香 川 大 学 経 済 論 叢
第78巻 第2号 2005
年
9月
3‑31ポリスの自然性
斉 藤
和 也
アリストテレスは,『政治学』第
1巻
2章において,ポリスに関わる重要な 三つの命題を提出している。これら三つの命題は,アリストテレスのポリス論 の理解にとって,いわば土台であるばかりではなく,アリストテレスの人間論 の理解にとってもかなめとなるものである。ポリスの自然性をどう理解するか は,アリストテレスの人間論体系をどう理解するかを大きく左右する問題であ り,これらの命題に込められたアリストテレスの意図を正確に理解することが
(1)
求められる。
本論は,アリストテレスが下記の第一の命題の証明に失敗していることを指 摘した
D.Keytの論文や,その論文を批判し,その難点を克服しようとした
F. D. Millerの見解を手がかりとして,これらの命題によってアリストテレスが
(2)
意図していたことを明らかにしようとするものである。
1
ポリスの自然性の根拠について
ポリスの自然性に関する三つの重要な命題とは,次の三つの命題である。
( 1 ) ポリスは自然によって存在する。
(2)
人間は自然によってポリス的動物である。
( 3 ) ポリスは自然によって個人やイエよりも先である。
これらの命題を解釈する上において重要なことは,「自然によって(ピュセ イ)」という言葉の理解である。通説に批判的ないくつかの解釈においては,「自 然」は「技術」に排他的に対立した概念であると解釈されている。アリストテ
(1) 本論において使用したギリシャ語テキストと略記号は,参考文献表を参照。
(2) cf. Keyt (1991), Miller (1995)
‑4‑ 香川大学経済論叢 66
レスの哲学においては理性の産物は自然の産物から注意深く区別されているの だから,ポリスが理性の産物であるなら,それは自然の産物ではあり得ないと
(3)
される。このような「自然」概念の理解に立ってアリストテレスの議論を分析 し,その議論が論理的に成立しないことを主張した
Keytの論文は,アリスト テレスのポリス概念を理解する上で,まず検討しておかなければならないもの である。
Keyt
の議論の目的は,この章におけるアリストテレスの証明が失敗してい ることを明らかにすることにある。しかし,彼の分析には首肯するに値する点 が多くあるとはいえ,非常に重要な点において誤りが含まれていると思われ
(4)
る。以下において,
Keytによるアリストテレスの議論の論理的な分析が誤り であることを示す。
まず,アリストテレスの議論を確認することから始めることにしよう。
「互いがなければ生存できないもの同士が一対になるのば必然である。すな わち,女と男とが生殖のために一対になるのば必然であり(そして,このこと は両者の選択によって行われるのではない。かえって,他の動物や植物と同じ ように,自らに似たものを後に残そうとすることは自然的なことなのであ る。),また,生活の保全のために,自然によって支配するものと支配されるも のとが存在することぱ必然である。」
(Pol.I 2. 1252 a 26‑31)イエは,動物に共通して見られる,自分と同じような存在を残そうとする子 作りの欲求に悲づく配偶関係と,生活の保全を目的とする主奴関係から成り立 つ共同体であり,これは日々の必要のためにある。奴隷は生まれつきいかに行 動すべきかについて判断力を欠いているために,判断力があり指令を与えてく
(3) Keyt (1991) p. 119.
(4) Miller (1995)は,「それ自身の内に運動の原理を含む自然物」としてポリスを理解す るKeyt (1991)の解釈には難点があることを指摘してこれに代わる解釈を立てたが,ア リストテレスの議論についての Keytによる論理的な分析自体については批判していな
し'o
67
ポリスの自然性
‑5‑れる人を必要としている。主人となるのは,このような人である。彼は将来を 見通し,自分や自分のグループの行動について判断し決定できる人,すなわち 思慮ある人(プロニモス)である。
アリストテレスは,奴隷と家畜を同列におき,生活上の必要を満たすために 身体によって主人を助けるのがこれらのものの役割であるとする。これらの間 には,奴隷は主人の命令を理解できる程度には言葉を理解できるが,家畜は言
(5)
業にではなく自らの情動に従うという違いがあるだけである。自由人である主 人の身体は生まれつき背筋がまっすぐであって,奴隷が行う仕事には向いてお
(6)
らず,それゆえに,奴隷による奉仕が主人にとっては必要なのである。これに 対して,奴隷は生まれつぎ労役に向いた身体を持っているが,物事を思案する 能力を欠き,目先の安楽に流されがちで,長期的な計画ができないのである。
「次に,多くのイエから日々のレベルを越えた必要のために存在するように なった第一の共同体が村落である。最も自然に即した形であると思われるの は,ムラがひとつのイエから分家したものである場合である。…したがって,
最初はポリスは王によって治められていたのであり,いまでもまだ異邦の民族 ではそうである。実際,ポリスが成立するときに,人々は王に統治されていた 状態から集まってきたのである。すべてのイエは最長老によって王的に治めら れていたし,ひとつのイエから分かれた諸分家も,同族であるが故に,最長老 によって王的に治められていたのである。」
(Pol.I 2. 1252 b 15‑22)ムラが最も自然な形で形成されるのは,一つのイエから分かれた分家集団が 一つの集落をなす場合である。そこでは,血縁関係がムラの統合を支えている。
ムラは日々の直接の必要ではなく,それを越えた必要のために生じた共同関係 である。ここまでは,血縁関係という意味における自然の関係がこれらの共同 体の紐帯をなしていると考えられる。そして,ムラのレベルの必要を越えた自
(5) Pol. I 5. 1254 b 19‑26. (6) Pol. I 5. 1254 b 29‑30.
