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雑誌名 東洋大学文学部紀要. 教育学科編

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S. D. ヘッドラムの成人教育論の研究─アングリカ ニズムとコミュニティ教育論を中心に─

著者 関 直規

著者別名 SEKI Naoki

雑誌名 東洋大学文学部紀要. 教育学科編

巻 46

ページ 11‑21

発行年 2021‑03

URL http://doi.org/10.34428/00012912

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

(2)

はじめに

 グローバル化、少子高齢化や格差拡大が著しい 現代社会において、地域の再生に向けた生涯学習 への関心が高まっている(1)。世界都市ロンドンの 貧困地域におけるコミュニティ学習の場の創造 は、そうした動向の一つと捉えられる(2)。本研究 は、このような現代生涯学習の深化に資する国際 的・歴史的アプローチとして、イギリス・ロンド ンの公立夜間学校の実践を方向づけた、ヘッドラ ム(Stewart Duckworth Headlam, 1847-1924)

の成人教育論の基本的性格を考察することを目的 とする。19~20世紀転換期のイギリスでは、大学 拡張運動(university extension movement)や労 働者教育協会(Workers’ Educational Association)

等により、高等教育の労働者への開放が進んだが、

地方教育行政機関の系譜に位置付く公立夜間学校 も、成人教育の有力な担い手になりつつあった。

その試みが際立っていたのが、ロンドン学務委員 会(School Board for London、以下、SBLと略称 する。)とその後継のロンドン・カウンティ・カウ ンシル(London County Council、以下、LCCと 略称する。)である(3)。このSBLで1888年から1904 年まで、そして、LCCでは1907年から亡くなる 1924年までの間、ロンドンの公立夜間学校と、そ こでの成人教育の拡充を主張したのが、ヘッドラ ムだった。

 ヘッドラムを対象とするこれまでの先行研究 は、19世紀後半のイギリスのキリスト教社会主義 運動(Christian Socialism Movement)との関わ りに集中している。例えば、ウィルキンソン(Alan Bassindale Wilkinson) は、 ホ ラ ン ド(H. Scott Holland)から元首相ブレア(Tony Blair)に至 るキリスト教社会主義者の系譜に、「セント・マ シュー・ギルド」(The Guild of St. Matthew、以 下、GSMと略称する。)の創設者であるヘッドラ

S. D. ヘッドラムの成人教育論の研究

─アングリカニズムとコミュニティ教育論を中心に─

関   直 規

 本研究は、イギリス・ロンドンの公立夜間学校の実践を方向づけた、ヘッドラム(Stewart Duckworth Headlam)の成人教育論の基本的性格を考察することを目的とする。彼の講 演記録等を分析した結果、以下の三点が明らかになった。

 第一に、ベスナル・グリーンの経験が、成人教育論に与えた影響である。ヘッドラムは、

国教会の補助司祭として、べスナル・グリーン教区に赴任し、アングリカニズムの中で、

急進的意識を高めた。また、SBLとLCCの選挙区は、この地と重なり、貧困地域の課題を 内在的に把握し続けた点は、彼の成人教育論の重要な要素となった。

 第二に、成人教育を論じる立場についてである。ヘッドラムが、本格的に教育界に乗り 出したSBL選挙では、国教会派と対立する中で、世俗教育、教育の無償化や夜間クラスの 拡充等を訴えた。SBLとLCCでは、約30年間、公立夜間学校に関わる小委員会の中心的な 担い手として、それを積極的に整備する立場に立ち、成人教育を擁護した。

 第三に、成人教育論の内実である。彼は、成人教育の不参加層だった不熟練労働者等を 対象に据えた。ともに生きることの学びに、彼らの共通基盤を見出し、近隣社会の文化的 洗練に資する具体策として、文学や社交の夕べを提唱した。貧困地域の人々の救済を目指 した公立夜間学校の拡張論は、コミュニティ教育論の特質を持っていた。

キーワード: S. D. ヘッドラム 成人教育論 ベスナル・グリーン アングリカニズム 

コミュニティ教育論

(3)

Ⅰ ヘッドラムの経歴

① 聖職者としての歩み

 ヘッドラムは、1847年 1 月12日、リバプールに 近いウェバーツリーで、保険業者の父トマス

(Thomas Duckworth Headlam)と母レシティア

(Laetitia Headlam)の長男として生まれた。 4 人兄弟の 3 番目であった。父トマスは、優しく人 に好かれる性格だったが、敬虔な福音主義者であ り、子どもたちには、安息日の厳守等を求め、自 ら愛読するシェイクスピア(William Shakespeare)

の演劇を読ませた。また、リバプールにいた高教 会派(High Church)の聖職者の叔父を交えて、

宗教論議する家庭環境で、ヘッドラムは、神学的 見識を学び知るようになったという(12)。1860年 から1865年まで、在籍したイートン校時代につい て、彼は、ヴィクトリア朝を代表する詩人テニス ン(Alfred Tennyson)の作品をむさぼるように 読んだ他、バイロン(George Gordon Byron)の 代表作である『チャイルド・ハロルドの遍歴』

(Child Harold’s Pilgrimage)に夢中になり、バ イロンの著作は、全て読み、心を広くする影響を 受けた、と述懐している(13)。その後、1865年に、

ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学 し、1869年、古典学の優等卒業試験(Classical Tripos)に合格して、学位を取得している。

 大学在学中に、ヘッドラムは、キリスト教社会 主義者モーリス(John Frederick Denison Maurice)の影響を受けた。その神学思想が、正 統派からの激しい攻撃を受け、ロンドンのキング ズ・カレッジの神学教授の職を追われたモーリス は、1866年、ケンブリッジ大学の道徳哲学教授に 選任されていた。モーリスは、人間の罪、個人的 な回心やキリストによる贖罪死への信仰による救 いを強調し、未来の刑罰の永続性を唱える通説を、

人間は神の審判を恐れて生きざるを得ない、と批 判した。そして、神がキリストにおいて自らを啓 示するがゆえに、時は永遠と質的に相違するが、

分離されない関係にある、と主張した(14)。ヘッ ドラムは、この神学的議論について、「人類の半 数以上が、永遠の苦しみを宣告される、という教 義の繰り返しで、恐れてきた私たちにとって、永 遠の生命と永遠の刑罰に関するモーリスの教え が、どれほど良い知らせだったのかを想像するの は容易である」(15)と回顧した。また、父なる神、

ムを位置付け、GSMを、イギリス最初の社会主 義団体と評した(4)。また、ベタニー(Frederick George Bettany)のヘッドラムの伝記は、関係 者の日記、書簡や取材等を含んでおり、資料的価 値が高い(5)。そして、オレンス(John Richard Orens)は、このベタニーの著作を除き、歴史家・

