北海道における同志社大学設立運動 : 「北海道毎 日新聞」を手がかりに
著者 小枝 弘和
雑誌名 新島研究
号 99
ページ 99‑123
発行年 2008‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011718
―『北海道毎日新聞』を手がかりに―
小 枝 弘 和
目次 はじめに
同志社大学設立運動における『北海道毎日新聞』の位置付け
『北海道毎日新聞』の特徴
① 寄付者報告
② 匿名の「寄書」
③ 慶應義塾の募金募集告知記事
④ 浦河公会からの寄附
『北海道毎日新聞』の募金活動の背景
―柳内義之進、馬場種太郎と新島襄―
おわりに
はじめに
これまで北海道と同志社をテーマにした研究では、W. S. クラーク、大島 正健、内村鑑三、新渡戸稲造などの札幌バンド関係者と新島襄をはじめとす る同志社関係社の交流や、留岡幸助、大塚素などの集治監教誨師となった同 志社関係者が取り上げられてきた。こうした先行研究が示すように、北海道 と同志社の関係は決して浅いものではない。
同志社大学設立運動に関する先行研究は数多くある。この運動は1884
(明治17)年10月、奈良県の土倉庄三郎が新島に法学部設立を条件として
5,000円を寄附の約束をしたことが起点となる。その後、新島は明治政府の 要人や全国の有力者及び有志を対象に募金運動を展開する。そして、1888
(明治21)年11月7日には「同志社大学設立の旨意」が新聞紙上に掲載され、
運動は全国的な広がりをみせる。こうした過程については既に明らかにさ れているが、これまで北海道における同志社大学設立運動について触れら れた研究はなかった。
2006(平成18)年、同志社大学設立運動について研究を進めている太田 雅夫氏(元桃山学院短期大学長)の資料調査依頼を受け、同志社社史資料 センターが管轄する新島遺品庫を調査中、同志社大学設立運動関係の記事 が掲載された『北海道毎日新聞』の切抜き(複写)を発見した。発見した 記事の内容は、新聞紙上に四度に亘って掲載された「同志社大学設立の旨 意」、「社告」、「寄書」、第1回から第26回までの寄附者報告(但し第6回は 欠)、浦河公会からの寄附者報告、新島名義の北海道毎日新聞社宛義捐金受 領の領収書である。これらの記事に見られる特徴は既に太田氏が報告して いる1)(太田「新島」)。
太田氏の報告より、『北海道毎日新聞』が同志社大学設立の募金活動を積極 的に展開していたことが窺われたため、さらに調査を進めるべく北海道大学 大学文書館の山本美穂子氏に協力を依頼した。山本氏は北海道大学附属図書 館が所蔵する『北海道毎日新聞』のマイクロフィルムから同志社大学設立の 募金活動に関する『北海道毎日新聞』記事のデジタル資料の情報を提供して くださった。提供された情報には、遺品庫収蔵の切り抜き記事以外の募金運 動関連記事が含まれており、さらに、山本氏はまだ幾分かの関連記事が存在 する可能性を示唆された。そこで、筆者は北海道大学にて『北海道毎日新聞』
の悉皆調査を行い、その結果、予想を越えた数の関連記事をさらに発見した。
そこで、本稿では収集した『北海道毎日新聞』に見られる特徴を整理し、
北海道における同志社大学設立の募金運動と、その背景について明らかにす る。なお、太田氏と山本氏並びに北海道大学大学文書館井上高聡氏には特別 のご教示を得ることができた。なかでも太田氏には本稿を通じて貴重なご指 摘をいただいた。ここに記して謝辞としたい。
なお、本論の引用箇所では崩し仮名は常用がなで、欠字及び不詳文字につ
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いては□と表記した。『新島襄全集』所収書簡は原文のまま引用し、補注も[
]のまま引用した。また、本文中で補足が必要な場合は( )で、引用文中
の場合は〔 〕で適宜補った。
同志社大学設立運動における『北海道毎日新聞』の位置付け
1884年10月に始まった同志社大学設立運動が、その過程で最も盛り上がり を見せるのは1888年11月7日に、「同志社大学設立の旨意」(以下、「旨意」
と略す)が全国の新聞紙上に公表された頃である。この「旨意」は新島が単 独で作成したものではなく、新島が、当時ジャーナリストとして名を馳せて いた徳富蘇峰(猪一郎)に材料を提供し、蘇峰が作成した。新島は、蘇峰の 協力などもあり、全国の新聞社並びに雑誌に「旨意」、「同志社大学義捐金募 集取扱報告」、「本日の付録」を掲載する(太田『新島』pp.81-88)。同志社大 学設立運動において、当時のメディアを利用した最初の全国的なアピールで あり、大規模な募金活動であった。
「旨意」の記載方法は、ほとんどの新聞紙や雑誌で付録として扱われた。
さらに、その付録の存在を知らせる「本日の付録」記事、そして、「義捐金 募集取扱広告」記事が同時に掲
載されるという形式が多く採ら れた(太田「新島」、太田『新島』
pp.81-86)。また、掲載の日時に ついては、ほとんどの掲載紙誌 が1888年11月7日に「旨意」を 掲載しているが、『東京経済雑誌』
(11月10日)、『六合雑誌』(11月 15日)、『国民之友』(11月16日)、
『 東 京 日 日 新 聞 』( 1 2 月 7 日 )、
『福岡日々新聞』(11月10〜15日)、
『 予 讃 新 報 』( 1 2 月 1 、 2 日 )、
『北海道毎日新聞』(12月1、2、
『北海道毎日新聞』社告
(第417号1888年12月1日付)
北海道大学附属図書館所蔵
4、5日)は、数日から1ヶ月 遅れての掲載となっている(太 田「新島」、太田『新島』pp.81- 86)。その理由は刊行日の違いな ど様々である。
このように新聞及び雑誌にお いて、同志社大学設立のための 募金運動が各掲載紙誌で展開さ れていくが、『北海道毎日新聞』
は他の掲載紙誌に見られない特 徴を持つ。それは、「義捐金募集 取扱広告」の掲載方法である。
多くの掲載紙誌においてこの記 事は広告欄に掲載されていた。これは広告料が発生することを意味する。し かし、『北海道毎日新聞』では、社告という形が採られた。これは、広告料 が発生しない、『北海道毎日新聞』が自発的に募金募集を実施したことを意 味する。さらに、他の掲載紙誌では「義捐金募集取扱広告」が単発で掲載さ れるに過ぎなかったが、『北海道毎日新聞』の場合、社告が1888年12月1日 から1889(明治22)年5月15日まで(当初の募金募集期間は1888年12月1日 から翌年4月30日までで、5月2日の社告にて5月15日まで延長が公表され た)の5ヶ月半で80回掲載された2)。(資料①参照)だいたい一週間に4回 掲載された計算になる。これは他の掲載紙誌には見られない特徴であって、
『北海道毎日新聞』が積極的に募金活動に関わったことを示す。
また、『北海道毎日新聞』は札幌で初めての日刊紙であり、北海道では2 番目の日刊紙であった(北海道新聞社p.8)。また、小樽で刊行されていた
『北門新報』が1891(明治24)年札幌に本拠地を移転するまで競合する新聞 はなかった(北海道新聞社pp.7-32)。こうした札幌のメディア事情や社告の 回数から考えれば、『北海道毎日新聞』の告知は、札幌及びその近郊におけ る募金活動の周知に十分な効果があったと考えられる。
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『北海道毎日新聞』社告
(第538号1889年5月2日付)
北海道大学附属図書館所蔵
『北海道毎日新聞』の体裁
(第417号1888年12月1日付)
北海道大学附属図書館所蔵
『北海道毎日新聞』の特徴
①寄附者報告
ここで、『北海道毎日新聞』に見られる同志社大学設立募金運動に関係す る記事をみていく。まず、「旨意」であるが、4回連続連載された(『毎日新 聞』第417号〜第420号)。1日の空きは月曜が休刊日であったことによる。
「旨意」は、その内容にこそ差異はないが、見出しが「主意」または「志意」
と誤記が見られる。
次に、募金募集の広告であるが、社告という体裁がとられたこと、及びそ の回数は既に述べた。次に、その社告の内容を見ると、「金圓御寄送の向は 本社の紙上に其金高並に姓名を記載し受領書を差し出す」とある。事実、寄 附をした人物は、特に断りがないかぎり、実名で金額とともに新聞紙上で公 表された。第1回寄附者報告から数えて合計26回、さらに募金終了後、日高 郡浦河から寄せられた寄附者報告をあわせると27回、金額にして総額284円 60銭である。この金額は他の掲載紙誌と比べても上位に入る(太田『新島』
