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モンゴル国における積石塚の発掘調査参加報告

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Academic year: 2021

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モンゴル国における積石塚の発掘調査参加報告

著者 柳生 俊樹, 高見 哲士

雑誌名 金大考古

巻 43

ページ 2‑4

発行年 2003‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/2297/2929

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写真1  WBn‑CE2 全景②(W‑E)   

 

モンゴル国における積石塚の発掘調査参加報告        柳生俊樹(博士課程1年) 

      高見哲士(修士課程1年) 

   

この夏、我々は、高浜先生率いるモンゴル国における発 掘調査に参加する機会を得た。首都ウランバートルの北西 600km、フブスグル県ムルン市から西へ約 20km に位置する オラーン・オーシグⅠにおける積石塚の発掘調査である(註 1)。 

 オラーン・オーシグ I には、考古学の文献で「ヘレクス ル」と呼ばれる積石塚と、特徴的な鹿文様を彫り込んだ「鹿 石」と称する立石が見られる。近年までの研究によって、

鹿石については、その年代も判明しつつある。しかしなが ら、ヘレクスルは、科学的に発掘された例が少なく、年代 や、墓葬であるのか否かなど、性格についても不明な点が 多い(註2)。ヘレクスルと鹿石は隣り合うことが多く、

両者は無関係ではあるまい。ヘレクスルの年代や性格を知 るためにも、両者の関係を明確化することが、まず重要な 課題であろう。 

 ところで、ヘレクスルが墓葬であるとすれば、中央ユー ラシア草原地帯における権力の発生を示すものとして注目 される。一般的に、強大な権力が形成されると、質・量的 に突出した墓葬が営まれる傾向がある。権力の発生は社会 経済的な発展の裏付けが必要であるが、草原地帯の場合に は、それは騎馬遊牧文化の確立に関係していよう。騎馬遊 牧文化の形成史には不明な点が多いが、そこに新たな視座 を与えるためにも、積石塚の性格や年代を明らかにするこ とが重要なのである。以上のような目的に添って、オラー ン・オーシグ I における調査が計画されたのである。 

 今年度の調査参加者は、以下の通りである。日本側が、

高浜先生をはじめ、林俊雄(創価大学文学部教授)、川又 正智(国士舘大学文学部教授)、松原隆治(星城大学経営 学部助教授)、畠山禎(横浜ユーラシア文化館学芸員)、

山田真弓(横浜市役所)の各氏と柳生・高見の 8 名。モン ゴル側は、D. エルデネバータル(モンゴル科学アカデミー 歴史研究所)、J. ガントゥルガ(同考古学研究所)、B. ガ ルバドゥラフ(ウランバートル大学)と、ウランバートル 大学の考古学専攻学生が 10 名、運転手のプレブスレン、食 事係の女性 2 名。総勢 24 名である。 

 冒頭に述べたように、オラーン・オーシグ I は、モンゴ ル国西部、フブスグル県の中心であるムルン市近郊に位置 する。ウランバートルからは、車で道無き道を二日がかり である。道中、故障しないのが不思議なくらいのかなり強 引な運転で、その意味でも貴重な体験であった。 

  調査期間中、モンゴル側は遺跡の傍らに野営し、日本人 側はムルン市内のホテルに滞在した。そこから毎朝車で遺 跡に出かけていき、8 時過ぎから夕方 6 時まで作業。終了 後、夕食をとりホテルに戻る。それが我々の一日である。

 

写真1 現場のゲル 

食事も、量が膨大で油っこいことを除けば、特に問題もな くおいしくいただくことができた。スープと、羊肉と野菜 を煮込んだものに米飯を添えたものが定食である(写真2)。  ちムルン市は、「県庁所在地」とは言え、小さな町である。

しかし、ホテルは町一番の繁華街(?)にあり非常に快適 であった。ただ、一階レストランで毎夜行われるダンスパ ーティーの轟音には閉口した。そうは言っても、モンゴル の夏は、こちらの予想に反してそれほど暑くなく、いや、

