッセージと共に送付した

25)

。ローズベルトは,

法案は雇用を創出し,賃金を上昇させ,生活水準を上げるものであり,景気 回復は貿易の復活,強化にかかっていると主張した。

法案の内容は,大統領は,現在の関税,輸入制限が不当にアメリカの外国 貿易に負担をかけている,あるいは制限をしているとみなしたときにいつで も,外国政府と貿易協定を締結し,現在の関税率の修正を布告する権限を付 与される,というものであったがこの時点では大統領権限に期限の制約が設 けられていなかった

26)

しかしながら議会には自由貿易的な見解を疑問視する人々がいた。法案が

「コミュニズムへそのまま繋がるプログラム」だとするものから,違憲だと

(14)

するものまで様々な意見があった。議会の関税調整権と上院の条約批准権を 大統領へ委譲するのは二重の違憲だというのである。これに対してハルは諸 外国の政府が活用している方法に言及し,議会がかかる権限を委譲しなけれ ばアメリカが競争力の点で不利となると述べた。

下院歳入委員会のマークアップ・セッションにおいて,共和党はマイノリ ティ・レポートの中で反対を述べていた

27)

2 4 項目にわたり,反対の根拠を 示していたが,これは国内産業保護の立場からであった

28)

。共和党が指摘し た点は次の 2 点に集約される。(1)法案は「緊急措置」と宣伝されているが,

実際は大統領へ無期限の,制約なしの権力が付与されており,永久的なもの である, ( 2 ) 大統領,および権限を委譲された人々により,関税保護に頼っ ている産業すべての生死が左右される。ほかには 1.特別に歴史的に保護さ れてきた商品を貿易協定の対象から除外する 2 . 関税引き下げは内外の生 産コストの平準化レベルまでとする, 3 .   1 年後に互恵貿易協定に対する議 会拒否を認める,などの指摘がなされたが,実際に下院本会議で採択された 主な修正事項は大統領権限の 3年間の更新が緊急的性格を表すというもので あり,これが受け入れられた

29)

下院歳入委員会委員長のダウトンは本会議で,法案 (HR.8667) に対して

「同法条項は施行から 3 年を持って失効する」というパラグラフを新しく挿 入することを提案し,それに動議がかけられ,下院本会議で了承された

30)

。 民主党は権限の委譲は合憲だと返答したが,下院本会議は共和党の意見も受 け容れ,大統領が貿易協定交渉へ入る権限に 3年間の制約を設ける,行政府 が負債問題を通商包括策の一部として交渉するのを禁止する 6 ヶ月の通告 を経て 3 年間の協定は期限切れとなるなどの一連の妥協案を採択した。これ らを除いて,法案の内容は民主党の主導下のままだった。法案は 1 9 3 4 年 3 月 2 9 日に下院で 2 7 4 対 1 1 1 (白票 4 7)と,党派性を色濃く出して可決された(1 1 人の民主党議員が反対, 2 人の共和党議員が賛成) 3 。 1 )

上院でも調整傾向が明らかであった。民間ビジネスの利害の要望が無視さ

(15)

れるという危倶,あるいはそれらが不適当に扱われるかもしれないという,

議会での危倶を静めるために,上院財政委員会は修正案を採択した。それは,

利害関係者が見解を提示する機会が持てるよう,予定されている交渉の前に 交渉の意図を大統領が公示し,公聴会を開くこと,協定交渉にあたっては関 税委員会,国務省,農務省,商務省など他の行政府の情報,助言を利用する という条件を加えること,というものであった。これは共和党の批判,特に 財政委員会のリード上院議員の「協定交渉が秘密裏に行われるであろう」と いう批判に対応して,ハリソン上院財政委員会委員長が提示したものだった (ハリソンは他の修正案は受け入れがたいとした)。また民主党員にとって も利害関係者が見解を述べるのを認めるのは,選挙民が異議ありとする協定 を事前にチェックできるので有益だろうとみられた

32)

上院での審議は下院の場合よりも長く, 3 週間を要し,そこでは下院より 多くの修正案が却下された。結果的には 1 9 3 4 年 6 月 4 日に 5 7 対 3 3 で法案は可決 され

33)

