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(1)

第二次世界大戦前,シンガポールにおける華人方言

集団の居住パターン

著者

山下 清海

雑誌名

筑波大学人文地理学研究

7

ページ

27- 52

発行年

1983- 03

その他のタイトル

The Res i dent i al Pat t er n of Chi nes e D

i al ec t

G

r oups i n Si ngapor e pr i or t o W

or l d W

ar ?

(2)

第 二 次 世 界 大 戦 前 , シ ン ガ ポ ー /

レ に お け る

華 人 方 言 集 団 の 居 住 ノ ぐ タ ー ン

I -

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l

I はじめに

E W ゥセ O ○ QGZ S ゥ オ |I e

J

I

1

.

多民族主

t

会における華人

)I- 2. 1(,:人方言集lJ : l の分知

J

I- 3 . l:'i:r人方言集団の会的と,!:ijJ

盟 事入方言柴田のg(}住ノミターン

藍- 1 . dw }セZNエ↓

l[ - 2 . 1850年七百のj副主ノミターン

l

Y

:

重一3. 1890ir:.ttiのjZi住ノ; ターン

輩- 4 . 1940年頃の居住ノミターン

J II- 5

蜘 華人方言集団のj古住ノミターンの特色

lY

- 2 . セェエ N-3 . jェGセ

V

む す び

i

は じ め に

本 研 究 は , 東 南 ア ジ ア の 都 市 の 居 住 ノ ミ タ ー ン に ! 認 す る 一 つ の 研 究 で あ る . 東 南 ア ジ ア の 多 く の 都 市

は , 多 , 様 な 民 族 集 団 か ら 形 成 さ れ て き た . そ れ ら の 都 市 の 居 住 パ タ ー ン を み る と3 さ ま ざ ま な 民 族 集

団 の 集l二十i地 区 が モ ザ イ ク 状 の ノ ミ タ ー ン を 形 成 し て き た 1 ) 今 日 に お い て も , そ の よ う な パ タ ー ン は ,

多 く の 都 市 で 依 然 と し て , か な り 明 瞭 に 認 め ら れ る . と り わ け , 都 市 に お け る 華 人 の 集 中 は 顕 著 で あ

り2), シンガポーノレ,マレーシア, イ ン ト 、 ネ シ ア な ど の 都 市 の 伝 統 的 な 中 心 部 は , 全 体 と し て チγ イ

ナ タ ウ ン の 様 相 を 呈 し て い る と 言 っ て も 過 言 で は な い . 東 南 ア ジ ア に お い て , 経 済 発 展 の み な ら ず ?

IH

!

l " 形成においても, 華 人 が 架 た し て き た 役 割 は , 非 常 に 大 き い . 東 南 ア ジ ア の 都 市 に お け る 華 人 の

ミターンについては, Mc Ge ei:l,

J

ac k s on4l

, Mc T a g g a r t5) な ど の 研 究 が あ る6)

東 南 ア ジ ア の 入 社 会 は , し 、 く つ か の 方 言 集 団 か ら 構 成 さ れ て い る が , の居住ノくターン形成の

おいて, 各 方 言 集 団 の 居 住 ノ ミ タ ー ン の 差 異 に 着 目 す る こ と あ ろ う . シ ン ガ ポ ー

/ レのようにy 全 人 口 に 占 め る さ

i

i

:

人 の 割 合 が 極 め て 高 い 者 で は , 華 入 社 会 内 部 の 多 様 性 の 意 義 は , い

っ そ う 大 き く な る . そ こ で 本 研 究 で は , 事 人 の 居 住 ノ 〈 タ ー ン の 形 成 を , 方 言 集 団 レ ベ ル で 論 ず る こ と

に す る7)

イ| Bヲ ョfGセ QIH の く タ ー ン に つ い て の 従 来 の 研 究 は , 非 常 に 乏 し い . そ の 最 大

のj京│玉

i

は, 都 市 内 部 に お け る の 人 口 分 布 に ! 却 す る 統 計Aが , ほ と ん ど 入 手 で き な か っ た こ と で あ ろ う . しかし, I - I odder は 実 態 調 査 に よ っ て 得 た デ ー タ に 基 づ し 、 て , シ ン ガ ポ ー ル の 都 心 部 に

Qセ jZ ャ ゥ ャ 地 図 に 示 し た8) Hodde r が 明 ら か

に し た 華 人 方 言 集 団 の 居 住 パ タ ー ン は ,

1952

年 当 時 の も の で あ り , そ れ 以 前 の 状 況 に つ い て は , い ま

(3)

28 人 文 地 珪 ! 学 研 究 班

されたかについて,

Hodd

白 河 は 十 分 な 分 析 は 行 っ て い な い

Cheng

は, 華 人 方 言 柴 田 に 焦 点 を あ て

てy シンガポール華人の社会地理学的研究を行ーったがp 華人方言集団の居住分布に! 到しては? ほとん

Hodder

の研究成果牛に依存しているの.

以上の従来の研究をふまえて? 本稿では, 1819年 の151!j港 か ら 第 二 次

i

立 界 大 戦 に 至 る ま で の シ ン ガ ポ

ーノレにオゴける ターンを明らか; こし, そのような居{ 主パターンが

H

か: えさ

に つ い て 考 察 す る こ と を 目 的 と す る10)

前述したように, 第 二 次 世 界 大 戦 前 に お け る 華 人 方 言 集 団 の 居 住 ノ 〈 タ ー ン を 明 ら か に す る

タ は 欠 如 し て い る . そ こ で ? 華 人 の 強 い 地 縁 的 , 血 縁1'1句 結 び つ き に 着 自 し , 華 人 会 館 の 分::-ffiを?

方 言 集 団 の 患 住 パ タ ー ン を 反 映 す る 重 要 な 指 僚 と し て と り あ げ る , また,

'

i

H

i

足 的 に 華 人 の 闘 の 分 布 も

参 考 に す る . ま ず ? 華 人 会 館 お よ び 献 を1 華 人 方 言 集 団 の 系 統 別 に 分 類 し , それらの位置:

と文献資料11) に よ っ て 確 認 し 時 期 ご と に 分 布 図 を 作 成 す る た だ し , 人 会 館 と 廟 の う ち , 特 定 の

方 言 集 団 に 属 さ な い も の は 除 外 す る . そ の よ う に し て 形 成 さ れ た 分 布 図 の 分 析 と 文 献 資 料3

などでの聞き取りから,当時: の華人方言集団の居住パターンをE)}j ら か に す る よ う に 努 め る . そして?

の 移 住 の 経 緯7 集 中 地 区 の 構 造 や 機 能 , 経 済 活 動 な ど に 注 目 し て , そ れ ら の

自 の 居 住 パ タ ー ン が 形 成 さ れ た 背 景 に つ い て 考 察 す る . なお,現地調査は, 1978年

1

1

月から1980年

1

1

月 ま で 約2 年間にわたって行い, と く に 華 人 会 館 で の 聞 き 取 り 調 査 と 資 料 収 集 に 重 点 を お い た

I

シ ン ガ ポ ー ル の 華 人 と 華 人 方 言 集 団

1

I

- 1.

多 民 族 社 会 に お け る

シンガポーノレVi ,典型的な多民版社会である. その社会は, マ レ 一 人 お よ び イ ン ド 人 ( 現 在

第l 表 hエヲ HQ XRTセQYSYZIQ

ド さp:

l

マレ一人│ イン! 人! その他│ 合

1824 31.

%

60.

%

%

%

10,683

合 〆

3,317 6,431 756 7. 179 100.

1830 6,555 39. 4 7,640 45. 9 ,1 913 11. 5 526 3. 2 16,634 100. 0 1836 13. 749 45. 9 12,538 41. 8 2,932 9. 8 765 2. 5 29,984 100. 0 1840 17,704 50. 0 13,200 37. 3 3,375 9. 6 ,1 110 3. 1 35,389 I 100. 0 1849 27,988 52. 9 17,039 32. 2 6,284 11. 9 1,580 3. 0 52,891 100. 0 1860 50,043 61. 2 16,202 19. 8 12,973 15. 9 2,516 3. 1 81,734 100. 0 187] 54, 572 57. 5 26,141 27. 6 10,313 10. 9 3, 790 4. 0 9<,1 816 100. 0 1881 86, 766 63. 0 33,012 24. 0 12,086 8. 8 5,858 4. 2 137,722 100. 0 1891 12,1 908 67. 1 35,956 19. 8 16,009 8. 8 7,727 4. 3 18,1 602 100. 0 190J 164,041 72. ] 35,988 15. 8 17,047 7. 8 9, 768 4. 3 226,842 100. 0 1911 219,577 72. 4 4,1 806 13. 8 27, 755 9. 1 14, 183 4. 7 303,321 100. 0 1921 315, 151 75. 3 53,595 12. 8 32,314 7. 7 17,298 4. 2 418,358 100. 0 1931 418,640 75. J 65,014 11. 6 50,811 9. 1 23,280 4. 2 557,745 100. 0 1939 569,280 i 77. J 80,428 10. 9 60,033 8. ] 28,818 3. 9 738,559 100. 0

資本いS a w,S. H. ( 1970) :S i ngαpor e: ρ

ρul at i oni nt ransi t i on. Uni v er s i t y of Penns y l v ani a Pr es s,

Phi l adel phi a, p. 57.

