• 検索結果がありません。

超越論的論証と現代の超越論哲学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "超越論的論証と現代の超越論哲学"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

超越論的論証と現代の超越論哲学

著者 近堂 秀

出版者 法政大学言語・文化センター

雑誌名 言語と文化

巻 18

ページ 127‑148

発行年 2021‑01‑29

URL http://doi.org/10.15002/00023755

(2)

超越論的論証と現代の超越論哲学

近 堂   秀

1 カントと超越論的論証

 本稿は(1),「超越論的論証(transcendentalargument)」をめぐる論争の問 題を検討し,現代哲学に対してイマヌエル・カントの超越論哲学の独自性を明 らかにする。カントの超越論哲学は分析哲学によって解体されたという見解が 支配的な状況で,なおもカントに着想を求め,超越論的論証を用いる現代哲学 の立場がある。現代哲学の超越論的論証は,意味の理論や価値の理論,道徳の 理論における懐疑論を論駁するさい,懐疑論者の疑いに不整合を指摘する。し かし,筆者の見るところ,現代哲学は,経験主義の問題を抱えているゆえに論 駁が成功しているとは言いがたい。そこで筆者は,超越論的論証をめぐる論争 の経緯を踏まえ,自己知の問題に超越論的論証を用いることを試みる。これに よって本稿は,現代哲学に対して外界へと開かれた自己の心のあり方を主張す るカントの超越論哲学の独自性を明らかにする。

2 超越論的論証をめぐる論争

⑴ 分析哲学の超越論的論証

 周知のようにピーター・フレデリック・ストローソンが「概念枠(conceptu- alscheme)」における「特殊者同定(particular-identity)」という世界に対す る思想の構造を明らかにするにあたり,みずからの論証を超越論的と表現した ところから(2),一連の論争が始まった。ストローソンは,外界の懐疑論を論駁 するために,以下の論証を用いる。

 ①われわれは,「物(materialthing)」についての「単一の時空体系(asin-

(3)

glespatio-temporalsystem)」という概念枠を持ち,概念枠を持つならば,

特殊者同定を受け入れる。

 ②特殊者同定を帰属させようとせずに,ある体系内の項目と他の体系内の項 目との同定を疑うという問題は存在しない。二つの体系を含む単一の体系 の内にある場合にのみ,特殊者同定に対する疑いが意味をなす。

 ③単一の体系を持つ条件として,部分的体系の少なくともいくつかの項目を 他の部分的体系のいくつかの項目と同定するために充足可能であり,通常 は充足されている規準がある。

 ④懐疑論者は,ある概念枠を受け入れるふりをしながら,同時にその概念枠 を用いる条件の内の一つを暗黙裡に拒否している。

 ところが,バリー・ストラウドは,ストローソンの論証が懐疑論論駁に成功 していないとして,次のように指摘する(3)。ストローソンの論証の隠れた前提 として,客観的特殊者という観念がわれわれにとって意味をなす場合,われわ れはある規準が充足されているとしばしば知っており,その規準の充足はその ような対象が知覚されなくとも存在し続けているか,存在し続けていないかの いずれかを論理的に含意するという検証原理がある。したがって,検証原理を 前提するならば,懐疑論を論駁する必要はなく,検証原理を前提しないなら ば,一切が現象として時空の内にあるとする超越論的観念論の立場をとらざる をえないことになる。他方,リュディガー・ブプナーは,ルートヴィヒ・ウィ トゲンシュタイン,W・v・O クワイン,ストローソンの論証を範例として,

「自己関係性(self-referentiality,Selbstbezüglichkeit)」に訴える形で『純粋理 性批判』から超越論的論証を定式化する(4)。ブプナーによれば,超越論的論証 は,与えられた先行条件へと遡ることで操作それ自体の条件へと遡り,ある概 念を使用する可能性の条件を解明すると同時にその解明がどのようにして可能 かを示さなければならない。これに対してリチャード・ローティは,概念枠と 内容との区別を破棄するドナルド・デイヴィドソンの論証(5)を引き合いに出 し,ブブナーの論証を自己論駁的な寄生論証と見なす(6)。このようにして超越 論的論証をめぐる論争は,分析哲学と超越論哲学との対立構図を浮き彫りにし つつも(7),現代の超越論哲学の終焉を印象づけていったんは下火となった(8)

(4)

⑵ 信念の問題,価値の問題と現代哲学の超越論的論証

 これに対してストローソンが「野心的(ambitious)」な形式での超越論的論 証から撤退すると(9),ストラウドがより弱い形式での超越論的論証を信念の問 題に用いることを試みるようになる(10)。ストローソンは,「考える」や「信じ る」などの心理学的な動詞による心理学的な前提から出発し,物のあり方につ いて述べる非心理学的な結論を引き出そうとしていたが,その論証から撤退す る。しかし,ストラウドの考えでは,超越論的論証が検証原理や超越論的観念 論に依拠せずに明らかにすべき論証目標は,ある信念の「必要不可欠性(indis- pensability)」が「論駁不可能性(invulnerability)」を含意することにある(11)。 すなわち,ある信念は,独立した世界についての何らかの考えや一連の信念の 内で呈示されているならば,世界について考えることと整合的に破棄されえな いので必要不可欠である。世界についての何らかの思想や信念を持つために必 要な信念は,何らかの思想や信念に帰属させられているならば,偽と見なされ えないので論駁不可能である。

 デイヴィドソンの意味の理論は,ある信念が共有されていると見なされる必 然性によって真と確証される論駁不可能性を明らかにしようとする。信念の論 駁不可能性は必要不可欠性を含意しないが,信念を持つと見なされるならば,

信念全体は偽と見なされえないので論駁不可能でありうる。他方,現代の心の 哲学における内容外在主義によれば,ある人の思想や信念は,他人との相互作 用の内にあり,その人の思想や信念が関わる世界の内の何かによって部分的に 規定されていなければならない。しかし,内容外在主義は,信念が世界につい ての思想や概念に必要不可欠であると明らかにせずに,論駁不可能であると確 証しようとする。そこでストラウドは,思想や信念を帰属させる条件を明らか にするために,次のような論証を用いる。例えば世界の内にある対象の色につ いての信念の内容は,色についてではない術語へと還元されたり,それと同等 に表現されたりしない。われわれは,他人が対象の色について物を考えたり信 じたりすると考えるためには,色の思想を受け入れ,物の色について知性的に 考えることができなければならない。色についての信念が還元不可能であるの は,色についての信念のいくつかを欠いては他人が色についての信念を持つこ とが意味をなさなくなるからである。色についての信念が論駁不可能であるの は,色についての信念を持つことが意味をなし,物の色についての信念を持つ

(5)