,ローズベルトの署名 ( 6 月 1 2 日)により成立した。

3 . 省際委員会の設置

上院の調整を受け, 1 9 3 4 年法成立後の 1 9 3 4 年 6 月 2 7 日,貿易協定に関して 利害関係者の意見を聞くための省際の互恵情報委員会 (Committeef o r   R e c i p r o c i t y  I n f o r m a t i o n ) が設置された。 6 月 2 8 日には同様に省際の貿易協 定委員会 ( C o m m i t t e eo n  Trade A g r e e m e n t s ) が設置された。これらは 1 9 3 4 年法の実施にあたり,協定締結前に行政府の省間で協議する仕組みの確 立を意味していた。

(1)互恵情報委員会

行政命令により,互恵情報委員会が輸入品と競合する製造業者に対して,

1 9 3 4 年法が及ぼす影響についての見解を公聴会で示すのを認め,その見解を

貿易協定委員会に送ることになった。互恵情報委員会には政策立案の権限は

(16)

ないが,ヒアリングにより関税引き下げに伴う請願を扱うのが主な役割であ っ f

3 4 ) 。

1 9 3 4 年 7 月 3 日に最初の会議が,ページ (ThomasP a g e ,関税委員会の委 員長)が議長となって聞かれた。そこで,提案中の協定について見解を提示 したいとする利害関係者の意見を聞く規定が採択された。ただし,規定は国 家繁栄の要求にこれまでより応え,特定の利害,地域の利害の要求にはこれ までほど応じないような関税作成方法を提示していた。新しい貿易協定プロ グラムは「適切」な保護の原則を放棄したのではないが,産業の保護をしつ つ,雇用を創出し,労働者の賃金を引き上げることを目的とした。すなわち,

譲許において採用する基準は,関税引き下げにより今後直接影響を受ける産 業の資本側,労働側の損失より,譲許の結果,産業の拡大や雇用が得られる かどうかになった

35)

( 2 ) 貿易協定委員会

互恵情報委員会より,真の力を持ったといわれるのが貿易協定委員会であ る。同委員会はハルの監督下にあり,ハルは委員長に国務省のセイヤーを指 名した。他のメンバーも長官補佐レベルの代表から構成され,国務省をはじ めとして貿易に関わる他の機関(農務省,商務省,財務省,関税委員会)の 専門家から成る集団であった。ハルは関税作成を議会政治から切り離そうと した。関税作成の仕事を議会とは関係のないミドル・レベルの小集団へ委譲 した。ハルは貿易拡大の計画を実施するために,これらの専門家に頼った。

同委員会は関税引き下げを交渉したい国を探す調査などの責務を負い,在米 大使,在外大使に接触を図った。交渉に合意する国があった場合,ハルが交 渉を開始する許可を取り付けるべく,大統領に接触した

36)

すなわち 1 9 3 4 年法により,関税に関して,国務省中心の省聞の行政府内の

委員会(関税委員会が参加しながらも)が重要な意思決定の場となったので

(17)

あり,関税率を上げ下げしたり,輸入割当を課したり,そのほかの通商政策 を策定したりすることは,国内外の利害に影響し,広範囲に及ぶので,アメ リカ政府の多くの機関が政策展開にそれぞれの役割を演じ,相対立した見解 や利害を一致させ,解決策を見い出し,よって一貫したバランスのとれた通 商政策を得るため,様々な省際調整メカニズムが活用された。

1 9 3 4 年法の根本的な制度的改革は,関税調整権が行政府に対して,議会な らびに関税委員会に対してではなく行政府に対して付与されたことである。

1 9 3 4 年法により,関税に関する権限は議会から行政府へ委譲し,その後,前 述の如く行政府内に分散されることになったのである。アメリカ史全体の動 向としても, 1 9 3 0 年代のニューディールは経済回復における行政府の取り組 みが顕著であったことを意味していた。世界的な経済崩壊,共和党の議会で の敗退,民主党の勝利(大統領も掌握)により,新しい多数派の政治連携が 生まれ,ローズベルト,側近の改革者の下,国家はフーヴァーのボランタリ スト・アプローチが大恐慌の緊急的問題を解決しないと認識した。ローズベ ルトは現代アメリカ政府の真の建設者とされている。ごく数年間で統治のシ ステム的基礎を革新し,権限の中心を多数の新しい政府の機関,省へ移行さ せたのである

37)

