• 検索結果がありません。

中嶋嶺雄先生と私の研究の原点

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中嶋嶺雄先生と私の研究の原点"

Copied!
1
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中嶋嶺雄先生と私の研究の原点

渡邊 啓貴

中嶋嶺雄先生の訃報に接したのは海外出張の帰 国の途次であった。帰国便での私は眠ることもで きず、帰国後はぽっかりと心に穴が空いたまま、

疲れ果ててしまうまでの何日かを過ごした。私は 結局研究者を志すことになったが、ささやかなわ たしの人生の折節に先生の姿があった。

わたしが東外大に入学後最初の夏休みに、先生 の処女作の『現代中国論』を読んだときの読後感 は衝撃的であった。中国研究そのものはわたしの 専攻語とは直接関係がなかったし、その本の背景 にある当時の日本人知識人のイデオロギー論争は わたしの知的関心領域以上のものではなかったが、

毛沢東という人物の描写の仕方にわたしは大いに 心を打たれた。わたしが齧ってきたマルクス・レ ーニンの著作もいろんな箇所で引かれていたが、

それは筆者の主張を正当化するための小道具にし か過ぎないように見えた。わたしはこの著者の物 の見方に大いに啓発されたのである。人の考え方 や行動にあまり心酔することのないわたしの性格 からしてそれは自分でも心地よい喜びであった。

先生とは比較にはならないが、多少のイデオロギ ー的彷徨を経験したものにとっては共感するとこ ろも多かった。

結局私自身は研究者の道を歩むことになったが、

中嶋先生の影響を自分が強く受けていることを改 めて確認したのは、最初に出版した作品の最終校 正をしていたときであった。その本は1981年にフ ランスの大統領に就任したミッテランの人となり と、その内外政策と政治手法を論じたものであっ た。ミッテランという人物はわが国ではまだ誤解 している人が多いが、決して社会主義の硬骨漢で もなければド・ゴールのようにアメリカに抗して まで自分の世界ビジョンを貫こうとした人物でも なかった。1970年代初めに新生フランス社会党第 一書記(党代表)となったが、マルクス主義であ

れ、組合主義であれ、彼が社会主義運動に身を寄 せたことはなかった。中道派の人物であったし、

アルジェリア独立には断固として反対した人物で あった。外交面でも就任当初前任者ジスカール・

デスタン大統領以上に親米的な方針を表明した。

わたしが描こうとしたのはよりリアルなミッテ ラン像であり、フランス社会を理想化してみよう とする立場の意見が多かった当時の日本の知的状 況に対するアンチテーゼであった。我知らず、わ たしはそうした眼でフランス政治を分析していた のである。

十億の人間が生死の淵を彷徨った文化革命の時 代から月日が流れ、すでに国際政治は冷戦末期の ドラマ性を失いかけた 80年代であるから、中仏の 二人の指導者には共通点は少ない。しかし無意識 のうちに、わたしのフランス大統領の分析は、中 嶋先生の文化革命批判と毛沢東分析と重なってい た。私が執着した点は権力闘争の翳に秘められた 人間の真実に対する見方であった。

そのことを学んだのは中嶋先生の最初の著作か らであり、私の研究の原点にそれはしっかりと根 付いていた。

中嶋先生のご業績は周知のように多岐にわたる。

地域研究を学際的な新たな学問領域として東京外 国語大学の新機軸にされようとしたこともその先 見性の表れであった。新しい大学作り、英語教育 への積極的な発言などたくさんの人生を先生は生 きられた。

先生が亡くなられて、そうしたさまざまな思い 出の中で、改めてわたしの原点を思い起こす日々 である。

(わたなべ ひろたか・東京外国語大学大学院総合国際学研究院)

参照

関連したドキュメント

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

編﹁新しき命﹂の最後の一節である︒この作品は弥生子が次男︵茂吉

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

C :はい。榎本先生、てるちゃんって実践神学を教えていたんだけど、授

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場