『檻の中』から見る女性の労働・結婚・階級

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第 67 回ジェンダーセッション

『檻の中』から見る女性の労働・結婚・階級

――ヘンリー・ジェイムズと 19 世紀末イギリス社会

松浦 恵美(立教大学ジェンダーフォーラム教育研究嘱託)

はじめに

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世紀末ヴィクトリア朝のイギリスでは、男女の社会的領域や、階級による生活様式の 区別が非常に厳格に定められていた。そのなかで、特に中産階級以上の女性の生き方は極端 に制限されていたが、その制限の中で彼女たちがどのように生きるかは、小説や劇といった フィクションにおいてはむしろ最大限に展開され、さまざまな魅力的なヒロインたちが自 分の人生を切り開くさまが描かれた。

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世紀後半から

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世紀初頭にかけてイギリスで作家活動を行ったアメリカ人作家ヘン リー・ジェイムズもまた、そのような女性たちの生き方を積極的に描いた作家のひとりであ る。小説に描くに足る陰影に富む社会を求めてヨーロッパに渡ったジェイムズが主題とし たのは、おもに中流階級以上の人々の社交生活であり、そこで繰り広げられる人々の心理の 繊細な動きであった。彼の作品の登場する女性主人公たち、たとえば『ある婦人の肖像』の イザベル・アーチャー、『鳩の翼』のミリー・シールやケイト・クロイ、『黄金の盃』のマギ ー・ヴァーヴァーらは、旧弊な社会の中で生きる道を探して迷い、そして葛藤する。

おもに社会の上層の人々の社交生活を描いたジェイムズであるが、1880年代以降のテク ストにおいては、さまざまな社会階層の人物が登場している。これは、ヴィクトリア朝後期 に入ると、技術革新や社会情勢の変化によって人々の生活が変化、多様化したことが反映さ れているためでもあろう。なかでも、

1898

年に出版された中編小説『檻の中』(

In the Cage

) では、ジェイムズのテクストにはめずらしく女性電報手という労働する女性が登場する。ロ ンドンの中心部メイフェアの電報郵便局で働くこの名前のないヒロインは、19 世紀末のイ ギリス社会の中で新しい女性の経験、その困難と自由を生きるのだが、彼女の生活と精神的 冒険を通して、女性が通時的に置かれた社会的条件をあらためて知ることができる。

本稿では、

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世紀後半に登場した女性電報手の社会的存在様式を確認することを通して、

女性たちにとって労働、結婚、そして階級がどのような意義を持ったか、それらの条件が彼 女たちにどのような可能性と限界をもたらすものであったかを考察する。電報手という職 業は、それまでの女性たちには許されていなかった新しい社会領域での経験を彼女らに用 意した。しかし同時に、女性たちは自分たちの新しい地位と慣習的な社会規範との間で矛盾 にさらされ、苦しむこととなった。『檻の中』のヒロインもまた、そのような苦境の中でつ かの間の精神的自由を手に入れようとするのだが、彼女の姿を通して、現在に至るまで存在 する女性の生き方を限界づける社会的条件とその課題を読み取ることができる。

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1. 女性電報手と労働―その歴史的背景

『檻の中』は次のような文章で始まる。

このような立場にいれば―柵と金網に閉じ込められ、モルモットかかささぎ並みの 暮らしをしていれば―相手には気付かれぬうちに、大勢の人たちを知るようになる だろうという考えが、彼女には以前から浮かんでいた。だからこそ彼女は、彼女の言 い方で言えば、外で名の知れた人が、だれか彼女の卑しい役割を少しでも興味深くで きるような人が、入ってくるのを見れば、胸をときめかせたのだった―といっても、

そのようなことは滅多になく、あったとしても、相手を知る機会はいつでもほとんど 打ち消されていたのだけれども。彼女の役割は、二人の若い男性、つまりもう一人の 電報手と受付の事務員に挟まれて、座っていることだった。常に音を立てている「発 信機」に気を配り、小額の切手や郵便為替を売り、封書の重さを計り、ばかばかしい 質問に答え、面倒な釣り銭の計算をし、そしてなによりも大事なことは、海の砂のよ うに無数の文字を数えること、高い格子の間の隙間から、朝から晩まで突き出される 電報の文字を、間をふさぐ棚で受け取る腕がこすれて痛くなるまで、数えつづけるこ とだった。(

In the Cage [以下 IC ] 314)