3 節 1 9 3 4 年法成立後の動向

1 9 3 4 年法成立はそれまでの議会の権限縮小,行政府の権限拡大の趨勢に沿 ってはいるものの,議会の権限がすべて消失したわけではない。議会で共和 党との調整の必要性から大統領への権限委譲に 3年間の制約が課せられた,

つまり更新システムが採用されたことは極めて重要である。かかる期限付き

の更新システムがそれ以後,議会対行政府という現代まで続くアメリカの通

商政策を規定することになったからである。更新システムは,議会による行

政府の通商政策に関する仕事のチェックを可能にすると同時に,議会が要求

(18)

することを行政府が聞き入れるという信頼の上に成り立つものである。 1 9 3 4 年法以後,議会は行政府に対して二つの主要な責任(一つは外国と貿易障壁 削減のための交渉を行う,もう一つは輸入救済を求める個々の要求に対応す る)を負わせてきた。議会側にしてみれば,自ら関税を立法化せずとも,利 害圧力に対応すること(上院での調整により交渉前に利害関係者の見解を行 政府が聞き入れることになった)ができるようになったとも考えられる。更 新システムの採用により,議会はこの新しい制度関係に伴う利益,不利益を 計り,場合によっては新たに法的選択すら打ち出すことができた。その例が 後述のエスケイプ・クローズ(輸入により深刻な被害を被る国内産業を通商 協定の対象から除外))とペリル・ポイント(国内産業が深刻な被害を被る 輸入品の関税率を設定)の法制化であり,通商政策決定プロセスにおいて議 会は自らの役割を再定義できる能力を示したのである。

以前まで,国内産業は利害関係者のロビイング活動に応じて保護されてい たが,関税および他の貿易障壁を減少させようとした1 9 3 4 年法により,貿易 交渉の際に相手国の譲許を引き出すためにアメリカの一部の産業が犠牲にな るようになったことに対応して,緊急救済条項としてエスケイプ・クローズ,

ペリル・ポイントが生まれた

38)

ところで留意すべきは伸縮関税条項が1 9 3 4 年法でもそのまま維持されたこ とである。貿易交渉の対象となった品目には適用されないが,その他の品目 の関税率については 1 9 3 0 年法伸縮関税条項 ( 3 3 6 条)はその機能を妨げるも のではなく,関税委員会から従来の権限を奪うものでもないとされた

39)

そもそも 1 9 3 4 年法は当初から,保護主義システムを覆すことを意図しては いなかった。ローズベルトは保護主義者を慰めるようなフレーズを幾つか,

成立過程で議会へのメッセージとして述べた。例えば, I 国内生産者へ被害

が及ぶことなく貿易を成功させるには計画を慎重に,かつ漸進的にすすめる

ことだ J , I 私が提案する大統領権限を行使するにあたり,健全で重要なアメ

リカの利害はいずれも不当に侵害されないということを確実にすることを前

(19)

提としている」などと述べていた。ローズベルトの支持者で,下院の民主党 議員であるヴィンソン ( F r e dV i n s o n ) は「下院の民主党内で,アメリカの 工業,農業,労働者が外国商品の流入から保護されるべきだと考えてない人 は誰もいなしづと述べ, 1 9 3 4 年法は自由貿易的措置ではないと明言していた。

実際の交渉においてもローズベルト政権は,譲許を国内生産者と競合しな い品目に制限しようとした

40)

。ハルも 1 9 4 0 年の大統領権限更新の際に公聴会 で , I これまで 2 2 の協定を締結したがアメリカ産業に実質的に被害を及ぼす ような関税率の調整をしないよう慎重に,そしてその必要性を多大に認識し て取り組んできたのは,我々の基本姿勢であるからだ」と述べている

4

1 ) 。

エスケイプ・クローズの萌芽は早くも 1 9 3 5 年に現れていた。低コストの第 三国が互恵貿易協定から利益を受けるのを妨げたいとする国内産業の圧力に より,ローズベルト政権はベルギーとの貿易協定にこの条項を最初に盛り込 んだ。ハルの貿易プログラムに対するビジネス側の批判にローズベルトが対 応したのだ。 1 9 3 5 年初のベルギーとの交渉中に,譲許の対象となったアメリ カの産業が第三国,特に日本からの低コストの輸出品がアメリカ市場を氾濫 させるとの警戒を示した。ローズベルトは国務省にある種の救済条項を準備 するよう支持し,ベルギーとのこ国間協定には「二つの各政府は協定下で付 与される譲許から逃れる権利を有する」という旨のエスケイプ・クローズが 包含された。ベルギーからの輸入が関税引き下げによる輸入増のかなりの部 分を占めるだろうが,例えば日本のような第三国の競争力が予想をはるかに 超えるならば,この救済措置がとられることになった。鉱業,農業も含めた 多くの国内産業は関税引き下げによる重大な被害を被ることを恐れ,これら の産業からの圧力により,緊急救済条項であるエスケイプ・クローズが幾つ かの二国開通商協定に盛り込まれた

