ー 植 民地時 代末期 ペ ル ー社会 の 考 察 ー

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(1)

マ テ オ ・ガ ル シ ア ・ プ マ カ ウ ア の 軌 跡

ー 植 民地時 代末期 ペ ル ー社会 の 考 察 ー

真 鍋 周

三  

は じ め に

﹁ペルー独立一五〇周年に関する国家委員会(Oo巳︒︒δ口

Z9・oδロ巴α9GっΦ︒︒ρ三8三Φ8二〇αΦ冨ぎα88αΦロo一〇

αΦ一℃Φ急)﹂が︑一九六九年にリマで当時の革命的軍事政

権によって設置された︒この政権は新生ペルーの創造にお

いてナショナリズム︑とりわけ民族の統合を重視していた︒

当委員会によるアカデミズムへの貢献は︑来たる一九七一

年の﹁独立一五〇周年記念式典﹂の挙行にむけて史料の編

纂や文献類の刊行︑また第五回アメリカ歴史学国際会議

(ρ⊆ぎ80冒σQおωoH三Φ∋098巴αΦ田︒︒8ユoαΦ﹀ヨひユ8)

のリマにおける開催(一九七一年七月)等を研究者に委託

したことであった︒その成果の一つは︑一七八〇年を起点

とする﹃ペルー独立資料集(Oo一①ooδコαooロヨΦ口$一αΦ 一ロぎα①bΦ巳Φ口o置αΦ一℃Φ﹃魯)﹄(全三〇巻)の刊行(一九

  七一〜一九七四年)となって結実した︒

ペルー独立をめぐる新しい解釈の出発点を一七八〇年と

定めたのは︑その年が﹁クリオーリョ︑メスティソ︑原住

民らを統合した独立の先駆者﹂トゥパック・アマル(↓⇔写

  oo>ヨ鴛ロ)の反乱(一七八〇〜八一年)が起こった年で

あったことによる︒この考え方の背景には﹁ペルーの解放

は︑特権を有する少数派のペニソスラーレス(スペイソ人)

からクリオーリョへの政治的権力の単なる移行ではなく︑

あらゆる階級やあらゆる民族集団を統合した長期の闘争﹂

から生まれるとの解釈がある︒これは︑かつての独立闘争

を︑帝国主義に対抗するベラスコ政権の﹁真の国家的独立﹂

をめざす闘争にオーバーラップさせて捉えようとする議論

  であった︒

一72

(2)

とはいえ︑トゥパック・アマルの反乱がペルi独立の最

初の試みであったと︑すべての研究者が考えているのでは

ない︒エラクリオ・ボニーリャは︑トゥパック・アマルの

反乱は本質的にクリオーリョを脅えさせ︑抵抗運動から彼

る らを分離させるという結果を招いたと捉えた︒またジョソ・

フレデリック・ウィーベルは︑トゥパック・アマルの反乱

をスペイソ領アメリカにおける独立運動の先駆と捉えるの

は誤りであり︑植民地解放闘争の時期に独立派は原住民の

  利益を無視し原住民を放置した︑と述べている︒

ところで︑ペルーではトゥパック・アマルとほぼ同時代

を生きたマテオ・ガルシア・プマカゥア(]≦讐ΦoO母o冨

勺仁§08ゴロo"一七四八〜一八一五)もまた独立の英雄と

して広く知られ︑人々の関心を引き付けずにはおかぬ存在

  である︒ペルー独立革命(一八〇五〜二四年)のうち初期

の抵抗運動の中で最もよく知られているのは一八一四〜一

五年のクスコの革命︹いoカΦ<o冨oぴ昌α90仁Noo︑ホセ・

アソグロ(冒︒︒ひ﹀コσQ巳o)の反乱(革命)とかプマカゥア

  の反乱ともよばれる︺であるが︑これにプマカゥアが指導

者として参加し重大な役割を果たしたからである︒一方︑

ラテソアメリカの独立運動においては大勢の下級聖職者︑ 特にセクラール(︒︒Φo巳胃︑世俗にあって修道会に属さな

い聖職者︒在俗司祭︒クリオーリョが大半を占める)の参

  加がみられた︒ペルーもその例外ではなかった︒マリア・

コソスエロ・スパークスは︑ペルー独立革命に参加した聖

  職者﹁三九〇人﹂を︑セクラールが二〇一人︑レグラール む(おσq巳母︑各派修道会士)一七七人︑その他一二人と分

  析した︒

本稿は︑トゥパック・アマルの反乱からクスコの革命に

至る時代を駆け抜け︑しかもこの二つの事件に深く関係し

たマテオ・ガルシア・プマカウア︹クスコ市近郊の原住民

共同体のカシケ(80β仁Φ1ークラカoξ08︑首長)︺をと

りあげ︑その足跡を辿ることによって︑植民地時代末期ぺ ヨルー社会とそこに生きた原住民の状況を﹁教権﹂の動向と

も絡めながら検討するものである︒こうした作業が︑ラテ

ソアメリカの独立運動との関係でトゥパック・アマルの反

乱の方向性を捉える場合の一助となれば幸いである︒

そこで︑以下の構成によって︑この解明を進めてゆくこ

とにしよう︒1章﹁トゥパック・アマルの反乱とプマカウ

ァ﹂では︑ペルー副王領の歩みを簡潔に紹介した後︑プマ

カウアの生い立ち︑トゥパック・アマルの反乱への彼の対

一73一

(3)

応を述べる︒またプマカウアの出身地方における原住民の

負担にも言及する︒n章﹁植民地時代末期ペルーの社会状

況﹂では︑カルロス三世の改革︑特に行政機構の改革と自

由貿易政策がクスコやアレキパ地域に及ぼした影響ならび

に貢納を検討する︒m章﹁独立運動とプマカゥァ﹂では︑

スペインからの独立への動きとそれに対するプマカゥアの

対応を当時の社会状況とも絡めながら辿る︒W章﹁結び﹂

では︑カシケの地位の脆弱性︑地域格差等について述べた

後︑プマカウアの反乱の意味を探る︒

1トゥパック・アマルの反乱とプマカウア

先ずもって︑マテオ・ガルシア・プマカゥアの生きた時

代のペルーを知るうえで︑その前提を簡単にみておく必要

があろう︒

ペルー副王領はスペイソ領アメリカの中では古い歴史を

もち︑スペイソの支配が最も強固に根づいた地域であった︒

一六世紀以来︑ペルー副王領の内部には二つの中枢があっ

た︒広大な地域の統治者としての副王のいる政治上の中心

部のリマと︑アルトペルー(現ボリビア)におげる大量の銀

の生産を背景とした経済の中心地ポトシである︒旧イソカ 帝国の中心部であったクスコ地域は政治的にはリマの衛星 ヨ的位置にあり︑経済的にはポトシに依存してきたのである︒

ところが︑一八世紀になると︑ポトシをはじめとするア

ルトペルーの銀鉱業の凋落が決定的となった︒長期にわた

る採掘により鉱床が枯渇したことが最大の原因といえよう︒

ポトシの人口は減り︑その市場は縮小していった︒一七五

〇年代に約七万人いたポトシ市の人口は︑一七八〇年代に

は約三万五︑○○○人に減少し︑オルロ銀山も同様に人口

が減った(最盛期の人口約七万人に対し︑一八世紀半ばに

は約二万人であった)︒しかもアルトペルーは︑一七七六

年にペルー副王領から分離して新設されたラプラタ副王領

の傘下に編入された︒

しかしペルーでは一七七六年から一八一二年の間に銀の

生産額はおよそ二倍に増加する︒これは︑セロ・デ・パス

コ︑ワロチリ︑ヤウリ︑ワルガヨクにおける銀鉱業の台頭

によるものである︒一八世紀の最後の四半世紀になると︑

リマの経済力が高まり︑リマは経済面でもペルー副王領の

  中枢となった︒この背景にはリマ商人の活動があった︒彼

らはリマ市で商人ギルド(08ω巳巴o)を形成して海外と

の貿易をはじめペルー副王領内の商業を支配するに至った︒

一74一

(4)

