は じ め に
本稿では、書き手が読み手に「ことば」を用 いてはっきりとイメージさせるためにどのよう な手法をもちいたのかを語彙選択や文法の切り 口から分析を試みる。そのばあい、日本の文 豪、夏目漱石の最初の小説である『吾輩は猫で ある』(以下『猫』と略称する)を取り上げる。
とりわけ、その第1部の導入部を取り上げ、「写 生文」1) として書かれた文のあり方を探ってい く。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」で始ま
る名高い日本文学は、漱石を一躍「有名にした 第一の作物」2) である。しかし、優れた芸術家 の例によらず酷評の憂き目3) にもあっている。
高浜虚子から同人誌『ホトトギス』の写生文の 一種として書くことを勧められ、掲載されたの は、明治38年(1905年)1月であった。漱石は この第1部だけのつもりであったが、小山内薫 が『七人』で誉めたり、虚子の勧めもあって第 11部まで書き進めている4)。同年2月、4
月、
6 月、7
月、翌年1月、3 月、4
月、8 月の掲 載で、『ホトトギス』の部数も毎号増していっ
文学の文法的読み方
― 『吾輩は猫である』をめぐって―
中 野 はるみ
(長崎国際大学 人間社会学部 国際観光学科)
要 約
文学作品は、作者が「ことば」の特性を最大限に使いこなして創作したものである。本稿では、「こ とばのしくみ=語彙選択や文法」によって、その文学作品を読み解く方途を探っている。書き手が選ん だ「ことばのしくみ」の特質が明らかになれば、読み手は、作品のイメージを明確に捉えることができ る。素材として、日本の文豪、夏目漱石の最初の小説であり、誰もが一度は読んだことがある『吾輩は 猫である』を取り上げた。
キーワード
語彙、文法、再創造、漱石、猫
目 次 はじめに
Ⅰ.語彙・文法分析の手法
Ⅱ.『猫』の語彙・文法解釈 Ⅱ1. 『猫』第1部第1段落 Ⅱ2. 『猫』第1部第2段落前半 Ⅱ3. 『猫』第1部第2段落後半
Ⅲ.語彙・文法分析 Ⅲ1. 「文の部分」構成
Ⅲ2. 述語の品詞構成(文末表現)
おわりに
た5) のである。漱石は、「この書は趣向もなく、
構造もなく、尾頭の心もとなき海鼠のような文 章である」6) と謙遜しているが、その上編の自 序や『猫』第2部でつぎのように記しているこ とから、ずいぶんと喜んでいることがわかる。
「自分が今まで『吾輩は猫である』を草 しつつあったさい、一面識もない人が時々 書信または絵葉書などをわざわざ寄せて意 外の褒辞を賜ったことがある。自分が書い たものがこんな見ず知らずの人から同情を 受けているということを発見するのは非常 に有難い」7)
「吾輩は新年来多少有名になったので、
猫ながらちょっと鼻が高く感ぜられるのは ありがたい」8)
このように、虚子や寒川鼠骨などと同人の仲 間うちで楽しんだ写生文が、徐々に明治の代の 人々に受け入れられていくさま9) は、その年の 10月に単行本の体裁を整えたという早急さが物 語っている。また、近代文学を読まなくなった といわれる平成を生きているわれわれにとって も、その面白さは依然存在する。読み手に先を 読んでみたいという想いをつぎつぎに抱かせ、
胸をスカッとさせる活劇っぽさは『坊ちゃん』
と同様である。漱石の文学研究者としての底力 が『猫』を生みだしたといえるだろう。
Ⅰ.語彙・文法分析の手法
現実のできごとやありさまや考えは、本来ひ とまとまりのものであるが、それを認識し伝え る「ことば」は、単語に区別され、文としてく みたてられる。そして、音声や文字のかたちを とって線条につたえられる。
本稿では、文を分析する手法として、語彙
(単語)と文をくみたてる方法である文法のふた つの分析方法を使用する。単語の分析は、ひと つひとつの単語が個々ばらばらな存在ではなく 語彙として存在しており、それが示すものは他 との差異である点を主眼にする。言語は体系と して存在し、関係づけられ、「対立を生ぜしめ
る差異」 の 「価値体系」 であるという Ferdinand de Saussure の基本概念が活かされているので ある。
単語の認定である形態論と文の部分のくみあ わせである構文論とからなる文法手法は、いわ ゆる学校文法にはない。ここでは、奥田靖雄を 中心にした研究グループの歴史的産物といえる テキスト(高橋太郎他『日本語の文法』ひつじ 書房10))を基に分析していく。
学校文法は単語の認定で大きく誤っている。
今だに義務教育の教科書の付表には「口語活用 表」が掲載され、「口語動詞活用表」「口語形容 詞活用表」「口語形容動詞活用表」「口語助動詞 活用表」などが載っている。動詞活用表には