ここでは、ジェイムズ独特の長く入り組んだ文体で、ヒロインの女性電報手の毎日の仕事と 彼女の心理がからみ合いながら描かれている。「檻の中」とは、主人公が働く柵に囲まれた 電報局を比喩的に表しているのだが、それはまた彼女が身体的にも心理的にも閉じ込めら れ、隔離され、行動の自由を制限された状態にあることを示してもいる。彼女はこの檻の中 で、他の男性職員たちとともに単調で終わりのない仕事に従事している。その中で彼女は、

特別な誰か、あるいは有名人の客と知り合い、生活に変化がもたらされることをかすかに期 待している。

このテクストが書かれた

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世紀末、女性の電報手はすでに非常に一般的な存在であった。

1858

年にアメリカとヨーロッパを結ぶ最初の大西洋横断電信ケーブルが開通し、その後

1860

年代には電報が新旧両大陸で実用化される。1870 年代にはイギリスで電報会社が国 有化され、街角の郵便局に電報局が併設された。そして

19

世紀末には、電報は社交やビジ ネスで日常的に使用される通信手段のひとつとなっていた。

電信の広がりとともに、電報交換手として若い未婚の女性が数多く雇用されることとな る。前述のとおり、19 世紀イギリスの中産階級社会では、男性と女性の領域は厳しく分け られ、男性が公的領域で、女性が私的領域、つまり家庭のなかで生きることが規範として定 められていた。女性が公の場で働くことは体面にかかわる品のないこととみなされており、

中流以上の女性の働き口は教師あるいはガヴァネス、つまり家庭教師しかなかった。電報手 の仕事は、この階級の女性たちにとって新しい生活のための手段となる。電報手には専門の 技術が必要であり、また、客のメッセージに目を通すことから、中流階級の道徳性を備えて

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いることが求められた。こうした事情から、電報手には一定以上の階級の子女が雇用された。

くわえて、工場などでの労働に比べれば作業が比較的軽度であることも、女性たちにとって 好都合であった。こうして、特に下層中産階級の女性たちが、専門の技術を身につけ、情報 労働者として新しいひとつの社会的層を形成した。電信という新しいテクノロジーが、女性 たちに労働と公的領域への参入を可能にしたのである。

とはいえ、電報手として働くうえで女性たちが様々な苦労や不合理を味わうこととなっ たのも事実である。彼女たちには、長時間の労働にくわえ、不平等な待遇と、社会的に負の スティグマが付与された。『檻の中』のヒロインは、「朝から晩まで」(

IC 314)、無数の文字

を数えたとあるが、電報局での仕事は、この時代のほかの仕事と同じく長時間労働で、女性 電報手の労働時間は朝

8

時から夜

8

時のあいだの

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時間であった(Garland 253)。一方 で賃金については、イギリス電報局幹部の発言として、次のような言葉が記録されている。

一般的にいって女性は男性と同等の能力を有するが、女性たちは病欠が多く、また夜 勤ができないため数が限られる。それにくわえ、女性たちの賃金は男性たちより

25

パーセント低い。このことから、女性を雇用することは大きな利益となる。

(Garland 252-3)

男女の雇用形態の違いから女性は男性より賃金が低く、さらにそれが雇用側にとって好都 合であったことが、この発言から読み取れる。今日の労働条件においても解決を見ていない 男女の賃金格差という問題が、女性電報手という最初のオフィスワーカー登場のころから 存在した問題であったことが指摘できるだろう。

女性電報手たちが背負うこととなったもう一つの問題は、その社会的なイメージについ てのものである。ヴィクトリア朝期のイギリスでは、女性は

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種類に分けられた。ひとつは 母、つまり家庭で子供を産み育てる存在であり、もうひとつは娼婦、街頭で自らの身体を売 り物にする存在である。ここに新しく登場した女性電報手たちは、当時の中産階級の規範を 逸脱して公の場に立ち、衆人の、特に男性たちの視線に自らの身体をさらすこととなった。

Jill Galvan

によれば、このことから女性電報手は娼婦と同等に捉えられ、実際より下の階

級に見られることがあったという(297)。このような差別的な視線が存在したのと同時に、

労働する女性たちに対し、職場においても女性としての役割が求められることもあった。

Pamela Thurschwell

は、職場において女性たちには男性職員たちに安らぎをもたらす役目

が期待されていたことを指摘している(8)。このように、電報手という職業は、女性たちに 新しい社会的領域と経験を用意したが、それは「女性」というカテゴリーを崩したり、「女 性」のあり方そのものを大きく変えるものではなかった。