独立期を通じてリマは︑アメリカ大陸における反革命の強

力なとりでとなったが︑これにはリマ商人が関係している︒

例えば︑資金援助があげられる︒一七七七年から一八一四

年の間にリマ商人︹商人ギルド審議会(↓﹃ぴ⊆口巴α巴

Oo口ω巳oαo)︺が王権に提供した軍資金(寄付金や貸付金 ヨとして)の額は五〇〇万ペソ以上といわれるのである︒ま

  た数千人からなる軍隊を派遣し王党派を支援している︒

マテオ・ガルシア・プマカウアが歴史の舞台に踊り出る

のは︑一七八〇年=月にトゥパック・アマルの反乱が勃

発した直後のことである︒以下では︑プマカウアの生い立

ちと︑トゥパック・アマルの反乱に彼がいかに対応したか

について述べる︒

トゥパック・アマルの反乱では原住民や植民地人に対す

る搾取・収奪・不正を追放するために︑原住民以外にもク

リオーリョ(アメリカ生まれの白人)︑メスティソ(白人

と原住民の混血児)︑ムラート(白人と黒人の混血児)︑黒 ヨ人など多様な人々が共に立ち上がった︒

これに対抗して︑コレヒドール(地方行政官)や当局

(王党)軍の側に立って反乱の鎮圧に奔走したのがマテオ・

ガルシア・プマカウアであった︒一七四八年九月二一日に 彼は誕生する︒カルカ・イ・ラレス地方チソチェーロ村の

モソセラーテ聖母マリァ教会でモグロベホ神父から洗礼を

施された︒父親のフラソシスコ・プマカウアの死去により︑

一七七〇年一〇月一四日︑同地方同村のカシケ︑司政官

(σQoげΦヨ巴o﹃)を継ぐ︒一七七三年には原住民中隊の指揮

  官に任命されるなど︑早くから軍人として頭角を現わす︒

カルカ・イ・ラレス地方はクスコ市の北方に位置し︑肥沃

な地域として知られていた︒ジャガイモ・穀物(トゥモロ

コシ︑小麦等)・コカなどが豊富に収穫され︑家畜の飼育

にも適していた︒これらの産物の供給を通じて古くからク

スコ市と結合してきた︒多大な人口を擁するクスコ市の消

費生活の生命線だったといっても過言ではない︒この地方

はトゥパック・アマルの反乱に同調しなかった︒また一七

六五年から一七七九年にかけて各地で多発した原住民蜂起 ヨの記録をみても︑当地で反乱が起こったという記録はない︒

カルカ・イ・ラレス地方の原住民の負担をここでみてお

こう︒貢納(三98)に関してクスコ司教区の年間平均徴  収額は一人当り六・七六ペソ(法定)といわれるので︑こ

れに従うとしよう︒成年男子(一八〜五〇歳)人口はクス

コ司教区一四地方の中で最下位(一︑一二四人"一七五四

一75一

(5)

ね 年)であり︑ポトシ銀山とワソカベリカ水銀鉱山のミタ  (葺冨︑賦役)の義務は免除されていた︒レパルティミ

エント(﹃Φb霞ニヨδ口8αΦ日Φ﹃ooロo圃o︒︒︑コレヒドールが

カシケを通じてその支配領域下の原住民に物品を強制販売

し︑その代価を強制徴収する方式)については︑成年男子  一人当りの年間負担は=・三ペソ(法定)と算出される︒

よって︑貢納とレパルティミエソトの合計額は一八・〇六

ペソとなり︑他の地域に比べてこの地方の負担の程度が相

対的に大きかったとは言い難い︒

一七八〇年一二月下旬︒トゥパック・アマルの反乱軍は

クスコ市をめざして北上しつつあった︒ウルコスの地点で

ディエゴ︹∪δσQoO二︒︒8げ巴︑トゥパック・アマルーーホセ・

ガブリエル・コソドルカソキ(冒︒・ひOoげユ90∪巳08〜5ε一)

の義弟︺の率いる軍勢約六︑○○○人が本隊と別れ︑ウル

バソバ川を北上し︑クスコ市北方の﹁物資供給地帯﹂に進

ふ 攻する︒一二月末︑パゥカルタソボ︑カルカ︑ピサック︑

ユカイ︑ラレス︑ウルバソバ.︑オリャソタイタソボが︑ディ

エゴ軍の攻撃をうけて次々と陥落していった︒反乱軍本隊

に包囲されたうえ︑物資の補給を断たれたクスコ市はパニッ

クに見舞われる︒ そこで登場するのがプマカウアである︒軍事訓練を施し

ておいたチソチェーロ村一帯の原住民を動員して当局側に

立って参戦︒クスコ戦時委員会が派遣した騎兵・歩兵連隊

と共闘するとともに︑彼らの兵姑を担うことになった︒一

七八〇年一二月三〇日︑クスコのコレヒドールは﹁大佐﹂ ヨの称号を彼に贈っている︒トゥパック・アマル反乱軍に対 むしてプマカウアが指揮した戦闘や彼の行動の記録を検討し

てみると︑彼が大勢の原住民を動員して終始クスコ当局︑

つまり地方有力者主体の戦時委員会の側に立ち︑反乱軍に

立ち向かい︑反乱の鎮圧に奔走したことがわかる︒特に一

七八一年二月二一二日にクスコに到着した王党軍(大半が白

人)に一万四︑○○○人を上回る原住民が合流して討伐軍 ヨが編成され︑それが動くことになるが︑これにプマカゥア

が果たした役割は絶大だった︒結局︑トゥパック・アマル

ら反乱の指導者・幹部の多くは捕えられ(四月六日)︑五  月下旬にクスコ市において処刑される︒またディエゴらの

軍も一七八二年までにほぼ鎮定され︑プマカゥアはペルー

副王やクスコ司教といった植民地権力者から絶賛されたの

ね であった︒

ところで︑日常生活においてプマカウアは﹁カシケ﹂︑

一76一

(6)

﹁司政官﹂としてコレヒドールと結合した実務家であった︒

相当な財産を所有しており︑それを守り収益を増やすのに

懸命だった︒反乱鎮圧への貢献によって獲得した信用︑と

りわけ﹁大佐﹂の肩書はそれに大いに役立つことになった︒

反乱を契機に彼は︑社会的にいちだんと有利な立場に立っ

たのである︒

H 植 民地時 代末 期 ペ ルーの社会 状況

植民地時代末期ペルー南部において国庫収入の増大をめ

ざす王権が最も重要視したのは︑アルカバラ(巴8げ巴o︑

販売税)と原住民から徴収する貢納であった︒というのも︑

一七八〇年代初めの大反乱の後︑アルカバラの徴収体制が

整備・拡充され︑また原住民の支配機構のうちレパルティ

ミエソト制の廃止と鉱業の衰退に伴うミタの規模縮小によ

り貢納が見直されることになったからである︒

以下では︑カルロス三世(Oo二〇ω日︑在位一七五九〜 を八八)の改革(一七六三〜八七年)︑特に行政機構の改革

と自由貿易政策がペルー社会に及ぼした影響をクスコやア

レキパの地域を対象としながら検討し︑クリオーリョへの

反響や王権による原住民の抑圧︑搾取の実態とその結末に ついてみてみたい︒

1行政機構の改革と自由貿易の影響

(1)行政機構の改革

これに関しては︑一七八四年七月のコレヒドール制の廃

止とそれに代わって導入されたイソテソデソテ(ぎ8ロαΦロ冨︑

監察官)制にまず注目しなければならない︒ペルー副王領

はリマを頂点に︑トルヒーリョ︑タルマ︑ワンカベリカ︑

ワマソガ︑アレキパ︑クスコの七っのイソテソデソシア

(ぎ8巳Φコo冨︑監察官領︑一七九六年二月一日付でプーノ

が追加され八つとなる︒地図参照)から構成された(ラプ

ラタ副王領へのイソテソデソテ制の導入は一七八二年︒ア

ルトペルーはラパス︑ラプラタ︑ポトシ︑コチャバソバの

四つのインテソデンシアからなった)︒イソテソデソテ

(王室はこれに権力を集中させた)が各インテソデンシア

を管轄することになった︒コレヒドールが支配していた

﹁地方(b﹃O<一コO一〇)﹂は﹁地区(b碧怠αo)﹂と改称され︑

イソテソデソテが任命したスブデレガード(ω仁げα9Φσqoαo︑

監察官代理︒行政︑徴税︑司法︑公安を司る権限を与えら

れたが︑かつてのコレヒドールに比べると︑その権限はき

お わめて弱い状態に止められた)の管轄するところとなった︒

一7?

