密 教 文 化
ヒ 「Jitari
と Prajnakaramati」
-Jitari の 『有 神 論 批 判 』 神戸女子 大学助教授白 寄
顕
成
Dharmakirti 以 後、 独 立 し た 仏 教 の 『有 神 論 批 判 』 に 次 の も の が あ る。 1) Subhagupta (720-780年) の Isvarabhangakarika (D. No. 4247)。〔Text 校 訂、 和 訳 〕 渡 辺 重 朗 「仏 教 論 理 学 派 の 破 神 論 」-シ ュ バ グ プ タ と シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ の 場 合、 『玉 城 康 四 郎 博 士 還 暦 記 念 論 集 ・仏 の 研 究 』、春 秋 社、579∼593頁、1977 年。 〔研 究 〕 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、 『講 座 大 乗 仏 教 』9、 認 識 論 と論 理 学、 春 秋 社、 256∼291頁、1984年。 2) Jlianasrimitra (980年) の Isvaravada。 〔Text 校 訂 〕
Jnanasrimitranibandhavali, ed. A. Thakur, Tibetan Sanskrit Works Series,
5, Patna, 233∼316頁、1959年。 〔研 究 〕
宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、256∼291頁。
3) Jitari (10世 紀 後 半) の Isvaravadimatapariksa。 〔Text 校 訂 〕
Jitari, Kleine Texte, von G. Buhnemann, Wien, 39∼43頁、1982年。
4) Patnakrrti (10世 紀 後 半) の Isvarasadhanadusana。 〔Text 校 訂 〕
-96-Ratnakirtinibandhavali, ed. A. Thakur, Tibetan Sanskrit Works Series, 3, Patna, 32-57頁 、1975年 。 5) Nagarjuna (10世 紀 後 半) の Isklarjewiadsalkdtjaeliasea-karana (D. No. 4461)。 〔Text 校 訂 、Sanskrit 還 元 、 和 訳 〕 宮 坂 宥 勝 「チ ベ ッ ト蔵 経 に 伝 え る 破 神 論 の 梵 文 資 料 」、 『中 野 教 授 記 念 論 文 集 』、281-301頁 、1980年 、宮 坂 宥 勝 『イ ン ド古 典 論 』 上 、162-178頁 、1983年 。 〔研 究 〕
G. Chemparathy, Two early Buddhist refutations of the existence of Isvara as the Creator of the Universe, Peitrage zur Geistesgeschichte Indiens,
Fest-schrift fur Erich Fralkjdfwner, wien, 1968年 。
Th. Stcherbatsky, A Buddhist philosopher on monatheism, Papers of Th.
Stcherbatsky, Sowzet Indozogy Series, No.2, 1969年 。
宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、256-291頁 。
次 に 、Dharmakirti以 後 の 仏 教 論 書 で 「有 神 論 批 判 」 を 扱 っ た も の に 次 の
も の が あ る 。
6) Dharmaklrti (7世 紀) のDsaekjrladka, Pramanasiddhi章 、K. 10 -28。
〔和 訳 〕
木 村 俊 彦 『ダ ル マ キ ー ル テ イ 宗 教 哲 学 の 原 典 研 究 』、 木 耳 社 、41-57頁 、 1981年 。
〔研 究 〕
E. Steinkellner, Augenblichkeitsbeweis and Gottesbeweis bei Sankarasvamin,
Dissertation, Wien, 1963年 。
G. Oberhammer, Zur Problem des Gottesbeweis in der indischen Philosophie, NVMEN, 1965年 。 木 村 俊 彦 「正 理 学 派 の 神 の 論 証 と ダ ル マ キ ー ル テ ィ に よ る 批 判 」、 『印 度 学 佛 教 学 研 究 』19巻 、 第1号 、221-229頁 、1970年 。 ﹁ J i ta r i と Praunakkaramati﹂
密 教 文 化 木 村 俊 彦 「正 理 ・勝 論 学 派 の 有 神 論 に 対 す る 仏 教 論 理 学 派 の 批 判 (一)」 一 ダ ル マ キ ー ル テ ィ に 於 け る-、 『文 化 』第34巻、 第3号、224∼225頁、1971年。 羽 田 野 伯 猷、 木 村 俊 彦 「正 理 ・勝 論 派 神 論 の 研 究 」-ウ ィー ン 学 派 に お け る 一、 『文 化 』 第35巻、 第4号、141∼151頁、1972年。 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、256∼291頁。 7) Prajnakaragupta (8世 紀 頃) の Pramanavarttikdlarikara, 35∼50頁。 〔Text 校 訂 〕
Pramanavarttikabhashyam of vartikalankaraji of Prajnakaragupta, Tibetan Sanskit Works Series, 1, ed. R. Sankrityayana, Patna, 1953年。
8) Santaraksita (8世 紀) の TattvasangTaka, Isvarapariksa 章、K. 46∼93; Purusapariksa 章、K. 153∼170。 〔和 訳 〕 渡 辺 重 朗 「仏 教 論 理 学 派 の 破 神 論 」-シ ュ バ グ プ タ と シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ の 場 合、 『玉 城 康 四 郎 博 士 還 暦 記 念 論 集 ・仏 の 研 究 』、春 秋 社、587∼591頁、1977 年。 中 村 元 『初期 の ヴ ェ ー ダ ー ン タ哲 学 』、岩 波 書 店、350∼377頁、1950年。 〔研 究 〕 木 村 俊 彦 「正 理 ・勝 論 学 派 の 有 神 論 に 対 す る 仏 教 論 理 学 派 の 批 判 (二)」 一 シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ に お け る 一、 『宗 教 研 究 』 第213号、71∼89頁、1973年。
9) KamalaSila (8世 紀) の Tattjidfka, Isvaraparlksa 章; Pu-rusapariksa 章。 〔和 訳、 研 究 〕 田村 智 淳 「最 高 神 の 考 察 (KK. 46∼68)」、 『八 世 紀 イ ン ドに お け る 仏 教 と 他 学 派 と の 対 立 と交 渉 』(『 タ ッ トバ サ ング ラバ』 研 究)研 究 報 告、1∼13頁、 1979年。 中 村 元 『初 期 の ヴ ェ ー ダ ー ン タ 哲 学 』、岩 波 書 店、350∼377頁、1950年。
10) Santideva (8世 紀) の Boclkieanptvatdira, Prajnaparamita 章、K. 119∼
-94-127。
〔和 訳 〕
金 倉 圓 照 『悟 り へ の 道 』、平 楽 寺 書 店、196∼198頁、1965年。
〔仏 訳 〕
La Vallee Poussin, Introduction a la pratique des futurs Buddhas, Paris,
1907年。
L. Finot, La Marche a la lumiere, Paris, 1920年。 〔英 訳 〕
L. D. Barnett, The path of Light, London, 1909年。 〔独 訳 〕
R. Schmidt, Der Eintritt in den Wandel in Einleuchtung, Paderborn,
1933年。
E. Steinkellner, Santideva, Eintritt in das Leben zur Erleuehtung, Koln,
1981年。 〔研 究 〕 山 口益 「中 観 仏 教 に お け る 有 神 論 の 批 判 」、 鈴 木 大 拙 博 士 頬 寿 記 念 会 『仏 教 と文 化 』、68∼97頁、1960年、 山 口益 『山 口益 仏 教 学 文 集 』 下、 春 秋 社、236∼ 248頁、1973年。 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、267∼270頁。
11) Jitari (10世 紀 後 半) の Ssdfkjaldksjtaels, Vaibhasika 章、P.
296b8∼320b4、D. 1gb2∼38b6。
12) Prajnakaratnati (10世 紀 後 半) の Bosdakljfoajisdkla, Prajnapara-mica 章、K. 119∼127。 〔研 究 〕 山 口 益 「中 観 仏 教 に お け る 有 神 論 の 批 判 」、『山 口益 仏 教 学 文 集 』 下、236∼ 248頁。 田 村 智 淳 「プ ラ ジ ュ ニ ャ ー カ ラ マ テ ィ の 有 神 論 批 判 」、『南 都 仏 教 』 第27号、 1∼22頁、1971年。 ﹁ J i t a r i と P rajn a k a ram a t i
密 教 文 化 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判 」、271∼275頁。 13) Moksakaragupta (11世 紀) の Tarkabhasa, 39∼46頁。 〔Text 校 訂 〕
Tarkabhasa of Mokasakjta, ed. Iyengar, Mysor, 1952年。
Tarkabhasa, ed. E. Krishnamacharya, Gaekward Oriental Series, 94, 1942
年。
Tarkabhasa and Anekantavadanirasa of Mokshakarayupta and Jitaripad, ed.
