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大槻玄沢の蘭学観の特徴 : 「職」について

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大槻玄沢の蘭学観の特徴 : 「職」について

著者 林 潔

雑誌名 評論・社会科学

号 114

ページ 53‑66

発行年 2015‑09‑30

権利 同志社大学社会学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014258

(2)

要約:本稿は大槻玄沢(1757−1827)が蘭学普及のために著した『蘭学階梯』において主張 した蘭学の「職」の意義について考察したものである。従来取り上げられてこなかった玄 沢の随筆『徹桑録』を通して,玄沢は天明の大飢饉を契機に〈藩医〉としての職分を自覚 し,蘭学を,〈仁政〉を補助し民生に役立つ学問として捉えるようになった。こうした蘭学 の社会的な有用性すなわち「職」を主張すると同時に,玄沢は技術者一般に対して各自の 家業に応じた技術を蘭書から学び取ることを入門の方法としてすすめた。そのため,蘭学 の「職」は家業に依拠する技術と〈仁政〉補助の学問,すなわち私的と公的という両義性 をもつようになった。こうした両義性は近世後期における蘭学の多様な展開の下地となっ た。

キーワード:蘭学,天明の大飢饉,職分,家業,仁政

目次

1.問題の所在

2.師・建部清庵からの影響 3.天明の大飢饉と『徹桑録』

4.備荒意識と蘭学の「職」

5.むすび

1.問題の所在

近世日本において,天明期(1781−1789)に刊行された『蘭学階梯』は「蘭学」に対 して明確な性格付けを与えた最初の入門書である。その著者である大槻玄沢は私塾芝蘭 堂において稲村三伯など多くの蘭学者を育て,蘭学普及の礎を築き上げた。玄沢は誰に 対して,どのように蘭学を説いていたのか,蘭学にどのような性格を付与したのかを考 察することは,近世社会における蘭学のあり方を明らかにする上で不可欠な作業であ る。

『蘭学階梯』は誰のために著されたのか。この問題について佐藤昌介は,玄沢が執筆

────────────

同志社大学大学院社会学研究科教育文化学専攻博士後期課程

2015629日受付,査読審査を経て201583日掲載決定

論文

大槻玄沢の蘭学観の特徴

──「職」について──

林 潔

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の経緯について言及した「此学ノ大法ヲ示サンコトヲ請テヤマ」なかった「同臭ノ士」

とは司馬江漢のことだと明らかにし,『蘭学階梯』はとりわけ絵画を生業とする江漢の ような「庶民層蘭学愛好者」のために著されたと指摘する(1)

ところが,『蘭学階梯』において,玄沢は「其学ノ大要ヲ示ス」ことを次巻に回し,

「初巻ハ此学ノ職トシ,由ル所ヲ記」すことを優先した点(2)に留意したい。もし玄沢が 単に江漢の要請に応えるために『蘭学階梯』を執筆したのであれば,なぜその答えにな る内容を丸ごと次巻に回し,わざわざ上巻を費やして最初に蘭学の「職」を説明したの か。そうしたことは何を意味するのかを考察すべきである。

これらの問題に関して平石直昭と前田勉の指摘が挙げられる。平石は『蘭学階梯』の 中で言及されている「天下後世ノ裨益」に着目し,「流動化をます18世紀後半の知的状 況の中で,蘭学という新しい学問を日本に樹立しようとする価値創造的な精神」から生 まれた「従来の〈職分〉観には収まりきれない新しい〈職業〉意識」,即ち「専門的な 職業を通した公共の利益への貢献」を目指す「普遍的な価値志向性」を読み取ろうとす る(3)

前田勉は玄沢による「職」の有益性の主張について,「草木と共に朽ち」たくないと いう希求と「天下後世ノ裨益」とのかかわりの中で語られている点に着目して,平賀源 内や司馬江漢との意識の共通性を指摘している(4)。つまり,そうした意識は18世紀日 本における「家業や職分に埋没することを拒否した個人」の自覚を意味し,蘭学はそう した「地縁・血縁の共同体から析出された個々人」が「日本という幻想共同体のなかで 新たな結びつきを求めた」ことによる一つの産物であると前田は指摘する(5)

蘭学における職分観について,平石と前田の指摘は示唆的である。しかし玄沢は従来 幕藩社会における職分観を越えた意味合いで蘭学の「職」を力説していたかどうかにつ いては更なる検討が必要である。また,玄沢が啓蒙しようとした対象は一概に「庶民層 蘭学愛好者」と言えるのだろうか。これらの問題を明らかにするために,『蘭学階梯』

成立当時における玄沢の問題関心を探らねばならない。

『蘭 学 階 梯』の 刊 行 は 天 明8(1788)年 の3月 だ が,成 稿 は そ の5年 前 の 天 明3

(1783)年7月のことである。同書執筆の最中には霖雨が続き,更に7月7日に,浅間 山が大噴火して夥しい数の死傷者が出た。その結果,諸国とりわけ玄沢の故郷の奥州で 農事は甚大な被害を受け,いわゆる天明の大飢饉が起こった。翌年天明4(1784)年の 6月に,玄沢は父の危篤の報に接し帰郷し,父が没した後に家督を相続した。その頃 に,玄沢は『徹桑録』(6)という随筆を執筆して,前(天明3)年から始まった飢饉の顛 末及び江戸より一関へ帰郷した際に実見した飢饉の惨状を記録して備荒に関しての君主 の心掛けを訴えた。この『徹桑録』こそはまさに『蘭学階梯』の執筆から刊行に至る間 における玄沢の問題関心を物語る史料である。