(4)

第二次世界大戦前, シ ン ガ ポ ー ル に お け る 華 人 方 言 集 団 の 居 住 ノ 〈 タ ー ン 29

のパキスタンフノミングラデシュ, ス リ ラ ン カ 出 身 者 も 含 む 〉 の 三 つ の 主 要 な 民 族 か ら 構 成 さ れ て き

た12) 1=1=1でもシンガポーノレでは,全人口に占める の 割 合 が , め て 大 き か っ た 〈 第

1

表) . 開港

(1819' j=1-) 直後は, 当 時 オ ラ ン ダ 領 で あ っ た マ ラ ッ カ の マ レ ー 人 が シ ン ガ ポ ー ノ レ に 多 数 来 住 し , マレ

一 人 が 最 大 多 数 そ 占 め て い た が13), 1830年代! こj=l [哀 よ り , 華 人 が 最 大 の 民 収 集 団 と な っ た . そ し て1921

年 以 降 , 全 人 口 に 占 め る 割 合 は7 0 %以 上 に 達 し た .

シンガポーノレvこ 流 入 し た 華 人 数 を み る と , 1881年 か ら1913年 ま で , 全 体 と し て 増 加 傾 向 に あ っ た .

1913年には, そ の l 年11¥9に 約25万 人 の 華 人 が 来 住 し た . そ の 後10年IM9は , 第 一 次 世 界 大 戦 と そ の 後 の

不 況 に よ り , 革 人 来 住 者 数 は 減 少 し た . し治〉し, 1924年 か ら1930年まで、再び増加傾向になった. 1927

年に流入した市人人口は, 開 港 以 来 最 高 の 約36万 人 に 達 し た . し か し , 世 界 恐 慌 に よ り マ レ 一 半 島 の

多 く の 錫 鉱 山 と ゴ ム 闘 は 閉 鎖 さ れ , さ ら に 植 民 地 政 府 の 移 民 制 限 も 加 わ っ てy 1930年 代 前 半 は 華 人 来

住 数 者 が 減 少 し た が3 1930年 代 後 半 , 華 人 女 子 の 移 住 が 増 え , ヨ

1

1 ; 人移民数はやや回復した. 1937年 の

Zi￯セ RT N 1938年5月 か ら 華 人 女 子 の 移 民 制 限 が 始 ま り , 第二次! 企

界 大 戦 の 勃 発 ま で , 華 人 修 民 の 数 は , 10万 か ら16万 人 前 後 で あ っ た14) 1939年のシンガ、ポーノレの人口

は74万人にのぼり, そ の う ち 華 人 は57万 人 で , 全 人 口 の7 7 . 1 %を 占 め た15)

]

I

- 2.

の 分 類

シンガポーノレへの革人移住者の大部分は, 福 建 ・ 広 東 両 者 を 中 心 と す る 華 南 出 身 者 で あ っ た . そ れ

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;

人 の 予 住 地 域 で ‘ 話 さ れ る 互 い に 大 き な 差 異 が あ り16), 華 人 は , 彼 ら が 通 常 用 い

1891

1901

1911

よって, い く つ か の 集 団 に 分 け ら れ る . こ の よ う な 集 団 を 方 言 集 団 (di al ect g r oup) とよ

な っ た な い 限 り コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン は 容 易 で な い .

10 15

3

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・わう担当て

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持18. 7 骨 感 謝

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20 25 30 35 40 42(万 人 )

1921

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4f J 方

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! z l 福建人

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セ[ カGャ ャ

亡〕揺れ

広 東 入

園 輿 化 人

関 海 南 人 医 客 家 人

目 制 植 民 地 盤 そ の 他

生まれの華人i主)

第1 図 ゥ ャ HQ XXQセQYSQサZQ

グ ラ フ 内 の 数 字vJ:, ゥェセZ セ エアj HEIN

E

2

資 料 : Vl i el and, C. A. ( 1932) :Bl i t i sh1lダαl aya,a r epor t 0η t he 1 9 3 1 census 01ρopμlα tz' onaηd

on cert αi njうr obl ems 01 vi t al st at i shcs, T h e C r o wn Ag e nt s f or t he Col oni es, L o n d o n, p. 181,

i'l%鉄京[ 匹経済調査j昔話11 ( 1941) : r英 低 来 ・ 結II旬 及j奈 川 に 於 け る 華 僑 j im¥j鉄 京TIli経 済 調 査 局 , 東 京 ,

p. 61. 張 礼 千 ( 1941) : 新加J皮人仁l之 演 進 . 南 洋 学 報 , 2- L 115..._,125, 張 礼 千 ( 1941) :1921年 新

(5)

30

人 女 地JJ! l 学研究 ¥1[

第二次世界- 7こ戦前の華人方言集団の人口構成の

H

f

i

修をみると,

tR

1凶 の よ う に 示 さ れ る . 1881:¥' 1三の

海峡植民地の来究計ーに よ れ ば3 華 人 総 数86,766人 の う ち3 福 建 人 が28 . 8 % ( 24. 981 ) ¥) , r lliJl)ト

i

人 が26. 1

% ( 22,644人 ) , 広 東 人 が17. 1% ( 14,853人 〉 を 占 め た . そ れ ら に 次 い でF 海 峡 植 民 地 生 ま れ の

:I

' ( 人j

Zエ ○セ

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( 9,527人) を占め ていた. このi4i]:1挟

l

也氏j也 生 ま れ の ノ¥ ( St r i t s - bor n Chine s e )

と い う 分 類 は , 1911年の人口センサスまで存在したが, そ の 大 部 分 は , マラ: ; 7) か ら 移 っ て 来 た 福 建

省の樟州およひご泉州地方出身の華人とその子孫であり, 的 建 人 と み な し て も さ し っ か え 仕 い と 忠 わ れ

る. 当 時p マ ラ ッカの 事人ブj言集

l

翠の 中 で は , 福 建人 が 圧 倒 的 多 数 を 占 め 『ζ いた. 19世 紀 の シ ン ガ ポ

ール 革 入 社 会 はこ,マ ラ ッ カ の 茶 入 社 会 の 延 長 だ と い う こ と が で き る17) 第 二 次[ _U_.界 大 戦 前 か ら 今 日 に

至 る ま で , シ 、 / ガ ポ ー ル で は , 福 建 人 が 最 大 の 華 人 方 言集 団 の 地 位 を 保 っ て き た

福建人に次レ、で第二,第三の方言集団であったのは,

r

朝戸1'1人 と 広 東 人 ( J玄j有人 と も よ ば れ る 〉 で あ

った . 1901年与え後は, jN ェ セjiI Qシh GQ シ e 第ニの集;団立到

i

と な つ た .

1

1

5

二次I]

J

げ│

前 に は , これら福建人, 潮(

1

朝朝jJJ似

1

1

州州卜州j州

H

1、'は人および広東人が, 三大方言集│ 立

i

で‘ あった. これらに次いで,淘今雨入と

客 家 人 が , ほ ?ま、!可程度の 人口 を 有 し て い た . その ほ か の 少 数 方 言 集 団 と し て3 福 州 人 と り礎 化 人 が あ げ

られる. 1911勾三, 1921年 ,1931年の人口センサスでは, 指 清 人 の 分 類 が 設Lナられ て い る が , 招 消 人 は

興化 人と非常』こ類似した方言を 話 し, 同 一 グル { プと み な す こ と が で き る1 8 )

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福 州

広西

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; 山E頁

F信

、 ノ

- 主 聖 書 出 移 住 地

A移 出 港

200 400km

第2図 シ ン ガポーノ レ華人方 言集 団 の 出 移 住 地 域 と 人 口 規 模 ( 1931年〉

資 料 : V l i el and, C. A. ( 1932) :Bl i t i shM αl ayα,α report 0η t he 1 9 3 1 c e nsus of ρo仰l at i on a nd

(6)

31

シンガポールにおけるやー入方一言集1]]の陪住ノ〈ターン

第二次世界大戦前,

そ れ ぞ れ の 華 人 方 言 集 団 の 人 口 規 模 と/::H易 地 を 示 し た も の が 第

2

1931年 の 人l二! セ ン サ ス に 法 づ き ?

- 広 東 両 省 の 出 身 者 と そ の 子 孫 、 で あ り , 華 人 移 住 者

ゥセ YXE _

iセi N

シ ン ガ ポ ー ル へ 到 着 し た .

海 仁 ! な ど の 華 人 移 出 港 か ら 船 に 来 り 込 み3

は,医1 '11

1)

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i政

7 香港,

とiJ前

:0:

-

3

に よ っ て 組 織 さ れ た 伝 統 的 な 団 , 多 く の さ ま ざ ま な 団 体 組 織 が 形 成 さ れ て き た .

iセ ャGG}

大 き く 分 け てy

は,

- ) 投 に ! 会 館 」 と よ ば れ る .