『檻の中』のヒロインにとっての労働もまた、それによってもたらされる恩恵と苦痛の両 方をあわせもったものである。彼女の場合、電報手としての仕事は、自分の意志で始めたの ではなく、必要に迫られてたどり着いたものだった。もともとヒロインは中産階級出身であ ったが、家の主人である父の死後一家もろとも転落していった。彼女の姉はその状態から立 ち直れず、母はアルコールに溺れたため、彼女が働き、一家を支えることになったのである

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IC 315)。このような事情は、当時珍しいものではなかったようで、Thomas C. Jepsen

は、19 世紀に女性が電報手となる場合、彼女らには父親がいないか、いても正規の職につ いていない場合が多かったことを伝えている(63)。女性が父親あるいは夫といった男性の 庇護のもとで生きることが前提とされていた時代にあって、こうした女性たちが直面する こととなった状況は苛酷なものであった。彼女たちは何とか自活の手段を得なければなら なかったが、同時に、淑女としての社会的体面を保つことは彼女らの階級的アイデンティテ ィの中核にあった。よって、ヒロインにとって、電報手としての労働と公に自らをさらすこ とは、彼女のアイデンティティに苦痛と混乱を引き起こすものであった。

『檻の中』における労働は、ヒロインに解放や自由を与えてくれるものでも、男性と女性 についてのジェンダー規範を根本的に変えるものでもない。しかし、そうはいっても、電報 手としての労働を通して、彼女がある社会的機会と、当時の女性にあっては得られなかった 種類の自由を獲得し、その結果、彼女を取り巻くジェンダー規範にある種の混乱が生じるこ ともまた、このテクストには示されている。ジェイムズの作品の多くの主人公と同様、『檻 の中』のヒロインもまた、人並みはずれて豊かな想像力を持った人物である。

しかし、彼女には気まぐれな精神と類まれな神経があった。一言で言えば彼女は、反 感や共感のひらめき、灰色の中の赤い輝き、何かの「世話」をしたいという発作的な 衝動、奇妙な好奇心の気まぐれの虜となるところがあったのだ。(

IC 316)

そして、電報局での仕事は様々な人々との交流を、特に電報という手紙に比べ費用のかかる 通信手段を利用できる上流階級の人々との出会いをヒロインに提供する。こうした上流階 級の世界との接触は、彼女の精神的生活に刺激をもたらす。そのため、電報局での仕事は、

ヒロインにある種の「代償」を与えてくれる。彼女にとって「この場所の魅力は同時に苦痛」

であり、彼女は「その苦痛を楽しんで」いるのである(

IC 317)

。ヒロインの労働に対する この二重の感情は、この時代の女性電報手の置かれた状況を正しく反映したものだといえ よう。彼女たちにとって労働は、当時の社会的規範を逸脱して、公的領域に出ることとなっ た女性たちが置かれることとなった、不安定で危険を孕むが、同時に従来よりも広い行動の 範囲と新しい活動の可能性を与える契機であった。そして、このような行動領域の拡大は、

女性の意志によってというより、社会の変化、特に技術革新によって起こったものであった。

彼女たちがその魅力、その効果に気づくのはしばしば事後的にであった。

2. 女性と結婚―自由、クィア、遅延

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世紀イギリスの小説においてもっともよく扱われた主題のひとつが、結婚である。た とえばジェーン・オースティンの『高慢と偏見』、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・

エア』、ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』など、女性を主人公とした小説のほとん どが結婚を題材としていることが指摘できるだろう。このように、結婚がつねに大きな主題 であり続けたのは、それが単にエンターテイメントの題材として優れていたからではなく、

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むしろ結婚が中流以上の階級の女性たちにとって生きていくための唯一の手段であり、彼 女らが活動を許されるただ一つの場が家庭生活であったからである。

労働する女性を描いた『檻の中』においても、ヒロインの人生を最終的に決定するのは結 婚という社会的制度である。彼女にはマッジ氏という婚約者がいるが、彼は同じ建物内にあ るコッカー商店で働いていた店員の一人で、今はチョーク・ファームにある別の店でより高 い地位についている。マッジ氏は婚約者の彼女にもチョーク・ファームの電報局に異動する よう勧めているのだが、彼女はそれに応じるのを渋っている。