pp.93-95)。
また26回の寄附者報告を見ていくと、いくつか興味深いことが見えてく る。まず、札幌農学校第1期生、いわゆる札幌バンドの中心人物が寄附者 に名前を連ねていることである。(資料③参照)大島正健・千代(伊藤一 隆実妹)夫妻、伊藤一隆・とみ夫妻、柳本通義・なお夫妻、内田瀞、佐藤 昌介ら(『毎日新聞』第456号、第458号、第530号、第531号、第532号、第 550号)であるが、佐藤昌介を除いた7人は札幌基督教会3)の教会員で、
同教会設立の中心メンバーである。また、同志社英学校邦語神学科を1885 年に卒業し、当時同教会の伝道師となっていた馬場種太郎の名もある。し かし、札幌農学校第2期生の名前が寄附者報告にない。例えば太田(新渡 戸)稲造はドイツのボン大学に、内村鑑三はアメリカのハートフォード神 学校に、宮部金吾はハーヴァード大学にそれぞれ留学中であったため、同 志社の募金活動を知ることは難しかったと考えられるが、札幌基督教会の
「アカシヤの教会」と呼ばれた教会堂を設計した藤田九三郎など、教会の 中心人物で募金募集を知り得たと考えられる人物の名前が挙がっていな い。また、第一期生の中でもW. S. クラークが作成した「イエスを信じる
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資料①『北海道毎日新聞』掲載の同志社大学設立運動関係記事一覧
号数 日付 曜日「旨意」 社告の 義捐金報告の 募金金額 備考 の掲載 掲載 掲載
第417号 1888(明治21)年
土 ○ ○
12月1日
第418号 12月2日 日 ○ ○ 「旨意」の部分を「主意」と記載
第419号 12月4日 火 ○ ○
第420号 12月5日 水 ○ 「旨意」の部分を「志意」と記載
第421号 12月6日 木 ○ 第422号 12月7日 金 ○ 第423号 12月8日 土 ○ 第424号 12月9日 日 ○
第425号 12月11日 火 ○ 第1回報告 5円70銭 第426号 12月12日 水 ○
第427号 12月13日 木 ○
第428号 12月14日 金 ○ 寄書掲載
第430号 12月16日 日 ○ 第432号 12月19日 水 ○ 第433号 12月20日 木 ○ 第435号 12月22日 土 ○ 第436号 12月23日 日 ○ 第437号 12月25日 火 ○ 第439号 12月27日 木 ○ 第441号 12月29日 土 ○ 第445号 1889(明治22)年
水 ○
1月9日
第446号 1月10日 木 ○ 第447号 1月11日 金 ○ 第450号 1月15日 火 ○ 第452号 1月17日 木 ○
第454号 1月19日 土 ○ 第2回報告 2円40銭 第455号 1月20日 日 ○
第456号 1月22日 火 第3回報告 2円60銭 第458号 1月24日 木 第4回報告 2円10銭 第459号 1月25日 金 ○
第460号 1月26日 土 第5回報告 1円90銭 第461号 1月27日 日 ○
第462号 1月29日 火 ○
第464号 2月1日 金 ○ 第6回報告 17円30銭
第467号 2月5日 火 ○
第468号 2月6日 水 ○
第469号 2月7日 木 ○
第475号 2月15日 金 ○ 第476号 2月16日 土 ○ 第478号 2月19日 火 ○ 第479号 2月20日 水 ○
第487号 3月1日 金 ○
第488号 3月2日 土 ○
第489号 3月3日 日 ○
第490号 3月5日 火 ○
第491号 3月6日 水 ○
第492号 3月7日 木 ○
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第493号 3月8日 金 ○
第494号 3月9日 土 ○
第495号 3月10日 日 ○ 第496号 3月12日 火 ○
第497号 3月13日 水 第7回報告 22円85銭 第499号 3月15日 金 ○
第500号 3月16日 土 ○ 第501号 3月17日 日 ○ 第502号 3月19日 火 ○ 第503号 3月20日 水 ○
第504号 3月22日 金 ○ 「慶応義塾学費募集事務所」
記事掲載 第505号 3月23日 土 ○
第508号 3月27日 水 第8回報告 12円60銭 第509号 3月28日 木 ○
第510号 3月29日 金 ○ 第511号 3月30日 土 ○
第513号 4月2日 火 ○
第516号 4月6日 土 ○
第518号 4月9日 火 ○
第519号 4月10日 水 第9回報告 3円40銭
第520号 4月11日 木 ○ 第10回報告 3円90銭 新しい義捐金募集の広告掲載 第521号 4月12日 金 ○ 第11回報告 3円60銭
第522号 4月13日 土 ○ 第526号 4月18日 木 ○ 第527号 4月19日 金 ○
第528号 4月20日 土 ○ 第12回報告 16円 第529号 4月21日 日 ○ 第13回報告 10円80銭 第530号 4月23日 火 ○ 第14回報告 8円50銭 第531号 4月24日 水 ○ 第15回報告 21円30銭 第532号 4月25日 木 第16回報告 18円45銭 第533号 4月26日 金 ○ 第17回報告 8円40銭 第534号 4月27日 土 ○
第535号 4月28日 日 ○ 第18回報告 6円70銭 第536号 4月30日 火 ○ 第19回報告 11円50銭 第537号 5月1日 水 第20回報告 17円90銭
義捐金募集延長の社告、募金延長 第538号 5月2日 木 ○ 第21回報告 14円80銭 の広告、「同志社義捐金募集期日
の延期」記事を掲載
第540号 5月4日 土 第22回報告 3円
第541号 5月5日 日 ○
第542号 5月7日 火 ○
第543号 5月8日 水 ○
第544号 5月9日 木 第23回報告 1円30銭 第545号 5月10日 金 第24回報告 1円50銭 第546号 5月11日 土 ○
第547号 5月12日 日 ○ 第548号 5月14日 火 ○
第549号 5月15日 水 第25回報告 2円80銭
第550号 5月16日 木 第26回報告 5円
第639号 1889年8月29日 木 浦河の有志
53円25銭 の募金報告
募金報告募金人数札幌幌内市来知小樽郁春別古平岩見沢濱益室蘭忍路釧路静内樺戸住所 在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者在住者無記入 第1回5(2)3(2)---2 第2回6(1)3(1)--1----11---- 第3回6(6)6(6)--- 第4回4(4)4(4)--- 第5回5(2)5(2)--- 第6回1111--- 第7回48(2)2(2)17621--1---1--- 第8回41---12--- 第9回9(1)--9(1)--- 第10回10--10--- 第11回9-36--- 第12回11(9)11(9)--- 第13回9(5)9(5)--- 第14回5(5)5(5)--- 第15回16(5)5(5)11--- 第16回19(7)9(7)10--- 第17回17(1)----17(1)--- 第18回51--4--- 第19回13(11)13(11)--- 第20回7(4)7(4)--- 第21回24(5)17(5)----7--- 第22回33--- 第23回21---1-- 第24回10--10--- 第25回4(1)1(1)--2---1- 第26回11--- 合計263(71)118(69)4141(1)2817(1)722111112
資料②寄附者分布表 ()内は札幌基督教会員の数。 札幌基督教信徒青年会員と名乗る募金者の場合、名簿に名前が掲載されていないときは札幌基督教会員としてカウントせず。
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資料③ 寄付者氏名一覧
報告回 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回
第7回
第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回
第16回
第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回
浦河から の寄附
寄付者氏名
川上 八三郎、山形屋 敬助、三島 常盤、H E . T M.