(7)

地 図 植 民 地 時 代 末 期 ペ ノレー 副 王 領 の イ ソ テ ソ デ ソ シ ア

,レマ リ オ ・デ ・ラ ・プ ラ タ

N副 王 領

ソ カ ペ リカ /Y マ ソ ガ'

"ク ス コ

出 所M6rner,TheAndeanPast P・96.

これを図式化して示すならば︑かつての原住民支配機構で

ある王室1ーコレヒドールーカシケー←共同体員は︑

王室1ーイソテンデソテー←スブデレガードー←カシケ

  

 1←共同体員に変わったことになる︒

このイソテソデソテ制の特徴は︑﹁司教区﹂にほぼ匹敵 する広大な行政体である﹁イソテンデソシア﹂を築きはし

たけれども︑結果的に各﹁地区﹂おいて王権が著しく弱体

化した点にある︒換言するならば︑コレヒドール制の廃止

が﹁地区﹂レベルにおける権力の分散化を引き起こしたこ

とである︒特にスブデレガード︑カシケ︑司祭i﹁教権﹂

レベルでは各﹁地区﹂は司祭の管理する複数の教区に分か

れていたの間に︑原住民の余剰をめぐって権力闘争

が繰り広げられるようになった︹やがてカビルド(ooげ臨αo︑

市参事会)のメソバーをも巻き込む︺︒それはまず︑貢納

と教会収入をめぐるスブデレガードと司祭の対立となって も噴火するのである︒

ところで︑クリオーリョの利益を代弁する機関であった

カビルドは︑旧コレヒドール制の下では一般に行政上の問

題を審議する機関としては力が弱かった︒しかしイソテソ

デソテ制の下では活動の余地が増えたことをここで想起し まておきたい︒

次に当時のペルー副王領における人口分布をみておこう︒

第1表は一七九一年の人口分布を示したものである︒副王

領の白人人口の分布をイソテソデソシア別に多い方から挙

げると︑アレキパを第一位に︑クスコ︑リマ︑トルヒーリョ︑

一78

(8)

タルマ︑ワマソガ︑ワソカベリカの順となる︒特にアレキ

パのイソテソデソシアに白人が最も集中していた(ペルー

副王領全体の約二九%︒これにクスコのイソテソデソシア

の白人人口を加えると︑全体の五二%を占める)ことに注

目したい︒またその白人人口の多くはアレキパ地区︑特に

アレキパ市に集中していたのである(第2表)︒原住民人

口の分布では︑クスコを筆頭に︑トルヒーリョ︑タルマ︑

アレキパがこれに続く︒

クスコのイソテソデソシアは︑クスコ司教区を構成して

いたかつての一四地方のうち︑カラバヤ︑ラソバ︑アサソ ゐガロを除く一一地区からなった︒その人口構成(一七九一

年)は第3表の如くである︒白人人口の二分の一以上がク

スコ地区(クスコ市を含む)に集中していたことがわかる︒

また一七八七年にはクスコ・アウディエソシア(﹀⊆&①口o置︑

  聴訴院)が新設された︒トゥパック・アマルの反乱の舞台

となったクスコ地域では︑反乱の後︑王権の支配が強化さ

れ︑クスコ・アウディエソシアはシエラ南部における王党

派の拠点となったのである︒

(2)自由貿易の影響

﹁自由貿易﹂の目的はスペイソ本国の発展をめざすもの であって︑アメリカの発展ではなかった︒王権は国庫収入

の増加に向けて湛進する︒ジョソ・リソチは︑自由貿易の

結果︑一七八二〜九六年の僅か一五年間にスペイソからス

ペイソ領アメリカへの年間平均輸出額が約四倍に上昇した

あ と指摘している︒ペルー副王領においても自由貿易の影響

は顕著に現われた︒例えば︑一七七五〜七九年の五年間に

ペルー副王領に輸出されたヨーロッパ商品の価格は二︑三

八三万八︑一八三ペソであったが︑一七八五〜八九年には

四︑二〇九万九︑三=ニペソを記録した︒ペルーからヨーロッ

パへの輸出品(一七八五〜八九年)の九〇%は銀を主体と ゼする貴金属であり︑残りの一〇%は第一次産品であった︒

次にラプラタ副王領︑とりわけアルトペルーとの関係に

目を向けたい︒

一七七八年の﹁自由貿易勅許﹂の発布とブエノスアイレ

スの開港を契機にヨーロッパから人や商品が同港を経由し

も てラプラタ副王領に本格的に流入し始めた︒例えば︑ラプ

ラタ地域の白人人口は一七七八年の一年間に従来の約二・ タ三倍に増加した︒商品の流入に関しては︑一七七二〜七六

年の五か年間にブエノスアイレス港に入港した船舶が僅か

五隻だったのに比べ︑一七九二〜九五年には三九五隻が入

(9)

第1表 ペ ル ー副 王領 に おけ る人 口=構成(1791年)

(人 口の 単位 人) イ ソ テ ソ デ ソ シ ア 村落数 全 人 口 原 住 民 メステ ィ ソ スペイソ人 ム ラ ー ト 黒 人 その他

ア レ キ パ 84 136,801 …1・ 17,797 39,357 7,003 5,258 777

134 216,382 159,105 23,104 31,828 993 284 1.:

ワ マ ソ ガ 135 111,559 75,284 29,621 5,378 943 30 303

ワ ソ カ ペ リカ 88 30,91? 23,899 4,537 2,341 41 99

181 149,112 63,181 13,747 22,370 17,864 29,763 2,187

206 201,259 105,187 78,682 15,939 844 236 371

トル ヒ ー リ ョ 149 230,967 115,647 76,949 19,098 13,757 4,?25 ?91

合 計 977 1,076,997 608,912 244,43? 136,311 41,404 40,337 5,596 出 所FranciscoPiniRodolfi,"Lapoblaci6ndelPer丘alolargodeunsiglo:

1785‑1884,"enWashingtonPatinoetal.,Informe鹿 翅og76戸oo,Peru(Lima,1970), P.20.

第2表1792年,ア レ キ パ 地 区 と ア レ キ パ 市 の 人 種 構 成

ア レキ パ 地 区 ア レキ パ市

人 数 全体に占める割 合 人 数 全体 に占める割合

人種 ・社会的地位 (単 位:人) (%) (単 位:人) (%)

スペ イ ソ人* 22,882 .1 15,737 71.4

メ ス テ ィ ソ 5,228 13.9 4,129 18.?