…彼女はマッジ氏が何度も書きよこしてくる手紙の内容を考えてみなければならな かった。それは、彼が働いている店と同じ建物にあるちょうど同じような局への異動

―というのも、彼女がもっと大きな局へ移るのはまだ望めないから―を願い出ては というものだった。彼はそこの責任者なので、一日中ずっと彼女の前にぶら下がり、

彼の言葉を借りれば、「毎時間」彼女に会えるのだ。それに、NW地区のはずれにあ るその場所なら、母親と住むふた部屋の住まいを借りても三シリング節約できる。メ イフェアからチョーク・ファームへ移るのは魅力的とは言えないし、彼が考えを曲げ ないだろうことを思うと彼女は気が重かった。(

IC 315)

ヒロインが異動を渋るのには二つ理由がある。ひとつはマッジ氏との結婚が意味するもの のため、もう一つはメイフェアでの仕事が彼女に与える可能性、特に奇妙な、クィアな可能 性のためである。

マッジ氏との結婚は、なによりもまずヒロインを苦しい境遇から救い出し、今後の生活を 保障してくれるものである。ヒロインがマッジ氏と婚約したのは、「彼の情熱があきらかに 誠実なものだったこと」にくわえて、「自信たっぷりに突き出した顎の高さにふさわしい商 売を彼が築くだろうという予想」(

IC 333)ができたためでもある。婚約の理由のひとつに、

ヒロインの生活上の苦境と、マッジ氏の成功の見込みという経済的な要件があったことが 指摘できる。一方で、ヒロインが旺盛な想像力の持ち主であるのとは対照的に、マッジ氏は 感性や想像力に欠ける人物で、ヒロインと精神的交流を持つことができない(

IC 332-33)

。 そのためヒロインは彼との結婚に積極的になれず、マッジへの返事を先延ばしにしている のである。

その上、マッジ氏と結婚することになれば、ヒロインは間違いなく電報手の仕事を辞める こととなる。当時、女性電報手は一般的に結婚とともに退職するのが慣わしであった。

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世 紀末から

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世紀初頭にかけて、ヨーロッパのほとんどの国で、結婚した女性電報手は強制 的に、あるいは慣習として退職することとなっていた。1899年の統計では、イギリスで結 婚退職した女性電報手は

196

人、彼女たちの平均年齢は

27

歳、勤務年数は平均

8―9

年で あった(Garland 259)。結婚すれば彼女たちは家庭に入り、出産・育児という再生産労働 に従事するのであり、公的領域での仕事はそれまでの一時的な労働とみなされていた。『檻 の中』のヒロインにとって、チョーク・ファームに移ることは、マッジ氏との交際を一歩進 めること、そして安定した、しかし家庭という閉ざされた領域での結婚生活へと近づくこと

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を意味する。

しかし、彼女はメイフェアのコッカー郵便局で仕事を続けたい理由がある。ロンドンの中 心部メイフェアは高級住宅地が立ちならぶ地域であり、コッカー郵便局には社交を楽しむ 上流階級の人々が頻繁に足を運ぶ。そのため、冒頭にもあるように、ヒロインはこの局での 仕事を通して上流階級の人々との親密な交流に空想をはせることもできるのである。それ に対しロンドン北西部のはずれにあるチョーク・ファームは、19 世紀末は労働者階級の住 む郊外の地であり、そちらに異動すれば、現在のような上流階級の人々との接触は望めなく なる。上流階級の人々との交流は、ヒロインにとって単なる楽しみという以上に、彼女が自 律性と権力を発揮する機会を与えてくれるものでもある。その機会を与えるのが、レディ・

ブラディーンとエヴェラード大尉という上流階級の人々の情事である。ある日の昼休み、何 か緊急の用件で電報局を訪れたレディ・ブラディーンという美しい貴族の女性の電報を取 り次いだところから、ヒロインはこの貴婦人とエヴェラード大尉という彼女の情人との関 係に限りない想像をふくらませることになる。

その結果、ヒロインは、マッジ氏の婚約者としての現実と、電報を通した想像上の世界と の二重生活を送ることになる。同時に、彼女は彼らの関係を成立させる媒介者、この関係の 第三項、もう一人の行為者として参入することになるのである。

これこそ、彼女の生活の奇妙(queer)な拡大、彼女が檻の中でついに営むようにな った二重生活にほかならない。(

IC 323)

クィアという言葉は、

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世紀末の文学では、「奇妙な」、「風変わりな」という意味で使われ ていたが、それと同時にこのころから暗に同性愛を差す言葉として使われるようになる。