{ 本は,

こ れ ら の 会 館 の 多 く

そ し て 業 縁 的 組 織 で あ る 同 業 会 館 の 三 種 類 か ら 成 る19)

1:1'0組織である│司姓会館,

もな会館

l

同 姓 会 館 ! 同 業 会 館

( 18 6 0 ? ) 平 防 在 氏 公 会 ( 1908) 関南濃児公会 ( ? )

( 1867)

I

福 建 楊 氏 公 会 ( 1915) 福 建 建 築 工 業 社 ( 1937)

( 1876) く1918)

シンガポールにおける

方 言 集 団

1

3

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第 二 次 世 界 大 戦 前3

A' ....

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官官

討111

I A I A I A I

l

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fC2表

2

l

義安公司 ( 1845) iセョ ( 1865) ! 香川公局 ( 1890)

出! 少'11

i

iリi 防会館 ( 1925) il'リ!ナ11' 江 夏 堂 ( 1866) 布 行 商 務 局 ( 1908)

;掛 川 八 邑 会 館 ( 1929) y';iJJ HI 西戸I公 会 ( 1879) 海噸! 安1[ 公 所 ( 1922)

沖Jl' 1J...: 1櫛 詑 社 ( 1937) Qセ ゥI Q@l十' i髄 西 公 会 ( 1890) サセAjャ ( 1925)

寧協会館 ( 1822) Iii三釘3 c努タニt

自白 ( 18 1 9 ? )

l

広り刊行

( 1909)

広 京

南 111員会館 ( 1830年代〉 lill 邑 陳 氏 会 館 ( 1848) 広 東 篠 高 公 会 ( 1910)

主 任 } 盟 会 館 ( 1879) 台i JJ 黄 家 主H ( 1854) 広 有 ; 熟 食 行 ( 1939)

広東会館 ( 1937) 広 東 呉 氏 書 室 ( 1910) 広 肇 客 桟 行 ( ? )

理 州 、 │ 会 館 ( 1857) 符 氏 社 ( 1887) 理 僑i明11非公会 ( 1934)

海 南 ゥjjZ セカN ( 1936)

i;q

氏 荷 ( 1900) Z皇僑f陸 党 公 会 ( 1939)

セャャャャ ( 1937) 現 在 程 氏 公 会 ( 1903) ￯Jセ ( ? 〉

( 1823) AャAゥ セゥ ( 1933) 蛍商公会 ( 1920)

客 家 茶防会館 ( 1857) 客 属 黄 氏 公 会 ( 1941) 茶 陽 京 菜 商 務 局 ( ? )

南 洋 客 席 総 会 ( 1929)

│ 市 川l 会 iti'i ( 1909) 徐氏公会 ( 1937) 子高j 十i木Jd公Nf ( 1912)

州、! シ セQAQQ ( 1936) 橋部公会 ( 1939) 福州11加時商公会 ( 1920)

福j 十i長 楽 公 会 ( 1939) 福戸!時刻字言!? 氏公会(1939) 福 州 商 業 公 会 ( 1930)

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

( 1932)

自 l歯 車 商 会

( 1910)

( 1920)

-B 3 、E I -w -H

J

H

W

札、パバ刊

f

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4

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1 3 ρ r a 、 J A r

l

興 化

上 海 図 式 女 服 同 業 会 ( 1939)

( 1908)

( 1918) ( 1923)

出1

〆L

Z二〈

自:':1

口:

7

?介州4十竹 、 {

i

:

( ) F)すの数字は,会finの創立年次圃

資 料 : 各 都 人 会

m

:

i

発行の「紀念特千IJJ ) 呉 ( 1975) イ ゥ QUャGセ ャ ャj ,南洋学会p シン

ガポーノレ) 1991ユ,呉事( 1975)

r

新力/]J.皮革族会館志第二冊j ) 南洋学会,シンガポール, 221p.,

(7)

1霊

セjAiセ ャ iセ ャ ゥ セ

学 研 究 人 女 地 理

は , 同 一 の 方 言 集 団 に 属 す る 華 人 か ら 構 成 さ れ た .

32

その捕成員が同一方言集団に! 認する場合が多

は当然で、あるが3 向 性 会 館 や 同 業 会 館 も 実 質 的 ト こ は3

おもな恭人会館を示したもので‘ ある.

なった] 業j尭で、 援助もない状況下で,故郷; を遠く11c

l i

i

れ,

か っ た . 第

2

表は,

本国政府および植民地政府の十分な保護,

よ』

=

ゥャ iセ i ャセイj

生 活 し な け れ ば な ら な か っ た 華 人 に と っ て ,

病人をIりJけ , 共 同 墓 地 ,

[jャ

セ[iセi

会 員 に 職 を あ っ せ ん し ,

官Vi ,

成 績 が 優 秀 な 会 員 子 弟 に は 奨 学 金 配 与 え 争 を 仲 介 し , 華 入 学 校 を 経 営 し て会員 子弟の教育? とあたり,

ャャセ セ

ゥ カェセ

さらに , 生活関窮者や老人には,経済的援助も千ラった

また , ;

情 報 交 換 の 場 で も あ っ た 場であり,

す な わ ち , 同 一 方 で き る だ け 会 員 が 多 く 居 住 す る 地j戒に設立された.

一 般 に 会 館 は , したがって,

大 古[ ) なぜ? なら, そ の 方 言 集 団 が 集lτ i二lして居住する地区に突

u

て ら れ た

セi GェZ ,

会館を'FJ j ) . -しるのに交通費を払ってまで行く余怖はなかったから

分が下層階級に属する華人にとって,

そ れ ら 方 言 集 団 の 居 住 分 布 を 非 常 に よ く 反 映 し て それゆえ ,華 人 方 言 集 団の会館の 分布( <):,

いたと言えよ う

である

そして ,華人は

i

司ープ

7

言 集 移 住 地j或でも配った

iセ

廟の設立場所は ,)1i

l7

J(

説 に の っ と っ て しかし,

! 柄を建立しアこ. 団 が 多 く 居 住 す る 地 域 や そ の 近 く に ,

新 の 中 に は ,恒山 亭20) のよ う に 諜 入 居 住 地 域 の は ず れ に 設 立 さ れ る ものもあった 決 定 さ れ た た め ,

特 定 の 華 人 方 言 集 団 が 設 立 し た お も な 廟 と そ の 主 干11121) を示すと,第3表のようになる

シン ガ ポ ー ル に お けーる 華 人 方 言 集 団 の お も な

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n

第3表

1'-1¥1

H ョ セ￯

イEl

后聖

水制

沢尊

( 1828)

( 18 2 0年代〉

( 18 3 0)

( 1836)

-1

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J天

母 笠

) ; ¥.

J、一

上記のほか, 客 家 人 と 広 東 人 が 共 同 し て 設 立 し た も の に , 海 底 抗 { 忠 河 ( 1820: )1三[ 1' 1創設, 主 千111は 大 伯公〉

( ) 内の数: 字は,闘の創 立 年 次 .

資 料 : 林 孝 勝 ほ か ( 1975) : W石IIj J古 銭 』 南 洋 学 会 , シ ソ ガ ポ ー ル ,261p・3 各 部'1f t人会1(1 1 ¥発行の『紀念、

特干IJJ お よ び 現 地 調 査 .

白川

5

1

1

一ー に3

l五

( 18 5 7 )

イャセ[

方 言 集 団

7.'1予

'letと

F

i セi 大

く1 8 2 0年 代 )

I

〔 問

一切

n

k

1

1当

、 品

四日

υ

7

( 1 8 44)

丹 戒 巴 葛 福 徳 間

元t

1コ!

N

i

人プj言集団の人口 以 上 述 べ て き た よ う に 怪 人 方 言 集 団 に よ っ て 設 立 さ れ た 会 館 や

K

v

i

の位誼は

i l E

去の革人方言集団の居住ノくター ンを対!る上 で , 非 常

分布に関 す る 統 計 が 極 め て 乏 し い 状 況 下 で は ,

(8)

出二<) ( I " - W大liiJ:Ilij, シンガポールにおける市人万三先日iのj計住パターン 33

III 華 人 方 言 葉 回 の 居 住 パ タ ー ン

111- 1

.

I

J

:

¥Y在日

1

後 の

j u

i i J

ノ〈ター ン

ス タ ン ア- J ド ランプルズ(.]: , オ ランダとの{ 自民地年l-TIjてのj

J

J

;

!