‑6‑
香川大学経済論叢
68足の限界に達した共同関係がポリスということになる。
「多くのムラから成る完全な共同体がポリスであり,これは,この段階で,
いわば,すべての自足の限界に達している。これは生きるために生じたが,よ く生きるために存在している。したがって,初期の段階の共同体も自然によっ て存在するなら,ポリスもすべて自然によって存在する。なぜなら,ポリスは それらの終極目的であり,自然は終極目的であるからである。というのは,生 成が終極目的に達したときにそれぞれのものが取る形態を,我々はそれぞれの ものの自然と言うからである。人間や馬や家についてそう語るように。」
(Pol. I 2. 1252 b 27‑34)ポリス成立の過程に関する以上の叙述が終了した時点で,アリストテレス は,「よって,初期の段階の共同体も自然によって存在するなら,ポリスもす
(7)
べて自然によって存在する」と述べ,引き続いて,このことの根拠を示してい
(8)
る。このように解釈するのが通説となっているが,
Keytは,ここに根拠が示 されているとは見ず,ポリスの成立過程の叙述においてすでに,ポリスの自然 性についての証明がなされていると考える。しかし,彼はその証明は不完全で あるとして,この叙述に賠黙の諸前提を補い,その証明を形式的に完成させる。
だが,彼の労作の目的は,アリストテレスの証明の不備を補うことではなく,
かえって,この証明が失敗していることを示すことにある。
Keyt
によれば,アリストテレスの議論には次のような暗黙の前提が含まれ
(9)
ている。必要の範囲がより広い共同体はより自足的であり,より自足的な共同 体はより大きな善とより大きな望ましさをもたらす。そして,ある共同体が別 の共同体から生じ,後に生じる共同体がそれに先行する共同体よりもより大き な善とより大きな望ましさをもたらすなら,それは実体において先である。そ
(7) Pol. I 2. 1252 b 30‑31.(8)
通説に立つ代表として,
Bradley(1880), Barker (1958), Schiitrumpf (1991), Simpson (1998)が挙げられる。
(9) Keyt (1991) pp. 128‑130.
69
ポリスの自然性
‑7‑れ故,ムラはイエから生じてこれより広い範囲の必要を満たすものであるの で,ムラはイエより実体において先である。さらに,あるものが実体において 他のものより先であり,後者が自然によって存在するなら,前者は,自然によっ て存在するという「自然性の推移原理」もアリストテレスの証明の暗黙の前提 になっている。それ故,イエが自然によって存在するなら,ムラは自然によっ て存在する。そして,これと同じ推論によって,ポリスはムラよりも実体にお いて先であり,したがって,ポリスは自然によって存在するという結論になる。
このように,上述の暗黙の諸前提をテキストに読み込むことによって証明はは じめて形式的に整えられることになる。しかし,
Keytによれば,アリストテ レスの証明が暗黙に依拠しているこの推移原理はアリストテレス自身の体系の 範囲内においてさえ偽である。例えば,家屋は実体においてそれの素材よりも 先であり,その素材は自然によって存在するが,家屋は技術によって存在する
ものである。したがって,この推移原理は成立していないとされる。
しかし,このような,暗黙の前提をいくつか挿入することによる解釈は,ア リストテレスの議論に対する解釈の域を越えているものであると思われる。
Keyt
は,上述したように,「初期の段階の共同体も自然によって存在するなら,
ポリスもすべて自然によって存在する」という命題は,それまでのポリス成立
(10)
の叙述によってすでに証明されており,この命題の根拠を述べた次の一節は,
事実上,証明のためには使われていない不要のテキストだとする。確かに,こ の命題の根拠が,ポリス成立の叙述部分にすでに含まれているとするなら,こ のような解釈になるのは当然である。しかし,ポリスの成立の叙述の中に,必 ずしも,この命題を導出する根拠が含まれていなければならないわけではな い。むしろ,この箇所において,イエの成立からムラの成立を経てポリスの成 立へと向かう一連の過程が叙述され,その叙述に引き続いてポリスの自然性が 証明されているとみなすのが自然である。
また,アリストテレス解釈論の問題とは別に,
Keytが補った諸前提自体に 問題があると思われる。たとえば,交易や同盟の条約によって近隣のポリス同
(10) Pol. I 2. 1253 b 31‑34.