神学者からほとんど注目されてこなかったとし、

ヘッドラムの議論を検討している(6)。これらの研 究は、国教会(Church of England)で、個性的 な聖職者であり、社会主義者でもあったヘッドラ ムの前半生に着目した成果と言える。

 これに対して、本論文が主に焦点を当てるのは、

SBLやLCCにおける教育改革者としてのヘッドラ ムである(7)。とりわけ、同時代のLCC教育長のブ レア(Robert Blair)が、「ヘッドラムは、自ら を夜間学校制度の父と見なす、十分な根拠を持っ ていた」(8)と追想したように、彼が、ロンドンの 公立夜間学校に与えた影響は、極めて大きかった。

しかしながら、彼の前半生と比べて、後半生への アプローチは数少なく、ロンドンの成人教育通史 を描いたデヴェルー(William A. Devereux)も、

政策史的な叙述が中心となっている(9)。聖職者時 代の歩みもふまえた、彼の成人教育論の全体像の 検討は、これまでほとんどなされてこなかった。

フリーマン(Mark Freeman)は、リベラルなイ ギリス成人教育史像を相対化して、新たな地平を 開拓する歴史研究の方法論的課題の一つとして、

全国各地の成人教育機関の発行物等を活用した、

人物研究の必要性に言及している(10)。本研究は、

ヘッドラムの公立夜間学校をテーマとする講演等 の一次資料の発掘・分析から、彼が、どのように ロンドンの成人教育のあり方を論じていたのか、

を具体的に捉えることによって、地域に根差すイ ギリス成人教育史の構築に向けた、基礎的研究を 行いたい。

 以上をふまえ、本稿は、以下の構成に基づき、

検討を進める。最初に、Ⅰで、ヘッドラムの経歴 を整理する。次に、Ⅱでは、アングリカニズム(11)

の中で、急進的意識を高めたベスナル・グリーン における聖職者としての経験と、その後半生への 影響を取り上げる。最後に、Ⅲで、SBLとLCCに おける公立夜間学校の理念と具体策をめぐるヘッ ドラムの議論から、彼の成人教育論の基本的性格 を考察する。

(4)

永遠の子であるキリスト、その結果としての人類 の兄弟同胞主義が、最も重要な教えだった、と学 生時代をふり返っている(16)。キリスト教は、来 世だけでなく、全人類を救済する現世の宗教であ る、というモーリスの神学を、彼は受け入れたの である(17)

 モーリスの影響から、国教会の聖職者を志した ヘッドラムは、1870年から1873年まで、ロンドン のドルーリー・レーンの聖ヨハネ教会、次いで、

1873年から1878年には、ベスナル・グリーンの聖 マタイ教会で補助司祭(curate)を務めている。

そして、1879年から1881年にかけて、チャーター ハウスの聖トマス教会、さらに、1881年から1882 年には、ショアディッチの聖ミカエル教会で補助 司祭に就いた。その後、彼が、国教会の常勤の聖 職者に任命されることはなかった(18)

 ヘッドラムの関心事は広範囲にわたり、交友関 係も広かった。公の場で論争を繰り返した世俗主 義者ブラッドロー(Charles Bradlaugh)が投獄さ れると、共感の電報を送り、作家ワイルド(Oscar Wilde)の保釈保証人になったことでも、耳目を 集めた。また、1877年に、GSMを創設し、国教 会と労働運動を結び付ける役割を果たした。そし て、1884年から1895年まで、「第一級の刊行物」(19)

と称賛された、月刊誌『チャーチ・リフォーマー』

(Church Reformer)を刊行し、アメリカの経済 学者ジョージ(Henry George)の土地制度改革論 に関する意見等を発表している(20)。GSMはその 規模以上の影響を残し、イギリスのキリスト教社 会主義運動史に名を留めた。

② 教育改革者としての歩み

 後半生のヘッドラムは、ロンドンの教育改革に 尽力した。まず、1888年のSBL選挙で、ベスナル・

グリーンのほとんどを含む、ハックニーから立候 補し、当選を果たした。それ以降、亡くなる1924 年まで、 3 年間のブランクを挟むが、特に、公立 夜間学校を中心とするロンドンの教育行政の整備 に従事した。表 1 は、19世紀末葉から両大戦間期 にかけてのSBL・LCCの公立夜間学校の担当委員 会・議長と、そこでのヘッドラムの役割を整理し たものである。以下の二点を読み取ることができ るだろう。

 第一に、ヘッドラムの議長在任期間は、SBLの リ ン(Henry Lynn) とLCCの グ ー チ(Henry Cubitt Gooch)に次ぐ長さに及んだことである。

リンは、ランベス・ウェスト選出の法廷弁護士の 有資格者で、人望のある論客であり、12年間の SBLの 在 任 中、 夜 間 ク ラ ス 委 員 会(Evening Classes Committee)及び夜間継続学校小委員会

(Evening Continuation Schools Sub-Committee)

の議長として、公立夜間学校の基礎づくりに努め た(21)。ヘッドラムは、リンの後任として、公立夜 間学校の拡充を図り、「数年間で、単なる萌芽から、

大きな組織が成長した」(22)という発展を導いた。

 第二に、約30年間、ヘッドラムは、ロンドンの 公立夜間学校の整備でリーダーシップを発揮した ことである。彼は、1907年のLCC選挙で、ベスナ ル・グリーン・サウス・ウエストから立候補し、

当選した。そして、1924年まで、LCCの教育委員 会において、「ポリテクニク・夜間学校小委員会」

(Polytechnic and Evening Schools Sub- Committee)と、その後継で、公立夜間学校を含 む、初等後教育を包括的に担当した「上級教育小 委員会」(Higher Education Sub-Committee)の 委員を務めた。長期の在任期間を通じて、彼は、

自らの理念と実践をロンドンの公立夜間学校に蓄 積させた。それは、公立夜間学校に関する新しい 提案が出されると、議長は、決って、ヘッドラム に意見を求めるほどであったという(23)。なお、

グーチは、LCC教育委員会の議長にも就き、イギ リスの教育制度における現代語の役割を調査する 政府の委員会の委員に選ばれる等、有力な担い手 であったが(24)、必ずしも公立夜間学校に精通し ていたわけではなかった。また、全体として、議 長の交代頻度が高く、ヘッドラムの影響が及びや すい制度的構造があった。教育改革に励む中で、

彼は、1924年11月18日に、持病の心臓発作のため、

他界した。彼の没後、LCCが、ヘッドラムと所縁 の深いベスナル・グリーンの最貧困地域にあるサ マーフォード・ストリート校(Somerford Street School)の名称を、スチュアート・ヘッドラム校 へと改称したことは、ロンドンの教育界における 彼の個人的功績の大きさを物語っている(25)。  大学卒業後、補助司祭として出発したヘッドラ ムは、GSMを創設し、キリスト教社会主義運動 の再興を先導した。また、ロンドンの教育行政で は、約30年間、公立夜間学校を整備する中心的役 割を果たした。大学時代にモーリスの影響を受け た彼は、社会的病いを引き起こし、健全さを無く した原因を、止まるところを知らない競争という