で, 京 市 ア ジ ア の

1

m

民 地 支 配 お よ

び11:1ェェセQ Z↓ A xI ェM Z[Q

1819年

1

す)

29

1=

1

に シ ン ガ ポ ー ル に 上 院 し た22)

こ ペ し て , [iセ H J:, 新 し い イ ギ リ ス む と し て 桂 さ れ た

ラッブノレズ は, シ ン ガ ポ - -Iレ在

li l

a l iをとし

1

m

放 し た た め , 彼 の 米

r

)

lr

去3

カ月で , 人 口

( J

3

寸 に

i

主し,

1820年

4 F

J

に は

1万 人 を

J

fこ23) シンガポー/ レの│沼地

D

l 1

&

r

こ 米 浴 し たII!::

人 は , 大 部 分 当 時 オ ラ ン ダ の 支 配 下 に あ っ た

マラ ソカから 拶 っ て 米 た そ の ほ か 当11ふ

■ゥイャ Hャ セ N ゥ。 オ I ら 米 た 者

もあった. 7 {劫 に 都 合 が よ い イ ギ リ ス

l

liJ

D

いむ

が 佐 設 さ れ た と い う 矢11ら せ は ,11111;]本 土 に 直

ら に 伝 わ り,

1821{1

2

月には存I'!恕? と; の j変

r

1l

1

ら1:1;:1)Jの ジ ャンクが 主 した24 )

ラッフノレズ は , 新 し い の往{没 に 力 を 入

れ た 彼( t, マレ 一 人3 ブ ギ ス 人25),-11¥;人,

f ン ド 人 な と の 氏 版

I

H

J

に お け る 言

iz

i

, 生 活j

式, J f ,故業などの差異を考応: し,互いに混住さ

せ ず に , そ れ ぞ れ の 民 族 の 居 住 地 を 出 定 し た

( 第

3

1

1

)

. 居住地の! 玄回の 決 定 に あ た っ て

ラy フノレ ズ

v

i

,取 人 の 勤 勉 な 民 族 1- 1J >を評

{

i

f

l

i

し , 常 に 社 会 のiiL大

fm

分 を 形 成 す る と 予 恕し,

ま ず

t

P

;

ー にll' 11人を考),

i

E

:

するようにと,

r

i'

l n

てに

を│喚起した26) さらにラソフルズ(. 'j :, jャ|セ@

入 社 会 内

i}

l)

の 出J

j色 の れ こ よる の

U

:i :

ェ セ j セZ

fこ27)

こ う し て 市 入 居 住

IKは

p シ ン ガ ポ ー ル 川 の

市 山 地 区 ( 大J)支d a t O) に 設 定 さ れ た28) 尚 業

Jili12{の

: iilW

r

J (

i

墳は去する T e lo k A y c r S t r c et

I

T

l i

し た メ イ ン , ス ト リー トで, そ の

P

iJ.

辺は

A

u

r

i

-一一一ー 道 路

一 一 居 住 区 境 界

o O.5km . _ _ ーーー目- - - '

Si ngapor e

On¥' : >. "' 形 舟

セ セY@ IOkm

L

-一

一」

第3図 シンガポ ーノレi二十I心部における民政集団の居往区

自 プ ラ ン ( l

8

2

8

{1

r

r

料 : Tur nbul l, C. M. ( 1977) :A hi sl ory

0/

Si n-g aρ or e, 1 81 9 - 1 9 75. Ox f or d Uni ver s i t y Pr es s,

K ual a L u mp u r, p . x v ijiJjI立J のtllilzL Pl an of t h e t o wn of S i na g por e by L i eut enant ] ac ks on,

1823. およびT vl c Gee,T. G . ( 1967) : T he Soul -heast As i an Ci t y . G. Bel l and S ons, LT D,

L o n d o n, p. 70.

後 の

182 1

年 に は , 行11'処 人 の j羽である天福治' のiii]"l)となる小さなトjy'jが T el ol王Ay e r S t r e e t に 建 立 さ れ

(9)

34 人 女 地 別 学 研 究 刊

iこ. 天干高官は

1842

年 に 正 式 に 溶 成 し た29) 天福宮の周辺には,福建人が多く していた. また Tel ol ζ

A y e r St r eet に は , 広 東 人 と 答 家 人 が 共 同 し て 海 唇 福 徳 柄 を

1820

年 頃 に 設 立 し た30) さらに7 広 東 省

の 応 州 ( 梅 県 , 蕉 嶺 , 五 号 " 興 寧 , 平 速 の 五 地 方 か ら 成 る 〉 出 身 の 客 家 人 の 同 恕¥1会 館 で あ る 応 和 会

館も)

1822

年に同じ通りに建立され、た31)

T el ok A y e t St r eet の や や 北 の Phi l i pSt r eet には)

1820

年 代 に 湖 州 人 の ;f長初の! 研である寄託手消

納の前身が設立された. 正式には,

1852

年 か ら

1855

年 頃 に か け て 建 立 さ れ た32) 開港直後, シンガポ

ーノレに来住した説明州人の多くは, シンガポーノレの南のリアウ諸島で農業に従事していた者であった.

開港直後の潮州入の中心的な居住地域は, 琴 海 j古廟周辺からシンガポー/ レ川南岸のBoa t Qu a y に か

け て で あ っ た33) そしてy 貿 易 に 従 事 す る ほ か ) Ri v er V a

l1

e y Roa d から Buk i t T ima h や T

ho-ms o n R o a d に か け て の 丘

i

凌地でy ガンピー/ レ ( g ami ber ) とコショウの栽培に従事ーした34) ガンピ

ーノレは,化学染料が用いられるようになるまで,重要な染料原料でありp シ ン ガ ポ ー ル の 貴 重 なi)ifijI

t

l

l {

z

i

であった. しかし? 長期にわたるガンピーノレの栽培は, H↓セ[サ _ ャ

よ ら 需 要 の 減 少 の た め )

1850

年 代 末 期 か ら

1860

年 代 初 期 に か け て ? シンガポーノレのガンピーノレ栽培

は 返 し た35)

1

有j州、

i

人のガンピーノレとコショウの輸出業に携わった商応は, シンガポーノレ)11fこ近い

Ri v er Val l ey R o a d や N e w Ma r k e t 付 近lこ集l=!=l していた36)

- 2 .

1850

年頃の居住ノミターン

開 港 か ら

30

年 後 の

1849

年 の シ ン ガ ポ ー ル の 人 口 は )

52

891

人に達し,そのウち華人は

5 2 .

9 % ( 27

988

人 〉 を 占 め る よ う に な っ た 〈 第

1

表) .

1850

年当の華人方言集団の会館および! 釈の分布ーをみると,

すべてシンガポーノレ川の南岸地区に位置し, 北 岸 地 区 に は 立 地 し て い な か っ た 〈 第

4

図) . ただ、し,

ロチョー/ レ川の河口付の北側には, 広 東 人 の 創 設 し た 広 福 古 廟

( 1835

年 以 前 の 設 立 〉 が 建 て ら れ て

いた37) 当時: の- 全人の会館およびj釈は,福建人,

tifm

)

i

人P 広 東 人 お よ び 家 人 の も の に 限 ら れ , そ の

他の方言集団の会館・! 婦はまだみられなかった.

と廟は) T el ok A y e r St r eet と そ の 周 辺 に 位 置 し て い た . た だ し 広 東 人 の 会 館 は ? そ

れらより! 大l [ 連立! I J の S out h Br i dge R o a d付 近 に 建 て ら れ て い た . 広 東 人 の 会 館 が 集 ま っ て い る 地 区 の

I(二iに,一つの福建人の会館( 長泰会館,

1849

年設立〉が認められるが,これは, 当 時 そ の 地 区 が 広 東

人 と 福 建 人 の 居 住 区 のtmrr,

f

多 地 帯 で あ っ た こ と を 示 し て い る と 忠 わ れ る .

会館および隔の{ 立置から, 当 の 華 人 集 誌 の r :1:1心 が , シ ン ガ ポ ー ル 川 の 南 岸 地 区 に あ っ た こ と は 明

らかである. しかし, シンガポーノレ川の北岸地

IK

( 小坂

Xi ao

ρ0 ) の本米ヨーロッパ入居住! 互に

さ れ て い た 地 区 に も7 当 時 す で に 多 数 の 華 人 が 居 住 し て い た と 忠 わ れ る . しかし)

1850

年頃,北岸: 地

!R

.

に主去し、 ;6:: ).,. ¥ 7')寸ふる ミターンを示していたかについては, 明らかではない.

1IT

- 3 .

1890

年頃の居{ 七ノミターン

1849

年に

27

988

人 で あ っ た シ ン ガ ポ ー ル の 華 人 人 口 は , 約

40

年 後 の

189]

年 に は

121

908

人に達した.

こ れ は , 全 人 口 の

6 7 .

1 %

に相当する. このうち福建人) if

(10)

第 二 次 世 界 大 戦 前 , シ ン ガ ポ ー ル に お け る 華 人 方 言 集 団 の 居 住 ノ 〈 タ ー ン

第4図 1fr;人 方 言 集 団 の 会 館 お よ び 糊 の 分 布 ( 1850年頃〉

0 福建

@滋 ナH

( ) 広 東

θ客家

。 釜 入 額

o O. 5k m

35

a : 天雨宮( 福建系) , b : 金樹iJ

m

( 福建系) , c : 原山寺〈福建系) , d : 号、海市陪(↓セゥ ェ ゥ I e : 海

底 招 司 ( 広 東 ・ 答 : 家 系 ) , f : 子i戒百島市徳褐( 客家系〉

資 料 : 各 事 人 会 館 発 行 の 「 紀 念 特:FIJjj ,呉1'rj; ( 1975) :

r

新力rJ: 肢華族会館志第一JffU 前j羊: 字会,シン

ガポール, 199p.,呉市( 1975) :

r

新 加 坂1]何度会館志第二

m

u

y

r

: j 洋学会, シンガポール, 221p.,

呉 事 ( 1977) :

nM

J n:

l 皮革族会館芯第三-nn'j

r

t

i 1

e

J .:学会,シンガポーノレ, 186p" 林年: ) 跨ほか( 1975)

f石力n古 蹟j

r

yi洋学会,シンガポール, 261p. ほか,および聞き取り,

m

T外 観 察 に よ る .