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『徹桑録』においてとりわけ留意すべき特徴は二つある。一つ目は,玄沢が一関藩の

〈藩医〉としての立場から自らの心境を吐露したことである。二つ目は,玄沢が備荒に ついて論じる際に海外他国の風俗,つまり蘭学の勉学を通して得た知見を駆使したこと である。この二点は,玄沢が蘭学に付与した性格を考察するための重要な手掛かりであ ると考える。

本稿では玄沢が蘭学を志向する過程を辿りながら,いままで取り上げられてこなかっ た『徹桑録』を手掛かりに,『蘭学階梯』において玄沢は誰に対して,なぜ蘭学の「職」

を主張するのか,彼は蘭学にどのような性格を付与したのか,また彼の主張はどのよう な意義を持つのかを検討していきたい。

2.師・建部清庵からの影響

大槻玄沢は宝暦7(1757)年に仙台藩領西磐井郡中里村で,和蘭瘍医の千葉玄良(一 関藩へ出仕した後に大槻玄梁と改称)(7)の長男に生まれた。父の千葉玄良は大肝煎・大 槻家の次男で,建部清庵に師事した後,阿蘭陀流外科(8)を以て家業を立て,本家から独 立した。本家の大肝煎・大槻家は奥州西磐井郡を統轄する「民政官」(9)の家系であり,

玄沢は幼少期に専ら本家の伯父・大槻清慶のもとで故実を習ったと伝えられる(10)

明和3(1766)年に玄沢は父の出仕に従って一関に移り,同6年に父の師でもある一

関藩の藩医建部清庵(11)に入門した。それから9年間,清庵の元で医事とりわけ阿蘭陀 流外科の修業をしていた。この建部清庵は明和9(1772)年から安永4(1775)年まで 杉田玄白と阿蘭陀流外科について問答を行った人物である。玄沢も両者の往来書簡を通 して江戸で進んでいるオランダ医書の和訳事業を知り,安永7(1778)年から江戸へ遊 学して杉田玄白と前野良沢にも師事した。こうした経緯について玄沢が自らの「和蘭学 ニ志スノ濫觴」として記している。

余少小ヨリ清庵建部先生ニ師事シテ,而シテ先生ハ其ノ家ヨヽ和蘭瘍医ト云ヲ以テ我カ藩ニ 禄仕スルモノヤ。而シテ先生診理ニ臨ミ,講究ニ就クノ際ク,恒ニ本邦瘍科ノ術未タ備ワラ

(ママ)

ザルコトヲ嘆シ,而シテ曰ク,昇平日久シ,広 績 咸ク煕マル,物トシテ而シテ具ワラザル コト,事トシテ精シカラザルコトナシ。独リ我カ道ニ於テ,何ソ然ラズコトヲ致ス乎。且ツ カノ東都ハ人文ノ藪沢ニシテ,而シテ何ソ缺典ヲ修補スルノ士出ルコト有ルコトナキヤ。

(筆者中略)是レ茂質カ之以テ事ニ和蘭学ニ従フ所ロノ者ノ,実ニ我カ二先生ノ奇遇ト先君 子ノ宿志有ルトニ由テ,而シテ致ス所ヤ。此レ是ノ編与ワル所ニ非スト雖トモ,聊カ余カ和 蘭学ニ志スノ濫觴ヲ言ヒ及スノミ(12)

つまり,玄沢の蘭学志向は清庵の「本邦瘍科ノ術未タ備ワラザル」という問題関心に 由来するものである。こうした清庵の問題関心について,まず彼が宝暦の飢饉の際に著

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した『民間備荒録』に注目したい。

宝暦5(1755)年の飢饉の時に,一関藩内の飢民の惨状を見た清庵は,「惻然として

悲しミ」と感じて,「吾人平日農夫の力にて安楽に歳月を送りし恩の,万分の一をも報 なんハ!て此時なるへし」という使命感に駆られた(13)。そのため,清庵は「素より不 学不才なれハ施すへき術なかり」と痛感し,中国の備荒の書『荒政要覧』から啓発を受 けて「草根木葉須臾の死を緩すへきことを悟り」,『民間備荒録』を著して「邑長,保正 にあたへ,又解毒の二方を調合し同郷の民に施し,平日の恩に報」いようとした(14)

清庵は〈藩医〉(15)としてなんとか領民を助けたいという強い使命感を抱くが故に,己 の「不学不才」を悔やんでいたのではなかろうか。宝暦の飢饉をきっかけに,「和蘭瘍 医」を家業にする清庵は人命救助のための外科を目指そうとしていた。明和8(1771)

年に弟子の大槻玄梁らの働きで,『民間備荒録』は江戸の本屋申椒堂須原屋市兵衛によ って刊行され,刊本の最後に門人曾根意三による「跋」では次のように記している。

申椒堂の玆の書を刻するや,奇貨これを居くと為すにあらず。深く吾が先生博済の念に感ず るに出ずる也。先生は外科を業とせるも,世俗の所謂外科者流の比にあらず。湯液鍼灸の術 に至りては,人を活かすことに筭無し(16)

このようにわざわざ清庵の「博済の念」と「人を活かすこと」を特記しなければなら なかったほど,当時では「世俗の所謂外科者流」は倫理的にも社会的役割においても否 定的に見られていた。ここでいう「外科者流」について,清庵は明和7(1770)年閏6 月18日付玄白宛の質問状の中で次のように批判している。

外科者流,傳書を秘し他え不出,誤りをも不正,家傳と号し広く吟味せざる故,何レ是,何 レ非なるや知るへからす。本来,紅毛の医書といふものを傳授せず膏薬油薬計ヲ習ひて,其 レて一流を建立したる故也。(筆者中略)不得已,外科内科ヲすれバ,射利のために内外兼