(5)

表 1  SBL・LCCの公立夜間学校の担当委員会・議長とヘッドラムの役割(1884年~1939年)

年 担当委員会 議長 ヘッドラムの役割

1884 SBL夜間クラス委員会 不詳

1885 SBL夜間クラス委員会 不詳

1886 SBL夜間クラス委員会 Thomas E. Heller

1887 SBL夜間クラス委員会 Thomas E. Heller

1888 SBL夜間クラス委員会 Thomas E. Heller 委員

1889 SBL夜間クラス委員会 Henry Lynn 委員

1890 SBL夜間クラス委員会 Henry Lynn 委員

1891 SBL夜間クラス委員会 Henry Lynn 委員

1892 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1893 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1894 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1895 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1896 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1897 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 Henry Lynn 委員

1898 SBL学校運営委員会内夜間継続学校小委員会 S. D. Headlam 議長

1899 SBL夜間継続学校委員会 S. D. Headlam 議長

1900 SBL夜間継続学校委員会 S. D. Headlam 議長

1901 SBL夜間継続学校委員会 S. D. Headlam 議長

1902 SBL夜間継続学校委員会 S. D. Headlam 議長

1903 SBL夜間継続学校委員会 S. D. Headlam 議長

1904 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 Hon. Frederic Thesiger

1905 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 Lord Chelmsford, John Piggott

1906 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 W. S. Saunders

1907 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 Lord Henry Bentinck 委員

1908 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 Lord Henry Bentinck 委員

1909 LCC教育委員会ポリテクニク・夜間学校小委員会 Lord Henry Bentinck 委員

1910 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. J. Clarke 委員

1911 LCC教育委員会上級教育小委員会 Hon. Gilbert Johnston, A. Susan Lawrence 委員

1912 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1913 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1914 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1915 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1916 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1917 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1918 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1919 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1920 LCC教育委員会上級教育小委員会 H. C. Gooch 委員

1921 LCC教育委員会上級教育小委員会 Rev. R. D. Swallow 委員

1922 LCC教育委員会上級教育小委員会 Rev. R. D. Swallow 委員

1923 LCC教育委員会上級教育小委員会 Rev. R. D. Swallow 委員

1924 LCC教育委員会上級教育小委員会 Rev. R. D. Swallow 委員

1925 LCC教育委員会上級教育小委員会 Rev. R. D. Swallow

1926 LCC教育委員会上級教育小委員会 Capt. O. Wakeman

1927 LCC教育委員会上級教育小委員会 Harold Swann

1928 LCC教育委員会上級教育小委員会 Harold Swann

1929 LCC教育委員会上級教育小委員会 Harold Swann

1930 LCC教育委員会上級教育小委員会 Capt. Edward Cobb

1931 LCC教育委員会上級教育小委員会 W. F. Marchant

1932 LCC教育委員会上級教育小委員会 W. F. Marchant

1933 LCC教育委員会上級教育小委員会 Harold Swann

1934 LCC教育委員会上級教育小委員会 Charles R. Simpson

1935 LCC教育委員会上級教育小委員会 Charles R. Simpson

1936 LCC教育委員会上級教育小委員会 Charles R. Simpson

1937 LCC教育委員会上級教育小委員会 E. M. Low

1938 LCC教育委員会上級教育小委員会 E. M. Low

1939 LCC教育委員会上級教育小委員会 Helen Bentwich

出典) School Board for London, Report of the School Board for London, 各年版、Devereux, W. A., Adult Education in Inner London 1870-1980, Shepheard-Walwyn in Collaboration with Inner London Education Authority, 1982, pp.321-322、より筆者作成。

(6)

人間の自己本位の邪悪な精神にある、と考えた

(26)。ヘッドラムの神学的認識に、具体的な意味 を与え、後に、教育方策を考案する重要な要素と なるのが、労働者階級が集住したベスナル・グリー ンへの赴任とそこでの経験であった。

Ⅱ ベスナル・グリーンにおける経験

① 聖マタイ教会とチャーチ・ステージ・ギルド

 本章では、最初に、ヘッドラムが赴任したベス ナル・グリーンの地域特性を把握する。そして、

聖職者時代の主要な実践を把握しつつ、彼のキリ スト教社会主義運動の性格を明らかにし、後半生 への影響を検討する。

 1873年、ヘッドラムは、補助司祭として、ベス ナル・グリーン教区の聖マタイ教会に赴任する。

この教区は、18世紀半ばにステップニー教区から 独立し、19世紀後半には、人口が急増した労働者 階級中心の居住地域であり、19世紀末葉になる と、東欧系ユダヤ人移民が集住した。ブース

(Charles Booth)の調査によると、臨時雇い等の

「極貧」階級が16.0%、請負による不規則所得等 の「貧困」階級が27.7%に達しており、 4 割以上 の地域住民が、生活上の困難を抱えた貧困集積地 域である(27)。また、労働の性質について、同地 区の既婚男性の 8 割以上が、肉体労働に従事して おり、その内、熟練労働が33.0%、半熟練労働が 13.4%、不熟練労働が30.6%を占めていた。そして、

長時間労働、大家族を扶養する重荷、経済的な制 約等から、余暇の機会は限られてり、日曜日には、

パブやクラブに通う生活様式が見られた(28)。さ らに、世紀転換期の成人人口に占める教会の礼拝 出席者の割合は、約16%であり、国教会に限定す ると、 6 %に留まっている。これらの値は、ロン ドンで最下位グループに属する低水準だった(29)。  ヘッドラムは、ベスナル・グリーンの中心部に 居を構えた。教区の仕事は、骨の折れるもので、

午前中に、彼が補佐した主任司祭(rector)のハ ンザード(Septimus Hansard)と教会で打ち合 わせをし、生活・人生に悩む信徒と面談して、午 後は、教区全体を隈なく訪問した。さらに、ヘッ ドラムは、教区民を自宅に招いて、歴史・文学等 の夜間学習会や読書会を開き、週末には、劇場や 地方への散策を企画し、人々の余暇の充実にも応 えた(30)。学習会では、詩人テニスンの作品や、シェ イクスピアの演劇作品等を取り上げたが、これは、

彼の人文学的教養の反映であった、と考えられる。

 ハンザードとの出会いは重要な意味を持った。

彼は、広教会派(Broad Church)のキリスト教 社会主義者であり、中国やアフリカへ召された者 と同じように、大都市のスラム教区における貧困 者への宣教の使命を信じた、聖職者であった(31)。 ヘッドラムは、このハンザードを介して、多くの 労働組合主義者と知り合った。そして、日曜日の 礼拝後には、近隣のクラブでの講演や討議を行い、

