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松 山 雄 三

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(1)

Fr.シラー:人間形成論の胎動

松 山 雄 三

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.生の基本理念

Ⅲ.中間力の思想

Ⅳ.演劇使命論

Ⅴ.むすびに

Ⅰ.はじめに

フリードリヒ・シラー(Schiller, Friedrich 1759 - 1805 )は、生涯に亘る多 様な文化活動を通じて、生の荒波にもまれて苦悩する人間の心に分け入り つつ、理想の人間像と理想の郷

さと

を求めて、自他の人格形成に絶えず努める。

特に、人格の育成と美の問題を結び付けて説くところに、シラーの人間形 成論の特徴が窺える。そのシラーの思想傾向を概観するとき、大きく二つ に分けることができる。その一つは、青少年期、特にカール学院在学中

( 1773 - 80 )に、シラーが敬虔で道徳的な啓蒙思想を抱いていたことである。

シラーは、人間の使命として、自然界に分散して配されている神の意思

(原理)を読み取り、完全なる神を理想像として人格の形成に不断に努め

ながら、社会的な存在として隣人愛に基づく他者との協調的な生の構築を

訴える。しかも、当時、支配的であった主知主義的・合理主義的な思潮に

抗して、感覚の復権を果たした上で、道徳的な精神の育成を、シラーは説

く。また、若いシラーの思想形成の跡を探るとき、シラーの知的関心を惹

いた『道徳哲学の原理』

1

Grundsa

..

tze der Moralphilosophieと題する書物の存

在を看過することはできない。この書物はイギリスの道徳哲学者 A. ファー

(2)

ガスン(Ferguson, Adam 1723 - 1816 )によって書かれ、そしてドイツの啓蒙 主義哲学者 Chr.ガルヴェ(Garve, Christian 1742 - 98 )によってドイツ語に翻 訳され、かつ詳細な解説が付されている。その解説は Chr.ガルヴェによる

「A.ファーガスン論」を介した彼自身の「道徳哲学論」ともいうべきもの になっている。

他の一つは、壮年期に、シラーが I.カント(Kant, Immanuel 1724 - 1804 ) の哲学思想から強い影響を受け、まもなく、カントの批判哲学思想との対 決と凌駕の試みのうちに、独自の人間形成論を構築していることである。

シラーは、 1787 年にカントの歴史哲学論文

2

に触れたことを契機としてカ ントの歴史哲学の思想に惹きつけられ、さらに 1790 年代前半からは『判断 力批判』Kritik der Urteilskraft( 1790 )をはじめカントの批判哲学の研究に 没頭する。ただし、カントの道徳的な哲学思想がシラーの知的関心を強く 惹きつけたのは、決して唐突なことではない。シラーは、青少年期に受容 した道徳哲学と通俗哲学の思想が孕む幸福主義的・完全主義的な道徳理想 を、認識の原理、存在の原理へ高めるために、理論的な反省の場として、

カントの批判哲学、特に自律概念と趣味判断の思想を受容し、さらに単な

る模倣的な受容に終わらせることなく、カントのリゴリズムに異議を呈す

るとともに、独自の美学論を構築してゆく。特に、シラーは、カントが説

く理論理性と実践理性の概念規定だけでは満足できずに、第三の理性とも

いうべき美的理性について考察を深め、かつ客観的な美についての概念の

定立を試み、さらに道徳性を内在する美的な教養の形成を求める人間形成

論を築き上げてゆく。また、この時期に、シラーは J.G.フィヒテ(Fichte,

Johann Gottlieb 1762 - 1814 )の自我の哲学と相互作用論に触れたことによっ

て、青年期から抱懐してきた思想、つまり感覚と精神、感性と理性を仲介

する中間力の理念、そして感性的なものと理性的なものの混和からなる中

間的状態の思想をさらに深化させ、彼の美的な人間の形成論を一層膨らま

(3)

せることができたのだった。

シラーがその生涯を賭して追究する生の課題は、『道徳的機関としてみ た演劇舞台』

3

Die Schaubu

..

hne als eine moralische Anstalt betrachtet( 1784 )の 結びの言葉で簡明に述べられているように、 「人間であること」 (NA 20 , 100 ) の真理を解明し、人間本来の生のあり様、心意の状態に至れるように、自 他の人格形成に努めることにある。そしてシラーにとって「人間であるこ と」とは、古代ギリシャ人の心のあり様に等しい心意状態で生を「遊ぶ」

4

ことを意味する。理性の覚醒とともに心意に分裂をきたしてしまった近代 人とは異なり、人間的な本性そのままに、素朴な心意状態を保っていた古 代ギリシャ人を、シラーは理想の人間像として掲げる。ただし、シラーが 掲げる古代ギリシャ人の形姿は、歴史的事実にとらわれることなく、詩的 想像力によって造形された世界像に基づくものである。人類の文化精神の 発展過程について、シラーはカントの歴史哲学思想の受容を経て、歴史の 現実に左右されることなく、人類の精神的発展の理念に照らし合わせて、

あらねばならない人類の文化精神のあり様を類推するという目的論的な考 察姿勢に学的確信を寄せるが、カント体験以前の青年期においても、心の 内奥に宿す詩的想像力によって、詩的真実を内包する世界像を描き出す。

シラーは、近代人としての自覚から、古代ギリシャ人とは別様のあり方で

理想の心意状態を追求せざるを得ないという認識に立つ。しかも、文化精

神の発展の過程で避けがたく喪失してしまった素朴で人間的な心意状態

を、ただ空しく憧憬するのではなく、無限な飛翔を可能にする観念の力に

よって、永続的な純化の果てに、古代ギリシャ人の心意状態を凌駕する至

高の境地に達する道を、シラーは追い求める。晩年のシラーの論文『素朴

文学と情感文学について』U .. ber naive und sentimentalische Dichtung( 1796 )

で説かれているように、「もはやアルカディアに戻ることができない人間

を、エリュシオンにまで導く」(NA 20 , 472 )道を、シラーは追い求める。

(4)

そこで、本論においては、シラーの人間形成論構築の流れを明らかにす るために、その萌芽期ともいうべき多感な青少年期のシラーの世界観、人 間観について考察を加えたい。

Ⅱ.生の基本理念

所謂カント体験以前のシラーの世界観、人間観を支えているものは、シ ラーの故郷シュヴァーベン地方で静かに浸透していた敬虔主義的な宗教観 Pietismus であり、

5

そして前項で述べたように、Chr.ガルヴェの仲介によっ てドイツ思想界に伝えられたイギリスの A.ファーガスンの道徳哲学、さら に Chr.ガ ル ヴ ェ も そ の 一 人 に 数 え ら れ る が 、 M.メ ン デ ル ス ゾ ー ン

(Mendelssohn, Moses 1729 - 86 )や J.G.ズルツァー(Sulzer, Johann Georg 1720 - 79 )等に代表されるドイツ通俗哲学者によって説かれた啓蒙主義思 想である。

6

それ故、シラーが述べる楽観主義的で汎神論的な世界観は、A.