「未然形」「連用形」「終止形」「連体形」「仮定 形」「命令形」の活用があり、活用の種類は、五 段活用・上一段活用・下一段活用・変格活用で ある。この学校文法では例えばつぎのようにし か文を分析しない。
「おじいさんとおばあさんが」という主語が
「いました」という述語にかかり、さらに、「あ るところに」という修飾語が「いました」とい う述語にかかるという修飾・被修飾の観点から 分析されるのである。
「いました」という述語は、表1のように動詞
「い」助動詞「まし」同じく助動詞「た」とい う3つの単語に分類され、「い」は動詞の連用 形、「まし」は丁寧の助動詞の連用形、「た」は 完了過去の助動詞の終止形となり、それで形と 意味の分析は終わる。それがすべてである。こ のような分類で何が明らかになるだろうか。こ のようなことを分析する表が今だに載せられて いるということは何をいみするのだろうか。
鈴木康之・高木一彦が編集に加わった国語教 科書では巻末の付表にかかわらず、表2を掲 げ、言語学の研究成果を盛り込んで「いまし
・あるところに おじいさんと おばあさんが いました。
修飾語 主語 述語
た」がもつ機能を表示していた。言語研究の成 果が国語教育に活かされていたのである。彼ら が退いた2006年2月初版の教科書では、付表で はなく本文の中に学校文法の表が印刷されてい る。研究成果は後退してしまっている。
本稿の基準にする文法では、「いました」の意 味・機能を分析するばあい、この表にあるよう に、語彙・文法の対立関係を基準に規定する。
すなわち、ムード11) においては「断定」、テン スにおいては「過去」、みとめ方においては「肯 定」、丁寧さにおいては「丁寧」をあらわす終 止形だと規定するのである(波線は筆者)。
また、いわゆる名詞につく助詞は連用格をハ ダ カ 格・ガ 格・ヲ 格・ニ 格・ヘ 格・デ 格・ト 格・カラ格・マデ格・マデニ格に分類し、連体 格は、ノ格・ヘノ格・デノ格・トノ格・カラノ 格・マデノ格に分類する。この音声による格名 は、意味・機能をあらわす名称だけでは分類で きないからである。たとえば、「僕はパンを食 べる」では、「パンを」というヲ格は対象(目 的)をあらわすのだが、「飛行機は空を飛ぶ」
では、「空を」は、場所をあらわすヲ格なので、
目的格という名称を使用すると「場所格」を含
むことができす、不都合がおきるのである。
上記からわかるように、本稿の分析文法で は、学校文法の助詞や助動詞を品詞として立て ていない。そうせずにむしろ名詞や動詞とセッ トで説明するほうが有用だからである。助詞や 助動詞を立てないからといって、これまでのこ れらの研究をないがしろにしたわけではない。
これまでの日本語の文法研究は、万葉集などの 和歌研究を中心に発展してきたといっていいだ ろう。1500年におよぶ研究は日本語の意味・機 能を深化させるという大きな功績を残してき た。だからといって、表1に用いられている文 法用語が有用とはいいがたい。日本語全体をみ わたせる体系になっていないからである。特に 現代日本語の文法を分析する手法において使用 することはできない。本稿で使用する文法のほ うが科学的かつ体系的であり、分析に向いてい るといえる。コンピュータを使った語彙研究12)
においても助詞や助動詞を単語と認定するより も、名詞の格や動詞の活用形態としたほうが有 用のはずである。
現実のできごとやありさまを描写するばあ い、大切なものに 5W1H がある。「いつ・どこ 表1 「いました」の学校文法分析表
命令形 仮定形
連体形 終止形
連用形 未然形
名 種類と用法
いろ いれ
いる いる
い い
いる 上一段活用
動 詞
(ませ)
ますれ ます
ます ませ まし
ます ましょ 用 丁寧
法 助 動
詞 たら
だら た
だ た
だ たろ
だろ た
だ 完了 過去
(『現代の国語3』三省堂、2001. 付表より作成)
表2 「いました」の意味・機能表
断定
意志・ 推量 命令 誘いかけ
現在・未来
過去
現在・未来 過去
普通の言い方 肯 定
いる いた
いるだろう いただろう
いよう いろ
否 定 いない
いなかった いないだろう
いなかっただろう
(いまい)
いるな
丁寧な言い方
肯 定
います いました
いるでしょう いたでしょう
いましょう いなさい
否 定 いません
いませんでした いないでしょう
いなかったでしょう
(いますまい)
(いなさるな)
(『現代の国語3』三省堂、2001. p. 54.)