図書寄贈等を通じて、地域住民と信頼関係を築い ていったのである(32)

 また、ドルリー・レーンの聖ヨハネ教会に赴任 して以来、バレエと劇場に関心を寄せたことは、

彼の特徴の一つであった。労働者の娯楽施設とし て、歌・ダンス等を上演したミュージック・ホー ルや劇場に通い、それらの関係者と交流を続けた のである。当時、役者やダンサーの社会的地位は 低く、ミュージック・ホールや劇場を、不道徳の 場と見なす聖職者も少なくなかった。このような 偏見に対して、ヘッドラムは、「イエス・キリス トの受肉と実在が、全ての人類を聖なるものとす る。…ダンサーや社会で人々を楽しませる者の仕 事を、道徳にかなう、名誉ある職業と認識するこ とを拒んでいるという点で、宗教界は、一つの悲 しむべき間違いを犯している」(33)と批判し、肉体 を卑しむピューリタニズムを退けた。そして、

1877年に、劇場とミュージック・ホールを擁護す る講演を行うが、これが、国教会指導者でロンド ン司教(bishop)のジャクソン(John Jackson)

の怒りを買い、翌年に、ハンザードはヘッドラム を解職した。

 しかし、間もなく、彼は、「チャーチ・ステージ・

ギルド」(Church and Stage Guild、以下CSGと 略称する。)を発足させた。そして、講演、討論 会やダンス集会等を開催し、劇場、役者やダンサー への聖職者の否定的見方を変える実践を続けたの である。このCSGの創設を、ファウルクス(Richard Foulkes)は、「劇場と成人教育の連携の大きな意 義ある発展」(34)と捉えている。初年に、470人が 参加し、そこには、ヘッドラムが最も信頼した協 力者の一人で、役者・興行師・演出家のグリート

(Philip Ben Greet)もいた(35)。二人は、ヘッド ラムが亡くなるまでの間、親交を結び、SBL、

LCCの演劇教育で、再び手を携えることになる。

(7)

② セント・マシュー・ギルドの創設

 この時期に、ヘッドラムが創設したもう一つの ギルドが、GSMだった。これは、1877年の聖マ タイの日に、ベスナル・グリーンの40名の教区民 をメンバーに結成された、キリスト教社会主義団 体である。ヘッドラムと親睦を深めていた地元の 夜間学習会の参加者が中心だった。当初は、ロー カルな一団体であり、教会・礼拝の普及や、教育・

交流等を図ったが、ヘッドラムの解職後は、聖職 者の協力を得て、全国各地で支部を開設するよう になった。講演会・会議等により、会員啓発や会 員外の改宗をねらいとした伝道系ギルドの性格を 持っていた(36)。以下では、GSMの目的と政治綱 領に絞り、検討する。

 まず、GSMの目的は、次の三点だった。①世 俗主義者による教会への既存の偏見を取り除き、

人々に神の正しさを示すこと、②聖餐式の礼拝を 重視し、祈祷書に従い、国教会の教えを守ること、

そして、③受肉の観点から、社会的・政治的問題 の研究を進めること。①と②から、このギルドが、

世俗主義者による国教会批判に対し、教会の神学 と伝統を重視していたことがわかる。そして、最 も特徴的な③は、彼のキリスト教社会主義運動に 直接的に関わっており、ヘッドラムは、次のよう に強調している。「宗教と教会は、単に、個人が 自分の魂を個別に救済するための手段ではなく、

社会的・政治的生活との関係がなければならない。

GSMは、イエス・キリストの世俗的活動を重視 する。無神論者や不可知論者等の抱く教会への偏 見は、キリスト教の教えの世俗的・社会的側面を、

これまでほとんど無視してきた事実によるところ が大きい」(37)。彼にとって、教会のサクラメント が、社会変革の土台であり、世俗的・社会的活動 を推し進めるものであった。特に、サクラメント の基本である洗礼を平等性に、また、聖餐を兄弟 愛に結び付け、あらゆる階級の区別を排するもの、

と捉え、万人が、等しくキリストの一員であり、

神の子で、地上における神の国の現世の継承者で あること、また、人間の団結、協同と兄弟愛を人々 に深く感じてもらうこと、を訴えている(38)。こ のサクラメントと社会秩序の関係の理解が、貧困 者を個別的な救済の対象ではなく、変革すべき社 会の構成員と理解する、急進的社会主義運動に結 び付くのである(39)

 次いで、1884年に公にしたGSMの政治綱領に

ついて、彼は、「多くを生産し、ほとんど消費し ない多数の労働者の状況と、ほとんど生産せず、

多くを消費する階級の状況との現在のコントラス トは、兄弟愛と公平さというキリスト教の教義に 反している」(40)と指摘し、次の 4 つの方策を打ち 出した。①人々が土地に与えている価値を取り戻 すこと。②労働者が生み出す富をよりよく分配す ること、③全ての人々に、自分たちの政府への発 言権を与えること、④価値と尊厳の誤った基準を 排すること。この内、②と③は一般的な社会主義 的見解だが、①はジョージの土地制度改革論の採 用であった。当時、国際的反響を呼んだ『進歩と 貧困』(Progress and Poverty)で、ジョージは、

現在の理論が、貧困と物質的進歩との関係を説明 していないと批判し、人口増加と技術改良による 利益を特定の土地に属させるため、地代は上昇し、

賃金と利子が減少すると論じた。そこで、土地を 共有し、全ての地代を租税として徴収することに よって、他の租税を撤廃する救済策を提示したの である(41)。この主張を支持したヘッドラムは、

「我々は社会主義者であるがゆえに、土地の解放 と地価私有の阻止を誓う」(42)と表明し、ジョージ の議論を、社会主義運動の一つの拠り所とした。

 ヴィクトリア朝後期の慢性的な不況を背景に、

不熟練労働者や失業者が増加し、苦汗労働が社会 問題化する中で、上記の政治綱領を示したGSM は、キリスト教社会主義をテーマとする連続公開 集会の開催、デモへの参加、集会禁止布告下での トラファルガー広場でのヘッドラムの演説、国教 会年次会議における社会主義の記念講演等を相次 いで展開し、1850年代以降低迷していたキリスト 教社会主義運動の再興を先導した。そして、その 会員数は、1884年に100名に達し、ピーク時の 1895年には、364名に及んだ(43)

 以上のように、ヘッドラムは、モーリスの神学 を継承し、サクラメントを土台に、世俗的・社会 的活動を重視する立場に立ったが、その実践は、

慢性不況下で深刻化する、ベスナル・グリーンの 地域住民の生活現実に端を発した。この点に関し て、オレンスは、「ヘッドラムの政治的立場は、師 であるモーリスよりも、はるかに急進的になって いった。彼のベスナル・グリーンにおける経験は、