ファーガスンに思想的な影響を与えたシャフツベリー(Third Earl of Shaftesbury 1671 - 1713 )や、ドイツ通俗哲学者に感化を及ぼしたライブニ ッツ(Leibniz, Gottfried Wilhelm 1646 - 1716 )とヴォルフ(Wolff, Christian 1679 - 1754 )の思想を継承している面も窺える。

前項では概説的に述べたに過ぎないので、この項では若いシラーの世界

観と人間観について、詳しく考察することにする。若いシラーの世界観と

人間観を支えているものは、 「幸福への愛」 (Liebe zur Glu

..

ckseligkeit NA 20 , 3 )

の哲学と、人格の究極的な陶冶を目指す「完全性」(Vollkommenheit NA

20 , 11 )の思想である。シラーは神に寄せる敬愛の念を縦軸に、そして同胞

に寄せる愛を横軸とする敬虔で幸福主義的な世界像を抱懐している。物質

界の秩序を維持する原理(引力)があるように、精神の世界においても

個々の精神的存在を相互に結び付けまとめる原理があるはずだとして考察

が深められ、魂と魂を結ぶ「偉大な絆」(NA 20 , 32 )としての愛の働きが

(5)

説かれる。また、完全性の思想に関して特徴的なことは、神の完全性に等 しい精神形成を目指す「神的相等性」(Gottgleichheit NA 20 , 10 )の理念が 主張されていることにある。これらの思想は、二篇のフランチスカ献辞

7

と最初の卒業論文『生理学の哲学』Philosophie der Physiologie( 1779 )に、

顕著に窺うことができる。因みに、ヴュルテンベルクの領主カール・オイ ゲン公(Carl Eugen 1728 - 93 )の厳命により、シラーは抑圧的な軍人養成所

(後、カール学院と改名)で、 13 歳から 21 歳までの多感な若い時期を過ご さなければならなかった。この軍人養成所では、馬術や剣術といった軍事 教練のほかに、フランス語、宗教学、道徳学、ダンス、音楽等、一見する と教養の醸成に資する科目も教授されたが、あくまでも、君主に忠実な官 吏や士官を養成するためであって、知的教養の育成が目指されたのではな かった。ただし、シラーにとって幸いであったことは、J.F.アーベル

(Abel, Jakob Friedrich 1751 - 1829 )や J.Chr.シュヴァープ(Schwab, Johann Christoph 1743 - 1821 )等の敬虔で啓蒙主義的な、かつ自由な思考を重んじ る気鋭の教授陣に恵まれたことだった。

8

シラーは、厳格な規律の遵守を 強要する軍人養成所での生活のなかで、偏狭で専制的な統治思想に反感を 覚えるとともに、人間性豊かな教養思想の下地を培っていったのだった。

そしてシラーは、軍人養成機関での抑圧的な生活のなかから、自由への 憧れを、作品のなかに織り込んでゆく。その最初の顕現が、作家シラーの デビュー作となった『群盗』Die Ra

..

uber( 1781 )に窺える。ただし、『群盗』

をはじめ、青年期シラーの作品において、精神的にも肉体的にも、自由な 生を奪還するための闘いに向けた熱い決意が語られるとともに、主人公の 青年たちによって破壊された社会秩序の回復が暗示的に要請されている。

シラーが青年時代に創作した戯曲に登場する主人公たちは、彼らを取りま

いている社会から受ける不条理な圧迫や人々の心の腐敗を憤り、自分の情

熱が駆り立てるままに非情な社会体制とそこに安住する者に対して、失わ

(6)

れた人間性の回復を旗印に果敢な闘いを展開する。しかし、彼らは純粋で 偉大であろうとする余りに、自覚がないままとはいえ、神の代行者を勝手 に務めてしまう。しかも、そのような越境行為は、往々にして、人間に課 せられている職分を踏み外してしまうために、彼らの意に反して、固陋な 社会や慣習とは異なるかたちで、人間性を傷つけてしまうことになる。彼 らが心ならずも犯してしまう勇み足は、彼等自身のみならず、彼等の家族 や友人をも悲劇的な状況に陥らせることになる。確かに、私たちは、彼ら の行動に対しては共感を覚え、彼らが陥る悲劇的な結末に対しては心から の同情を禁じえない。しかし、私たちは共感と同情に酔いしれているだけ ではいけない。登場人物たちは私たちに代わって破滅の奈落に沈んでゆく のであるから、私たちは彼らに代わって、シラーが教示する社会的な存在 としての人間のあり様を学び、人間的な生の構築を目指さなければならな い。若いシラーの戯曲においては、活劇風の勧善懲悪劇が惹起する痛快さ や小気味よさにのみ心を奪われるのではなく、破壊のなかから創造しなけ ればならない<生みの苦しみ>を読み取りたいものである。

そこでまず、若いシラーが抱懐している愛の哲学について考察を加える ことにしたい。シラーは、『生理学の哲学』で次のように述べる。

「愛、人間の魂のなかで最も美しく、最も高貴な衝動、感受する人間と 人間を繋ぐ偉大な鎖、それは私自身と隣人の存在の交換以外のなにもので もない。そしてこの交換が喜びである。それ故、愛は隣人の楽しみを私の 楽しみにし、彼の苦痛を私の苦痛にする。」(NA 20 , 11 )

「愛は魂と魂を結び付ける。愛とは、無限な創造主を有限な被造物のと

ころに導き、また有限な被造物を無限な創造主のもとへ高める。愛は、限

り無い精神の世界をただ一つの家族にまとめ、無数のものを、万物を愛す

(7)

る父なる神の息子に育てあげる。愛とは被造物のなかで息づく第二の生命 である。愛とは、あらゆる思惟するものを相互に結び付ける偉大な絆であ る。」(NA 20 , 32 )

シラーが「愛」を、創造主を頂点とする精神の世界において、無限な創 造主と有限な被造物、そして被造物と被造物を相互に結び付ける「偉大な 絆」(NA 20 , 32 )と呼んでいることについては既述したが、さらにこの偉 大な絆は、「感受する人間と人間」(NA 20 , 11 )、そして「あらゆる思惟す るもの」(NA 20 , 32 )を結び付けると説かれる。つまり、愛は感性界でも 理性界でもその作用を発揮する、と見做される。ここで、若いシラーが、

愛は感性と理性という相反的な二元の世界にかかわりなく、あるいは二元 の世界を超え出て作用を及ぼす、と捉えていることを念頭に留めておきた い。シラーの思考が求めるところは、対立的な二元の一方の強調ではなく、

あるいは相反的な二元の弁証法的止揚を目指すのでもなく、二元の調和的 な混和にある。もちろん、シラーの混和的な思考傾向は安直な折衷主義的 なものではなく、二元それぞれの個性的なものを生かしつつ両者の融和的 な統合を目指す論理であることを理解しておかなければならない。シラー は第三の卒業論文『人間の動物的本性と精神的本性の連関についての試論』

で「人間は精神と肉体とではなくして、この二つの実体の極めて緊密に混 和されたものである」(NA 20 , 64 )という人間観を明らかにするが、シラ ーにとって、人間とは、感性的な存在のみでもなく、また理性的な存在の みでもなくて、感覚と精神の混和体、感性的即理性的な存在である。二元 的なものの究極の混和に存在の完全性をみていることが窺える。これは、

対立的な二元、あるいは対立的な多元の止揚の果てに、より高次の第三の 存在を打ちたてようとする弁証法的な考察とは異なる考察姿勢といえる。

実は、このように、調和の取れた混和状態を求める思考から、後にカント

(8)

体験を経て、道徳性を内在する美的な教養精神の育成を求める人間形成論 が生み出されることになる。

また、シラーの幸福主義的な思想は、個人の幸福より全体の幸福の優先 を安易に唱えるのではなく、個性の尊重のうちに、個性と普遍的人間性の 結合をもたらす包摂的な愛のあり様を説く。個の存在的意義を確保してお かないと、全体に対する無私的な奉仕の強要思想が躍り出ることになる。