with a Hindi Translation, by R. Giri, Varanasi, 1969年。
〔和 訳、 英 訳、 研 究 〕
梶 山 雄 一 「認 識 と論 理 」(タ ル カバ ー シ ャー)、 『世 界 の 名 著 ・大 乗 仏 典 』、 中 央 公 論 社、447∼543頁、1967年、 梶 山 雄 一 『論 理 の こ と ば 』 モ ー ク シ ャ ー カ ラ グ プ タ、 中 央 公 論 社、1975年。
Yuichi Kajiyama, An Introduction to Buddhist Philosophy, An annotated translation of the Tarkabhasd of Moksdkaragupta, Memoirs of the Faculty of
LetteTs, Kyoto University, 10、Kyoto, 95∼110頁、1966年。
以 上 に よ っ て、Jitari に は 独 立 した 著 作 と し て の 『有 神 論 批 判 』 と、 論 書 の 中 で 取 り扱 わ れ る 「有 神 論 批 判 」 の 二 種 が あ る こ と を 指 摘 出 来 た と 思 う。
こ の 内、3) の Zgvaravaaimatapariksa は、Buhnemann 校 訂 テ キ ス トの 頁 数 に し て わ ず か 五 頁 の 小 品 で あ る が、Naiyatyika の 「樹 等 の す べ て の 結 果 は 神 に よ っ て 作 ら れ た 」 と い う主 張 に 対 し て 批 判 が 加 え られ て い る。
Naiyayika の 論 拠 は 推 理 で あ り、 そ れ は、Jfianasrimitra が Isjdfiana に お い て 引 用 す る も の と対 応 す る。 Jitari の 引 用 す る 推 論 式 は 次 の よ う な も の で あ る。 『結 果 な る も の は、 作 者 と不 可 分 の も の で あ る と 〔現 に 〕 見 られ る。 ま た、 論 争 の 主 題 と な っ て、 〔そ の 知 的 作 者 の 有 無 の 疑 わ しい 〕 樹 等 も 〔実 は 壺 等 と〕 同 様 で あ る。 (1) と こ ろ で そ の 「作 者 」 と は、 尊 き主 宰 神 な の で あ る。』 次 に、Jnanasrimitra の 引 用 す る 推 論 式 は 次 の よ う な も の で あ る。
「山等 は覚 知 を有 す る 能 作 者 に 依 存 す る。 つ く られ た 性 質 の もの だ か らで あ る。 そ れ ぞ れ なん で あれ、 所 作 な る と ころ の も の は覚 知 を 有 す る能 作 者 に 依 存 す る こ とが経 験 上 知 られ る。 た とえ ば瓶 の よ うに。 そ して、 この 山 な どは つ く られ た もの で ある。 (2) だ か ら 〔山 な ど は 〕 覚 知 を 有 す る も の に 依 存 す る。」
さ ら に、Jitari と Jfianasrimitra の 推 論 式 は 共 に Vacaspatimisra の Nyaya-varnttikatatiparyatika (以 下NWTTと 略 す) の 推 論 式 と 対 応 す る。 「身 体、 樹 木、 山 な ど は 質 料 因 に 通 暁 す る 能 作 者 を 有 す る。 生 起 性 の も の だ か ら。 ま た は、 無 知 な る 質 料 因 た る も の だ か ら。 お よ そ 生 起 す る も の、 ま た は、 無 知 な る 質 料 因 を 有 す る も の は、 質 料 因 の 通 暁 者 に よ っ て つ く ら れ る。 た と え ば 宮 殿 な ど の よ う に。 当 の 身 体、 樹 木、 山 な ど は そ の と お りで あ る。 (3) だ か ら、 そ の よ うに あ る。(資 料 因 に通 ず る能 作 者 を 有 す る。)」 な お、Jitariの こ の 著 作 は 二 度 に わ た っ て、Ratnakirti の Isakjiofan (4) sana に 引 用 され て い る。 次 に、11) の Scagatamataviblzangahhasya (以 下 SMVBh と 略 す) で あ る が、 こ の vaibhasika 章 で は、 実 に 五 分 の 三 近 く が 「有 神 論 批 判 」 に あ て ら れ て い る。 こ こで は Jitari は さ か ん に 帰 謬 論 証 を 使 用 し て、Naiyayika の 主 張 が 成 立 し な い こ と を 論 証 し て い る。 最 後 に、 恒 常 に し て 唯 一 な る 神 の 一 切 智 者 性 の 否 定 が な さ れ る が、 こ れ は 間 接 的 に は、 仏 陀 の 一 切 智 者 性 を 証 明 す る こ と に な る。 Jitari は、 こ の 仏 陀 の 一 切 智 者 性 を Saerjidfhi と い う著 作 に お い て 論 証 し て い る。 こ れ も わ ず か 二 頁 の 小 品 で あ る が、Ratnakirti や Moksakaragupta に 引 用 (5) さ れ て い る。 SMVBh で は、 「す べ て の 作 られ た も の (有為) は、 瞬 間 的 存 在 で、 自 我 を も (6) た ず、 〔行 為 以外 に神 な る〕 創 造 者 を もた な い 」 と結 論 され て い る。 さて、SMVBhは、 神 の 慈 悲 を め ぐる 問 題 か ら出 発 す る。 本 論 で は、 神 の 慈 ﹁ J i t a r i と P r aj nakaramcti﹂
密 教 文 化 悲 を め ぐ る 問 題 を と お し て、Jitari と Prajnakaiamati の 関 係 を 考 察 す る。 神 の 慈 悲 を め ぐ る 問 題 とは、 も し 神 が 慈 悲 を 有 す る も の で あ る な ら ば、 ど う して 生 き と し 生 け る も の に 対 し て、 地 獄 の 苦 し み を 与 え る の で あ る か と い う こ とで あ り、 そ の 疑 問 を 出 発 点 と し て、 論 議 が 進 行 して い く。 と こ ろ で、 神 の 慈 悲 に つ い て ふ れ て い る 論 書 に 次 の も の が あ る。 1) Tattvasan, graha, Purusapariksa 章 (以 下TSと 略 す)。
2) NVTT 3) SMVBh 4) Bodhicarydvatdrapanijikd 5) Sarvadarsanasamgraha (以 下SDSと 略 す)。 6) Syasdkfjiarai (以 下SVMと 略 す)。 7) Tawerkljsdfjia (以 下TRDと 略 す)。 こ の 内、TSが 最 も 重 要 で あ っ て、 他 の 著 作 に 多 く の 影 響 を 与 え て い る。 TS 153偶 で は、 ヴ ェ ー ダ 論 者 (Vedavadin) が、 神 と 共 通 な 性 質 を も っ プ ル シ ャ を、 世 界 原 因 で あ る と 想 定 し て い る こ と が 紹 介 さ れ る。 し か し、155偶 で、 プ ル シ ャ は 神 と 同 じ過 失 を も つ の で あ る か ら、 こ の 主 張 は 正 し く な い も の と し て 斥 け られ る。 続 い て、156偶 以 下 で、 そ の 過 失 の 一 々 が 取 り あ げ られ、 問 題 と され る。 最 初 に あ げ られ て い る 「神 の 自 立 性 が な く な る 」 とい う Santaraksita の 批 判 は、 も し 「他 の も の に 促 され て 〔創 造 の 活 動 を な す 〕」 と主 張 す る な ら ば、 フ ル シ ャ の 自立 性 (svatantrata) は 存 在 し 得 な い と い う も の で あ る。 156、157偶 に お い て は、 神 の 慈 悲 の 問 題 が と りあ げ られ る。 も し、 フ. ル シ ャ が 「慈 悲 に も とつ い て 〔創 造 す る 〕」 と主 張 す る な ら ば、 生 き と し生 け る も の を 専 ら安 楽 あ る も の に 作 る べ き で あ る。 そ れ な の に、 人 間 を 痛 苦 ・困 窮 ・憂 悶 等 の 様 々 の 苦 痛 に 苦 し め ら れ る も の と して 創 造 す る そ の プ ル シ ャ が、ど う し て 慈 悲 あ る も の と考 え られ よ う か と San-taraksita は 批 判 す る。 Kamalasila は、 も し も 慈 悲 に も とつ い て 他 人 を ま も り利 益 す る た め に 〔世 界 創 造 を 〕 為 す の で あ る と い う な らば、 そ れ な ら ば 苦 し む 有 情、 た と え ば 地 獄 に 在 る 者 等 を 創 造 し な い で、 専 ら安 楽 あ る も の の み を 創 造 す る で あ ろ う と注 釈