(ママ)

而すると悪 姓な医者共か誹謗するを聞バ,凡夫の浅猿しきハ嗔恚のたねとなり,自然ニ陰 徳を破る事也と思てせず。外科一家ニてせねバ能キ事ハならぬといふ理ハ知なから,只今 迄,瞽同然ニ而一生を暮したるハ残念也(17)

つまり,当時の外科医は医書に依拠せず,己の利益のために外科のわざを秘伝にし て,誤りがあっても是正しなかった。このような外科は到底人を活かすためのものでは なかった。外科のみならず,近世社会において「医を売ものゝやうに心えたる医者,心 中商人にゝてあさまし」というように,医者の間では名利ばかりを貪る世風が蔓延して いる(18)。したがって,清庵は人を助けるために方法を尽くそうとしても,「陰徳を破る 事」を懸念せざるを得なかった。

このような賤医観と人命救助の使命感に苛まれて,清庵は「外科一家ニてせねバ能キ

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事ハならぬ」,つまり外科を系統的な医術として自立させなければならないと痛感した。

清庵は蘭書を通して本格的な阿蘭陀流外科を樹立しようとしていたが,晩年に杉田玄白 と出会うまで蘭書に触れる機会に恵まれなかった。そうした清庵の使命感と志を継承し たのが弟子の玄沢だったのである。

3.天明の大飢饉と『徹桑録』

玄沢は幼少期より父母の話や清庵の『民間備荒録』を通して宝暦の飢饉を知ったが,

天明4(1784)年江戸から一関へ帰郷する途中に実見した大飢饉の惨状は彼に大きな衝

撃を与えた。

(ママ)

萬つの事噂にきゝ書籍にて見返したると,此の如く直に目にふれ身に覚しハ雲 程のたかひ なる事也。惻ゝ然として心を重し憐れを催すことなり。嗚呼,一国一郡の主となる人兼て此 を救ふの備へ心を用さるはいかなる故そや。(筆者中略)余も又此とし初めて飢民のありさ まを目のあたり見侍りて其状を審にし,あはれさ心肝に銘し備荒録の書深情より成れるゆゑ ん,その実撰なる事を悟り得たり。済世の君子,余か此集を見てその真なるを思ひやり,か ね!"備荒の良法を工夫し給ん事を希ふものなり(19)(筆者傍線)

右のように,「此の如く直に目にふれ身に覚」えることの衝撃は,噂や書籍のもたら す共感と比べると,まるで「雲程のたかひなる事」であり,「惻ゝ然として心を重し憐 れを催すことなり」という。このような強く衝撃を受けた故に,玄沢は「一国一郡の主 となる人兼て此を救ふの備へ心を用さるはいかなる故そや」と深く慨嘆し,「済世の君 子」に「かね!"備荒の良法を工夫し給ん事」を期待している。つまり,玄沢の苦衷は

「済世の君子」たる者たちに対して発するものである。そうした「済世の君子」とは誰 を意味するのか。

まず玄沢による備荒の主体から見ていきたい。玄沢に深い影響を与えた『民間備荒 録』において,清庵は「専ら邑長,保正に教へ,飢民を救ハしめ,菓木を栽置,後の飢 饉に備へしめんとす」(20),「邑長,保正」すなわち肝煎・組頭という村役人層にもっと も期待を寄せ,備荒策を怠らずに実施することを村役人層の責任として捉えて い る(21)。つまり,清庵の着眼点はあくまでも飢饉を起こした村落の内部である。しかし 玄沢の着眼点は清庵と違い,次のように異なる見解を述べている。

備荒録に載する所の備荒樹芸,備荒儲蓄の二法,一箇の良術なれとも,凡情の邑長保正中々 如此の世話を兼てより心に掛くへきとも覚へす,凡て邑長保正に択はるゝもの,常の農夫よ りハ少しく小利口に見へ,算草の事をも可なりに覚へたるといふ程にて,年々の収納公けの 権を以てとりあつめるといふ迄のを成れハ,いつと定めなき。後の荒歳に備る術を兼てより

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心を用るといふには届ぬ事なり。(筆者中略)人君撫柔の御心有りて世話やかセ給ふ事にも あらすハ,決て愚民思ひよりて行ふへき事とハ覚へす(22)(筆者傍線)

玄沢によると,肝煎・組頭も目先の利益しか見えない「愚民」の範疇を超えておら ず,「後の荒歳に備る術を兼てより心を用るといふには届」くことができない。「愚民の 常情」というのは「飽けば飢をわすれ,暖なれば寒さを忘るゝ」ものであり(23),だか らこそ,藩主は自ら「撫柔の御心」を以て備荒しなければならない。

国の大小によらす,各国の太守深く心を用ひ給ひ,自ら世話やかセ給ひ,かたく有司の輩に 命して行しめ給ひなバ,其年にあたり,此たくわへにて救はセ給はゝ,菜色の民を見ぬよふ になり,一年二年の歳凶を凌れさる事ハあるまし(24)

このように,各藩の藩主が主体となって備荒に取り組んでこそ,荒年を乗り越えるこ とができる。したがって,備荒が至らなかったせいで民を餓死させた「罪」は「一人の 君に在り」,臣下農夫のわざではないと玄沢が述べている(25)