私たちは歴史的な苦い経験から、歪曲することなく、シラーの幸福主義的 な世界観を捉えておかなければならない。さて、シラーが説く愛は、自己 を他者のなかに投入し、その他者のなかに自己の存在を確認できる自他超 越の歓喜を惹起する。つまり愛は、自己を放棄するのでもなければ、自己 を他者に譲り渡すのでもなく、他者の幸福な生の構築のために寄与する自 己を発見する喜びに通じる。「それ(愛)は私自身と隣人の存在の交換以 外のなにものでもない。そしてこの交換が喜びである」(NA 20 , 11 )と説 くシラーの言葉を、今一度噛み締めておきたい。しかも、自らが他者、全 体のなかに没入するということは、自己の完全なる精神の形成によって、

初めて成就できるのであるから、それは自己の人格的完成にも通じる、と シラーは説く。また、既に概略的に引用した言葉であるが、シラーは

「諸々の(物質)世界を順次にめぐらせ、太陽を永遠の鎖に繋ぎとめる万 有引力が物質界において働いているように、精神の世界においてもそれに 劣らず普遍的な愛という絆が存在する」(NA 20 , 32 )と愛を位置づける。

つまり、普遍的な愛の力によって結び付けられ、まとめられる体系的な秩

序のもとに、シラーは人間の個別的な存在性を尊重しつつ、その個別的な

存在性を普遍的存在性へと融和させてゆくことを要請する。E.カッシーラ

ーは、シラーの愛の哲学に、物質界と精神界という相違を越えて、宇宙全

体、自然全体を支える構成秩序の原理を看取して、次のように指摘する。

(9)

「神的な芸術家の心が私たちにとって最も純粋なかたちで感じられ、は っきりと知られるところは、個別的な存在者の直接の生ではなくて、それ らが結び付けられ、まとめられた体系的な秩序である。この秩序は、物質 界では万有引力という現象において、精神界では愛という現象において、

私たちの前に現れる。自然的な存在の領域では、物質のどんな部分でも、

普遍的な法則に従って、宇宙全体につながっているように、心の領域では、

各個人が自分自身を越えて、万有の感情によって貫かれることを求める。」

9

ライブニッツの世界解釈と同様に、シラーにとって世界というものは、

その根源に個人の生の原理に通じる原理を持ち、しかも人間のみならず、

諸々の個的存在を調和的に包摂する一つの体系として現れる。そしてシラ ーは、諸々の個別的な力の間に均衡ある秩序を見出すことによって、そこ に万有の神性の顕現を捉えようとする。人間個人にとっての最も崇高な存 在的意義とは、自分を他者に、究極的には全体のなかに融和させ、その全 体の形成過程を自己形成のための認識の鏡として、そのなかに他者と全体 の幸福の構築に寄与する自己を認識し、かつ、そのことに自己自身の存在 の充実を体感・認識できることにある。そして他者と全体の幸福を自己の 幸福に置換できる自他超越の歓喜が惹起されるのは、まさしく普遍的な愛 の力による、とシラーは説く。

しかも、シラーは愛の力だけで自己完成を成就できるとは考えていない。

愛は人間の最も純粋な感性的な本性の発露だが、近代人の存在原理である 知性との相互補完的な充足があって初めて、愛がその力を発揮できること を、シラーは主張する。愛と智恵の融和的な結合に、理想の心意状態を惹 起する根源的な力がみて取られる。

「徳の本質は何か。智恵に伴われた、幸福への愛以外のなにものでもな

(10)

い。徳とは愛と智恵の調和のとれた絆である。[...]徳とは神と人間に対す る愛である。誰が智恵なくして神を愛することができるだろうか。誰が悟 性なくして人間を愛するだろうか。繰り返すが、徳とは愛と智恵の均衡あ る絆である。」(NA 20 , 4 )

「諸々の精神を完全にすること、そしてそれ自身を完全にすることによ って、自己自身が最も幸福であることができる思惟する精神の状態は徳で ある。」(NA 20 , 31 )

シラーが、「被造物との関係において、神の本質は愛と智恵ということで ある」(NA 20 , 4 )と述べているように、神とは最高に調和のとれた、無限 な愛と無限な智恵の一体化の象徴であると捉えられている。それ故、シラ ーが要請する自己完成、つまり完全な人間精神の形成という目標は、神を 模倣すること、神の本質である無限な愛と無限な智恵の一体化を我がもの にすることによってのみ達成できるのである。

また、創造主(神)の完全性に等しい完全な精神の形成を、シラーが人 間の使命と見做していることについては既に概略的に述べたが、改めてシ ラー自身の言葉を聞いてみたい。

「人間は、創造主の偉大さを獲得するために、存在する。人間は、創造 主が世界を見渡すのと同じ眼差しで、世界を見渡すために存在する。神と 等しくなること(神的相等性)が人間の使命である。なるほど、このよう な人間の理想は無限に遠い。しかし、精神は永遠である。」(NA 20 , 10 括 弧内筆者)

「私たちがさらに高く昇り、そして精神的存在の完成とは神性を模倣す

(11)

ること、神性を喜ぶこと、そして神性を賛美することをその最高の目標に 掲げる、と理解するときには、神性の特性とこのように等しく、このよう に合致すること、このように神性を喜び、賛美することが、すべての道徳 的行為の尺度であるに違いない。」(NA 20 , 31 )

あるいは、「人間は自然の偉大なプランを眺望し、研究し、感嘆するよ うに定められている」(NA 20 , 12 )とシラーは述べて、精神的な向上に努 め、遂には人間個人に定められた制限を越える自我の拡張を果たし、創造 主の完全性に等しい完全なる人格の陶冶を人間に要請する。「自然の偉大 なプランを眺望し、研究する」(NA 20 , 12 )ということは、神の手によっ て自然のなかに、分散させられて暗号のように書き込まれている神の意思、

つまり自然の秩序を維持する原理を読み解くことを意味する。そして神の 意思を解き明かすことが、完全な精神の形成、つまり神の慈愛によって人 間に配されている幸福な生に至る道を見出すことに通じる、とシラーは説 く。

神的相等性の理念はシラーの人間形成論の中核をなす思想であるが、シ ラー独自の思考から発したのではなく、伝統的な啓蒙主義的思想を引き継 いでいる。本論の冒頭で、若いシラーの思想形成に大きな影響を与えてい る一書として A.ファーガスン著、Chr.ガルヴェ訳注『道徳哲学の原理』を 挙げたが、神的相等性の思想ほど両哲学者からの思想的影響が明確に表れ 出ているものはない。A.ファーガスンは次のように述べる。

「神の摂理の対象や意向が、全体において何であるのかを理解するまで

に悟りを開いた魂の状態が、その他のいかなる状態よりも最も喜ばしい状

態であり、苦痛からの完全な開放に最も近い状態なのだ。このような心意

状態は、神の創造のなかにあるすべての事物と、神の創造のなかで生起す

(12)

るすべての出来事を観照することから、喜びを汲み出す能力にほかならな い。[...]人間は、彼を最も強く働かせ、彼の傾向性を呼び覚まし、彼の才 能を発揮させる活動において、最も快適に楽しい気持ちにさせられる。」