ならば,それがすべて偽であると整合的に見なされえないからである。このよ うにしてストラウドは,より弱い形式の超越論的論証に従って信念の必要不可 欠性と論駁不可能性を明らかにする。さらにカーシム・カッサムが「世界に向 けられた(world-directed)」論証とは異なる「自己に向けられた(self-direct- ed)」論証として超越論的論証を再構成し(12),ロバート・スターンが「慎まし い(modest)」仕方での超越論的論証を考える(13)

 他方,クリスティーン・マリオン・コースガードは,価値の理論を展開する さい,カントが『人倫の形而上学の基礎づけ』で人間性の法式を導出する議論

(Vgl.VI,429)に従って次のような論証を用いて,これを超越論的と表現する(14)。 すなわち,われわれは,われわれの目的のいくつかが明らかに条件つきであっ ても,それを善と見なす。われわれは,十全な合理的自律でもってそれらが選 択されている場合,常にそれを善と見なす。したがって,十全な合理的自律そ れ自体はそれらの価値源泉である。さらにコースガードは,同様の論証を用い て,道徳の理論における自然主義と実在論に対して道徳的義務の前提条件を明 らかにしようとする(15)。コースガードによれば,道徳の規範性は「反省的認 証(reflectiveendorsement)」という方法で確証される。そうしようとする自 分の傾向を反省し,自分の傾向が行為に要求する権威を受け入れるかあるいは 拒絶することができる,その決定に従って行為することができると想定する。

こうして道徳を正当化する方法が反省的認証である。人間の心は自己意識的で あり,人間の意識の反省的な構造から義務が生じる。そのさい,人間は「反省 的行為主体(reflectiveagent)」として自己自身に価値を見いださなければな らない。コースガードは,これを道徳的義務の前提条件として明らかにするた めに,次のような論証を用いる。すなわち,合理的行為が存在し,われわれは それが可能であると知っている。われわれがちょうど行っていた反省の過程に よって,合理的行為は人間が自分の人間性に価値を見いだす限りで可能であ り,われわれは当の人間である。それゆえにわれわれは自己自身に価値を見い だし,それゆえにわれわれは価値がある。このようにしてコースガードは,道 徳の理論として,超越論的論証に従って反省的行為主体が自己自身に価値を認 めなければならないので,自己自身に義務が伴う道徳的同一性を認めなければ ならず,それゆえに道徳的義務を認めなければならないと主張する。

(6)

⑶ 現代哲学における経験主義の問題

 もっとも,現代哲学の超越論的論証は,カント自身の論証との乖離を指摘し なければならない。トーマス・グルントマンによれば(16),超越論的論証は,

(1)デカルト主義的な外界についての懐疑論に対して,(2)実在論の制約のも と,(3)外界におけるある事実に訴えてその疑いの不整合を明らかにする点に 構造上の特徴がある。他方,カントは,(1)経験主義的な懐疑論に対してアプ リオリな認識の可能性を擁護し,(2)超越論的観念論の立場をとり,(3)超越 論的証明が間接的であってはならないとする(Vgl.A789/B817)。ところが,

カントは,『純粋理性批判』では超越論的証明の根拠を「可能的経験」に求め る(Vgl.A94,A155/B194,A737/B765,A783/B811)。したがって,超越論的論 証は,『純粋理性批判』に即して,(1)外界のアプリオリな認識として,(2)外 界の必然的性質を真理ないしは世界へと向けられる機能の内で,(3)経験的表 象に関する何らかの理論によって正当化すると考えることができる。そのさい に論理形式は次のようになる。①(タイプAの)経験がある。②(タイプAの)

経験があるならば,Bである。それゆえ,Bである。例えばストローソンは,

『純粋理性批判』解釈として,以下の論証を考える(17)

 ①経験が可能であるためには直観と概念とが必要であり,経験の内に「再認 知の構成要素(acomponentofrecognition)」が存在しうるのは,経験の 自己帰属が可能だからである(=経験の自己帰属の可能性)。

 ②経験の自己帰属が可能であるならば,経験判断における主観的構成要素の 区別,経験の客観的順序・配列と主観的順序・配列との区別が可能であ り,経験がそれ自体に関して思考する余地を与える(=経験の「自己再帰 性(self-reflexiveness)」)。

 ③「時空枠組み(spatio-temporalframework)」の内で客観的時間関係と主 観的時間関係との区別が可能であるならば,「恒常的なもの(aperma- nent)」という概念を使用し,その事例として知覚対象の知覚を記述する ことができる。

 あるいはデイヴィドソンは,概念枠と内容との区別を破棄すると同時に,信 念と事実との一致に言語の意味があることを明らかにするために,以下の論証

(7)

を用いる(18)

 ①信念は,その本性に従って,公共的ないしは間主観的に理解可能である。

 ②間主観的な理解が人間の認知能力の制約のもとで可能であるのは,解釈者 が観察可能な話し手の振舞いから具体的な範囲で彼の信念を推理すること ができる場合のみである。

 ③解釈者が観察可能な話し手の振舞いから具体的な範囲で話し手の信念を推 理することができるのは,話し手の信念がその表現を引き起こす知覚可能 な事実に概して関係づけられている場合のみである。

 ④話し手の信念は,その表現を引き起こす知覚可能な事実に概して関係づけ られている場合,概して真である。それゆえ,信念は概して真である。

 グルントマンの考えでは,表象される対象の制約をその表象の必然的な制約 に関する理論によって正当化する点で,カント,ストローソン,デイヴィドソ ンの論証は超越論的と表現することができる。ただし,超越論的論証は表象の 理論として心と世界とを媒介する原理を正当化しなければならない。したがっ て,ストラウドによるより弱い形式の論証やスターンによる慎ましい仕方での 論証は,カント自身の論証からは乖離していったと言わざるをえない。

 他方,ゲアハルト・シェーンリッヒは(19),カントが『判断力批判』で考察 する「満足(Wohlgefallen)」という心のあり方を「賛成態度(proattitude, Pro-Einstellung)」に読み換え,価値判断を次のように定式化する。すなわち,

p であることが善い/価値であるのは,次の S が存在する場合に限る。(1)S は(適切な状況のもとで)内容 p に関してΨを持つかもしれず,(2)Ψは賛成 態度であり,(3)内容 p に関してΨを持つことは適合的である。これに従って シェーンリッヒは,コースガードによる価値の超越論的論証を以下のように修 正する。

 ①われわれは,われわれの目的のいくつかが明らかに道具的であっても,そ の目的を善い/価値と見なす。

 ②すべての道具的価値にとって,少なくとも究極的価値が価値源泉として存 在しなければならない。

 ③われわれが目的を善い/価値と見なすのは,それが合理的自律のもとで定

(8)

立される場合である。

 ④��。

 ⑤それゆえ,合理的自律は,絶対的な究極的価値として,すべての価値に とっての価値源泉である。

 シェーンリッヒの考えでは,コースガードの論証は,懐疑論者ですら受け入 れる前提から出発する超越論的論証の典型的なモデルに即しているが,前提③ と前提⑤の間に必要な前提④が欠けている。そこで,「合理的自律」が「合理 的自己愛」という信念や願望,情念的感情などの賛成態度に置き換えられると する。賛成態度の客観が価値評価に相応しいという意味でその態度を「適合 的」とするならば,客観性により正当化が可能である。それ自体のために評価 される「究極的価値」と,Sがpを考えうるすべての観点で評価される「絶対 的価値」という二つの価値概念を導入すると,前提④は以下のようになる。