平塚 盛頼、角谷 與三七、圓山 方齋、馬場 延一、中川 徳彌、渡邊 吉太郎 栃内 寿久子、松浦 たか子、三嶋 まさ子、橘 いつ子、平野 とみ子、大島 千代子 伊藤 とみ子、柳本 なを子、鷲見 なか子、森山 きぬ子
馬場 ひで子、野原 さい子、齋藤 みつゑ、三吉 ひで子、平野 まち
管 かね子、近藤 ふみ子、伊野田 つき子、安部 良夫、坂本 哲夫、阪本 千代子、柳内 よし子、今 信 子、榊原 三郎、野中 郁子、清水 はじめ
長澤 重孝、那須 次郎、御子柴 峰子、佐藤 辰五郎、永井 孫太郎、菅原 岩造、 木 豊次郎、山本 介 六郎、鈴木 勝次郎、小林 仙之助、原田 文次郎、山本 ちつ、山本 ひろ、小笠原 彌吉、森 たけ、安田 榮三郎、山田 吉兵衛、白鳥 祥平、吉田 虎吉、西川貞次郎小樽分店、莊子 斌、田中 常次、工藤 竜太郎、
武市 行、藤野 太郎、玉田 さよ、三嵐 太郎、三嵐 篤行、平尾 信次、間野 よね、間野 義三郎、
間野 義男、菅原 蓮三郎、菅原、かつ江、笹岡 常雄、内藤 國三郎、植松田 津営、小山田 しづ、安保 敬造、眠利生、竹下 六衛、坂口 信吉、門奈 直英、山下生、蒔苗 八百太郎、西村 賢八、長谷川 一空子、宇野 保太郎、本間 豊七、本間 美代
鳥取 半次郎、石川 五平、渡邊 俊蔵、大給 近芯、眞弓 梓、大給 松雄、小杉 滋、川崎貞次、入口 万太郎 渡邊 貞次郎、植村 光正、山川 篤太郎、藤掛 貞平、阿邊 傳吉、小山 義久、小野田 平太郎、多賀谷 正二郎、嶋村 忠政、岡崎寿
長谷川 正子、渡邊 久馬太、渡邊 儀助、戸田 調吾、尾野田 深造、基督信徒、關 重兵衛、關 金太郎、
山下 久三郎
内藤 一雄、岩井 信六、鷲見 謹吾、小野 正衛、北島 慶次郎、三島 常盤、水野 重利、丹羽 氏彦、丹 羽 とく、古田 喜代治、長谷川 源吾
大塚 保太郎、森山 傳三、森山 とよ、鴨川 済、 森山 源吾、森山 きぬ、嶋田 操、 堤 禮吉、新井 二郎 齋藤 亮、大石 源次郎、小平 小雪、西川 かめ子、大島 正健
和田 健三、小寺 甲子二、藤村 信吉、伊藤 一隆、神 雄之助、森山 敬一、渡邊 さと、星原 直久、富 田 寛、沼倉 隼見、關木 富太郎、中山 靜馬、渡邊 時二郎、大崎 之、藤井 よね、小松 みつ 内田 靜、安井 鈴、美濃部 綿太郎、菊池 とき、栗林 林平、田嶋 槌、海沼 忠七、奥野 喜平治、正 木 進之介、葛西 伊六郎、岩田 庄太郎、下篠 照雄、木村 東吾、名護屋 熊雄、 柳本 通義、菅谷 隆 英、富永 宗太郎、横山 元平、横山 しげ
小林 忠之助、阿部 留吉、大間 庄造、角舘 モヨ、木村 東太郎、小林治郎吉、田口 留之助、城戸 重作、
及川 徳太郎、吉田 鉄藏、臼井 甚太郎、中川 伊助、宮澤 彌三郎、金盛 隆資、白戸 太郎、蜂谷 孝 兵衛、阿部 靖三
加藤 庄藏、海部 四郎、山田 源次郎、山田 れん、西川 萬里
藤田 環、馬場 種太郎、近藤 なか、椿 明良、内田 榮、鈴木 幾太郎、藤田 環、小花和 太郎、川上 謙三郎、出田新、柳井 道次郎、大脇 正諄、野田 健彦
永田 武光、加藤 造、加藤 あき、星野 範三郎、吉村 淺五郎、橘 仁、三上 人
佐々木 才吉、叶 常作、菊池 未五郎、一戸 熊太郎、山田 徳太郎、須江 雄太郎、高杉 音太郎、櫻永 左次平、S. A. C. B. m.、星 彌平、原田 直、鶴巻 恒太、S. H.、m. T.、R. e.、T. R.、松浦信元、K. H.、 S.