10

一方、Chr.ガルヴェは「A.ファーガスンの書の最も美しい箇所の一つは これである」

11

と称賛し、A.ファーガスンの上記の箇所を引用しながら、た だし、Chr.ガルヴェ自身の思想に沿ってかなり自由に表現し直して、次の ような解釈を付している。

「<神の摂理のプランをその全貌において見渡すまでに悟った魂の状態 が、最も美しい魂の状態である。 > 一度に地上全体を、人類のすべての種 族を見渡せる人間がいるならば、あるいはあらゆる生あるものの感情と行 動をこの瞬間にのみ、あるいは唯一なるものの一連の感情と行動を一目で 把握する人間がいるならば、この人間にとってもはや悪は存在しないだろ う。全体の秩序は個々の無秩序を呑み込み、少数の悪は多数の善のもとに 消失し、そのような人間はもはや孤独な存在を感じず、生あるものの体系 全体と一体になるだろう。彼は、ファーガスンが言うように、あらゆる被 造物を愛し、あらゆる出来事を喜ぶだろう。──これは創造主の幸福だ。

──しかし、もしも有徳な者と賢明な者が彼の運命と彼の隣人に満足した いなら、この状態に近づくこと、彼の感情と関与の輪を広げること、彼の 場所と現在の時間から、広い世界へ、そして常に前進する世紀の列のなか に自分を置くこと、それが有徳な者と賢明な者の絶えざる使命だ。ついで に言うと、それは天才の人の使命でもある。これが精神の真の崇高であり、

それなしには決して偉大なものは現れ出ることはなく、確固とした幸福を

享受することはできない。」

12

(13)

A.ファーガスンは、人間にとって最高の心意状態とは、「神の創造のな かにあるすべての事物と、神の創造のなかで生起するすべての出来事」を 淡々と、かつ爽やかな気持で観照することに喜びを感じる心、まさに「悟 りを開いた魂の状態」、諦観の域に達した人の境地である、と述べる。こ のような諦念の境地は、後の美学論文『人間の美的教育について』U .. ber die a

..

sthetische Erziehung des Menschen in einer Reihe von Briefen( 1795 )や

『素朴文学と情感文学について』、そして遺稿論文『悲劇と喜劇』Trago

..

die und Komo

..

die(執筆年未詳)においてシラーが展開する Spiel論、高尚な喜 劇の論、そして牧歌論の世界に通じるものである。

13

しかも、そのような 生の姿勢とは、決して隠遁的な生活態度を意味しているのではない。A.フ ァーガスンは上記の引用文の数行後で「人間は、彼を最も強く働かせ、彼 の傾向性を目覚めさせ、彼の才能を活動させるような実践によって、最も 快適に楽しむ」

14

と指摘する。つまり、A.ファーガスンが説く神の創造のな かに喜びを見出すということは、社会内生活における生の実践で自己の力 を最大限に発揮し、充実した生に満足感を覚えることである。

一方、Chr.ガルヴェは汎神論的な啓蒙主義の立場に立ち、全的一をなす 大系のうちに、森羅万象を一瞬に把握する「創造主の幸福」について語り、

この「創造主の幸福」が即ち「有徳な者」と「賢明な者」の生の究極の満 足であること、さらにこの満足の享受に向けての絶えざる自己形成が、

「有徳な者」と「賢明な者」の生の使命であることについて述べる。

このように、A.ファーガスンは人間の最高の精神的満足の状態に言及し、

たとえ、そのような境地があくまでも遠い彼方に掲げられている目標であ るとしても、その目標達成に向けての実践的な努力を社会で示すことを人 間に求める。その主張は諦観的境地を目指す社会道徳論といえる。一方、

Chr.ガルヴェは人間の最高の幸福を創造主の幸福と同じものと捉え、汎神

論的な世界観が漂う道徳論を説く。シラーは、A.ファーガスンの社会道徳

(14)

論を直接的に受容しているというより、Chr.ガルヴェの解釈を介した A.フ ァーガスンの啓蒙思想から、理想的な人間論を引き出している。

Chr.ガルヴェが「神の摂理は、その秘密を理解するのに充分にはまだ成 長していない被造物の若干のものに対しては、その真の、最後の意図を隠 した。そして最も優れた人間、最も高貴な人間、要するに有徳な人間に対 しては、神の摂理はそれについて何らかを明らかにしてきた」

15

と指摘する ように、普遍的な愛の哲学を実践するとともに、かつ精神的な完全性の境 地に達することを生の目標に掲げて、不断に邁進する人間にのみ、世界創 造の秘密は開かれている、と説かれる。そしてシラーは、このような人間 の発展的な精神形成思想の流れに沿って、その啓蒙思想を温めてゆく。完 全性とは神の属性であり、「人間である」とは、「神と等しくなること」を 目指して不断に人格形成に努める存在であることにほかならないことを、

シラーは教示する。このようなシラーの人間形成論の精神を探ってゆくと、

「マタイによる福音書」の言葉─「あなたがたの天の父が完全であられる ように、あなたがたも完全な者となりなさい」

16

─が想起される。

さらに、シラーの神的相等性の思想に影響を及ぼしているものとして、

通俗哲学者 M.メンデルスゾーンによる哲学的な対話『フェードン、あるい は魂の不死について』Pha

..

don, oder u

..

ber die Unsterblichkeit der Seele( 1767 ) を挙げなければならない。この書の「第三の会話」Drittes Gespra

..

chにおい て、M.メンデルスゾーンは彼の代弁者の役をソクラテスに託し、かなり長 い独白で、人間の精神的な完全化について論を展開させる。この精神の究 極的な陶冶、即ち完全化に、M.メンデルスゾーンは「人間の使命」がある と見做す。M.メンデルスゾーンは次のように述べる。

「生きているもの、思惟するものすべては、その知識とその欲求力を試

し、形成し、実行に移し、それ故多かれ少なかれ、強い足取りであれ、弱

(15)

い足取りであれ、完全性に近づくことを止められない。そしてこの目標は いつ達成されるのか。この目標が達成されることは決してないように思え る。それほどさらなる前進への道は阻まれている。[...]神の模倣を通じて 人は次第にその完全性に近づくことができるのであり、そしてこの接近に 精神あるものたちの幸福はある。しかし、そこへの道は無限であり、永遠 に完全には遡ることはできない。それ故、努力を続けることは人間の生に おいて際限ないことである。」

17

このように、M.メンデルスゾーンは、精神的な完全化の達成のために永 続的な人間形成を要請する。そして有限的な存在である人間に対して永続 的な形成努力を可能とするその思想的論拠は、魂の不滅に寄せる信仰にあ る。M.メンデルスゾーンは、人間の肉体的有限性を承認しても、精神的に は不滅であることを主張する。M.メンデルスゾーンはこの信仰を理路整然 とした理性的推論に基づいて説明しようと試みる。『フェードン、あるい は魂の不死について』の「第二の会話」Zweites Gespra

..

chにおいて、M.メ ンデルスゾーンは、合成化合されたものとしての物質と反対に、魂、つま り思惟する存在が単体であって、分割不可能なことを論じる。M.メンデル スゾーンは次のように述べている。つまり、精神は拡大することもなけれ ば、化合されることもなく、そして無限に分割可能な物質でない、と。そ して魂が単体だという概念が、魂の不分割性の論拠であり、魂の不死性と 魂の完全化への可能性にとっての根拠である、

18

と。まさに M.メンデルス ゾーンや通俗哲学の思想家が伝える啓蒙思想と基本的には同様の思弁の立 場に、若いシラーは立っている。

それでは、A.ファーガスンや M.メンデルスゾーンが説くように、そして

シラーの人間使命論も同様のことを説いているが、神の完全性の域に向け

て絶えず人格形成に努めることに人間の使命があるとしても、有限な存在

(16)

