静岡大学教育学部研究報告 (人文 0社会科学篇)第54号 (2004.3)31〜59
人間類型 と経営類型 一一 日本人 と中国人一一
Differences between Japan and China Management System Viewed from the Human Typology
吉 田 法 一 Koichi YosHIDA
(平成15年10月 1日受理)
は じめに
現在、中国人 との間で何 らかの取引を行 っている日本人の多 くが、 日本の経済慣行 と異なる経験 に とまどっている。例えば、契約事項の途中変更、期 日に代金を払わない、 コピー商品の多 さ、工場で は勤務態度の「悪 さ」や協同作業の困難 さ等々、 日々報道 されるこの種の事柄 は数え上 げればきりが ないほどである。 これを中国人の人間性や個性の独 自のあ り方 に求めるいわゆる中国社会論・ 中国人 論 はいろいろなメディアをとお して日々私たちの意識 に蓄積 されてつづ けている。近年の日中双方の
「嫌悪感」が拡大 していることの日本側の原因の一つにはこの点 における相互理解の仕方 にも問題があ るよ うに思われる。本稿は経済的慣行を舞台 とした日中相互の社会 と人間の「類型」の理解の仕方 に 関す る初歩的考察の試みである。
は じめにこれ らの諸特徴を中国6地域 に進出 した17社の日系企業の人的資源管理 に関す る聞 き取 り 調査 によって少 し整理 しておきたい。*1感覚的には「 自己主張の強 さ」という言葉 に集約 され る現象を ここでは、 自己と他者、集団 (班・ 部課・ 工場・ 企業)との距離のとり方 とい う視点か らい くつかの 特徴 に分類 してみたい。
1)分
か りやすい、自分勝手・ 自己の利益優先・ 自己中心主義のパ ター ン。ただ し、この場合 には、他 者や集団の利益は全 く考慮 されていないので、「本能的な」単なる自己中心主義である。「 日本人出向者の目には、欧米企業への就職 に憧れるようなブラン ド志向や、渡 り鳥のように短 期間で待遇のより良 いところを求 めて企業を転々とする現地労働者側の就業行動パ ター ンは基 本的な しつけやモラルが欠 けているもの として写 っているようである。」*1
2)自
己自身の向上への意欲が自己利益 という枠 に嵌 め られていて、他者・ 集団の利益 に繋が らない 場合。 これには、 い くつかのバ リエー ションが想定で きる。例えば、 自己の知識・ 技能・ 地位が「 利 権」化するケース (古典的用語で言えば、 自己の職能・ 技能を利益の源泉である「業」 として捉え る 場合で、換言すれば縄張 り意識の場合)、 自己の利益 と組織の利益 との区別が本来つかない場合 (集団 との関係が具体的直接的人間関係 としてのみ考え られ、会社が客観的・没主観的組織であ り、企業・組 織 における人間関係が具体的人間関係 と客観的・組織的関係 との二重性を もつ ことを理解 しないので、企業の人事・評価などにおいて私的関係を優先 させて しまう場合)、 さらには、他者が協力者ではな く 競争者であるというよりもさらには「敵」であるという社会観か ら導 き出されて くる場合、 この場合 には責任を回避す る傾向や他者 との協力 自体を避 けようとする傾向 も含 まれよう。以下のい くつかの
00
例はこのような多様な諸要因を含んでいる。
「 自己中心的性格が強 く、組織的行為に逆行するところがあり、自分の知識や情報を組織内のメ ンバーに教えることや、 チームヮー クを造 りあげるところにはメ リッ トを感 じないという側 面」*1
「技術蓄積や組織内での規律遵守よりは、短期間の技術的成果で自分の能力を評価 して もらう方 に強 い関心を示す傾向………組織内部における責任者の役割に限界があると共 に、知識や情報 の組織共有化が進まないことなど、作業上の規律遵守や しつけの レベルか ら組織の管理体制 ま で、組織的共有財産 より個人的利益を優先する傾向」・1
「現地管理監督者の間には、職責や役割に対する認識が乏 しく、役割や職務権限を自分の都合 に 合わせて決め込んで しまうなど、管理者 としての意識 と管理能力が欠 けているところがある」*1
「管理職 (特に部長 クラス)の責任権限関係が明確 に確立 されていないことや、実績主義 に基づ いた人事慣行が「経営陣の裁量」(0…00)に よって決まることが多 く、「制度化」よりは「個人 の権威」 に依存するところが大 きいことなど」*1
「 セクショナ リズムが強 く、チームヮークに欠ける問題がある。確かに中国人一人 ひとりをみれ ば、優秀で、勤勉ではあるが、お互 いに協力 して仕事をや り遂げる団体精神に欠 けている。 こ のため、工場間にまたがる仕事が しにくい。縄張 り意識の強 さが原因」*1
「職務遂行能力の中で最 も不満が大 きいのは部下 に対する教育訓練であるが、しば しば指摘 され ているように、部下が育つ ことによって自分の地位が危な くなるという危機意識が強いこと」*1 以上のような諸パ ター ンを再度集約すれば、 自己の利益優先 という個人の内部的・ 心理的動機 に基 づ く側面 と、集団 (班・ 部課・ 会社など)の組織の利害 という観念の欠如に由来する社会・ 制度認識 の特質 に由来する側面 との二つに類別することができる。 もちろん両者は現実には自己の利益のため に集団の利益を侵害するという形で結びついているのであるが、自分の利益実現の対象 (「業」「縄張 り」)や、資格・技能の レベルアップの手段 として しか経営を (さ らには労働を)認識 していないので、
自己の この主観 とは異なる没主観的・ 客観的存在 として組織・ 制度があるという』、うには理解 されな いのである。 この意味では第一に、中国人の自己中心主義には他者・ 集団が存在 していないというよ
うに も表現で きる。*2た