42)

実際にエスケイプ・クローズが法制化されたのは, 1 9 5 1 年になってからで

ある。 1 9 5 1 年通商協定延長法第 7 条はエスケイプ・クローズの措置について

はじめて法律上の手続き,および基準を定めており,これは 1 9 6 2 年通商拡大

(20)

法第 3 0 1 条,第 3 5 1 条に取って代えられるまで適用され,また 1 9 6 2 年、法規定は 1 9 7 4 年法第 2 0 1 条 , 2 0 3 条に代えられ,これらは 1 9 8 4 年法, 1 9 8 8 年法で若干修 正された。エスケイプ・クローズと称する規定は,修正されてきたものの,

基本的には関税委員会(後の国際貿易委員会 C I n t e r n a t i o n a 1T r a d e  C o m m i s ‑ s i o n :   I T C ) による調査,決定に続き,大統領が同種,または直接競合する 物品を生産する国内産業に対して重大な被害をもたらすか,またはその恐れ のある物品の輸入に対して,通商上の譲許を取り下げ,または修正し,およ びそれらに対する関税またはそのほかの制限を課する権限を与えてきた。

また同じく保護主義的措置であるペリル・ポイント条項は,交渉に入る前 にアメリカの産業が被害を受けずに交渉に合意され得る関税率を決定するこ とを関税委員会に求めているもの(同委員会は公聴会を聞き,産業が深刻な 被害を受けることのない範囲の上限を大統領に報告しなければならない)だ が,これは 1 9 4 8 年通商法で最初に導入された。 1 9 4 9 年法では削除されたが 1 9 5 1 年で復活した

43)

このように 1 9 3 4 年法成立以降も政策面においては,貿易自由化という新し い考え方と共にこれまでの保護主義的側面も継承されているわけだが,さら に注目すべきは制度面においても世紀転換期 ニューディール期前に確立さ れた組織と慣行が採用されたことである。国内産業からの不満,保護訴求に 取り組む際に,主に利害関係者の要請→関税委員会の調査→大統領の決定と いう手続き方法がとられ,関税委員会の調査基準も 1 9 2 0 年代の生産コスト平 準化方式が復活しているのである

44)

お わ り に

1 9 3 4 年法成立は転換という非連続性のみにとどまらず,連続性も多分に含

んでいた。同法成立は,当初の主唱者の構想と異なり,議会内での反対意見

も反映された。その結果,制度上での転換には制約がなされた(大統領への

(21)

権限委譲が期間制限付きとなり,議会の権限も保持された。また利害関係者 が引き続き公聴会で見解を提示する方法も引き続き採用された) 0 1 9 3 4 年法 の場合,非連続性が強調される傾向にあり,さほど注目されていないが,同 法成立には重要な部分においても連続性が存在するのである。 1 9 3 4 年法の特 徴である,議会から大統領への権限委譲,行政府の権限拡大にしても,急に かような転換がなされたわけではなく,漸進的であり,そこには歴史的必然 性があったといっても過言ではない。行政府の役割の拡大はアメリカ史,関 税史として,いわば自然のなりゆきであったといえよう。アメリカでは行政 府自体の発展が比較的遅く,行政府の規模の拡大は 1 9 世紀末,あるいは 2 0 世 紀に入ってからの現象であった。その頃になると産業化が大きく進み,経済 状況が変化,複雑となり,経済政策プロセスへの議会政党の政治的影響力を 軽減し,経済状況に合わせて,非政治的に問題解決を図ろうとする試みがな され始めたのであり, 1 9 3 4 年法成立もその延長線上にあるといえる。 1 9 3 4 年 法により,通商政策における行政府の役割が拡大し,通商政策をめぐる行政 府対議会という現在の特徴が形成された。