19. 5%

, QYNRE iセ○ T S N こ の ほ か , 海

峡植民地生まれの華人, ' ( 毎日' : ;] 人および客家人が,それぞれ

10. 5%

7 .

1 %

6 .

1 %

を 占 め て い た38) 前

述したように, 潟i挟 値 民 地 生 ま れ の 人 の ほ と ん ど を 指 定

E

人 と み な す と , 福 建 人 は 全 華 人 の 半 数 近 く

を 占 め て い た こ と に な る

植民地政府は,秘密結社の活動を根絶するため,

1890

年 に 新 し い 団 体 登 録 令 を 発 布 し た . こ れ に よ

68

団体が登録されたが, こ の う ち の お 団 体 は 華 人 の も の で あ っ た39)

1890

年 頃 の 華 人 会 館 分 布 図 を

みると, セi H U セiIN

境川会館が,

1857

年に

M

al abar

St r eet

に設立され,

1880

年に現在J l

s

Bea c h

Roa d

に 移iji云した.

(11)

36 人 文 地 ] 主 学 研 究 班

第5図 i!!:ー八 方 言集 団 の 会fu'fおよ び府jの 分 布 ( l890fr:-頃〉

g : l[yr.工字情j甑〈沼 往系) , ィZ Qセ[jェ ( 福桂子手 ) , i : 天 l'ei古〔海南 系〉

資 料:第4図iとi司じ

は,同じく海南 人 の 向 性会 館 で あ る符 氏社が,

1887

年 に 設 立 さ れ た41) ζ のよ うに7 海 南 人 の

j柄の建設はy 福建人,

iM

J)

十│人,

}

:S

R

人 お よび答: 家人 より も

30

' "' -' 4

0

年 遅 れ てp 北 岸 地 区 に 建 て ら れ た

北 岸 地 区 の Be a c h rッ。」ャ ー Nゥ セセZji i QZQ

一一方p

FH

岸 地 区 に お い て は , 市建人, ケェ ャゥj ャhi Z エᅵセ ↓ ャ hヲャW jョ N と くに広 東 人 の 会館が, S out h Br i dge R o a d や N e w

Br i dge

Roacl 付 近に多く建設された。

]J

- 4 .

1940

年 頃 の 居 住ノξタ ー ン

1891

:i'! 三以 来 , 帯 人 人口 は 順 調 に

I M

加 し

総 人 口に占める:!j'{ 人の

jlf

lJ

合は)

1901

年 以 後

70%

を組えるよ

うになった.

1939

年の人口は, 約

50

年 前 の

189 1

i

f

の人口 の約

4 .7

倍に なっ た. このように 事 人 人 口 が

増 大 す る に つ れy そ れ ま で の 事 人 方 言 集団の居住ノミタ ー ン に も 大 き な 変 化 が 生 じ た .

1940

年 頃 の

:

lr

[

人 会 館 の 分 布 を み る と 〈 第

6

1

玄1),

1890i

:1三!設に 比 べ て,

il

i E

人 会 館 の 数 が 大 きく

1

1;( I)JII し3

:

:

1

七岸 地 区にも 多く の 新 し い 人 会 館 が

1

+

t

した. 一 部 は ロチョ ーノレ川 を越えて, そ のこ

ItJ

ギに もみ られ

(12)

第二次世 界大戦前, シン ガポー ルにおける華人方言集団の 居住パ ターン

37

第6図 茶入方言集団の会ritiおよび府jの分布 ( 1940年頃) j: 広福古府( 広東系)

*

;

1

.

:第41玄iの資料 およ び関経 瑛ほか 縞 ( 1940) : U星洲十 年

J

星iHI日報社. シンガ ポール,929,....,950.

居 は パ ター ン の 特 色 を 検 討 し よ う .

国恋人の会館は, T e l ok A y e r St r eet か ら S out h Br i dge Roa d一帯に かけAて集中していた. 第

4関 およ び 第5セi Tel ok Ay e r St r eet か らさらに内陸側へ

広 が りy 宿泊: 入居住区の

i

広 大 を み て と る こ と が で き る

i

i

l

U

j ) 十! 人 の 会 館 は,

1890

年 か ら

1940

年 の

I

'

I:¥Jに; 急 地 した. そ れ らは ,シ ンガ ポー ル川 河口 の両岸 に集 中し

た . と く に シ ン ガ ポ ー ル 川 の 南 岸 に 多 か っ た .

1890

年 頃 の 分布 図で は,シンガ、

7

1

ール川の北岸には,

ji;iJI

H

I

人 の 会 館 は み ら れ なかったが, 二

1

じ岸地区にも

i

i

i

liJ

H

I

人の会館が設立されるようになり,

iijiJ)H

I

入居住

区 の 拡 大 を 示 し て い る

広 東ー人 の 会 館 は , 伺 定

t

人とj削/1'1人 の 会 館 の そ れ ぞ れ の 集 中 地 区 よ り もy さらに内陸部IJに多く集まっ

て い た . K r et a A y er ( 1:1=1 で ‘ 牛 車 水 と よ ば れ る 〉 な1:1:1心 とする S out h Br i dge Road や New

Br i dg e R o acl の 周 辺 がy 広 東 人 の 集1=/=1地

iK

で あ っ た .

梅 雨 人 も, 北 岸 地 区 の 定 の 地 区 に 集 中して 居 住 し て い た . 海 南 人 の 会 館 はy 天J舌宮が{立霞: する

Be a c h I¥_oacl そ? l¥![ icl l l e I¥_oacl - 一祐二にj奈まっていた。 しカ〉しながら,依然としてp シンガポ ール) 11の

(13)

38 人文地国学: 11) ] 究刊

苓: 家人の会館は,南岸地区にも北岸地

I

2U: こも分布していたが,

￯ iセi]i fこ

と い う こ と が で き る

して,

ド1:1j也 区 は な か っ た . 強 い て

の 会 館 が 立 地 し て い た ?

稲川人の最初の会館は,

1909

年に のCl ub sエイ・・エ ェjNセ ゥ N Qア| [j ャャ

の T a ηj ong Pag ar R o a d 付近と の Vi ct or i a St r eet 付j立 に み ら れ た

1920

年 代 か ら

1930

年代にかけて,品川│人は,北岸地区の N e w 1

r i dge

Ie

oadやT a nj ong Pa g a r R o a d

に 多 く 居 住 し た12)

興化人の最初] の会館である興安会館

( 1920

年 設 立 ) お よ び 福 消 人 の 最 初 の 会 館 で あ る 行1¥治 会 館

( 1910

年 設 立 ) は , 設 立 以 来 数 回 の 移 転 を 行 っ た が3 い ず れ も 北 岸 地 区 に 建 て ら れ た .

1

9

世 紀 末 に な っ て 興

化 人 の 砂

1

1: が誌んになったが ,

f

E

z

ら は 北 岸 地

i

玄の Que e n St r eet, Al ber t St r eet, Roc hor Canal

R o a d 周辺やロチョーノレハ! の北岸に多く居住した

三江: 人43)の 会 館 は , 南 岸l'lh.IZの広一束人集仁1= 1 地区付近と, ロチョーノレ)11を 組 え て 北 岸 の J al an Bes ar

に あ っ た . 三 戸 人 の 最 初Jの

設 立 さ れ た

あ る 三1工会館は,

1

9

0

8

: Q

三にロチョーノレ)11の 北 岸 の l al an A mp a s に

1

I

I

- 5 .

.

以 上 行 っ て き た

討 し て み よ う

の! 首{ードパターンのf侍色

もとに, つ ぎ に 第 二 次 位 界 大 戦 前 の 華 人 方 言 集

1

3

:l

の ノ ミ タ ー ン の 特 色 を 検

Mエェセ [ 開 港 初 期 の ラ y ブノレズの民族別j舌 住 区 間 プ ラ ン の く 受 け ♂ た 1 :

ず, iM[サ iセセ HNNIN その

北 岸 地 区 の ヨ ー iコy パ 入 居 住 区 や 行 政 地 区 に あ て ら れ て い た 地 区 に も 華 人 が j古 住 す る よ う に な っ た .

ゥヲセセ

1

. -. _,

1

. 5

伽 の 範 囲 で , 華 入 居 住 地 域 は , 北 東 お よ び 南 東 方

向 に 主 要 道 路 に 沿 っ て 発 展 し て い っ た . 一方, ヨ ー ロ ソ パ 人 が 多 く 住 む よ う に な っ た Ri v er Val l ey

R o a d や Or c harせ R o a d方 面 で は , 華 人 の 居 住 は 多 く な か っ た .