 ④Sが合理的自律を究極的価値と見なす(目的それ自体として定立する)な らば,そのなかでSの合理的自律が絶対的価値として表明される。

 自己愛が「価値評価主体(wertschätzendesSubjekt)」にとって適合的な賛 成態度であるならば,一つの価値について述べられており,究極的に適合的な 賛成態度であるならば,一つの究極的価値について述べられている。自己愛の 合理性条件では,普遍化が可能である。したがって,価値評価主体としての

「私」が合理性条件の充足という前提のもとで自己自身を評価し,合理的自 律という形態で自己にとって価値であると主張することは,現実的には偽と見 なされえないので論駁不可能である。ただし,超越論的論証の論証目標とし て,「私」が合理的存在者であることを破棄せずに自己自身を評価しないこと がありうるか,自己価値評価が必要不可欠か否かは,未解決にしておかなけれ ばならない。このようにしてシェーンリッヒは,コースガードによる価値の超 越論的論証を修正し,ストラウドとは異なる形で論駁不可能性のみから価値の 懐疑論を論駁する。

 筆者の考えでは,超越論的論証をめぐる論争でのカント自身の論証との乖離 は,現代哲学が抱えている経験主義の問題(20)に起因する。経験主義は,概念 枠と内容との区別を前提するので,経験内容を自己に直接結びつけなければな

(9)

らない限り,心と世界とを媒介する原理を自己に求めることができない。

シェーンリッヒがすべての観点を自己に求めるようにする形でコースガードの 論証を修正するのは,コースガードの論証が経験主義の問題を回避し,主体的 な契機を素通りしているためである。

3 超越論的記号論の構想と展開

 ところで,超越論的論証をめぐる論争では,カール= オットー・アーペルの 超越論的言語遂行論におけるコミュニケーション共同体の究極的基礎づけと超 越論的論証との構造上の特徴に共通性が認められるという指摘があった。これ に対してシェーンリッヒは,超越論的記号論としてカントの超越論哲学を再構 成し,ブプナーやアーペルとは異なる超越論的論証の構造を主張する。

 シェーンリッヒは,超越論的記号論の構想のもと,超越論的構文論と超越論 的意味論として『純粋理性批判』の超越論的論理学を読み換える(21)。超越論 的構文論は,判断の論理的機能を記号使用の「普遍可能性(Allgemeinheits- fähigkeit)」の規則に読み換え,構文論的な「意義(Sinn)」が一致する記号使 用の理解可能性を明らかにする。超越論的意味論は,純粋悟性概念を記号使用 の「意味可能性(Bedeutungsfähigkeit)」の規則に読み換え,カテゴリーが コードとなって現象を解釈することを明らかにする。こうして『純粋理性批 判』の超越論的論理学を読み換えるならば,超越論的統覚の相関概念としてカ テゴリーの総体を指す超越論的客観は(Vgl.A107,A253,B304f.),記号使用と

「意味(Bedeutung)」とが一致する連関点となる。

 シェーンリッヒによれば,言語記号における対象性と使用の規則として超越 論的客観が連関点となるならば,記号使用と意味とが一致しうるようになる。

これを規則措定の規則として理性の「審廷」で基礎づけるのが,「破れた自己 関係性(gebrocheneSelbstbezüglichkeit)」である。記号の媒介性として,記 号の構造の面から見て,原理的に記号内容の指示は記号の表記を必要とする。

超越論的主観に循環を認める『純粋理性批判』の誤謬推理批判の議論に従って 考えるならば(Vgl.A346/B404),次のようになる。自己意識の統一は「私」

という記号にのみその意味の内で接近しうる一方で,「私」はそれが意味する 事態の表示に留まる。ブプナーによれば,超越論的論証が訴える自己関係性 は,「それが述べるところのものを述べるとともにそれ自体についても何かを

(10)

述べる」関係性となる。しかし,アプリオリな自己関係性は,ブプナーが考え たような絶対的な自己生成の関係性ではなくて,記号の外的構造を必然的に伴 う破れた関係性,換言するならば,自己を常にみずからの外に対して自己とす る関係性でなければならない。

 さらにシェーンリッヒは,ユルゲン・ハーバーマスとアーペルの討議倫理学 を検討し,法と道徳の関係を考察する(22)。ハーバーマスは道徳的な観点への 方向づけを今にも失いそうになり,アーペルは道徳的な方向づけそのものの意 義を疑わしくさせる。しかし,討議への自由な同意という構想の内で自由の概 念がより強い意味を持ち,討議倫理学のシステムを突破するほどまでに力動性 を拡大するので,超越論的言語遂行論による討議倫理学の根本規範の究極的基 礎づけは完全には要求が満たされない。そこでシェーンリッヒは,超越論的記 号論に基づいて文化における理性の自己限定の形態として法と道徳を考え,討 議倫理学とは異なる形で規範的なモメントを共同体のシステムの内に見いだそ うとする。

 シェーンリッヒによれば,超越論的記号論は,文化が「記号行為(Zeichen- handeln)」として理性の「解釈性(Interpretativität)」を解放し,理性が法と 道徳の形態へと自己を限定することを明らかにする(23)。例えばバリ島の闘鶏 は,バリ島の文化が羽,血,群衆,金銭を媒介にして社会的情熱を解釈する記 号行為であり,理性の要請として自己を解明する。同時に理性は,法の形態で は自然の野蛮さへの固執から外的な自由を脅かす者に強制を適用するが,道徳 の形態では文化対立における異文化への破壊的な干渉を禁止する。このように 考えるならば,ローティが主張するような文化相対主義に対して,文化に依存 しない理性のミニマリズム的な核心部分が確保される。さらに記号論の枠組み でカントの法哲学のカテゴリーを読み換えるならば,共同体の強制へと至る規 則の懐疑論に対して,次のように考えることができる(24)。共同体は,システ ムにおける「制度化を制度化すること(InstitutionalisierungdesInstitutionali- sierens)」が手続きに従って普遍性,平等性,相互性という規範的なモメント を産み出し,その手続き自体に規範的なモメントが反省的に適用される。例え ばアザンデ族の鶏の神託と西ドイツ技術監査協会の設立は,制度化の手続きに おける普遍性,平等性,相互性が制度に従う者の関係における普遍性,平等 性,相互性を保証する限りで,規範的には対等である。

 筆者の見るところ,シェーンリッヒによる超越論的記号論の構想と展開につ

(11)