1990

年代以降のクィア批評の隆盛により、この言葉はアカデミズムや批評の場で盛んに使 用されるようになり、また最近ではセクシュアル・マイノリティを差す言葉としてポジティ ブに使われるようにもなっている。しかし、クィアという概念は、ある集団を指すというよ りも、むしろより広義に、性別二元論、異性愛制度、モノガミー(単婚制)、さらに主体の 確実性といった、関係性およびアイデンティティの固定化に抵抗する趨勢をさす言葉とし て機能する。その立場から考えれば、『檻の中』はまさにクィアなテクストとして読むこと ができるであろう。

Thomas A. Laughlin

は、ジェイムズ後期の短編小説にあらわれているのは、「主体と客

体の対照的な関係から階層化される欲望ではなく、自己と他者の鎖の中で登場人物たちを 延々と再形象化させ続けるような欲望」であると指摘している(156)。つまり、このテクス トで描かれるのは、男性/女性という安定した二分法の上に成り立つ異性愛によって遂行 され、結婚へと向かう目的論的かつヘゲモニックな欲望とは対照的な、名称も目的地も持た ず、その持続する関係の中で絶えず新しい自己が立ちあらわれてくるような関係なのであ る。この、不安定かつ魅力的な状態にとどまるレディ・ブラディーンとエヴェラード大尉と の秘密の関係と、媒介としてこの関係を続けさせるヒロインのクィアな交流は、社会のヘゲ モニックな規範をすり抜け、それとは別の価値体系を示しうる空間を出現させる。それは、

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男性/女性の二項対立的かつ一対の関係ではなく、三者による乱交的関係でもある。「この 貴婦人を通して彼女は姿を見せぬ彼とともにあり、姿を見せぬ彼を通してこの貴婦人と共 にあった」(

IC 342)という記述からも読み取れるように、電報を通して、ヒロイン、レデ

ィ・ブラディーン、エヴェラード大尉の三人は、いっとき異性愛/同性愛の区分や階級によ る境界が存在しない世界で、固定化不可能な、偶発的で流動的な関係を築く。

さらに、ヒロインはこの関係の中で、一介の下層中流階級の労働者、あるいは副次的な媒 介者であることを超えて、彼女だけの権力を手にし、他の二者と同等の自律性を持つ行為者 として機能していることもまた指摘できる。もちろん、女性の行動に極端な制約が課されて いたヴィクトリア朝において、ヒロインに与えられるのは、実際的な行動の自由ではなく、

もっぱら精神活動の領域での可能性である。しかし、ジェイムズのテクストにおいて、知、

あるいは認識は、現実における所有と同等の意味を持つ。ニューヨーク版全集の『檻の中』

に付された序文で、ジェイムズはこう述べている。

批評するということは、理解すること、自分のものにすること、精神的な意味で所有 すること、要するに批評の対象と関係を結びそれを我がものとすることである。(

The Art of the Novel [以下 AN ] 155)

そのような知の積極的かつ実際的な力を表しているのが、以下の、レディ・ブラディーンが 電報局を訪れるシーンである。落ち着きをなくした様子でやってきたレディ・ブラディーン を見て、ヒロインは彼ら二人がなんらかの危機に直面していると推測する。この時、レディ・

ブラディーンは次のような電報を打つ。

「ドーヴァー、パレード・テラス、ドルマン嬢。すぐに彼に正しい場所を伝えて。オ ーステンド、オテル・ド・パリ。794961。バーフィールドで返信待つ」(

IC 342)

しかし、ヒロインはこの電報の間違いに気づき、正しい文言を提示する。

「クーパーではありませんか?」…「つまり、バーフィールドではなくて」

我らが若い友人は、貴婦人がほとんど気の毒になった。彼女は相手をまったく何もで きない、そのうえ偉そうにしたり怒り出したりすることもできない状態にさせてし まったのである。貴婦人はただ呆然とし、怯えていた。「知っているの?」

「はい、知っております!」我らが若き友人は、相手の目を見返しながら微笑んだ。

そして、ユノーの女神の顔を赤らめさせたうえに、女神を保護する仕事に取り掛かっ た。「私がいたしましょう」(

IC 343)

当時の電報にはしばしば略字や暗号、合図となる符号が多く使われ、送り手と受け手の間に 共通の理解がなければ読み取れないようになっていた。しかし、ヒロインはそれまでに得た 知識と彼女の推理によってこの電報を正しい、あるべきものに訂正する。それによって、レ ディ・ブラディーンに対し、彼女を保護し導く力を振るう。この場面で、ヒロインは知によ って階級を超え、三者の中で能動的な力を持った行為者として振る舞うことで、自律性と力 を行使するのである。