である人間が全能の神のプランを考察し、その絶対的な力を認識するなど ということは、如何にして可能なのであろうか。このことについて、シラ ーの表象様式を明らかにする次の彼自身の言葉が解明の鍵になる。

「表象とは、世界の変化に等しい魂の変化以外のなにものでもない。そ してその際に、魂はそれ自身の自我をその変化と区別する。それ故、私は 表象の瞬間に、私が表象するものとまったく同じものになっている。人格 だけが私の自我をそれから区別し、それが外的な変化であることを私に教 える。」(NA 20 , 19 )

実は、前記の言葉と同様の思想が、『哲学的書簡』Philosophische Briefe

( 1786 )でさらに明確に述べられているので示しておきたい。

「美なるもの、真なるもの、卓越するものを観察するということは、即 ちこれらの特性をそのとき所有することを意味する。どのような状態を知 覚するにしても、私たち自身がその状態のなかに入って行くのである。私 たちがそれらについて思惟する瞬間には、私たちは徳の所有者であり、行 動の開始者であり、真理の発見者であり、また幸福の持ち主になっている。

私たち自身が感受された客体になるのである。」(NA 20 , 117 )

『哲学的書簡』は、シラーが友人 G.ケルナー(Ko

..

rner, Christian Gottfried

1756 - 1831 )と行なった日々の思想的交換の結実であるとともに、その一

部は既にカール学院時代から書き溜められており、いわば青春時代の思想

的記念誌ともいえるものである。『生理学の哲学』で説かれている「私は

表象の瞬間に、私が表象するものとまったく同じものになっている」とい

う言葉と、『哲学的書簡』で述べられている「美なるもの、真なるもの、

(17)

卓越するものを観察するということは、即ちこれらの特性をそのとき所有 することを意味します」という言葉が教示するところは、<人間は神の完 全性についての表象を抱く瞬間に、その完全性を所有する>という思想に 通じる。

まさに、この点にシラーの表象概念の核がある。個々人の精神は、自然 の世界に存在する断片的な真理を、慧眼な洞察を介して普遍化する表象の もとに捉えることにより、同時的に神の完全性を全体的に体得・認識する ことができ、無限なる自然と超感性的に等しいものになることができる。

シラーにあっては、表象は単なる夢想的な表出ではない。あるものを表象 するには、まずその表象の発現の源泉となる存在の原理を表象する者が心 のうちに宿していなければならず、その存在の原理に基づいて表象の像を 作り上げてゆく。しかも、ここで希求されている完全性の理想は、人間と 神の精神的一体化への希望で尽きるのではない。むしろ、その論説の主た る意図は、人間が自己自身のみならず、他者についても相互的にそれぞれ の精神的完全化に努めることによって、有限的な存在である人間が神に等 しい存在に近づける、あるいは神の眼差しを持てるという信仰にある。人 間個人は、その意識の拡大によって神の芸術作品ともいうべき自然の存在 原理を分有しつつ、遂には自然の全体像を捉え、そこに合流しようと意図 しなければならない。そして自然への合流と同時に、自然全体であり、か つ、個体であることの存在意義、全即一の存在性を、個人は体感できるの である。さらに、シラーは、表象においては主観的で個別的であるものが、

それにもかかわらず普遍的で必然的な関係のなかに現れると捉える。なぜ

ならば、表象を行う主体者は様々な恣意的媒体を用いて個別的な表象をす

るとしても、宇宙の根源的なものとは共通の存在の原理の上に立ち、共属

関係にあるが故に、その個別性を普遍性へと高めることによって、真なる

ものを読み解くことが可能になるからである。それ故、シラーにとって表

(18)

象者が神を表象するときには、表象者自身が神に連なる心意状態を持して いることになる。つまり神の完全性を表象するときには、表象者が自身の 存在原理のなかに宿している神的な完全性に則ってそれを表象しているの であり、そのとき表象者自身も完全な精神の持ち主になっている。つまり、

人間は神性を心に宿していることになる。あるいは、人間は神の神性を分 有していることになる。

シラーの人間形成論の中心をなす思想は、生涯を通じて完全な精神の形 成にあり、カント体験以前においては、普遍的愛の力を通じて形成される 完全な精神の状態が希求される。この完全な精神状態をシラーは自他超越 の歓喜を伴う「幸福」の状態と呼び、この「幸福」の状態を人間のあるべ き本来の心意状態と見做すとともに、近代人が求めるべき理想的な心意状 態として説く。そして、自然に発する道徳的な行為と無私的な愛を通じて、

その崇高な目標である最高完全性としての神の徳に向けて不断に接近する ことに、シラーは人間の使命を見出している。ただし、シラーの人格形成 に向けた思想はその実践的結果を問うものではなく、自然な傾向性となっ た道徳的な行為と無私的な愛のうちに、しかも時空の制限性を超えて、永 遠なるものへの接近を目指すという、まさしく理想主義的な精神に燃える、

ただし現実的な人間の生の向上をあくまで祈願すればこその、シラー自身 が心の内奥に宿す熱い生の信条の吐露を意味する。

Ⅲ.中間力の思想

前項では、二篇のフランチスカ献辞『過度の善意、親切や大きな寛容も

最も狭い意味において徳に属するか』と『結果からみた徳』、そして最初

の卒業論文『生理学の哲学』に共通して窺える思想、つまり青年期シラー

の思想的な根幹をなす「幸福への愛」と「完全性の理念」を主柱とする世

界観について考察を加え、シラーの言説の主意が、社会的存在としての人

(19)

間の幸福を希求する故に、自他の精神的な育成、人格形成を神の完全性の 域にまで推し進めることにあることを明らかにした。しかし、実は、この 卒業論文『生理学の哲学』は、シラーの熱い探究心が認められながらも、

自己陶酔的で思弁的過ぎるとして再提出を求められたのだった。

19

そこで シラーは翌年 1780 年に二篇の卒業論文─『炎症熱と腐敗熱の相違について』

U .. ber den Unterschied entzu

..

ndlicher und fauliger Fieberと『人間の動物的本性 と精神的本性の連関についての試論』Versuch u

..

ber den Zusammenhang der thierischen Natur des Menschen mit seiner geistigenを提出している。そこで本 項においては書き直しを求められた卒業論文『生理学の哲学』と、受理さ れた卒業論文『人間の動物的本性と精神的本性の連関についての試論』を 中心に、そこに窺える思想的な連関と発展について考察を加えたい。

シラーは、都合三篇の卒業論文を書いている。

20

そのなかで二篇目の論 文『炎症熱と腐敗熱の相違について』は、シラーがカール学院で専門に学 んだ医学分野に関わる論文と思われる。W.リーデルは「三篇の論文のうち で、熱に関する論文だけが専門的で医学的なテーマを扱っている。それに 対して他の二篇は医学と哲学の中間領域を動きまわっている」

21

と解する。

また、P.A.アルトは、このうち二番目の論文『炎症熱と腐敗熱の相違につ

いて』に関して、「この論文は病気の形態について詳細な記述に努めてお

り、予想される臨床上の処置についての短い解説が、その都度、その記述

に付け加わっている。[...]この分野での必要な実践的経験を、シラーは

1779 年から規則的に行った病院実習のあいだに積んだのだった」

22

と指摘

する。この熱に関する論文だけは多分に、医学的な臨床経験に基づく内容

であると思われる。筆者は残念ながらこの医学論文を手にすることができ

なかったため、その内容については W.リーデルや P.A.アルト等の先行研究

の成果に依存するしかないが、本論の考察意図がシラーの人間形成論につ

いて探求することにあることから判断して、この医学論文を考察の対象か

(20)