K.、 T. Y.、 U. O.、 T. M.、武田 一尋、淺田 靖 中川 實、中川 渉、中川 三郎
小片 日藏、西田 李一郎
阿部 林之助、淺野 金太郎、今井生、成宮 淺治、岡 吉弘、大槻 菊太郎、中村 吉次郎、山岸 貞次、村 田 茂次、武藤生
黒川 道徳、黒澤 休四郎、基督信徒、山口 信義 佐藤 昌介
田中 助、和久山 磐尾、澤 茂吉、中澤 儀平、湯澤 誠明、平野 彌一、塚本 新吉、倉賀野 、森田 久 造、關谷 寅藏、一柳 平太郎、原 直五郎、寺田 三郎、氏家 文太郎、山谷 覚治郎、西田 玄二郎、小林 正太郎、塚本 ミチ子、小田 定五郎、向井 祐藏、櫻井 賢三、小田 竜太郎、堺 忠助、間山 久太郎、小林 藤兵衛、西口 吉左衛門、日野 香橘、大久保 確太郎、内藤 雄平、佐藤 平治郎、西村 次兵衛、田中 忠治 郎、田中 仙次郎、奥田 惣兵衛、高田 一造、原 寅之助、小林 壽作、柏谷 惣太郎、西田 左一郎、宇野 慶次郎、木村 義太郎、京谷 忠右衛門、村田 諫三郎、友田 太郎、坂木 直治、古森 和三二、東松 丈助、
山谷 覚治郎、畑中 專太郎、宮村 虎治郎、嶋 元助、照井 裕助、古田 五、後藤 嘉太郎、川越 九八太郎、
萩田 良太郎、梅田 才助、小林 利七、大賀 八百造、近藤 浪治、吉田 重右衛門、小林 喜三郎、占部 重 藏、佐藤 金治、北村 精一郎、大澤 順、音瀬 忠右衛門、高木 新三郎、梶山 慶時、服部 直一 寄付者氏名は掲載された表記のまま記入した。
者の聖約」に最初に署名した黒岩四方之進(当時新冠御料農場勤務)の名 前も見られない。
次に見られる特徴は、多くの札幌基督教会員が寄附を寄せていることで ある。(資料②参照)寄附者総数261人中、72名、約27%が教会員で、さら に札幌在住者に限定すると、116人中70人、約60%が教会員である4)。これ らの数字は現存する資料で確実に裏づけが出来る人物だけに限定したもの であり、札幌基督教会の礼拝や日曜学校に参加していた人物、そして、寄 附者報告にイニシャルや仮名で掲載された人物の氏名が明らかになれば、
札幌基督教会関係者の寄附者数はさらに増加すると考えられる。ちなみに、
寄附者で募金運動終了後に札幌基督教会員になる者が7名(札幌1名、幌 内5名、郁(幾)春別
い く し ゅ ん べ つ
1人)いる5)。
また、寄附者の出身地をみると、幌内から41人、市来知
い ち き し り
(現・三笠)から 41名、郁春別から17名、岩見沢から2名と、空知郡から合計101名が寄附を 寄せている。これは寄附者総数の約39%に相当する。こうした地域の人々が 多くの寄附を寄せたその背景には札幌基督教会の伝道活動の成果が窺われ る。この教会は、早くから空知郡で伝道活動を展開しており、1886(明治19)
年には市来知に同じ札幌基督教会系の講義所を設けた(大濱p.210)。また翌 年7月28日には新島襄が妻の八重と共にこの講義所と空知集治監を訪れ、集 治監では2度の伝道講話をしている(大濱p.224)。ちなみに、この講義所に おける中心メンバーに、寄附者報告にも名を連ねる空知集治監看守長原田正 之助がいる。1889年のことであるが、原田は新島に次のようなことを書簡で 伝えている(『全集』第9巻下巻p.866)。
陳者此度貴社大学設立相成候ニ就而ハ、小子も心丈ヶ之義務をも相尽 し度奉存候得共、何分無産薄給之もの、これを如何とも致しかたく、仍而 小子伝来之刀剱壱双これを奉献仕度奉存候間、御叱留被成下度祈上候、抑 小子幼より学びし所乃もの、只一ツノ撃剱術これあり候のみ、されは小子 仍而以て宝とし財産とする所のもの、またこ乃刀剱有之候乃み、しかれと も幸ひにして今日にてハ神乃御恵みニより霊乃たから乃一層に貴重なる事 を感じ候ニ付、セメテ我心遣乃代表として右衣食ニ難代刀剱呈上仕度奉存
候、只其価値乃如何は二段として小子志嚮之如何を御察納被成下候ハヽ小 子之喜不過之奉存候
原田は寄附の代わりに家宝の刀を差し出した。また馬場種太郎も原田の刀 について新島に書簡で次のように伝えている(『全集』第9巻 上巻p.520)。
同地〔空知〕監獄署ノ看守長ナル原田正之助ト申ハ義捐ノ事ヲ望ミ居 候得共、月々受ル給俸ノ外身ニ是ト申可キ蓄モナク、妻ノ西京看病婦学校
〔京都看病婦学校〕ヘ行キタルヘ学資ヲ送ル等ニテ其意ヲ果ス能ハサレト モ、家ニ伝ル名刀一振有之ニ付是ヲ売テ大学資金ノ一部ニ加ヘ度と申出候、
其刀ト申ハ天正年間ノ頃ニヤ、伊賀入道ヨリ加藤清正ニ献シタル「サ文字」
ノ太刀ニテ、清正ハ又其刀ニ添フ可キ脇差ヲハ洞狸ト申鍛工ニ造ラセタル 由ニテ、現ニ両刀ニ其銘有之候、今日ハ刀剱類ノ珍重サレヌ世ノ中ナレハ、
価モ少クトハ存候ヘ共、五十円位ハ必ス価スルト当人ハ申居候、併シ避地 ニテ、今此刀ヲ売払フ可キ手段モ無之、只同氏カ其微志サヘ先生ヘ通シナ ハ価格抔ハ問不申と申候、何レニテカ売却致し可然哉、又ハ両刀ヲ其マヽ 差出可申哉、御伺申上候、素ヨリ当地ニテ集ルハ僅少ノ金額ニテ、所謂九 牛ノ一毛ニハ有之候得共、北海ノ端ニモ亦同志社ヲ思フモノヽ在ル事ヲ現 シ度と存居候
この書簡には、当時、原田の妻ワカが同志社の京都看病婦学校(第3期生 1890(明治23)年6月卒業、「京都看病婦學校卒業生名簿」佐伯)に通って いたこと、そのため、財政的な余裕がないことから、彼の家宝の刀を同志社 に寄附したという、刀を寄附するに至った経緯が書かれている。そして、こ の刀は1889(明治22)年5月3日に原田から刀を託された市来知の小山義久 の手で新島に手渡された6)。ちなみに『新島襄全集』第8巻では、原田が寄 贈した刀は現在も同志社にあると記している(『全集』第8巻p.516)が、ま だ特定には至っていない。
最後の寄附者報告の特徴は、第1期生、第2期生を除く札幌農学校出身の 寄附者である。同校の卒業者名簿で確認する限り、小寺甲子二(第5期生)、
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和田健三(第6期生)、藤村信吉(第7期生)、川上(廣瀬)八三郎(第7期 生)、出田新(第11期生)川上謙三郎(第12期生)、大脇正諄(第14期生)、 鶴巻恒太(第15期生)ら8名の名前が確認できる(『北海道』pp.425-429)。 小寺、和田、藤村、川上八三郎は新島の書簡にも名前が出てくる人物であり
(『全集』第3巻p.718)、出田、川上謙三郎、大脇、鶴巻は、当時札幌農学校 の本科及び予科の学生であった。彼らに共通することは、全員がキリスト教 徒であり、川上謙三郎を除く7人は札幌基督教会員である。なかでも川上八 三郎は第1回寄附金報告の最初に名前が掲載されている人物(『毎日新聞』