むしろ寒い日も多く、屋根と布団のある生活は非常にあり がたかった。ときには、モンゴル人学生に、テントに泊ま ることを勧められたが、丁重にお断りした(写真1)。 

 ちなみに、日本でジンギスカンと呼ばれる焼肉料理は、

モンゴルには存在しない。 

では、今年度の調査内容を簡単に紹介しよう。調査成果に

ついて詳しくは略報告が草原考古研究会のホームページ          (http://faculty.web.waseda.ac.jp/yukis/framepage.htm

l)に掲載されているのでそちらを参照されたい。 

今回、対象とされたのは、オラーン・オーシグ I の中でも 北側に位置する「1 号ヘレクスル」である。中央に墳丘、

その周囲には四隅に石堆を伴う方形の石囲いがめぐらされ

−2−

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ている。石囲いの外側には、東半を囲むようにして 21 基の 石堆がある。今年度は、特に墳丘主体部の半截と、周囲の 石堆の発掘が試みられた。 

       

       

       写真2 食事 

 1 号ヘレクスルの墳丘では、比較的大きな石が用いられ ており、隙間には土が詰まっていた。それらは全てが薄い 茶褐色土であり、おそらく人為的に詰められたものではな く、自然現象によるものと考えられる。そこで、まず墳丘 の南東側の四分の一から、詰まった土を取り除き、積み石 の本来の面を検出することが試みられた(写真3)。そし て、それが検出された時点で、平面図を作成する。図面作 成終了後、今度は南西側の四分の一で同じ作業を繰り返す。

このように、順番に積み石を外していくことで、墳丘の構 築方法を明らかにしようと試みた。そして現在のところ次 のような構築方法が想定されている。まずは中心に大きめ の石で核を作り、その回りに順次石を重ねていくというも のである。   

石堆の発掘では、その構築方法が明らかになるとともに、

馬の頭骨が検出され、全てが鼻面を東に向けていた。 

 さらに、1 号ヘレクスルから少し離れた「4 号鹿石」の周 辺の環状配石遺構でも発掘が行われた。こちらは、1999 年 度調査の際、時間的な問題によって埋め戻していたもので あるが、今回、馬の頭骨、頸骨、蹄骨が改めて検出された。

保存状態が極めて良好であった。 

 遺物としては、鹿石と土器片が挙げられる。鹿石は、墳 丘東南部の縁から発見された。円形を二つ表現しただけの ものである。彫りは浅く、一見すると積み石との区別がつ かないほどである。ただ、こうした鹿石が出土したことは 重要で、ヘレクスルと鹿石のセット関係を示唆するもので ある。土器片は、モンゴルとブリヤーチヤの板石墓文化(前 1千年紀前半)に関連づけられるものである。今年度の調 査は、墳丘の半截が完了した時点で、一応の区切りがつけ られた。モンゴル側団長のエルデネバータル先生は、中心 部分に見られる石の重なりが、石槨の一部を構成するもの

であるという。それが正しければ、ヘレクスルはやはり墓 葬、それも構築の困難さから考えて、相当な権力を持つ人 物の墓葬であることになる。 

  写真3 1号ヘレクスル南東部検出作業状況    構築の困難さ・・・それは積み石の取り外し作業を通じ て、イヤと言うほど思い知らされた。前述のように、積み 石の一つ一つは、かなり大きなものである。しかも、外せ ば外すほど石は大きくなっていく。人一人の力ではとても 動かせないほどである。地山直上のものに至っては、屈強 のモンゴル人学生が 3 人、4 人かかっても動かすことがで きない巨大なものであった(写真 4)。それらは金属製バ ールによって石(岩?)を砕いてようやく取り除くことが できた。構築の際には相当の労力が必要であり、(墓葬で あるとすれば)被葬者は正に強大な権力の持ち主であった ことが想像された。しかし、オラーン・オーシグ I を含め モンゴル国内には、我々の 1 号ヘレクスルを規模において 遙かに凌駕するものがいくつも知られている。まだまだ小 さな部類に入る、とさえ言えるのである(もっとも、限ら れた期間内に発掘するのに適した規模であることが、未盗 掘であるらしいこと以外に、1 号ヘレクスルが調査対象に  選ばれた大きな理由でもあったが)。

  写真4 1 号ヘレクスル積み石除去作業状況 

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冒頭で、草原地帯における権力の発生を跡付けるために は積石塚の発掘が重要であると述べたが、正に「身を以て」