ら外しても構わないと考える。

さて、他の二篇の論文においては、確かに臨床医学的な観察と人間認識 論的な思弁で論述が展開されている。しかし、本項の冒頭で述べているよ うに、この思弁的な論述傾向が最初の卒業論文『生理学の哲学』の受理を 阻ませることになったのだった。第三の卒業論文『人間の動物的本性と精 神的本性の連関についての試論』は、その執筆に至った経緯が物語るよう に、思弁的過ぎるという批判を避けるために、確かに見習い軍医としての シラーの実践的な臨床経験に基づく考察も随所に加えられているが、それ でも思弁的であるという論述傾向は変わらない。感性と理性、肉体と精神、

そして外の世界と内の世界に生きるという二重の存在性を抱える人間存在 の本質が、臨床医学的な経験を踏まえながら、しかしそれ以上に思弁的に 探られる。しかも、卒業論文を審査した教授陣からは批判されたのであっ たが、両論文が示すこの哲学的な考察傾向は明らかにシラーの意図に基づ いている。シラーは『人間の動物的本性と精神的な本性との連関について の試論』の冒頭で、カール・オイゲン公に宛てて次のような献辞を呈する。

「殿下は、ヒポクラテス(Hippokrates 前 460 -前 375 )の学問を、機械的 で稼業的な学問の狭い領域から、哲学的な学説というもっと高尚な地位に 高めたのです。哲学と医学は相互に最も完全な調和をなしております。医 学は哲学にその富と光を与え、哲学は医学に関心と尊厳、そして魅力を伝 えます。私は今年になってから、両者と知り合いになろうと努めてまいり ました。この短い論考は私の意図を正しく伝えるものです。」(NA 20 , 38 括弧内筆者注)

シラーは、臨床実践で得られる観察結果を、単に分析的に羅列するので

はなく、哲学的な考察に高めて普遍的な原理を導き出そうとする。たとえ、

(21)

肉体と精神の連関を探ることが、シラーの同時代の医学的要請

23

であった としても、シラーの探究の意図は、肉体と精神という二元がそれぞれにか つ相互作用的に持つ存在性の真理に迫ることにある。なぜならば、肉体も 精神も個別的だけでは存在不可能だからである。肉体と精神はそれぞれに かつ相互的に存在を支えているからこそ、初めて存在することができる。

なぜならば、肉体と精神の混和体から人間は成り立っているからである。

それでは、暫時、シラーが捉えている肉体と精神の関連について考察を 加えることにする。まず、第一の卒業論文『生理学の哲学』から考察を始 めよう。シラーは外的なものを世界(Welt)、自然(Natur)、物質(Materie)

とも表現するが、外的なものを認識するということは、精神が外的な刺激 を自身のうちに取り込むことを意味する。シラーはその過程を生理学的・

哲学的に追究する。まず、シラーは肉体が構造(Bau)と器官(Organ)か ら構成されていると見做し、それぞれの働きについて検討することから始 める。構造の代表的な例が骨や筋肉であり、そこでは機械的な活動を行う 諸々の力が協働しあって生を維持している。器官としては目、耳、鼻、口、

皮膚などが考えられており、それらは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚に関 わる。そしてこの五つの感覚器官によって外的な刺激が捉えられ、脳に伝 達される。つまり、「外的な変化は五つの器官を通じて内的な変化になる」

(NA 20 , 19 )のであるが、シラーは、五つの感覚器官そのものが外的な変 化を内的な変化に移行させるとは見做さない。五つの感覚器官の働きはあ くまでも外的な刺激を捕捉するだけだと見做されている。シラーは、外的 変化を内的変化に移すある力を想定し、それを中間力(Mittelkraft)と呼ぶ。

24

「この中間力は神経のなかに住む」(NA 20 , 16 )と仮定され、神経精神

(Nervengeist NA 20 , 16 )とも呼ばれる。

「物質(つまり、その作用が表象されるべきもの)と精神との間に実際

(22)

にある力が存在する。この力は世界とも精神ともまったく異なる。私はそ れを遠ざける。すると、精神に及ぼす世界のあらゆる作用はなくなる。し かし精神は残る。さらに対象も残る。その喪失は世界と精神との間で間隙 を生む。その存在は精神の周りのあらゆるものを照らし、目覚めさせ、生 気を与える。─私はそれを中間力と名づける。」(NA 20 , 13 )

「私自身は数多くの熟考を通じて次のような確信に到達した。即ち、中 間力は無限に細かい、単純な、可動的なもののなかにあって、そのものは 神経のなか、導管のなかを流れる。それを私は基本的な構成要素としての 火や光、エーテル、電気的なもの、そして磁気的なものとは呼ばずに、神 経精神と呼ぶ。そして将来、中間力と呼ぶだろう。」(NA 20 , 16 )

外的な刺激の移行は段階的に行われる。まず、五つの感覚器官を通して 捉えられた外的な刺激は、中間力の働きで「物質的な理念」 (Materielle Ideen)

に変えられる。次にこの物質的な理念は、神経軌道を通過する過程で、神 経軌道のなかに「住む」新たな中間力によって抽象的な情報に変えられ、

最終的に脳に伝えられるとされる。

肉体と精神の連関を探求するために立てられた中間力の仮説は、その論 証に思弁的、哲学的な傾向を窺わせる。しかし、問題解明の方法としてシ ラーが用いる推論は、相反的な二元の措定のままで終わるのではなく、あ るいは相反的な二元の止揚的な合一を目指すのでもなく、それらの二元、

つまり肉体的なものと精神的なものが持つ力をそれぞれに認め、両者を仲 介・融合する独立した中間的な力を措定する。この中間力は、肉体的な力 のみでなく、また精神的な力のみでもなく、肉体的な力かつ精神的な力で ある。それ故、中間力は肉体的な力を宿すとともに、精神的な力をも宿し、

また二つの力の均衡を保っている、と解されている。

(23)

次に第三の卒業論文『人間の動物的本性と精神的本性の連関についての 試論』の考察に移ろう。当該の卒業論文は、肉体と精神の密接な相互依存 関係、特に精神の活動に及ぼす肉体の影響関係を経験的に、臨床的な観察 に基づいて医学的に証明しながら、心身間の連関の神秘に迫り、心身の均 衡ある状態の惹起を図るという認識論的、人間学的な探求を目指している。

P.A.アルトが「この論文は第一の論文の思弁的な傾向を避け、人間という 有機体における精神物理学的なプロセスの経験的な観察に切り替えられて いる」

25

と評しているように、再考を促された最初の卒業論文に比べれば、

はるかに臨床実証的な考察の試みがみられる。この論文で、魂の状態と肉 体の状態との相互的な強い影響と、精神的なものと感性的な感情系統の作 用関係が考察される。シラーはこの論文の論述姿勢について次のように述 べる。

「当該の試論は、むしろ魂の活動に対する肉体の特記すべき寄与、精神 的なものへ及ぼす動物的感覚系統の偉大にして、かつ現実的な影響を鮮明 にすることを目指す。しかし、それだからといって、この論文は決してエ ピクロス(Epikur 前 341 -前 271 )の哲学でもなければ、徳を最高善と見做 すストア主義の論説でもない。」(NA 20 , 41 括弧内筆者注。)