原住民 5,872 15.6

自由身分の黒人 603 1.6 580 2.6

黒人奴隷 751 2.0 658 3.0

自 由身 分 の ム ラー トと サ ソポ 1,763 4.7 420 1.9

ム ラー トとサ ソボ の奴 隷 531 1.4 506 2.3

合 計 37,630 100.0 22,030

*「 ス ペ イ ソ人 」 は ク リ オ ー リ ョを 含 む 。 出 所Brown,op.cit.,p.32.

第3表 ク ス コの イ ソ テ ソ デ ソ シ ア11地 区 の 人 口 構 成(1791年)

(人 口 の 単 位 人) 地 区 教区数 村落数全 人 「]原住民メ ス テ ィ ソ スペ イ ソ人 ム ラ ー ト奴隷 その他

8 32,082 14,254 53 16,122 646 203 804

ア バ ソ カ イ 9 8 25,259 18,419 4,739 1,937 50 81 33

16 34 15,281 10,782 4,474 24

カ ル カ ・イ ・ラ レ ス 5 6 6,199 5,519 320 347 13

ウ ル バ ソ バ 6 4 9,250 5,164 3,194 835 57

13 14 19,824 18,237 1,382 186 19

9 19 20,236 15,034 2,?33 2,331 11? 21

チ ュ ソ ビ ビ ル カ ス 11 12 15,973 11,475 4,471 27

11 13 34,968 29,045 5,420 324 152 27

キ ス ピ カ ソ チ ス 10 16 24,33? 19,94? 4,306 37 21 26

パ ウ カ ル タ ソ ボ 4 8 12,973 11,229 957 ?64 7 16

合 計 102 134 ・.f 15A,106 23,104 31,828 993 284 1067*

*第1表 で は 「1,068」 と あ る が,「1,067」 は 修 正 した 人 数 出 所PiniRodolfi,op.cit.,p.22.

.,

(10)

港したことからも︑その規模の高まりが察せられよう︒ま

たこの商品の内容については︑特にスペイソ製の織物類の

占める割合が大きかった︒こうしてなだれ込んだヨーロッ

パ商品はやがてアルトペルーに浸透し︑ペルー副王領の南

ね 部一帯にも達したのである︒

一方︑クスコのイソテソデンシア経由でラプラタ副王領

に運ばれた商品の規模や構成を一七九〇年の記録(第4表)

でみると︑その規模は七三万四︑五〇五ペソ(年間)であ

り︑内容の点では織物類が主柱をなしている︒またフロー

レス・ガリソドが示したクスコ産品の輸出額によれば︑ク

スコのオブラへ(oげ鑓冨︑織物工場)やチョリーリョ

(OずO﹃﹃一=O)産の織物の割合は約七三%と算出されている︒

また一七九三年頃にポトシ市場へ運ばれたクスコ産品に占 ヨめる織物の割合は七八%であった︒こうしてみると︑クス

コ地域の主要生産物は織物であったことがはっきりする︒

ところで︑アルトペルーへのヨーロッパ製商品はブエノ

スアイレス港を通じてのみ入ったのではない︒太平洋岸か

らも膨大な量の海外からの商品が流れ込んだのである︒こ

の商品の輸入元はリマ商人であった︒だが輸送面で重要な

役割を果たしたのはアレキパ商人である︒この背景には︑ 新副王領傘

下に入った

アルトペルー

市場からの

利益の低下

を懸念した

リマ商人が

アレキパ商

人との結合

強化を図り︑

利益の喪失

に対抗した

という事情

があった︒

リマーアレ

キパ枢軸の

ロ 形成である︒

このことは

アレキパ市

のもつ地理

第4表1790年,ク ス コの イ ソテ ソデ ソ シ アか らラ プ ラ タ副 王領 へ の 輸 出 品 生産物(規 模) 単位 当 リ価格 市場 価 格(ペ ソ) 全体の割合(%)

オ ブ ラへ産 の フ ラ ソ ネル の一 種(65万5,200バ ラ) 4レ アル 327,600 44.6

砂 糖(2万3,720ア ロ ー バ) 5ペ 118,600 16.2

ト ウ モ ロ コ シ(1万4,000フ ァ ネ ガ) 5ペ 70,000 9.5

粗 綿 布(tocuyos)(12万 バ ラ) 3レ ア ル 一111 6.1

衣 類(11万2,800バ ラ) 21/2レ ア ル 35,250 4.8

羊 毛(1,200ア ロ ー バ) 25ペ 1111 4.1

他の生産物 108,055 14.7

合 計 734,505 100.0

1バ ラ=o.84メ トル/1ア ロ ー バ=11.5kg/1フ ァ ネ ガ=122kg 出 所M6rner,Perfil...,p.93./そ の 他,AlbertoFloresGalindo,Arequipia.velsπ7

///510XVIII‑XX(Lima:EditorialHorizonte,1977),pp.20‑21,p.25./Magnus Morner,"SomeCharacteristicsofAmericanStructureintheCuzcoRegion towardstheEndoftheColonialPeriod,"BoletindeEstudiosLatinoamericanosy delCaribe,Vo1.18(Amsterdam,1975),p.26.参 照 。

(11)

的位置とも関係がある︒同市は沿岸部とシエラ南部を結ぶ

あ 広大な空間の中の一大拠点であった︒

一方︑一八世紀のアレキパ地域では︑ビトル谷︑マヘス

谷︑モケグア谷に代表される如く河川の流域に立地したブ

ドウ園から生産されたブドウを原料とするブドウ酒とその

蒸溜酒であるブラソデーのシエラ南部諸都市(クスコ︑ラ

パス︑ポトシ等)への供給によって︑その経済発展が促さ

れ︑白人の地主や商人の一大勢力が形成されていた︒これ

め は別稿において既に述べた︒植民地時代末期においても事

態は変わってはいなかった(第5表参照)︒アレキパ地域

の農産物の年間平均生産額は︑こうした酒類の他にトウモ

ロコシや小麦等の穀物︑砂糖︑野菜や果物を含めて二〇〇

お 万ペソ(一七九六年)にも達し︑その多くがシエラ南部に

運ばれたのである︒農園主や商人からなるアレキパ・オリ

ガルキー(寡頭支配集団)にとってシエラ南部は重要な市

お 場であった︒アレキパ・オリガルキーは﹁二〇家族﹂に代

表され︑なかでもゴイエネチェ(Oo︽ΦコΦoゴΦ)家/バレダ

(切o凌Φ畠o)家(図1)︑コシオ(Oo︒︒︒︒δ)家/メナウト

(]≦Φ8三)家(図2)︑トリスタソ(↓二ωぷ口)家(図3)︑

デ・ラ・フエソテ(αΦ一〇閃一﹂Φ=梓①)家などが想起されると ころである︒

こうした商品流通の拡大によってペルー副王領における

アルカバラは急増した︒クスコ司教区では︑一七七〇年代

一〇か年間のアルカバラ徴収額は三三万三︑七七五ペソだっ

第5表 ア レキ パの イ ソテ ソ デ ソ シアの3渓 谷 に おけ る ブ ドウ酒 生産 (単位:ボ テ ィハ)

1784 モ ケ グア 谷190,379 マ ヘ ス谷 ビ トル 谷

72,108 67,018 1786 279,354 72,285 72,542

1796 309,587 152,556 110,893

1799 306,61? 167,349 105,935 1804 275,000 120,000 ・1111 出 所Wibel,op.cit.,p.63.

第6表175(3‑1809年,ク ス コ財 政 府 の ア ル カ バ ラ徴 収 額 の 変 化

年 代(10ヵ 年) 徴 収 額 (単 位:ペ ソ)

指 数

(17姻9年=100)

1750‑1759 201,638 9?

1760‑1769 316,598 152

1770‑1779 333,775 160

1780‑1789 1,334,174 639

1790‑1799 812,890 389

:11:1・ 791,509 379

出 所Golte,op.cit.,p.33.