1 9 3 4 年法は政策面で,輸出拡大のため低関税化という大きな転換を図った ことは事実であるが,当初から同時に保護主義的側面も保持しており,かか る側面は後に法制化という形でも顕在化し,その際に 1 9 3 4 年法以前に徐々に 構築された制度が採用されていることは特筆すべきであろう。

つまり, 1 9 3 4 年法成立は単に転換という面のみならず,連続という文脈に おいてもきわめて重要なのである。

1 )   I . M . D e s t l e r ,  A m e r i c a n  T r a d e  P o l i t i c s : S y s t e m  U n d e r  S t r e s s ,  New Y o r k ,  1 9 8 6 ,  p . 9 .   2  )なお 1 9 3 4 年法成立について, 1 9 2 9 年 1 0 月に端を発した大恐慌下でローズベルトが経済

危機に対応したためという経済的要因,また議会要因の中でも関税引き下げを主張する 民主党が上下両院とも支配したためという政党説は研究者の間で広く認められている。

R o b e r t  B a l d w i n ,  T h e  P o l i t i c a l  E c o n o m y  0 1  U   s . l m p o r t  P o l i c y ,  M a s s a c h u s e t t s ,  1 9 8 5 ;  K a r e n  

(22)

S c h n i e t z , To D e l e g a t e  o r  Not t o   D e l e g a t e "  ( P h . D .  D i s s . ,  U n i v .  o f  C a l i f o r n i a ) ,  1 9 9 3  

;  D a v i d  Lake ,  Power ,  P r o t e c t i o n ,  a n d  F r e e  T r a d e ,  I t h c a ,  1 9 8 8 .  

3  )中本悟『現代アメリカの通商政策』有斐閣, 1 9 9 9 年 , 1 4 頁;秋山憲治『日米通商摩擦 の研究』同文館, 1 9 9 5 年 , 1 9 頁 。

4  )佐々木隆雄『アメリカの通商政策』岩波新書, 1 9 9 7 年 , 5 6 頁 。

5  )鹿野忠生「大恐慌期のアメリカ実業界と互恵通商政策J W 西洋史研究』第2 2 号 , 1 9 9 3 年 ,

1~34頁;鹿野「アメリカによる経済グローパル化の歴史的前提J

W アメリカ研究』第3 4 号 , 2 0 0 0 年 ,

35~52頁;三瓶弘喜「ニューディール期アメリカにおける互恵通商政策構

想 JW 西洋史研究』第2 3 号 , 1 9 9 4 年 ,

88~118頁。

6) Abraham B e r g l u n d ,R e c i p r o c a l  Trade Agreements , "   A m e r i c a n  E c o n o m i c  R e v i e w ,  Vo l .   2 5 ,  1 9 3 5 ,  p . 4 1 6 .  

7) J  o s e p h  J  o n e s , 

Tar~庁 Retaliation,

P e n n s y l v a n i a ,  1 9 3 4 ,  pp . 1 4 ‑ 1 5 .  

8) B e r g l u n d , R e c i p r o c a l , "   p . 4 1 6  ;佐々木『アメリカJ], 4 9 頁;Des t 1 e r ,  A m e r i c a n ,  pp . 1 0 ‑ 1 1 .   1 9 4 5 年に互恵交渉権は,その年の関税率からさらに50% までの関税引き下げ調整権 が付与されることになった ( I b i d . , p . 1 0 ) 。

9) J a c k  T a y l o r ,  B u s i n e s s  a n d  G o v e r n m e n t ,  New York ,  1 9 5 2 ,  p p . 9 0 ‑ 9 1 .  

1 0 )   H.H.  L i e b h a f s k y ,  A m e r i c a n  G o v e r n m e n t  a n d  B u s i n e s s ,  New York ,  1 9 7   , 1 p . 1 4 3 ;  . ジ ャグディッシュ・パグワティ,渡辺敏訳『保護主義』サイマル出版会, 1 9 9 8 年 , 4 9 頁 。 1 1 )   George Kurian e d . ,  A  H i s t o r i c a l  G u i d e   ω t h e   u . s .   G o v e r n m e n t ,  New  York ,  1 9 9 8 ,  p .  v i i i .   1 2 )   K u r i a n ,  A H i s t o r i c a 1 ,  pp . i x‑x  ;米国下院歳入委員会編,福島栄一監訳『米国通商関連

法』日本貿易振興会, 1 9 8 7 年 , 2 2 7 ,  2 2 8 ,  2 3 0 頁 ;Joseph B e s s e t t e ,  E n c y c l o p e d i a   0 1  

A m e r i c a n  G o v e r n m e n t ,  P a s e d e n a ,  C a l i f o r n i a ,  1 9 9 8 ,  p p . 5 0 5 ‑ 5 0 6 .  