それ故、シラーが論文の冒頭でわざわざ人間の動物的な本性、感性の作

用を強調するかのような論述を行うのも、「通常の方法は、肉体の軽視を

伴うほどに、精神力が肉体の影響の外で考えられ、あまりにも精神を当て

にして書かれたことで、間違いを犯してきた」(NA 20 , 40 f.)という主知主

義に走りがちな思考傾向に対する反駁の姿勢からくるのであって、シラー

は、肉体的な諸力と精神的な諸力の均衡ある状態の形成に努めることを説

くという、極めて中庸で啓蒙的な意図に基づいて論述を行っている。この

(24)

シラーの中庸な思想は、肉体と精神の関係について次の二つの法則を定立 させる。法則の一番目にあたるものとして、次の論述がなされる。

「肉体の活動は精神の活動に応じる。即ち、精神活動の緊張は常にある 肉体的な行為の緊張を結果に伴う。また精神の均衡、精神の諸力の調和的 な活動が、肉体の最も完全な協調と結びついている。魂の不活発は肉体の 運動を不活発にし、魂の無活動は肉体の運動をまったく停止する。完全な 状態は常に快と結合し、不完全な状態は不快と結合しており、それ故この 法則を次のように表現することができる。精神的な快は常に動物的な快を 持ち、精神的な不快は常に動物的な不快を伴う。」(NA 20 , 57 )

また、第二の法則として次のように述べられる。

「諸感覚と諸理念の自由な流れは諸器官の自由な活動と結び付いており、

思惟と感情の混乱は諸器官の混乱と結び付いている。それ故、要するに、

動物的な調和の一般的な感覚が、精神的な快の源であり、動物的な不快が 精神的な不快の源である。」(NA 20 , 63 )

シラーは肉体と精神を「二つの同じ調子の弦楽器」(NA 20 , 63 )にたと える。つまり、肉体の喜ばしい弦は、精神のうちに喜ばしい弦を振動させ、

肉体の悲しい調子は、精神のうちに悲しい調子を呼び起こす、と説明され る。しかも、肉体的なものと精神的なものとの交互的な作用の結果、そこ に人間の動物的本性と精神的本性との「混和の状態」(NA 20 , 63 )が生じ、

さらにまた、人間の動物性と精神性との交互作用のうちに、調和的な心意

状態が生じるという推論がなされる。この思想は、『生理学の哲学』で探

求されている人間の使命論、つまり神のような完全な心意状態を求める神

(25)

的相等性の思想と、肉体と魂との間で仲介の役を果たす中間力の仮説の発 展的な流れとして捉えられる。因みに、この心理学的概念は、まもなく演 劇論文『道徳的機関としてみた演劇舞台について』で説かれる演劇の効用 論、つまり過度の緊張状態からの解放と、過度の弛緩状態からの脱出によ り惹起される精神の「中間的状態」(NA 20 , 90 )という概念へと発展を示 す。さらに後年になって、カントの美学哲学思想との接触を契機として、

この心意状態の探究は、シラーの人間形成論の結実となる思想、つまり

『人間の美的教育について』等で説かれる人間の究極的な理想の心意状態 である美的な心意状態、遊戯(Spiel)の心の形成を求める論へと続くこと になる。

Ⅳ.演劇使命論

本論の冒頭で、シラーの人間形成論の特徴が美的なもの、芸術による人 格の陶冶を説くところにある、と述べたが、青年期にあって、シラーは演 劇による道徳的な教育を意図する。この教育観は、特に二篇の演劇論文で 明らかにされることになる。戯曲『群盗』の完成後に、第一の演劇論文で ある『現代のドイツ劇場について』U .. ber das gegenwa

..

rtige teutsche Theater

( 1782 )が発表され、さらに戯曲『フィエスコの反乱』Die Verschwo

..

rung des Fiesco zu Genua( 1783 )と戯曲『たくらみと恋』 Kabale und Liebe( 1784 ) の完成後に、第二の演劇論文である『道徳的機関としてみた演劇舞台』が 発表される。       

若いシラーは演劇が持つ現在的で感覚的な描出の作用を生かして、演劇

を道徳教育に役立てようとする。既に『群盗』の序文のなかで、シラーは

演劇が及ぼす感覚的な効果について述べている。演劇が感覚に訴える特性

を持つために、「演劇の真の精神は長編小説や叙事詩より、深く心を掘り

下げ、深く心に切り込み、生き生きと教化する」

26

とシラーは説く。周知

(26)

のように、アリストテレス(Aristoteles 前 384 -前 322 )は『詩学』の中で、

あらゆる創作の起源を模倣行為においており、登場人物の行為そのものが、

現実に活動しているかたちで描写されるところから、ドラーマ(劇)とい う名前が由来している、と説いている。

27

シラーもこのアリストテレスの 演劇観に沿って演劇の機能を把握しており、しかも、舞台の上で縮小版の 現実の世界を再現するために、俗に悪人と名指されている人物も演劇の対 象になりえることを指摘する。シラーは「ガルヴェが説くように、何もか も不完全である人間などは一人もいない。最も罪深い者といえども、多く の正しい考えを持ち、善良な衝動を持ち、高貴な活動力を持っている。彼 は完全性が少ないだけなのである」

28

と述べる。卒業論文に引き続いて、

ここでもまた Chr. ガルヴェの名前が挙げられており、改めてシラーに及ぼ している Chr. ガルヴェの思想的な影響の大きいことを知らされることにな るが、演劇を通じて、私たちは法律や道徳や宗教の規範のなかで社会生活 を営まなければならない個人の葛藤や諦観を、知ることができる。しかも、

個人が社会で生を営む上で、個人の意思の自由が大きな問題であることを 認識させられる。シラーは、神の完全性に相等する高邁な精神の持ち主に なることを、人間の使命として高く掲げるとともに、まさに神のごとく気 高いその人間像に、個人の意思の自由を如何に組み込んでゆくかという問 題に突き当たる。シラーが善に向かう人間だけでなくて、悪に向かう人間 をもまた舞台の上に立たせることを躊躇しないのは、善に向かうのが人間 の意思の自由であるならば、悪に向かうのもまた人間の意思の自由である からである。シラーは人間の行為を従来の社会的・道徳的な尺度で安易に 測ろうとはしない。シラーにとって、行為に駆りたてる人間の意思の自由 が、問題なのである。

演劇活動に寄せるシラーの気骨ある姿勢は、 1782 年に雑誌「ヴィルテン

ベルク文学評論」Wirtembergisches Repertorium der Literaturに発表した演劇

(27)

論文『現代のドイツ劇場について』のなかに受け継がれ、当時のドイツ演 劇界に対する痛烈な非難となって表われる。そしてシラーは次のように演 劇の市民教化の効用を力説する。

「もしも真実と健全な自然の友が、ここに彼の世界を再発見し、彼自身 の運命を他人の運命のなかに夢想し、彼の勇気を苦悩の場面で確認し、彼 の感情を不幸な状況の際に鍛えるならば、演劇は充分に功績を立てている のです。気高い偽りのない心は、舞台の前で新しい生き生きした暖かさを 掴むのです。」(NA 20 , 86 )

