「文 学とジェンダー」 2014. 11.8/12.13

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第1回 魔女から美魔女へ

─比較文学的に考える─

第2回 終わりの予感─『コリンヌ』のヴェネツィア 坂本 千代 村田 京子 堀江 珠喜

第18 期 女性学講演会 第1部

「文 学とジェンダー」

2014. 11.8/12.13

大阪府立大学  女性学研究センター

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15 絵画・彫像で読み解く『コリンヌ』の物語 30

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魔女から美魔女へ

――比較文学的に考える――

堀江 珠喜

 今年7月2日、小保方晴子氏をスタップ細胞再現検証実験に参加させる にあたっての厳しい監視体制について、理化学研究所側が会見で「なにか 魔法で持ち込むのではないか」との疑念を抱かせないためという旨の発言 をした。確かにかつて「科学」が「魔法」と同義語のようにいかがわしい こともあった。錬金術などはまさにその好例であろう。だが、たとえ何か が持ち込まれるとしても、決してそれは魔法によるわけがあるまい。コピ ペにしても、単に彼女の怠慢の証にすぎない。もし小保方氏が美形の若い 女性ではなくて初老男性であったとしても、このような嫌がらせの言葉が 吐かれたであろうか。この化学実験に関して「魔法」という言葉が用いら れたのは、まさに魔女裁判を連想させる。まるで彼女を「魔法使い」すな わち「魔女」と決めつけているようである。彼女が魔女なら、オレンジジュー スからスタップ細胞を簡単に作り出したことだろうに。そこで今回は、西 洋で昔から語られて来た「魔女」から現代日本の「美魔女」まで、その存 在について比較文学的に考えてみたい。

《「魔女」という言葉》

 そもそも日本語の「魔女」という言葉は明治以降に作られた、英語 witch の翻訳語のようである。(なお 10 世紀末には「魔女」を「まにょ」

と読んだ仏教用語があり「魔界に住む女、また悪魔の娘」を意味したがそ

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の後は使われなくなったようだ。)『大辞林』によれば、「(1)古くからの ヨーロッパの俗信で人に害悪を与える魔力をそなえているという女性。魔 薬や呪法を用いて種々の害悪・病・死などをもたらすとされた。(2)悪 魔のような女。また、不思議な力を持った女」とある。ちなみに『日本国 語辞典』はこれらのような定義に加えて「男の心をとらえて離さないあや しい魅力をもった女」や「普通の人にはない、特別にすぐれた能力をもつ 女性」と記しているが、この意味については改めて後述したい。

 さて『大辞林』が「魔女狩り」を「ヨーロッパの宗教改革前後における、

教会ないし民衆による組織的・狂信的な、異端者摘発・追放の運動」とま とめた的確さは、おそらく多くの日本人がこの言葉について持つ誤ったイ メージを改めてくれるのではあるまいか。宗教改革は 1517 年、ドイツ人 ルターが教皇レオ 10 世の免罪符販売を攻撃したことで始まり、その結果、

カトリックから分離してプロテスタントが新派を作ったのだ。魔女狩りと は、その時代に、両派が相手を意識し、より厳格な宗教体質を身内に求め、

その規範に外れると思しき者を処刑した狂乱の行為、つまりある種の内ゲ バとみなすのが適切であるようだ。そしてドイツ圏での犠牲者が多い。(黒 川正剛が『図説魔女狩り』で紹介している統計によれば、1600 年頃の人 口に対する魔女の処刑率がスペインでは 27000 人に1人なのに対しドイ ツでは 640 人に1人、なんとスイスでは 250 人に1人、リヒテンシュタ インでは 10 人に1人と狂気の沙汰だったことがわかる。)

 だが、概して我々は、「魔女狩り」が中世のスペインで行われたような イメージを抱くきらいがありはしないか。実はこちらは、「宗教裁判」で

「魔女狩り(または魔女裁判)」ではない。魔女ではなく異端者を聖職者が 審問するのである。つまり被告は「魔法」の類の罪ではなく、信仰のあり 方、教義の解釈の相違によって裁かれたのだ。

 ところで、日本語が witch を「魔女」なる言葉で「女性」と決めつけ たために、「魔女狩り」を語るときに「男の魔女」といった奇妙な言葉を 使わねばならなくなっている。もともと英語 witch は男性の魔法使いを 表した言葉なのだ。9世紀の古代英語に男性の魔法使いを意味する wicca ( ウィッチャ)が使われていたが、この女性形 wicce は 11 世紀になって

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登場する。現代英語の witch になってからも男性を表した変遷については

『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』に詳しい。事 実 19 世紀までは男性を指すこともあったのだ。ではなぜ、witch が、女 性に限定されるように使われ始めたのだろうか。