いて注目すべきは,討議倫理学に対して物理世界における心のあり方を問う点 である。シェーンリッヒの考えでは,カントによる図式の説明は,知覚には能 動的な選択があるとする認知心理学におけるスキーマの考え方と整合する形 で,文化の働きを明らかにする試みとして読み直すことができる(25)。超越論 的記号論は,異なる文脈に適合するように知覚図式を補完するコード化という 解釈の働きに,文化の非機能主義的な働きを見いだす。また,カントによる直 観と判断の説明は,認知機能を正しく理解するために,「精神内在的なものの パラダイス」から表象内容を追放する試みとして読み直すことができる(26)。 超越論的記号論は,「直観の現われ」と「直観内容」をインデックス的個物記 号とイコン的性質記号に読み換え,直観の現われによる直観内容の指標化を明 らかにする。記号使用は,直観の現われが「外延量」(A162/B202)となり,

現実に存在する客観に「感覚の実在的なもの」(B207)として関わるように求 める。こうして超越論的記号論は,現代の心の哲学における内容外在主義の立 場から,次のように主張する。すなわち,判断の真理条件はあらゆる文脈で一 定であり,客観が与えられる心のあり方は状況に依存するが,直観の現われに おける指標化が直観内容を概念的に把握可能なものにする。討議倫理学は,自 己を「間人格的(interpersonal)」なものと見るが,そのさいに行動主義の因 果的な刺激反応の関係に心のあり方を限定する。これに対して超越論的記号 論は,「人格内的(intrapersonal)」な次元へと考察を展開し,解釈という文化 の非機能主義的な働きを明らかにしながら,外界へと開かれた心のあり方を超 越論的論証が訴える自己関係性として主張するのである。

4 自己意識の統一による超越論的論証

⑴ カントの自己意識論とデイヴィドソンの三角測量の議論

 では,カントの超越論的論証は,シェーンリッヒによる超越論的記号論の構 想を手がかりとするならば,現代哲学のどのような問題に用いることができる のであろうか。筆者の考えでは,デイヴィドソンは,「三角測量(triangula- tion)」の議論における自己知のあり方として一人称の「権威(authority)」を 主張するが(27),これを明らかにするためにカントの超越論的論証を用いるこ とができる。

 デイヴィドソンは,概念枠と内容との区別を破棄する論証によって,(T)X

(12)

が真であるのは,p のときかつまたそのときに限るとする,アルフレッド・タ ルスキが定式化した同値式を自然言語へと適用する意味の理論が同時に確立さ れると主張する。当初,デイヴィドソンは,(T)の形の同値式を自然言語へと 適用するために,一致と自己整合性を求める「寛大さ(charity)」の原理のも とで他人の言語や思想を解釈する「根元的解釈(radicalinterpretation)」を 考えていた(28)。ところが,デイヴィドソンは,一致と自己整合性を求める考 えからは後退する一方で,外的世界についての知,他人の心についての知,自 分の心についての知という三種類の「知識(knowledge)」の還元不可能な関 係を三角測量の議論に従って裏づけるようになる(29)。テーブルが現前してい る場面で,「テーブル」に似た音を発した子どもが褒美をもらえるという過程 が繰り返されると,やがて子どもがテーブルを前にすると「テーブル」と言う ようになる。ここで,一つの線が子どもからテーブルに向かい,もう一つの線 がわれわれからテーブルに向かい,さらにもう一つの線がわれわれから子ども に向かっている。子どもからテーブルへの線とわれわれからテーブルへの線と が交差する点に,「刺激」が位置づけられる。われわれは,世界と子どもに関 するわれわれの見方を前提として,われわれの反応と子どもの反応に共通する ような子どもの反応の「原因」を選び出しうる。二人の話し手と共通世界の間 の三方向の関係が三角測量である。思考と言語にとって必要な客観性は,三角 測量の議論に従って,二つの生物が共通の遠位的な刺激やその刺激へのそれぞ れの反応に対して相互的かつ同時的に反応する事実に依存することになる。こ れにより,客観的なもののあり方という概念が与えられるとともに,真理とい う概念が共有されている事実に従って二つの生物が信念を持つとされる。三角 測量による客観性のもとでは,信念と真理との違いから,心的なものは物的な ものには還元されえない。同時に,命題と事実との対応を真理条件とする話し 手と解釈者としての聞き手との違いから,自己知における一人称の権威が認め られなければならない。このようにしてデイヴィドソンは,外的世界について の知,他人の心についての知,自分の心についての知という三種類の知識が相 互に還元不可能であることを明らかにする。

 筆者の考えでは,『純粋理性批判』におけるカントの自己意識論は,デイ ヴィドソンの三角測量の議論との構造的共通性として,次の二点を指摘するこ とができる(30)。第一に,カントの自己意識論における内的経験と外的経験と の関係は,デイヴィドソンの三角測量の議論では心的なものと物的なものとの

(13)

関係に相当する。カントは,内的感官の対象の述語として「表象や思考」

(A359),「思想,感情,傾向性,あるいは決意」(A358)といった概念を挙げ,

超越論的自我の第三者的な観点から経験的自我に述語づける経験の内的なあり 方を考える。他方,デイヴィドソンは,「信じている,意図している,欲して いる,希望している,知っている,見ている,気づいている,想起している」

といった命題的態度を表現する心的な動詞を含む記述の規準が明確化されえな いとして,心的なものと物的なものとのカテゴリー上の相違と個別的な出来事 のレベルでの同一性を主張する(31)。したがって,カントの自己意識論は,内 的経験と外的経験との統一的な関係が心的なものと物的なものの非法則的な同 一性に相当する点で,デイヴィドソンの三角測量の議論との構造的共通性を指 摘することができる。

 第二に,カントの自己意識論における原因性概念と感性的直観との関係は,

デイヴィドソンの三角測量の議論では単称因果言明と外的状況との関係に相当 する。カントは,アプリオリな総合判断として原因性概念の感性的直観への

「超出(Hinausgehen)」を求める超越論的真理のもと(Vgl.A154f./B193f.),

現象の客観的継起から把捉の主観的継起が導出されなければならないと考える

(Vgl.A193/B238)。他方,デイヴィドソンは,命題と事実との対応を求める 真理条件のもと,単称因果言明が外延的であると同時に何らかの法則がそれを 裏づけると主張する(32)。例えば「太陽がある石を暖めた」という判断は,「太 陽がある石を暖めた」という現象の客観的継起から「ある石を照らした太陽」

と「暖かくなったその石」という二つの把捉の主観的継起が導き出されなけれ ばならない。「太陽」と「石」それぞれの把捉,「太陽がある石を照らした」と いう知覚と「その石が暖かくなった」という知覚についての判断が真であるの は,それが太陽と石であり,太陽がある石を照らしてその石が暖かくなったと きかつまたそのときに限る。そのさいに「太陽がある石を暖めた」という現象 についての判断が真であることが前提にある。「太陽がある石を暖めた」とい う現象についての判断が真であるのは,太陽がある石を暖めたときかつまたそ のときに限る。したがって,カントの自己意識論は,原因性概念の感性的直観 への超出を求める超越論的真理が単称因果言明の意味を外的状況に求める真理 条件に相当する点で,デイヴィドソンの三角測量の議論との構造的共通性を指 摘することができる。