だ し、現実には もちろん企業 も企業の利益 も存在 しているのだが、それにも かかわ らず自己中心主義を通せ るのは、第二に、独特の公私観念の存在である。 この場合には、会社 や国家 という組織は自己の ものではないか ら (単に自己の利益の目的実現のための手段だか ら)どう
なって も関係ないという (潜在的)意識 と、企業や国家は「 みんなの ものだか ら私 も利用で きる」 と いう意味での中国独 自の「公」 という観念か ら、集団的・社会的・ 公共的事物を自己の利益のために 私的に利用す るのを正当化するという全 く相反する方向か らの二重の私益優先行為が生 まれ るのであ る。*3この後者の場合の公は企業 もまた、株主 と従業員全体の もの (国有合弁企業の場合には中国国 家 と外資 と従業員の もの)であるか ら、従業員個人か らみれば「公的存在」であるけれ ども、社内に おける自己の地位を私的に利用する (関係のネ ッ トヮークを もつ人間を優先する)こ とは別 に会社 に 迷惑をかける行為 とは自覚 されないのである。国家 レベルでは「 中国は法治ではな くて人治の国だ」
といわれることと同 じ事柄を指 している。 この場合に近代的な意味での私有財産観念の欠如・ 市場経 済のルール無視 という要素が加わ ると、事態は もう一歩進行 し、公を私 に転換する、国家 レベルでは 国有財産の窃取 (中国社会主義市場経済の形成論理 としての権銭交易)や会社組織の私的乗 っ取 り現 象が現れて くる。人事管理 に失敗 して中国か ら撤退 した一部企業の場合である。・4
日系企業の実践的立場か らすれば この中国人の行動の二側面は以下のようになろう。
人間類型 と経営類型一 日本人 と中国人一 33
(a)自己中心主義の現象、 日本型経営感覚か らすれば「 しつけ」の欠如 に該当する。 ここでの企業 に とっての課題 は、従業員層の雇用の安定 と近代的工場労働者 としての身体的 。技術的陶冶である。(b) 組織・ 集団観念の欠如、 日本的経営感覚か らすれば「 モラル」の欠如 に該当す る場合、 ここでの企業
にとっての課題は、スタッフ層の組織的活動の理解 とブルーカラー層の小集団活動、QCなど。 そ して 全体 としては、与え られた指示以外 には関心を持たないという消極的労働観を超える自主的活動が課 題であるとされよう。
一部の体験的中国人論では この両者を自覚的 に区分 しないで直接的具体的人間関係 にのみ注 目 し、
二者間関係、 ネ ッ トワーク、面子などの社会学的分析がお こなわれているが、中国人論 と中国的経営 類型 との関係を考察するには、 この両者を一旦 は区分 して考察す る必要がある。
なお、最近の中国人論の一般的動向 と、 とくに伝統的社会の社会類型や典型的人間類型を土台 とし て、企業類型 を説明す る方法論が、次のような見通 しにな りそ うな印象を受 ける。契約 と帰属、個人
と集団 という要因に着 日して中国社会を日本や西欧社会 と比較すると、
○ ヨーロッパ=契約主体 としての (人権 と財産所有権 もつ主体 としての)個人が確立=契約社会、契 約 による集団・ 組織形成 (株主優先型企業社会)→個人主義社会
○ 日本=契約主体 としての個人が「未確立」(非成立
)=集
団への全人格的帰属優先=集団間 0組織間 契約 による社会 (契約主体が集団、法人資本主義)→会社主義社会○中国=契約主体 としての個人の「未確立」(非存在
)=集
団への全人格的帰属な し=契約 も帰属 もな い自己中心的社会→ 自己中心のネ ッ トワーク社会、 と整理 されそ うである。`しか しなが ら、 この見通 しが成立するか どうかについてはなお検討すべき余地があるように思われ る。 この見通 しは推論の過程 自体に重大な省略があることとともに、 この固定的・ 静態的にとらえ ら れた過去の社会の類型的差異を現代世界のなかにそのまま持 ち込む ことは、西欧 との比較か ら生 じた
アジアや 日本社会の特殊性論 にさらに中国人特殊性論を加えることによって、 いたず らに三者の対1立 意識を煽 り、 日本の孤立意識 と中国脅威論 とを単純 に後押 しする結果 になって しまう可能性を含んで
いるか らである。
第1章
日本的経営 と日本人論 第1節
日本的経営論の先導者である濱口恵俊氏の日本人論 にもとづ く日本的経営論 は、欧米的個人主義 と 日本的集団主義 とい う対比の図式を改めることに基礎を置 いていた。濱口氏の言 う日本人の集団主義 は「 自律性を失 った人間 として組織 に全面的に隷属・ 依存することでは決 してない、……・各成員が仕 事をする上で互 いに職分を超えて協力 し合 い、その ことを通 して、組織 目標 の達成をはか ると同時 に、
自己の生活上の欲求を満た し、集団 レベルでの福祉を確保 しようとする姿勢を指 してい」た。*5そ し て このような個人主義 と両立 した集団主義の基礎を、 日本人の対人関係 における間柄 の重視 という特 性 に求 めたのである。
欧米人は「 自己を客体視 (対象化)する際に自己自身だけを レファレン トす るのに対 し、前者 (日 本、引用者注)では、 自己と他者 との連関性まで も念頭 に入れている。つまり、 自他の「間柄」 じた
いが自己を規定する場合だ といえようか。後者の タイプの人間が「個人」であるのに対 して、前者 の それは「間人」と名づけることが妥当であろう」。*5氏によれば、この間人主義は以下の3点か ら構成 されている3
欧米の個人主義の (1)自己中心主義 に対する相互依存主義 (相互扶助)、 (2)同じく欧米の自己依拠 主義 (自己の力、 自己の責任で充足、他者依存拒否、他者不信)に対する相互信頼主義、(3)対人関 係の手段視 (ギブ・ ア ン ド・ テイクを目的 とす る関係 と関係の手段的有用性)に対す る対人関係の本 質視 (いったん成立 した間柄 自体の尊重)である。