階級協調というモーリスの信念を放棄させた」(44)

と指摘している。社会的・経済的に恵まれないベ スナル・グリーンにおける労働者階級、劇場関係

(8)

者や社会主義者等との出会いは、アングリカニズ ムにおけるヘッドラムの急進的立場を作り上げ た。同時に、社会的な非難や孤立を恐れることな く、劇場やバレエを擁護したCSGと、土地制度改 革論を掲げ、社会主義運動を展開し、「キリスト 教社会連盟」(Christian Social Union)や「キリス ト教社会主義連盟」(Christian Socialist League)

等の大規模団体を先導したGSMは、ヘッドラムの 個人的な関心や資質に拠るところも大きかった。

その後、彼は、1900年に、CSG、1909年に、GSM を解散し、ロンドンの教育行政に専心するように なる。彼の活動の舞台は変わるが、ベスナル・グ リーンの人々と生活課題を共有し、彼らの立場を 擁護する姿勢や、劇場やバレエへの関心は、成人 教育論の重要な要素となっていった。ベスナル・

グリーンの経験の影響は、生涯に及ぶのである。

Ⅲ ヘッドラムの成人教育論

① 宗教教育と世俗教育

 モーリス等が中心となったキリスト教社会主義 運動において、社会改革を目指す教育への関心は 高く、協同組合の組織化の他、労働者が政治参入 す る 知 識 を 教 授 す る た め、 労 働 者 カ レ ッ ジ

(Working Men’s College)を開校する等の方策を 採った。ヘッドラムもまた、前章で示したように、

ベスナル・グリーンの教区民のために、夜間学習 会を自宅で開き、早くから教育への関心を寄せて いたが、教育界に本格的に乗り出したのは、1888 年のSBL選挙からである。彼は、所縁のあるベス ナル・グリーンと重なる、ハックニーから立候補 した。

 ヘッドラムが、選挙中の演説で繰り返したのが、

社会改革家として著名なベサント(Annie Wood Besant)等を中心に、「中央民主委員会」(Central Democratic Committee)がまとめた共同綱領で あった。この選挙では、保守党や国教会派に対立 するかたちで、教育の民衆統制を唱えた自由党、

急進派、非国教会派、社会主義者や世俗主義者等 が、緩やかな共同戦線を張っていた。その綱領は、

次の 7 点から成っている。①全ての階級のための 無償・世俗・技術及び義務教育、②公立学校の民 衆統制、③学務委員会の全ての管轄区における夜 間継続クラスの開設、④あらゆる子どものための 運動場の夜間・休日の無償開放、⑤地域住民の公 開集会のための公立学校の活用、⑥学務委員会の

会議の毎週の開催、⑦希望する児童への給食の無 償提供である(45)。国教会派は、SBLの学校の拡 大が及ぼす宗派学校への負の影響や、学校の建設・

維持費の増大等をあげて、ヘッドラムを非難した。

他方、SBLによる学校の整備を評価し、国教会派 への批判を共有する非国教会派や世俗主義者等と は、協力関係にあった。実際、非保守層の幅広い 支持を得た彼は当選し、その後も議席を守り続け ている。

 SBL選挙で、しばしば大きな争点となったのが、

宗教教育であった。当時、SBLは、聖書を読むこ とと、道徳性と宗教心の原理に関する聖書の非宗 派的な指導の方針を掲げていた(46)。しかし、そ の内実は曖昧で、SBLの委員の解釈の影響も受け やすく、現場の判断を難しくした。ヘッドラムは、

日曜学校等における聖職者の使命を訴えながら、

「教義、教理やサクラメントを伴い、揺らぐこと のない立場にある司祭や聖職者に危険な特権を与 えかねない」(47)として、世俗教育から聖書をなく すことに反対した。その上で、「学校教員がなす べきことは、聖書の物語を伝え、子どもたちに読 み、鑑賞させ、聖書そのものに感化させることだ けである。子どもたちに、『あれこれすべきだ』

というのは、教会の権威に由来している。学校教 員は、『子どもたちを信じさせる』ために、教育 の権限を用いるべきではない」(48)と述べ、学校教 員は、生きる指針となる聖書を、文学として扱う べきである、と主張したのである。この見方は、

彼自身が言及した詩人・批評家のアーノルド

(Matthew Arnold)によるところが大きい。アー ノルドは、聖書のことばを科学的に解釈するので はなく、神学や抽象的議論を廃し、これまで人間 がどのような方法で思考し、どのようにしてそれ を表現してきたのかを洞察力を駆使し、人間学的 に解釈しようとした(49)。ヘッドラムは、聖書を他 の第一級の著作物と並ぶ、文学と捉える理解を共 有し、世俗教育と宗教教育の調整を図ろうとした。

彼は、人間の手で作った教会堂や聖書ではなく、

人間の心の中に神が存在するとし、学校を「聖な る機関」(divine institutions)と表現している(50)。  初当選から二年後の1890年11月、ヘッドラムは、

選挙民を前にSBLの活動報告を行った。その場で、

「みなさん自身のお金で、みなさん自身の学校で、

みなさん自身が選出した委員によって、継続学校 の活動の実現を計画した」(51)と語り、最も有望な

(9)

囲気を持ち、彼が来ると、子どもたちの表情は輝 いたという(57)。彼の成人教育論は、聖職者時代 に原点を持つ、不熟練労働者等と彼らの生活現実 の理解を土台としていたのである。

 さらに、公立夜間学校の目標に関して、「いか なる教育機関の対象にもなっていない成人男女の 中に、我々の活動をさらに拡張することであり、

一部の人々の様々な職業・仕事のスキルを高める だけでなく、全ての人々をより良い市民、より良 い・より幸福な人間にするような継続教育を提供 することである」(58)と主張している。ヘッドラム は、大都市の数多くの労働の中には、そもそも職 種の性質から、教育に馴染まず、市民が夜間に学 ぶことを望まない場合さえあることを受け入れ て、職業教育の基盤にもなる、人生の高次の喜び に入ること、また、生計を得ることとともに、生 きることを学ぶ点に、公立夜間学校の目標を見出 した(59)。これは、貧困地域の人々の内面的救済 を目指した公立夜間学校の拡張論と言える。また、

こうした目標の重要性を具体的に示そうと、実際 の受講者に関する220以上の半熟練的、不熟練的 職業のリストを、ポリテクニク・夜間学校小委員 会に提出した(60)

 次に、公立夜間学校の主要な具体策について、

文学と社交の夕べ(social evening)を論じている。

SBLが、公立夜間学校で文学を開講したのは、

1898年からであった。彼は、詩人や劇作家等の作 品に関する授業を導入したが、同時に、学生によ るシェイクスピア作品の演劇大会も提案した(61)。 ヘッドラムは、「私たちの人格を形成し、私たち が弱ったり、困ったりする時には、私たちを励ま し、そして、絶えず私たちに喜びを与える」(62)