シ ン ガ ポ ー ル)11の南岸地区と北岸地! 互における華人方言集団のj苦住パターンには, 明 確 な 差 異 が あ

っ た . 南 岸 地 区 は3 福建人, {!jiJ l 外! 人および広東人の三つの主要な方言集団が占拠した. これに対し,

海百五j人 や 興 化 人 な ど の の多くは, 北部地区に居住した。

多 く の 華 人 方 言 集 団 はy 同 じ 集 団 に 属 す る 華 人 が 集 中 し て 居 住 す る 地 区 を 有 し た . と り わ け 著 し い

集中地区は,南岸地区における福建ー人, i(掛川│ 人および広東ー人の集中地区であった. iセョ

は , そ れ ぞ れ の 集i千l地区を中心に, 南 岸 地 区 を 大 き く 三 つ の 地

i

玄にすみわけるノくターンを示した. 立

た , 北 岸 地 区 に お い て は , 海 南 人 の 集 中 地 区 が 顕 著 で あ っ た . そ の 他 の 少 数 方 言 集 団 の 場 合 , そ れ ほ

ど 顕 著 で は な い が3 い く つ か の 集 中 地 区 が あ っ た . 興 化 人 と 宿 泊 人 は , 北 岸 地12<のQue e n St r eet 付

(14)

第二次世界大戦前,シンガポールにおける軍人方言集団の市住ノ〈ターン 39

lV

華 人 方 言 集 団 の 居 住 パ タ ー ン 形 成 の 背 景

j'r ; 人方言集団11¥] の方言の大きな差異によるコミコニケーションの困難や, 価値観,

校 式 な ど の 文 化 的 差 異 の 存 在7 さ ら に は イ ギ ザ ス 植 民 地 政 府 の 対 華 人 政 策 な ど は , 以 上 考 察 し て き た

ょう ミターン形成の背景にある,

、 レ マ

め 匂 I Wi(i:

支 で の 考 察 を ふ ま え て ? の 居 住 パ タ ー ン が 形 成 さ いて? さらに若干- の観点、

か ら 分 析 を)JIIえ て み る こ と に す る

lV

- 1 . セ

の シ ン ガ ポ ー ル へ の 移 住 の [ 時 期 や そ の 規 模 に はy 集 団 ご と に 差 異 が あ る . 福 建 人 , jl;iJ]

H

I

人 , 広 東 人 お よ び 客 家 人 は ,

1819

年 の 開 港 直 後 か ら 移 住 を 始 め ,

1820

年 代 に は あ る 程 度 の 人 口 が 日

目: していた. 先に述べたように? 福 恋 人 は 開 港 直 後 に マ ラ ソ カ か ら 移 動 し て 来 た . シ ン ガ ポ ー ル に 最

初に来た広東人は, ラッフルズと伴に, QXQY QQ ZU QZ{Aセ ;-J:'、(広東省台山県人〉

で あ っ た . まfこ 宗 家 人 の 来 港 も 早 く ,

1823

年 に は , 応 和 会 館 が 設 立 さ れ た .

r-!' [¥主主人, jl:iJJ)+1 人 ? 広 東 人 お よ び 客 家 人 を 先 来 集

l

王! とよぶことにすれば, そ れ ら の 集 団 よ り 遅 れ て シ

ン ガ ポ ー ル iこ移住して来た梅雨入,

r

:

fi¥チ1'1人,興化人? 福清人, 三江人などは, と よ ぶ こ と が

で き よ 今 人 が 最 初 に シ ン ガ ポ ー ル に 来 た の は ,

1841

年 で あ る と い わ れ る44) シンガポー/ しへの

海市人の移位: が盛んになったのは, 海 市 島 の 口 が

1876

年 に 貿 易 港 と し て 開 港 さ れ て 以 後 の こ と で あ

の 拶 住 の 差 異 は , 集│ 立! の初期の居住地の選定に大きな影響を与えた. 先 来 集 団

は,臨々の条件に; むま;1/した土地に出( こし, 後、来集!立lは , 先 来 柴 田 に よ っ て ま だ 十 分 に 占 拠 さ れ て い な

いこトー地に居住した. すなわち, スii Q イjセᅫ

t

処され,

1

1

拝詩人を

ャセ ゥj ラップノレズの者1)'f11計 画 で ヨ ー ロ ッ パ 入 居 住 豆 な ど に 割 り 当 て ら れ て い た 北

に 多 く 居 住 し た . 後 来 集 団 の 人 口 規 模 は , 先 来 柴 田 に 比 べ て 小 さ く , 先 来 柴 田 の よ う にj広いこと

地 を 占 拠 し て 大 き な 集1:1:1地 区 を 形 成 す る ま で に は 至 ら な か っ た .

と こ ろ で3 シンガポーノレへの

N

:

人の移住をみてみると, だ い た い 次 の よ う な j品程を経てきたとし、え

よ う . 前 人 の 出 身 地 に は , 等 部 と よ ば れ る 移 民 ブ ロ ー カ ー が 存 在 し , 客 頭 はj夏 ['IEJや 拍 車

i

のよう

の移! 土lI港 に あ る 客 桟 ( 移 民 の た め の 旅 館 〉 と 述 絡 を と り な が ら , 移 民 を 集 め た . 度

f

l!Jに は , マ ニ ラ へ

の移民を] 長り

J

及う

r

f弓宋( ノレソン〉 とともに? シ ン ガ ポ ー ル へ の 移 住 者 の た め の 「 新 力11坂 〈 シ ンガポーノレ〉客桟l が あ っ た45)

東 南 ア ジ ア へ の 華 人 移 民 は , 白山こ苦力( シンガポーノレでは

r

ヲi セGュエ⦅}

と よ ば れ て い た .

1887

1c] ミ頃のシンガポールの華人移民の状況をみると, 度IIEJや 香 港 か ら

到 着 す る Aつの汽船には,

4

o

O

,--.._,

500

人 か ら

1

000

人 ば か り の 華 人 移 民 が 乗 っ て い た . そ の 中 に は , 自 分の定じよ、で来た者のほかに,十

n

r

え ら れ て 来 た 者 も 少 な く な か っ た46)

(15)

40 人 文 地JI[! 学研究班

単 身 の 労 働 者 用 の 市 舎 に 洛 ち 荒 川 、 た . そ の よ う な 市 舎 は7 持{ 子

f

iE

¥

あるし、はfl_lj'UH

i

I

1¥とよばれた. 同封[11人

ご と に ‘ そ の よ う な 猪 仔 館 が 設 け ら れ て い た . 数 十 人 が の 建 物 な 借 り て3 それを苅仔自'! 1 ' ; としてい

NA ェ UPセVPhセf TWI 新容は, 1者仔

u

i

i

i

に身を苦j'せて,同社![I 人の li)Jけをご!とめy 新しし、職業を捜したり, あ る い は マ ラ ヤ 各 地 や イ ン ド ネ シ ア な

ど に 再 移 住 し て い っ た . こ の よ う な 華 人 の 移 住 過 思 は ? シ ン ガ ポ ー ノ レ

集 団 が , お の ず と 特 定 の 地 区 に 集lド す る よ う な シ ス テ ム を 形 成 し て い た .

も, Q セャャャ|

l V- 2.

のアーノくン ヴ ィ レ ッ ジ

{セiQ イ

と し て の 役 割 を 来 た す . そして, [セN

と な り , す み わ け を 促 進 さ せ る48) ホ ス ト ン の We s t E n dの イ タ リ ア 人 地 区 の を l i ) f 究 し た Ga ns

は フ 移 民 集 団 が 彼 ら の 非 都 市 的 な や 文 化 を , とJ環境への. I@Jむを

ι7

人るJ

U

!

IK

(

こ士、j し て ? ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ ッ ジ ( ur ban vi l l age) と よ ん だ49) こ の こ と は,-Jli 人 プ 来 日iがJI 引jえする集阿川f=i:Jlli!ヌーに

も あ て は め る こ と が で き ょ う 主主y

一辺

QQ Q ャ {ャA ⦅jセセ 1.1 1

1J王者

で あ っ た .

そ れ ぞ れ 異 な っ た 出 身 地 域 の 文 化 を も っ 方 弓 集 団 はy [ャセ

で ? 方 言 集 団 ご と に ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ y ジ を 形 成 し て い っ た 。 ぞ れ ら は , 柴 田 に よ っ て に 明li京な

も の も あ れ ば7 そ う で な い も の も あ り , ま た , ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ y ジ の が も 異 な っ て し 、 た , Iリ1111;(な

ア ー パ ン - ヴ ィ レ y ジ を : ね す る 集 団 は , 、

1

, よ あっ十こ

T e l ok A y c r St r c et 周辺) i'i}ljハ│人はシンガ、ポーノレ川の南岸にそった地区? そして広東人は, S out h

Br i dgc Eoacl と N e'vv Br i dge E o a d に は さ ま れ た Kr et a A y e r ( 牛主

u

ヱ! ( )

h

'

l ] 辺がy それぞれの柴[ 、

1

1

ャセO NO IQQ Q N こオしにホj しy

人 の ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ γ ジはy 二[t 岸 地

IR

の Be a c h R o a d, Mi ddl c Ro a d )J[ j 辺地i丞にあった.