なお、 この間柄重視の対人関係 という性質 自体 についての論拠を提出 していたのは、精神病理学者 の木村敏氏である。文化論的日本的経営論の土台 となった木村敏氏の『人 と人 との間一―精神病理学 的 日本観』では、 日本人のメランコリー患者の症状の分析をとお して以下のよ うな立論がなされてい
る。
1)日本人は「 自己自身の存立の根拠を自己自身の内部 に」ではな く、その根拠を「 自己がそこか ら 自己となって くる源泉 としての、人 と人 との間 という場所」においているのである。 この源泉が「 時 間的」な観点か ら過去 に求 め られると、「 ご先祖様」として表現 され、これが「空間的」に表現 される
と「世 の中」や「世間」 といわれる。摯6
2)日
本の人 と人 との間の特性 については、和辻哲郎の風土論が継承 される。 日本の風土は、西欧の 連続性・合理性 にたい して、非合理性 と断絶性 (非連続性)、 偶然への随順、場当た り性を特徴 として いる。そ して、日本の風土が「断絶的・非合理的であるということは、そのまま (その結果ではな く)日本人の人間性 も断絶的 0非合理的だ ということである。 それは突発的激変の可能性を含んだ規則的 変化 として、気短な辛抱 として現れて くる。………日本人における人 と人 との間 も、同 じ構造を もっ ていな くてはな らない。人 と人 との間、自分 と相手の間には、突発的激変の可能性を含んだ持続性が、
気短な辛抱 という忍耐が支配 している。 この特徴がヽ 日本人の対人関係を決定的に特異的な ものに し ているのである」。・6
3)「突発的な激変の可能性を含んだ予測不可能な対人関係」を安定化 させ るために日本人が採用 した 戦略が「 自分を相手 との関係の中へ投 げ入れ、そこで相手の気の動 きを肌で感 じとって、それにに大 して臨機応変の出方を」すること、「相手次第で自分の出方を変えるとい う」行動様式である。 この場 合には「 日本人の人 と人 との間はある意味で無限に近 い、密着 した ものとな」り、「厳密な意味での「 自 己」と「他人」は もはや成立 しない」 とされる。キ
6この結果、日本人には「西洋人の信頼関係 とは次元 を異 に した、より深 い一種の「身内」意識が」「気心が知れている」という意識が形成 され る」が、「気 心が知れない相手 との関係は必要以上 に「 よそよそ しい」 ものとなるのである。キ6
風土 に由来する人間関係の不安定性 (突発的激変の可能性を含んだ持続性、気短な辛抱 という忍耐)
のゆえに、逆 に全人格を相手の懐に (相手 もまたそうだか ら相互的に)あづけて しまお う、 という選 択がなされるので、 日本人の関係は自己と他人の区別のつかない一体化・ 身内意識が形成 されるとい うものである。近い関係においては、日中とも (?)自己と他者の区別のつかない同 じ身内意識 (自
己人・一家人)が形成され、遠い関係では無関心さ、冷淡さが形成されることにはなるのだが、後述 するように中国人の場合は社会は敵だか らという社会不信という前提からこれが説明され、日本の場 合には人間関係自体の不安から説明されているのである。
つぎに、間柄主義的集団主義論に対 してムラ型社会に依拠する日本的集団主義を唱え、また伝統に 育まれた人間の深層心理がいかに日本的経営の構造を規定 しているのかという課題を体系的に考察 し たのが岩田龍子氏である。氏の論理は以下のごとくである。
1)経
営には「 その歴史的連続性によって把握 しうるようなもの、すなわち、長期にわたる歴史的変 遷の過程を貫いて現れるパター ン」*7があるが、 この歴史的連続性は各社会に特有な一種の心理特性 として「 いわば潜在的な志向性を」形成 しており、「一定の与えられた制度的条件のもとで、現実に行
人間類型 と経営類型一 日本人と中国人― 35
動特性 となって発現する」。*7
2)こ
の心理特性が経営の編成原理を規定する。「経営者は、この志向性が、経営 目的に対 して有効か つ効果的な行動特性 となって発現するよう、諸制度的条件を形成」するが、 この「人 びとの行動を効 果的 に組織化する場合に、つねにその拠 りどころとされる考え方ないし原理」が経営の「 編成原理」である。・7
3)日
本的経営の編成原理 は以下の7つ である。1。 関係"そめ ものの永続性の維持、2.調和的関係 の 維持 い日の重視)、 3。形成 された身分秩序の尊重 (職員・工員、年功制的秩序)、 4.集団編成 による所属 感の満足 と情緒的安定性の維持、5。急激な変化の回避、6.安定性志向 と沈滞回避の両立、7.組織成員の 義務の無限定性、以上であるが、岩田氏はこの7に もっとも注 目している。「 日本の社会においては、諸個人は、その分担する機能によってではな く、む しろ、特定集団への 帰属"を媒介 として相互 に
関係を結 び、社会 と一定の関係 に入 るのである。 このような型の社会にあっては」*7個
人はつねに全 人格的 に集団に帰属することになるので、編成原理 7の 「集団成員 としての義務の無限定性」が発生 し、 これが基本的条件 とな って日本的経営制度が構成 されるのであるとされる。個人責任のあいまい さ、連座制的責任の連帯性、包括的責任、権限 と責任の不一致な どの日本的経営の集団主義の土台 は この第7番目の編成原理である。
ところで、以上の人間関係の特性 自体 に直接依拠する経営論 に対 して、早 い時期 にその意義を認 め なが らも「適切な」批判をお こなって代案を提出 したのが西田耕三『 日本社会 と日本的経営』*8であ る。
1)日本企業の従業員の企業 にたいする強い一体感や忠誠心の理由に関 して「企業従業員の仕事への 意欲 にたい して 日本企業の特性がどのような影響をおよぼ しているか」という設間の仕方は、「 日本の 企業人の心理特性 (意欲 もその一つ)を被説明変 薮