1 3 )   C y n t h i a  Hody ,  T h e  P o l i t i α 0 1   T r a d e ,  New England ,  Hanover ,  1 9 9 6 ,  p . 3 2 ; 拙稿「フ ォードニー・マッカンパ一法からスムート・ホーリ一法へJ W 経営と経済J]7 9 ‑ 3 ,  1 9 9 9 年 , 6 9 ‑ 7 0 頁 。

1 4 )   P a t r i c k  Reagan ,  D e s i g n i n g  a  New A m e r i c a ,  M a s s . ,  1 9 9 9 ,  p . 1 8 1 .  

1 5 )   U . S .  C o n g r e s s ,  House ,  R e p o r t  N o . lO O O  Amend 

Tar~庁 Act

0 1   1 9 3 0  :  R e c i p r o c a l  T r a d e   A g r e e m e n t s ,  7 3 r d  C o n g . ,  2nd s e s s . ,  p p . 7 ‑ 1 1.マッキンレ一法は一部の品目は無税とする

が,大統領が互恵的に不平等,不合理と判断した国からの輸入には課徴金を課すという

権限を有する互恵条項を包含しており,ディングレー関税法ではかかる条項のほか,ア

メリカが輸入する品目に関して 20% 以内での関税引き下げ,またアメリカに存在しない

(23)

天然品を無税品目リストに入れることで互恵的関係を拡大するカッソン協定の交渉権限 を付与していた(拙稿「スムート・ホーリ一法成立に関する再解釈 J

~社会経済史学~

6 3  

‑ 3 ,  1 9 9 8 年 , 6 8 頁 ) 。

1 6 )   Hody ,  The P o l i t i c s ,  pp . 1 7 6 ‑ 1 7 7 .  

1 7)この点について,ボールドウィン,ケンケルは次のように述べている。議会は,他国 との交渉により関税率を上下できるという権限委譲をすることにより,伸縮関税条項の 概念をもう一歩押し進めることに合意した ( R o b e r tB a l d w i n ,  The P o l i t i c , α1  Economy  0 1  

U . S .   l m p o r t  P o l i c y ,  M a s s . ,  1 9 8 5 ,  p . 8 1)。民主党は,マッキンレーの貿易拡大策,フーヴ ァーの伸縮関税の実験など共和党がすでに始めていた政策を採用した(J oseph Kenkel ,  P r o g r e s s i v e s  and P r o t e c t i o

Lanham , Md. ,  1 9 8 3 ,  p . 2 3 5 ) 。

1 8 )   A l f r e d  Eckes ,  Opening A m e r i c a ' s  Market ,  North C a r o l i n a ,  1 9 9 5 ,  p . 1 4 1 ;  Edward  Kaplan ,  American T r a d e  Po

/i

り " 1 9 2 3 ‑ 1 9 9 5 ,  W e s t p o r t ,  C o n n e c t i c u t ,  1 9 9 6 ,  p . 4 3; D a n i e l   Smith ,Toward I n t e r n a t i o n a l i s m , "  i n  S t u a r t  Bruchey e d . ,  F o r e i g n  Economic P o l i c y   0 1   t h e   U n i t e d  S t a t e s ,  New York ,  1 9 9 0 ,  p . 2 6 2 .  

1 9 )   R o b e r t  P a s t o r ,  C o n g r e s s  and t h e  P o l i t i c s   0 1   U . S .   F o r e i g n  E c o n o m i c  PoU の " 1 9 2 9 ‑ 1 9 7 6 ,  B e r k e l e y ,  1 9 8 0 ,  p . 8 4 ;  K i r k  P o r t e r  and Donald J o h n s o n ,  N a t i o n a l  P a r t y  P l a t j o r m s ,  1 8 4 0  

‑ 1 9 6 4 ,  Urbana ,  1 9 6 6 ,  p . 3 3 1 .  