(14)

⑵ 自己知の問題とカントの超越論的論証

 さらにデイヴィドソンは,一人称の権威として,信念,希望,欲求,意図な どの命題的態度を現在の自分に帰属させる場合には,他人に帰属させる場合と は異なって誤りがないのはなぜかという自己知の問題を指摘する(33)。これに 対してデイヴィドソンは,自己帰属には規準がないとするウィトゲンシュタイ ンの指摘に遡り,自分への帰属と他人への帰属の非対称を否定するライルやエ イヤーの見解を退けたうえで,ストローソンの議論とシドニー・シューメイ カーの議論を検討する。ストローソンによれば,懐疑論者は,どのようにして 他人の心のなかで起こっていることを知りうるかという自分の疑問を理解して いるならば,心が何かを知っている限りで,心が身体のなかにあって思考を持 つと知っている。さらに懐疑論者は,思考を他人に帰属させる場合には観察さ れた行動が基礎になるが,自分に帰属させる場合にはそのような基礎はないと も知っている。これに対してストローソンは次のように主張する。心的概念を 持つためには,心的述語の自己帰属者が同時に他者帰属者であり,すべての他 人が自己帰属者であることが必要である。また,心的概念を理解するために は,主語の観察による帰属とそれとは独立の帰属のいずれをも許容し,かつ多 義性に陥らないような述語を認めなければならない。しかし,デイヴィドソン によれば,ストローソンはその理由を説明していない。あるいはシューメイ カーは次のように主張する。心的出来事に関する言明は,ある人が誠実に述べ ているならば,それが偽であるとは考えられないという意味で,「訂正不可能

(incorrigible)」である。訂正不可能という条件は一人称の権威に置き換えら れるとする。一人称の権威が認められるのは,話し手が特権的な種類の文を用 いていると知っている場合か,解釈者が自分への帰属を真として解釈しなけれ ばならない場合である。したがって,デイヴィドソンによれば,シューメイ カーは論点先取を免れえない。しかし,明示的には困難な推理に聞き手は依拠 しなければならないが,話し手は依拠しないという事実により,自分への帰属 と他人への帰属は非対称となると考えられる。話し手は,自分の言葉が何を意 味するかを語るためには,次のような種類の言明を与えられるのみである。

「ワーグナーが幸福な死をとげた」という私の発話が真であるのは,ワーグ ナーが幸福な死をとげたときかつまたそのときに限る。聞き手は,「〜」とい う私の発話が真であるのは,〜ときかつまたそのときに限るとするのが,自分

(15)

にとっては話し手の発話の真理条件を述べる最良の方法だと考えるべきいかな る理由もない。このようにしてデイヴィドソンは,自己知のあり方に関する独 自の見解として,一人称の権威が認められなければならないと主張する。

 デイヴィドソンの議論については,次の二点を踏まえておく必要がある(34)。 第一に,デイヴィドソンは,自分の言葉が何を意味するか,話し手が知らない とするヒラリー・パトナムと心的内容の社会的要因への依存を強調するタイ ラー・バージの議論を検討しながら,一人称の権威を主張する議論を補強して いる。「関節炎(arthritis)」に関する思考実験から,バージは次のように主張 する。ある人の言葉は自分が属する言語共同体のなかで自分の言葉が持ってい る意味を与えなければならず,それに基づいてその人の命題的態度も解釈され なければならない。しかし,社会的要因は,デイヴィドソンによれば,バージ の考えとは異なる形で話し手が自分の言葉によって何を意味しうるかを操作す る。すなわち,話し手は,理解されたければ自分の言葉が一定の仕方で解釈さ れることを意図しなければならず,したがって自分が意図した解釈へと至るた めに必要な手がかりを相手に提供することを意図しなければならない。また,

「双子地球(TwinEarth)」に関する思考実験から,パトナムは次のように主 張する。ある思考は,頭の外にあるものとの関係によって同定されるならば,

完全には頭のなかにない。ある思考が完全には頭のなかにないならば,心は,

一人称の権威によって要求されるような仕方でそれを把握することはできな い。しかし,意味が頭のなかにないという結論は,デイヴィドソンによれば,

意味が部分的に頭の外にある対象への関係によって同定されるという事実だけ からは帰結しない。というのも,通常の方法での心的状態の同定に関与してい る外的要因が見きわめられたとしても,心的なものと物的なものの同一説が排 除されるわけではないからである。このようにしてデイヴィドソンは,パトナ ムとバージの見解を退け,一人称の権威を主張する議論を補強している。

 第二に,デイヴィドソンは,概念枠と内容とを区別する概念相対主義が客観 的なものと主観的なものの二元論であることを指摘したうえで,新たな反主観 主義の内に一人称の権威を主張する見解を位置づけている。デイヴィドソンに よれば,異なる枠組みないしは言語は経験に与えられたものを組織化する異な る仕方を構成すると主張する概念相対主義では,解釈されていない所与,カテ ゴリー化されていない経験内容が認められている。概念枠と内容との区別は近 代哲学の問題を支配し,規定し続けてきた客観的なものと主観的なものの二元

(16)

論に遡り,私秘的な状態と対象を持った心という概念に由来する。これに対し て新たな反主観主義では,意味の外的要因への依存が限定的なものと見なさ れ,心的出来事と物的出来事との同一性と一人称の権威が否定されると誤解さ れている。しかし,(1)心の状態はそれが習得された社会的・歴史的文脈に よって部分的に同定されるが,(2)それによって心の状態は物理的状態ではな いと示されるのではなく,(3)一人称の権威が認められなくなるのでもない。

同時に,(4)解釈されていない経験とそれを組織化する概念枠が区別されると いう考えは誤りであり,(5)「思考の対象」を措定する必要もない。このよう にしてデイヴィドソンは,新たな反主観主義の内に一人称の権威を主張する見 解を位置づけている。

 これに対してカントは,『純粋理性批判』第一版の超越論的分析論における

「純粋悟性概念の演繹について」では,統覚の超越論的統一に基づいて表象の 関係が法則に従うようになるとして,次のように述べる。「というのも,心性 がみずからの表象の多様性の内での自己の同一性をそれもアプリオリに思考す ることは,把捉のすべての総合(それは経験的である)を一つの超越論的統一 に従わせて,そうしたアプリオリな規則に従う総合の関係をはじめて可能なも のにするようなみずからの働きの同一性を眼前に置かなければ,不可能かもし れないからである」(A108)。さらにカントは,第二版における演繹では,統 覚の総合的統一が構想力の超越論的総合に関わり,多様なものの総合的統一の 内で私が自己自身を意識するとして,次のように述べる。「これに対して私が 表象一般の多様なものの超越論的総合の内で,したがって統覚の総合的な根源 的統一の内で私自身を意識するのは,私が私に現象する通りにでもなければ,