一82

(12)

従属をいちだんと強化さ 国へのアメリカ植民地の 自由貿易はスペイソ本 一七七〇年代のおよそ二・ 四倍を記録していること図

ロ がわかる︒ し低下するが︑それでも

○○年 代 では 徴 収額が少

る︒一七九〇年代︑一八 の=二倍にあたるのであ ペソ)と比較すると︑そ カバラ(五万二︑七九四 ミエソト法定代価のアル ﹁一四地方﹂のレパルティ

バ レ ダ 家/ゴ イ エ ネ チ ェ家 の 系 図

して︑これをかつての 五か年当りの平均に換算 昇している(第6表)︒ 七四ペソと約四倍に上 ○か年間では一三三万四︑ たが︑一七八〇年代の

ブ ス タ マ ソ テ ・ ベ ナ ビ デ ス デ ィ エ ス ●カ ソセ コ(地 主)

マ ヌ エ ル (地 主)

1730

ニ コ ラ ス ・パ レ ダ ・=ホセ フ ァ ・ペ ナ ビデ ス ・モ ス コ ー ソ

フ ア ソ ・ホ セ

1770

ゴ イ エ ネ チ エ (商 人,地 主)

ホ セ ・セ バ ス チ ャ ソ マ リア (司 教,大 司 教)(未 婚)

マ リアナ (修道女)

フ ラ ソ シ ス コ ホ セ フ ァ (王室 役 人)(修 道 女)

1804

リ ア・ サ ソ ト ス ・=ペ ド ロ ・ バ レ ダ ・ ブ ス タ マ ソ テ

(地主)

1825 マ リア ノ ・ブ ラ ス ・eマ ヌ エ ラ

デ ・フ ・フ エ ソ デ (法 律 家,役 人)

ホ セ ・ マ ヌ エ ル (軍 人,

グ ア キ伯)

ペ ドロ ・マ リア ノ (王 室 役 人)

1825

プ ア ソ ・マ リア ノ=マ リ ア ・サ ソ トス ・ガ ミオ (商 人,地 主)

マ ヌ エ ル (司 教)

マ ヌ エ ル ・フ ェ ル ナ ソ デ ス ・ ア レ ド ソ ド

(商 人)

ク ラ ラ=イ グ ナ シ オ ・ノ ボ ア ・ベ ナ ビ デ ス (地 主)

出 所Wibel,op.cit.,p.481.

一83一

(13)

せ︑新たな問題を引き起こす︒大量に押し寄

せてきたヨーロッパ商品のうちの多くは織物

類であったが︑これは︑クスコ地域において

生産されたロバ・デ・ラ・ティエラ(8bo

αΦ一〇け一Φ旨o︑土着の荒織物)との競合を招

く︒ヨーロッパ製品は土着の織物に比べて良

質であり︑しかも安価だったから︑クスコ産

の織物は市場競争に敗れ︑その売れ行きが急

激に低下した︒それに引き替え︑ペルーやア

ルトペルーの市場ではヨーロッパ産の織物が

温れていたという︒クスコ地域のオブラへは

壊滅的な打撃を被り︑斜陽化を辿った︒クス

コ地域の産業構造の脆弱さが露呈されたので

ある︒この点は︑リマの大商人層と固く結び

つき︑比類をみない酒類の生産と輸出にもっ

ぱら立脚していたアレキパ地域アレキ

パ市の最有力商人にしてアレキパ平野やマヘ

ス谷に農園を営むマテオ・コシォ(ζ碧Φo

Ooωωδ︑スペイソ・サソタンデール出身︒図

2参照)は︑一八〇四年にブラソデーとブド

コ シ オ 家/メ ナ ウ ト家 の 系 図 図2

173

マ テ オ ・コ シ オ =ホ ア キ ナ ・ ウル ピ カ イ ソ フ ラ ソ シ ス コ 。 メナ ウ ト=ア グ エ ダ ・イ ダル ゴ

ノ ・ ホ セ

(王室役 人)

794

e ホ セ ・ ミ ゲ ル

}

マ ヌ エ ル ・ホ セ マ リア メ ナ ウ ト

(司祭) (地主)

(商 人,ス ブ デ レガ ー ド)

‑カ

(商人)

マ テ オ ・ホ ア キ ソ マ ヌ エ ラ ボ セ

(司祭)

1820

・ マ リ ア ノeア ス セ ソ シ オ ソ ・ ブ ス タ マ ソ テ ・ デ ・ ラ ・

海 軍軍人)フ エソテ

1791 ホ セ

(地 主,

マ グ ダ レ ナ=ラ イ ム ソ ド ・グ テ ィ エ レス … … ル イ ス ・グ テ ィエ レス=マ ヌ エ ラ ・デ ・

1デ ・オ テ ロ1ラ.フ エ ソテ

ア ソ トニ オ・ グ テ ィ エ レ ス

1817デ ・ ラ ・ フ エ ソ テ

リ ア=ル イ ス ・ガ ミ オ (商人)

(将官,長 官)  

役人

ド ミ ソ ゴ (修道 女)

出 所Wibe1,0p.CZ't.,p.484.

一84一

(14)

ウ酒の生産・販売がアレキパの全経済を支えていると述べ

たーの場合と決定的な相違をなしている︒

2貢納

植民地時代末期にペルー副王領からの貢納徴収額は上昇

を遂げた︒貢納徴収額の規模は原住民成年男子人口に左右

されたから︑全イソテンデソシアの中で原住民人口の規模

が首位を占めたクスコのイソテソデソシア(第1表)から

の徴収額がペルー副王領において最高だったのは当然であ

る︒ここでは︑クスコ地域における貢納について検討する︒

まず貢納の徴収径路を示すと︑クスコのイソテソデソシ

ア一一地区の各地区においてスブデレガードは︑イソテソ

デソテの命令によりカシケを通じて原住民成年男子から貢

お 納を徴収し︑それを財務府(Oo冨国①巴)に納入した︒そ

れゆえ︑クスコ財務府の記録から貢納徴収額のおおよその

傾向を知ることが可能である︒クスコ地域では第7表の如

く︑一七七〇年代一〇か年間の貢納徴収額(八三万三︑八

九九ペソ)の指数を一〇〇とすれば︑一七九〇年代一〇か

年間(二八四万六︑四一一ペソ)の指数は三四一へと著し

く上昇している︒この増額分ll五か年平均に換算する

と︑一〇〇万六︑二五六ペソーは︑かつての﹁一四地

ト リス タ ソ家 の 系 図 図3

プ ア ソ ・ホ セ ・モ ス コー ソ (軍 人)

1790

・=カ タ リ ナ ブ ス タ マ ソ テ

1813

ホ セ ・ガ プ リエ ル ・ モ ス コ ー ソ (イ ソ テ ソ デ ソ テ)

デ ィエ ス ・カ ソ セ コ  

ホ セ ・ボ ア キ ソ

ド ミ ソ ゴ ・ ト リ ス タ ソ (王 室 役 人)

1759

・ トリ ス タ ソ=マ リ ア ・メ ル セ デ ス ・モ ス コ

ソ ヘ ラ=マ ヌ ェ ル グ レ ゴ リ オ ・ リベ ロ (地主)

(マ ー ス 谷 の 地 主)1・ ペ レ ス'オ ブ リタ ス

1

セ ・マ ヌ エル (司 祭)

1785 マ ヌ エ ル ・ フ ロー レ ス

(法 律 家)1809

=ペ トロ ニ ラ

1

マ リア ノ (法 律 家)

1

フ ロ ー ラ (庶 子)

ド ミ ソ ゴ ・ ト リス タ ソ (地 主,長 官)

ピ オ ・ ト リ ス タ ソ (地 主,

イ ソ テ ソデ ソ テ) ボ ア キ ナ=

ビ トリ アeホ セ ・エ チ ェ ニ ケ (軍 人,ペ ル ー 大 統 領)

出 所Wibel,op.CZ.t.,p.494.

一85一

(15)

方﹂のレパルティミエント法定代価(=一=万九︑八五〇

ペソ︑五か年当り)の約七六%に相当し︑またこれに課せ

られたアルカバラ(五万二︑七九四ペソ)の約一九倍にあ

たる︒一八〇〇年代の一〇か年間においても貢納徴収額の

第7表1760‑1809年,ク ス コ財 政 府 の貢 納 徴収 額 の変 化

年 代

(単 位一10ヵ年)

徴 収 額

(単 位:ペ ソ)

1770‑79年=100

・1・ 634,408 76

1770‑79 833,899 100

1780‑89 1,898,537 228

1790‑99 2,846,411 341

:11!・ 2,300,000 276

出 所Golte,op.cit.,p.35.

第8表 ク ス コ の イ ソ テ ソ デ ソ シ ア11地 区 か ら の 貢 納 徴 収 額(1786年) (年 間,単 位:ペ ソ)

*端数(レアル)は切り捨てた

地 区 名 貢納徴収額宰

5,342

ア バ ソ カ イ 17,784

20,?62

カ ル カ ・ イ ・ ラ レ ス 5,793

ウ ル バ ソ バ 8,540

26,490

14,436

チ ュ ソ ビ ビ ル カ ス 12,62?

カ ナ ス ・イ ・カ ソ チ ス 41,396 キ ス ピ カ ソ チ ス 24,358 パ ウ カ ル タ ソ ボ .1.

合 計 185,609

出 所MorenoCebrian,op.Wit.,pp.709‑713.

増加は著しく︑その指数は二七六を記録している︒クスコ

地域における貢納の増加がいかに驚異的なものであったかヘヨが理解されよう︒

一六九七〜一七二二年にクスコ地域の原住民共同体から

クスコ財務府に納入されるはずの貢納の五三%以上が少な をくとも二か年の延滞状況にあったといわれているように︑

原住民にとって貢納は従来から大きな負担となってきた︒

ところで︑クスコのイソテソデンシアの各地区別の原住民

人口の構成(第3表)比と貢納額の構成(第8表)比は相

関がみられるから︑一般にクスコ地域の原住民成年男子一

人当りの年間の貢納負担額(六・七六ペソ︑一七五四年)

もまた︑以後上昇を遂げたといえる︒仮に一七六〇年代一

〇か年間の貢納徴収額の指数﹁七六﹂を一七五四年にその

まま適用したとしよう︒一七九〇年代ではその指標が﹁三

四一﹂と︑一七六〇年代の約四・五倍に高まっているから︑

人口変動を考慮しなければ一七九〇年代における原住民成

年男子一人当りの年間の貢納負担額は約三〇・三ペソと算

出される︒この額は︑一七五四年のカルカ・イ・ラレス地 ヨ方における原住民成年男子一人当りの貢納とレパルティミ

エソトの年間負担額の合計であるコ八・〇六ペソ﹂(1

一86一

(16)

章)を上回っていることになる︒とすれば︑レパルティミ

エソトが存在していた時期との比較において︑一七九〇年

代では原住民の負担が軽減されていたとはいえない︒一方︑

一七九二年のカルカ・イ・ラレス地区におげる一人当りの

年間平均収入が二八・四ペソであったというマグヌス・メ

ルナーの説(第9表)を想起するならば︑単純な収支計算

ながら︑当地区の原住民にとって貢納はきわめて大きな負

担だったといわざるをえない︒

ところで︑先述の貢納額はあくまでも財務府における登

録額であり︑官職俸給額やシノド(︒︒{コoαo︑財務府から教

区教会への固定納付金)などの歳出額を加算しなければな

らないこと︑さらに貢納徴収の現場における﹁不正﹂を考

慮する必要がある︒つまり︑原住民から実際に徴収された

貢納は︑財務府の登録額をかなり上回ったものと考えねば

ならないのである︒さらに原住民に課せられていたオブペ

ソシオソ(OびくΦコoδ口︑教区民の結婚式や葬儀等の司宰を

通じて司祭が教区民から徴収した手数料)などの教会への

納付金や司祭への物質面での諸負担を考慮するならば︑原

住民の状況がトゥパック・アマルの反乱後一挙に改善され

たとはいい難い︒当時の状況についてオフェラソ・ゴドイは︑ スブデレガード︑

カシケ︑司祭に

ょる原住民の搾

取が強化されて

おり﹂レパルティ

ミエントが法制

化されていた時

期(一七五六〜

一七八〇年)と

さほど変わらな

い状態だったと ヨ言明している︒

植民地時代末

期のクスコ社会

においても人種

の違いが人々の

第9表1792年, ク ス コ の イ ソ テ ソ デ ソ シ ア の7地 区 に お け る 収 入 (年 間,単 位:ペ ソ) 地 区 名 年 間 収 入 1人 当 り の 収 入

ア バ ソ カ イ 350,000 139/10

14,000 9/io

カ ル カ ・ イ ・ ラ レ ス 176,239 282/5

ウ ル バ ソ バ :・1・: 93/5

ビ ル 18,600 11/5

カ ナ ス ・ イ ・ カ ソ チ ス 152,309 42/5

パ ウ カ ル タ ソ ボ 390,972 301/5

出 所M6mer,Perfil...,p.96.

 

社会的地位を左右したことに変わりはない︒一般に社会の

ピラミッドの頂点にいるスペイソ人とクリオーリョが︑そ

の底辺にいた原住民大衆を支配していた︒両者の中間にメ

スティソ︑ムラート︑黒人︑サソボ(黒人と原住民の混血

(17)

お 児)が存在した︒原住民は貢納額を何としても稼がねばな

らなかった︒その方法は主に二つあった︒食糧等の余剰生

産物を市場(クスコ市)に売却して代金を得るか︑あるいハろは余剰労働力を白人が経営するオブラへやアシエソダ︑輸

送部門などに提供して賃金を得るか︑である︒

ところで︑クスコ地域において大きな比重を占めていた

オブラへやチョリーリョなどの織物生産部門の斜陽化︑衰

退という事情が想起される︒この部門に関係していた原住

民は労働条件の悪化に晒されたり︑もしくは自己の織物の

値段が下落したために︑現金の調達が困難に陥り︑彼らの

生活条件はいちだんと悪化を辿ったのである︒これは教区

司祭にとっても痛手だっただろう︒当時︑司祭は収入源を

縮小されたり︑権限を狭められるなど王権から疎外されつ

つあった︒彼らの暮らしは原住民からの物質的奉仕を前提

に成り立っており︑原住民の生活苦はただちに司祭の生活

に反映したからである︒

クスコ地域においては︑特にクリオーリョ︑原住民︑司

祭らが王権から著しく抑圧︑疎外される状況にあったこと

が︑以上から明白である︒

m 独 立 運 動 と プ マカ ウ ア

一八〇八年五月のナポレオソ軍によるイベリア半島のマ

ドリッド市への侵攻とブルボソ朝の消滅にはじまるスペイ きソ本国の動揺により︑スペイン領南アメリカでは本国から

の独立を求める運動が起こる︒一八〇九年七月︑アルトペ

ルーのラパスで︑続いてプーノ︑チュキサカでも反乱が発

生した︒一八〇九年八月のキトでは早くも独立宣言がなさ

れる︒一八一〇年に入ると︑こうした動きはさらに活発と

なる︒カラカス(四月)︑ブエノスアイレス(五月)︑サソ

チアゴ(九月)において王党派官僚が追放され︑執政評議

カ 会(冒コ8)が独立を宣言したのだった︒こうした事態は

王党派の拠点であったリマのペルー副王庁に大きな衝撃を

与え︑副王アバスカル(}oωひ閃Φ3きαoαΦ﹀げ窃8一︑在

ね 位一八〇六〜一六)は対応を迫られることになった︒

以下では︑独立への動きとそれに対するプマカゥアの対

応を当時の植民地社会の状況とも絡めながら検討していき

たい︒

1独立運動の発生とプマカウア

..

(18)

ペルー副王アバスカルによって一八〇九年六月にクスコ・

アウディエソシアの議長に任命されていたアレキパの将官

ホセ・マヌエル・デ・ゴイエネチェ(臼o︒︒0︼≦ロコロ巴αΦ

ぬ OoくΦコΦoげΦ)はアルトペルーの独立運動を粉砕するために  ラパスに赴いた︒一八〇九年のラパスの反乱に対してゴイ

エネチェは︑彼のいとこのドミンゴ・トリスタソ(Uo日貯σqo

↓﹃冨感口)とピオ・トリスタン(勺{o↓二ω邸口)の両名(図

3参照)を司令官に任命し︑約六五〇人からなるアレキパ

の民兵︹この兵士の多くはアレキパ地域を代表する白人有

力者(地主︑商人)の一族に所属︺とクスコやプーノなど

において徴集した原住民からなる合計約五︑○○○人の討

伐軍を編成し︑これを率いて︑同年一〇月に反乱を鎮圧す

る︒この直後︑ドミソゴ・トリスタンはラパスのイソテン  デンテに就任する︒ところで︑この反乱軍にフアソ・アソ

トニオ.フィゲロア(冒鋤ロ㌧58巳oコσq¢Φ﹃8︑スペイソ・

ガリシア地方生まれ)が身を投じていたことが注目される︒

彼はトゥパック・アマルの反乱軍において活躍した人物で

あり︑クスコのインテソデソシアのパルロ地区に住み︑そ

こでアシエソダやオブラへを営んでいた︒一七八一年の判

決では無罪だったが︑一八〇九年には死刑を宣告され︑一 八一〇年一月二九日︑ラパスで絞首刑に処せられた︒

一八一〇年にはラプラタ副王領の首府ブエノスアイレス

市において独立をめざすいっそう大規模な運動が発生した︒

ブエノスアイレス執政評議会(﹄仁三〇)はラプラタ副王領

全域を統轄する独立政府の樹立を宣言する︒一八二年︑

フアソ・ホセ・カステリ(臼ロ鋤昌﹄o︒︒ひOO︒︒8≡︑クリオー

リョ)の率いる解放軍がブエノスアイレスからアルトペルー

ザ に進撃し︑独立闘争は高揚する︒これに対し︑リマの商人

ギルド審議会は多額の軍資金を副王アバスカルに提供し︑  経済的に王党派を支援した︒カステリ軍は各地で多くの植

  民地人から歓迎される︒ラパスにおいて独立派に加わった

人々の中には︑一七八一年のトゥパック・カタリ︹↓ε8

0卑9二︑本名ブリアソ・アパサ(冒まロ︾冨No)︺による

ラパス包囲戦に関係していた者も含まれていた︒例えば︑

ペドロ・ドミソゴ・ムリーリョ(℃①α﹃OUOヨぎσqO]≦霞邑O︑

クリオーリョ)は王党員として包囲軍と戦った経歴を持ち︑

ファソ・マヌエル・カセレス(﹄仁o口]≦oコ⊆90鋤oΦ﹃Φ︒︒︑

ね メスティソ)はカタリ軍の一員だった︒

カステリの解放軍が与えた影響は大きく︑北はワマソガ︑

の タルマ︑ワヌコの地域から︑西はタクナに飛び火する︒タ

一89一

(19)

クナではブエノスアイレス執政評議会に同調して独立が宣  言された︒ペルー副王はカステリ軍の鎮圧を再びゴイエネ

チェに託す︒ゴイエネチェは︑アレキパから到着した約一︑

二〇〇人の士官を率い︑一八=二年五月に辞任するまで二 ヨか年にわたりアルトペルーにおいて王党軍を指揮する︒と

ころで︑クスコからも討伐軍がラパスに進撃するが︑この

中心となったのが大佐プマカゥアであった︒数千人の原住

民を率いた彼は︑﹁反乱した原住民の大敵﹂としてラパス

ね からオルロを転戦し︑一八一一年六月に解放軍を鎮圧する︒

クスコに凱旋したプマカゥアはその功績を認められ︑﹁准

将﹂に格上げされた︒翌年の一八一二年にはクスコ・アウ  ディエソシアの臨時の議長に就任する︒

ところで︑一八〇九年以来アルトペルーの反乱を鎮圧す

るためにクスコからさし向けられた討伐軍の費用がすべて

クスコ財務府の負担であったことに注目したい︒これが財

政の悪化を招き︑結局︑貢納に付が回ってきたのだった︒

多くの原住民が討伐軍に参加していたから︑原住地にいる

者の貢納負担が強化されたり︑本来は貢納を免除されてい ヨた人々の一部にもそれが課せられることになった︒この重

圧に対してクスコ地域の原住民は反抗の意思を固めていっ たように思われる︒このことは︑スブデレガードらと利害

を異にする司祭が貢納の存在を疑問視し始めたことと無関 ヨ係ではあるまい︒例えば︑一八=年一〇月にパルロ地区

ヤウリスケの司祭フアソ・グァルベルト・メソディエタ

(言9口○ロ巴げΦ﹃8]≦Φコ象Φ8)は教区民に︑本国国会

(Oo﹃8︒︒)が既に貢納廃止の決議を行っていること︑判事  の命令に従う必要のない旨を説教したのだった︒司祭は土

着語を話して原住民と日常的に接していたから︑こうした ヨ教えが彼らに与えた影響は大きかったにちがいない︒

一八一二年に入るとスペイソ領アメリカ植民地の政治情

勢は急転する︒九月三〇日︑リマにおいてカジス憲法

(Ooコ︒︒葺二〇δ昌αΦ○巴冒︑一八一二年三月一九日発布)

が通達されると︑立憲的カビルドの議員選挙の実施と本国

国会への代表派遣要請の声が高まった︒ペルー副王領南部

の諸都市ではこれが契機となって︑クリオーリヨの間に現

状変革の期待が一挙に高まったのである︒クスコでは︑一

二月九日に憲法の写しが届く︒法律家ラミレス・デ・アレ

リャノ(力臥OΦ一力O日夙﹃ΦNαΦ﹀﹃Φ一一〇口○)らの尽力によっ

て選挙が実施され︑一八=二年二月一四日に立憲的カビル

ドが成立する︒クスコ市の新カビルドは︑地方行政に関し

一90一

(20)

てリマからの支配に抗議し︑また貢納をめぐるスブデレガー

ドの腐敗を告発するなど行政問題に介入してゆく︒こうし

た動きは︑憲法の適用を妨害しようとするクスコ・アウディ

エソシア(王党派)との対立を引き起こす︒一二月にラミ

レスらが当局に一時逮捕されるなど事態が悪化するなかで︑

当時のクスコ・アウディエソシア議長プマカウアは辞任し

たのだった︒一〇月一〇日にはクスコにおいてビセソテ・

アソグロ(≦8旨Φ﹀口σq三〇)︑ガブリエル・ベハル

(Ooげ二巴切ひ冨﹃)︑フアソ・カルバハル(冒o口○母ぴo冨憎)