玄沢の備荒に対する見解はその出身と無関係ではない。彼の所属する一関藩は仙台藩 の支藩として,独自の農政はほとんど行えず,本藩に対する従属性が強かった。仙台藩 は宝暦の飢饉以降に深刻な財政難に陥り,買米制度の強化,豪農・豪商に献金を奨励し て苗字帯刀や諸役免除などの特権を与えることを続けてきた。その弊害として端的に現 れたのは天明3(1783)年9月19日に仙台藩城下町で起こった「安倍清騒動」(26)であ る。『徹桑録』の中では次のような批判がある。

国により既にこの心掛ありて,かね!"もみ藩建置るゝ所も聞ゆれとも,豊年つゝきぬれ バ,差当り財用逼迫なるにまかセ給にて,補ひ置くへきなとゝ富売買して空乏となし。はか らすして,此年に当れハあハてさわぎ,茫然とはかりことなく,常に天とする所の士庶黎民 を餓死セしむるにいたる。これ皆浅智なる奸吏のなすわさにして,国君深く心を治道に用さ るの誤りなり。只飢饉の備のミならず,不慮に兵乱等の騒き生る事も有りなバ,何とかセん なけくへく悲しむべき事のはなはたしきなり(27)

ここでは藩名や人物名まで言及していないが,「奸吏」「不慮に兵乱等の騒き」など具 体的な指摘から見れば,仙台藩の藩政問題を意識していると推測できよう。すでに述べ たように,玄沢の本家大槻家は仙台藩領西磐井郡の民政を担う大肝煎を世襲する家系で あり,その当主としての大槻清慶つまり玄沢の伯父は彼の幼少期に多大な影響を与え た。以上のような藩政の見る目はそうした大肝煎の本家との関わりで培ったものではな かろうか。それ故に,同じ備荒の問題についても,農村の内部に力点を置く清庵と違っ て,玄沢は藩政の次元で捉え,何よりも為政者としての藩主の心掛けを強く訴えかけて いた(28)

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そして,このように藩政を論じる自らの立場と執筆の動機について,玄沢は次のよう に記している。

余,医を以て其職に列し其食禄を受る事なれハ,此時に当つて飢民賦食となす所の草根木皮 の良毒を辨じて示すこそ其分にあたれる事なるへけれとも,條!"辨する如く返す!"も,

須臾の救餓已む事を得さるのはかりことゝ覚ゆれは,偏に国君の兼て心を仁に用ひ給ひ蒼生 を救ひ給ふ事を希ふ所なり(29)

つまり玄沢は〈藩医〉として,飢饉に当たって「飢民賦食となす所の草根木皮の良毒 を辨じて示す」ことこそが己の職分であるが,それはあくまで彼の師である清庵が『民 間備荒録』の中で示したように「須臾の救餓」でしかないと痛感している。それ故に,

備荒・救荒に当たって最も重要で根本的なことは藩主が「心を仁に用ひ」ることである と玄沢は訴えている。このように藩主による〈仁政〉を力説していることは,玄沢が一 医者としての役割だけでなく,藩士としての立場を強く自覚していくことを意味するの ではなかろうか。

玄沢は備荒・救荒における各藩の藩主の心掛けを訴えると同時に,「済世の君子」に 対して「かね!"備荒の良法を工夫し給ん事」を希っていたことを改めて指摘しておき たい。彼は「御仁心」を掛けて備荒策を行う明君として米沢藩主・上杉治憲と白河藩 主・松平定信を挙げ(30),とりわけ定信については,臣下に対して「言路開け」,「国家 の良益妙策」を積極的に求める点を高く称賛している。すなわち玄沢は,「済世の君子」

の工夫した「備荒の良法」が積極的に採用されるために,藩主は「御仁心」を用いると いう前提がなくてはならないと訴えると同時に,「済世の君子」に対して藩主による

〈仁政〉を積極的に補助するように呼びかけている。そうした「済世の君子」は彼と同 じように藩士の立場を持つ者たちに他ならない。

このように,玄沢は天明の大飢饉をきっかけに,自らの〈藩医〉としての職分を強く 自覚して,藩主による〈仁政〉を補助すべく積極的に「備荒の良法」を模索するように なった。彼は「備荒の良法」の手掛かりとして蘭学に着目したのである。

4.備荒意識と蘭学の「職」

前述のように,玄沢の蘭学志向を促した直接的要因は清庵の外科のあり方に対する問 題関心であり,つまり彼は和蘭瘍医という家業の延長線上で蘭学を学ぼうとした。『蘭 学階梯』において玄沢は以下のように述べている。

吾人,天地ノ道ニ従ヒ,国家ノ法令ヲ守リ,能ク其職ヲ勤ルヲ以テ分トナス。余等,世々和

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蘭瘍医ニ箕裘ス。今幸ヒニ其ノ原書ヲ読ムノ路ヲ得タレバ,就テ飜訳ヲナシ,其要法ヲ求テ 其業ヲ修セント欲ス。コレ,其職トシテ由ル所ナリ。他ノ諸芸ハ,和漢古ヘヨリ其人ニ乏シ カラズ。余不佞ガ浅劣,何ゾ贅セン。冀クハ,和漢千古,人ノ未ダ曾テ知ラザル所ノ事ヲ国 ニオコサンコトヲ謀レバナリ(31)

「天地ノ道ニ従ヒ,国家ノ法令ヲ守リ,能ク其職ヲ勤ルヲ以テ分トナス」,すなわち道 徳的価値と社会的有用性とが同時に備わる職分(32)を守ることである。玄沢にとって,

蘭学の修業は「和蘭瘍医」という自らの家業と職分を徹底した結果であり,その家業に 役立つ技術を蘭書の読解を通して得ることは彼の最初の動機であった。こうした個別な 家業における蘭学の修業は「人ノ未ダ曾テ知ラザル所ノ事ヲ国ニオコサンコト」,つま り私的立場による価値創造の意味合いが認められる。