で・だれが・なにを・どのように・どうする」
である。この重要な文の部分が、主語と述語と 修飾語だけに限定されているのが学校文法であ る。本稿では、「文の部分」を、主語・述語・
補語・修飾語・状況語・規定語・陳述語・独立 語・側面語・題目語に分類して説明する。「日 本語には主語がない」などという人々がいる が、「主語」という部分は省略されるばあいもあ るが、どのような言語にも存在する文の部分で ある。「主語」とは、「文ののべるものごと」で あり、述語とは、「文ののべる部分」である。つ まり、「何がどうする」「何がどんなだ」という タイプの文であれば、主語は「何が」の部分で あり、述語は「どうする」や「どんなだ」の部 分である。補語13)には、1.うごきの対象(例:
次郎が太郎をなぐった)2. かかわり場所(例:
父が会社から帰ってきた。)3. 状態や性質がな りたつための基準(わたしは蛇がきらいです。)
などがある。修飾語14) とは、程度や量をあらわ す副詞である。状況語15) は、ときや場所をあら わすことばや原因や目的をあらわすことばであ る。規定語16) とは、いわゆる連体修飾をするこ とばである。陳述語17) は、いわゆる「陳述副詞」
のたぐいである。独立語18) には、「さけび」、
「よびかけ」「うけこたえ」「あいず」「あいさつ」
「接続詞」がはいる。側面語19) は、「ゾウはは なが長い」の「はなが」の部分である。題目 語20)とは、「は」による「とりたて」で、文頭 におかれるばあい話の中心になる語をいう。
さらに、動詞は、ブォイス(態)21)、テンス
(時制)22)、アスペクト23) にかかわっているし、
いわゆる形容詞と形容動詞は、機能的な働きを みると同類なのでイ形容詞とナ形容詞と呼ぶ。
このような文法は現在、世界中で学習されて いる一言語としての「日本語」教育の現場では 常識となってきている。本稿で基準にした高橋 太郎他『日本語の文法』も中国語や韓国語での 翻訳がすでに出版されている。学校文法では、
外国語として学習するには不都合なことが多い からである。日本語教育は、奥田をはじめ三上 章、寺村秀夫など新しい文法を模索した研究者 の先導によって発展してきたといえる。国語文 法同様、研究者の数だけ文法用語があり統一は 難しい。たとえば、動詞を1例にとると、『日本 語の文法』に使用されている用語と日本語教育 の1テキストとの区別は表3のとおりである。
表3でブランクになっている部分には対応す る名称がないことを意味する。日本語を研究す
表3 文法用語対照表
日本語教育用語
『日本語の文法』用語 日本語教育用語
『日本語の文法』用語
条件形 条件形(バ条件形)
1グループ 強変化(五段活用)
条件形(ナラ条件形)
2グループ 弱変化(一段活用)
条件形(タラ条件形)
3グループ 特殊変化
条件形(ト条件形)
終止形24)
譲歩形(テモ譲歩形)
のべたて形
譲歩形(タッテ譲歩形)
普通形 断定形
ふつう形 ふつう体
推量形
ていねい形 ていねい体
辞書形 非過去形
肯定 みとめ形式(動詞)
た形 過去形
ない形・否定形 うちけし形式(動詞)
意向形 さそいかけ形
タリ形 例示形(ならべたて形)
命令形 命令形
可能形 可能動詞
連体形
受身 うけみ動詞
ます形 中止形(第1なかどめ)
尊敬 敬語動詞
て形 中止形(第2なかどめ)
使役 使役動詞
やりもらい動詞
(『日本語の文法』p. 62. p. 97. p. 284.『新日本語の基礎Ⅰ・Ⅱ』より作成)
るばあい、「名づけ」の必要性は研究がすすめば すすむだけあるわけだが、初級文法を教えるに ついては上記の名づけで十分なのであろう。「ま す形」「た形」「て形」などのように、その音声 に「形」をつけた名づけになっていることが多 い。これは、その「形」の意味が多様だからで ある。意味機能が複雑であればひとつの意味だ けを混入した名づけは誤りになる。その意味で は、本稿で扱っている『日本語の文法』の用語 より日本語教育用語のほうが名づけの妥当性は 高いだろう。このように、日本語文法研究も充 分な分析法をもつには致っていない。
それにしても、日本人の義務教育部門の言語 教育に遅れが目立つ。国語教育は、近代国家に とって重要課題であったがゆえに、明治以来、
国家は日本語の標準化を推し進め、共通語の普 及が早急に図られたのだが、そこに不足してい たのは、日本語という言語の特質まで織り込ん だ言語教育だったのである。
Ⅱ.
『猫』の語彙・文法解釈Ⅱ 1
. 『猫』第1部第1段落 第1段落はつぎのとおりである。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
第1文の名詞述語文は、タイトルにもなって いる。このタイトルは、漱石が『猫伝』として いたのを虚子が変更したものである。ここで使 用されている「吾輩」は、英語には I’ という 一人称単数主語の記号しかないが、尊大さをあ らわすばあい、口頭ではイントネーションで区 別するだろうし、文字では I AM’25)とあらわ される。日本語の一人称単数主語は、位相に よってさまざまであり、40種にものぼる26)。そ の中から、わざわざ選ばれた人称名詞である。
小宮豊隆が『漱石襍記』でいうように27)、「吾輩」
と自分自身を呼ぶのは「偉い」つもりの横柄な 輩 で あ る。ち な み に 漱 石 は、『文 学 論』で は
「余」、書簡では「僕」、講演・講義では「わた
し」を使用しているし、別の箇所では「吾人」