このように、コッカー郵便局での仕事は、ヒロインを家庭という私的領域に閉じ込められ

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る前の中間的な状態にとどめ、その中で自由、クィアな欲望の交流、そしてある種の力の行 使を可能とする機会を提供する。メイフェアからチョーク・ファームへの異動は、この中間 的地位を離れ、より安定した、そして自由と自律性を失った、マッジ氏との結婚生活へと一 歩進むことを意味する。そのため、彼女はマッジ氏への返答を遅らせ、結婚という決定的な 状態の到来を延期するのである。この遅延は、結婚と家庭領域への参入というヴィクトリア 朝の女性たちに割り当てられた最終的な状態をヒロインが一時的にせよ拒否し、彼女が自 由な、そしてクィアな状態にとどまるための抵抗でもあった。

3. 階級の問題

『檻の中』において、ヒロインは電報手の仕事をつうじて一時的に階級の隔たりを超える。

しかし、19 世紀のイギリスにおいて実際に上流階級への移動を果たすのはほぼ不可能であ った。ヴィクトリア朝における上流階級とは、土地や財産の所有だけによってではなく、む しろ貴族たちの生活様式、教養、趣味、そして彼らが共有する伝統的なジェントルマンの価 値観によって定義付けられるものであった。中流階級の人々は、経済活動によって資産を増 やすことができたとしても、上流階級の文化や理念を身につけていないために、貴族と同等 の地位や尊敬を得ることは不可能であった。女性の場合、結婚によって貴族階級に参入する ことは可能ではあったが、しかし女性の側に大きな資産などがないかぎり、それは稀なこと であった。

ただ、19 世紀末は、階級制度をふくめたイギリスの社会全体に変化があらわれ始めた時 期でもある。この時期、大英帝国の力は

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世紀後半の農業大不況、それにともなう地代の 低下などにより次第に弱体化し、同時に上流階級の権力や威光も弱まりつつあった。その一 方で、海外貿易による収支が増大し、中産階級のなかでも金融や商業に関わるビジネスマン の存在感が大きくなってくる。このテクストにおける階級の問題には、こうした

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世紀末 から

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世紀初頭にかけての社会―経済的変化も大きく反映されている。

表層的には、『檻の中』における上流階級と労働者および下層中産階級の隔たりは、社会 的にも比喩的にも越えることのできない大きな縣隔として描かれている。レディ・ブラディ ーンは「ユノー」、つまりローマ神話の最高位の女神であり、彼女とエヴェラード大尉は「天 上の神々」と描写されている(

IC 322)

。彼らが社交や電報に「湯水のように撒き散らす金

額」(

IC 324)は、困窮したヒロイン一家を救えるほどの額で、その途方もない経済観念の

格差は、ヒロインに自らと貴族たちとの境遇の違いを思い起こさせ、彼女を苦しめるほどの ものである。

一方で、ヒロインの婚約者のマッジ氏は労働者階級に属し、ヒロインが憧れる上流階級の 人々とはあらゆる意味で対照的な人物として描かれている。ただし、マッジ氏もまた、

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世 紀的な工場労働者とは異なり、商業に携わるビジネスマンであって、当時の階級区分にした がえばむしろ下層中産階級に近い地位にある。Janet Gabler-Hoverは、マッジ氏が「市場

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の論理と経済的決定論を体現する存在」(269)であると指摘するが、そのとおり、上流階級 の人々が放埓に金銭を浪費するのとは対照的に、マッジ氏は勤勉・倹約を旨とし、徹底して 実利的で、つねに事前の計画を重んじ行動する。ロンドンの社交シーズンが落ち着いた9月、

ヒロインが短い夏休みを取れることになり、彼らは海辺の町へ旅行に行く計画を立てるの だが、マッジ氏の「計画」に対する没頭ぶりはすさまじいものである。

彼はそもそもの初めから休暇の問題全体を二人の「計画」と名付け、その名のもとに それをまるでシンジケートが中国向けまたはその他の貸付金を扱うように扱ったの だった。(

IC 345)

なにをおいても計画性を重んじるマッジ氏のこうした姿勢は、しかし、現実の世界における 彼の力と圧倒的な優位性の証拠でもある。テクスト内では、ヒロインによって精神性の欠如 や感性の鈍さを繰り返し指摘されているため、ただ善良で愚鈍な人物のようにも思えるが、

マッジ氏こそこのテクストの中で唯一完全な成功を収める人物である。旅行の間じゅう彼 は節約に努め、つねに手持ちの資金から最大限の効果を得るよう気を配る。そのかたわらで、