2 0 )   S t e p h e n  Cohen ,  J o e l  P a u l  and R o b e r t   B l e c k e r ,  F u n d a m e n t a l s   0 1   U . S .   F o r e i g n  T r a d e   Po

,i/

り , B o u l d e r ,  C o l o r a d o ,  1 9 9 6 ,  p . 3 2 ;  J u d i t h  G o l d s t e i n ,  l d e a s ,  l n t e r e s t ,  and American 

T r a d e  Po

/i

り " I t h a c a ,  NY ,  1 9 9 3 ,  p p . 1 3 9 ‑ 1 4 0 ;  Kenkel ,  P r o g r e s s i v e s ,  p . 2 3 5 .  

2 1)議会で関税引き下げ案に強い抵抗があったため,ローズベルトは当初,ニューディー ルの重要法案の成立を確保するため,ハルの関税引き下げ要求を抑えていたが,国内経 済政策の立法が一応完了し,ニューディールが軌道にのると,ローズベルトの目は当然、

のことながら対外進出に向けられ,ハルを支援するようになった(新川健三郎『ルーズ ベルト』清水書院, 1 9 7 1 年 , 1 3 4 頁 ) 。

2 2 ) ハルの見解を補足するならば,ハル自身も 1 9 3 0 年代の自給自足的な世界では自由貿易 を採用する国がないことを知っており,かつてのブレインやマッキンレーが主張したこ とのある,議会の圧力からは自由に,他国と関税引き下げ協定を交渉する権限を大統領 に付与するという案を主張した(ウィリアム・ルクデンバーグ,陸井三郎訳『ローズヴ ェルト』紀伊国匡書庖, 1 9 6 8 年 , 1 6 3 頁)。ハルは最初,多国間交渉を主張していたが,

当時の状況ではこれは時代錯誤的であり,議会の懸念に敏感に対応して他国と取引を行

(24)

う方式へ考え方を移行した ( D e s t l e r , A m e r i c a n ,  p . 1 6 ) 。

2 3 )   S m i t h , Toward I n t e r n a t i o n a l i s m , "   p . 2 6 6  ;  P a s t o r ,  C o n g r e s s ,  p . 8 6 .  

2 4 ) 鹿野「大恐慌期 J , 2 2 ‑ 2 3 頁。輸出の譲歩を引き出すため犠牲になる国内産業を何にす るかについて,主に輸出競争力の点から等級付けがなされた(Ic k e s , Q ρe n i n ι p . 1 4 3 ) 。 2 5 )   K a p l a n ,  A m e r i c a n ,  p . 4 6  ;  P a s t o r ,  C o n g r e s s ,  p p . 8 7 ‑ 8 8 .  

2 6 )   U . S .  C o n g r e s s ,  S e n a t e ,  R e p o r t  N O . 8 7 1  :  R e c i p r o c a l  Trade Agreements ,  p . 3 .   2 7 )   P a s t o r ,  C o n g r e s s ,  p p . 8 8 ‑ 8 9 . マークアップ・セッションとは,法案が議長により委員

会に付託された後,さらに小委員会に回されそこで審理,公聴会などを経て承認されれ ば,もう一度委員会に戻され,委員会の承認を受けることになる,これらの一連の段階 をいう。

2 8 )   House ,  R ゆ o r tN O . l 0 0 0 ,  p p . 2 1 ‑ 2 3 .  

2 9 )   Des t 1 e r ,  A m e r i c a n ,  p . 7  ;  Hody ,  The P o l i t i c s ,  pp . 1 2 2 ,  1 7 8 .  

3 0 )   U . S .  C o n g r e s s ,  C o n g r e s s i o n a l  R e c o r d ,  7 3 r d  2 n d  s e s s . ( V o 1 . 7 8 )   :  March 2 9 ,  p p . 5 7 9 9 ,  5 8 0 1 .  

3 1 )   P a s t o r ,  C o n g r e s s ,  p . 8 9  ;  C o n g r e s s i o n a l  R e c o r d ,  7 3 ‑ 2  :  March29 ,  p . 5 8 0 8 .  

