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公開シンポジウム「しあわせ×あいだ×ローカル」 報告

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Academic year: 2021

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著者 大岩 圭之助

雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =

Annual report of the Institute for International Studies

巻 23

ページ 117‑120

発行年 2010‑10‑01

その他のタイトル Symposium; Happiness*Liminality*Local a Report 

URL http://hdl.handle.net/10723/00004003

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 「しあわせ×あいだ×ローカル」は、201911910日に本学戸塚キャンパスで開催さ れた第三回「『しあわせの経済』国際フォーラムin横浜」の中で行われた国際学部付属研究所 主催のシンポジウムである。また、それは国際学部付属研究所長大岩と前所長高橋源一郎とで 進めてきた「あいだ」をめぐる共同研究の中から、生まれた企画でもある。二人の他に、ゲス トとして法政大学総長で江戸文化研究家の田中優子氏とコミュニティ・デザイナーとして活躍 する山崎亮氏を迎え、四人の座談会という形で行われた。その広報文には次のように書かれて いた。

  未だ支配的なグローバリズムも、それへの反発としてのナショナリズムも、「あいだ」を 消し去る構造的な暴力だという点で共通している。人類の存続そのものを脅かす危機とは、

言い換えれば、自然と人間との「あいだ」、人間とコミュニティの「あいだ」、人間同士の「あ いだ」、身体と心の「あいだ」、過去と現在と未来の「あいだ」が見失われる危機なのでは ないか。とすれば、もう一度、つながりとしての「あいだ」をあちこちに見出さなければ ならない!

 「あいだの研究」は、やはり大岩と高橋とが手がけた付属研究所の共同研究プロジェクト「弱 さの研究」20102012)と「雑の研究」20152017)の延長上に生まれた。「雑の研究」では、

やはり201711月の「『しあわせの経済』世界フォーラムin東京」の中で、特別企画として「し あわせ×雑×ローカル」を同じ四人のメンバーによるセミナーを行なったが、その記録を基に した論考は、『雑の思想 世界の複雑さを愛するために』(2017年、大月書房)の第3章として 収録されている。

 「雑の研究」での成果を引き継ぎ、さらに深めるものとして、「あいだの研究」は始まったの だが、その問題意識を表現したものとして、ぼくが上記『雑の思想』の「はじめに」に記した 文章を引用したい。

  境界とはAの終わりであると同時に、Bの始まりであるような、どちらでもあり、どちら でもない、分類不能の“雑なる”領域だ。どっちつかずだからこそ、ABの両方が見える 場所、両方が混ざり、交雑し、そしてつながりうる場所でもある。(前掲書、P.5)

 そこで、ぼくは国際学部の「国際」という言葉、特にその中の「際」という概念に触れて、

こう述べてもいた。

大岩 圭之助

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 ここでいう「『際』という境界から世界を見ていこうとする」一つの試みが、「あいだの研 究」であると言っていい。これと同じ問題意識が、本セミナーの前後に計7回行われた公開セ ミナー・シリーズ『 国際 再考 グローバルとローカルのあいだ』にも貫かれている(本誌 公開セミナー「 国際 再考─グローバルとローカルのあいだ」報告参照)。

 では、本セミナー登壇者たちのそれぞれのプレゼンテーションから一部を抜粋し、要約して おきたい。

1. 田中優子氏はこう論じた。

   私が江戸文化に出会って最初にびっくりしたのが、一人の人間がいくつもの名前を持っ ているという現象だった。どれが本名かと私たちはつい考えてしまうが、では何が本名か と言えば、私たちにとっては戸籍上の名前のこと。その戸籍とは、今なら税金、当時なら 年貢、武家なら家柄というところに結びつけられ、紐付けられているものだ。

    現代の私たちは「個人」と言えば当たり前の概念だと思っているし、「自分」というのも、

たった一人の「自分」だと思っている。それを前提に、私たちはアイデンティティとか、

自己同一性という言葉を使うし、「個を確立しよう」などと言う。しかし、江戸時代の人々 は全くそういうことを考えていなかったようだ。江戸文化における「わたし」は、そうし た一つに同定される「わたし」という考え方とはかなり違う。一人がいくつもの名前を持 つことが当たり前だということの中に、「わたし」の中の多様性が表現されている。では、

彼らは私たちが言うところの「自分」をもっていなかったのかというと、決してそうでは ない。一方、「わたし」の中の多様性というのは、「わたし」ともう一つの「わたし」のあ いだが分断され、分裂しているのかと言えば、それも違う。いくつもの「アイデンティティ」

を文脈によって柔軟に使いこなすことによって、それぞれの生を深め、あるいは豊かにし ていたのではないか。

    ……名前をいくつももった人たちが、それぞれ名前で活動する場所が「連」というネッ トワークだ。たくさんある連のいくつかに一人の人間が出入りしながら、自分の才能を分 けて使っていく。特にこうしたネットワークが発達したのが江戸の町で、出版界、文芸界、

ファッション界などが形成され、その中にまた個別に浮世絵、狂歌、漢詩などのサークル が生まれる。その先に江戸文化全体が生まれる。つまり、江戸文化とは一人の人間が才能 を分離させてネットワークを広げていく中で成立したと言える。江戸の町のこうした特徴 は、程度の差こそあれ、他の町や農村にも見られた。

    さて、こうした江戸時代の「わたし」の中の多様性を見て、現代の私たちは、彼らが一 つの「自分」ともう一つの「自分」との「あいだ」をどんなふうに考えていたのか、想像 してみるといいのではないか。

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2. 山崎亮氏は、以前の専門であった建築から現在のコミュニティ・デザインへと転じてきた 経緯を以下のように話した。