ところが,玄沢が蘭学を通して得たのは医術に関する知識だけではなかった。彼は飢 饉時の米不足に備えて日頃より米以外の雑穀を食べることを勧めるに当たって,海外に 関する知識を駆使していることに注目したい。

余つら!"天地世界の大を以て考ふるに,日本は小国といへとも,実に五穀豊穣百物蕃盛の

地にして,其貴外国に恥す沃野千里天府の国といつゝへし。印帝亜地方には米穀有余にて一 歳三熟といふ諸国も聞ゆれと,又西洋諸国都て漢土の西所にあたる各国にて五穀を産セさる 夥し。すてに本邦に年!"通貨し来る所の阿蘭陀抔も其地寒国にして,麦は出つれとも,稲 は産セす。なれとも他の食物にして生命を全し米は用ゆる事まれなりとか也。これはひろく 世界へかけて論する所なり。(筆者中略)それにても生命を全し,人倫にかけたる事もなく,

おの々さま!"のなりわひをつとむる事なれハ,朝夕米にあらさバとて,口腹は喜ハるゝ事 (33)(筆者傍線)

このように,玄沢は世界の諸国も視野に入れて,米以外の食料でも生命を全うし,

「人倫」に欠ける事もなく,各々様々な生業を勤められるという,米以外の雑穀を食料 とすることの倫理的・社会的正当性と普遍性を述べている。つまり,玄沢はすでに従来 の蛮夷観(34)と異なって,阿蘭陀を含む西洋諸国も日本と同じ普遍的な「人倫」の範疇 において把握している。

こうした「人倫」の普遍性について,玄沢の蘭学の師である杉田玄白はすでに安永4

(1775)年に,オランダの医書を「蛮夷の書」と非難する漢方医を反駁した際に述べて いる。

道なるものは,支那の聖人の立つるところにあらず,天地の道なり。日月の照らすところ,

霜露の下るところは,国あり人あり道あり。道とは何ぞや。悪を去り善を進むるなり。悪を 去り善を進むれば,人倫の道明らかなり。他は皆風俗なり。風俗は国によりおのおの異なる なり(35)

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つまり,「道」とは聖人による制作ではなく,「天地の道」即ち人間という存在に固有 する「人倫の道」に他ならない(36)。玄白は「人倫の道」を中国やオランダ,どこの社 会にでも同じく存在している普遍的なものとして,各国の「風俗」を個別的なものとし て捉えている。このような認識を,玄沢は玄白への入門を通して共有したと考えられよ う。同じ「人倫」の土台を持って初めて,西洋諸国の「風俗」は日本にとって参照する に値するものに成り得た。続いて玄沢は西洋諸国と日本の「風俗」を比較した上で,西 洋諸国に倣って積極的に富を開発すべきと次のように主張している。

全躰にて論するに,日本ハ沃土なれハ,上下ともにつとめて国用に心を用るかた薄き風俗な り。西洋の諸国なとハ其地方瘠地多けれは,他邦に渡海し交易を専らにして,国を福すとい ふ事多しと也。いまた開けさるの地に至り,富ハ新らた是を開発してついに家国の所有とな すといふ風俗也と聞ゆ。我方なとにてハ本国もと豊なる事なれハ,かくの如きハ絶へてなき ことなり。我れに所属する海外諸嶋ニも田畠となるへきの地多しときけとも,これは姑く舎 き,国内にても端々には荒萎の地多く,新田を開発すへき所少からすと見ゆ(37)

このように,玄沢は蘭学から得た知識を通してより広い視野を獲得し,他藩のみなら ず,海外諸国も参考の対象にして積極的に備荒の方法を思案していた。飢饉をきっかけ に,玄沢にとって蘭学はもはや単に家業のための技術だけではなく,備荒という公的事 業に役立つ実学としての性格をもつようになった。その実用性について,玄沢は『蘭学 階梯』の上巻において次のように述べている。

彼齎シ来ル物ノ中,天文・地理・測量ノ諸品・諸冊,及ビ我医術ノ撰著ノ類ハ,毎編精詳ノ コトノミ多クシテ,コレ等ハ民生第一ノコトナレバ,直チニ因テ其法ヲ求ムルノ端ヲ発キ テ,彼ノ善ヲ我レニ取ランコトヲ希フ所ナリ。是レ,吾党ノ微意ニシテ,苟クモ此学ニ心ヲ 深フスル所以ナリ。終ヒニコノ業成就シナバ,縦(タト)ヒ,後来,和蘭ノ通市絶ヌルコト アリトモ,其書ト其学ト世ニ伝ラバ,自ラ識者ノ発揮アラント思ヘバナリ。且ツコレヲ以 テ,聊モ民用ヲ助ケ,□国家昌平,聖恩ノ万一ヲ報ンコトヲ欲シテナリ(38)(筆者傍線)

オランダ人がもたらした「天文・地理・測量」および「医術」に関する諸々な器具と 書籍は「民生」に役立つものであるならば,直ちにその原書を通して「彼ノ善ヲ我レニ 取」るべきだと玄沢は主張している。このように,蘭学は個別な家業に役立つ技術とし てのみならず,社会全体の利益に役立つ学問としての公的な性格を強められた。

備荒という具体的な課題を意識した時に,玄沢は藩主による〈仁政〉なしでは民が救 われないと痛感し,自らは〈藩医〉として〈仁政〉を補助すべきであると強く自覚し た。そうした藩の視点からの職分意識を持っていたからこそ,玄沢は蘭学を一つの学問 として,〈仁政〉を補助し広く「民生」に貢献するという社会的有用性を発揮させるよ うに構想できたのである。