-90-し て い る。 158偶 で は、Santaraksita は プ ル シ ャ の 世 界 創 造 以 前 に は 慈 悲 を か け られ る べ き 有 情 が 存 在 し な い の で あ る か ら、 慈 悲 を 有 す る が 故 に 世 界 創 造 者 で あ る と い う こ と も 成 立 し な い との べ て い る。 次 に santaraksita は、 「プ ル シ ャ は 常 に 繁 栄 と結 合 し て い る も の た ち を 死 に 至 ら し め る べ き で は な い。 〔ま た 〕 有 情 の そ れ ぞ れ の 不 可 見 力 (adrsta) に も と つ い て 〔楽 ・苦 が 生 じ る の で あ る な ら ば 〕、プ ル シ ャ の 自立 性 は な く な る (159偶)。 一 体 何 の た め に 〔プ ル シ ャ は 〕 苦 〔楽 〕 の 原 因 で あ る 不 可 見 力 (adrsta) に 依 存 す る の で あ る か。 も し も 彼 が 慈 し み の 心 を も つ も の で あ る な ら ば、 不 可 見 力 を 無 視 す る こ と こ そ、 彼 に ふ さ わ し い の で あ る (160偶)」 と批 判 し て い る。 こ の 補 助 因 と し て の 不 可 見 力 (adrsta) は Vacaspatimisra のNVTTに も と り あ げ ら れ て い る。 以 下、Santaraksita は、 戯 れ の た め の 創 造 に 対 す る 批 判 (161-163偶)、 創 造 は 神 の 本 性 で あ る こ と へ の 批 判(164∼168偶)、 創 造 は 神 の 無 思 慮 に も と つ く こ と へ の 批 判 (169偶) を な し、 そ し て 最 後 に、 こ れ 等 の 批 判 は、 ヴ ィ シ ヌ 神、 ブ ラ フ マ 神、 カ ー ラ (時間) に も 適 用 され る とい う こ とで こ の 章 を 終 え て い る。 と こ ろ で、T8で 問 題 と され て い る プ ル シ ャ は、Nyaya 学 派 の 神 と は 異 な っ た も の で あ る が、 し か し ヴ ェ ー ダ ー ン タ 学 派 で 説 く神 (Isvara) と は 同 一 で あ (7) る。 SMVBhで は、 「病 気 〔や 災 厄 〕 等 の多 くの 〔悲 惨 な 〕 境 遇 に あ え ぐ 畜 生 〔や 地 獄 〕 等 の 相 異 に よ って 区 別 され た と認 め られ る もの に、 〔神 な る〕 創 造 者 が存 在 す る とは、 どの よ うに も認 め られ な い。 も し、〔神 な る 〕 創 造 者 が 慈悲 深 き 心 の や さ し さを も って い るの で あ る な ら ば、 何 に も とつ い て、 どの よ うに世 界 を 救 うの で あ る か。 慈 悲 とは 苦 を 消 滅 せ し め る も の と認 め られ て い る の で あ る。 慈 悲 を もっ 神 が 苦 を 与 え る も ので あ る (8) な ら ば、 一 体 誰 が 信 仰 す る で あ ろ うか 」 と の べ ら れ て い る。 Jitari の こ の 神 の 慈 悲 に 関 す る 議 論 は 前 述 のTSと 対 応 す る が、Prajfiaka-ramati のBOAPと も よ く対 応 す る。 Prajnakaramati は、BOAPで 次 の よ う に の べ る。 ﹁ J i t a r i と P raj n a k c r an gti﹂
密 教 文 化 「も し神 が 慈 悲 あ る も ので あ るな らば、 一体 何 の 為 に、 一 方 で は 地 獄 な どに お い て 苦 しみ で 痛 めつ け られ て い る生 き もの を創 る の か。 神 が そ うい うも ので (9) あ る 以 上、 彼 の 慈 悲 性 は 信 仰 に よ っ て し か 理 解 され 得 な い も の と な ろ う。」 これ は Jitari の 論 述 よ りは 整 理 され 理 解 し 易 く な っ て い る。 次 に、vacaspatimisra のNVTTに お け る 神 の 慈 悲 の 問 題 に っ い て は、 田 村 智 淳 氏 の 研 究 が あ る。 田 村 氏 は Vacaspatimisra は、Prajfiakaramati に も と づ い て、 神 の 慈悲 の問 題 を 取 り扱 って い る と 主 張 され て い るが(10)、そうではなく て、これ はTSに も とつ い て い る の で あ る。 以下 に お い て それ を 明 らか に す る。 ま た、SVMとTRDに お ける 神 の 慈悲 の 問題 に っ い て も、 田村 智 淳 氏 の論 (11) 文 が あ る ので、 こ こ で はSDSに っ い て 報 告 す る。 SDSで は、 慈悲 に も とつ い て い る か ら神 の創 造 は 正 しい とい う主 張 に対 し (12) て、TSやSMVBhやBOAPと 同様 の批 判 が な され て い る。 さて Jitari はSMVBhに お い て、 神 の 慈 悲 に続 い て 行 為 (業) と果 報 の問 題 を扱 う。 「苦 を受 け る もの が、 不 善 の行 為 を な した とこ ろで、 そ れ は神 に よって為さ し め られ た ので あ る か ら、 罪 悪 は全 く存 在 しな い こ とにな る。 そ うす る と、 こ の世 に は悪 は存 在 しな い こ とに な る。 そ して悪 しき行 為 の結 果 と して の 苦 はす べ て 神 に も とつ くこ とに な る。 しか し、世 間 で は 自ず か らの行 為 の結 果 は、 自ず か ら必 ず 受 け る と認 め られ て い る。 一 旦 な した行 為 の結 果 が消 滅 す る こ とは 不 可 能 で あ る か ら。 した が って、 慈悲 を有 す る神 が結 果 を受 け とる も の に手 を 差 しの べ る の で あ る な らば、 過 失 は な い。 さ らに、 あ る 行 為 が 神 に も とつ い て 為 され な い な らば、 世 間 に お い て苦 は生 じな い の で あ ろ うか。 これ に対 して、 苦 は生 じな い。 な ぜ な らば、 『神 に も とつ い て行 為 が な され ない な らば、 果報 は 生 じな い か らだ。』 と答 えて も、 この よ うな場 合 こ の 慈悲 を有 す る神 が、 行 為 を 何 ら顧 慮 しな い の で あ る な らば、 知 を 有 す る もの で は な い。 『有 情 等 の不 善 な る 〔行 為 〕 を 〔神 が 〕 何 ら顧 慮 しな い の で あ る な らば、 〔行 為 の 果報 を 〕 得 る の で は な い。』 と 〔主 張 す る〕 な らば、 神 は 自ず か らの 本 性 に お い て も無 力 な る もの と して 顕 現す る こ とに な る。
それ な らば、 自分 の 行 為 に関 して正 しい 考 え を もつ世 間 は ど うして神 で な い ので あ ろ うか。 自ず か らの 行 為 に 果 報 が な い こ との結 果 と して、 ま ず、 これ は世 間 の 習 慣 に な い こ とで あ る か ら、 自ず か らの 行 為 に 果報 が あ る と考 えて 行 動 を お こす な ら ば、 神 の 慈 しみ を否 定 す る こ とに な る。 次 に、 自ず か らの行 為 に 果報 が な い な らば、 行 うべ きで な い 悪 しき 行 為 を否 定 す る こ とも 為 さな い か ら、有 情 を大 変 な危 険 に導 く こ とに な る。 しか る に、 世 間 で は この 〔神 の〕 慈 悲 は、 尊 崇 され る もの で あ り、 この慈 悲 も又、 〔神 の 〕 内心 の一 部 分 で あ るか ら、 神 が慈 悲 に従 って 行 為 す る こ とは徳 あ る こ とで あ る。 他 方 にお い て、 神 はす べ て の生 起 を有 す る もの の動 力 因 で あ る か ら、 悪 し き 行 為 を も創 造(化 作)す る ので あ る。 した が っ て、 も し この神 が慈 悲 を有 す る もの で ある な らば、 何 故 に 〔悪 の 創 造 とい う〕 世 間 を 苦 しめ る行 為 を 為す の か とい う批 判 か ら逃 れ る こ とは 出 来 な (13) い。」 行 為 と果 報 の問 題 につ い て Prajnakaramati も、 次 の よ うに主 張 す る。 「も し相 手 (反論者) が 『自己 の 為 した不 正 行 為 の 〔苦 しい 〕結 果 を 受 け取 る こ とに よ って そ の行 為 の欠 陥 を た だす とい う点 で、 神 の 慈 悲 は 働 くので あ る か ら、 ど うして 慈 悲 が な い こ とに な ろ うか 』 とい うな らば、 そ れ は正 し くな い。 そ うい う望 ま し くな い結 果 を受 け と らね ば な らな くな る様 な行 為 を、 ど う し て 慈悲 あ る 神 は 為 さ しめ る の か。 あ らゆ る結 果 は生 起 す るた め に動 力 因 を必 要 とす る もの で あ るか ら、 そ うい う行 為 に お い て も神 は 働 き か け てい る ので あ る か ら。 さ らに、 神 が 実 際 に働 き か け て い な い 時 に も、 行 為 の結 果 は受 け と られ る の か、 あ る い は そ うい う場 合 に は結 果 は受 け と られ な い のか。 も し第 一 の 主 張 の場 合 に は、 ど う して 次 の こ とが い われ よ うか。 『生 き と し生 け る も の は、 愚 か な る もの で あ って、 自分 で 自分 の 楽 ・苦 を 支 配 す る こ とは で き ない の で あ る。 天 界 に趣 くの も、 地 獄 へ 落 ち る の も・ 全 て 神 の意 向 に よ って 定 め られ る の で あ る』 とい うこ とが。 あ らゆ る 結 果 に関 して神 の作 用 を認 め る 相 手 の主 張 は、 この 第 一 の 主 張 に よ ﹁ J it a r i と Prai n a k a ramati﹂