第425号)で、募金募集が始まる10ヶ月前、新島に、「御滞礼之際拝見致候同 志社創立始末書一部乍御手数御恵与被下度願望仕候、右は小子卒業論文之材 料ニ相用ひ度所存ニ御座候」(『全集』第9巻上巻p.354)と手紙を送り、卒 業論文の資料として「同志社英学校設立始末」7)を所望している。このよう に新島と川上は前年の新島の札幌滞在以来、既知の間柄であった。また、川 上は1889年4月22日同志社礼拝堂で開催されたアメリカ駐日公使ハバードと 控訴院長児島惟謙の講演会で礼拝堂2階が崩落する事故(『全集』第5巻
p.459)があった時にも、友人からこれを聞きつけ、「同志社学校之生徒御災
難ニ相逢ひ候事ニ御座候ハヽ教父教母之御重任ニ当られ候事なれハ御愁傷之 程奉遥察候」(『全集』第9巻 下巻p.904)と見舞いの手紙を送っている。
寄附者報告から読み取れることは、寄附者に多くの札幌基督教会員及びそ の関係者が名を連ねていること、そして、中には大島、原田、川上のように、
新島と既に面識のある人物の存在である。これは1887年夏の新島の札幌滞在 が大きく関係している。この時の札幌滞在については彼が記した「出遊記」
(『全集』第5巻pp.295-299)に詳しい。新島は7月7日から9月初旬までの 札幌滞在中、大島や小寺に会い、佐藤の案内で札幌農学校を見学した。また、
7月10日には札幌基督教会を訪れ、大島の説教を聴き、新島も奨励を行った。
新島が川上をはじめ札幌基督教会員と会ったのはこの訪問のときであろう。
それから新島は、同月28日に空知郡に足を運び、札幌基督教会系の講義所や 集治監で原田をはじめとする市来知のクリスチャンと交流した。この札幌滞 在の新島の目的は保養であり、また、この滞在は中彼は1864年に箱館から密 出国した際に手引きをしてくれた福士成豊と再会し、一方、アメリカの養父
A. ハーディーの訃報に接した印象深い地である。こうした事実は既に知ら れているが、同時に、新島の札幌及びその近郊における活動は、北海道にお ける同志社大学設立運動の布石ともなった。
②匿名の「寄書」
他に、他の募金募集活動では見られない特徴に「寄書」がある。これを書 いた人物は「H.E.」「T.M.」で、彼らは第1回寄附者報告において連名で 二十銭を寄附している(『毎日新聞』第425号)。この「寄書」は第1回の寄 附者報告の3日後に『北海道毎日新聞』に掲載されたもので、その内容は開 明的な見識を持った人物が書いたと考えられる。以下原文のまま全文を挙げ る(『毎日新聞』第428号)。
寄 書(説の可否眞僞は編者其責に任せず)
我北海道の諸士は何故に同志社大學設立の擧を翼賛せざる乎
H.M. T.M.
我ヶ最も親愛なる北海道の諸士よ諸士は何か故に現世紀の一大美擧な る同志社大學の擧を翼賛せざる乎將た翼賛するの志あるか若し其志あらば 何ぞ早く義捐金を出し以て其意を表し同大學設立發起者の志望をして完か らしめざるや義捐金の募集あるは啻に諸士の賛成者たらん事を希ふのみに あらず多少の金額を出し之れを補助せられん事を乞ふにあり
北海道の諸士よ諸士は已に同大學設立の發起者新嶋氏の廣告せられら る主意を得知せられしなるべし今我輩は此美擧あるに逢ひ黙々に附すべか らざるものあるなり宜しく多少の金を出し氏の志を達せしむる事を勤めさ るべ〔か〕らず氏の志を助くるは氏一箇人を益するにあらずして我全國人 民を益するなり氏一箇人の幸福にあらずして我全國人民の幸福なり同志社 一校の 育を盛ならしむるにあらずして我全國人民の 育を盛大ならしめ 文明の度を進むる一大手段なり苟も我國民たる者は大に翼賛すべきの擧に あらずや若し之れを翼賛せざるものあらば我輩は之を指して無識の評を下 さざるを得ず如何となれば 育の重要なるを知らざればなり然れ共我輩は
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信ず我北海道の諸氏は決して斯る人士にあらざるを
曾て磐梯山潰裂の事〔1888年7月15日磐梯山噴火により発生した岩屑流 による明治時代以降最大の火山災害〕あるや我北海道の諸氏にして義捐金 を投じ其被害者を救ひ美濃水害の變〔1888年8月9月と大雨によって引き 起こされた河川の氾濫による水害〕あるや復た義捐金を出して其被害者を 助けたり嗟呼誰か人としてこの不幸を憐むの心なからんや我北海道諸士の 此心ある更に喋々を要せず前二回の災害に際し被害者を救助するの手段を 施すに吝ならさりし以て見るべきなり今や我日本全國の情况を考ふるに 育昔からず徳義の勢力盛ならず文明は徒に皮相の觀あるは過ぎず然り而し て何か故に 育普及せず何が故に徳義の勢力盛ならず何が故に文明は皮相 の擧たるに過ぎざるやを尋ぬるに其原因素より一にして足らざる可きも眼 を放て少しく我國 育社會の現状を觀察し來れば其高等の學術を講するも のは唯一帝國大學のみなるによるも亦た一大原因なりと云はざるを得ざる なり聞く北米合衆國の如きは其数校を除くの外は二三百の大學何れも人民 有志者の寄附金より組織せる者にあらざるはなしと彼國人士が 育を重ん ずるの情眞に感ずべきの至りにあらすや若し我日本國民にして一たび感慨 の茲に及ぶ者あらば力を盡し財を抛ち 育の進歩を謀らざるべけんや然れ 共之れを謀るの方法手段に至りては實に得易からず今や幸に新島氏の此擧 あり我國民 育の普及を望むもの徳義の勢力盛なりしことを望むもの文明 の進歩を望むもの悉く其希望を達し得可き最良の手段を得たるものといふ べし我北海道の諸氏よ諸士の何ぞ小爭に敏にし□〔て〕大事に無頓着なる や磐梯山の災害は之れ岩代國一小部分の災害なり美濃の水害は之れ美濃國 一小部分の水害なり諸氏何ぞ一小部分の災害を救ふに汲々として全部全体 の進歩を謀るに吝なるや
論者或は曰く我北海道は新開國にして其人民は重に他國の移住者なり 其目的とする處専ら實業を起すにあり且土地未た開けず此處の沼澤彼處の 深林之れを埋め之を開き所謂勞働の時代に逢遇し居りて 育の普及を謀る に暇あらざれば大學設立の擧たる殊に本道以□〔外〕の事に関するものな れば之を賛助するもの少きも怪むに足らざるなりと成程本道は今尚勞働の 時代にして 育なとに意を専にする餘暇なきやの知らす故に我輩は決して
本道の諸氏に向て大學を設立せよと云ふにあらず唯此擧を企つる人を助け よと云ふにあり本道今は勞働の時代なりとするも数十年の後文學進歩の時 運に至り 育の必要を感じ大學設立を望むの期に至るは諸士亦た之を想像 する所なるべし如此 育は早晩一國の重なる現象となるは古今各國概ね然 らざるなし他なし 育は人民の智を開き國の文明を進め其安全を維持する の要具なればなり同志社大學の設立ある亦此必要によりて起りしや疑を容 れざる所なり後來我北海道人民が大學を要するの時に當りて亦他に其力を 仰かざるを得ざるともあるべし既に之を知らば己れの欲する所宜しく人に 施すべきなり
北海道の諸士よ諸士の中には豪農あらん豪商あらん財産家あらん宜し く多少の金を投じて同志社大學設立の美擧を翼賛せられよ若し余にして 諸士の如き財産を持たしめむ奮て同大學設立の擧を翼賛せんのみ然れど も悲哉余輩の赤貧なる漸く嚢中を探りて金二十銭を得たるのみなるを以 て聊か微意の有る所を表するに止まるのみ北海道の諸氏よ何ぞ奮つて斯 の一大美擧を賛成せさる我輩は同大學設立に關係あるものにあらされと も此擧を翼賛せんとするの念禁し難く溢れて一言を吐露し諸士に告くる に至れり
「寄書」の内容は同志社大学設立運動を美挙として捉え、道民の見識に 訴えて寄附を促すものであるが、キリスト教主義の学校を設立するという 考え方を全面的に押し出したものではない。「寄書」は読者に教育を国家 の進歩の証明と捉え、教育の普及、文明の進歩と徳義の世間への浸透を実 現する新島の大学設立運動の意義を説くことに重点を置き、解釈によって はこの背景にキリスト教があると察することも出来るが、基本的には同志 社大学の設立が日本の教育全体の進歩、文明の進歩を助長、促進させると いう論調である。それは、「寄書」にもあるように、当時の北海道は「新 開國」、「労働の時代」であった。そのため、「寄書」の論調は、道民の事 情を考慮して、「後來我北海道人民が大學を要するの時に當りて亦他に其 力を仰かざるを得ざるともあるべし既に之を知らば己れの欲する所宜しく 人に施すべきなり」という、後の北海道の教育界の状況を想定している。
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「寄書」にあるように、「 育は人民の智を開き國の文明を進め其安全を維 持するの要具なればなり」と、まずは教育に対する認識が大きな問題だっ たと考えられる。
実際のところ、「寄書」が募金にすぐさま大きな効果を齎したとは考えら れない。「寄書」が掲載されて以降、2回目の寄附者報告が新聞紙上に掲載 されるのは1889年1月19日(『毎日新聞』第454号)であり、1ヶ月半が経て いる。また、義捐金の募集が集中する時期は1889年4月末、つまり最初の募 金期間が終わる直前である。また、「寄書」という体裁は『北海道毎日新聞』
では特別な形式ではなく、投稿記事や記載記事への読者からの意見がある場 合に「寄書」として掲載されることがある8)。
しかし、今回取り上げた「寄書」に対する読 者の意見が掲載された形跡はない。「寄書」が どれほどの反響を得たのか窺い知ることは難 しいが、同志社大学設立運動に対する北海道 の反応を窺い知ることができる資料である。
③慶應義塾の募金募集告知記事
同志社大学設立運動が展開されている時期 に、慶應義塾もまた大学設立の募金募集を行 っていたことはよく知られている。慶応義塾 は『北海道毎日新聞』に募金募集記事の掲載 を依頼し、次のような記事が掲載された(『毎 日新聞』第504号)。
慶應義塾學資募集事務所
今度慶應義塾ハ其組織を革め大學の地位 に進むるか爲め廣く學資金募集する由此程 の本紙上にも記載せしか學資募集の事務ハ 當分の内東京々橋區南鍋町二丁目交詢社に 於て取扱ふ筈なりと云へり
慶應義塾の募金募集告知記事
『北海道毎日新聞』第504号 1889年3月22日付 北海道大学附属図書館所蔵
この記事は彙報欄に掲載されている。一方、同日の紙面には同志社の社告 が掲載されている(『毎日新聞』第504号)。記事の扱いから同志社と慶應義 塾に対する『北海道毎日新聞』の態度の違いが窺えよう。また、『北海道毎 日新聞』では同志社が募金募集期間延長の際には、社告に加えて彙報欄でも 告知をしている(『毎日新聞』第538号)。この後、同志社の社告は募金期間 終了まで27回掲載されたが、慶應義塾の広告は、同志社の募金活動期間内に 限れば1度も掲載されていない。『北海道毎日新聞』は同志社により好意的 であった。
④浦河公会からの寄附
これまで見てきたように、『北海道毎日新聞』が展開する募金活動では、
札幌とその近郊からの寄附が中心であったが、札幌から南東へ約180キロ離 れた日高郡からも大口の寄附が寄せられた。募金活動が終了してから3ヶ月 後、1889年8月29日発行の紙面には日高地方の浦河から浦河公会員湯澤誠明 を代表として総勢80名、総額53円25銭の寄附が報告されている(『毎日新聞』
第639号)。この寄附額は今回の北海道における募金総額の約18%に及ぶ。
寄附者を見ていくと(資料③参照)、まず札幌基督教会員で、伊藤一隆の 実弟である平野彌一がいる9)。彌一は当時赤心社に在籍しており、浦河の開 拓事業に関わっていたと考えられる。そして、この赤心社の中心人物も寄附 者に名を連ねている。学農社出身で浦河公会牧師の田中助10)、そして、第2 代赤心社社長となる澤茂吉、和久山磐尾、湯澤誠明、中澤儀平、倉賀野 な どである。彼らは何れも浦河公会員であり(山下pp.186-188、『毎日新聞』
第639号)、赤心社は浦河公会と密接な関係を持っていた。
ここで登場する赤心社とは、1880(明治13)年8月に鈴木清と加藤清徳が 中心となり設立した、北海道開拓事業を行う団体である11)(山下p.39)。鈴木 清が初代社長を、加藤清徳が副社長を、湯澤誠明と倉賀野 が幹事を、和久 山磐尾が庶務を務めた(山下p.39)。赤心社の目的は、「未開の地を拓きて産 を殖する事」、「宗教の自由を重んずる事」、「徳義を修養し、人物を陶冶し、
一旦緩急あれば北門の鎖鑰
さやく
を以て任ずる事」(山下p.39)で、その開拓地と して選出されたのが浦河であった。
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実は初代社長の鈴木は新島とは既知の間である。新島と鈴木の間で数多く の書簡が交わされていることからもわかる(『全集』第3巻、第4巻、第9 巻上下巻参照)。鈴木は摂津第一公会(現・神戸教会)創立にかかわり、J.