3 2 )   S c h n i e t z , To D e l e g a t e ,  " p . 1 3 6  ;  C o n g r e s s i o n a l  R e c o r d ,  7 3 ‑ 2  :  May 1 7 ,  p . 8 9 9 0 ;  P a s t o r ,  C o n g r e s s ,  p . 9 0  ;  I c k e s ,  O p e n i n g ,  p . 1 4 2 .  

3 3 )   C o n g r e s s i o n a l  R e c o r d ,  7 3 ‑ 2  :  J u n e  4 ,  p . 1 0 3 9 5 .  

3 4 )   Hody ,  The P o l i t i c s ,  pp . 1 2 4 ‑ 1 2 5  ;  U . S .  C o n g r e s s ,  H o u s e ,  H e a r i n g s  o n  E x t e n t i o n   0 1   R e c i p r o c a l  T r a d e  A g r e e m e n t s  A c t ,  7 6 t h ,  3 r d  s e s s . ,  pp . 4 8 ‑ 4 9 .  

3 5 )   B e r g l u n d , R e c i p r o c a l , "   pp . 4 1 6 ‑ 4 1 7 .  

3 6 )   I c k e s ,匂 e n i n g , p . 1 4 3  ;  K a p l a n ,  A m e r i c a n ,  pp . 4 6 ‑ 4 7 .   3 7 )   Reagan ,  D e s i g n i n ιp.18 1 .  

3 8 )   K a p l a n ,  A m e r i c a n ,  p . 4 5  ;  Hody ,  The P o l i t i c s ,  pp . 1 3 6 ,  1 7 8  

;米国下院『米国通商~,

2 2 3   頁。議会の権限が消失したのではないことは次の記述を参照。消滅した健在な大統領中 心の貿易自由化への反対は 1 9 3 4 年のプログラムの最初から存在し,法の更新の度に再び 現れた。大統領が交渉権限を獲得する代わりに,議会は貿易に関した手続き方法を変え,

法的基準をゆるめることにより保護訴求に応答した OudithG o l d s t e i n , The P o l i t i c a l  

Economy o f  Trade , "   A m e r i c a n  P o l i t i c a l  S c i e n c e  R e v i e w ,  Vo 1 . 8 0 ,  No ,   . 1 Mar . 1 9 8 6 ,  p . 7 9 ) 。

他には,パグワティ『保護~,

4 9 頁,スティーヴン・コーエン,山崎好裕ほか訳『アメリ

カの国際経済政策』三嶺書房, 1 9 9 5 年 , p . 1 3 0 を参照。

(25)

3 9 )   S e n a t e ,  R e p o r t  N o . 8 刀 , p . 2 0 ;  House ,  R e p o r t  N o . l  0 0 0 ,  p . 1 7 . ゴールドスタインは,反 ダンピング,相殺関税が維持されたことを次のように重視している。 1 9 3 4 年法はアメリ カの自由貿易時代の到来を予告したわけでなく,たとえば反ダンピング,相殺関税 ( 1 9 2 1 年)の条項が維持され,これらはその後もほとんど変化していない。外国生産者による 今後起こりうる略奪的行為からアメリカ市場を保護するための法律は1 9 3 4 年以前に確立 されていた。これらの制度はアメリカが全体的な政策変更を押し進めてもほとんど変化 しなかった ( G o l d s t e i n ,TheP o l i t i c a l , "   p . 6 4 ) 。

4 0 )   Lake ,  P o w e r ,  p p . 2 0 6 ‑ 2 0 7 .   1 9 3 0 年代,アメリカ通商交渉担当者たちは,関税を削減し でもなおまだ保護を維持できるようなアメリカ製品を探し求めた。その結果アメリカが 関税を50% 削減した後でも,多くの品目についてはなお100% 以上の関税が維持された(ジ ェームズ・ボバード,佐藤英夫訳『アメリカ貿易は公正か』日本経済新聞社, 1 9 9 2 年 , 2 6 4 頁 ) 。

4 1 )   House ,  H e a r i n g s  o n  E x t e n t i o

7 6 ‑ 3 ,p . 2 7 .   4 2 )   Eckes ,  O p e n i i n g ,  p . 2 2 0 .  

4 3 )   Baldwin ,  The P o l i t i c a l ,  p p . 8 1 ‑ 8 2 .  

4 4 )   Hody ,  The P o l i t i c s ,  pp . 1 3 2 ‑ 1 3 3 ,  1 3 5 ;拙稿「スムート J 7 6 頁 。

参照

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