‑8‑
香川大学経済論叢
70士が一つのまとまりになった場合を想定してみよう。これに
Keytの解釈を適 用するなら,そのような同盟関係はポリスよりも実体において先であり,自然 によって存在するということになるだろう。しかし,ポリスを共同関係の終極
(11)
目的とみなすアリストテレスはそのような結論には反対するであろう。確か に,イエからムラヘの発展においても,ムラからポリスヘの発展においても,
生きることに必要な効用性のレベルにおける自足性の水準は上昇していると言 える。その限りでは,ポリスは生きるために生成してきたものであると言える が,一旦生成したポリスはよく生きるために存在しているとアリストテレスが 述べているように,ポリスにおいて問題となる自足性は,生活の必要にとどま
るものではなく,よく生きることにも関わっている。ポリスの成立においてい わば新たな質が獲得され,よく生きることに役立つものどもを供給することが できるようになるのである。民会や裁判の制度,祭礼や観劇の制度,法律や教 育の制度など市民が立派な行為を遂行できるためのさまざまな制度や人々の道 徳的資質は,よく生きるために役立つものどもであり,ポリスはこれらに関し て自足していると考えられる。「すべての自足性の限界に達している」という 表現における「すべて」は,生活の効用性のレベルだけではなく,よく生きる
(12)
というレベルにおける自足性も含んでいるのである。
したがって,たとえ,ムラからポリスヘの移行において,
Keytの言うよう なイエからムラヘの移行における諸前提が成り立っていると仮定しても,それ は,生活するために必要なものの自足にのみ関わるのであって,よく生きるた めに役立つものの自足については,これらの諸前提からは何も導くことができ ないのである。従って,アリストテレスの証明を
Keyt的に形式的に整合させ ようとする試みは成功していないということになる。また,実は,これらの諸 前提がイエからムラヘの移行において成り立っているということについても,
その根拠は弱いのである。確かに,ムラはイエから生じ「日々の生活のレベル
(11)
アリストテレスはポリスを善き生のための共同性と捉えているので,交易や軍事同盟 をポリスの必要条件とは考えるが,十分条件とは見ない(『政治学』第
3巻9章 ,
esp.1280 b 23.)。効用性の拡大が自動的に最高の共同体としてのポリスに到達するのではない。
(12) Newman (1887), Mayhew (1995).
71
ポリスの自然性
‑9‑を越えた必要のために」存在しているから,ムラの自然性は効用性の拡大に基 づくとすることも可能であるが,ムラの自然性はイエの分家に由来する血縁的 な自然性に基づくと考える方が自然であろう。もしそうなら,逆に,血縁的な 関係とポリスとを結びつける根拠をアリストテレスは必要としていたと解釈す ることができる。そう解釈すると,アリストテレスがムラの自然性を根拠づけ る議論はしていないにも関わらず,ポリスの自然性についてはテロス概念に よって根拠づけようとしたことも首肯できるのである。
以上のことから,ポリスの成立過程の叙述の中にいくつかの推移原理が前提 として暗に含まれているという
Keytの読解は,アリストテレスのテキストか ら読み取られたものではなく,むしろ,そこに読み込まれたものであると言わ ざるを得ない。したがって,このような暗黙の諸前提を挿人して,形式的な証 明を作り出すべきなのではなく,むしろ,
Keytが不要であるとしたテロス概
(13)
念による証明箇所にこそ,伝統的解釈に従って,アリストテレスの証明意図が 存在していると考えるべきなのである。
では,この数行の証明によってアリストテレスは,ポリスの,どのような意 味における自然性を証明しようとしたのであろうか。「イエやムラも自然的な 共同体であるなら,ポリスも自然によって存在する」という主張の根拠を整理 すると以下のようになる。
( 1 ) ポリスはイエやムラの終極目的である。
( 2 ) (それぞれのものの)自然は(それぞれのものの)終極目的である。な ぜなら,(それぞれのものの)生成が終極目的に達したときに,その生成
したものの性格が,それぞれのものの自然であるからである。
( 3 ) したがって,ポリスはイエやムラの終極目的としての自然である。
( 2 ) における「自然は終極目的である」という文は,文法的にはこのように訳 さざるを得ないが,意味内容は,
(2)の根拠付けの部分から推して,「(それぞれ のものの)終極目的は(それぞれのものの)自然である」となるはずである。
(13) Pol. I 2. 1253 b 31‑34.