私が私自体である通りにでもなく,ただ私があると意識するだけである」

(B157)。他方,カントは,『純粋理性批判』第一版の超越論的弁証論における

「純粋理性の誤謬推理について」では,外的経験と内的経験を内に含む「われ われ」が「思想の超越論的主観=x」(A346/B404)としての単なる一人称の 主語であり,それを超え出た「内的感官の超越論的対象」(A361)としての魂 ではないとする。要するにカントが『純粋理性批判』で自己意識論として主張 するのは,統覚の超越論的統一として対象の意識が表象の関係における法則と 同一的な自己の意識とのいずれをも可能にするが,そこで意識されるのは単な る自己だということである。「超越論的対象=X」を介して現象を対象とする ところから(Vgl.A108f.),統覚の超越論的統一は,単なる自己が自己とは異

(17)

なる対象へと向かう自己意識の統一のあり方となる。

 筆者の考えでは,分析哲学における自己知の問題に対してカントの自己意識 論を援用するならば,次のようになる。デイヴィドソンの議論では,話し手 は,自分の言葉が何を意味するかを語るためには,「〜」という私の発話が真 であるのは,〜ときかつまたそのときに限るというような種類の言明が与えら れるのみである。カントによれば,自己意識は,超越論的な主観と対象との相 関関係を含む統一を通じて,内的経験から外的経験を区別しなければならな い。超越論的記号論に従って読み換えるならば,自己意識は,言語記号を使用 する主体と記号の対象との相関関係を含む記号の意味を通じて,「記号利用者

(Zeichenbenützer)」(35)として記号一般の内部に感覚言語を位置づけなければ ならない。したがって,話し手は,「私は思考する」という自己意識のもと,

心的なものとしての内的経験から物的なものとしての外的経験を区別している ことになる。また,デイヴィドソンの議論では,話し手は,自分の反応と聞き 手の反応に共通するような,聞き手の反応の原因を選び出しうる。カントによ れば,自己意識は,統覚の超越論的統一として自己とは異なる対象へと向かう 単なる自己を通じて,第三者的な観点を共有していなければならない。超越論 的記号論に従って読み換えるならば,話し手は,自分の反応と聞き手の反応を 関係づけるために,記号利用者として第三者的な観点に自己を位置づけなけれ ばならない。したがって,話し手と聞き手は,第三者的な観点を共有している 限りで,互いが自分の解釈者でありうることになる。第三者的な観点として現 象における自己あるいは自己自体と区別され,単なる自己が意識される。これ を裏づけるのが,「私は思考する」という自己意識の統一のあり方に訴えるカ ントの超越論的論証である。

 このようにして,自己意識の統一による超越論的論証に従って一人称の権威 が認められ,三角測量が成立すると考えることができる。デイヴィドソン自身 もこう述べている。「もしも個人が必要不可欠で,究極的には避けがたく創造 的な最終的裁定者という役割を果たしていないならば,いかなる思考も存在し ていないであろう」(36)。シェーンリッヒがコースガードの超越論的論証を修正 するのは,自己を常にみずからの外に対して自己とする自己意識の統一という 心のあり方から,道徳的義務における反省的行為主体が合理的自律を前提しな ければならず,さらに認識と行為を媒介する価値評価主体が合理的自己愛を前 提しなければならないからである。カントの超越論哲学に立ち返るならば,ア

(18)

プリオリに可能であるべき「対象一般」についての「認識様式」の超越論的認 識(Vgl.B25)から,外界へと開かれた心のあり方を主張する点にその独自性 があると考えることができる。鶏の概念のもとで目の前の一羽の鶏を鶏とする さい,そこには羽や鳴き声などからなる知覚図式の働きがある。バリ人なら ば,闘鶏における動物性の知覚図式の働きとなり,アザンデ族ならば,鶏の神 託における超越性の知覚図式の働きとなる。いずれの場合も,自己は心をみず からの外の世界へと開こうとしており,そうする自己にまず価値があると言わ なければならないのである。

 以上の考察によって本稿は,信念の問題,価値の問題に超越論的論証を用い る試みに現代哲学における経験主義の問題を指摘し,外界へと開かれた自己の 心のあり方を考えるカントの超越論哲学の独自性を明らかにした。現代哲学 は,意味の理論や価値の理論,道徳の理論における懐疑論者の疑いに不整合を 指摘する超越論的論証を用いるが,経験内容を前提しなければならない経験主 義の問題がある(37)。これに対してカントの超越論哲学は,自己意識の統一に よる超越論的論証に従って一人称の権威が認められ,三角測量が成立すると考 えることができる。

《注》

カントの著作からの引用や参照箇所については,慣例に従って『純粋理性批判』は第 一版を A,第二版を B として頁数を記し,他の著作はすべてアカデミー版の巻数と 頁数を記した。

(1) 本稿は,次の拙論をそれぞれ大幅に加筆・修正し,まとめたものである。近堂 秀「「思考する私」の権威カントの自己意識論を手がかりにして」,法政 哲学会編『法政哲学』第 13 号,2017 年;近堂秀「超越論的記号論と価値の超越 論的論証シェーンリッヒとコースガード」,牧野英二編『新・カント読本』,

法政大学出版局,2018 年;近堂秀「心と世界を知る自己カントの自己意識 論を問い直す」,牧野英二/小野原雅夫/山本英輔/齋藤元紀編『哲学の変換と 知の越境伝統的思考法を問い直すための手引き』,法政大学出版局,2019 年。

(2) P.F.Strawson,Individuals. An essay in descriptive metaphysics,London1959, pp. 40.

(3) B.Stroud,TranscendentalArguments,in:The Journal of PhilosophyLXV, 1968,pp.241-256.(「超越論的議論」田山令史訳,『現代思想 3 月臨時増刊 カン ト』第 22 巻第 4 号,1994 年,101-113 頁)

(4) R.Bubner,Kant,TranscendentalArgumentsandtheProblemofDeduction, in:The Review of Metaphysics 28,1975,pp.453-467.(「カント・超越論的論証・

演繹の問題」富田恭彦/望月俊孝訳,竹市明弘編『超越論哲学と分析哲学

(19)

イツ哲学と英米哲学の対決と対話』,産業図書,1992 年,3-21 頁)

(5) D.Davidson,Inquiries into Truth and Interpretation,Secondedition,Oxford UniversityPress,2001,pp.183-198.(『真理と解釈』野本和幸+植木哲也+金子 洋之+高橋要訳,勁草書房,1991 年,192-213 頁)

(6) R.Rorty,TranscendentalArguments,Self-ReferenceandPragmatism,in:

Transcendental Arguments and Science,Dordrecht1979,pp.77-103.(「超越論的 論証・自己関係・プラグマティズム」富田恭彦/望月俊孝訳,『超越論哲学と分 析哲学』,23-67 頁)