と評価した文学を、「偉大な教育手段」と見なした。

加えて、1902年からは、旧友のグリートやポール

(William Poel)等の協力を得、公立夜間学校の 教員と学生を対象に、シェイクスピア作品の鑑賞 会 を 開 催 し た。 そ の 様 子 は、「 過 去 3 年 間 に、

二万五千人の前で、シェイクスピアの『ヴェニス の商人』、『十二夜』、『ロミオとジュリエット』と

『お気に召すまま』を上演した。皆が、その原作 を買うほどの熱心さであった。7 つのタウン・ホー ルで開催したが、観衆の心奪われ、大喜びしてい る状況は、それが、良い活動だったことを示して いる」(63)と報告されている。ヘッドラムは、ヴィ クトリア朝の華美な上演方法や装飾を排し、簡素 取り組みとして、夜間継続クラスを挙げている。

彼は、音楽、手工等の設備の良く整った学校に欠 かせないものの多くを、独力で導入したパイオニ アと言われたが(52)、聖なる機関と見なした公立 夜間学校を育むことが、キリストのための最善の 仕事につながる、と信じたのである(53)。このよ うな視点から、ヘッドラムは、アングリカニズム の体制側に対抗しながら、新しい時代のSBLの教 育活動に積極的意味を見出したのだった。

② コミュニティ教育論

 Ⅰで見たように、ヘッドラムは、リンを継承し、

夜間継続学校小委員会の議長に就いた。そして、

彼の下で、公立夜間学校の拡充策が図られた。例 えば、1897年に開校した、18歳以上の成人に受講 者を限定する学校を増設し、また、1898年には、

授業料の無償化によって、入学者数が倍増する成 果を得ている(54)。こうした発展を導いた、ヘッ ドラムの論理は、いかなるものだったのだろうか。

彼の公立夜間学校の理念と主要な具体策をめぐる 議論を検討する。

 まず、理念に関して、彼は、公立夜間学校の基 本方針を次のように述べている。「我々が、これ まで事務員層(もちろんロンドンのような大規模 な商業の中心地では、非常に重要な人々だが)に 比べて、肉体労働者、女工、地位の低い職工のた めに、十分なことをなしていない。…貧困地域の 学校の中には、主に外国人が受講する学校が、6 、

7 校もある。その勤勉さと規則正しさは、我々に とって良いお手本になっている。公立夜間学校の 活動は教育的ではない、という理由で、閉校すべ きとする提案には反対である」(55)。貧困地域の学 校について、教育的活動ではなく、宗教的活動と 見なす一般的な通念が残る中、学習の機会に恵ま れない人々を、対象に据えたことがわかる。また、

当時、公立夜間学校の受講者には、目的、興味や 意志が足りない、とする社会的な偏見もあった。

ヘッドラムは、生計を立てるために、長時間労働 に従事している点を考慮すべきとした上で、「私 がいつも不思議に思うのは、受講者数が減少する ことではなく、非常に多くの人々が、学校に留ま り、堅実に学ぶことである」(56)と主張し、はっき りと反論した。ヘッドラムは、公立夜間学校を繰 り返し訪問し、全ての学校関係者と懇意にし、彼 の現場への共感が尽きることはなかった。委員と いうよりも、ひょっこり立ち寄る友人のような雰

(10)

な舞台で、言葉の力を重視したグリートやポール の演出方法(64)に賛同しつつ、文学の講義、演劇 大会や鑑賞会等を通じて、自他の生活や人生を深 める人文学的教養を広めようとしたのである。

 もう一つの具体策である社交の夕べに関して、

SBLでは、1892年に、授業のない夜間に限り、月 1 回までの社交の集まりと、そのための教室の無 償利用を認めた(65)。多くの学校で、これを導入し、

教員、学生とその友人が、ダンスや討論の機会、

演劇公演、声楽・器楽の発表等に参加して、教員 と学生、学生相互の交流を促した。この社交の夕 べに対して、公立夜間学校は、専らダンスの場に なっているのではないか、という不条理な見方も あった。しかし、ヘッドラムは、「こうした『親 睦会』は、学生たちと近隣社会を文化的に洗練さ せる効果を持ち、学校生活の有意義な付加物であ ると確信する」(66)と反駁した。さらに、彼は、公 立夜間学校の特質について、以下のように強調し ている。「公立夜間学校の価値の本当の判断は、

単に、出席、試験合格あるいは受賞の人数による のではない。個人と国家にとっての学校の価値の ほとんどは、学校が育む友愛、社交活動と教育の 中にある。授業時間とカリキュラム以外で、学生 と教員が過ごすわずかな時間がとても大事なの は、そのためなのである」(67)。商業・技術教育の 拡大を図る1913年の公立夜間学校の再編に際し て、彼は、共同生活(cooperate life)を犠牲にす るカリキュラムの充実に反対した(68)。また、成 人教育の不参加層の存在に目を留め、近隣社会の 文化的洗練や、教養教育・人格教育を柱とする成 人教育の拡充策を訴え続けた(69)。ヘッドラムに とって、公立夜間学校の成人教育は、単なるクラ スの集まりではなく、地域住民ともに新しい生活 文化を創造する実践であった。

 このように、貧困地域の学校を、宗教的活動と 見なし、学習者の姿勢への否定的見方が残る中で、

ヘッドラムは、公立夜間学校を逸早く評価し、躊 躇することなく、新しい教育制度として位置付け た。また、聖マタイ教会への赴任から、SBLと LCCの教育改革に至るまで、ベスナル・グリーン の不熟練労働者等の生活現実を内在的に把握し続 けた。そして、長年、普遍的価値を主張してきた 劇場やダンスを織り込んだ、具体策を提唱した。

自らの信念を貫き、近隣社会の文化的洗練や、と もに生きることの学びに、不参加層の共通基盤を

見出し、教育の価値を見定めたことで、彼の成人 教育論は、コミュニティ教育論の特質を持つこと になった、と考える。

おわりに

 以上、本研究では、イギリス・ロンドンの公立 夜間学校の実践を方向づけた、ヘッドラムの成人 教育論の全体像を考察してきた。彼の聖職者時代 の歩みもふまえつつ、講演記録や行政文書等の一 次資料を分析した結果、その基本的性格に関して、

次の三点が明らかになった。

 第一に、ベスナル・グリーンの経験が、成人教 育論に与えた影響である。大学時代にモーリスの 神学を受け入れたヘッドラムは、国教会の補助司 祭として、べスナル・グリーン教区に赴任し、ア ングリカニズムの中で、急進的意識を高め、キリ スト教社会主義運動の再興を先導した。この地は、

