哲学バウル・レ‑遺稿集
‑私の以前の著作は未熟な若書きであった‑
訳栗山次
那
目次
良心の成立(「独仏文学論集」五㌧六号)もの
物質(同論集七号)
因果律(同論集八号)
虚栄心(同論集九号)
哲学諸想(本号に第一㌧二幸以下次号)
付
哲 学 諸 想
第一章認識論
一アズムリリ
リ
アリ
ズ ム
への
反 論。
先 ず 極
端ステにアクなリリィッ
立
場から
考てみえよう。
チー
ズは'
「 に お い が
する
」 と いうそれはそだう感覚おす。をひこき が、
「 に
おう
」 と
いう
感 覚チ触はれにると'金属性一つ質が来ズののてあげ出とることるしー。
「
冷たい
」 と
いう
感
覚がおてこっ‑
る。
そ れ は
そう
だ が、
「 冷 た い
」 と
いう
感
覚は
金
属の
一
つの
性 質感覚おす。いをひとし てとうきこ甘」い「砂糖は'げが出来あるること。 そ れ は
そう
だ が'
「
甘い
」 と
いう
感
覚は
砂
糖の
一 性質てあげが出来るるとことし。
誰
でも
知っ
ているだこと
が'
或る
物が
或る
性質を
持見ているにえるにてようしもっ' 実
際にはそではあうり
得いな
の で
ある。
従てっ
物
体は'
そ れ が 所
有ているにしよう
見える
性
質はと
異なたっ
性
質を
有ていのであるるし。
全‑
異ていのであか'なるろうっ
少だけし
異ていのであか。なるろうっ
諸 分 析が明かにていろにれば'らるとこよきし そ れ は 音 感 覚' 色 彩 感 覚' 触感覚無関係物体にではなんをなくど に 注 意
深‑
分
析ていたてそのとしもしっへ
物
体の
性質は‑
そ れ は 客 観
的に
存在見ているにえそのいようようしともとうー起観有源主ていのだt。をにるし
即物体ちは'
客
観的
性
質から
成 立ていみるにえしようようとも' 主
観的
性
169
質から成り立っているのである。
二素朴なる世界観
素朴なる人間は原因と結果をとりちがえる。この一つの玉'これは自明の存在であり'これが玉という知覚像をひ
きおこしている‑‑と考えるのだ。
ところが‑この玉は知覚像であり'(仮定されたるエーテル波や未だ名も与えられていないⅩ'YtZ等々の)
未だ知られざる或る物によってひきおこされているのである。
三「主観的」感覚と「客観的」感覚
我々は'知らず識らずのうちに'苦痛を内部'自分の内に位置化する。
我々は'知らず識らずのうちに'音'色彩'寒暖'硬軟を外部'自分の外に位置化する。
苦痛は自明のものとして'外界に'存在し得るのであろうか。
音'色彩'苦痛に似た諸感覚や寒暖'硬軟は自明のものとして'外界に'存在し得るものではない。それは苦痛と
同じである。
四ロックの「第一性賞」
ロックはその「第一性質」を矛盾から導き出している。即ち‑‑
ある物体をそれ自体として観察して'その物体にふさわし‑ない性質'「物体の第二性質」tは我々の感覚器官から
生じているとロックは主張し'それとして物体の昔'色彩'味'匂いの四つをたびたび指摘する。あたかも人間はこ
三
四
の四つの感覚しか有していないかのように。ロックは物質の感触のことにはいつも言及しないのである。音が聴覚に、
色彩が視覚に対応するように'感触(長短'形態)は明きらかに触感に対応している。
四つの感覚は「第二性質」を生み出し'第五感覚が「第一性質」を生み出すとでもロックはいいたいのであろうか。
それはロック説の精神にも'文言にも反する。
ここにはどうも自己臓着のにおいがする。それを心理学的に説明してみよう。
物体からその感触性を取り抜いて物体を考える人の目には'その物体がたちどころに消えてしまう。物体が存する
とみえたところには物体はな‑、一束の観念の、みが残る。このような論理的一貫性を認知することをロックは恐れた。
物体から全てを消してしまってはいけない'何か把握出来るものを残しておかなければなるまい‑‑かくて'全ての
哲学者に同じ‑'ロックも首尾一貫性をはばかったのである。
五バークリーの誤謬
熱さは客体'火tの性質であるようにみえるけれど'主観性質であることをバークリーは(﹃第一対話﹄の冒頭で)
証明する‑熱さは苦痛である。苦痛は主観性質である。従って熱さも主観性質である。
この証明は誤っている。我々は熱さと苦痛とを仝‑別様の感覚として区別する。我々は熱さを知らず識らずのうち
に、客体'火に付与し'熱さをその逆に主観に付与する程にまでそれは別様なのである。
証明は次のようになされるべきであるI「熱い」は、「痛い」と同じ様に'一つの感覚である。諸感覚は自明の
ものとしては'感覚者とは離れた独自のものとしては、存在し得ないのである。
熱さが'苦痛と同じ様に'主観的と一亨っのであれば'それでもなお熱さは客観的であるかのように見えるのは何故