セ j: ) f河i庶 な ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ ッ ジ ; を 形 成 し な か っ た 入 , 興 { 七 人 , 人 は , 小 規 政

で あ る がp E oc hor R o a d と Que e n St r eet の 交 界 付 近 が ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ y ジ の 綜 杓

を 呈 し て い た .

ア ー パ ン ・ ヴ ィ レ ッ ジ に は ) ャゥャQセ eャ ェ QZQZ Q I 1'1]1性 会 111]

娯 楽 ・ 慈 善 団 体 な ど の 各

f

日 : 団 体 ? 故 郷 と の 送 金 フ 辺 信 を 行 う 信 用50)

f

j I J 述した猪{ 子館あるい

ゥエ↓ iセ iェFセョャ| エャェャ ャj ゥセQ ェNZ QQGイZ QQ ゥei

ら1 ;/ していた.

7

1

i

は,

1

9

1

1

0

年 七 五 の 討 を ?

極 め て 明Ili

fに

と! 帆の分布図と比ilI交すると,

してし、る士山三が; らることは?

の 系 統 別 に し7こもので; {うる. これ

i2

刀、あと,

し て い た こ と が ; ぷ め ら ; れ る . そ の 互 な ? グ じ の 会

t

iH

したノミターンを示している1: こだし,

1

:

七 岸 地 区 に も 人 の

である机佳人が,

し て い た こ と をf

(16)

第 二 次U1W大 戦 前 , シ ン ガ ポ ー ル に お け る 華 人 方 言 集 団 の 居 住 パ タ ー ン 4]

l

J

動 毒襲警参

第7函 ( , 人 日 !1 の 令 市 の 分 ;{fi ( 1940年頃) ( 1点1

i

!

i l )

資料;

!Y

J主主主ほかお)i; ( 1940) :

r

;'1;i)ll-j-

::r

-

J

Zセゥhh@ H報社J シンガポーノレ, UWXセUYPN@

こ の よ う に ? の ア ー ノ く ン - ヴ ィ レ ソ ジ は ) え に つ い る 奇 心 ¥ に と っ て ? シ

f レヅジi:,工 に よ り , さ ら に

文 化 的 な 中 心 地 で あ っ た . こ の よ う な ア ー パ ン - ヴ

の 移 民 を 吸 収 しy 地 域 的 集lキ! を助長させた.

ンガポーノレにjsけ♂る の 社 会I'i',),

I Y- 3

の 経 治 活 動

つぎに, ミ タ ー ン と の 日 し な が し よ う .

み、ると, あ る る 傾 向 が , セi

名あるいはよ也j戒 名 を 掲 げ て い な い

の ほ と ん ど す べ て7 あ る い は そ の 大 半 が ,

を 検 討 し よ う ‘

で あ っ

1

、こだけでなく? 経 済 力 の 点 、 に お い て も , 華 人 方 言 集 団 ! 大j

シンブfポ ー / し の を 事 実 上 独 占 し て い た の は ? マ ラ ッ カ か ら 移 っ て 米

た52)

である

お仕組人は,

; ちっfこ

た 主 人 で あ っ

7

、二.

i

三 は 貿 易 に と っ て 布 市 仏 :

L

:

1

Tel ok

St r eet

はy 当

あ っ た54) マレ一三1::Jff,のゴーム

J

h

u

に 而 し て い た が ア そ の

(17)

42

人 文 地 主11 学 研 究 官

が 多 か っ た . 華 人 が 設 立 し た 銀 行 の1:1=1には,

エ セ

UUI

t

n

i

建人はこ) 11: 1

1乱

マレー半島, ポノレネオp 宇Jャワなどの)iミ

i

辺 地 域 と の 貿 易 に 多 く 従 事 し ? 貿 易 , 船j(JI:,i

ーイゥセィ M

動の仁

i

コ枢の一実椛を握ってし、た.

[セO

ヴ ィ レ ソ ジ は , シ ン ガ ポ ー パ ノ の 経 済 活 肋 の1:十l心 地

であった.

開港以来, 福 建 人 に 次 ぐ 経 済 力 を 有 し て き た の は ) i'Wj )十│ 人であったo た と え ば 設 立 以 升 と の ド 志 向

( 1906

年主党立

. 1

9

1

4

年ζ人jjiJは1:1=1革 路 務 商 会 と 称 し た 〉 の

1

9

4

0

年 ま で の

22W

J

の正会長のう、む,

i恋 人 が

1

2

期 ) y刷、

l

人 が

8

却j ,広東人が

2

期 を 勤 め た

I

臼θ a chRO s

?

1

ま た 副 会 長 の 場 合 ? 福 建 ノ ¥ とj朝1 '1 、│ 人が,ともに

1

0

期を勤め, 広 東 人 が

2

; !

も11を 勤 め た56)

1

9

0

7

には,

i

朝什

i

人 に よ っ て 凶

t

省 通 銀 行 が 設 立 さ れ

た. {朝点、

i

人 も 福 建 人 と 同 柏

L

貿 易 に 多 く 従 事 し

た. ↓セ シ コシ

ョ ウ , 海 勾 , 野 菜 ー 果 勃 り , 米 な ど の シ ン ガ ポ

ー ル お よ び ) 苛 辺 の 東 南 ア ヅ ア 各 地 の 物 産 の11支引

にあった。 と く に , 沖Jj州 ノ ¥ が 事 入 社 会 の 最 大 方

あ る タ イ か ら の ゴ ミ の 輸 入 ・ 販 売 は ) ↓セ■ jャ@

州 人 の 専 門 で あ っ た 。 貨 物 船 で 運 ば れ て 来 た タ

イ産米は,to nぎたαn g と よ ば れ る は し け

み 換 え ら れ て , シ ン ガ ポ ー ル 川 │ の 河 岸 に あ る 米

倉 庫 に 納 め ら れ た . 第

8

( 豆! は,

1

9

4

0

年 頃 の 米 の

111命入販売業主

f

の 分 布 を 示 し た も の で あ る . 米 の

輸 入 販 売 業 者 の 大 部 分 は , シンガポール)11の 南

/l Mar ket

-小城

第8図 米の輸入販売業者の分布 (1940iドビ以 ) ( 1、点 1 業者)

資料: i ォセセェ HQ YTPIZ rJJliHI十三i三jj ; J l 洲1:::1手n

tl:,シンガポール, UYYセVPSN@

し て い る こ と が わ か る . こ の 地 区 は )

q

i

i)J)十

l

人 の ア ー パ ン , ヴ ィ レ y ジ で あ る . ま た )

i

側、ト│人

ヲ↓ セ

!im

などのさ当ミ鮮食料品の卸・小売においても活践したが, シ ン ガ ポ ー ル )11

v

こ) 1工い N e w

Ma r k e t 周 辺 は , 生 鮮 食 刑i見のi'J=i場 と な っ て い た

1

朝 州 人 が シ ン ガ ポ ー ル)11の く に 多 く 集11: 1し

ているのは, 彼ら が, シ ン ガ ポ ー ル の 水 速 を 利 用 し た も の が 多 い こ と と 関 連 が 泣 〉 と 』 とjよ! 、わ). L

る.

広 東 人 はp 人 口 規 模 に お い て 1朝片

i

人 と ほ と ん ど 同 じ か , そ れ よ り 大 き か っ た

( 1901

勾三

ι λ│

昨〉が,

経 済 力 の

iiii

で は3 福建人や市J)ー│ 、

i

人 と は3 大 き な 開 き が あ っ た . 広東人は, 飲 食 業p

篠 細 工 業 , 建 築 ・ 木 工 業 ,

ャi セ○Z

レ ン ガ 製 造 業 な ど に 多 く 従 事 し , 貿 易 や

金 融 な ど の

1

霊 済 の 中 胞 を に な う 分 野 で の 活 躍 は あ ま り み ら れ な か っ た 市建人や十│人十乙上仁べて,広

東 人 は 資 本 ブ コ が 相 対 的 に 劣 札

iOiOセj `A

イNHZQ

た. ただし, シンガポーノレ最初の華人系銀行で、あるJZ¥益 銀 行

( 1903

年設立,

1913

:1:1三閉鎖〉は- , 広 東 人

の 創 設 で あ っ た57)

⦅ェ ゥ

Zセihi

(18)

日二次

11

1

: 界大i波乱ij,シンガポ ールにおける

I

:

'j;r人ブ) f雪集団の居住ノミターン

43

そ の こ と と 関 係 が あ る と 忠 わ れ る .