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こうした蘭学の社会的役割を,玄沢は誰に対して説いたのか。まず『蘭学階梯』に序 文を寄せたのは福知山藩主朽木昌綱と松江藩士萩野信敏であることを指摘しておきた い。前者はとりわけ海外地理や貿易について関心を持ち,玄沢とは共に師・前野良沢に ついてオランダ語を学び,蘭書について互いに切磋する学友でもある。後者は松江藩江 戸詰の三百石の藩士で徂徠学派の学者でもあり,「題蘭学階梯首」においては蘭学を

「利用厚生」のための「制度」を模索する学問として位置付けている(39)。両者との交友 関係から考えてみると,『蘭学階梯』は武士階層の読者を持っていたことが推測できる。

ただし,玄沢は蘭学普及の対象を武士階層の者に限定しているわけではない。彼は以 下のように述べている。

我医術等ノ如キハ,已ニ此ノ学ノ開ケシ後,治療ノ間ダ,奇効ヲ得ルコト,勝テ計フベカラ ズ。故ヲ以テ,此学ニ志ヲ委任シテ,今日ニ臻レリ。嗚乎,済世ノ君子,各自ノ好ム所ヲ以 テ此ニ従事シ,其術中ノ長ヲ択バヽ,捷径ノ法ヲ得ルコト少カラズシテ,国家ノ裨益トナル コト多カルベシ(40)

具体的には,「医家ハ医書,天文家ハ天文ノ書,地学家ハ輿地ノ書,本草家ハ本草ノ 書,画図・技巧ヲ好ム人ハ画図・技芸ノ書,元トヨリ各々其好ム所ヨリ入ルベシ」(41)と いうように,ここでいう「済世ノ君子」は「術」を扱ういわば技術者一般を意味してい る。天明の大飢饉のような広範囲にわたる災害を意識した場合,「民生」「国家ノ裨益」

は広く世の中における「利用厚生」を意味している。玄沢は技術者各自の「好ム所」す なわち各々の家業をこうした社会一般の裨益に役立つという文脈の中で位置付けて,そ れぞれの家業に応じた技術を蘭書から学び取ることを蘭学入門の「捷径ノ法」としてす すめていた。そうした技術を家業とした者は藩に奉仕する武士階層の者もいれば,佐藤 昌介の指摘するように司馬江漢のような「庶民層」の者も含まれているだろう。

このように,玄沢は蘭学を個別な家業を越えて社会一般の利益に役立つ学問として位 置づけていると同時に,各々の家業に依拠することを蘭学入門の具体的な方法として提 示している。そのため,蘭学の「職」すなわち社会的有用性は家業に役立つ技術として の私的性格も保有されている。こうした蘭学の「職」における公的および私的という両 義性は,同時に〈私〉と〈公〉という異なる領域における蘭学普及の下地となったので ある。

5.むすび

以上述べてきたように,天明期における大槻玄沢の蘭学観は彼の備荒意識と深くつな がるものである。玄沢は凶作・飢饉多発の東北地方で生まれ育ち,本家西磐井郡の大槻

大槻玄沢の蘭学観の特徴 62

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家はそうした災害に直接対処する民政に携わる大肝煎であり,なお彼に深い影響を与え た建部清庵は備荒・救荒策に苦心した人物である。幼少期より親と師から備荒の重要性 を説かれていた玄沢は更に天明大飢饉の際に自ら飢饉の惨状を実見することによって,

備荒における〈仁政〉の重要性と自らの〈藩医〉としての職分を強く自覚した。玄沢は 本来家業の延長線上で蘭学を修業したが,〈藩医〉として〈仁政〉を補助すべきである と自覚した時に,蘭学に対する認識も家業のための技術から備荒法を工夫するための実 学へと展開した。

つまり,『蘭学階梯』の成稿から刊行までの間に勃発した天明大飢饉を契機に,玄沢 が蘭学を〈仁政〉を補助し「利用厚生」に役立つ学問として捉えるようになり,こうし た蘭学の社会的有用性すなわち「職」を力説していた。

一方では,蘭学の普及に当たって,技術者一般を対象に蘭学入門のプロセスを説くた めに,玄沢は各々の家業に依拠して相応の技術を蘭書から学び取ることを平易な方法と して提示していた。その結果,蘭学の「職」は家業に依拠する技術と〈仁政〉補助の学 問という両義性をもつようになった。

後に玄沢の門下から,橋本宗吉のような町医者や地域の医療を担う民間医が輩出され る一方で,藩医として活躍する者や山村才助のような海外知識を研鑽する藩士も出てき た。玄沢自身も後に幕府の蛮書和解御用として登用されて『厚生新編』の翻訳事業に携 わり,「利用厚生」に役立つ蘭学を発展させていた。そうした蘭学の多様な展開は,玄 沢が説いた蘭学の「職」における両義性と深くかかわっていたのではなかろうか。

⑴ 佐藤昌介「大槻玄沢小伝」(洋学史研究会編『大槻玄沢の研究』思文閣出版,1990, 8頁)。

⑵ 「蘭学階梯 例言」(沼田次郎,松村明,佐藤昌介校注『日本思想大系64 洋学 上』岩波書店,1976, 326頁)。

⑶ 平石直昭「近世日本の〈職業〉観」(東京大学社会科学研究所編『現代日本社会四 歴史的前提』東京 大学出版会,1991, 65頁−67頁)。

⑷ 前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学 近世日本思想史の構図』平凡社,2006, 175頁−176頁。