を用いているばあいもある。
そのような尊大な人称名詞主語と「〜であ る」というコピュラとのくみあわせは自然なの だが、「猫」とういう動物名詞が不自然なので、
のっけから滑稽である。「猫も杓子も」という ことばにあるように、「猫」は動物の中でもどこ にでもいるたいしたことのないもののひとつで あった。今でこそあまり見かけないが当時はあ ちこちにいたであろう。「わたしは猫だ」とす れば、「猫」という動物名詞に相当する表現にな る。
しかしながら、「猫」という動物名詞は、「馬」28)
や「犬」よりも小さく、視点が低い動物である。
「吾輩」(語り手であり登場人物である)が「猫」
という素性を明かしたところに、漱石のこの写 生文の視点が明確になっている。「視点の低さ は、子規や虚子の『低徊趣味』とつながってい る」という猪野謙二の指摘29) にあるように、
視点の大切な写生文では、映像芸術同様にアン グルが重要なことから「猫」を語り手として登 用させたにちがいなかろう。そして、「猫」が自 分を称するのに最も不似合いな「吾輩」を組み 合わせるという「意外性」で1文目を始めた。
「猫」が当時ちょうど家に住み着いていたとい う記述30) がある。その影響は描写表現にでる にちがいなかろうが、単に住み着いていただけ で語り手を決める漱石ではなかろう。
漱石は、「語り手」について「歴史的現在と 並立して吾人の注意を要求すべきは空間短縮法 にして」31) とする「空間短縮法」を『文学論』
で説明している。『文学論』は、明治36年9月〜
38年6月の英文学の講義を中川芳太郎に整理さ せて出版したものである。「猫」がナレーター になるという着想は『文学論』でも展開されて いる。
「思ふに普通の作物に在っては、著者の 紹介を待って始めて、篇中の事物、人物を 知るを例とす。著者の彼と呼び彼女と称す るものは必ず著者に対して一定の間隔を保
つを示すのもの、而して、其著者と吾人読 者とは亦一定の間隔に立つが故に、吾人と 篇中の人物との間には二重の距離を控へた るは明らかなり。(中略)是に由って是を 観れば空間短縮法の一方は中間に介在する 著者の影を隠して、読者と篇中の人物とを して当面に対座せしむるにあり。之を成就 するに二法あり。読者を著者の傍に引きつ けて、両者を同立脚地に置くは其一法な り。(中略)或は読者を著者の傍らに引く に代ふるに、著者から動いて篇中の人物と 融化し、毫も其介在して独存するの痕跡を 留めざるが如き手段を用ふ。比時に当って 其著者は篇中の主人公たり、若しくは副主 人公なり、もしくは篇中の空気を呼吸して 生息する一員たり」32)
さらに、「彼」や「彼女」という人称名詞に 下記のように言及し、「篇中の人物」の位置の変 更、すなわち、人称名詞が「彼」「彼女」から
「汝」そして「我」へと変化することが、作者 と読者との親密度を増し、読者との距離が最も 短くなることであると断言する。
「彼とは呼ばれたる人物の現場に存在せ ざるを示すの語なり。彼を以て目せられた る人物の、呼ぶ人より遠きは言語の約束上 然るなり。比故に彼を変じて汝となすと き、現場に存在せざる人物は忽然として眼 前に出頭し来る。然れども汝とは我に対す るの語なり。呼ぶに汝を以てするとき彼是 の間に猶一定の距離あるを免かれず。彼に 比すれば親密の度を加ふる事一級なるも遂 に個々対立の姿を維持するに過ぎず。只汝 の我に変化するとき、従来認めて以て他と せるものは俄然として、一体となって些の 籬藩に隔てらるる事なし」33)(下線は筆者)
「汝」と す る 方 法 は「所 謂 書 簡 文 体(Epis- tolary Form)」小説によって出現し、「読者は 汝と呼ぶ人を通じて、汝と呼ばれたる人と対 座」し、脚本においてはこの形式が十二分に首 尾よくいっていると記されている34)。
このように、人称名詞をどのように駆使する のかということが作家にとっては致命的であ る。『猫』が100年の歳月35) を過ぎても色あせな いという事実は、漱石が「吾輩」という人称を 紡ぎだし、「吾輩」に自由自在に「ことば」を 紡がせている文学性に由来している。
2文目の「名前はまだ無い」に関しては、「無 名性」がよく取りざたされるようである36)。通 常において「吾輩は」とくれば自己紹介するこ とを期待し、名前が明かされるはずなのだが、
「猫」という動物の種別が明かされただけであ る。「吾 輩」で も 名 前 を 明 か す 必 要 は 重 々 わ かっているのだが、明かせない。その理由は、
「まだ」という修飾語が「無い」という述語に くみあわせられていて、「言いたいのだがまだ 無い」というのである。「まだ」という副詞は 時間をあらわす副詞で、発話時を基準にして使 用される。あってしかるべき「とき」なのに
「まだ無い」のである。
「吾輩」に固有名詞である「名前」がまだつ けられていないということは、漱石の大きな意 図のひとつである。「〈他とのちがい〉をきわだ たせ、それが唯一無二である、特定の『もの』
につけた名づけ」37) が固有名詞だからである。
ナレーターとしての「猫」には、固有名詞はむ しろないほうがいい。第1部に登場する人物に は、下女の「おさん」を除いて名前がついてい ない。名前は名づけ親なくしては存在しないの だ。他の人物には、「書生、主人(教師)、子供、
細君、友人(美学者)、車屋」という「ひと名 詞」や「職業名詞」がつけられている。また、
猫には、「白君」や「黒」という体の特徴を表 す名前がある。「吾輩」がつけたものである。