密 教 文 化 って 不 定 (anaikantika) な る誤 謬 が附 随 す る こ とに な る 故 に。 また 第 二 の主 張 は、 そ の場 合 に は ど う して 慈悲 あ る神 は、 彼 の 意志 に よ って そ うい う状 況 に 対 して 援 助 を さ しの べ る こ とがで き るに もか か わ らず、 苦 しい 結 果 を 受 け と る こ とを 見 過 す こ とを 考 え ない の か。 そ こ で 相 手 が、 『為 され た行 為 は 〔そ の結 果 を受 け とる こ とな しに は 〕 消 滅 す る こ とは な い の だ か ら、 そ の 行 為 は 必 ず 結 果 を 受 け と らな けれ ば な らな い の で あ り、 そ の結 果 を受 け と る よ うに 神 の 慈悲 が働 くの で あ る』 とい うな らば、 それ な ら神 が 慈 悲 に働 き か けて い な い時 に、 ど う して そ の結 果 を 必 ず受 け と ら ね ば な らな い の か。 全 て の原 因 が揃 って い ない ので あ るか ら。 さ らに、 こ の様 に して 行 為 が そ の結 果 を受 け と らず に 消 滅 す る として も、 一 体 神 に とって どの よ うな過 失 が あ る の か。 何 とな れ ば、 慈 悲 あ る も の に とって は、 彼 の 意 志 に よ って そ うい う苦 しい 結 果 を 受 け と る よ うに 働 き か け る こ と か ら身 を 引 くこ との方 が ふ さわ しい ので あ るか ら。 実 に この よ うに して、 事 の 成 り行 きが 神 の欲 求 に依 存 して い る とい う こ とに よ って望 ま し くな い結 果 は 成 熟 しな い とい う こ とか ら、 ま さに 自ず か らが 自在 な る もの で あ る こ とが、 神 に よ って 神 自身 の うえ に示 され る こ とに もな ろ う。 ここ で我 々 は更 に批 判 す る。 行 為 に よ っ て命 令 され る神 が 有 情 に対 して 慈悲 あ る も の と して存 在 す る こ とは不 可 能 で あ る。 も しそ の様 な も の で あれ ば、 何 とい うこ とか。 こ の よ うに して 自ず か らの 自在 性 は、 神 とは別 の もの、 即 ち行 為 の うえ に輝 く こ とに な って しま う。 自分 以外 の も の、 即 ち行 為 に よ って 支 配 され る も の が 自分 で 自分 を 支 配 す る とい う こ とは認 め られ な い の で あ る か ら、 ま さに行 為 こそ が神 よ り も偉大 で あ り有 能 で あ る と明 らか に され る こ とに な ろ う。 そ のす ぐれ た行 為 こそ が尊 敬 され る こ とに な ろ う。 とい うの は、 行 為 の能 力 に よ って 支配 され て い なが ら、 しか も偉大 な る 自在 者 (mahesvara) で も ある とい うのは 不 可 能 だか らで あ る。 した が って、 次 の よ うに い われ る こ と も否 定 され る べ き で は な い。 『神 の命 令 す る も、 そ れ を 支 配 す る こ との で きな い 正 しい 行 為 に帰 命 す る』」(14) 以 上 で、 神 が 慈悲 あ る もの で あ る 場合 の議 論 は終 っ て い る。 以 上 の 行 為 と果 報 に関 す る記 述 は、8DSやTRDに は 見 られ な い。 しか し、
-86-(15) SVMで は こ のBOA-Pと 対 応 す る 記 述 が 見 られ る。 と こ ろ で、 こ の 行 為 と そ の 果 報 に 関 す る 問 題 は、Nyaya 学 派 の 主 張 す る 「神 が 原 因 で あ る。 何 故 な ら、 人 間 の 行 為 に は 〔時 と し て 〕 結 果 な き を 見 る が 故 に 」(NS 4.1.19) を め ぐ っ て 展 開 す る。 こ の Nyaya 学 派 と 共 通 す る 考 え を も つ 人 々 を、 初 期 仏 教 は 知 っ て お り、 批 判 し て い る。 そ れ は 「尊 祐 論 」 に 対 す る 批 判 と し て 取 り 扱 わ れ て い る。 尊 祐 論 (issaranim-manahetuvada) の 立 場 は、 あ ら ゆ る 存 在 は す べ て 神 の 化 作 に よ っ て あ る とす (16) る思 想 で あ る。 こ の尊祐 論 に対 す る 仏 陀 の 批 判 は、(1)神 自身 に対 す る矛 盾 を生 じる。(2)人間 に努 力 ・精 進 の不 必 要 を 知 ら し める こ とに な る とい うもの で あ る。 す な わ ち、(1)にお い て は、 世 界 創 造 の 目的 や、 何 故 に 人 間 に苦 を 与 え た か・ また 現 実 の世 界 の不 平 等 性 は 何 故 か とい う問 題 を 生 じる。 (2)に関 して は、 一 切 を 神 の 化 作 とす る こ とは、 人 間 か ら道 徳 的努 力 や 意 志 を 奪 っ て しま うこ とに な る。 これ は 社 会 道 徳 の上 か らも強 く否 定 しな けれ ば な ら な い。 と ころで、Nyaya 学 派 は、 行 為 と行 為 の 果 報 は、 自ず か らの 行 為 の 力 に よ る も ので あ っ て、 神 の 存 在 と無 関 係 で あ る と考 え る こ とに よ って、 こ の矛 盾 を 解 決 し よ う と した が、 今 見 て 来 た 通 りの 結 果 を 生 じる こ とに な る。 す な わ ち、 も し神 が 行 為 の 果 報 に 無 関 係 で あ る な らば、 神 は す べ て の も の の 原 因 で は な くな る。 ま た 関 係 す るの で あ る として も、 神 が 慈 悲 を 有 す る も ので あ る な らば、 悪 し き果 報 を人 間 が 受 け る の は不 合 理 で あ る とい うので あ る。 SMVBh の 第一 章 で 取 り扱 わ れ る Vaibhasika の教 義 で あ る 「人 間 の行 為 こ そ がす べ て の 果報 の 原 因 で あ る」 とす る立 場 が ここ に現 れ て い る ので あ る。 次 に、SMVBhで は、 神 が 慈悲 を有 す る もの で な い 場 合、 神 は 離 欲 者 で あ る の か、 そ うで は な い の か とい う問 題 が 取 り扱 われ る。 1) 神 が 離 欲 者 で あ る場 合。 「ま た、 も し神 に 慈 悲 が 存 在 しない 場 合 は、 この 神 は 貧 欲 等 を 離 れ た もの か、 あ る い は そ うで な い の か。 も し、 貧 欲 等 を 離 れ た も ので あ る な らば、 〔神 は〕 憐 れ み を 離 れ た もの で あ ﹁ J it a r i と P rajn a k g r a m a t i﹂