)、 つまり説明すべき対象 とみている」のだが、「 こ れにたいして、 日本の企業人の心理特性を説明変数 とす る議論がある。つまり日本人の心理特性が 日 本企業の経営の特性の形成 に影響 しているという主張である。岩田氏の理論 は これであ り、 この点で ユニー クである」*8。
2)し
か しなが ら、西田氏は、心理学 アプローチと社会学 アプローチを明確 に区別 し、「社会学的要因 と心理学的要因 とは相互作用の関係 にあるが、 いずれがより決定的か といえば、それは社会学的要因 のほ うであるというのが筆者の見解である」*8と され、氏のオ リジナルな社会学的 アプローチの方法 によって一体化結合 という社会的枠組みが提案 される。企業 にたいする一体感や忠誠心、無限定的義 務感は、「 かれ らが企業 と一体化結合 という社会的枠組みによって結合 しているか らである」。*83)氏
のいう一体化結合は欧米型の「契約原理 による結合」、「双方が、互いに提供 しあ う用役・ サー ビスや相互の権利・ 義務をはっきりと限定 し、それをできるだけ詳細かつ明確 に定めることによる結 びつ き方」*8すなわち「契約結合」に対 して、日本や西欧前近代社会の社会結合様式 として提案 された ものである。すなわち、「永続的な、す くな くとも長期の結合であること、契約結合のばあいと違 って、
ギブ・ ア ン ド・ テークの内容が詳細かつ明確には規定 されてお らず、その内容 は広範囲にわた り、 ま た弾力的・ 流動的であること」*8と され る。
筆者 には契約や結合の契機 (目的、性質、環境な ど)を捨象 して、その契約期間の長短・ 契約内容 の限定性の有無 という形式 にのみ依拠 して契約結合 と一体化結合を区分できるか どうか疑間 には思 う のだが、心理学 アプローチよりは社会学 アプローチを採用すべきだ という点 には教え られるところが 非常 に大 きか った。西田氏の著作か ら日本的経営の成立条件に関する論点を提示 して、中国人 と中国 的経営類型を考える時の基準を考察 したい。
第2節
日本的経営成立の根拠は、歴史的要因 と近代的要因 と企業 自体の要因の三者 と、その複合の正当化 イデオ ロギーであろ う。
1)歴
史的要因契約関係 (=欧米)か帰属主義 (=日 本、 アジア諸国?)かという対比的三分類について、 これは 西洋 と非西洋 (=ア ジア)との社会構成や人間類型な どの直接的な比較 という問題ではな く、 また風 土や宗教や伝統的価値観な どの相違にもとづ くのではな く、 アジアの伝統的社会の近代化過程 におけ る相互の時間のズ レ、すなわち後発国の近代化 という視点を導入 して考えるべ き問題であると思われ る。契約社会=封建制下の忠誠契約=西欧 と日本 vs非封建制のアジア諸民族 (中国は専制国家)とい うマル クス、 ライ シャワー以来の比較の視点には、なお付加すべ きもう戸つの、相互の社会の近代化 とい う時間的相対的関係 という視点が必要なのである。
日本を例 に取 ろう。 日本の近代化の基底要因に関 しては、戦後の50年代か ら60年代始めにかけての 明治維新論争 とライ シャワー氏の日本近代化論の提起以来共通理解 とな ったのは、一定の国民的 レベ ルでの文化水準 (勤勉 さ、識字率の高 さ、寺子屋の普及、幕末全国市場形成)の獲得 と、 これに加え て封建制下で契約を遵守する社会習慣を身 につけた日本人の存在である、 という理解であった。*9し か しなが ら、明治初期の日本 に西欧の市場経済 システムを導入す るために要 した苦労 は、例えば渋沢 栄一の銀行創設の例を挙 げるまで もな く大変な ものであった。*10幕
藩体制下の社会では、封建的双務 的契約関係が領主 (武士)の世界のおいて も、農村の村落共同体 において も機能 していたのではある が、 それは、契約の両当事者が顔見知 りであることを必要 としていた。互いに藩や村を越える全 く未 知の人同士の関係では、信頼の形成は困難であった。確かに武士の間では、直接の主君である将軍や 大名に対 して直臣ばか りでな く陪臣 も臣従 し、 さらには農工商人たちもまた従わねばな らなか ったの ではあるが、 ヨコの関係の場合、 この直接的関係を構成 しないもの同士では、相互の信頼関係はその 形成の契機を もつのが困難であった。「郷にいれば郷 に従え」の世界であったのである。ただ し、国内 市場がいったん成立すると集散地間の問屋制 という制度的市場機構が生 まれたばか りでな く、例えば 主体的 にも近江商人の間では社会奉仕 と信用重視の一般的・抽象的商人精神が作 り出 されたのである が。
近代以前の実名の契約・ 信頼関係 と、資本主義的市場経済の もとでの匿名の契約・ 信頼関係 との間 には、大 きな溝が横たわっている。 この溝を自然発生的に自己のペースで超えてぃ くことは後発国で は もはやあ り得ない。近代国民国家による上か らの制度的信用機構の創設が必要なのである。実名の 直接的信用の世界か ら匿名の間接的信用の世界への強行的な移行は、国民 レベルでの近代的契約関係 の成長を待 ってはいられないのである。換言すれば、契約主体 として成熟 した人間 =「 自己依拠型」人 間が国民的規模で成立す る以前に、契約社会化=資本主義市場経済化が進行す るのである。近代社会 は契約社会であ り、資本主義市場経済は人間 と人間 との契約を前提 とする社会であるのは自明である。
それ故、近代化過程 においては、欧米先進国をのぞいてはすべての諸民族においては、伝統社会の人 間関係の特質如何 に関わ らず、経過的 に「非 自己依拠型」人間像が現れざるをえないのである。非