SBLとLCCの選挙区と重なり、人々の生活現実を 共有し、貧困地域の課題を内在的に把握し続けた 点は、彼の成人教育論の重要な要素になった。彼 の没後、聖マタイ教会で開かれた追悼礼拝には、

ベスナル・グリーンの学校長、教員、全ての学校 の生徒たちが集ったという(70)

 第二に、聖職者から教育改革者への転身がもた らした、成人教育を論じる立場についてである。

ヘッドラムが、本格的に教育界に乗り出したSBL 選挙では、アングリカニズムの体制側である国教 会派等と対立し、世俗教育、教育の無償化や夜間 クラスの拡充等を訴えた。また、アーノルドの聖 書を文学として捉える理解を共有し、世俗教育と 宗教教育の調整を図り、学校を「聖なる機関」と 認識した。SBLとLCCでは、現場を頻繁に訪問し ながら、約30年間、公立夜間学校に関する小委員 会でリーダーシップを発揮し、それを積極的に整 備する立場に立ち、成人教育を擁護した。

 第三に、ヘッドラムの成人教育論の内実である。

彼は、成人教育の不参加層だった不熟練労働者等 を教育対象に据えた。ともに生きることの学びに、

彼らの共通基盤を見出し、近隣社会の文化的洗練 に資する具体策として、普遍的価値を信じる劇場 とダンスを織り込んだ、文学や社交の夕べを提唱 した。自らの信念を貫き、理解者の協力を得つつ、

新たな教育制度である公立夜間学校を大胆に構想 して、貧困地域の人々の内面的救済を目指した。

このようなヘッドラムの公立夜間学校の拡張論

(11)

は、イギリスのコミュニティ教育論の一つの先駆 として、位置付けられるべきである。

 なお、ヘッドラムは、ロンドンの人々のシェイ クスピアへの愛を育む実践に協力した、公立夜間 学校の教員たちに謝意を表している(71)。また、

両大戦間期になると、ロンドンの公立夜間学校の 演劇教育は、地方教育行政機関のモデルとして、

全国的意義が付与された(72)。ヘッドラムの成人 教育論と、先駆的な現場の実践の相互関係を具体 的に検証することは、残された課題である。

附記)本研究は、JSPS 科研費 JP19K02459の助 成を受けたものです。一次資料の収集にあたって、

大英図書館(British Library)、スコットランド国 立図書館(National Library of Scotland)及び英 国セント・アンドリュース大学図書館(University of St Andrews Library)にお世話になりました。

感謝申し上げます。

注・引用文献

(1) 佐藤一子編『地域学習の創造─地域再生への学びを拓く─』

東 京 大 学 出 版 会、2015年。Field, John, “Lifelong Learning and Community”, Jarvis, Peter ed., The Routledge International Handbook of Lifelong Learning, Routledge, 2009, pp.153-162等。

(2) 関直規「コミュニティ学習の場の創造─イギリスの事例から

─」手打明敏・上田孝典編著『〈つながり〉の社会教育・生涯 学習─持続可能な社会を支える学び─』東洋館出版社、2017 年、187-196頁。

(3) Fieldhouse, Roger, “The Local Education Authorities and Adult Education”, Fieldhouse, Roger and Associates, A History of Modern British Adult Education, National Institute of Adult and Continuing Education, 1996, pp.77-108.

(4) Wilkinson, Alan, Christian Socialism: Scott Holland to Tony Blair, SCM Press, 1998, pp.37-38.

(5) Bettany, F. G., Stewart Headlam: A Biography, John Murray, 1926.

(6) Orens, John Richard, Stewart Headlam’s Radical Anglicanism: the Mass, the Masses, and the Musical Hall, Studies in Anglican History, University of Illinoi Press, 2003.

なお、デ・グルーチー(John W. de Gruchy)は、ヘッドラム を、トーリーの体制側の一部を全般的になしていたアングリ カンの重要な例外と見なしている(De Gruchy, John W., Christianity and Democracy: A Theology for a Just World Order, Cambridge University Press, 1995.『キリスト教と民 主主義─現代政治神学入門─』松谷好明・松谷邦英訳、新教 出版社、2010年、126頁)。

(7) ヘッドラムの活動は多方面にわたったが、『イギリス教育者辞

典』は、「聖職者・教育改革者」(clergyman and educational reformer)と要約しながら、彼の略歴をまとめている(Aldrich, Richard and Gordon, Peter, Dictionary of British

Educationists, Woburn Press, 1989, pp.108-109.)

(8) Bettany, F. G., op. cit., p.163.

(9) Devereux, W. A., Adult Education in Inner London 1870- 1980, Shepheard-Walwyn in Collaboration with Inner London Education Authority, 1982, pp.91-92.

(10) Freeman, Mark, “Adult Education History in Britain: Past, Present, and Future”(Part Ⅱ), Paedagogica Historica, Vol.56, No.3, 2020, pp.405-406.

(11) 国教会が基礎を置くアングリカニズムは、「カンタベリー大

主教座と一体をなすキリスト教徒たちの教理と実践の体系」

とされる。(Livingstone, E. A. ed., The Concise Oxford Dictionary of the Christian Church, 3 rd ed., Oxford University Press, 2013. 『オックスフォードキリスト教辞典』

木寺簾太訳、教文館、2017年、54頁。)

(12) Bettany, F. G., op. cit., pp.5-6.

(13) Ibid., p.14.

(14) 関正勝「モーリスとキングズ・カレッジ(ロンドン)─『永遠

の生命と永遠の死』をめぐって─」『キリスト教学』第16・17

号、1975年、160-179頁。

(15) Bettany, F. G., op. cit., p.20.

(16) Ibid.

(17) Orens, John Richard, op. cit., p.11.

(18) Morris, Jeremy, “Headlam, Stewart Duckworth(1847-1924)”, Matthew, H. C. G. and Harrison Brian ed., Oxford Dictionary of National Biography in Association with the British Academy, Oxford University Press, 2004, p.126.

(19) Adderley, J. G., In Slums and Society: Reminiscences of Old Friends, T. Fisher Unwin, 1916, p.199.

(20) Ibid., p.127.

(21) Gautrey, Thomas, “Lux Mihi Laus”: School Board Memories, Link House Publications, 1937, pp.66-67.

(22) Bray, S. E., “The Evening Continuation School”, Spalding, Thomas Alfred, The Work of the London School Board,

2 nd ed., P. S. King & Son, 1900, p.261.

(23) Bettany, F. G., op. cit., p.171.

(24) “Gooch, Sir Henry Cubitt”, WHO’S WHO & WHO WAS WHO, 2007, <https://doi.org/10.1093/ww/9780199540884.

013.U237758>. Accessed 1 st November, 2020.

(25) Bettany, F. G., op. cit., p.242.

(26) Headlam, Stewart Duckworth, Priestcraft and Progress:

Being Sermons and Lectures, John Hodges, 1878, pp.47-48.