‑JO‑
香川大学経済論叢
72ここでは,ポリスの成立という経験的事実に目的論的な解釈を与えたとみるこ とができる。イエとムラがポリスと偶然的な関係にあるのではなく,目的論的 な関係において概念的に連関していることが主張されているのである。アリス トテレスは終極目的としてのポリスの地位を明らかにするために,「何かのた めにという意味での終極目的は最善のものであり,そして自足性は終極目的で
(14)
あり, したがって最善である」という文を続ける。ポリスの持つ性格としての 自足性とは,よく生きることに対する自足性である。イエやムラがその終極目 的としてポリスを持つとするなら,それらは,よく生きることの前提をなす生 きることの条件を提供するものでなければならない。よく生きるという最善の 目的へ方向付けられてこそ,はじめてイエやムラがポリス的な生活の中でその 正統な位置を占めることができるのである。
この目的論的な根拠付けの箇所を不要とした
Keytは,冒頭に述べたように,
「自然によって存在するもの」を「技術によって存在するもの」に排他的に対 立するものと捉える。彼によれば,『政治学』第
1巻
2章において,ポリスは,
動物や人間のように,自然によって存在するものであるとされているが,アリ
(15)
ストテレス自身の理論ではポリスは実践的理性の産物である。だが,これらは 排他的な関係にある。自然によって存在するものは運動の原理を自己の内部に 持っているが,技術によって存在するものは運動の原理を自己の外部に持って いるという点で,両者は全く異なるからである。したがって,
Keytによれば,
アリストテレスによるポリスの規定には根本的な矛盾が含まれていることにな
i~
この点については,通説によれば,一方で,自然によって存在するものと技 術によって存在するものとは区別されるが,他方で,技術は自然がやり残した ものを完成させるとか,技術は自然を模倣するという関係にあるのだから,必
(17)
ずしも,これらを排他的な関係にあるものと解釈する必要はないとされる。こ
(14) Pol. I 2. 1252 b 34‑53 a 1. (15) Keyt (1991) p. 119. (16) Keyt (1991) p. 130.
73
ポリスの自然性
‑11‑のような通説の解決策に対して,
Keytは,健康は自然によって存在するもの であり,病気になった場合,自然に快癒することもあるし,また医術によって 快癒することもあるように,技術が自然の助けになる場合があることは認め る。しかし,逆に,詩や彫刻のような技術によって存在するものどもは,模倣 という人間の自然的な傾向にその起源を持つのであるから,この限りでは,人 間における共同性への自然的な傾向に基づき,ポリス的技術によって仕上げら れるポリスは,詩や彫刻などと同じような地位にあることになるとし,通説の
(18)
妥当性を疑う。しかし,この議論は通説に対する有効な反論にはなっていない。
そもそも,通説とそれを批判する
Keytの共通の前提となっている,「ポリス がそれ自身の内に運動の原理を持つ自然的実体である」ことを明確に支持する テキストは存在しないのである。この規定に基づいて,
Keytは自然的実体と 技術的産物との排他的関係を強調するが,
Keytの指摘するアリストテレスの 根本的矛盾を回避するためにも,ポリスの自然性を自然と技術の排他的関係に 基づいて解釈するのではなく,目的論的解釈によってこれを捉えることが必要
(19)
である。
Miller
は,ポリスは,「それ自身の内に運動の原理を持つ自然的実体」では なく,自然的実体としての人間の目的を促進するという意味において「自然に
(20)
よって存在するもの」であるとの解釈を示した。この解釈によれば,何かが自 然によって存在すると言えるためには,それが有機体の自然的目的を促進し,
かつそれが,部分的にせよ,有機体の自然的な能力から結果するということが 条件となる。鳥の巣や蜘蛛の巣がその例である。鳥の巣は,鳥という実体の目 的を促進し,かつそれ自体は鳥という実体の自然的な能力から結果するもので ある。これらは,もちろん,技術によって作られたものでも,探求や思案の結
(21)
果作られたものでもない。ポリスもこの二つの条件を満たす。ポリスが人間と
(17) Bradley (1880) p. 26, Barker (1958) p. 7, n. 1, Schiitrumpf (1991) p. 221, Simpson (1998) p. 2
1 .
(18) Keyt (1991) pp. 119‑120. (19) cf. Miller (1995) p. 38. (20) Miller (1995) p. 40‑45.
‑12‑ 香川大学経済論叢 74
いう実体の自然の目的である「よく生きること」を促進し,かつそれ自体は人 間という実体の自然な能力から結果しているものであるからである。人間は,
ポリス的な共同の生活への衝動を持つとされているが,ポリスの成立は,少な くとも部分的には,この衝動に依っている。部分的に依っているというのは,
(22)
ポリスの完成に呆たす立法家の役割が考慮されているからである。
Miller
の解釈は,ポリスの自然性をポリスの目的性から理解するものであ り,さらには,技術と自然との関係や,実休と自然によって存在するものとの 関係などについて,これまでの解釈を補強するものである。しかし,アリスト テレスが語っているのは,ポリスがイエやムラの終極目的(テロス)であると いうことである。イエやムラからポリスヘの発展を支えているのは,人間にお けるポリス的な共同への衝動であるにしても,ポリスが自然によって存在する のは,鳥の巣が自然によって存在するのとは同じ意味においてではない。烏の 巣は烏としての生活のための手段であるが,ポリスは人間としての生活の最終
目的を実現する場なのである。
2
血縁と支配の自然性
では,ポリスがイエやムラの終極目的としての自然であるということはどの ような意味なのか。ここで,イエやムラの自然性とポリスの自然性を貰く自然 性の概念が存在するのかどうか考察したい。イエが生殖や生存という動物的な 本能によって生じるが故に自然的なものであるとするなら,ポリスをイエやム ラの終極目的とすることは,やはり,異なる次元のものを無理に接ぎ木するよ うなことにならざるを得ないからである。もしそうなら,テロス概念によるア リストテレスの証明には説得力がないことになるだろう。
Keyt
や
Millerの解釈において看過されているのが,イエの自然性について
(23)
の考察である。上記のように,イエという共同体は,配偶関係と主奴関係とか
(21) cf. Phy. I 8. 199 a 20‑30.