つぎに,

{セ ョ

jji}南 人 の象 徴 的 な 職 業 は3 従 来 か ら コ ー ヒ 一 応

(IIIJ IIII)[:応 〉 の 経'I: J A'で あ う た . 市 人にとって, コーヒ -

jセe[

一 杯 の 安111Iiな コ ー ヒ ー を 飲 み な が ら ,労

働のj皮れをいやし,

Ai i [GHクN

Aiセ

コーヒ 一応 の 経 営 は , 労 働 量 の 割

に は 収 益 が 少 な か っ た . そ の た め ,

f))JU

l

の段階では, tjf 人 移

i

止にとって7 比 較 的 容 易 に 現 金 収 入 が 得

られる 職業と み な さ れ た が , しだい にあるおり支 の 資 金 の 蓄 積 が で き る と3 他 の 有 利 な 職 業 へ 移 ってい

った このよ う な 職 業 に 多 く の 梅 雨 人 が 従 事 し た のは, 湖 南 人 の シ ン ガ ポ ー ル へ の 来 港 が , 沼 建人,

i

i

:

i

!l)+[ 人,広 東 人 な ど よ り 迎 く7 ] j ⦅ip セi jG N

一 応 経 営 者 の 阿 茶 会 館 で あ る 趨 僑 功f1i1非公会は, 海 南 人 の 最 大 の 同 業 会 館 で あ り)

1934

年 に 北 岸 地 区 の

M

i ddl e Roa d

;こj互い

M

a l abar

St r eet

セ N S

・58)やノぐン製造業に多く従事 した. また, イギリ ス人の家庭ゃ: 軍隊における使用人 や コγ タには , 海

市 人 が 多 か っ た

コ ー ヒ 一 応 の 経 営 は . は じ め も っ ぱ ら 海 南 人 に よ っ て 行 わ れ た が , QYPPセZQ

のお以ト│人 の 進 出 が 著 し く な っ た59) QYTP Aエセ シンガボ ー ル に は

1) O

O

O

ilil

余 り の コ ー ヒ一応があったが, そ の フ ら の

500illf

余 り は 福 州│人 が 経 営 し , 海 南 人 が 経 営 す る コーヒー

Jb

300

軒 余 りであった60) 福山 .[U)JIlllす下院i公会は,

1920

年 に 南 岸 地 区 の

Tanj ong

Pagar Roa d

に 近 い

Tr as

St r eet

;こ設 立 さ れ た . 侃 川 人 は まf、こ)

f

1H

髪 業 に 多く 従事した.

1921

年 以 前 , シン ガ ポ ー ル の

1

1

1

1

髪 業 は 広 東 人

が も っ と も 多 か コ た が , そ の 後 興 化 人 の11H髪 業 従 事 者 が 増 加 し , そ し て

1930

年頃より3 迎髪- 業では福

片│人 がIf 5_ぽ す る よ う に な っ た . 品川

l

人がシンカゃポ ー/ レ へ 多 く 修 住 す る よ う に な っ た の は )

1930

年 代 に

な っ て か ら で あ る が6 l ) その

1

1

#

す で に , 先 米 の 方 言 集 団 は よ り 有 利 な i職 業 に 従 業 し て い た . 出 髪 業

は, llJ)

n

iiセiZ N

毛: 家人のl織業にも , いくつ か の 特 色 が み ら れ た . 質 応 (1:1叶詞誌で嘗応〉 の 経 営者 の 多 く は , 客 家 人

ゥtセセ N

1929

年の世界恐慌直前ーには, エ[ jMサ Rm ョ jセ Aゥゥ

あっ たが, そ の う ら の

22'

P

. rは大補地 方 出 身 者 の 経 営 で あった62) また ,j先方薬! 苫の経営でも,大楠出

H

の 在 家 人 がIi i J也 し て い た6り こ の ほ か , ヲエ M A QN ￟セェ .弁 説 士 ・ 政 治 家 な ど

QG QGP wAセ 客 家 人 の 進 出 が 目 立 っ た . こ の よ う な 専 門 的 職 業 は2 地 域 的 に 集 中

する 利 点 が 少 な い も の で あ り ,こ の こ と は7 iセi AA

フ.

興 化 人 人 の 職 業 の 特 色 は 顕 著 で ある . 人力

r

k

(

の車夫) iセ i@ ゥ{ゥ iセ Z . 自動車の修 迎 ・解 休 業 ,タイ ヤ 販 売 , パ ス タ ク シ ー 会 社 の 経 営 お よ び そ れ ら の 逆 転 手 な ど , 交 通 - 逆輸の院

liili

分 野 に 多 く 従 事 し

た64) 開港J ; ) 、米のシンカザポールの重要な交通手段は馬車であ った が .

1880

年 に

J

ニ海から人力車

( 1

東 洋

手 取 」 とよばれたが)

*

7

;

れま日本をi 'l? Jす〉がj革 入 さ れ る と , 急 述 に 普 及 し た65) 興化人と福治一人は , 他の多くの集団より遅れて,

1880

,1

1

ミ代以降シンカ二j子ーノレに 来 住 し た . そ の 時 ? SQ [ {セ jャ

(19)

人 文 地 理 学 研 究 44

iセ}@

そ の る者がj迫力11した. そ れ に 続 レ て シ ン ガ ポ ー ル で も 語 法 人 や 興 化 人 の1:1: : 1に自

jjセ

そ れ と 同 時 : に そ れ ら の や タ イ ヤ を 取 り 扱 う

た . そ し て , 植 民 地 政 府 に よ っ て 公 共 パ ス の 導 入 が さ れ る と , し3

人 興 化 人 と

じて,

の興{ じ人と

?

l

叫!; 人の

一、i、 イ,)

ターミナノレト:J, ノミス

しfこ66)

パ ス 変 通 へ も

セセ W N

とし

i一二甘え入の

三 江 人 の な か で も , 中 心 的 な 存 在 で あ っ た の は

i

二海地方出身者で、あったが,

司 行 の

i!"

L

)

十│

立た さ れjこ.

1939

年 に 上 海 西 式 女

J

J

l

i

開業会( 西式とは洋式の: 白

u

ては,

ji た(III)J北三千了の天

に67), ( ,]; 月南省の永興出身者ti, 北 岸 地 区 の J al an Sul t an

先駆的な同封

I

I

!

人 の 成 功 が あ っ た か ら で あ る . いずれも,

した68)

日 歯 科 医 業 lこ多く 1

"う

特定分野におけ' る

の経済活動には, 以 上 み て き た よ う に ,

とお: った 』ア

OセI@

の地j或i町 長 を このことは,

らjした

i

l

f

J

化の{ 頃

び す む

人を おいて? 本1 iJr -究で{ ヘJ,

ン の 一 端 を 明 ら か に す る こ と 東南アジアの都市の居住ノミタ

‘一

、々、

にお一 か ら 中心に形されてきたシンガポー/ レの者! rf1' i の耳叩

治¥ら そして,

1819

年 の

目した この点

て) V

、 も ,v

れている/ :] ;,

よび! 樹の分布を

;

m

L

の居住パターンを,

4ゾ ミ ー 一 一

った. ンが形成された背宗ーについて

そ の よ う な 居 住 パ タ 治斗こし,

¥

と,

セGェセ シ ia

福建人, シ ン ガ ォJールの

地1) 、

iセ:11

で3 相手主ノ¥し

L

QセM

人,福州ノ'¥,

t

ijJ化人,

↓セ N

さ れ

7

こ 地 区

ラ y フ ル ズ の

まずシンガ、ポール)11南岸の, 華 人 のj古住は,

j朝J)十

i

人 , 広 東 人 お よ び 客 家 人 の 会 館 や 制 が 形 成 さ れ た . そ こ に は , 福 建 人 ,

から女合まった

そ れ ら の 柴 田 の 会 館 の 分 布 泊 五 ら も そのことは,

を 大 き く 三 つ の 地 区 に す み わ け た は,

した泊三, 1

も っ と も 早 く 来 港 し た 客 家 人 も , 南 岸 地 区 の中では,

明 ら か でξある

られなかった

11Mな 集1:/=1

しfこ

など、がおもに 福山、! 人, D"Q化人,

よ り 遅 れ て 移 住 し て き た 海 南 人3

i

i

とく

セAセiェ ェ N

のは, イセiu

ミ タ ー

Zj i|セ

このように,

l ¥1i ddl e Roa d 一 帯 に 明 瞭 な 集 中 地 区 を 形 成 し た 南人は,

し い 対 照 を 示 し た シ ン ガ ポ ー ル)11を は さ み , 南 岸 地 区 と 北 岸 地 区

ンは,

思 考 式 や 生 活 保 式 な ど

華人方言集団日: 1] の方言の違いによるコミコニケーションの困難,

jゥ }イセ ャ サBMi 」

イ ギ リ ス 布 自 民 地 政 府 の 対 華 人 政 策 な ど は ,

えられと〉

あったと 次のよう

の居住パターンの形J 1 えには, その千三か,

iセN@

、 主

こ1

l

ノvこ土、'J

L-

>

社 会 経 済 的 条 件 に

い ち 早 く 住 み つ い た . してきた福建人,

iiliJlH

I

人 お よ び 広 東 人 の 多 数 方 言 集

i

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は?

Figure

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