(7) ブプナーは,ローティからの批判に対して,究極的根拠づけを意図する超越論 的言語遂行論と選択肢のなさのみを明らかにするみずからの立場との違いを強調 す る。Vgl.R.Bubner, SelbstbezüglichkeitalsStrukturtranszendentalerAr- gumente,Hrsg.vonW.KuhlmannundD.Böhler,Kommunikation und Reflex- ion, Zur Diskkusion der Transzendentalpragmatik, Antworten auf Karl-Otto Apel,FrankfurtamMain:Suhrkamp,1982.(「超越論的論証の構造としての自己 関係性」大橋容一郎訳,『超越論哲学と分析哲学』,83-107 頁);K-O.Apel, Transformation der Philosophie,FrankfurtamMain:Suhrkamp,1972-3.(『 哲 学の変換』磯江景孜・松田毅・水谷雅彦・北尾宏之・平石隆敏訳,二玄社,1986 年)

(8) Vgl.W.Vossenkuhl,TranszendentaleArgumentationundtranszendentale Argumente.ÜberlegungenzurMöglichkeiteinestranszendentalenKriteriums, in:Philosophisches Jahrbuch89,1982,S.10-24.

(9) P.F.Strawson,Scepticism and Naturalism: Some Varieties,London1985.

(10) B.Stroud,TheGoalofTranscendentalArguments,in:R.Stern(ed.),Tran- scendental Arguments: Problems and Prospects,OxfordUniversityPress1999, pp.155-172.

(11) Stroud,ibid.,p.166.

(12) Q.Cassam,Self-DirectedTranscendentalArguments,in:Stern(ed.),Tran- scendental Arguments,pp.83-110.

(13) R.Stern,OnKant’sResponsetoHume:TheSecondAnalogyasTranscen- dentalArgument,in:Stern(ed.),Transcendental Arguments,pp.47-66.Cf.R.

Stern, Transcendental Arguments and Scepticism: Answering the Question of Justification,OxfordUniversityPress,2000.

(14) C.M.Korsgaard,AristotleandKantontheSourceofValue,in:Ethics,Vol.

96,No.3,TheUniversityofChicagoPress,1986,pp.486-505.

(15) C.M.Korsgaard,The Sources of Normativity,CambridgeUniversityPress, 1996.(『義務とアイデンティティの倫理学規範性の源泉』寺田俊郎・三谷尚 澄・後藤正英・竹山重光訳,岩波書店,2005 年)

(16) T.Grundmann,WasisteigentlicheintranszendentalesArgument?,in:D.H.

HeidemannundK.Engelhard(Hrsg.),Warum Kant heute?,WalterdeGruy- ter,Berlin/NewYork2004,S.44-75.

(17) P.F.Strawson,The Bounds of Sense. An Essay on Kant’s Critique of Pure

(20)

Reason,London1966.(『意味の限界『純粋理性批判』論考』熊谷直男・鈴木 恒夫・横田栄一訳,勁草書房,1987 年)

(18) D.Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective,OxfordUniversityPress, 2001,pp. 137-157.(『主観的,間主観的,客観的』清塚邦彦+柏端達也+篠原成 彦訳,春秋社,2007 年,218-251 頁)

(19) G.Schönrich,Würde,WertundrationaleSelbstliebe,in:Zeitschrift für philo- sophische Forschung,Band69,2015,S.127-158.(「尊厳・価値・合理的な自己愛」

高畑祐人訳,『思想』第 2 号(第 1114 号),岩波書店,2017 年,134-164 頁)

(20) Davidson,Inquiries into Truth and Interpretation,ibid.(『真理と解釈』,同箇 所)

(21) G.Schönrich,Kategorien und transzendentale Argumentation. Kant und die Idee einer transzendentalen Semiotik,FrankfurtamMain:Suhrkamp,1981.

(22) G.Schönrich,Bei Gelegenheit Diskurs. Von den Grenzen der Diskursethik und dem Preis der Letztbegründung,FrankfurtamMain:Suhrkamp,1994.(『カ ントと討議倫理学の問題討議倫理学の限界と究極的基礎づけの価値/代償に ついて』加藤泰史監訳,晃洋書房,2010 年)

(23) G.Schönrich,VernunftundkulturellerSchematismus,in:Kant in der Dis- kussion der Moderne,hrsg.vonG.SchönrichundY.Kato,FrankfurtamMain:

Suhrkamp,1996,S.551-582.(「理性と文化的図式機能」加藤泰史・星揚一郎訳,

坂部恵/ゲアハルト・シェーンリッヒ/加藤泰史/大橋容一郎編『カント・現代 の論争に生きる 下』,理想社,2000 年,407-447 頁)

(24) G.Schönrich,InstitutionalisierungdesRegelfolgens-derAusgangausdem semiotischenNaturzustand,in:U.Baltzer/G.Schönrich(Hg.),Institution und Regelforgen,Paderborn2002,S.101-118.(「規則に従うことの制度化記号論 的自然状態からの脱却」近堂秀訳,『南山ゲルマニスティック光環

(CORONA)』第 17 号,2006 年,163-187 頁)

(25) Schönrich,VernunftundkulturellerSchematismus,S.558ff.(「理性と文化的 図式機能」,416 頁以下)

(26) G.Schönrich,ExternalisierungdesGeistes?KantsusualistischeRepräsenta- tionstheorie,in:HeidemannundEngelhard,Warum Kant heute?,S.126-149.

(27) Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective,pp.86-7,pp.205ff.(『主観的,

間主観的,客観的』,145-146 頁,317 頁以下) Cf.A.N.Carpenter,Davidson’s transcendentalargumentation,in:From Kant to Davidson: Philosophy and the idea of the transcendental,editedbyJ.Malpas,Routledge,2003;J.Bridges, Davidson’sTranscendentalExternalism,in: Philosophy and Phenomenological Research,Vol.73,No.2,2006,pp.290-315.

(28) Davidson,Inquiries into Truth and Interpretation,pp.17-36.(『真理と解釈』,

2-29 頁)

(29) Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective,p.119.(『主観的,間主観的,

客観的』,190-191 頁)

(30) カントの哲学とデイヴィドソンの哲学との構造的共通性については,次の拙著

(21)

を参照。近堂秀『純粋理性批判』の言語分析哲学的解釈カントにおける知の 非還元主義』,晃洋書房,2018 年。

(31) D.Davidson,Essays on Actions and Events,Secondedition,OxfordUniversi- tyPress,2001,pp.207-227.(『行為と出来事』服部裕幸・柴田正良訳,勁草書房,

1990 年,262-298 頁)Vgl.O.Höffe,Kants Kritik der reinen Vernunft. Die Grundlegung der modernen Philosophie, München2003,S.234ff.;H.E.Allison, Kant’s theory of freedom,CambridgeUniversityPress,1990,pp.76-82.(『カン トの自由論』城戸淳訳,法政大学出版局,2017 年,144-156 頁)

(32) D.Davidson,Truth, Language, and History,OxfordUniversityPress,2005, pp.201-219.(『真理・言語・歴史』柏端達也+立花幸司+荒磯敏文+尾形まり花

+成瀬尚志訳,春秋社,2010 年,315-344 頁)Cf.S.Evinine,Donald Davidson, StanfordUniversityPress,1991. (『デイヴィドソン 行為と言語の哲学』宮島 昭二訳,勁草書房,1996 年)

(33) Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective,pp.3-14.(前掲訳書,16-34頁);

StrawsonIndividuals,p.106ff.;S.Shoemaker,Self-Knowledge and Self-Identity, CornellUniversityPress,1963,pp.215f.