 公共建築を設計することになった時に、これまで建築家が、地域の人々の話を聞かずに設計 をして、それを押し付けるという暴力的なことをずっとやってきたことへの反省があった。何 かを建てるならやはり利用者になる地域の人たちの話を聞かなければいけない。でも100人、

200人の話は一度に聞けないから、67人ずつに分けて、個別にワークショップを開いて話 を聞き、まとめていくという方法があると知って、現在のコミュニティ・デザインという仕事 をやるようになっていった。

 コミュニティ・デザインとは対話の場をつくることによって、人と人の「あいだ」に新たな 価値を生み出すことをお手伝いする仕事だ。「みなさんはどう生活したいのか」、「その生活の 中で図書館を使うなら、どんな時間帯に、どんなふうに、誰と使いたいのか」といったことを 話し合ってもらう。普通に話し合っているだけだと、今までの既存の図書館のイメージしか出 てこないので、「図書館のようだけど、映画館のようでもあり、博物館と美術館的でもあるん だけれど、プールでもあるような場所だとどうですか?」というふうに、いろいろ変な問いを 立てて投げかける。するとみんないろいろ考え始める。こんなことがやってみたいとか、あん なこともできるかもしれないというふうに。

 そこで新しく出てきたアイディアを我々が設計に移していく、というような仕事をやるよう になっていった。こうした話し合いでは、意見のぶつけ合いではなく、“YES, and…”という対 話の方法をとる。「なるほど、それならこんなこともしたいわね」、「あなたとだったら、こん なこともできる」というふうに、アイディアが増幅していく。そして、施設が完成したら一番 の使い手になってくれるような住民を増やしていくというのが、今我々がやっている仕事だ。

信頼できる関係の中で、安心して意見が出せるような状況をつくり、仲間をつくっていく。ま さに「あいだ」をつくる仕事だ。人と人とのあいだに安心感があればこそ、そこに新しい価値 が生まれてくる。それがコミュニティをデザインする、ということなのだと思う。

3. 高橋源一郎氏の発言から抜粋、要約する。

 電子書籍をぼくも使うのだが、すごく読みにくい。何でだろうと考えてみた。大事なのは、

本には厚みがあるのに、電子書籍にない、ということではないか。一応機械にも物理的な厚さ はあるのだが、厚さがない感じがする。要するに何ページっていうのがないし、「めくれ」と 出るが、実際にはめくれない。すると、どう読んでいいかわからなくなってくる。考えてみて わかったのは、本では読んでいる時にページめくるなどしてワンクッションを置いているとい うこと。読むという動作はアナログだ。電子辞書では情報として字を読む。それがだんだん辛 くなってくる。特に小説を読んでいるとあまりに辛くてやめてしまう。それは、何か中間に、

あいだに、媒介物やクッションがないと、うまく頭が回らないということではないか。このこ とが思考についてのある示唆を与えてくれる。

 本を読むということは、単に情報としての言葉を読んでいるのではないということだ。本そ のものが「あいだ」だと言えるかもしれない。自分が参加するスペース―自分が入っていって

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問われる。それで、努力して読む、徹底して読むうちに、やがてそこに隙間ができる。そこに 入り込んで、「これは気持ち悪い」とか「これは変だ」とかと感じていく。これが必要なので はないか。いわば、「あいだ」を無理矢理に作っていく。そういうことをいつもぼくはしている。

これが読むということではないかと思う。

4. 以上、三人の発言を受けて、最後に大岩が発言した。このまとめのコメントから一部を抜 粋する。

 「読む」とは、自分とテキストの「あいだ」を作るという営みではないかという高橋さんの 話は、もっと一般的に、自己と他者の「あいだ」に「余地」を、「隙間」を入れ込むことによっ てはじめて関係としての「あいだ」が成り立つということを語っているのだと思う。またそれ は田中さんの言われた自分の内なる多様性にも繋がるだろう、と思う。自分と他者の「あいだ」

も、自分の内なる「あいだ」も、どちらも「自己同一性」や「主体」という硬く、固定的に見 える概念の中に柔軟さを持ち込むことになる。

 時間も空間も人間もみな「間」、つまり「あいだ」をその中に含む概念だ。高橋さんが記憶 について話してくれたので、時間について少し考えてみたい。108日の公開セミナーで中島 岳志さんが、オルテガ・イ・がセットやエドムンド・バークなどのいわゆる保守思想家を引き ながら話してくれたのが「死者の民主主義」ということだった。現代社会の民主主義の一つの 特徴は、生者至上主義だ。今たまたま生きている人間たちが、こうだと思ったことなら、何を 決めるのも自由だ、という考え方だが、しかし、そういう民主主義は非常に危ういのではない か、という議論だった。チェスタトンなどは「死者に投票させよ」とまで言っている。確かに 現代人は記憶力が衰えたかのようで、過去に対するその態度には「反過去」とでも言えるよう な冷淡さがある。記憶が人生だという高橋さんの言い方に沿って言えば、記憶こそが文化だと 言えるかもしれない。記憶が浅い民族と深い民族の違いはあるけれど、浅いと言われている文 化でも、実は昨日のことのように、大昔のことを話したりする。長い時間の流れを文化の中に 溜め込んでいるとでもいうように、奥深い時間の層を自分の内にもちつつ日々を生きていたの ではないか。それが、近代以降、過去が古びて、意味を失うまでの時間が急速に切り縮められ ていった。

 過去に関心をもたない者は、未来にも関心をもたない、とよく言われるが、その通りだと思う。

「反過去」は、同時に「反未来」なのだろう。気候変動まで引き起こした環境破壊など、現代 人はまるで未来など存在しないかのように振舞っている。

 そうした意味で、本来の人間の特徴であるはずの、過去と未来の「あいだ」に生きるという 感覚が失われていると言えるのではないか。

参照

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