密 教 文 化 るか ら、〔人 々 を 〕 援 助 す る こ とは な い に せ よ、 何 の た め に 〔人 々 を 苦 し め 〕 抑 制 す るの で あ るか。 貧 欲 等 に も とつ い て、 人 は 〔苦 しみ 〕 抑 制 され る の で あ る。 これ ら 〔貧 欲 〕 等 も、 この 〔神 〕 に は存 在 しな い の で あ るか ら、 ど う して 〔人 々を 〕 抑 制 して 〔苦 しめ る〕 のか。 も し 「戯 れ の た め にそ の よ うに行 為 す る」 とい うな らば、 す な わ ち、 貧 欲 等 を 離 れ た もの が、 遊 戯 の た め に行 動 を お こす とい う場 合、 神 を 悪 を は なれ た も の (離欲 者) と誰 が理 解 しよ うか。 と もあれ、貧 欲 等 を 有 す る と して も、思 慮 を そ な えた 人 々 が、 〔も し〕 戯 れ の た め に行 為 す る と して も、 この 〔神 と〕 等 しい 〔行 動 〕 と して は 顕 われ な い。 ま して や、 貧 欲 を は なれ た この 〔神 〕 に おい て、 こ うい う 〔行 為 〕 が ど うし (17) て存 在 す る ので あ るか。」 とこ ろで、 同 じ問 題 がBOAPで も取 りあげ られ て お り、Prajnakaramati の 主 張 は、 以 上 の Jitari の主 張 と対 応 す る。 「ま た、 も し神 が慈 悲 あ る もの で な い場 合 は、 そ の時 に は 神 は 離欲 者 (vita-raga) な の か、 あ る い は有 欲者 (sa(vita-raga) な の か。 も し前 者 で あ る と考 え る な らば、 そ の時 は憐 れ み の 情 もな い ので あ る か ら、 楽 にす る とい うこ とは た とえ ない にせ よ、 ど うして 人 々を 苦 しめ る の か を 説 明 しな けれ ば な らな い。 何 とな れ ば、 あ る人 は あ る人 の 貧 欲 等 に よ って 苦 しめ られ る の で あ る か ら。 しか る に、 それ らの 貧 欲 等 は 神 に は な い の で あ る か ら、 ど う して 原 因 が な い の に 人 々 を 苦 しめ る の か。 も し戯れ の た め に人 々 を 苦 しめ る の で あ る とい うな らば、 す な わ ち、 離 欲 者 が 戯れ の た め に行 動 を 始 め るの で あ る とい うな らば、 彼 は 離欲 者 で は な い とい う こ とが決 定 され る。 貧 欲 等 を も って い る人 々 で さえ も、 とに か く感 官 を 制 御 して い る 限 りは、 戯れ の た め に行 動 を お こす とい うこ とは な い の で あ る。 ま し てや 離 欲 者 が そ うい う行 動 を お こす こ とが ど う して あ ろ うか。 ラ ク シ ャ スや ピシ ャ ー チ ャ な どの悪 魔 を 除 けば、 そ れ ら以 外 の も の が他 人 の (18) 苦 しみ に よ っ て戯 れ る とい う こ とは あ りえ ない。」 2) 神 が 離 欲 者 で な い場 合。 8M7Bh で は 以 下 の 如 くの べ られ て い る。
-84-「さて 〔次 に 〕 神 は、 貧 欲 等 を有 す る もの で あ る。 した がって、世間の自在 者 (王) の如 く、 あ る 人 を 〔苦 に よ って 〕 抑 制 す る けれ ども、 別 の人 は 援 助 す る と主 張 す る な らば、 〔神 に は〕 もの を 獲 得 す る罪 悪 は 見 られ な い とい う、 こ れ は よ くの べ られ た もの で あ る。 す な わ ち、 この 煩 悩 を 〔もつ 〕 も の が、 自在 者 た る創 造 者 で あ る と示 され、 色 形 等 に も とつ く貧 欲 等 を もつ も ので あ る と語 られ た の で あ る。 貧 欲 等 の煩 悩 の 奴 僕 が、 生 死 の きず な に よ っ て縛 られ てい る な らば、 神 な ら ぬ 人 間 の よ うに 自在 者 た る 性 質 は 存 在 しな い。 生 き とし生 け る も の の安 立 を 企 て る とい う特 徴 を もつ創 造 者 で あ る こ と も又、 不 合 理 で あ る。 た と え神 が、 貧 欲 等 を有 す る よ うに、 自在 者 た る性 質 と創 造 者 た る性 質 を も っ に せ よ、 〔そ の 場 合 〕 精 神 が集 中 した 状態 に あ る の か、 精 神 が 乱 れ た状 態 に あ る の か の い ず れ かで あ る。 も し、 精 神 が 統 一 され た状 態 に あ る もの で ある な らば、 何 故 に忽 然 と して 罪 な き衆 生 を 苦 しめ る の か。 よ こ しま な る道 を 歩 む 罪 あ る 〔罪人 〕 を 苦 しめ る の で あ る と 主 張 す る な ら ば、 こ の悪 の道 を 歩 む の もま た、 自ず か らなす の で は な くて、 か の 〔神 が〕 な さ し め る ので あ る。 世 間 の 自在 者(王)は、 〔罪 人 が 〕 自分 の欲 望 に も とつ い て 罪 を 犯 す な ら ば、 罪 人 と して 罰 す る ので あ る。 〔しか る に 〕 〔神 は 〕 自ず か ら罪 人 た ら しめ た後 に罰 す る の で あ る。 あ あ! 神 が 正 義 の 破 壊 者 で あ る とい うこの 道 理 は、 か っ て は な か っ た もの で あ る。 大 い な る我 を有 す る 〔神 の 〕 この 行 為 は、 世 間 〔の常 識 〕 か ら逸 脱 し た も の で あ る。 痴 に 支 配 され て、 知 性 を 欠 い て い る か ら、 狂 者 の振 舞 の如 く理 解 され る。 何 故 に、 精 神 を 統 一一 した状 態 に あ る 我 を 有 す る 〔神 〕 が、 世 間 〔の人 々 〕 を 悪 の道 に 踏 み 込 ませ る の か とい う問題 に 関 して、 我 々の 視 覚 は、 鑛 な ら ざる 原 因 を全 く見 る こ とは な い ので あ る。 さ て 第二 の選 言 肢 (「 精 神 が乱 れ た状 態 に あ る 」) で あ る が、 この場 合 に は、 昇 天 とか至 福 を願 え る人 々 が、 こ の 〔神 に〕 供 養す る等 の奉 仕 を す る こ とは何 ﹁ J i t a r i と P r aj n a k a r a m a t i﹂
密 教 文 化 の 意 味 もな い こ とに な る。 とい うの は、 こ の もの か らは願 われ た 果 報 は 生 じな い か ら。〔あ る い は〕 〔昇 天 等 とは 〕 逆 の も の と して の 〔果 報 が 〕 生 じる か ら。 〔す な わ ち、〕 〔真 実 の 知 が〕 現 前 す る 状 態 に止 ま って い る も のが、 再 び 堕 落 す る よ うに、 解脱 に お い て も、 再 び 可能 な もの と して の 束 縛 が あ り得 る か ら。 す べ て の 〔精神 的 〕 状 態 にお い て、 この場 合 これ 等 〔種 々の 〕 状 態 に依 拠 し て い る もの が、 この 〔堕 落 を 〕 な さな い と して も、 自在 で は な い か ら、諸 煩 悩 (19) を克 服 した の で は な い。」 これ に続 い て、SMVBh で は 四種 の帰 謬 論 証 に よ って、 神 が 慈 悲 を 有 す る場 合 や 離 欲 者 で あ る場 合、 あ るい は、 心 が安 静 な る状 態 に あ る 場 合 に、Naiyayi-ka の主 張 を認 め た と こ ろで、 現 実 に は Naiyayiに、Naiyayi-ka に と っ て不 合 理 な 結 論 が生 じる こ とを 示 して い る。 そ して 最 後 に、 神 が 狂 乱 者 で あ る場 合 につ い て の 議 論 が な され る。 「 〔普 通 の信 心 深 い人 は、〕 この 〔頭 が 混 乱 して い る 神 〕 に帰 依 して、 堕 落 す る この もの た ちは 頭 が 混 乱 した も ので あ る と語 り、〔さ らに 〕 頭 が 混 乱 した も の で な い 人 々が、 頭 の混 乱 した人 を敬 うこ とは不 合 理 で あ る 〔か ら〕、私 こそ が 頭 が混 乱 した もの で あ る に ちが い な い と考 え る の で あ る。 頭 の混 乱 した も の を 崇 拝 させ よ うと して も、 ど うして も これ を 崇 拝 しな い 普 通 の人 の頭 の 〔方 が〕 混 乱 して い る と 〔考 え る〕 こ とに よ って、 どん な過 失 が 生 じる か。 これ 等 〔普 通 の 人 々〕 に卓 越 した能 力 が存 在 しな い か ら、 崇 拝 され る ので は な い と反 論 す る な らば、 こ の 〔頭 が混 乱 して い る神 〕 が 能 力 を もつ も の で あ る と考 えて も、 全 く崇拝 され ない ので あ る。 し か し、 仮 りに 崇 拝 され る と して、 果 報 が 与 え られ る も ので あ る と考 えて も、 こ の こ と も又、 あ り得 な い とす で に 説 きお えた。 た とえ頭 が 混 乱 した も ので あ って も、 す べ て の生 き と し生 け る もの た ちを 超 越 した威 力 を もつ もの で あ る と主 張 す る この者 を、 だれ が 頭 の混 乱 した 人 で な (20) い と語 る こ と を 望 も うか。」 以 上、8MVBh で 問 題 と さ れ た 事 柄 は、BOAPで は 次 の よ う に 主 張 さ れ て い る。 「さ て 次 に、 神 は 離 欲 者 で は な い (avitaraga) と主 張 す る な ら ば、 そ の 場 合