(34) Davidson, ibid.,pp.15-52.(前掲訳書,35-94 頁);T.Burge,Individualismand theMental,in:P.A.French,T.E.Uehling,H.K.Wettstein(eds),Studies in Metaphysics: Midwest Studies in Philosophy,vol.4,UniversityofMinnesota Press,1979;H.Putnam,Themeaningof‘meaning’,in:Philosophical Papers,ii:

Mind, Language and Reality,CambridgeUniversityPress,1975.

(35) Schönrich,VernunftundKulturellerSchematismus,S.554.(「理性と文化的図 式機能」,411 頁)

(36) Davidson, ibid.,pp.91.(前掲訳書,154 頁)

(37) 筆者の見るところ,拙著の書評が誤読しているところにも経験主義の問題があ る。第一に,拙著の書評は,「経験の自己帰属の可能性」が「経験の自己再帰性」

を含意し,さらに経験の自己再帰性が「重い意味での対象の経験」を含意すると いうのがストローソンの論証であるが,拙著がストローソンの論証の「向き」を 逆に捉えているとする。しかし,実際には逆に捉えていない。「経験の客観性」

の前提となる「意識の必然的統一」として統覚の総合的統一が読み換えられると する。そうすると,超越論的演繹の分析的論証を通じて,「重い意味での客観

(objectintheweightysense)」が認識される経験は,経験の自己帰属の可能性 を含意し,それゆえに経験がそれ自体に関して思考する余地を与える自己再帰性 を含意するという(経験の客観性の筆者による補足)前提が明らかになる。

要するにストローソンは,超越論的演繹を分析的論証として再構成し,経験の自 己帰属の可能性を含意する経験(について,そ同上)の客観性という前提を 原則論の内容に直結させるのである。このように拙著は述べている。そもそも,

ストローソンも「問題が存在するのは,ただ解決が可能だからである」と考える ように,超越論哲学にはある種の循環がつきまとう。論証の向きに拘泥する拙著 の書評は,超越論哲学の循環をどう考えるのであろうか。第二に,拙著の書評 は,ガイヤーの論文を引用し,拙著が「対象の側の継起とわれわれの側の表象の

(22)

継起の相関」というガイヤーの論点を捉え損なっているとする。しかし,拙著の 書評は,ガイヤーの論文を引用するさいに「現在の知覚」と「過去の知覚」,「知 覚的表象の継起」という論文にはない表現を用い,しかも文脈の途中で文章を切 り取ったため,「存続する対象」が実体として表象の状態の継起に対して規定的 に作用するというガイヤーの論点を捉え損なっている。ガイヤーがストローソン による「変化の知覚」と「知覚の変化」との区別を斥ける論点については,拙著 の書評が触れていない拙著の別の章で検討しているのだが。第三に,拙著の書評 は,拙著がストローソンの考えを誤読しており,神経生理学では情報処理と呼ば れる内的操作と「意識的な知覚経験」というカントの考えが「アナロガス」だと 述べているとする。しかし,拙著は,ストローソンがガイヤーの解釈を敷衍して いる箇所を典拠として,「因果能力を持って存続する対象という概念の使用」を 欠いては正確に特徴づけられないというカントの考えがアナロガス(analogous)

だと述べている。事実,ストローソンは,概念の使用,「概念の適用」という

「総合に関するカントの理論」が類比物(analogues)を持つと述べており,ガイ ヤーの解釈がヒントになるとする。このようにして拙著の書評は,拙著の「短 所」とされた箇所のいずれでも誤読している。さらに注意したいのは,拙著の書 評が経験の自己帰属の可能性や知覚的表象の継起の独立性,意識的な知覚経験の 独立性を強調しているところであり,ここにもまた経験内容を前提しなければな らない経験主義の問題がある。この点については,次の文献を参照。村井忠康

「〈書評〉近堂秀著『『純粋理性批判』の言語分析哲学的解釈カントにおける 知の非還元主義』」,日本カント協会編『日本カント研究 20』,2019 年。

(ドイツ近現代哲学/市ヶ谷リベラル・アーツセンター兼任講師)

(23)

TranszendentaleArgumenteundKants TranszendentalphilosophieinderGegenwart

KONDOShu

Zusammenfassung

IndiesemAufsatzwirddieBedeutungvonKantsTranszendentalphilo- sophieinderGegenwartimHinblickaufdieDebatteübertranszendentale Argumenteuntersucht.B.StroudhattranszendentaleArgumente,deren Zielsichdaraufbeschränkt,dieNotwendigkeitbestimmterMeinungenzu beweisen,als“bescheidene”transzendentaleArgumentebezeichnet.Aber nachT.GrundmannkönnentranszendentaleArgumentedeskantischen TypsderLegitimationapriorischerErkenntnisüberdieAußenweltdienen.

IndieserFunktionsollentranszendentaleArgumentenotwendigestruk- turelleEigenschaftenderAußenweltrechtfertigen,alsosindsiewahrheits- bzw.weltgerichtet.DieseWahrheitsansprüchesollendurcheineapriorische TheoriederempirischenRepräsentationgerechtfertigtwerden.Andererseits rekonstruiertG.SchönrichdasArgument,wasC.Korsgaardausdrücklich alstranszendentalesArgumentverstandenhabenwill,unterdemGesichts- punkt der Rationalitäts-Bedingungen für die Selbstliebe. Analytische transzendentaleArgumentederPhilosophieinderGegenwarthabendas Problem,denempirischenInhaltirrtümlichvorauszusetzen,dieswirdjedoch aufderGrundlagederInterpretationvonderKritik der reinen Vernunft,die KantundD.Davidsonverbindet,gelöst.

Schlüsselwörter:Kritik der reinen Vernunft, Transzendentalphilosophie, transzendentaleArgumente,Selbsterkenntnis

参照

関連したドキュメント

いかなる使用の文脈においても「知る」が同じ意味論的値を持つことを認め、(2)によって

被祝賀者エーラーはへその箸『違法行為における客観的目的要素』二九五九年)において主観的正当化要素の問題をも論じ、その内容についての有益な熟考を含んでいる。もっとも、彼の議論はシュペンデルに近

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

[r]

[r]

[r]

[r]