⑸ 前田勉「一八世紀日本の新思潮−国学と蘭学の成立」(笠谷和比古編『一八世紀日本の文化状況と国際 環境』思文閣,2011, 85頁−99頁参照)。

⑹ のちに門人の長谷川宗僊が筆録した『磐水先生隨筆巻之二』に収録されている,筆録年不詳。本稿で 使われている稿本は早稲田大学所蔵の影印本である。本文は漢文・仮名交りの文書で,句読点は筆者 によるものである。

⑺ 大槻家六代目喜三郎茂性の次男で諱は茂蓄,阿蘭陀流外科を以て本家より独立。明和2(1765)年,

一関藩の医官小田喜樸は業を辞したため,玄良は小田氏の俸を分ち,糧五口金十星(原俸糧十七口金 七両三星)で召出されて,大槻玄梁と改称する(「関藩列臣録」小田氏の条を参照)。

⑻ 江戸時代では,「瘍医」または「外科」とは,「外相に出る腫物を療する」職業を意味する(『人倫訓蒙 図彙』)。蘭学成立以前の「阿蘭陀流」(または「和蘭流」「紅毛流」)というのはオランダの医書に依ら ず,オランダ商館医がもたらした外治法を,見聞を通して経験的に習って漢方医学の基盤の上に付け 加えたものである。

大槻玄沢の蘭学観の特徴 63

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⑼ 「村請制」に基づく「近世国家」において,「民政」は「近世領主・国家権力が民間社会とじかに接す る場」であり,「民政官」は「近世国家が宣言した民衆の生活・生命を保障する「平和」の実現」を地 域社会の自治を具体的に担う者である(小川和也『牧民の思想 江戸の治者意識』平凡社,2008, 18 頁)。

⑽ 大槻玄沢の子・大槻玄幹が著した「先考行実」による(大友喜作編『北門叢書4 環海異聞・先考行 実』北光書房,1944, 81頁)。

⑾ 建部清庵由正は一関藩に仕える外科医で,延享4828日に家業を継ぐ時は「月俸十五口,歳金三 十星」。延享中は「謁者」に列したが,宝暦飢饉時の功で藩主より賞されて「賜列監察,尋又升伴食,

任奉薬」,安永年間(1772−1781)さらに穀禄百十石の改賜を貰い,「扈従長」に列した(『関藩列臣 録』)。

⑿ 「六物新志 題言七則」(青木国夫,ほか編『江戸科学古典叢書32 六物新志・稿;一角纂考・稿』恒 和出版,1980)。筆者読み下し。

⒀ 「民間備荒録 凡例」(山田龍雄,飯沼二郎,岡光夫編『日本農書全集18 民間備荒録・北条郷農家寒 造之弁・農事常語・無水岡田開闢法・上方農人田畑仕法試・耕作口伝書』農山漁村文化協会,1983, 40 頁)。

⒁ 同上。

⒂ 小川氏によると,藩医としての清庵の著した『民間備荒録』は「明君録と関連させ,饑餓状況の克服 という課題を担う 藩 という視点が内包されている」,こうした『民間備荒録』は「藩政改革の時 代」としての宝暦−天明期(1751−1789)の先駆けとして,「近世後期の「牧民之書」普及のきっかけ になった」画期的な著作でもある(前掲小川書,196頁)。

⒃ 「民間備荒録 跋」(前掲書,195頁)。

⒄ 平野満「新出史料『蘭学問答』と『瘍医問答』−『和蘭医事問答』の初稿と第二稿−」(『駿台史学』130 号,2007, 1頁−39頁)。明和7(1770)年閏618日付建部清庵の質問状。建部清庵と杉田玄白の往 来書簡は弟子によってまとめられ,初稿の「蘭 学 問 答」と 第 二 稿 の「瘍 医 問 答」を 経 て,寛 政7

(1795)年『和蘭医事問答』という題名で刊行される。本稿では初稿の「蘭学問答」から引用する。

⒅ 「人倫重宝記 読解」(青木国夫,ほか編『江戸科学古典叢書39 職人尽絵詞;人倫重宝記』恒和出 版,1982, 30頁)。寛政9(1797)年に大槻玄沢も「医者あき人」という戯作を著し,「医者の事には情 出さいてすむ世の中にて,表向は仁の端の医道にて,内!の所は,商人の心にて事たれるなり」とい うように,世の中の医者は商人と紙一重であると諷刺した。

⒆ 「徹桑録 慨嘆」。

⒇ 「民間備荒録 凡例」(前掲書,40頁−41頁)。

清庵は「天下之本在レ国,国之本在レ家,家之本在レ身,大なれハ天下,小なれハ一村を治るに其理 何そたがふ事あらんや。一村の長となり,一村の民の飢寒を救ふ事も,常々かくのごとく心を尽しな ハ,其術のなき事やあるべき」と述べている。清庵から見れば,日頃より「愚民」の一般農夫に対し て備荒の心得を勧督・指導することは肝煎・組頭の責任であるため,凶作に逢った時大勢の村民が飢 民になってしまったのは「是皆,平日邑長,保正心を不レ尽ゆゑ」である(同上,176頁)。

「徹桑録 荒政」。

同上。

同上。

同上。玄沢のこうした認識から近世初期以降の〈仁政〉思想の普及が見て取れる。近世幕藩制国家の 正統性は〈天道委任〉と〈御救〉を統合する〈仁政〉思想によって供給され,そうした〈仁政〉思想 は寛永の大飢饉を契機に普及し,領主に民を養う為政者として自覚を喚起させた(前掲小川書,40