ここで、この論文が執筆された当時のドイツ演劇界の実情を思い起こさ なければならない。演劇の娯楽性を偏重するあまり、当時、演劇界には退 廃的な風潮が漂っており、それ故に十八世紀にはドイツのみならずヨーロ ッパの諸国において、演劇の存在そのものを否定する声が沸き起こってい た。これらの演劇排斥の動きに対して、シラーはレッシング(Lessing, Gotthold Ephraim 1729 - 81 )と共に演劇の擁護に努めた一人である。シラー は俗悪化の道を辿りつつあった演劇界を批判しながら、演劇による市民教 育の効用を訴える。それ故、戯曲作家に対してだけでなくて、俳優や観衆 など、演劇に関わるすべての市民に対する忠告と啓蒙のために、シラーは ここで彼の演劇観を表明する。しかも、この人間教育の効用の裏付けとな っているものは、前述した演劇が有する感覚に訴える現在的な描写の他に、

さらにそこに理性の関与の必要性を認識していることである。シラーの主 張を要約するならば、詩人の創作活動は自然の模倣に始まるが、ただし広 大な自然を前にすれは、人間の眼は蟻の眼と同様に小さいものである。そ こで「詩人は私たちに調和のとれた縮図でもって、調和のとれた全体を、

シンメトリーをなす縮図でもって、シンメトリーをなす全体を用意し、縮

(28)

図のなかに全体を見極めさせ驚嘆させる」(NA 20 , 83 )、とシラーは説く。

ここでシラーは自然と演劇の関係を確立しようと努める。アリストテレス の演劇理論の流れに沿って、自然の模倣説を継承しながらも、シラーは積 極的にそこに理性の関与を主張してやまない。シラーは、感性的な面と理 性的な面から、演劇の再構築を図る。また、そこにシラー固有の芸術観が 徐々に形成されつつあることが窺える。

前述した演劇の感覚的作用と社会教育的意義は、 1784 年に執筆された第 二の演劇論文『道徳的機関としてみた演劇舞台』のなかで、さらに発展的 に語られる。しかもカール学院の卒業論文『人間の動物的本性と精神的本 性との連関についての試論』で採られた論述姿勢が、第一の演劇論文に比 べてより明確に継承されている。この卒業論文の緒論のなかで、シラーは 彼が感覚的快楽を目指すエピクロス派の主義に同調するのでもなく、また ストア派の厳格な道徳主義に加担するのでもなくて、「両方の説の均衡を 保つ」(NA 20 , 40 )ところの中庸な立場であることを述べている。「肉体の 活動は精神の活動に応じ[...]精神的快は常に動物的快を、精神的不快は 常に動物的不快を伴う」(NA 20 , 57 )という人間の両本性の連関を重視し たシラーは、この両本性のどちらか一方に優位を与えることはせずに、前 項で考察したように、人間の実体がこの二つの本性の混和体であると見做 したのだった。人間の実体をこのように見做すシラーは、次にこの二様の 本性を仲介する働きをなす場を「中間的状態」(ein mittlerer Zustand NA 20 , 90 )という概念で呼ぶ。シラーは、J.G.ズルツアーの演劇観

29

を引き合 いに出して、「新しいものや異常なものに対する普遍的な抗し難い性向、

即ち、情熱的な状態に身を置きたいとう欲求が舞台を生み出した」(NA

20 , 90 )と述べながらも、この「中間的状態」を生起させることに演劇の使

命を見出している。第二の演劇論文の冒頭で、シラーは次のように説く。

(29)

「微妙な悟性の働きを続けることができないように、しかもそれ以上に、

動物的状態を続けることができない私たちの本性は、ある中間的状態を望 んだ。この中間的状態は互いに相対立する両極端を結合し、厳しい緊張を 穏やかな調和に和らげ、ある状態から他の状態への交互の移行を容易にす る。一般に審美感、即ち美しいものに対する感情がこの使命を果たす。」

(NA 20 , 90 )

こうして、第一の演劇論文のなかで示された演劇の使命論は、ここでも 同様な視点から受け継がれ、しかもより発展的に美の問題と結びつけて考 えられる。しかしながら、その演劇の使命論は、純粋な芸術理論として展 開をみるよりは、むしろ演劇による道徳的な効用に力点がおかれている。

それでは次に、シラーが述べている演劇の実践的な効用論に目を向けて みよう。シラーはまず市民生活に寄与する演劇の効用について説くが、そ の要旨を次に挙げておく。つまり、国家を支える主なものは、法律と宗教 である。そのなかで法律は「否定的な義務」(NA 20 , 91 )を扱い、市民の 行動を拘束し、市民に忍従を強要する。一方、宗教は市民の精神形成に関 わり、「思考を心の奥底にまで追い求める」(NA 20 , 91 )。しかも法律は時 代と共に変遷するが、宗教は永遠的なものである。そこで、シラーはこの 両者それぞれの効果をさらに強める働きをするものとして、演劇を持ち出 す。シラーは、演劇の特質、つまり演劇が有する「生き生きとした現在」

(NA 20 , 91 )と直観に働きかける効用を主張する。シラーはさらに論を進

めて、舞台の上では「悪徳と徳、幸福と苦境、愚昧と英知とが人間につい

て明白に真実にいろいろ描写されて、通り過ぎてゆく」(NA 20 , 91 )と主

張する。つまり、「演劇は人間に関するすべてのこと、過去のことも未来

のことをも、赤裸々に示すことができるからこそ、法律や宗教より一層強

く永続的に影響を与える」(NA 20 , 94 )のである。それ故、演劇は「実践

(30)

的な智恵のための学校であり」(NA 20 , 95 )、「人間をして人間を認識させ る」(NA 20 , 97 )ことができる、と説かれる。しかも、シラーが市民の人 間的な自律精神の覚醒を望んでいることは、改めて論じるまでもないが、

シラーはそれを国家的規模で行なわせることを希求する。シラーが演劇の 実践的な効用を訴えたい相手は、何よりも為政者や立法者であり、シラー が演劇論を通じて訴えたい事柄は、G.E.レッシングと同様に国民劇場の開 設にある。シラーは「もしも、私たちが一つの国民劇場を持つことを体験 したならば、私たちもまた一つの国民になるだろう」(NA 20 , 99 )と説く。

この含蓄のある言葉のなかには、市民の文化的向上を望む声が潜んでいる ことは勿論のことながら、約 300 の領邦国家の民がドイツという一つの国 家意識の下に結束することを切望する民族的な叫びが込められている。

またシラーは演劇が本来持つところの娯楽性についても蔑ろにすること はない。むしろこの娯楽性を直視することによって、かえって演劇が精神 の向上に貢献することを訴える。シラーはこの娯楽性について、この論文 の最後で語る。

「人間の本性は、職業の責め苦に絶えず苛まれることに耐えることがで きず、感官の刺激は満足とともに絶える。動物的な快楽に浸りすぎ、長い 緊張に疲れ果て、永遠の行動欲に苦しめられた人間は、洗練された娯楽を 望むか、あるいは彼の没落を早め、社会の平穏を破る粗暴な気晴らしや放 縦に飛び込んでゆく。[...]演劇舞台は、娯楽が教訓と、安息が勤勉と、慰楽 が教養と結びつく施設であり、そこでは如何なる心の力も他者の不利益に なるほどには緊張しておらず、如何なる満足も全体を犠牲にして享受され ることはない。」(NA 20 , 99 f.)

第一の演劇論文のなかで、演劇の娯楽性が濫用され、歪曲されたために

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ぼすことになった︒ これらいわゆる新自由主義理論は︑

ぎり︑第三文の効力について疑問を唱えるものは見当たらないのは︑実質的には右のような理由によるものと思われ

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので