性 の問題」 : 東アジアとヨーロッパ世界との間 における先住性と国家アイデンティティの比較人類 学について
著者 デチエンヌ マルセル, ローベル ロラン[翻訳]
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 11
ページ 143‑155
発行年 2014‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00022468
マルセル・デチエンヌ
(翻訳:ロラン・ローベル)
日本への招待が私に、人類学に対して偏見のない歴史学者と歴史を理解す る人類学者と対話する機会を与えてくれるのはこれが二回目である。
十年前、私は京都で、フランス風の国家アイデンティティのいくつかの次元 をギリシャ風の先住性の細長い糸に沿って分析しようとしていた。今日、新し いヨーロッパの規模と東アジアの拡大に応じて視界は無限に広くなった。世 界は急速に変化し、データもすっかり変わってしまった。地域への帰属の欲 望に苛まれているアイデンティティは、グローバル化の過程によってデジタ ル化の強い要請を受けている。
先住性に対しても同じである。2006 年、先行民族の権利が地球全体におい て認められたことによって先行性は、国家の枠を越えて世界化された。
アジアのフランス語圏大学が主催(在日フランス大使館の後援のもと)し たシンポジウム(2011 年 9 月 29 日~ 10 月 1 日)は、比較人類学に研究と実 験のための肥沃な土壌を与えている。1850 年と 1860 年の間の初めの歩み以来、
人類学者はアメリカ・インディアン、アフリカあるいはオセアニアの間にお ける最も古いもので、かつ最も新しく発見された諸文化を一視野に入れて眺め 渡すことを強く支持してきた。この新しい知識を定着させたアングロサクソ ン人は、特殊な文化と社会の民俗誌学から一般的問題を作成するために、比 較研究の実践を利用した。彼らは人文科学と人類史学者たちに、いかに単純 な社会であっても、その中においては考え、信じることが普通で平凡なこと とされている物事と緊密に結びついている食習慣や精神活動の重要性を発見 することと同様に、親子関係と結婚に関する規則との親近性にしろ、口頭で
東アジアとヨーロッパ世界との間における
先住性と国家アイデンティティの比較人類学について
伝えられている伝統の全体を伴う神話にしろ、物質的生活に不可欠な技術体 系にしろ、文化の構成要素について考え、分析することを可能にさせた。最 初の探険家の勇気は偉大なものだった。彼らは、《自分のところ》で理解する ように、最も近いものと比較することが《適切》であるかについても、何が
《比べられる》ものであるかについても考えていなかった。最も近いものとで あろうと、最も深いもの、もしくは、最も遠いものとであろうと、私はいつ も距離を選んだ。それも、可能なら最も大きな距離、《自分のところ》のスキャ ンダルに対し、比較し得ないものを突出させる距離を選んだ。ギリシア時代・
古典主義時代研究者として、西ヨーロッパにおいて私たちが「先住、国家、政 治あるいは普遍」と言いながらギリシア語とラテン語を話すということがよく わかる見地に立って、私は距離を置いた視線、あるいは「宗教」といった範 疇を問う欲求を養うよう仕向けられてきた。私が人類学者となるにつれ、私 は人類学的知恵の最も貴重なものというのは、不協和の表象、形態を眺め渡 すということなのだと知った。
社会・文化人類学の主要な目的の一つは、ある人の集団に、ほかの「人の集団」
の生き方と考え方の一部を意識させ、そうすることで、自分の文化、自分の生 まれ育った環境において自分が考え、生きていることの一面を垣間見させる ことである。自分たちにとって全てが自明の村に閉じこもっている人々にとっ て、隣人が直感的で自然なものに見える物事を体験することは、それが自分 に最も近い隣人であっても、ある特殊性から他の特殊性に移ったときに「常 識」が何を意味するのかについて考えさせることへ導く。
人類学のみが、自分を自身や自分の文化、ある環境や国家的伝統における 考え方と行動様式に対して、距離を置くことを可能にするのである。私たち の制度、信仰、習慣が唯一の可能なものであると信じないことこそが、欧州 世界に認められてから続く人類学の知の野望である。
哲学的思考も、「歴史学」も、19 世紀半ば以降、アメリカ合衆国とヨーロッ パにおいて実地された比較実験に対し直接的な貢献をしなかった。比較を敢 行すること、とりわけ実験し、組み立てることを敢行すること、それが私が 実地し活用しようとする比較主義である。そして、それは、比較しうるもの を構成することを追求せねばならない。
ヨーロッパのようにアングロサクソンではない社会において(しかもその 差は明確である)、「カードでアイデンティティを所有する」もしくは「保証さ れた国籍」というのは、今日の市民にとって根本的な自明なことの一つであ る。中国と日本ではそうはいかない。「国家性の製造」の問題は、比較主義者に、
比較しうるものを構成する術と私が呼ぶものを実行する機会を与えてくれる。
「アイデンティティの権利」を享受するようになってからというもの、あま りに不透明になったアイデンティティの受益者に飛びつくよりも、私は、私を 極東へと導いた比較主義の実地をいっそう明らかにしたいと思う。「歴史的比 較的心理学」のもと、イグナス・メイヤーソンとジャン=ピエール・ヴェル ナンの研究は 60・70 年代にかけて複数で、最も近いところへ戻るためにまず 遠くへ行くことで様々な問いを展開することを目的とした、歴史学者と人類 学者との間の協力の恩恵を示した。人文科学において、数年かけて歴史に関 心を持つ人類学者と民族学的方法に興味をそそられた歴史家と働くことは可 能であると確信し、私は 80 年代に、ある文化に特化しすぎることのない、ま た一見して一般的すぎることもない観念を選択することを望んだ。
アフリカ学専門家と古代ギリシア学専門家、ロマンス学専門家とインド学専 門家の間に一定数の問題を集めるのにふさわしい「創設」を取り上げて、私 たちは、なるほど豊かであるが、歴史比較学者を脅かすもの、つまりその永 遠の相棒である形態学と同様の分類学(違うタイプの創設者)によって浸食 されていたことが即座に明らかとなった土壌に入り込んだ。
生え抜きの人類学者の小さなグループに、二人の日本学者が合流してきた。
彼らの遠慮深く、物静かな沈黙は私の興味を引いた。私はある日、堅苦しさを ほぐすために、彼らが精通していると思われた文化において「創設する」とい うのはどういう意味を持つのかと聞いてみた。彼らは最も古い文献によると日 本では創設も創設者も存在しないものだから、申し訳ないという答えをした。
この文明では、「創設する」ことではなく、「復元する」ことを話し、考えてい たのだ。分類学の輪の中で堂々巡りをしていた人たちには喜ばしい混乱であっ た。彼らは、比較しえない場所を私たちに発見させてくれたのだ。創設とい う慣れ親しんだ範疇はひびが入り、亀裂が生まれた。極東の日本人は、創設 するという行為、民族学者がとかく言うように私たちが空間の中に住むこと、
あるいは領土とすることといった創設の「範疇」の中に私たちが本能的に見 出していることを自問するよう私たちを導いた。私たちには、一連の特徴を 発見することが残っていた。
私たちの「創設する」ということにはまず、より広い空間の中で切り取られ た制限を持った、一つの場所、あるいは名で記された一つの空間的断片の特異 性、いくつかの性格、特異な効果があったこと。次に、時間、年譜、語られる べき、書かれるべきと思われる物語には始まりがあったこと。原始的な、単 独の、認められ、突出していて、荘厳でさえある出来事のようなものとともに。
創設は、「歴史的な過程」の方向へ向かう用意のできた意味のある始まりを求 めるようだ、と少なくとも我々はそう信じるのを好む。ヨーロッパ人同士で「創 設する」ことを考えるとき、私たちは、ある行為、言動、儀式、慣例に言及 するのだが、これらは関係の起源にある個人、唯一のものと名付けられるそ の場所における根付きの起源でさえもある個人と切り離すことができないの である。
比べられないことの危険を冒しながら最も遠くへ行くことで、比較主義者は 思考し始め、他の人々にも役立つ問いを問うようになるのである。地勢、場所、
境界とはなにか。始めること、自分に起源を与えること、終末を考えることは、
どういう意味か。「歴史の中にいる」ということ、歴史性の中に自分を見出す こと、地域的な、あるいは普遍的な歴史を書き始めることは、どういう意味か。
各人が、好奇心と仲間の数に応じて自身見出すことのでき、十ほどの文化を 通して実験しながら導くことのできる問いである。こうして手短に説明してい る企ては、「国家アイデンティティと安定した歴史にどのように地歩を築くか」
ということを探究するまでに私を導いた。日本から来た「復元する」ことから、
外見上、遠くにあるが、2011・2012 年においてアジアのフランスの大学の代 表者たちを結集させるもの、今日問われるべき姿として先住性の問題と結び 付いた「国家アイデンティティの製造」の理解に最も近いと普遍的に言うこ とができるだろう。
人類学は歴史と同じように多少なりとも組織化された知識である「人文科 学」に属する。人類学の分野で比較対象を作りだす「術」と私が言うとき、私は、
非常に簡単な実践を通して獲得された巧みさを意味したかったのだ。それはい
かなる制度的な枠も必要としない。それは足かせにしかならない。比較研究 の小さな研究室は移動性が重要だ。それは端緒となった彼らの親近性が、各 人が力量のある分野において積極的にグループのメンバーの様々な知識とア プローチに対する好奇心を高める土台に広がる研究と意見交換を可能にする と確信している限られた数の人類学者と歴史家各人を喚起する。
歴史家は、人類学者と同様に、実験することについて一致している。すなわ ち、時間においても空間においても、既に行われた実験に基づいて実験を行わ うことを敢行しなければならない。「創設する」ことについて既に指摘したよ うに、比較研究のアトリエの問題提起は、直感、如才なさ、意味深い細部への 理解力、または形を取りそうな全てのものへの眼を光らせることを要求する。
「比較し得ないものを比較する」(2009 年)というエッセーの中で、私は自 分が概念的造幣と呼んだものを強調した。すなわち、概念を分解すること、観 念を範疇から外すことは、一連の可能性を発見し始めるということ、多様に 構成された配置の特異な要素を明確にすること、文化的可能性において誰も 知ることのない重要な選択や方向性を知るためにときに欠かすことのできな い思想の小さな仕掛けを分析することである。私は、「国家アイデンティティ、
一つの謎」(2010 年)と、安孫子信と法政大学の主導による「先住性と国家ア イデンティティ」というプロジェクトにおいての中で自分を鍛えたが、「先住 性」とその新しい顔ぶれを通して、「国家アイデンティティ、国家史」を中心 に比較的思考を深めることは妥当であると思う。
先住性の場合も、アイデンティティや普遍性の場合と同じだ。それぞれの 単語は歴史を持っていて、その歴史は語が一つの観念、考え、概念または範 疇になったことを知るのと同じくらい有意義である。我々がギリシア語を(そ れなりに)話し続けているヨーロッパにおいて、先住性の歴史は、オースト ラリアあるいは北アメリカの先住民とは違う響きを持っている。2000 年の『ロ ベール』(フランス語の歴史的辞書)は、先住という言葉がギリシア語由来で、
「16 世紀にフランス語」になり、1835 年になってようやく帰化させられたとい うことを我々に簡素に教える。おそらく、ヨーロッパの古典時代の専門家は アイスキュロスの発明した言葉だと付け加えることだろう。この悲劇詩人は、
数十、数百の新しい語を発明し、それなりに流布し、それは古代ギリシア人
が劇場で初めて聞く言葉が聴衆に理解されているのだろうかと自問しなけれ ばならないほどであった。
前 450 年に、それを聞き取ったアテネ人の耳には、オトクトン(先住)は、「ク トン」(土地、地面)と「オトス」(自己、自ずから、自分で)との合成語のよ うに聞こえていた。半円形劇場の中で自分のあまり快適でない席からその言 葉を隔離し分析したアテネ人は、「先住をどういう風に理解しますか」と彼に 尋ねただろう演劇批評家に、自分の感覚では「自身が土地に属する」人のこと、
それとも土地そのものから出て生まれた人のことの意味であると答えただろ う。更に、彼に教養があり、物語とイメージが好きな者であったなら、そこに、
イリアスが証明するように、大地が出産したからエレクテーと名づけられた アテネの初子への驚くべき暗示があるとを答えただろう。
20 年ほどの間に、「大地そのものから生まれた者」、悲劇の先住者は、アテ ネの先住性の原則になっていく。すなわち寛容さをもって全人類に、農業と お互いに調和的に暮らしていくことの「文明」、「民主主義」とよく名づけられ たもの、「都市内政治」の生活様式をもたらすために選ばれた、自分自身から 生まれ、その種の中では異色の一つの都市となる。
これはディスクールにおける先住性であって、一つの「神話イデオロギー」、
毎年「国家」の墓地で戦争の死者、「アテネのために死んだ者」、の棺の前で 述べられる「追悼演説」の中に開花する、神話学を異種交配させた小さなイ デオロギーというものである。全民衆と選び抜かれた外国人の前で厳かに述 べられた各演説は、全世界のための文明のモデル都市の偉大さを称揚してい た。これほどの栄誉を受けた演説者の誰一人として、他の都市のあちこちにい る、外国人、よそ者からなる野蛮人に関して、半分野生半分放浪の、全ての色、
半野生、半放浪の群れで形成されたいかがわしい世界について言及すること を忘れなかった。真正の先住者として、我々は、よそ者を、我々の近くに住 んでいるあの混血者を憎むと、演説者の一人で自称哲学者が、アテネ人の名 において言ってしまうことさえあった。最初の一つの比較的アプローチは二 つの指摘へ導く。その一世紀前、未来のアテネ人の土地となるアッティカは、
貧しい、恵まれない地域であって、しかも避難場所(ギリシアの意味で)、当 時の移民をもてなす土地でさえあった。六世紀半ば、ソロンは職を持っていて、
先住者のところに移住したがっていた者を引き寄せる法的措置をとった。もう 一つの指摘は、アテネの先住性は意味深い神話イデオロギーであっても、我々 が与えたがる意味とは違い、これは「国家的な」ものと、または「アイデンティ ティの受益者」とも全く関係のないものである。フランスでは、「純粋にアテ ネ的」の血統を持つにもかかわらず私はそれを思い出したのだが、「先住者」は、
19 世紀半ばになってようやく領地における滞在許可証を取得するようになる。
それは、警察関係者の関心も、ゲルマン族とフランク族またはおそらくローマ 人を熱心に研究していた歴史家の関心をも引かない。作家兼政治家であった モーリス・バレス(『土地と死者』[1899 年]の作者)が作り上げた「根こぎ にされた人」、根を下ろしているフランス人を不安にさせることはない。出番 ということで、「根を下ろす」、「根を張る」、「根を持つ」ことは、80 年代にか けて日本でも知られている極右派のル・ペンとともに神話イデオロギーの腐 植土に素早く生えていく「生粋のフランス人」の隣では青ざめた顔つきになっ てしまう。 国民戦線と、フランスの歴史家、特に「フランスのアイデンティティ」
(1986 年)というフェルナン・ブランデルの作品との結束を指摘した日本人は 少ないと思う。
今日、「国家の好み」というものが深く刻み込まれているフランス国家は、
ニューヨークの国際連合で権利が定められた「先住民」の法律上の存在を認め ることを拒絶している。先住民の爆発。彼らは 5 千以上の文化を持ち、77 の 国家の中に 3 億 7 千万人が存在する。他の人は、8 億人と述べている。「先住 民権宣言」は「先住性」のいかなる定義も含んでいないが、それもそのはずで、
各人のアイデンティティと同様に、それは製造中で、昨日身分証明書であった 各人のアイデンティティが今日はすでに「デジタル」化され、またチップになっ ているというのと同じである。比較研究者は、どのようにヨーロッパ地域にお いて真正の先住性が築き上げられるのかを見て、または観察するのをためらっ てはいけない。
1989 年にベルリンで壁が落ちる一方、他の場所では他の壁が築き上げられ た。こうして、イタリアでは、真正の先住的な存在が立ち現れる。その名は「パ ダニア」である。土地と水から生まれて、ポー(ポーという神)の泥土質の 土地から現れる。彼らの土地、習慣、先祖代々の風習を盗んだよそ者に侵入
されるものの、真正のパダンは、ローマと南の悪意に満ちた「北の連盟」によっ て活気づき、幸運にも彼らのうちの一番優れたものが撤退した高地によって守 られた尊厳を取り戻す。今日、移民の急激な広がり、イスラームの繰り返され る脅迫、ローマの占領者によって設立された中央集権的国家の繰り返す暴力 から逃れるためには、「文化アイデンティティと記憶」の省、―それは数年前 からなされていたが―を緊急に作ることが要される。それは敬意を表すべき 前衛である、というのも、パダン的アイデンティティの基準が定義されるの は、文化アイデンティティと記念省の中であるからである。しかもその基準 は、歴史家と物理人類学者の援助と資格をもって定義され、彼らは―その中 の一人を引用するが―純ケルト人の「文化遺産から離すことのできない遺伝 遺産」を認めさせるために呼ばれた者たちである。フランス人は頭を下げな ければならない。彼らは、大統領選挙の候補者が移住と国家アイデンティティ 省の成立という意図を告げるのに 2007 年を待たなければならなかった。しか し、その原住民が喜んでいうように「フランスの才能」が、技術的過程であ る身分識別の道を切り拓いたことを認めなければならないし、それは世界に、
間もなく世界全体に、各人が切望する安全をもたらすことになるだろう。
ヨーロッパから神の国に来たよそ者は自らを「エキゾティック」として―ギ リシャ語ではまだ、eksôtikos とは「外から来た」という意味である―紹介す ることもできるし、そのホストにどの道を通ってアイデンティティと身分識別 がフランス文化を特異化したかを分からせることもできる。私が来た国の人々 は、身分証明カードは、大きい国家が太古以来自由に使っているものである と思っている。隣の島の連合王国に一跳びするだけで、それがヘイビアス・コー パス(あるいはコーパス・クリスティ、だれぞ知る)のために存在しないこ とがわかる。19 世紀末から、アンシャンレジームの警察において構想が温め られ、国家の絶対的権力の時代からガルトンとベルティヨンの発明に関連し た最初の科学的調剤室の中まで続いている。国家的なるものは国家の局と機 関において、一連の実践とともに成立する、証書、ビザ、国内パスポートなど、
領事館が「総合警察省」を作り出すずっと前に。個人を識別するための正面の 確認において、ある特色―ある傷跡、ある跡―梅毒は決定的である。これらは、
独自のものではないが、特定の身体的個人と切り離せない印である。人類の
各代表から分離した印である指紋は、完全に新しい身分識別を可能にしてい く。国内安全の責任を持つ治安擁護者と警察の獲物となるのは、まず外国人、
遊牧民、季節労働者、危険と思われる疑わしい人物である。極東では、西洋 の観察者は南方の野蛮人と旧政体のフランスにとって、カトリックの意味で の宗教の 15 世紀の宗教的警察というが何を意したかを理解するためにおそら く若干苦労しているだろう。
従って、アイデンティティの問題は、絶えず国家の高等警察に帰属してき たのである。この問題は、チップセットの市場と、個人が活動するいたると ころを記載するために考えられたデジタル・アイデンティティによってグロー バルなものとなった。日本と現代中国的世界において「人文科学」の注意を引 く他の特異性は、1899 年のパリの万博で、フランスが「フランスの神髄」の 証拠として身分証明書のスーパー・ポリスマンをひけらかすとき、エルネスト・
ラヴィスの指導の下の公式の歴史家たちは広い建設現場に 20 巻ほどのフラン ス史を作るということだ。1870 年以降、二つの国は「全面的」戦争状態にあ るフランスとドイツであり、帝国主義傾向を持つ二つの国は、かわるがわる勝 者と敗者、侮辱される者と尊大な者となり、恨み深いこときわまりない。彼ら の交戦は、―20 世紀の 40 ~ 45 年まで続いていくが―ずっと前からフランク 族とゲルマン人と他のガリア人との間の合戦に通じた歴史家たちを動員する のである。地理学のそばで、歴史学も戦争に役立つ、と我々は学んだのである。
近い過去の最も劣った年代記作者さえも戦場としての歴史の争点、境界河の 一つのほとりから他のほとりへ、ヨーロッパの隅っこ、最も小さい地理的境界 にて、境界の河の岸からもう一方の岸へ、内奥の敵に対して自ら建て、与え る歴史の特性を意識している。歴史家の根気強い仕事のお陰で、国家の文化 が形を取り、大きくなり、随伴的に「ライヒ」―ゲルマン的な新しいローマ 帝国―たらんとするプロイセンと 19 世紀末の文明開化的で国家的なフランス 帝政にとって不可欠な要素となる。国家主義に関して客観的にあえて言うと、
フランスは、モーリス・バレスとともに熱意の乏しいレナンのずっと前の最前 線にあることを望んでいる。彼は、『土地と死者』の作者と役者であり、その 作品は、プロイセンに対して、「墓地と歴史の教育」にもとづく国家を対立さ せる唯一のものである「国家意識」を鍛えることを求める。バレスとフランス
祖国同盟にとって、最初の知識人になるよう促された歴史家たちは、カトリッ クの普遍的教会にささげられた墓地がユダヤ人、異端者とよそ者に禁止されて いる出身地、先祖の土地に人々の全体を歴史によって根付かせる義務がある。
一世紀もの間、ラヴィスの規律に鍛えられた国家歴史家は、「祖国のために死 んでいく」人々の教育者になる。フランス人向けの共和国の学校の、ライン川 の外のギムナジウムでは、小さな人間はそれぞれ、自分たちが選ばれた国民に 属し、その身体の血と肉が彼の祖先の遺産であること、従って、彼は生まれて より、死者、自分の死者に対して恩義があることを勉強していく。しかも、彼は、
(要求された場合のために)本当の「国家的感情」を証明するには、アルフォ ンス・デュプロンという十字軍と神聖の歴史家が 1972 年に書くように、自分 の祖国がそれ自身の歴史から生まれたということを確信しなければならない。
韓国、台湾、中国、日本の「もっと遠くと比較する」ための大胆と勇気を持つ人々 にとって、極右に近い右派を持っている現在のフランスは、比較人類学の歴 史家に、持続の中で既になされた実験が行動と反動として目の前で起きてい ることと隣接しているという異様な実験所を提供するのだ。
たとえば、ナショナリズムについて話すための国家の意味は最近の発明で あることを思い出すのは無駄ではないと思う。1905 年に、エミール・デュル ケームというフランスの社会学者は「真理のための同盟の自由会談」の中で、
「国家という概念(それについての自分の意見を聞かれて)は神秘的で難解な 観念であった」と述べている。ある対象について「国家的」であるということは、
その対象が「唯一であって、比較不可能である」という意味だと彼は付け加 えていた。ナショナリズムにおいて国家的の中心にある比較不可能なものを 指し示す方法であった。フランスでは、―上述の国家歴史家―ラヴィスの最 初の教科書は、1884 年のものである。1970 年までに何百万部も刷られた本は、
小学校(当時「公立小学校」)の生徒に、フランスの歴史が知っておくと役に 立つ唯一のもので、それが国家、祖国にとって一番有用な「フランス的真理」
を教える任務を引き受けていることを、またそれが、その本当の歴史が、そ の実質の実質であることを教える。2007 年 3 月に、フランス大統領選挙の一 人の候補者は、極右の支持を得たかったときに、選挙集会で次のように述べた、
「フランスの全てのアイデンティティを要求する」(それはブローデルの歩みを
たどってラスコーまで伸びていく)という言葉を背景に、「フランスは、肉体 的なものだ」と。しばらくして、何人かの歴史家の拍手の下で、その候補者 は彼の「国家アイデンティティ省」という計画を明らかにした。アイデンティ ティにまつわるフランス史を形容するために「国家小説」について話すより、
私は、神話と固定観念の混成である「神話イデオロギー」と言う方を好む。そ うすることで、我々も、昨日と今日、世界のあらゆるところで、神話を持って いることを、また我々の中に(頭の中に、耳の中に、そして目の前に)伝統 的に真実として認められる物語を持っていることをはっきりさせたいと思う。
それらは、現象の全体、「我々」、更に詳しく言えばその国家的独自性において 歴史的な「我々」の起源と現在への生成をグローバルに理解し把握するという 広く普及した欲求を満たすのに適した形態である。比較主義は、私たちが書く ときに何について語りたいと思っているかを知るというものであれ、世界中 の読者が神話を神話として見分けることができ、「記憶の場所」の企てを生み だし、フランス本土において、その責任者を「フランスの道徳的再武装の意思」
(下線は著者のもの)を公言するようそそのかしたものである「国家的独自性」
という巨大な自明性を問うときが訪れたとしても、ある批判精神を展開して いると私は思う。通暁した日本の学者あるいは日本人の歴史家は、フランス 本土に選ばれた言い方の適切な翻訳を、国学に容易に見つけることができる だろう。
歴史家と人類学者の間で厚かましくも比較することは、人文科学とおそらく 他の科学における比較学者の実践を比較的に分析することと同様に、私には 知的には有益であると思われる。こういう比較的アプローチは、私がしよう と試みたように、その比較不可能性に根付いた国家的歴史がその恩恵者から 排除者まで全てに、安定指向の歴史を課すことを見せるのに成功したときに、
政治の次元においても同様に一つの立場を要求する。安定させる、というのは 古風な礼儀作法の勢力圏の中に、安心感をもたらすということだけではない。
バーチャルでもありリアルでもある消費者の監視社会においても、カードと チップセットでの「安全性」の要求は、私たちの目の前で、ますます国家主 義的なアイデンティティの歴史、そして「国家的感情」にまで広がっていった。
ヨーロッパでは、ロシアからハンガリーまで、そしてフランスからギリシア
まで、国家の枕元に来た何人かの歴史家は、「アイデンティティの危機」を予 防・看病するために存在している。夕食前に、「比較は理性の最初の一歩である」
と説明するために雇われている「クルーズ船の民族学者」のために重大な産 業と「アイデンティティの外的なしるし」になった「遺産」に入ることを断っ たフランスの比較人類学者は何人いるだろうか。
<Résumé>
Métamorphoses de l'autochtonie au temps de l'Identité nationale
Marcel D
ETIENNE Le mot «autochtonie», qui signifie «naît sur cette terre», est l'un des concepts clés de la philosophie grecque avant d’être repris plus tard dans la langue française. Ce mot devint la base de l'établissement de« l’identité nationale» en occident. Ce concept de «l'autochtonie» peut-il également être utilisé pour réfléchir sur l'identité nationale au Japon? Dans cet article, nous mettrons en évidence que le concept d'autochtonie naît à Athènes dans la Grèce antique possède la caractéristique d’exhaler une idée de pureté de la citoyenneté en tant qu'idéologie et démontre un certain mépris à l’égard des étrangers de par leur hybridité. De plus, nous démontrerons que le concept de«l'autochtonie» continue d’exister pendant au travers des commémorations des victimes de guerre et l'histoire de son propre pays.