これは、「隣の猫」とか「車屋の猫」という客 観的な呼び名よりも、ずっと「吾輩の命名」だ という響が濃厚である。このような「ひと名 詞・職業名詞」は、「固有名詞的な名詞」38)であ る。「ある境遇のもとでは、固有名詞に準じて 使用される」39) のである。だから、境遇の設定 が意味をもつことになる。
『猫』が『アララギ』という仲間うちの発行 雑誌に掲載予定であり、しかも、「山会」とい う研究会で朗読されたという性格を考えると頷 けるものがある。滑稽感もコミュニケーション も意思疎通の深さが深いほど重厚になる。固有 名詞をつけるまでもなかったのである。普通名 詞で足りる趣向と指向・思考を兼ね備えたメン バーが参集している「山会」でのデビューは漱 石にとって幸いであった。そしてまた、その時 代の社会的成熟度も、『猫』を受け入れるほど に熟していたことが窺える。
Ⅱ 2
. 『猫』第1部第2段落前半第1部第2段落前半はつぎの文章である。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何 でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー 泣いていた事だけは記憶している。吾輩は ここで始めて人間というものを見た。しか もあとで聞くとそれは書生という人間中で いちばん 獰 悪 な種族であったそうだ。この
どう あく
書生というのは時々我々をつかまえて煮て 食うという話である。しかしその当時は何 という考もなかったから別段恐ろしいとも 思わなかった。ただ彼の手のひらに載せら れてスーと持ち上げられた時何だかフワフ ワした感じがあったばかりである。
3文目は、自己紹介の例40) に漏れず、「生ま れ」を明かすのだが、これも氏素性がわからな いから、「どこで生れたかとんと見当がつかぬ」
になる。元来「吾輩はどこで生れたかとんと見 当がつかぬ」とすべきところ、この文には主語 が省かれている。この主語の省略は通常ダイア ローグの場面に多く、『猫』が「読み手」に直 接語りかけているように思わせる巧妙な手法で あろう。読み手と猫が対峙し、語りかけられて いるような錯覚に陥る。「どこで生まれたか」
は「見当がつかぬ」という述語の補語になって いる。「見当がつかぬ」は、2
単語がくみあわせ
られた「あわせ部分」で述語の部分になってい る。例えばつぎの2文はその部分のくみあわせ が異なっている。
① 太郎は やさしい 学生だった。
② 太郎は やさしい性質だった。
①②はともに、「太郎は」が主語なのだが、
①の述語は「学生だった」で、「やさしい」と いう規定語で文を拡大している。②の述語は、
「性質だった」ではなく、「やさしい性質だった」
である。これが「あわせ部分」である。「見当 がつかぬ」は、②と同様であろう。「とんと」は、
「ちっとも・すっかり・まったく」と類義だが、
「見当がつかぬ」という「現実認識的なムード の程度」を強調している語である。「まったく 見当がつかぬ」よりもユーモアを醸し出してい る。「とんと」は、日本昔話などでよく使用され ている語でもある。
4文目の「何でも薄暗いじめじめした所で ニャーニャー泣いていた事だけは記憶してい る」は、「とんと見当がつかぬ」とはいうものの、
「〜だけは記憶している」と、吾輩の面目を保っ ている。しかし、あやふやであることをあらわ しているのが、「何でも」である。「何でも」は
「〜らしい」というコピュラ41) とくみあわせら れる陳述副詞(ムード副詞)である。「〜らしい」
は「推定」をあらわす。しかし、この文では
「らしい」が記されていない。「推定」ではなく、
述語が「記憶している」と断定した表現を使っ ている。「あやふやさ」と「断定」とが無理や りにくみあわせられていて、「吾輩」の尊大さを 表現しているといえる。しかし、記憶している 情報内容、すなわち「何でも薄暗いじめじめし た所でニャーニャー泣いていた事だけは」を分 析すると、「薄暗いじめじめした所で」という、
「薄暗い」と「じめじめした」という規定語と くみあわせられた「所で」という状況語(場所)
と、「ニャーニャー」という情態副詞(オノマ トペ[擬声語])とくみあわせられて「泣いて いた」というのである。「泣いていた」は、「泣 く」という動作動詞が「シテ形42) の過去」と
くみあわせられて、継続相のアスペクトをあら わし、テンスでは過去をあらわしてペーソスを 誘いだしている。それを「〜事だけは」という
「は」によってとりたてるので、ペーソスと笑い がない交ぜになる。「薄暗い・じめじめした・
ニャーニャー・泣く」という4単語と「吾輩」
とが、ちぐはぐなために生みだされる妙味なの である。
そして5文目で、「吾輩はここで始めて人間 というものを見た」として、人間との遭遇場面 に転ずる。「ここで」と「始めて」は、場所と 時間の状況語で、前文の暗いじめじめした場所 が「人間というもの」との遭遇場面になるので ある。ここでは、「人間を」ではなく「人間と いうものを」を使っている。「〜というものを」
という表現は、「人間を」とくらべると、「未知」
のものごとを補語にするばあい使用する頻度が 高いといえよう。説明する必要があるので使用 するのである。「猫」の視点であることを読み 手に意識させることになる。
それは、6
文目「しかもあとで聞くとそれは 書生という人間中でいちばん獰悪な種族であっ たそうだ」へと続く。「しかも」は、「並立」の 接続詞である。「並立」の接続詞は、「まえの文、