であろうか。これが次に証明されなければなるまい。このような現象は'未だ仮説の段階ではあるが'ダウィンの理
論によって説明し得る‑熱さが'物体の有する他の性質と同じ‑'客観的に存在するように(ということは'物体
全体が自明のものとして存在するように)みえるということは'目的に合致している'合目的なのである(拙稿﹃物
質﹄二一節参照)。
前述したバークリーの主張については'熱さが少しだったら苦痛とは感じない'大き‑なった時だけだとか'熱さ
と苦痛との間にあるのは程度のちがいにすぎないとかl亨っ人も出て‑るだろう。
ところが熱さと苦痛との差は仲々に拭い去れないのである。さきに指摘された事実は次のように説明出来よう‑
温感神経は知覚神経よ‑敏感である。二十度の水は温感神経を刺激するだけだが'四十度の湯は温感神経に加えて知
覚神経を刺激する。前者の結果が熱感であり'後者のそれが苦痛感となる。
六消えた玉
ビリヤードの玉は自明なる現実性を有しているだろうか。否である。玉は単に遊戯者の観念にすぎない。従って遊
戯者がビリヤード場を出る毎に'すぐさま玉は消える。遊戯者がビリヤード場に入って来る毎に'すぐさま玉はそこ
に存在する。
ところが‑(エーテル波とか末だ知られざる波による)玉という物自体は存在し続け'競技者又はそれと同じよ
うな有機的存在がビリヤード場に入って来る毎に'「玉」という観念を生起させるのだ。
更に‑玉だけでな‑'ビリヤード台も'建物も'否'ビリヤードをやっている人の身体でさえもが'単にビリヤー
ド遊戯者の観念にすぎない。
勿論このような考えは証明可能ではあるが'理解され難い。そのことは今の例でも見てとれよう。
観念論的世界観は'明断ならざる思想家には明噺な考え方であり'明断なる思想家には明断ならざる考え方である。
五
六「物体は単なる観念である」という世界観を全体として認める人は、観念論的世界観を理解したと信ずるであろう。
この世界観を個々の点で明断にしようとする人は'この世界観の理解され難さを理解するであろう。
七観念論
観念論は真理であ‑'且つ理解され難い。疑問符が、それも地球と同じ位大きい疑問符が'観念論的理論体系の頂
点なのだ。
しかし哲学者は断片的な世界観をきらい'デコボコのない世界観を持ちたが‑'又そういう形で世の中に提示した
がるものだ。
彼等は勘違いをしている。カントはその最たる大自己欺勝家である。
八唯物論
唯物論は観念論より理解しやすいわけではない。それは次のように説明出来よう。
例えば頭に穴をあけて'そこから脳及びその分子運動が見えるものと考えてみよう。そうすればへその分子運動が
思想であり'ブヨブヨしたかたま‑が天体の動きを計算Lt情熱にゆすぶられ'決断を下し'意欲するのだとしか考
えられない。
このような仮定は'それとは対立する(人間は観念の集積であり'ブヨブヨしたかたまりも観念の一つなのだとい
う)仮定と同じ位理解し難い。
九二律背反
事物の本性は科学的、哲学的思想家をして唯物論者且つ観念論者たらしめる。
唯物論者1推測するに、最初の有機体は無機物よ‑発展した。又'単純なる有機体から高次の有機体が発展し'
最終的には猿'人間に至る。
人間の1器官が脳であり'脳が思考する。脳が思考するという仮定は'次の事実によっても確認される。‑上行
する動物系樹にあっては'灰色の大脳皮質の増大が知能の上昇を伴っている。知能が大きければ'それだけ大脳皮質
が大きいのである。
か‑て大脳皮質のどの部位にどの神経中枢があるかをある程度知り得る。左側三番目のらせんが言語中枢、後頭葉
に視覚中枢'側頭葉に聴覚中枢'中頭葉に触覚中枢がある。この様に観念は物質の産物である。というのも脳は或る
物質的なるものであり'しかも多‑の変化を経た上で非有機物質から発展したのである。
観念論者‑物質は第一次的なるものではない'即ち観念主体の基底ではない。そうではな‑て'観念主体が一次
的なるものであり'物質は諸観念のうち1つの観念である.両者の言い分は共に正しい。両者の観念が共に正しいな
どとどうして考えられるというのであろうか。それに答が出せれば'世界の問題に解答が与えられるだろう。
問題は次のように理解してもいいだろう‑‑
唯物論者‑例えば太陽が冷却し、観念存在が全体として没落しても'無機物はなお存在する。
観念論者‑観念存在が没落すれば、無機物もIそれが単に観念であるが故に‑同時に没落する。
唯物論と観念論とは‑カントの哲学的天才が'二つの世界の住人たる人間という解釈を示すことによって、意志
の不自由と自由意志とを統一し得たように‑どうにかして和解'調整し得ないものであろうか。内在的・超越的忠
弁によって唯物論と観念論とが調和されることもあり得るだろう。しかしそれは誠実なる思想家によってなされる技
七