(27) Booth, Charles ed., Life and Labour of the People in London, Vol.1 East, Central and South London, Macmillan and Co., 1892, p.36.

(28) McLeod, Hugh, Class and Religion in the Late Victorian City, Croom Helm, 1974, pp.101-102.

(29) Ibid., pp.301-312.

(30) Bettany, F. G., op. cit., pp.36-37.

(31) Inglis, K. S., Churches and the Working Classes in Victorian England, Studies on Social History, Routledge and Kegan Paul, 1963, p.78.

(32) Bettany, F. G., op. cit., pp.40-41.

(33) Headlam, Stewart Duckworth, Theatres & Music Halls: A Lecture Given at the Commonwealth Club, Bethnal Green on Sunday October 7, 1877, 2 nd ed., Women’s Printing Society, 1877, p.vi.

(12)

(34) Foulkes, Richard, “Adult Education and the Theatre: The Early Years”, Studies in Adult Education, Vol.11. No.1, 1977, p.31.

(35) Foulkes, Richard, Church and Stage in Victorian England, Cambridge University Press, 1997, p.172.

(36) Wanger, Donald O., The Church of England and Social Reform since 1854, Columbia University Press, 1930, p.191.

(37) Headlam, Stewart Duckworth, The Guild of St. Matthew An Appeal to Churchmen: Being a Sermon Preached by the Rev.

Stewart D. Headlam, in the Church of St. Edmund the King, Lombard Street at the Thirteenth Annual Festival of the Guild St. Matthew’s Day, Sep. 21st, 1890, Office of the Guild of St. Matthew, 1890, p.8.

(38) Headlam, D. Stewart, The Socialist’s Church, George Allen, 1907, p.5.

(39) リーチ(Kenneth Leech)は、ヘッドラムの神学の中心に、

サクラメンタリズムがある点を指摘する。(Leech, Kenneth,

“Stewart Headlam”, Reckitt, Maurice B. ed., For Christ and the People: Studies of Four Socialist Priests and Prophets of the Church of England between 1870 and 1930, S.P.C.K., 1968, p.70.)

(40) Headlam, Stewart Duckworth, “A Priest’s Political Programme”, Church Reformer, 15 Oct. 1884, p.217.

(<Nineteenth Century Collections Online>, Accessed 17th June, 2020.)

(41) George, Henry, Progress and Poverty: An Inquiry into the Cause of Industrial Depressions and Increase of Want with Increase of Wealth, The Remedy, New ed., Dolubleday &

McClure Co., 1898.『進歩と貧困』山嵜義三郎訳、日本経済評 論社、1991年。

(42) Headlam, Stewart Duckworth, Fabianism and Land Value:

A Lecture Delivered to the Fabian Society on October 23rd 1908, Women’s Printing Society, 1908, pp.3-4.

(43) Jones, Peter d’Alroy, The Christian Socialist Revival, 1877- 1914: Religion, Class, and Social Conscience in Late-Victorian England, Princeton University Press, 1968, pp.129-130.

(44) Orens, John Richard, op. cit., p.21.

(45) Rubinstein, David, “Annie Besant and Stewart Headlam:

The London School Board Election of 1888”, East London Papers, Vol.13, No.1, Summer 1970, pp.5-7.

(46) School Board for London, Final Report of the School Board for London, 1870-1904, 2 nd ed., P. S. King & Son, 1904, p.99.

(47) Headlam, Stewart Duckworth, The Place of the Bible in Secular Education: An Open Letter to the Teachers under the London School Board, S. C. Brown, 1903, p.21.

(48) Ibid., p.17.

(49) 村瀬順子「マシュー・アーノルドの宗教観─Culture and AnarchyからLiterature and Dogmaへの展開─」『大谷大学真 宗総合研究所紀要』第 5 号、1988年、134頁。

(50) Headlam, Stewart Duckworth, “The Church and the National Education”, Headlam, Stewart Duckworth, The Meaning of the Mass: Five Lectures with Other Sermons and Address, S. C. Brown, Langham & Co. Ltd., 1905, p.88.

(51) Headlam, Stewart Duckworth, The London School Board in 1890: An Address by Mr. Headlam to His Constituents, Frederick Verinder, 1890, p.4.

(52) Boulter, B. C., The Anglican Reformers, Philip Allan, 1933, p.138.

(53) Bettany, F. G., op. cit., p.181.

(54) London School Board, Annual Report of the School Board for London for the from Lady-Day, 1899, to Lady-Day, 1900, P. S.

King and Son, 1900, pp.71-72.

(55) Headlam, Stewart Duckworth, “Statement by the Chairman”, Evening Continuation Schools Twentieth Session 1901-1902, p.2.

(56) Headlam, Stewart Duckworth, The First Session of Free Evening Schools: A Reply to Criticism, by the Chairman of the Evening Schools Committee of the London School Board, 1900, p.8.

(57) Bettany, F. G., op. cit., pp.191-192.

(58) Headlam, Stewart Duckworth, “Statement by the Chairman”, Evening Continuation Schools Twenty-first Session 1902- 1903, p.2.

(59) Headlam, Stewart Duckworth, London Education, London Progressive Association, 1924, p.8.

(60) Headlam, Stewart Duckworth, The Re-organisation of the Evening Schools, 1912, pp.24-28.

(61) School Board for London, Final Report of the School Board for London, 2 nd ed., P. S. King & Son, 1904, pp.294-295.

(62) Headlam, Stewart Duckworth, Classical Poetry: A Lecture by Stewart D. Headlam, Frederick Verinder, 1898, p.7.

(63) Headlam, Stewart Duckworth, “Statement by the Chairman”, Evening Continuation Schools Twenty-first Session 1902- 1903, p.3.

(64) Isaac, Winifred, Ben Greet and the Old Vic: A Biography of Sir Philip Ben Greet, The Author, 1964, pp.49-51.

(65) School Board for London, Final Report of the School Board for London, 2 nd ed., P. S. King & Son, 1904, p.302.

(66) Headlam, Stewart Duckworth, “Evening Continuation Schools in London”, The School World, No.26, 1901, p.43.

(67) Headlam, Stewart Duckworth, “Statement by the Chairman”, Evening Continuation Schools Twentieth-first Session 1901- 1902, p.2.

(68) Headlam, Stewart Duckworth, The Re-organisation of the Evening Schools, 1912, p.9.

(69) Headlam, Stewart Duckworth, London Education, London Progressive Association, 1924, p.8.

(70) Bettany F. G., op. cit., p.242.

(71) Headlam, Stewart Duckworth, Shakespeare and the Evening Schools under the London School Board, Women’s Printing Society, 1904, pp.1-2.

(72) Adult Education Committee, The Drama in Adult Education, Paper No.6 of the Committee, 1926, p.102.

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