(弱)契約的人間による契約社会の形成が とりあえずは進行するのである。非西欧世界の人間像は近代 化の視点か らすればすべて非契約型人間像なのである。 日本社会 と中国社会 とが異なる構造を持つ に もかかわ らず、 ともに「間柄重視型」人間であるかのように見えるのは このためである。 日中 ともに 集団主義であるという「素朴な」 アジア社会同質論は、現今の事情の もとでは もはやそのままでは主 張が困難 とな っているが、間柄重視 とかネットワークとかいうよ うな「 曖昧な」共通性がなお言 い出
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されるのは、要するに非西欧世界 という消極的共通性一般を何か しら積極的な ものであるかのように 錯覚 しているか らである。遅れて近代化 した ものの自尊心である。
2)近
代的要因会社が自分 と一体化 して も違和感のない存在である、 自己の全存在を挙 げて忠誠を誓 うべ き存在で ある、 自分 にとつて会社や同僚は家庭 よりももっと「親 (ちか)しい」存在である、過労死 の場合 に は結果 として 自己の生命 よ りも尊 い存在 となる、云々というように人が自己暗示する条件 とは何であ ろうか。 日本の会社組織 自体の諸特徴、例えば、終身雇用、年功制 (昇給・昇進)、 一斉入社 による同 期生同士の協力 と競争、仕事が個人ではな く職場単位であること、 ジョブ・ ローテー ションなどの仕 組みが、従業員の会社への一体感や忠誠心を生んでいることが指摘 され る。た しかにそのよ うに思わ れ る。ただ し、制度的強制、上か らの会社主義 イデオ ロギー教育 という視点か らではな く、 これを受 け入れる従業員の立場か らすれとその基本的な条件は何であろうか。会社の業績が上がれば自分の賃 金や身分が上がるか らというのは労働組合主義のスローガ ンであるが、 しか し必要条件ではあって も 十分条件ではない。現在進行中の事態のように、人員削減・ 賃金引き下 げ・ 労働強化で も企業の業績
はあが るのである。 また、高度成長時代のほうが、はるかに日本の労働運動 は強大で、労使間の対決 は激 しか った。 日本的経営 は70年代中頃を境 に前期 と後期 に区分 されているよ うであるが、 この社会 的・歴史的前提条件 についての西 田氏の以下の分析は実に明快であると思われ る。
1)「個人主義思想 とそ こか ら派生す る自由主義思想 や平等主義思想 は戦後の日本社会 に急速 に浸透 していった」。・11
2)濱
口氏の主張 した個人の尊重を前提 した日本的集団主義はこの戦後の個人主義思想の洗礼を うけ た ものであること。「 自分 自身を活かす形で集団に貢献すべきだ」という考えは、滅私奉公に対比 して い うな らば、活私奉公」であ り、限度設定的集団主義」である。・113)こ
の集団主義の内実が平等主義であること。 日本の企業は仕事社会だけでな く、身分社会で もあ るが、「戦後の日本社会に浸透 した平等主義は……企業内の身分秩序 に」(290頁)大きな衝撃を与えた。この衝撃 とは、学歴基準の後退 と年功基準の ウェー トの高 まりであ り、 さらに学歴内部で も教育 レベ ル (大卒、高卒、中卒)と学校 レベル(東大卒か旧帝大卒か、早慶大卒か云々)のふたつの格差が、「昇 進 において も、給料において も大幅 に縮小ない し解消 した」のである。 また、「年功 という身分基準 は きわめて平等 な基準である。だれで も一様 に年功を積むことができるか らである。 この場合の平等 と は、機会の平等ではな く結果の平等を意味 している。年功を積む ことによって、だれで も平等 に身分 の上昇 という結果が与え られるか らである。」「戦後の日本企業 における年功主義の ウェー トの増大は、
日本社会での「結果平等主義」の普及を反映 している」。*11
4)か
くして「企業 という小社会での階級性の弱まりによって、 より多 くの従業員が企業 にたい して 一体感 (忠誠心)を もつようになったと思われるJ*Hのである。やや長い引用であるが、つまり企業への帰属意識・会社主義など日本的経営の特質は、戦後の個人 主義・民主主義・平等主義の大衆的受容によって、戦前の企業内身分秩序が大幅にくずれ、年功制 と
いう形式で従業員間の実質的平等が実現 した結果、同僚や顔見知 りでない社員間にまで広がる一体感 の醸成が可能 となったか らなのである。 日本的経営の成立の第二の近代的要因 とは、個人主義・平等 主義の大衆的 (国民的)受容、すなわち戦後日本が民主主義国になったことなのである。集団への帰 属意識 0‑体化結合は原理的には個人優先 と社員間の平等主義 (国民的 レベルで世界ではもっとも生 活水準の均等な国家の実現)と いう、換言すれば、戦後民主主義の実現 という状況の もとではじめて 誕生 したのである。
3)企
業内的要因これは通常様々に言われている日本的経営の特質であり、 とくにここでは省略する。ただ一つだけ いえば、仕事の単位が個人でな く職場や班 とい う集団であることか ら発生する、権限 0義務・ 責任の 共同分担 (結果 として この諸要素の曖昧 さ)、 競争 と協力を内包する共同作業、 チームヮークである。
ただ、これには先の二つの条件がなければこのような集団の形成 自体が困難である。 きび しい身分・階 級社会では仕事 は身分によって分断 され、身分や階級を超える連帯感は生 まれないのである6またた
とえ この組織が強制 されてできたとして も、顔見知 りの範囲内の職場への一体感や同僚 との連帯感が 生 まれ るか どうか というところで とどまり、会社への忠誠心 にまでは発展 しないであろ う。 あるいは 現代中国においてみ られるような直接の上司 との人格的結合が作動 して上司が優秀であれば彼の班 の 従業員全体がよ く働 き、上司が悪 ければ彼の班全体の成績 も悪 いというとになろう。