または語へのつけくわえやおぎないであること をあらわす」43)のだから、前文の「人間という もの」が、詳細に説明されることになるのであ るが、「あとで聞くと」という挿入句が入り、
「〜そうだ」という「伝聞」をあらわす述語文 になっている。「書生という」「人間中でいちば ん獰悪な種族であった」という表現は、「獰悪 な」というむずかしい漢語表現の規定語が用い られ、「荒々しさ」が勝っている。そして、「い ちばん」や「種族」という表現では、「書生」
以外の「種族」の存在を匂わせ、これも「猫」
の視点から観る分類の滑稽さを表現している。
「書生」という語は、近代をよくあらわしている ことばである。現代通常は使用されないのだ が、「書生のようにちょろちょろしやがって」な どと使う人がいる。漱石の家にも旧制第五高等
学校出身の「書生」が下宿していた。
第7文目の「この書生というのは時々我々を つかまえて煮て食うという話である」では、「そ の」や「あの」ではなく、「この」という指示 代名詞を使用し、読み手にはまだよく理解され ていないと認識させる表現を使っている。そし て、「書生というのは」は、「人間というものを」
の表現と同様、説明をしっかりしなければ「書 生は」だけでは、まだとりたてることができな いことをあらわしている。「我々をつかまえて 煮て食うという話である」と「我々をつかまえ て煮て食う」を比べてみると、「話である」が 付いていると、「伝聞」が明らかになる。それも
「時たま」でもなく「時おり」でもなく「時々」
であり、「獰悪な種族」であることの説明になっ ている。
第8文目の「しかしその当時は何という考も なかったから別段恐ろしいとも思わなかった」
では、「しかし」という逆説の接続詞が旨く機能 している。この文は、複文であり、先行節が
「〜から」という原因や理由をあらわす状況語節 になっている。「その当時は何という考もな かったから」と、「吾輩」の考えを表現し、後 続節「別段恐ろしいとも思わなかった」の主観 的な理由になっている。この文が、「ので」で結 びつけられないのは、「ので」節になると客観的 な関係性が強くなるからである44)。「その当時 は何という考もなかった」のは、「我々をつかま えて煮て食うという話」を聴く以前であったこ とを示している。「別段恐ろしいとも思わな かった」という表現は、「別段」という「評価 副詞」を用いて「吾輩」の価値評価をあらわし ている。すなわち、「書生」に対して「何とも 思わなかった」ことを強調している。書生が猫 をつかまえて食うという話などは、山会のメン バーには具体的にイメージできて愉快だったに ちがいない。
第9文目は、「ただ彼の手のひらに載せられ てスーと持ち上げられた時何だかフワフワした 感じがあったばかりである」だが、この文は
「ときをあらわす状況語節」をもつ複文である。
この文では、先行節は、うけみ構造になってい て、「スーと」彼に持ち上げられたのであり、そ して、その後続節には「フワフワした」という オノマトペが使用されて「吾輩」のその時の感 じが表出されている。漱石が『文学論』で「感 覚上の経験が文学的内容の重要項目を構成する ことは疑いもなき事実なり」45) と記しているこ と の 証 左 に な る 表 現 で あ る。「触、温、味、
嗅、聴、視の六種」が文学内容にとって重要で あることは、英文学を修めた漱石にとって自明 なことであった。ここでは、「触」の感覚を中心 に「ただ〜フワフワした感じがあったばかりで ある」と表現されている。「ただ」は、「とりた て副詞」で、「ばかり」とともにくみあわせられ、
「フワフワした感じが」だけをとりあげる。前 文から類推される他の「感じ」つまり、「恐ろ しい感じ」とか「獰悪な感じ」などを排除し、
前文を補強している表現である。「ただ」の位 置が初頭にきているのは、「何とも思わなかっ た」を早く打ち消したいという思いを表現する 意図が漱石にあったためであろう。
Ⅱ 3
. 『猫』第1部第2段落後半第1部第2段落後半はつぎの文章である。
手のひらの上で少し落ちついて書生の顔 を見たのがいわゆる人間というものの見始 めであろう。この時妙なものだと思った感 じが今でも残っている。第一毛をもって装 飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで 薬 罐 だ。その後猫にもだいぶ会ったがこんや かん な 片 輪 には一度も出くわした事がない。の
かた わ
みならず顔の真中があまりに突起してい る。そうしてその穴の中から時々ぷうぷう と煙を吹く。どうもむせぽくて実に弱っ た。これが人間の飲む煙草 というものであ
た ば こ
る事はようやくこのごろ知った。
第10文目は「手のひらの上で少し落ちついて 書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの
見始めであろう」だが、この文は、「〜のが、
〜であろう」という「のだ文」を主語にもって きて説明調の文にしている。通常は、「人間と いうものの見始めは、手のひらの上で少し落ち ついて書生の顔を見たときだろう」といった文 であろう。それが、「手のひらの上で少し落ち ついて書生の顔を見た」を強調するために、主 語でさしだしている。述語は推量のかたちに なっていて「猫」の認識の曖昧さを表現してい る。「手のひら」という語は、前文でも使用され ていて、作者にとって重要な語だということが 窺える。つぎの3段落の1文目にも「この書生 の手のひらのうちで」と用いられている。最初 が「手のひらに」で、つぎが「手のひらの上で」