(22) cf. Pol. I 2. 1253 a 29‑30, 1253 a 30‑31.
(23) このことの考察の不在は,実はほとんどの解釈に共通している。
75
ポリスの自然性
‑]3‑ら成り立っているが,イエが自然的であることについて,これらの解釈は,そ こに動物と共通の特徴である生殖と生存しか見ない。そして,イエやムラのレ ベルにおいて見られる血縁的次元とポリスにおける技術的,法的次元との乖離 を前提とする。しかし,アリストテレスは,乖離した二つの意味を無理矢理に 生成的発展の文脈に押し込むことによって統一しようとしているのではないと 思われる。ここで注目すべきことは,イエにおける自然性とは何かという問題 であり,ポリスにも妥当する意味がそこに含まれていないかという点である。
そうした関心からアリストテレスのテキストを見直してみて直ちに気が付く ことは,一方において,生存が人間的意味での生存であり,他方において,イ 工を構成する二つの関係が支配に関わる人間的関係であることである。
ギリシャにおいて,血筋の正しい成年男子は,家長として絶対的な権限にお いてイエの事柄について指図をする。生活のために必要な食料及び日用品の生 産や調達については,それを奴隷に行わせるべく指示を与える。また,妻との 関係においては,単に子作りと養育だけではなく,生活全般にわたる分担が存 在する。
配偶関係について,『ニコマコス倫理学』では,次のように述べられている。
「人間は,自然によってポリス的であるというよりむしろ配偶的である。イ 工がポリスより先であり必然のものであるかぎりにおいて,そしてまた子作り が動物に共通であるかぎりにおいて,そうである。他の動物にとって共同はこ の程度までであるが,人間は子作りばかりではなく,生活に関わる事柄のため にも共に暮らすのである。夫婦の間では仕事が分担されており,男の仕事と女 の仕事は異なっている。共通の事柄のために各自の仕事をすることで,彼らは お互いに役立つ。それ故,夫婦の愛には,有用さと快さが含まれているのであ
る 。 」
(EN VIII14, 1162al7‑25)ここでは,配偶関係が子作りと子の養育にのみ関わるのではなく,家庭内の
教育や宗教儀礼までも含めた生活全般にわたる共同として捉えられている。人
‑]4‑ 香川大学経済論叢
7 6
間以外の動物はイエを形成しない。アリストテレスの見解では,イエの形成は,
善悪・正邪•利害の観念の共有を必要とする。「これらの共有がイエとポリス
を形成する」と述べられているが,このことはアリストテレスがポリスにおけ るその構成要素としてのイエの重要性を認識していたことを物語る。イエはポ リスの単なる要素ではなく,ポリスの成立と同じ根底を持つものであると考え られているのである。配偶関係が自然的であるのは,動物に一般的に見られる 子作りという欲求に根ざしていることだけに根拠があるのではない。男と女が
善悪・正邪•利害の観念を共有し,いわば道徳的価値を共有することがこのこ
とに深く関与する。この点について,主奴関係についても同じことが言える。
奴隷には放縦や臆病のゆえに仕事を怠ることのない程度の徳が必要であるとさ
(24)
れているのである。したがって,これら二つの共同関係から成るイエという共 同体が「日々の必要のために存在するようになった自然にかなった共同体」で あるのは,単に動物としての自然性にのみ基づくのではなく,動物界の一員で ある人間としての自然性にも基づくと考える必要がある。このような自然性 は,動物から人間を分ける決定的な標識である。
「人間はポリス的な動物であるばかりではなく,イエ的な動物でもある。そ して,人間は他の動物のように,男にしても女にしても,その場に出くわした 相手とつがいになり,そのあとは孤立して生きるのではなく,自然によって同 族であるもの同士と共同して生きる動物である。」
(EEVII 10, 1242 a 22‑26)「ある動物は,植物のように単純に,季節になるとそれに固有の生殖を遂行 し,ある動物は,生まれた子の養育にまで力を尽くすが,子が完全に生長して しまうと別れ,もはや共同の生活を営むことはない。また,ある動物はこれら よりも賢くまた記憶力もあり,はるかに長い間,より緊密に子孫と共同の生活 を営む。このように,子供を作ることに関わる活動が動物にとってその生活の
(24) Pol. 113. 1260 a 33‑36.