目的 (会社 の理念)を共有するためには、従業員の目的の前での平等が必要であるのは、宗教の信 仰のためには、信仰者の神の前での平等が必要なのと同 じである。そ してさらにこれに加えて目的 自 体の現代化が必要であろう。 キャッチアップ型工業化の時代には、欧米 に追 い着 き追 い越せ という目 標 は特定企業が自己の利益 を追求するという即物的目的を超えて、明治以来の日本人全体の悲願であ り、社会全体 に共有 される正当な理念であった。人前でお札の枚数を数えなおすのを恥ずか しく思 う 日本人がな りふ りかまわず働 きつづけたのは、会社への帰属意識だけではな くそれ以上の意義を認 め ていたか らではなかろうか。司馬遼太郎の歴史人物 ものがサ ラリーマ ンに愛読 されたのは この一時代 の雰囲気をよ くあ らわ している。単に金 さえ もうければよいという理念では会社への忠誠心を不可欠 とす る日本的経営 は成立 で きな っかたであろ う。 日本文化論的 日本的経営論 を主張す るときには、
個々の企業の利潤動機を超えるもっと文化的・ 国民的な経営理念論を視野に入れるべ。きであろう。
なお、もう少 し丁寧 にみれば、日本的経営、日本的生産 システムといわれるものは、1970年代のオイ ル ショック以降に出現 した。摯12経営側の主体的な視点か らすれば、従業員の一体感 という戦後民主主 義の成果 に依拠 しなが ら、労働側の組合主義的協調の もとで、形式的年功的平等主義 (年功 はあ くま で個人の入社年齢 に付着する資格である)的生産・労務管理を突破する小集団活動・ QC O JITシ ステ ムとい う日本的生産 システムが発明されたのである。労働側の視点か らすれば、労働組合 と企業 との 力のバ ランスが崩れ、労使協調路線が力を振 るい始めて以降に出現 したのであるか ら、む しろ民主主 義 と平等主義 の弱体化の結果、過密で緊張度の異様 に高 い労働を要求するシステムが実現 したと言 う こともできる。 しか しなが ら、戦後 日本発の世界的文化 としてイ ンスタントラーメ ンやカラオケとい う大衆消費文化だけでな く、企業文化の領域 において高 い生産性を実現 したカ ンバ ン方式 (ЛT)が世 界 に波及 した ことはまた別の意味を もっているように思われる。資本主義が この世に出現 したときに ぼそれは自然の成長 リズムに従 う農業的労働様式 に比べれば異常 に厳 しい労働規律を要求す るもの、
恐 るべき非人間的な収奪の出現であった。20世紀初頭に始 まるフォー ドシステムは大量生産・大量消 費の時代を生 み出 したが、 その生産力的基礎は自己の技能に誇 りを もつ熟練労働者か ら、ベル トコン ベアーに したがって分断 された個人個人が一つの作業を繰 り返す単純労働者への転落であった。 日本 的生産 システムは機械的に分断 された作業を工程毎に「 自立」す るチーム作業 に再編成 した。 この結 果、 カ ンバ ン方式・ 改善・ 多能工・ 知的熟練などの新たな生産力的契機の導入が可能 とな り、生産性 は大 きく向上 した。 この擬似的ではあるが企業内に協働作業=共同的義務 と責任を負 う「 共同体」組 織を作 り出 した ことが一切の基礎であろ う。企業側か らの精密な管理技術の蓄積 と一方的労働力編成 とが この直接の原動力であるが、しか し、やはりこの前提には「共同体」を形成できる社会的環境 。人 間的資質が必要であった。ただ資本の強制力のみか ら日本的生産 システムが誕生 した とい うのは無理
人間類型 と経営類型一 日本人と中国人一 39
である。 ウェァバーをなぞって言えば、支配 (管理)の正当性の根拠は最終的には被支配者 (従業員)
がそれを受容するところにある。
日本の労務管理 における支配 と参加の二重性 についての以下の指摘 は示唆的である。「 日本の職場 の作業編成の フレキ シビリティ」は「労働者の合意 と遂行責任をひきだすのに大 きな役割を果た して」
お り、また「QCサークル、改善活動などを通 じて、労働者が自らの作業の改善に取 り組み、その成果 を標準作業 に反映 させ るという、 まさしく構想 と執行の結合がある一面においてはか られて」 いる。
これが「 日本的生産 システムのもとでの厳 しい労働に対する一定の動労意欲をそうした参加活動を通 じて引 き出す ことを可能 に しているのである。」*13
第2章
中国的経営 と中国人論 (1)
第1節
1)こ こでは、先述 した岩田龍子氏が展開 された中国人論 と、中国人論の現在までの集大成である園 田茂人氏の研究をとりあげたい。*14
まず、岩田・ 沈両氏の欧米 。日本・ 中国の経営 モデルをみよう。中
14
第 1図 の「 自己依拠型」モデルは、氏の「 日本的経営の編成原理」以来の主張である。「 一神教の絶 対神を媒介 として相互 に関係を結ぶ……神 との契約や神の掟、その世俗化 としての法や契約が、人 々 の関係を規定す る根源的な枠組みを構成する」*14。 この西洋社会の人間関係 の説明は、 しか しなお
「便宜的」である。確かに信仰の深 い人は心の内に強い道徳律を もちやす く、精神の平静を保 ちやすい ということは経験的 にはいえるが、それは近代 キ リス ト教圏、 とりわけプロテスタン トの社会におい てのみ言えることであ り、宗教改革以前の中世西洋では人々は神 と人の媒介をなす ローマ教会に所属 する個 々の司祭 とい う具体的人間に精神的に依存 していたのではなかろ うか。 自律的人間か らなる契 約社会は西洋 において も近代社会 とともに出現 したのである。法や契約が自立化す る (純粋 に機能す る)ためには、世俗的・ 直接的人間関係か らの分離 (人治社会の克服)や、呪術か らの解放が必要で あ り、呪術的宗教 においては「神 との契約や神の掟、その世俗化 としての法や契約が、人々の関係 を 規定す る根源的な枠組みを構成す る」 ことは困難であろう。また、同 じくキ リス ト教を一源流 としな が ら、 もっとも完成 された一神教であるイスラム教世界の場合に も、欧米型の自己依拠型契約社会 と 呼ぶ ことが可能なのであろ うか。