ら立憲派のクリオーリョが逮捕される︒一一月五日︑クス

コ市の王党派守備隊が︑広場を占拠していた群衆に発砲し︑

多数の死傷者が出る︒クスコ・アウディエンシアはラミレ

スやアルカルデ(市会議長)のマルティソ・バレル(ζ壁冒

く巴Φ﹃)ら数人を告発した︒その結果︑一八一四年の初頭

にラミレス︑バレルらは逮捕され︑リマに収監されたのだっ

た︒

2プマカウアの反乱

プマカウアがスブデレガードにあてた貢納をめぐる文書

が残されている︒まずその内容を要約して紹介する︒

一八=二年三月二五日付の第一の文書は︑﹁一八一二年 のクリスマスに納めるテルシオ(8﹃90)﹂の貢納五五七ペ

ソの処置に関するものである︒プマカゥアは貢納徴収表を

添え︑スブデレガードに次の件を問合わせている︒﹁五五

七ペソ﹂をプマカゥアの裁量に委ねるか︑それとも財務府

に納入すべきかと︒第二の文書は︑一八=二年三月二七日

付であり︑貢納が八〇〇ペソしか集まらなかったことの理

由に関するものだ︒多くの原住民が死亡しており︑また大

勢の者が精神的・肉体的障害をうけているため︑貢納が徴

収できない旨の申し開きがなされている︒

第一の文書から︑貢納の年間徴収額については︑﹁五五

七ペソ﹂の数倍の額がチンチェーロから徴収されていたこ

とがわかる︒当時の貢納の著しい高まりが察せられる︒ま

たこの額を財務府に納入すべきか否かの問合わせは︑本国

における貢納の廃止決議を熟知したうえでのプマカウアの

発言と解せられる︒

第二の文書には多くの原住民の死亡や精神的・肉体的障

害状態が記されているが︑これはアルトペルーで戦った当

地の原住民たちの末路を示しているのではあるまいか︒一

八=年のアルトペルーの反乱鎮圧の功績によってプマカ

ウアは﹁准将﹂及び﹁クスコ・アウディエソシア議長﹂と

(21)

いう名誉ある地位に就きはしたものの︑戦闘の後遺症は決

して小さくはなかったと考えられる︒多数の戦没者や傷病

者を出した結果︑カシケでもあるプマカウアは貢納の徴収

に行き詰まってしまったものと思われる︒

一八一四年五月︑スペイソでは国王フェルナソド七世が

復位する︒彼はただちにカジス憲法を停止し︑それまでに

なされていた国会の諸決議を無効とした︒国会を閉鎖して

再び絶対君主となり︑旧来の特権を回復してゆく︒またア

メリカ大陸での独立運動を鎮圧するために軍事力の増強を

はかり︑対応に乗り出した︒これはスペイソ領アメリカに

とり深刻な事態となった︒

クスコではホセ・アソグロ(アバソカイ地区アバソカイ

の地主)を中心とするアソグロ一族︹ビセソテ︑マリァノ

(]≦〇二〇ロ○)︑聖職者フアソ(冒o口)︺が憲法の遵守やアル

カバラの廃止をはじめ諸改革の実施を求めるクリオーリョ

やメスティソの支持をうけて︑王党派を代表するアウディ

エソシアと対立していた︒一八一四年八月三日︑アソグロ

一族を中心に公開カビルドに集まったクリオーリョらはス

ペイソからの解放をめざして反乱に立ち上がった︒そして

この反乱の指導者となったのがプマカウアや司祭のフラソ シスコ・カラスコソ(閃冨口o冨ooOo旨窃oひ口︑スペイソ人)

  であった︒プマカウアは今度は王党派としてではなく︑

﹁独立派﹂を率いて戦うに至ったのである︒またカラスコ

ソは単にペルーだけの独立を志向したのではない︒新大陸

全体にわたる遠大な独立国樹立の構想を抱いていたという︒

さらにその首都をリマにではなくクスコに置くべきだとの

言明からも察せられるように︑クスコ中心主義の考えをもっ

た人であった︒ジョソ・フィッシャーは︑この﹁クスコ中

心主義﹂はカラスコソ一人の考えではなく︑反乱した民衆

の意思を反映したものと捉えている︒ルイス・ミゲル・グ

ラベは︑この反乱のイデオロギーをシエラ南部に俳徊して

いた﹁イソカ(イソカ帝国)﹂の建設願望と捉え︑ペルー

南部の人々の総動員をめざすうえでクスコは最高の舞台だっ

たと述べている︒

反乱はクスコからプーノやラパス︑ワマソガ︑アレキパ

等の諸都市に広がった︒この具体的経過や内容等について

は枚数の都合で多くを割愛するが︑反乱軍の構成や行動等

の骨子を最小限度印しておく︒一八一四年八月中旬に司祭

イルデフォソソ・ムニェカス(一一α①hOb﹁ooO]≦仁諏①Sω)と大

尉マヌエル・ピネロ(7臼Oコ仁Φ一勺一b﹁Φ一〇)が指揮する第一師

一92

(22)

団はプーノ︑ラパスに向かって出陣する︒ペルー南部やア

ルトペルーから多くの原住民がこれに参加する︒九月一四

日︑反乱軍はラパス近郊にあってその軍勢は約五〇〇人の

小銃兵と投石器・槍・石付き棍棒で武装した二万人の原住

民からなっていたという︒ワマンガをめざした司祭ベハル︑

マリアノ︑ウルタド・デ・メソドサ(出仁﹃eO山OαΦ冨口αONO)

の率いる第二師団もまた途中で大勢の人々の支持を得て膨

らむ︒プマカゥアとビセソテの率いる第三師団は約五〇〇

人の小銃兵と武装した五︑○○○人の原住民より成り︑ア

レキパに進撃する︒

副王アバスカルは陸軍元帥フランシスコ・ピコアガ

(閃﹃oロo一ωoOコoOoσqo)の率いるリマの部隊をアレキパに差

し向けた︒一八一四年=月九日︑アレキパ市近郊ラ・ア

パチェタの戦いで解放軍は︑アレキパのインテンデソテの

ホセ・ガブリエル・モスコーソ(].o︒︒①○ロげユΦ=≦o︒︒ooωo︑

図3参照)の軍に合流したリマの部隊からなる王党軍を撃

破した︒モスコーソとピコアガをはじめ指揮官の多くが捕

虜となる︒この中にはアレキパ・オリガルキー﹁二〇家族﹂

に含まれる最有力者のマテオ・コシオ(図2参照)︑マヌ

エル・フェルナンド・アレドンド(]≦oロロΦ一閃Φ﹃口oコαo ﹀塁Φαo巳o︑図1参照)︑コシオの義理の息子ホセ・メナ

ウト(冒ω0ζ8餌三︑商人︒図2参照)︑フラソシスコ・

デ・ラ・フエンテ(男雷昌o一ωooαΦ一〇閃ロΦロ8︑鉱山業者)

らがいたのだった︒アレキパの王党派は一時的に勢力を弱

められる︒クスコから到着した解放軍に対するアレキパの

人々の対応は様々であった︒プマカウアらは=月一二日

に公開カビルドを召集し︑アレキパ市民らと将来の展望を

討議している︒下級聖職者の多くが解放軍に同調した︒例

えば︑司祭のホセ・デ・アルセ(]≦〇二〇コo﹄o︒︒ひ畠Φ︾容Φ)

はフェルナンド七世を暴君として公然と非難するとともに︑

スペイソからの独立宣言を行うよう人々に訴えた︒ホセ・

マリア・コルバチョ(﹄oω0ζ碧♂00﹃ぴ8げo︑法律家にし

てサソ・ヘロニモ学院の教師︒アルセの同僚)もまた解放

軍に協力した一人だった︒しかしアレキパ司教ルイス・ゴ

ンサガ・デ・ラ・エンシーナ(い巳︒︒OoコN餌σQoαΦδ

国口oぎo︑バスク地方出身︒アレキパに来る前はカナリア

諸島に在住)は独立に反対だった︒モケグア市に拠って解

放軍と敵対している︒

一八一四年一一月三〇日︑解放軍はアレキパの占拠を中

止し︑モスコーソとピコアガを捕虜にしてシエラに引きあ

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