ヒロインは「無為と回想」、「休息」、「自分自身との語らい」(

IC 355-56)をゆっくりと楽し

む。しかし、その休暇の最後に、マッジ氏は二人の結婚の準備が整ったこと、自分の昇進が 決まり、商店の経営者の一人に加われること、そして二人の家をすでに見つけてあることを 告げる。以下はそれを聞いたヒロインの反応である。

彼がこのような重大なニュースを最後まで言わずにおいたこと、それほどのカード を袖の中に隠し持ちながら、おしゃべりの流れ、怠惰な楽しみの中へ流し出してしま わなかった事は、今もなお彼女を感心させる彼の端倪すべからざる性格の一端だっ た。…とうとう自分の将来が動かせないものになったことを、彼女は今までになく痛 切に理解した。マッジ氏が彼女の避けられない運命であることは明白であった。(

IC 357)

ついに到来したこのマッジ氏との結婚から、ヒロインが逃れるすべはない。

Jennifer Wicke

は、『檻の中』では言語や欲望までも含むすべてに値段がつけられ、金銭化されていること を指摘している(150)が、ヒロインが扱う電報の言葉の一語一語、そこで交わされる欲望の 一つ一つ、そしてヒロインとマッジ氏の旅行中の楽しみの一つ一つも、すべては値段がつけ られ、金銭によって贖われるのである。

そのなかでも、ヴィクトリア朝中流階級の社会の中でもっともありふれた関係であると 言えるマッジ氏とヒロインとの関係こそが、もっとも強く取引としての側面を示している といえよう。電報手という期限の限られた職業に就き、永続的な自活の手段を持たないヒロ インは、みずからを商品として他者の手に委ねるほかないのであり、マッジ氏という商売の 才に長け目的達成のための長期的な節約と投資を惜しまない人物が彼女を獲得するのは、

市場原理にかなった帰結なのである。ジェイムズの描く世界では金銭は常に重要な意味を 持つが、それはアメリカ人であるジェイムズが経済的諸力の意義とそれが個人の自由や他 者に対する支配力を左右する最大の要因の一つであることを十分に認識していたためであ

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ろう。マッジ氏の成功は、こうした経済的諸力の支配力が、特に

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世紀の始まりを目前に したこの時代においていかに決定的なものであるかを証明している。

エヴェラード大尉とレディ・ブラディーンの関係もまた、結婚によってひとつの決着を迎 える。二人は電報が原因であるスキャンダルを起こしかけ、ヒロインの助けによってそれを 逃れる。その後、折よくレディ・ブラディーンの夫のブラディーン卿が亡くなり、レディ・

ブラディーンに借りを作ったエヴェラード大尉は彼女と結婚することとなる。しかし、エヴ ェラード大尉が実は一文無しで借金もあり、結婚後はレディ・ブラディーンの財産に頼らな ければならないこと、そして、もともと結婚を望んでいなかったエヴェラード大尉が今では レディ・ブラディーンを憎んでいることも、同時に明らかとなる。ヒロインには「天上の 神々」と見えていた上流階級の人々の交流も、実際は浪費と欺瞞と虚栄に満ちており、特に エヴェラード大尉についてヒロインの見ていた姿は、そのほとんどが彼女の幻想によるも のであった。

エヴェラード大尉のスキャンダルが何であったか、スキャンダルの元となった電報の7 94961という数字が何を表していたのかは、テクスト上では語られない。しかし、それ は

19

世紀末の上流社会の暗部を暗示するものである。たとえば、John Carlos Roweは、

この暗号を使って送られた電報がブラディーン卿の突然の死に関係があったのではという 問いを投げかけている (161)。また、Eric Savoyや

Hugh Stevens

は、このテクストと

19

世紀末イギリスでおおきな騒動を巻き起こした同性愛にまつわる事件を関連付けている

(Savoy 287, Stevens 122)。テクストには、エヴェラード大尉は何かに「関係していた」

IC

382)とあるが、ここから、たとえば 1889

年、貴族階級の紳士たちが電報配達の少年など

労働者階級の男娼たちと関係していた事が発覚しイギリス中の話題となったクリーヴラン ド・ストリート・スキャンダルや、あるいは

1895

年、作家のオスカー・ワイルドが同性愛 の罪で裁判にかけられ有罪となった一連の事件を想起することもできる。こうした共謀、暗 殺、あるいは同性愛の匂いは、通奏低音のようにこのテクスト全篇に流れている。エヴェラ ード大尉はそういったヴィクトリア朝の社会で否定され、抑圧され、その名を呼ぶことすら はばかられていたものを集約する人物であると言えよう。しかし、彼のこうした反規範的な 生活も、レディ・ブラディーンとの結婚によって終わりをむかえる。エヴェラード大尉とレ ディ・ブラディーンの暗い将来の見通しは、虚栄に満ち実体を失った上流階級が