-82-に は ど う して、 神 な らぬ人 間 と共 通 な る性 質 を もつ もの が 神 とな る こ とがで き よ うか。 そ の ふ る ま い が、 貧欲 等 の不 浄 な束 縛 に 支 配 され て い る も の に 自在 者 た る性 質 が あ る こ とは 不合 理 だ か らで あ る。 そ うで な けれ ば、 そ の 様 に し て 〔貧 欲 な どに束 縛 され て い る〕 神 な らぬ 人 間 も ま た 自在 者 とな っ て しま うこ と に な ろ う。 さ らに ま た、 そ の 自在 性 が輪 廻 とい うきず な に よ っ て 縛 られ て い る も の に は、 種 々 な る 万 有 を 創 造 す る能 力 は な い。 そ うで な い も の に それ は妥 当 す る ので あ る。 以 上 の如 く、 とに か くそ の よ うな 〔有 欲 者 〕 に 自在 性 を認 め る 限 り、神 が ま さ に存 在 す る とい う 〔主 張 〕 は君 達 を わ らい も の にす る だ け で あ る。 あ る い は ま た、 た とえそ の よ うな 〔有 欲 者 〕 に も創 造 者 た る 性 質 が あ る と認 めた と して も、 そ の場 合 に も、 それ は精 神 が正 常 な もの (svasthatma) か、 あ るい は精 神 が 異 常 な も の (asvasthatma) か の どち らか で あ る。 も し精 神 が 正 常 な も ので あれ ば、 そ の 場 合 に は ど う して理 由 もな く人 間 を 苦 し め る の か。 なぜ な らば、 精 神 の正 常 な も のが 罪 の ない 人 間 を 苦 し め る こ とは 日常 生 活 に お い て経 験 され る こ とで は な い。 も し、 神 は悪 の道 に 踏 み こん で 罪 を 犯 した 人 , 々だ け を 苦 し め る の で あ る とい うな らば、 悪 の 道 に 踏 み 込 む の も また、 か の 神 が な さ しめ るの で あ る。 人 々 を そ うい う状 態 に な ら し めて、 そ の後 にそ うい う 人 々 を 苦 し め る とい うの は、 世 俗 の王 の行 為 よ りもず っ と悪 質 で あ る。 な ぜ な ら、 世 俗 の王 達 は、 罪 人 が 自ず か ら罪 を 犯 した か ら罪 人 と して 罰 す る の で あ る。 他 方、 自分 か ら 〔罪 人 に〕 な ら しめ て、 そ れ を 苦 し め るの とは 大 き な差 異 が あ る。 あ る い は も し、 精 神 が異 常 な も ので あ る な らば、 そ の 場 合 は、 昇 天 とか解 脱 とか を 目的 と して 思 慮 深 い 人 が神 を崇 拝 す る とい う行 い は、 何 の価 値 も ない こ とに な ろ う。 何 と なれ ば、 頭 の混 乱 し て い る も の を 頭 の 混 乱 して い ない 人 が 称 え る とい う こ と は理 屈 に合 わ ない か ら。 とい うの は、 昇 天 な どを望 むた め に思 慮 深 い人 は 神 を 称 え る ので あ る。 しか る に それ(昇 天)は 神 の 自性 が確 定 され て い な い 故 に、 そ れ を 称 え る こ とか ら は 生 ぜ しめ られ な い。 あ るい は昇 天 とは逆 の こ と さ え も神 を 称 え る こ との結 果 として 生 ぜ しめ られ る か も しれ な い。 し か して、 神 を 称 え る人 々 は、 神 は頭 が ﹁ J it a r i と P r c un a k c ra m c ti﹂
-81-密 教 文 化 混 乱 して い る もの で あ る と知 って、 よ り堅 固 な 信 仰 心 に よ って 自分 自身 こ そ が 頭 が 混 乱 して い る の で は ない か と考 え る こ とに な ろ う。そ うで な けれ ば、 ど う して 神 を 称 え る こ とを 行 な うで あ ろ うか。 そ こで、 神 で は な い 人 間 達 の頭 が混 乱 して い る 〔と考 え る〕 こ とに よ っ て ど ん な過 失 が あ ろ うか。 入 間達 が 崇拝 され る ので は ない し、 また 彼 等 に は勝 れ た 威 力 も な い ので あ る か ら、 と反 論 す る な らば、 こ の主 題 とな って い る神 に も一 体 い か な る勝 れ た威 力 が期 待 され る で あ ろ うか。 頭 の混 乱 してい る もの が全 て の世 界 を超 越 した威 力 を もっ とい うこ とを、 頭 の混 乱 して い る人 以外 の誰 が 語 る こ とがで き よ うか。 した が っ て、 これ を い くら考 察 した と ころ で、 どこ に も到 達 点 は な い の で、 (21) だ ら だ ら と続 く誤 っ た 考 え に わ ず らわ さ れ る の も 止 め よ う。」 以 上、Jitari と Prajiakaramati の 神 の 慈 悲 の 問 題 を め ぐ る 論 議 を み て 来 た が、 以 下 の こ とが 明 ら か に な っ た。 第 一 に、 田 村 智 淳 氏 は、 神 の 慈 悲 の 問 題 を 扱 っ て い る の は Prajfiakaramati (22) に 特 有 の こ と で あ る と 主 張 され て い る が、 そ う で は な くて、Santaraksita や Jitari も そ れ を 扱 っ て い る こ と。 第 二 に、Jitari と Prajfiakaramati を 比 較 す る な ら ば、 内 容 が 非 常 に よ く対 応 す る こ と。 第三 に、 内 容 的 に い っ て Jitari よ り も Prajfiakaramati の 方 が よ く整 理 さ れ、 理 解 し易 い こ と。 し た が っ て、神 の 慈 悲 の 問 題 は 最 初 に、Santaraksita に よ っ て 取 り あ げ られ、 Jitari はTSの 議 論 を 継 承 し つ っ 考 察 を な し、Prajfiakaramati は そ れ を 整 理 し、 引 用 した と考 え られ よ う。 ' こ の 事 実 は Prajfiakaramati の 時 代 を 決 定 す る 上 で も重 要 な 資 料 と な る。 Prajnakaramati の 時 代 に 関 し て は 諸 説 が あ っ て 一 致 し て い な い。
1) P.L. Vaidya は、 自 ず か ら校 訂 し た Boclhiearydvatata of Santicleva zvith th
e Commentazy Panjika の 序 論 に お い て、775年 ∼825年 を Prajfiakaramati
の 時 代 と考 え て い る。 そ の 論 拠 は Prajfiakaramati がTSを 引 用 し て い る こ と
に あ る。
2) 山 口 益 博 士 は、(A) 950年 ∼1030年、(B) 8世 紀 後 半 を そ の 時 代 に あ て て い る。
-80-『有 と 無 と の 対 論 』、『般 若 思 想 史 』 で は(A)の 説 を か か げ、 「中 観 仏 教 に お け る 有 神 論 の 批 判、 で は(B)の 説 を か か げ て お り、 混 乱 が あ る。 い ず れ も 論 拠 は
示 さ れ て い な い。
3) T.R.V. Murti は The Oentral Phiosophy of Bzeddhism に お い て、1078
年 頃 と し て い る が、 こ れ も 論 拠 は 示 さ れ て い な い。 4) 田 村 智 淳 氏 は、 「フ ラ ジ ュ ナ ー カ ラ マ テ ィ の 有 神 論 批 判 」 で、 上 限 をKa-malasila と考 え、 下 限 を Vacaspatimisra と設 定 し て い る。 そ の 根 拠 と し て、Kamalasiia と よ く対 応 す る こ と。Vacaspatimisra は 世 界 の 存 在 を 三 つ に 分 類 し、 そ の 存 在 の 創 造 者 が 疑 わ し き も の に つ い て の 推 論 式 を 打 ち 出 し て い る が、Prajfiakaramati は そ れ を 知 ら な い ふ し が あ る こ と。 さ ら に そ れ に 関 連 し て、 創 造 者 が 存 在 し な い と考 え ら れ て い る 虚 空 と、 創 造 者 の 存 在 が 疑 わ し い と 考 え ら れ て い る 地 等 を 何 ら 区 別 し て い な い こ と 等 を あ げ て い る。 そ し て そ の こ とを、Prajnkaramati が Vacaspatimisra を 知 ら な か っ た こ と の 根 拠 と さ れ て お り、Prapakaramati の 時 代 の 下 限 を Vacaspatimisra に 設 定 し て い る。 さ ら に、Vacaspatimisra は Prajiakaramati の 批 判 に こ た え る た め に、 補 助 因 と し て の 不 可 見 力 を 導 入 し た と考 え ら れ て い る。 最 後 に、vacaspatimisra を10世 紀 の 後 半 と 考 え る と、Prajfiakaramati を Ratnakarasanti と 同 時 代 で あ る とす る チ ベ ッ トの 伝 承 と一 致 す る と 結 論 さ れ て い る。
と こ ろ で、1) の Vaidya 説 は78以 後 の Text を Prajfiakaramati が 引 用 し て い る か ら、 正 し い と は い え な い。