で、最後が「手のひらのうちで」というふうに、
場所をあらわすニ格・デ格だけではなく、「の 上で」「のうちで」といった「吾輩」(自分)の 位置を特定する場所詞を用い、述語の「落ち付 いて」や「座っておった」の意味を詳しくして いる。いずれにしろ、「手のひら」という場所の 居心地よさが伝わってくる表現なのである。そ れは、「薄暗いじめじめした所」とはまったく異 なった場所としてあらわされている。4
段落で は、「藁の上」や「笹原の中」という場所の状 況語がでてくるのだが、そのような場所と比較 すると「手のひら」が3度まで用いられている ことが明らかになろう。「人間の手のひら」は
「猫」にとって「少し落ち付」ける場所だった のである。
第11文目「この時妙なものだと思った感じが 今でも残っている」であるが、この主語節には、
主語も補語もない。「吾輩は」という主語と、
「書生の顔を」という補語が省略されている。
この省略によって、「妙なものだと思った感 じ」だけが印象付けられる。「少し落ち付いて」
見たら、書生の顔は「妙なものだ」ったのであ る。「今でも」は、「でも」によるとりたてで、
はなはだしい例をあげる用法であるから、「こ の時」はもちろんであるが、「今」にいたって もそのときの印象が残っているということを強
調している。「残っている」という継続相のアス ペクト使用で持続過程を表現しているのである。
第12文目「第一毛をもって装飾されべきはず の顔がつるつるしてまるで 薬 罐 だ」は、前文をや かん 受け、「妙なもの」の説明をしている。「第一〜
だ」という自分の判断の理由付けをしている名 詞述語文である。「まるで」という陳述副詞を 用いて、顔を薬罐にたとえている。「まるで」
は、比況の陳述副詞だが、「ようだ」とのくみ あわせがない。だが、「第一」という副詞と対応 し、「薬罐だ」と決めつけた口調が「妙なもの」
と符合していて滑稽感をかもしだす。「つるつ るして」というオノマトペ[擬態語]を修飾語 として、「薬罐」を名詞述語に使用したところが 庶民的生活を連想させ身近な笑いを誘うのであ る。また、「顔」の規定語が、「毛をもって装飾 されべきはずの」であるから、「猫」の視点が 明示されているのである。「はずの」は、形式名 詞のノ格で、「当然そうなるであろう」という表 現である。「毛をもって装飾されべき」という 表 現 に お い て は 、「 毛 を も っ て 」 は 「 毛 で 」 という表現よりもおおげさな「格的な意味をも つ後置詞」46) であり、漢語表現で仰々しい「装 飾されべき」とうまく対応し、それがまた傑作 な感じを読み手に抱かせるしくみになってい る。
第13文目「その後猫にもだいぶ会ったがこん な片輪には一度も出くわした事がない」におい て、「その後」は、2
文前の「この時」に対応 する状況語である。この文は、くいちがうこと をふたつならべた重文である。「会った」と
「出くわした」は類義語であり、先行節は肯定 形、後続節は否定形を使用している。しかも先 行節では、「だいぶ」という程度副詞で「猫に 会った」回数を強調し、後続節では、「一度も」
という陳述副詞で「ない」ことを強調している。
この対応が重文使用の効果をあげている。さら に、「猫にも」は、「猫に」ではなく、「猫」以外
=人間にはもちろん会っているがと「猫にも」
と、とりたての格「も」をわざわざくわえ、滑
稽感をだしている。「人間にはもちろんあって いる」という言外の意味が不自然でおかしい。
「片輪」は差別用語であるが、文学作品ではわざ わざ使用するばあいがないわけではなかろう し、時代状況の反映でもある。前文の「顔」を 規定していた「毛をもって装飾されべきはず」
ということばが「猫」の視点であることを明ら かにしている。この表現は、「ことば」が認識を 表現していることの証左であろう。
第14文目「のみならず顔の真中があまりに突 起している」では、「のみならず」という明治 時代でさえ古典的であろう和語を使用し、「妙 なもの」の説明がつづき、「顔の真中が突起して いる」というのである。しかも、「あまりに」
である。「あまりに」は、「すこし・だいぶ・う んと・ずいぶん・ひじょうに」などと類義語関 係にある程度副詞である。これらの副詞も話し 手の判断をあらわしていて、「吾輩」の突起の基 準に照らして「あまりに」なのである。「突起 している」も漢語表現で、通常、動物の「顔の 真中のもの=鼻」をあらわす表現ではない。こ の誇張された漢語表現が、「妙なもの」という印 象を表現するのにぴったりなのである。しかも
「突起」ということばは、科学的な用語であるか ら「猫」が使用しているのもユーモラスである。
第15文目「そうしてその穴の中から時々ぷう ぷうと煙を吹く」においては、「そうして」と いう契機の接続詞を用いているのだが、何かで きごとが前文にあるわけではない。ただ、「突 起」物を連想させておいて、「その穴の中から」
と続いているだけである。「時々」「ぷうぷうと」
がまたユーモラスである。「ぷうぷう」という オノマトペ[擬声語]は、通常、楽器の音をあ らわすが、煙は音が出ないものであるにもかか わらず、音(擬声語)で「煙を吹く」という述 語をくわしくあらわしているのは、子猫の思考 にふさわしく幼稚で滑稽である。幼児の日本語 表現47) にことさら興味をもっていた漱石なら ではの使い方であろう。「穴の中から煙を吹く」