2)ア
ジアが共通 して間柄重視社会かどうか、少な くとも日中韓が共通 して間柄重視型社会かどうか という点 においてはなお検討すべき余地があろう。類型区分の視点が全 く異なるが、中国・ 韓国・ 台 湾の共通性 (日本 とこの3国 との違 い)については、後述楊天溢氏は明確に指摘 している。「韓国ある いは台湾の場合、従業員の質が高 くよく仕事 もできる。 しか し自分が所属するその単位 と個人の関係 で言 うと、個人の利益だけを非常 に優先する。個々の利益を こえた もっと大 きい単位、課、工場、会 社な りの利益を優先 させ るとか、あるいはその利益 と自分の利益をどうや って一致 させ るか、あるい は自分 をこえた もっと高 い国家・ 社会の利益を考えた方が、結局は結果的に自分の利益 に返 って くる ということを どうして もその人達は認識で きない」*15。 中国人や韓国人は日本のセ ンスでいえば、必 ず しも「間柄重視型」や「集団主義型」ではな く「 自己依拠型」・「個人主義型」であるかのように も 見える。個人 と組織 との関係 という視点を採用すれば、そ して これが経営類型 に決定的な影響を与え る要因であるとい うことは、岩 田氏の日本的経営の編成原理が解明 したところであったのであるが、日本 は欧米 モデル とも中国・韓国モデルとも違 う分類 となる。 この ことは欧米型 とア ジア型 とを 日本
日
1
経営モデル 理念型モデル分類基準
(親密度・ 問柄度)強
中 弱または無または逆
基本構造モデル
個別モデル
(出所)岩 田龍子・沈奇志『現代中国の経営風土』
H頁
目2 人間モデル (1)
問柄重視型
集団ネッ トワーク統合型 ネ ッ トワーク中心型 集団化強制型
日本モデル 中華モデル
中国社会主義モデル 韓国モデル
etc.
中 国
頼 りにな る関係
(自己人0‑家人
)
顔 見知 りの関係 (熟人・知 人)
不信 の関係 (外人・隔 生人)
(出所)岩 田龍子・沈奇志『現代中国の経営風土』18〜 26頁。 なお、( )は園田茂人『中国人の心理と行動』による。
日3 人間モデル (2)
な じみの関係(日本)
な じみが契機 拡散的
形成が比較的容易 期待値低い 好意的 。同調的 A― Bの 2者関係
頼 りになる関係 (中国強)
先天的要件 と親交が契機 集中的
形成 には選択が強 く働 く 期待値高い
助け合いが主内容 A一B―Cの 3者関係 アメ リカモデル
ドイツモデル etc。
気 のお けない 関係
な じみ の関係
無縁 の 関係
顔見知 りの関係 (中国中)
不安定な問柄 顔見知 りが契機 拡散的
期待値は低いが頼み事は積極的 若干の好意・ 非同調的
A―Bの 2者関係
(出所)同上27頁
人間類型 と経営類型一 日本人と中国人一
をアジア型 に入れて分類するという、自己依拠型 と間柄重視型 という2分類方法 の再検討を要求 してい るのではなかろ うか。
ハ、人間類型
この第2、 3図 はたいへんわか りやすい整理である。現実の多様な人間関係か ら帰納的に集約 された 典型的人間関係類型 にはなるほどとうなずいて しまう説得力を もっている。中国人 との交際 という実 践的観点か らすればたいへん有効であろ う。ただ し、 この整理はこの種の人間類型モデルがなぜ生 ま れ、 どのように して存続 しているのかを必ず しも説明するものではないし、 日米欧社会の相互関係を 必ず しも説明 していないことには留意す る必要がある。
「 日本の積極的関係においては、間柄の如何によって人間関係が大 きく変わる点 に着 目」すると、「 中 国の社会関係 においては、この傾向はいっそう激 しいものとなる」ことがわかる。「 中国人は友達 に対 しては本当に親切だが、見知 らぬ人に対 しては冷淡その ものである。その矛盾する両面性が恐いほど である」。摯16この ことが中国 も又間柄重視型モデルの証拠 とされるとともに、日本 との相違は、「親切 さと冷淡 さの乖離の大 きさ」 という同一 モデル下の量的差異にすぎない論拠 とされているのである。
しか し、見知 らぬ人 に対する冷淡 さは欧米人より日本人の方が驚 くほど大 きいともいわれているか ら、無縁・ 不信の枠 についていえば、欧米・ 日本 。中国 という二つの社会は、冷淡 さという同一線上 の量的差異 として並べることもできる。 また、人間関係の自己人・知人・外人 という3区分はどこの社 会 にで もあ りそ うである。第一の枠 につ いて も、家族・ 親戚・ 親友などのごく親 しい間柄では、別 に 日中社会 に限定 しな くて も、欧米社会において も、相互に頼 りにな り、気のおけない、助け合 う関係 が形成 されているように見える。多分、「親切 さと冷淡 さの乖離の大 きさ」という物差 しを乖離の少な い方向へ延長 したところに欧米社会が位置するのではなかろうか。近代国民国家を形成 し人権が確立 した社会では、普遍的人権の波及範囲が直接的人間関係 という縛 りか ら「解放」され、同血・異血、縁・
無縁、信・ 不信云々という特定の人間関係を超えることが可能 となるか ら、 この人情の濃淡の乖離が 縮小 してい くのではないか と推測 される。ただ、中位の間柄 (な じみの関係・ 顔見知 りの関係)にお ける期待度 0同調度・ 好意度などが、信・ 親に近 いか不信・疎に近 いかが日中では異なるのは間柄か ら発生する問題ではな く、社会全体 に対す る信頼度=社会の成熟度 (共同体の成長度)の問題か ら規 定 されていよ う。全体 として言えば、 自己依拠型人間は間柄に左右 されず自己の主観によって対人関 係を処理するが、間柄重視型人間はそのつ ど特定の人間 と自己との間柄 によって人 との関係を決める