す な わ ち、Prajfiakaramati は Aryadeva の Jhanasarasanuceym 第28偶、 そ れ は Jitari の Sugatamatavibhtmgakarika 第8偶 に 対 応 す る も の で あ る が、引 用
し て い る (Vaidya 本、174頁、11∼12行)。Prajfiakaramati は、Aryadeva を 引 用 し
た か、 あ る い は Jitari を 引 用 し た か は 決 定 出 来 な い が、 こ の Aryadeva は、 す
で に 山 口 博 士 の 指 摘 が あ る よ うに、 明 らか に 中 観 派 の 学 匠 と は 別 人 で あ る。 最
近 の 学 界 の 成 果 に も と づ け ば、 こ の Aryadeva は10世 紀 の 人 と い わ れ て い る。
(23)
ま た Jitari は、 す で に 報 告 し た と お り、10世 紀 後 半 の 人 で あ る。 し た が っ て Aryadeva を 引 用 し た に し ろ、 ま た Jitari を Prajfiakaramati が 引 用 し た
に し ろ、 時 代 は10世 紀 か ら10世 紀 後 半 に な る か ら、Vaidya 説 は 否 定 さ れ る。 ﹁ J i tarri と P r ajn a k a r p m g t i﹂
密 教 文 化 次 に 4) の 田 村 説 で あ る が、 仏 教 の 立 場 か ら す れ ば、 世 界 の 存 在 の 三 分 類 法 に も と つ く 第 三 の 創 造 者 の 推 理 は、 結 局 成 立 し な い も の と し て 否 定 さ れ る の で あ る か ら、 地 等 と 虚 空 と を 区 別 す る 必 要 は な い。
Prajnakaramati に と っ て は、Santideva へ の 注 釈 が 主 た る 関 心 事 で あ り、Va-caspatimisra の 論 証 が 成 立 し な い こ と を 証 明 し よ う とす る Maksakaraguptaと は 明 ら か に 立 場 の 相 違 が あ る。 な お、Vacaspatirnisra の 立 場 で は、 こ の 推 論 式 が 立 て られ た 瞬 間 に、 世 界 の 存 在 は 創 造 者 を も つ も の と、 そ うで な い も の の 二 種 類 に な る。 Jitari は、Isuvjdsiasodifsasa で は 二 種 の 形 で こ れ を 紹 介 し て い る。 し か し、SMVBh で は 三 種 と も あ げ て い る。 さ ら に、NVTT, 四 章、1,21に 見 られ る 仏 教 側 か らの 反 論、 「も し 神 が 慈 悲 に よ っ て 世 界 を 創 造 す る の で あ る な らば、 楽 の み を 作 っ て 苦 を 創 り 出 す こ と は な い で あ ろ う。 ま た 神 が 不 可 見 力 (adrsto) を 補 助 因 と し て 世 界 を 創 造 す る と い う こ と も い え な い で あ ろ う。 …」は、 先 述 し たTS, 156c-d, 159c-d, 160偶 に 見 事 に 対 応 す る か ら、Vacaspatimisra が Prajnakaramati の 批 判 に 答 え る た め に、 新 し い 補 助 因 と し て の adrsta を 導 入 し た こ と に は な ら な い。 し た が っ て、 これ を 根 拠 に Prajnakaramati の 下 限 をVacaspatimisra に 設 定 す る こ と は 出 来 な い。 最 後 に、Jitari と Prajnakaramati の 神 の 慈 悲 の 問 題 に っ い て の 対 応 関 係 に
も とつ い て 考 え て み る と、Prajkkaramati が Jitari を 引 用 し た とす れ
ば、Pra-jnakaramati は10世 紀 後 半 の Jitari と 同 時 代 人 か、 そ れ よ り後 の 人 と い え る。
逆 に、Jitari が Prajnakaramati を 引 用 し た と考 え て も、Aryadeva を 引 用 し て い る か ら、Prajnakaramati は、10世 紀 頃 の 人 と い え る。 い ず れ に し て も、 10世 紀 か ら11世 紀 に か け て 活 躍 し た 学 匠 と い え よ う。 匿 以 上、 神 の 慈 悲 の 問 題 に 限 定 し て、Jitari の 「有 神 論 批 判 」を み て き た が、 これ 以 外 に Jitari は、 神 の 存 在 論 証 に ふ く ま れ る 論 理 的 誤 謬 を 指 摘 す る と と も に、 神 の 非 存 在 論 証 を な し て い る が、 そ れ に っ い て は 稿 を 改 め て 論 じ た い。 註
(1) Isvaravddimatapariksd, Jitdri, Kleine Texte, von G. Buhnemann, p. 39, 5-8, 1982:
-78-yat karyam tat kartrnantariyakaiil drstam. tad yatha kalasadikaryaiii. <tatha> ca vivadaspadibhutatarvaditi. yas casau karta sa bhagavan isv ara iti.
(2) Jsdfkjsaodjfdli, Tibetan Sanskrit Works Series, vol. 5, P. 233, 3-5。 な お、Jnanasrimitra の 引 用す る推 論 式 は、 宮 坂宥 勝 博 士 に よ って 和訳 され て い る。 本 論 で は宮 坂 博 士 の 和 訳 に従 った。 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判」、『講 座 大 乗 仏 教 』9、 認識 論 と論 理 学所 収、283頁。 (3) Vacaspatimisra の五 支 作 法 に よ る論証 も、 宮 坂 博 士 によ って和 訳 され、 本 論 は宮 坂 博 士 の和 訳 に従 って い る。 宮 坂 宥 勝 「有 神 論 批 判」、285頁。 な お 本 論 註 にお い て は、Jitari に 関 して のみ 本 文 を 提 示す る。す で に研 究 され た も の に つ い て は、 頁 数 の み を提 示 す る。
(4) Marl と Ratnakirti の対 応 部 分 は以 下 の 通 りで あ る。G. Biahnemann の校 訂 テ キ ス トで は そ の 指摘 は な い。
1) Jitari, Isvaravadirnatapariksa, p. 40, 1-30 Ratnakirti, Isvarasadhanadusa na, p. 36, 26-270
2) Jitari, Isvaravadinatapariksa, p. 40, 13-17. Ratnakirti, na, p. 37, 2-50
(5) Ssdlkjfaie は、G. Biihnernann に よ っ て 校 訂 出 版 さ れ て い る。 Jitdri: Kleine Texte, Wien, p. 27-28, 1982。
な お、 一切 智 者 の 問 題 に つ い て は、 川 崎 信 定 氏 の 「一 切 智 者 の 存 在 論 証 」、『講 座 大 乗 仏 教 』9、 認 識 論 と 論 理 学、293∼339頁 に 於 て 考 察 さ れ て い る。 と く に Jltari に つ い て は、322頁 で 「ジ タ ー リ (Jitari) に は 『サ ル ヴ ァ ジ ュ ニ・ヤ=シ ッ デ ィ 』(Sar-vajna-siddhi) と い う小 品 が あ り、 こ れ に は プ ラ ジ ュ ニ ャ ー カ ラ グ プ タ が 引 用 さ れ、 ま た ラ トナ キ ー ル テ ィ は ジ タ ー リを 引 用 す る 」 と 報 告 さ れ て い る。 さ ら に326頁 に お い て は、 一 切 を 遍 知 す る 一 切 智 者 (sartva-sarvajna) の 論 証 に 関 して、 「ラ トナ キ ー ル テ ィ に よ れ ば、sarva-sarvajna の 論 証 は、 プ ラ ジ ュ ニ ャ ー カ ラ グ プ タ に よ り な さ れ、 ジ タ ー リに よ り 詳 細 に 論 じ られ た と さ れ て い る 」 と 報 告 し、 そ の 論 証 式 を 提 示 さ れ て い る。 な お、Jitari の Sajsdifajsihi に つ い て は、 稿 を 改 め て の べ た い。 (6) こ れ はSMVIK第1偶c-dに 相 当 す る。
SMVK, 1e-d: hdus byas thams cad skad cig ma//bdag med byed pa po yod min//
TBh に 二 度 引 用 さ れ る。TBh, p. 61, 1-2; p. 63, 15-16: sasdfjakta ksanikan
sarvam atmasunyaln akartrkam.