D. デイヴィスから神学を学び、1874(明治7)年4月19日摂津第一公会創 立時にD. C. グリーンから受洗した、同志社の関係者とも非常に近い存在で もある(太田『新島』pp.94-95)。鈴木は今回の浦河公会からの寄附の件につ いても「同志社大学ニ付而ハ非常ニ賛成を表し度希望有之候らへ共、何分新 移民ニして財産なき而已ならず、生活之度甚た低き為め甚遺憾ニ念ひ居候由、
公会員之中二三之発起者ありて集金ニ奔走致し居候、伝承するニ義金五拾円 余ハ集りたれ共其人々ハ尚ホ多くを望み居候由ニ候」(『全集』第9巻 下巻 p.1009)と、前もって新島に知らせている。
鈴木と新島の関係以外にも、浦河公会と同志社の間には関係がある。1888 年2月、澤茂吉は新島に宛てて次のような礼状を送っている(『全集』第9 巻 上巻p.351)。
陳者昨年来一方ナラザル御尽力被下候聖書売兼伝道者ノ義ハ数日前東 京築地英国聖書会社ヨリ先生之言ニ従ヒ服部〔直一〕氏ヲ以テ伝道傍聖書 販売ノ為月俸金四円五拾銭雑費トシテ金壱円五拾銭合金六円宛月々払ベシ トノ旨来状、当地ニ於テハ年末ヨリ日々相待居候事柄ニテ一同喜悦仕候、
附テハ本月ヨリ服部氏ヲ伝道傍聖書販売ニ従事相托シ候ハヽ近々当地之景 況ハ可申上候得共不取敢御礼迄如此御坐候
この書簡より、新島が前年から浦河公会に属する聖書売捌人の人選と斡 旋を請け負っていたこと、そして、服部直一がその仕事に就いたことがわ かる(太田『新島』p.95)。ちなみに、服部も寄附者の一人である。また、
服部の後、仕事を受け継いだ塚本新吉は松山高吉の実妹の夫で、塚本もま た寄附者に名を連ねている(太田『新島』p.95)。さらに、1886年6月には 澤茂吉、湯澤誠明、和久山磐尾、中澤儀平ら13名が中心となり、O. H. ギュ ーリック夫妻と原田助(同志社英学校1884年卒業、1907年第7代同志社社 長、のち1917年総長と改称)を迎えて教会設立式と田中助の按手礼式が挙
行された(山下p.43)。教会設立式の司会は原田が、田中の按手礼式は塚本 が司会を務め、原田が按手祈祷を行った(山下pp.44-45)。ちなみに、この 式典には来賓として黒岩四方之進が出席している(山下p.45)。また、募金 募集が終了した後であるが、1891(明治24)年D. W. ラーネッドが浦河公会 を訪れている(山下p.29)。浦河は同志社や札幌基督教会とは浅からぬ縁を 持つ土地であった。
『北海道毎日新聞』の募金活動の背景
―柳内義之進、馬場種太郎と新島襄―
これまで述べてきたように、『北海道毎日新聞』が展開した募金活動の背 景には、札幌バンドをはじめとする北海道の人々と、新島をはじめとする同 志社の人々との直接的間接的な関係があった。既に募金活動を展開する以前 に、下地が北海道に出来ていたとことが窺える。
では、なぜ『北海道毎日新聞』がこれほど積極的に募金活動を展開してき たのか。これについては、馬場種太郎が『北海道毎日新聞』に「旨意」が掲 載される10日前の1888年11月21日、新島に宛てて次のようなことを報告して いる(『全集』第9巻 上巻pp.519-520)。
先般来御地ノ新聞紙ヲ以テ大学資金募集主意書御撤布相成リ、当道ノ 如キ避遠ノ地ニ住スル人ニも其義挙ヲ賛スル色相現レ、殊ニ教会員中ニハ 奮テレプタ二ツニテモ投セン〔マルコによる福音書12章42節〕事ヲ望ミ候 んモノ有之候、誠ニ我同志社ノ名ノ今日ノ如ク日本国民ノ尊敬愛慕セラ ルヽニ至リシ事感謝之不堪候、不肖種太郎如キ、数ナラヌモノ亦先生ノ薫 育ヲ忝シ、瓦石ニ均キ身ヲ以テ伝道ニ従事スルノ光栄ヲ得ル事ヲ思ヒ、如 何ニカシテ我再生ノ家、第二ノ郷里タル同志社ノ為メ尽シ度と存居候、此 度ノ義捐金募集ノ一条ニ付テモ、彼是へ話合ヒ居候処、北海道毎日新聞社 ヨリモ進テ此義挙ヲ賛助スル旨申参リタルニヨリ、早速電報ニテ御問合仕 候次第ニ御座候、同新聞社ノ重ナル記者ハ農学校出身ノ人、札幌教会員ニ 有之、喜テ周旋仕居候
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馬場の書簡によれば、札幌基督教会員中に既に賛同者が居たこと、馬場が 母校同志社及び恩師新島の力になろうと動いたこと、そして、北海道毎日新 聞社から馬場に同志社大学設立の義捐金募集に協力する旨を伝えてきたこと がわかる。さらに馬場は、北海道毎日新聞社に札幌基督教会員で札幌農学校 出身者の優秀な記者がいることを新島に伝えている。馬場はこの人物の名前 を明記していないが、これらの条件に当てはまる人物が一人いる。柳内義之 進である。柳内は札幌農学校第6期生(『北海道』p.426)であり、1882(明 治15)年の札幌基督教会設立時に加わった初期からの教会員(1891年退会)
であり、1888年9月6日に北海道毎日新聞社に入社している(『北大』p.624)。 彼の入社は北海道毎日新聞社が募金活動を行う約2ヶ月前のことである。
松沢弘陽氏によれば、柳内は札幌農学校在学時から政治や社会問題への関心 が強く、時には学外へ出て政談演説を開いたり、卒業の年には「政事改良論」
「比較法学概論」と題する演説をしている。また、柳内が同級生3人で行った 英語卒業演説の題は「北海道問題」で、当時問題となっていた外国人の内地雑 居に反対する内容であったようである。これを分載しようとした『北海道毎日 新聞』の前身である『北海新聞』は、北海道庁から発行停止処分を受ける。こ こに、『北海道毎日新聞』と柳内との接点ができ、これがジャーナリズムを志 向する柳内が同新聞社に入社する契機の一つであったと考えられる12)。
実は新島が馬場の書簡を受け取る前から、既に新島と柳内とは既知の間であ った。1887年8月22日、新島は石狩郡当別村付近を騎馬通行しているとき、馬 が足を痛め、足止めされてしまう。この時新島と馬の世話をした人物が、当時 同村にいた柳内であった。新島はこの2日後、柳内に「一昨日ハ突然参上、御 懇切之御案内を蒙り候のみならす、馬之足痛ニより貴家ニ一泊を相願候事ニ立 至り御好意之程千万奉謝候、又馬迄も種々御厄介等願何とも恐縮之至奉存候、
其節相願置候通右馬は駅伝ニ御托し置被下、一両日中足痛相愈候ハヽ、駅伝よ り送り呉候様御取計被下度奉願候」(『全集』第3巻pp.476-477)とお礼の書簡 を送った。新島の手紙からは、柳内が当別村付近を案内してくれたこと、新島 が1泊させてもらったこと、そして、足を痛めた馬の対処を柳内に頼んだこと などがわかる。この時、柳内から一助を得た新島は、後に北海道における同志 社大学設立運動においても柳内に大いなる助けを得ることになる。
さて、新島は先ほどの馬場の書簡を受けて、大島正健に次のような書簡を 送った(『全集』第3巻p.701)。
已ニ御存之通去月七日之新紙上ニ附録となして同志社大学設立之旨趣 書差出し天下[ニ]賛成を仰くニ立至り候間、御地而於而は願クハ兄弟方 ニモ御手ヲ分チ其々之人ニ賛成之義御奨励被下候様奉仰候、何卒官吏方ヘ ハ和田〔健三〕君ナドより宜しく御申込ミ御勧被下様奉願上候、未タ日モ 浅ク候得共、已ニ九州之ハテより北海道ニ至リ[ル]迄私設大学之事ハ具 眼者之一問題トハ相成申候