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世紀に 向かって衰退していく未来を暗示しているようである。

マッジ氏が代表するビジネスマンの階級が繁栄するにせよ、上流階級が没落するにせよ、

下層中産階級の女性であるヒロインには、どの階級に属するかを自分で決める力はない。エ ヴェラード大尉の真の姿を知ったヒロインが、マッジ氏との結婚を早める決意をするとこ ろでこの物語は終わる。

小さな家に移るのは来月ではなく、どうしても来週でなければならない。 (

IC 384)

こうしてヒロインは、精神的自由、部分的な権力と自律性、別の階級との交流の可能性を捨 てて、彼女の婚約者によって用意された階級へと入っていく。『檻の中』は、この時代新し

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く生まれた中間的地位に置かれた女性の、一時的な自由と自律性の物語であり、この悲喜劇 的な小さな結末は、女性が置かれたジェンダー的非対称性が、この時代いかに動かしがたく そして凡庸なものであったかを映し出していると言えよう。

結びにかえて―19 世紀末と 21 世紀初頭の女性たち

最後に、『檻の中』に描かれている女性の生き方と、現在の女性たちの置かれている状況 を比較し、さらに過去の文学テクストを読むことが現在の社会を理解する上でどのように 働くかを考えてみたい。

『檻の中』に描かれているように、女性電報手は、女性の社会進出を可能にした最初の職 業の一つであった。しかし、結婚すれば彼女たちは仕事を辞め、家庭での労働に従事すると いうことは変わらざる前提であった。結婚と仕事をめぐって女性が置かれたこのような状 況は、現在に至るまで根本的には変わってない。日本においても、結婚とともに女性が退職 するのはつい最近まで当然のこととされてきた。

1985

年の男女雇用機会均等法、

1999

年の 男女共同参画基本法などの法整備を経て、女性が働く環境は変わってはきた。しかし、結婚 によって大きく働き方の変化を迫られ、また育児や介護など家庭内の労働を女性がより多 く担うことになるという点は変わっていない。一方で、世界の経済構造は、19 世紀末から 大きな変化を遂げた。特に新自由主義のグローバルな拡大は、一部の女性に大きな成功をも たらし、政治・経済の分野で女性たちがリーダーの地位に立つようにもなった。しかし、エ リート女性が活躍するかたわら、家庭内労働を任されるようになったのは、たとえば海外か らの家事労働者など、別の、より弱い地位にある女性たちである。こうした状況を見ても、

社会の中で女性が担う役割は

19

世紀ヴィクトリア朝から根本的には変化していないと言え るだろう。世紀転換期の女性電報手たちは、労働という点においてだけではなく、彼女たち が置かれた社会的条件においても、現代の女性たちと連続した存在なのである。

そのような中、文学テクストを読むことは、現在の社会を生きる上でどのような意義を持 ちうるだろうか。『檻の中』というテクストをとおして、私たちは

19

世紀末イギリスの女性 電報手というささやかな人物の心理を詳細に覗き見ることができるのだが、時間と距離を 隔てた彼女の置かれた境遇や、その中で彼女が抱く不満や期待といったものが、意外なほど 今日の女性たちの抱える感情と近いと感じるかもしれない。また、もしかすると男性の読者 が、自分たちも彼女と同じく、檻の中に閉じ込められた境遇にあると感じることもあるかも しれない。彼女の精神的冒険の物語を読むことは、現在私たちが置かれた社会的条件やその 中で抱く感情を新しい角度から眺める機会を与えてくれるのではないだろうか。また、ヒロ インの冒険を可能にし、彼女に一時的に当時の規範から抜け出ることを可能にしたのは、彼 女の想像力である。作者のジェイムズは、想像力こそ文学を成立させる原動力であるとして 繰り返し強調する。ニューヨーク版の序文でジェイムズは、「芸術家、この病的なまでの想 像力は、とどまることを知らない」

( AN 155)と述べている。この想像力をできる限り働かせ

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ることが、労働や結婚、ジェンダーやセクシュアリティについての規範を問い直し、それを 変化させていく力になるのではないだろうか。

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参照

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