(7) こ の問 題 に 関 して 詳 し くは、 中村 元 『初 期 の ヴ ェー ダ ー ンタ哲 学 』、371頁を 参 照 さ れ た い。
(8) SIlTVBh, D 19b6-20a1, P 297a6-8: gaii shig nad la sogs pa rnanl pa du mas sdt. tg (isnal bar hgynr liahi bid hgro la sags pahi lye brag giis hdi tha clad par dmigs pa gani yin na hdi byed pa po yod na iii ji ltar yan mi hthad de/hdi
﹁ J it a r i と P r aj n a k a r ama t i﹂
密
教
文
化
ltar gal to hdi sniii rjes shin brlan pa shig yin na/cihi phyir ji ltar hjig rten Pal bar byed/shin rje ni sdug bsiial sel bar byed hdod pa hid yin na/de dais Man pa sdug bsfial bar byed do shes bya ba lidi la su shig yid ches parr hgyur/
(9) BGA P, P. 254, 19-24。 な おBCAPは、 田村 智淳 「プ ラ ジ ュナ ー カ ラ マテ ィの有 神 論 批 判 」、『南 都 仏 教 』 第27号、6∼9頁 に和 訳 され て い る。 本 稿 は 田村 氏 の 和訳 に従 って い る。 (10) 前 出 田村 氏 論 文、16頁 に お い て 田村 氏 は 以下 の如 く主 張 され て い る。 「筆者 は ヴ ァー チ ャ スパ テ ィが プ ラジュナーカラマティの神の慈悲に関しての有神 論 批 判 を 知 って、 『ター トパ ル ヤテ ィー カー』 に慈 悲 の議 論 を も ち 出 し た ので あろ う と考 え る。」 (11) 前 出 田村 氏 論 文、14頁 にお い てSVMとTRDに お け る神 の 慈 悲 の 問 題 が 紹 介 され て い る。
(12) SDS, ed. V. S. Abhyankar, Government Oriental Series, No. I, Poona, p. 155, 2-8, 19780
(13) SJIVBh, D 20a1-7, P 297a8-b8: hdi sham du gad gis sdug bsfial myon ba gafi yin pa ni hjig rten Rid kyi de lta bur gyur pahi mi dge pahi las byas pa yin na/the bahi bdag Rid can de dag la des pa cure zad kyail ga la yod slam na/ des pa ji ltar fed de/gad gi phyir de did slug bsfial ba skyed par byed pahi phyir ro // gshan du na de bshin du gshan yan dehi bskyed par bya ba ma yin pa Aid du thal bahi phyir ro//ji ste hjig rten Rid kyis rail gi las kyi hbras bu roes par myon dgos to/byas pa chud zos ba mi hthad pahi phyir ro//des na hdi brtse ba can yin yarl de la grogs su hgyur ba na hes pa med do//de cir ni de bya ba mi byed pa na yan hjig rten la sdug bsnal hbyuii ham/de lta ni ma yin
to/byed pa pos bya ba ma byas na hbras bu mi hbyuil bahi phyir ro she na/ ho na de lta na brtse ba can hdi de la btari slams su bya ba did rigs pa dad
ltan pa ma yin no//sems can rnams gyi mi dge bahi mthus btan sdanls su bya ba yad mi hthob bo she na/hdi ran gi bdag Rid la yan dban feed pas na gsal bar dban phyug yin no//ran gi las kyis rigs par spyod pa can gyi hjig rten ei ste dban phyug ma yin/gad gi tshe hdi hjig rten gyi chos ma yin pas de tshar gcod pahi phyir bya ba byed pa de did kyi tshe slid rjes ldog par yaii byed pas na/hjug par yan mi bya ldog par yad mni bya bas damn da ba chen por chud do//hdihi shift rjes ni sin to gees pa yin shift de yad nail gi yan lag yin pas na hdi de dad mthun par hjig pa kho na legs so//gshan yail skyes pa dad ldan pa thams cad kyi rgyu mtshan gyi rgyu yin pahi phyir hdi Rid chos ma yinn pa yaim sprul pa yin no//des na gal to hdi rtse ba can yin na dehi tshe re shig jig rten la gnod par byed pahi las cihi phyir byed ces bya bahi brgal shift brtag pa hdi las ma thar ro/
(14) BCAP, p. 154, 21-p. 155, 8
-76-(15) SVM, P. 29, 11-190
(16) 尊祐 論 に 関 して は次 の論 文 が あ る、
山 口益 「ニ カー ヤ に お け る尊 祐 論 とそ の批 判 」(「 中観 仏 教 に お け る有 神 論 の 批 判 」 第 一 章)、219∼226頁。
雲 井 昭 善 『仏 教 興 起時 代 の思 想 研 究 』、 平 楽 寺 書 店、284∼286頁、1967年。
(17) SMVBh, D 20a7-b3, P 297b8-298a4: ci ste hdi la shinh rje med pa de lta na yarni hdi hdod chags la sogs pa daii bral ba yin nam ma yin/gal to hdod chags la sogs pa dani bral ba sin to yin na/brtse ba dan bral bas na phan mi hdogs su chug/cihi phyir tshar gcod par byed/hdod chags la sogs pahi dbah gis hgah shig tshar gcod pa yin na/de dag kyan hdi la med pas na ji Itar tshar gcod par byed/rtsed mohi ched du ji ltar byed do she na/hdod chags dan bral ba rtsed mo la sogs pahi ched du hjig go shes bya ba hdi la hchal ba las gshan su shig yid ches par hgyur/re shig hdod chags la sogs pa dan ldan yah tshul dan ldan pa rnams la rtsed mohi don du lijig pa hdi hdra ba mi snail na/dehi hdod
chags dani bral ba la hdi yod dam/ (18) BCAP, p. 155, 9-140
(19) SMVBh, D 20b3-21a4, P 298a4-b6: ji ste hdi hdod chags la sogs pa dan ldan pa kho na yin to/dehi phyir hjig rten gyi dbah phyug bshin du hgah shig tshar good pa la hgah shig la phan hdogs so she na/don gher hes pa mthon ma yin shes bya ba hdi legs par brjod pa yin to/hdi Itar non mhos pa hdi dban phyug byed pa po hid du gshuil gzugs pahi phyir hdod chags la sogs pa dan ldan par smra ba yin na/hdod chags la sogs pahi non moils pahi bran po hkhor bahi brtson rar bcizis pa la ni de las gshan pahi skye po bshin du dbanl phyug hid med ciii/hgro ba mthah dag hgod pa la bzo bahi mtshan hid can gyi byed pa po hid kyan mi srid do//dban phyug hdod chags la sogs pa dan. ldan pa yin
bshin du dban phyug dan byed pa po hid yin du chug mod/ci rnal hbyor du gnas pa yin nam/rnal hbyor du mi gnas pa yin/gal to rnal hbyor du gnas pa yin na cihi phyir blo bur du nes pa med pahi skye po la gnod pa byed/lane
log par hgro bahi nes pa can la gnod pa byed do she na/hdi lam gol bar hgro ba yarn ran hid byed pa ni ma yin gyi/de hid byed du hjug pa yin no//hjig rten pahi phyug po ni ran gis hdod pas nes pa byas pa la lies pa dan mthun par tshar gcod pa yin na/ran hid kyi Skye bo hes pa byed du bcug nas tshar gcod pa na/kye ma dban phyug dam pahi tshar gcod pahi tshul hdi ni sriar ma byun ba yin no//the bahi bdag hid can gyi spyod pa hdi hjig rten las hdas pa yarn yin to/gti mug gi dban gis ses pas stop pahi phyir stoni pa bshin du rtogs so//gait gi phyir rnal hbyor du gnas pahi bdag hid can hjig rten lam log par b jig par byed do shes bya ba hdi la kho bo cag mthoh rgya churl bas rgyu can zad kyan ma mthohh ho//ji ste phyogs ghis pa yin na dehi tshe mason par mthoh
﹁ J i t a r i と Pranakaramati﹂
密
教
文
化
dad nes par legs pa don du gher ba rnams kyis de mgu bar bya ba la sogs pahi cho ga don med pa yin to/gari gi phyir de las Mod pahi hbras bu nil srid pahi phyir to/rnam pa gshan du yad srid pahi phyir ro//mason par hbyud ba la brten pa slar ltud ba bshin du grol ba yan slar srid par hchini ba srid pahi phyir ro//rnam pa thams cad du de la rag las pa hdi dag de mi byed par yan mi dbani bas na non mhos pa rnams kyis bcom pa ma yin nam/
(20) SMVBh, D 21b3-5, P 299a6-b1: de la brten pa ltur byed pa rnams de smyo ba yin par smra na bdag hid kho na smyon bar smra ba yin no//gad gi phyir smyon pa ma yin pa rnams kyi ni smyon pa mgu bar bya ba mi hthad la/ smyon pa mgu bar byed na yad gad gis de mngu bar mi byed pa tha mal pahi smyon pas nes pa ci byas/de dag la mthu phul du byun ba med pas mgu bar mi byed do she na/hdi mthu darn. ldan pa yin ni shes to/hgah yanft mgu bar bya ba ma yin gyis/bon kyad mgu bar byas na hbras bu star bar byed do sham pa yin na/de yan yod pa ma yin no shes brjod zin to//smyon pa yin yad bgro ba mthah dag las phul du byun bahi nus pa yod do shes bya ba hdi smyon pa ma yin pa su shig smra bar spro/
(21) BCAP, p. 155, 15-320 (22) 前 出 田村 氏 論 文 ・14頁 で、 氏 は 「筆 者 が 知 り得 た 限 りで は、 仏 教徒 の有 神 論 批 判 の 中 で 慈悲 を問 題 に して い るの は プ ラ ジ ュナ ー カ ラマ テ ィだ けで あ る」 と のべ られ て い る。 (23) Jitari の時 代 に 関 して は、 次 の 論文 で報 告 した。 「Jitari-入 と思 想-」、 『木村 武夫 教 授 古 稀 記 念 僧伝 の 研 究 』。 The Baklasdjflkka,『 神 戸 女子 大 学 紀 要 』、文 学 部 篇、 第15巻、 序 文。