−41頁参照)。

元木綿商人の安倍清右衛門は仙台藩への献金によって番頭格と強い権勢を手に入れ,藩の公金である

「御納戸金」まで自由に運用し得て,藩の買米・廻米政策に大きく絡んでいた。天明2(1782)年,安 倍の提案によって領内の凶作に備えた「御囲穀」は残らず江戸に売却されたため,翌年は大凶作に逢 って極端な米不足に陥っていた。さらに安倍は「御納戸金」で買い調えた米は大黒屋で市中の相場よ

大槻玄沢の蘭学観の特徴 64

(14)

り高い値段で売り出されたため,城下住民は不満を一斉に募らせた(仙台市史編さん委員会『仙台市 史 通史編5 近世3』仙台市,2004, 93頁−98頁参照)。

「徹桑録 荒政」。

玄沢の見解を裏付ける一つの史料は「天明六年八月五串村肝入阿部松吉より下伊沢大肝入鈴木養作宛」

の書簡である。その記載によると,天明3(1783)年西磐井郡では,当時の大肝煎の大槻家の当主大 槻専左衛門清雄が「段々凶作にも相至リ申候に付,野粮等取貯へ,雑飯粥相用ひ候様再三御触被二仰 渡一候に付,折入御村方江も申含候へ共」,村方たちは「不天気打続き,取噪ぎ申候内にも,一日快晴 仕候へば,凶作に可二相成一事をも打忘れ申す体,都而御触之通り野粮等取貯へ申す儀も呑込不レ申,

恥敷事に相はまり油断」したという(一関市史編纂委員会『一関市史 第1巻通史』一関市,1978, 798 頁−799頁)。

「徹桑録 荒政」。

こうした〈明君〉に対する認識の背景に〈明君録〉の普及が考えられる。若尾政希によると,近世前 期では,〈仁政〉を行う〈明君像〉は楠木正成という人格を通して「一つの政治常識」として当時の社 会の共通認識になったが,飢饉が相次ぐ宝暦−天明期に至ると,各藩で数多くの明君録がつくられる ようになり,「明君像の自立」すなわち現実の幕藩領主を顕彰する形に変化した(若尾政希「享保〜天 明期の社会と文化」大石学編『日本の時代史16 享保改革と社会変革』吉川弘文館,2003)。

「徹桑録 荒政」。

佐久間正『徳川日本の思想形成と儒教』ぺりかん社,2007, 475頁。

「徹桑録 民情同異並勧戒諸説」。

蘭学の流れにおいて,従来の蛮夷観については向井元升と新井白石が挙げられる。元升は明暦2

(1656)年に『乾坤弁説』の中で朱子学の理気論に立脚して「蛮学の非」,つまり南蛮・阿蘭陀の学術 を「理気の説を知らず,故に道徳暗く理に迷ふ」ものとして批判している(国書刊行会編『文明源流 叢書 第二』国書刊行会,1914, 6頁−7頁)。一方,白石は宝永6(1709)年に宣教師シドッチの尋問 において,儒教倫理を以てキリスト教の教説における倫理的矛盾を指摘し,西欧の学術を「たゞ其形 と器とに精しき事を,所謂形而下なるものゝみを知」る技術として評価し,「形而上なるもの」つまり 天地万物の理−人倫について「いまだあづかり聞かず」と一蹴した(宮崎道生校注『西洋紀聞』平凡 社,1968, 16頁−17頁)。

「狂医之言」(前掲『洋学 上』,229頁−230頁)。

杉田玄白による「天地自然の道」は,「道」が聖人の作為によるものという荻生徂徠の主張を批判して 性善説に基づく「天地自然の道」つまり社会道徳の自然発生を主張する儒学言説に共通するものであ るとされる(澤井啓一『〈記号〉としての儒学』光芒社,2000, 186頁−187頁)。

「徹桑録 荒政」。

「蘭学階梯 巻之上」(前掲書,341頁)。

原文は漢文で,読み下し文は「利用厚生,文質ここに彬彬たり。三代の道,果たして諸邦喎蘭に存す。

奥人子煥は豪傑の士なり。未だ海に航せずといへども,遥かに能くその学に熟す」である(同上,322 頁−323頁)。

「蘭学階梯 巻之上」(同上,338頁)。

「蘭学階梯 巻之下」(同上,369頁)。

大槻玄沢の蘭学観の特徴 65

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This paper examines the significance of moto (職;means social usefulness) in Rangaku (Dutch Studies), based on o¯tsuki Gentaku’s (1757−1827) textbook Rangaku kaitei (A Guide to Dutch Studies) that he published in 1788 to disseminate Rangaku, as well as his Tesso¯roku (1784), an essay that researches have largely ignored. From these writings it is clear that when Gentaku became aware of his duties as a han-i (clan doctor) during the Tenmei Famine, he recognized Rangaku as a study that would assist in jinsei, or benevolent administration, and the promotion of public welfare. He called this social usefulness of Rangaku moto. At the same time, as a method of introducing Rangaku, Gentaku suggested technicians learn techniques from Dutch books depending on the family business of each person. Therefore, the meaning ofmoto in Rangaku is ambiguous : privately, it is a technique for one’s family business ; publicly, it is the study that promotes for public welfare. The ambiguity ofmoto became the groundwork for a variety of developments in Rangaku in the later Tokugawa period.

Key words: Rangaku, Tenmei Famine, Duty, Family business, Benevolent administration

A Study of the Meaning and Implications of Moto in the Rangaku Works of O ¯ tsuki Gentaku

Jie Lin

大槻玄沢の蘭学観の特徴 66

参照

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