そうした重要性を実感させられた。 

 残念ながら、時間的な制約によって、最終的な結論は来 年度へ持ち越しとなった。しかしながら、鹿石の共伴、板 石墓文化の土器片など、ヘレクスルの年代を示唆する資料 が得られたことは重要な成果である。来年度のさらなる成 果を期待したい。 

 

(註1)1999 年にも、モンゴル科学アカデミーと合同で調 査が行われている。その成果については、林俊雄「1999 年 度モンゴル調査報告―オラーン・オーシグ山周辺の遺跡調 査を中心に−」『草原考古通信』11 号(2000 年 5 月)の他 に、草原考古研究会のホームページに掲載されているので 参照されたい。 

写真 1 河姆渡遺跡の高床式建物(復元) 

(http://faculty.web.waseda.ac.jp/yukis/framepage.html) 

(註2)鹿石やヘレクスルなど、モンゴル国の遺跡につい ては、高浜秀「モンゴリヤとブリヤーチヤの文化」藤川繁 彦(編)『中央ユーラシアの考古学』同成社(1999 年)

pp.85‑102 を参照。また、鹿石については、畠山禎「北ア ジアの鹿石」『古文化談叢』27: 207‑225(1992 年)があ り、年代について詳しく考察している。 

   

長江下流域新石器文化の植物考古学的調査への参 加報告 

業天唯正(修士課程 2 年) 

 

 今秋、10 月 25 日から 11 月 7 日までの日程で金沢大学の 中村慎一先生が研究代表者となっている「長江下流域新石 器文化の植物考古学的研究」の中国現地調査に参加させて いただいた。日本からの参加メンバーは鈴木三男(東北大 学)、金原正明(奈良教育大学)の両先生と他大学の院生 3 名の計 7 名である。鈴木先生は植物学、金原先生は環境 考古学、そして中村先生は農業考古学が御専門と先生方の 研究分野がそれぞれ異なり、学際的な調査となっているの が特色である。もちろん、現地の考古学者も調査に参加し ている。 

今回の調査は、上海、江蘇、浙江の各省をまわり、来年 度以降の本格的な調査にむけて各遺跡から出土している植 物質の遺存体−木製品、種子、花粉といった遺物を実見し、

その保存・収蔵状況を確認することを目的としている。今 回は余姚市河姆渡遺跡、同鯔山遺跡、蕭山市跨湖橋遺跡、

寧波市慈湖遺跡(以上浙江省)、江蘇省蘇州市澄湖鞋墟遺 跡などから出土している遺物を観察し、また実際にこれら の遺跡をおとずれ、周辺の立地環境を把握することができ た。このうち河姆渡遺跡と跨湖橋遺跡について簡単にでは あるが紹介したい。 

河姆渡遺跡[1] 杭州湾の南、姚江の北岸に位置する低湿

地遺跡で、時期は河姆渡文化から崧沢文化(前 5000〜前 3000 年頃)にあたる。豊富な木器や種子をはじめとする植 物遺存体の出土があり、河姆渡文化博物館に展示されてい る。また同博物館の屋外には建物跡や井戸などが復元・展 示されていてかなり見ごたえがある(写真 1・2)。こうし た建築物とともに当時の河姆渡人の生活を再現した人形た ちも多数展示されており、かれらのポーズを観ていてもお もしろい。出土した木製品を実見する機会をえたが、処理 がなされていないわりには、これが数千年前の遺物かと思 えるほど形をよく保っていた。また、最近正式報告書が刊  行され、さらなる研究の進展が期待されている。 

写真2 河姆渡遺跡の井戸(復元)

跨湖橋遺跡[2] 「逆流する川」で有名な銭塘江の南側に ある遺跡で、もともとあった湘湖の堆積層にパックされて 遺跡が保存されたため多くの有機質の遺物が見つかった。

特筆すべきはこの遺跡で丸木舟が出土したことである。し かも丸木舟の周囲に木屑や石 が伴ったかたちで。いかに も製作途中の様子をしめしているようで生々しいが、当遺 跡は河姆渡文化よりも古い時期に属する遺跡であり(C14 では前 6 千年紀)、中国最古の丸木舟として重要な発見で ある。実見できた他の資料には図 1 のようなものがある。

図 1 は「槳(=櫂)形器」と報告されている組み合わせ式

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参照

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