先日馬場氏より電報を以て御地之兄弟等之中已ニ寄附ニ御尽力被下候 よし、又殊[ニ]新聞社ニも募集負担致し呉候様通知有之候間直ニ御依頼 申上オキ候、何卒御地之事ハ充分御尽力被下度、又藤村〔信吉〕君も御帰 礼之上ハ共ニ御尽力被下候様仕度候
新島は、大島に、札幌基督教会員を中心とする札幌の人々への募金募集の 周知及び協力、官吏方面へ面識のある和田健三への協力要請、そして藤村信 吉の帰札時には馬場と共に募金募集活動に協力してくれるように求めること を依頼した。新島が北海道の同志社大学設立運動に本格的に言及するのはこ れが最初である。また、新島はこの書簡の2週間後、馬場に宛てて「御地ニ も大学賛成家続々相起り、北海毎日新聞社ト云イ、御地之兄弟ト云イ、市来 知之原田君ト云ヒ、奮テ此挙ヲ御助ケ被成候事ハ小生輩ニ取り此上もなる大 幸ト奉存候、何卒御序ニ新聞社なり、御地之兄弟ナリ、原田君なり、厚く御 好意を謝し置き被下度候」(『全集』第3巻p.719)と、自分に代わって運動 に協力してくる諸氏に礼を伝えるように依頼した。
おわりに
本稿では『北海道毎日新聞』に掲載された同志社大学設立運動関係記事の 分析を通じて見出された特徴から北海道における同志社大学運動に関して述 べてきた。既に見てきたように、『北海道毎日新聞』は同志社に対して非常
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に好意的であり、新聞紙上で展開された募金活動は非常に積極的であった。
この募金活動はとりわけ札幌基督教会員を中心としたキリスト教徒によって 支えられ、募金活動成功の背景に北海道毎日新聞社の柳内、札幌基督教会の 馬場、そして新島の3者の信頼関係が既に築かれていたことは既に指摘した とおりである。彼らの関係が成立するのは1887年に新島が保養のために訪問 した際である。この関係に関しては別稿に譲る。
注
1)この発表内容は2007年3月に太田雅夫著『新島襄とその周辺』(青山社 2007年)に収録 された。
2)『北海道毎日新聞』(以下全て同新聞は北海道大学付属図書館所蔵)の調査の範囲は第 417号(1888年12月1日発行)〜第549号(1889年5月15日発行)まで。掲載日について は資料①参照。
3)札幌独立キリスト教会史によると、1882年9月ごろから札幌基督教会という名称が用い られていた。(1900年に札幌独立キリスト教会へと改称)そのため、本報告では札幌基 督教会と表記する。(「独立教会史年表」『札幌』下巻)
4)教会籍の有無に関しては「明治廿三年調札幌基督教会々員姓名録」(北海道大学附属図 書館北方資料室所蔵)と「札幌独立キリスト教会会員名簿(明治15年12月〜昭和57年12 月)」(『札幌』下巻所収)を参照し、確定できる人物だけを対象とした。ただし、藤田 環及び三島常盤は2度寄附を寄せているので、ここでは重複することを避けた。
5)「札幌独立キリスト教会会員名簿」によると、札幌の西川萬里、幌内の菅原蓮三郎、菅 原かつ江、間野よね、三嵐清太郎、三嵐篤行、郁春別の小林忠之助は募金活動終了以後 に札幌基督教会員となる。(『北海道毎日新聞』第497号、第533号、第535号)
6)「同志社大学設立募金日誌」には「北海道空知郡市来知ノ小山義久氏(信者岡山人)、 同地學校原田正之助氏ノ委託ヲ受ケ、氏ノ兼而大学ニ寄付スヘシト約セシ大小一腰ヲ持 参セリ、大刀ハサ文字、小刀ハ同田貫ノ作、伊賀入道定村ノ加藤清正ニ献セシモノノ由」
とある。(『全集』第5巻p.464)
7)1887年の段階で川上が言う「同志社創立始末書」に相当するものは「同志社英学校設立
始末」であると考えられる。ただし、この題名で作成された冊子が3種類(新島遺品庫 目録番号上0017、上0018、上0019)あるため現段階での特定は難しい。
8)一例を挙げると、論説で取り上げられた隅田生「北海道移住者に關する質問に答ふ」
(『毎日新聞』第425号)という記事に対して、寄書として「敢て隅田論者の反駁に答ふ」
(『毎日新聞』第426号)が掲載されている。
9)伊藤一隆(幼名平野徳松)はもともと平野家の人間で、伊藤家が本家であった。父平野 彌十郎は、祖父飯田利兵衛が彌十郎に伊藤姓を継がせたいという宿志を実現するために 一隆に伊藤姓を名乗らせた。一隆が札幌農学校3年生のとき、平野一家は北海道にして
いる。(江原pp.30-31、38-40)ちなみに、同志社社史資料センターが所蔵する「新島家
旧蔵写真」には明治26年10月と裏面に書かれた平野彌十郎の写真(写真ID:NY00079)が ある。
10)田中は学農社在学時には同志社英学校第1期生小崎弘道から受洗し、上州安中では海老 名弾正に傾倒するなど、浦河に赴任するまでに既に同志社関係者との接触があった。
(『大辞典』p.847)
11)津田仙、学農社、赤心社、浦河公会のキリスト教をまとめたものとして、鈴木直子「北 海道のキリスト教―赤心社をめぐる人々を中心に」(『歴史研究』第14号 日本聖公会歴史 研究会 2005年6月)がある。また、同志社と学農社については本井康博「同志社と学農 社」(『キリスト教社会問題研究』第49号 同志社大学人文科学研究所 2000年)に詳しい。
12)柳内義之進の略歴については松沢弘陽「札幌農学校と明治社会主義」(『北大』pp.623- 624)参照。
引用文献リスト
・ 江原小彌太著『伊藤一隆』木人社 1930年
・ 松沢弘陽「札幌農学校と明治社会主義」『北大百年史』通説 北海道大学 1982年
・『日本キリスト教歴史大辞典』教文館 1988年
・ 新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第3巻 同朋舎 1987年
・ 新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第5巻 同朋舎 1984年
・ 新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第8巻 同朋舎 1992年
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・ 新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第9巻 上巻 同朋舎 1994年
・ 新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第9巻 下巻 同朋舎 1994年
・ 大濱徹也著『明治キリスト教会史の研究』吉川弘文館 1979年
・ 太田雅夫著『新島襄とその周辺』青山社 2007年
・ 太田雅夫「新島襄の同志社大学設立運動」発表レジュメ及び資料編 第一部門研究(新島 研究)2006年8月5日発表
・『北海道毎日新聞』第417号(1888年12月1日発行)〜第549号(1889年5月15日発行)
・ 北海道新聞社編『北海道新聞十年史』北海道新聞 1952年
・『北海道帝国大学一覧 昭和十二年』1937年
・ 佐伯理一郎著『京都看病婦學校五十年史』内外出版 1936年
・ 札幌独立キリスト教会教会史編纂委員会編『札幌独立キリスト教会百年の歩み』下巻 横山印刷 1983年
・ 山下弦橘編『日本基督教団元浦河教会創立百二十周年記念誌 信じて生きる』青羚社 2003年