(正確 に表現すれば、間柄 によって関係および関係の中味が決定 される)というほどの、質的断絶があ るようには思えないのであるが。
4)日
中の人間類型の相違で もっとも留意すべき点は、中国の頼 りになる関係 (自己人)のみが3者関 係で、 それ以外の関係はすべて2者関係であるということである。 またべつの所では岩田氏はマ レー シア (華人のみは3者)・ 韓国で も2者関係が基本だ と述べている。中国の親密な関係のみが3者間関 係、3者という表現 に特 に意味があるのではな く、A一B、 B一 C、 C一D…… という連鎖のなかで、A
一C、 A一D、 B一 D…… という関係が成立すること、すなわち単純な (単線的な)ネ ッ トヮーク型で はな く、網状のネ ッ トヮークが形成 されるということの意味についてである。常識的な2者間関係は、
ごく一般的な互 いに相手を知 っているというだけの関係 (単なる知人 という関係や取引関係など日本 と中国の2者間関係)をいう場合 と、パ トロンークライア ント関係 (東南 アジアなど、私的保護 一被保 護関係など)を言 う場合 とがふ くまれ るが、いずれの場合に もA一B、 B一 Cは成立するが、同 じ密度 ではA一 Cは成立 しない。む しろ場合によっては、AとCの 仲が悪 い場合にもこの2者間関係は成立 し ているのである。*17こ の3者間関係は自己人 (一家人)の間にのみ成立す る特殊な関係であ り、A≡
41
B、 B≡Cと いう場合にはA≡ Cが成立するのである。 この≡が成立する直接的条件は、中国の自己人 関係 における、 自我 (人格・ 感情)と財産の融合、各 自の面子の合体 (集合化)、 排他性 (身びいき)
であるとされ る。*18
ただ、もう少 し客観的に見れば、これは2者 間関係 という現象的論理以外に、血縁や地縁や制度的組 織のない、すなわち場の存在 しない集団 (共同体)形成の論理であるといえな くもない。A≡Cの間に は「 自我 (人格・感情)と財産の融合、各 自の面子の合体 (集合化)」 という直接的契機が存在 しない ことは自明である。AとCと は互 いに顔見知 りになる前 に (「人情」を贈 りあ う前 に)すでに関係が潜 在的 に発生 しているのである。 これはた とえば日本人 における同級生・ 同期入社 による集団形成 と同 じ論理である。時間 と空間 とが伴われないだけである。 この時空 という場が存在 しないのは、中国伝 統社会 においては皇帝が この世の時間 (年号・ 暦の制定)と空間 (普天率土原則)とを独 占 していた か らであろう。*19こ の微妙な (歪曲 された)仲間形成 こそが、共同体組織能力を奪われていた中国人 の自己防衛的「共同体」なのである。ただ し、非公認・ 非制度的な存在であるがゆえにその利害は私 的な ものとな らざるをえず、既存の諸組織の利益を侵食することによってのみその利害を追求 し、か つその利害 自体 も関係 メンバーの共通利益 としては現れず、その時々の一 メンバーのみの利害 として 実現 されるのである。中国人が生 まれなが らに して共同体を形成できないほどの宿命を負 った自己中 心主義者であるわけではな く、専制国家の支配の枠内で歪曲 されなが らも、 どの民族であれ普遍的 に 貫徹す る共同性を中国人 もまた志向 していると見たほ うが自然であろう。専制国家の下では共同体 は 存在で きないが、共同体を志向する人間の本質 (即自的意味での社会的人間)はいかなるときにも存 続 し続 けると考えるべきであろう。
5)日
中の間柄重視型社会の意味日本人 も中国人 もともに対人関係を重視する (相手 との間柄の性格 0距離などによって関係の持 ち 方を変える)と いう点で共通するというのが、アジア社会の共通性だと言われている理由なのだが、こ の対人関係が機能する社会背景は大 きく異なっている。中国人が対人関係を重視するのは、基本的に は社会 に対す る不信感、敵対的社会のなかでどうや って自己を維持 して行 くべ きか という生存戦略 に 関す る、ある種の中国的処世論 に立脚 している。
「 自分の住んでいる家を一歩出れば、まわ りの人間はすべて敵であ り、自分の寝首 を掻 こうとしてい る」 という人間観は、 いうまで もな く「弱肉強食の世界」を生む。他人か らつけ込まれる前 に、他人 の弱みにつけこめというのが、中国人の行動原理の第一条である。私はこれを「バルネラビリティー (vulnerability)の 原理」 と呼んでいる。バルネラビリティーとは「傷つけられやす さ」 という意味 の英語である。他人に対 して、つけ込まれやすいところを見せてはいけない―― それがバルネラビリ ティーの原理である」。*20
ところが、 日本人の場合 にはどうも説明の方向が逆なようである、 というか必ず しも見方が一致 し ていないよ うに見 られるが、大 きくは二つの説明の しかたがある。一つは、個人間の レベルの人間関 係論 (間柄主義論)であ り、上述 した木村敏氏の『人 と人 との間一T精神病理学的 日本観』 の論理で ある。風土 に由来す る人間関係の不安定性 (突発的激変の可能性を含んだ持続性、気短な辛抱 という 忍耐)のゆえに、逆 に全人格を相手の懐 に (相手 もまたそ うだか ら相互的に)あづけて しまお う、 と いう選択がなされるので、 日本人の関係は自己と他人の区別のつかない一体化・ 身内意識が形成 され るとい うものである。近 い関係においては、 日中とも自己と他者の区別のつかない同 じ身内意識 (自
己人・ ―家人)が形成 され、遠 い関係では無関心 さ、冷淡 さが形成 されることにはなるのだが、中国 人の場合は社会は敵だか らという社会不信 という前提か らこれが説明され、 日本の場合には個別的な