77 ポリスの自然性 ‑ ] 5 ‑
一つの部分であり,食物を求める活動がもう一つの部分である。」
(HAVII1 . 5 8 8 b 30‑589
a4 )
動物の中には子供を生みつばなしで養育することのないものがいるが,生長 するまで子供を養育するものもいる。さらに,記憶力のある賢い動物は,生長 した子供と共同の生活を営む。アリストテレスが指摘した配偶関係と主奴関係 は,動物における生殖と食物探索という二つの生活の部分に対応する関係であ る。つまり,イエを構成する二つの関係が動物の本能に根ざした活動形態に対 応するのである。イエは生殖に基づく血縁者の単なる集団ではなく,日々の生 活を共にする血縁者の共同であり,イエにはこの意味における血縁の自然性が
伽)
備わっているのである。
イエという共同体は,日々の暮らしとそれに必要な食料や雑貨を提供する活 動を行う人間関係である。そして,イエが分家していくつかのイエの集まりか らムラが生じるのは,特に意図してのことではなく,蜂の分封のように,自然 によるものである。その分家したもの同士が,互いに単独にイエを営むのでは なく,なんらかの交流を行っていく中で,ムラが生じてくる。この段階では,
日々の生活のレベルを越える物資の交換と同族的交流を行う血縁関係が,イエ
~6)
同士の相互に結びつく原因となる。
次に,イエやムラの形成に関わるもう一つの自然性について指摘したい。イ
(25) イエの日常生活の中で,言語の学習と生活の躾,子供なりの徳の習慣づけが行われる。
『政治学』第 1巻13章において,妻や子供や奴隷のそれぞれの持つべき徳について論じ られているのは,このことの傍証となるであろう。正義や勇気の徳は公的な場面におい て培われるが,節制の徳を身に付けるにはイエにおける躾が決定的に重要である。イエ はポリスの部分としては,相応の道徳教育の役割を担っているのであり,単に生殖と生 存を保証するだけの存在ではない。 H・アーレントによる,イエにおける生存のための 生活と,ポリスにおける倫理的・政治的生活という二分法的解釈は,アリストテレスの
「生きること」と「よく生きる」ことの区別に対応するが,単純化は避けるべきである。
(26) アリストテレスは姻戚関係によるポリス的つながりにも言及している (Pol.III 9, 1280 b 36)。婚姻関係はポリスにおける親愛関係を深めるものであるが (cf.Barker (1958) p.
120, n. 2.), ムラの領域をこえる人間関係を作り上げ,諸部族の結合から成立したポリ スの一層の統合に寄与する。
‑]6‑ 香川大学経済論叢
7 8
工を構成する二つの関係のうち,配偶関係について,夫の指導と妻の服従とい う支配の関係が存在する。イエにおいて夫が妻を支配する根拠は,成人男性た る夫は思慮を持つが,妻はそれを不完全にしか持っていないことにある。妻は,
(2り
女性であるが故に,思案することはできるが決定することができない。目的が 設定されれば,いかにそれを達成するかについて女性は十分な手腕を発揮する が,行為の原理である目的を設定することに明確な見通しをもつことができな い。長期にわたってのいわば人生設計に関わる見通しをもって個別の事態に対 処するのが,思慮の能力である。主奴関係についても,このことは明らかであ る。アリストテレスによれば,主人は自然本性において奴隷を支配するもので あり,奴隷は自然本性において主人によって支配されるものである。この主張 は,アリストテレスの奴隷擁護論の中核をなすものであって,ノモスによる奴 隷は自然に反したものであるにしても,人間たちの中にはその生まれつきの能 力により自然本性において奴隷である人間が存在しているという,あの差別的
認
言辞の根拠になるものである。アリストテレスは主奴の支配関係を正当化する ために,それが自然に基づく関係であると主張する。
「多くのものどもから成り立ち,〔そこから〕何か共通のものが生じているも のにはすべて,それが連続したものどもから成り立っているにせよ,あるいは 分離したものどもから成り立っているにせよ,支配するものと支配されるもの
とが現れる。」
(Pol.I 5. 1254 a 27 ‑33)これに続く箇所において,主奴の支配関係が,魂と休の支配関係に類するも のとされる。奴隷は生きている道具として,主人の活動を補助すべき付属物と 見なされている。そういう関係において,これらは一体となっているのである。
この関係と同じく,夫婦の関係も,生まれつきの能力の差異に基づく自然な
(27) Pol. I 13. 1260 a 13.
( 2 8 )
「ノモスによる奴隷Jとは,敗戦による奴隷化が慣習に基づく制度であって人間の自 然本性に基づくものではない,ということを意味している表現である。7 9 ポリスの自然性
‑]7‑支配の関係である。それ故,イエを構成する二つの共同関係は,共に生まれつ きの自然的能力に基づく支配の関係であるのだから,イエ自身も自然的である と考えられる。したがって,イエの自然性は,血縁の自然性と共に,支配の関 係の自然性にも基づいているのである。
では,ムラの共同関係も支配の関係の自然性に基づくのだろうか。アリスト テレスは,「すべてのイエは長老によって,その同族性に基づいて,王的に治 められており, したがって,分家的な集団についても同様である」と述べてい る。そして,王によって治められていたいくつかのムラからシュノイキスモス
(集住)によってポリスが成立したと述べる。ムラの自然性は同族の血縁性に 基づいているが,それだけではなく,イエから引き継がれた支配の自然性にも 基づいており,同族の中で生まれつき最も思慮のある人間が王として一族の指 揮にあたるのである。では,ポリスの共同関係はどうなのであろうか。ムラを 統合した共同関係であるポリスは,イエやムラと比較すれば同族性がかなり薄 れるので,同族的血縁性にポリスの自然性を求めることは難しい。アリストテ レスができる限り婚姻関係を結ぶことの重要性を指摘しているのは,この側面 における自然性にも留意していたためであろうが,イエからムラをへてポリス に至る発展を貰く自然性は,支配の自然性に求めるしかないであろう。
支配の関係の自然性は,支配能力における生まれつきの差異に基づいてい る。つまり,支配の関係の自然性は人間の自然本性に基づいている。ポリス市 民はポリスの支配に与ることにおいて同等であるから,彼らの間では交代に支 配することがよいとされているが,それは,彼らの間に人間としての自然本性 における差異が認められないからである。血筋の正しい成年男子は思慮の点で は同等であり,誰かが恒常的に支配するのは,ポリス的人間の自然本性に照ら
して不正なことなのである。
以上のことから,イエからポリスヘの発展を貰く自然性として支配の関係の 自然性が存在していることが確認できるであろう。支配の問題は,ポリス成立 の叙述を行う動機となったアリストテレスの理論的関心であった。第
1章で,
アリストテレスは,プラトンが支配の類型を無視して,支配はすべて同種類の
‑18‑ 香川大学経済論叢
8 0
もので,支配される人間の数の多寡によって区別されるにすぎないとしたこと を批判した。そして,ポリスの構成要素を分析し,ポリスが成立してくる過程 を見るならば,支配には質的に異なる種類が存在するということが明らかにな るとして,第
2章の叙述に移るのである。アリストテレスが異なるとした支配 の類型とは,イエとポリスにおける支配形態である。イエにおいては正しい支 配形態である主人的支配も,ポリスにおいては,僭主政を成り立たしめる不正 な支配形態となる。つまり,ポリスにおける自然に即した正しい支配形態は,
イエにおける自然に即した正しい支配形態とは異なるのである。しかし,イエ はポリスの基本的な構成要素であり,イエを抜きにしてポリスは成り立ち得な い。その意味において,両者の相違を明らかにすることはポリスの国制を分析 するためにぱ必要な作業であった。第
2章の議論展開において,プラトンの国 家論への批判とも関わるこの論点をアリストテレスが意識していなかったはず はない。このような観点から考察するなら,第
1章と第
2章を貫く糸が明らか となろう。それは,支配の形態の観点から,ポリスとその構成部分との間の相 違と連関とを明らかにすることである。イエやムラの自然性は,血縁と支配の 関係の自然性に根ざしているが,支配の関係の自然性は自然全体とりわけ生命 体との類比によって,その自然性が根拠づけられる。この自然性は,自然全体 の仕組みに合致しているという意味において,正当性を獲得するのである。こ のようにみるならば,ポリスの成立過程とは,正しい支配の関係の中へ,人間 的な自然を完成させていく過程でもあると言えるのである。
イエとポリスの自然性が支配の関係の自然性に基づいていることは,実践に 関わる最高能力である思慮(プロネーシス)によってイエやポリスが支配され るということであり,そしてそれが正当であるということを意味している。成 年男子が家長として有する思慮はイエの事柄の全般に関わり,ポリス市民とし て有する思慮はポリスの事柄の全般に関わる。後者には,棟梁的な地位を占め る立法術的な思慮と思案と実行に関わる政治術的な思慮があり,政治術的な思
~9)
慮は民会の審議と法廷の裁決とに関わる。このように,実践に関わる人間の自
然本性の完成態である思慮がイエとポリスを支配し,そのことによってイエと
81
ポリスの自然性
‑]9‑ムラとポリスとを結びつける目的論的関係をも支えているのである。アリスト テレスはこの能力を生物学的観点からも位置づけているが,この点は次節にお いて検討する。
3
動物界における人間の地位
支配の関係の自然性が人間の自然本性に基づくなら,結局,ポリスの自然性 は,生物学的な意味における自然に基づくことになる。しかし,これは技術と 区別された意味での自然ではなく,生物の能力としての自然である。この観点 は,「人間は自然によってポリス的動物である」というこの章における第二の 命題,さらには,「人間は他の動物と比べてよりいっそうポリス的である」と
(30)
いう論点にも通底している。
ポリスの自然性の証明に続いて,動物世界における人間の地位についての議 論が置かれていることにはそれなりの意味がある。ここの議論は,善悪・正邪.
美醜の知覚の共有がイエとポリスを作るという文でまとめられている。ここで は,言語能力を有する人間が,声を有し情動の表現を行うことのできる共同的 動物よりも,共同関係の形成力において優れており,その能力がイエからポリ
スに至るまでの共同関係を貰いていることが主張されている。
動物とのこの比較論は,単なる比喩ではなく,人間軋界がポリス性という観 点においても,動物の世界と連続していることを積極的に主張するものであ る。このことは,『動物書』を参照するなら,ただちに明らかとなる。
「生活と行動に関して次のような違いもある。歩くもの飛ぶもの泳ぐものを 問わず,動物の或るものは群居性であり,或るものは独居性であり,また或る
(29) EN VI 8. 1141 b 23‑28.
(30) Mulgan (1974)
はアリストテレスにおける「p
olitikon(ポリス的)」の用法は曖昧で あるとして,三つの意味を区別したが,アリストテレスの自然の階梯論から見るならば,
区別の曖昧さはむしろ自然の連続性に対応していると考えるのが適当であろう。
cf.牛田徳子
(1994).なお, ミツバチやスズメバチやアリを
politikonと呼ぶ先例はプラトン(Phaedo 82 b 6‑7)
にある。
‑20‑ 香川大学経済論叢
8 2
ものは両方の性格を兼ね備えている。さらに,群居性のもののうち,或るもの はポリス的なまとまりをなすが,或るものはばらばらに行動する。群居性のも のとは,飛ぶものでは,ハトの類やツルやハクチョウなどで(爪の曲がった猛 禽は群れない),泳ぐものの内では多くの魚類,たとえば,回遊魚と呼ばれて いるマグロ,メジ,カツオなどである。これに対して人間は群居性と独居性の 両方の性格を兼ね備えている。ポリス的なまとまりをなす動物とは,その全員 のなすことが何か一つの共通のものであるような動物のことであるが,このこ とは,すべての群居的な動物にあてはまるのではない。ヒト,ミツバチ,スズ メバチ,アリ,ツルが,このようなポリス的まとまりをなす動物である。さら に,これらの或るものはリーダーの下にあるが,或るものはリーダーを持たな い。ツルやミツバチはリーダーの下にあるが,アリや他の多くのものにはリー ダーはいない。」
(HAI 1. 487 b 33‑488a
13)ここでは,群居性の動物の中で,共通の仕事を成し遂しとげるために共同生 活をしているものがポリス的な動物であり,その中でも,指導者のもとにこれ をなしているものがあるとされている。その代表的なものが王バチに従うミッ
(31)
バチの群れである。このように,人間世界における支配形態に類似したものを 動物世界の分類規準として用いていることからも,アリストテレスが,ポリス
の自然性を生物学的に基礎づけようとしていたことが窺える。
『政治学』第
1巻
2章 に お い て は , 自 然 の 階 梯 に お け る 他 の 動 物 の 到 達 段 階 について,次のように語られている。
「言業は動物の中で人間だけが持っている。声は苦痛と快楽の印であり,し たがって,これは他の動物にも属するものだが(それらの動物の自然はここま で,すなわち苦痛と快楽の感覚を持ち,これらを互いに示し合うことまでには 達している。),言葉は,利益や害悪を明らかにするためにあり,ひいては,正
( 3 1 ) 「動物誌」第 9
巻40章
83
ポリスの自然性
‑21‑しいことと不正なことを明らかにするためにある。実際,このこと,すなわち 善いことと悪いこと,正しいことと不正なこと,およびその他このようなこと どもに関する知覚をもっているということは,他の動物と比べて,人間に固有 のことなのである。これらについて知覚を共有することが,イエやポリスを作
り上げるのである。」
(Pol.I 2. 1253 a 11‑18)ここで言及されている動物は,互いに苦痛と快楽を示し合うということであ るから,群居性の動物であろう。それらの動物は,情動を互いに伝達し合うこ とに種としての生存上の利益を持つと言えよう。ここで「それらの動物の自
¥32)
然
Jと言う表現に注意したい。これは,動物の自然的能力を指している。人間 についても,これと同様の表現が『動物部分論』にある。
「 l 植物的な生にも共通する i 生きることに加えて,感覚を有するような存在
l つまり動物 i は,その形態が植物よりも多様である。そして動物の間でも形 態の多様性の大小が見られるが,生きることばかりではなく,よく生きること
にも,それの自然が与っている生物は,他の生物に比べて形態の多様性がより 大きい。人間の種族はこのような生物である。」
(PAII 10. 656a
3‑6)よく生きることは倫理的次元の性質であって,一見,動物学的分類にはなじ まないように見えるが,ここでは,「人間の自然」が「よく生きること」に与っ ていると述べられている。よく生きることは,「思考する」ことによって可能
となるという意味において,人間の魂の能力の中でも最高の位置にある能力の
(33)
発現形態であると考えられる。
このように,ここでは,「人間の自然」は,思考能力をも含む包括的な概念 であるが,アリストテレスの他のテキストにおいて,「生来の素質」という狭
( 3 2 ) したがって,「自然によって」とは,生物としての能力を「自然が与えた」ことを意 味していると考えられる。
(33)