は「穴から煙を吹く」よりも、「吹く」空間が
広がる表現である。何か機械的な突起物の穴の 中のほうから煙が音とともに吹きあがるような イメージを読み手に与える。この文は「猫」の 視点を強調した表現になっていて、後文の原因 をあらわしている文である。
第16文目「どうもむせぽくて実に弱った」に おいては、「どうもむせぽくて」は、「実に弱っ た」の原因である。形容詞のテ形は、「から」
や「ので」よりも自然な理由表現である。「ど うも」は非常に多くの意味をもった陳述副詞だ が、ここでは、推定のムード副詞ではなく、「ど うも〜ぽい」という表現から評価的な副詞と いっていいだろう。「むせぽくて」や「弱った」
という語が、子猫のひ弱さをあらわしている。
第17文目「これが人間の飲む 煙草 というもの
た ば こ
である事はようやくこのごろ知った」における
「これが」という指示語によって、はっきりと指 示された語は見あたらない。しいていえば、
「むせぽい煙」といったところであろう。「人間 の飲む 煙草 というものである事は」は、本来た ば こ
「知った」の補語であり、「人間の飲む 煙草 とい
た ば こ
うものである事を」というヲ格になるべきであ るが、それを「は」で「とりたて」ている。「よ うやく」は、「知った」を修飾する副詞で、「やっ と」と類義語関係にあり、「待ち望んでいた事態 が長い時間かかったが実現した」ということを あらわし、「妙なもの」から吹きだす「むせぽ い」ものの正体を知りたかったことを表現して いる。「このごろ」は、ときをあらわす状況語 で、第8文目の「その当時は」という状況語に 対応して時間の経過をあらわしている。
Ⅲ. 語彙・文法分析
Ⅲ 1
. 「文の部分」構成Ⅱで具体的に見てきた第1文から第17文まで を「文の部分」の構成という視点から筆者が分 析したのが表4である。
表中の数字は、それぞれの「文の部分」の数 である。○は単文・複文の別である。「重」は 重文の意味である。
表4 『猫』導入部の「文の部分」構成
複
文 単
文 題 目 語 側 面 語 独 立 語 陳 述 語 規 定 語 状 況 語 修 飾 語 補
語 述
語 主
語 文 番 号
○ 1
1 1
○ 1
1 1 2
○ 1
1 1 2
3
○ 1
1 2 1 1 1 2 4
○ 1
1 1 1 1 5
○ 1
2 2 1 2
1 6
○ 1
1 1
1 1 7
○ 1
1 1
1 2 2
8
○ 1
2 3
1 2 1 9
○ 3
1 2 1 2 1 10
○ 1
1 3
1 11
○ 1
1 3
1 1 12
重 1
1 2 1 1 2 2 13
○ 1
1 1
1 1 14
○ 1
1 2
2 1 15
○ 1
2 1
16
○ 1
1 1 3
1 17
9 8 5 1 4 6 15 10 24 9 28 10 合計
わずか17文の「文の部分」にすぎないのだが、
4表において、明らかなように修飾語の多さが 目立つ。修飾語とは、本稿の文法では形容詞や 副詞で作られた「文の部分」で、述語の状態や ようすを詳しくした部分のことである。また、
オノマトペが4文目の情態副詞をはじめ、程度 副詞、時間副詞、陳述副詞(ムード副詞、評価 副詞、とりたて副詞)などとしてちりばめられ ている。それが、「猫」の語りに独自の視点をも たせることになり、それがまた読み手に漱石の 描いた世界をイメージさせやすくする吸引源に なっているのであろう。規定語(名詞を修飾す る語:どんな)よりも修飾語(述語《動詞・形 容詞・コピュラ》を修飾する語:どのように)
のほうが多いという点に、語り手の視点や性格 を活き活きと描き出し、動的でスピード感のあ る表現を好む漱石の特徴がでていて、それが読 み手を魅了するのだといえる。また、題目語に よる「とりたて」で文にバラエティをもたせて いる。
Ⅲ 2
. 述語の品詞構成(文末表現)述語の品詞は動詞・形容詞・名詞の3種類で ある。日本語は文末が単調で韻も踏まず雑駁な 言語であるように考えるむきが多いが、漱石の
『猫』に文末の単調さはみられない。下記の表 5のとおりである。
膠着語の文は述語が文末にあるのは必然的で いたしかたがない。動詞が「ウ」「ル」「タ」「ヌ」
「ウ」という音で終わり、形容詞が「イ」「ダ」
「タ」である。「タッタッタッタ」とタ形がつ づく妙味もないではないが、変化の点では見劣 りがするのである。ことばの基本を「音声」に 置いた漱石は多種多様に文末表現をつかいこな している。文末表現に多様な品詞と活用を自由 自在に使いこなし、みごとに変化させている。
連続して同じ音を繰り返していないのである。
それが動的なリズムを作りだしている。朗読で 好評を得たことが納得できる。
表5 『猫』導入部17文の述語の品詞構成(文末表現)
名詞(コピュラ)
形容詞 動詞
文番号
断定・非過去・みとめ形(である)
1
否定(ない)
2
否定(つかぬ)
3
第二なかどめ(している)
4
過去形(見た)
5
断定・過去・みとめ形(であったそうだ)
6
断定・非過去・みとめ形(である)
7
過去形(思わなかった)
8
断定・非過去・みとめ形(である)
9
推量・非過去・みとめ形(であろう)
10
第二なかどめ(残っている)
11
断定・非過去・みとめ形 12
否定(ない)
13
第二なかどめ(している)
14
非過去形(吹く)
15
過去(弱った)
16
過去形(知った)
17
6文 3文
8文 合計