 そのヒントは、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』から得ることが できそうだ。これは 1881 〜 1906 年に彼が週刊新聞に連載した言葉の皮 肉な定義を編集し一冊にまとめたものである。これによれば witch は「(1)

醜く胸の悪くなる老女で、悪魔と邪悪な連盟(リーグ)を結んでいる。(2)

美しく魅力的な若い婦人で、邪悪さにかけては一リーグ(約四 . 八キロ)

も悪魔を引き離している。」(筒井康隆訳)とある。後者は、まさしく『日 本国語辞典』の「男の心をとらえて離さないあやしい魅力をもった女」の 登場だ。大衆はこれを喜んで読んだことだろう。つまり多くの者は、この ような魔女像を歓迎したと思われるのだ。

 もちろん(1)の老婆は童話などによく登場する「魔法使いタイプ」だ が、(2)なら主役級の人気者になれるだろう。そしてもはや魔女裁判な どがない近代諸国においては、大衆文化で美しい魔女が人気を博してゆく のである。おそらくロマンチシズムの流行により、人々が幻想的、非日常 的存在への憧れを抱くようになったことも、その一因であろう。

《魔女の人気》

 たとえば 1930 年代にアメリカのコミックから始まり 1960 年代には テレビドラマ、1990 年代には映画、そして 2008 年にはブロードウェイ ミュージカルにまでなった『アダムス・ファミリー』の女主人モティーシャ も魔女である。またテレビドラマ『奥様は魔女』や『可愛い魔女ジニー』

など 1960 年代に、テレビは魅力的な魔女を放映し続けた。子供向けには、

(美女ではないが)メアリー・ポピンズも空を飛んで、魔法を使うことから、

明らかに「魔女」である。ただ原作には一言もそうは書かれていない。こ の言葉が持つ反キリスト教的イメージを恐れたのか、あるいは witch なる 言葉で既存のイメージが当てはめられることを避けたかったのかもしれな

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い。だがいずれにせよ、この本を愛読する子供たちは皆、彼女の超能力に 魅せられるのだ。

 私の子供時代(1960 年代半ば)には NHK の人気テレビ番組『ひょっ こりひょうたん島』に、魔女が登場した。悪役ではあったが電気掃除機に 乗る魔女リカや、マジョリタンの3人の魔女、パトラ、ペラ、ルナの存在 感が大きかったことは、半世紀経った今でもよく覚えていることから明ら かであろう。その少し後には『魔法使いサリー』が子供向け番組として放 映された。

 また現代人においても、「魔女」は、体制に対し、大なり小なりうんざ りしている、あるいはちょっと好奇心のある人心を惑わせるほどに魅力的 な存在だろう。2013 年には映画『白雪姫』が2作公開されて話題になっ たし、2014 年は『アナと雪の女王』が大ヒットしたほか、『眠れる森の美女』

が『マレフィセント』という妖精の名前を作品名にし、アンジェリーナ・

ジョリーがそのタイトルロールを務めるなど、公開前から大作を印象付け た。魔力を持つ雪の女王も白雪姫の継母も妖精も「魔女」である。しかし 極めつけはユニバーサル・スタジオ・ジャパンで 450 億円かけた「ハリー・

ポッター」の人気であろう。キリスト教的魔女裁判のない現在、人々は自 由に「魔法」の世界を楽しむのである。そして魔法使いや魔女は、ヒーロー でありヒロインである。

 「悪女」や「毒婦」があって「悪男」や「毒郎」がないのと同じ女性蔑 視の文化土壌がうかがえるが、同時に、男性社会が女性に対する憧れであ れ蔑視であれ、(そしておそらく性的に)常に女性に関心を持ち続けてい ることは事実である。拙著『男はなぜ悪女にひかれるのか』でも言及した が、古今東西のことわざは女性についての悪口が多いし、漢字も女偏の字 が「男」の付く字に比べて圧倒的に多い。女性蔑視は女性に対する強迫観 念的な興味の裏返しかと思いたくなるほどである。

 従って西洋においても男性が美しい女性に興味を持つ以上、「魔女」が 醜い老婆ではなく「魔力を持つ美女」であったほうが話が盛り上がるし、

男性が性的に堕落するのはこうした魔女の巧みな誘惑によるものだと責任 を転嫁したいのである。欲望に負けるのは弱い人間だが、悪魔の力を後ろ

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盾にした女の企みからは逃れられないだろう。マーケットもそんな男心を 理解しているから、「魔女」を売り物にした話を量産するのは当然なのだ。

 事実、西洋の神話・伝説ではキルケのように、美しい魔女が男性を誘惑 して、その命を奪うというストーリーが点在する。ちなみにこのキルケが オデュッセウスを虜にし、彼の部下たちを豚に変えた神話の舞台について、

イタリア中部のふたつの高級リゾート地、ポンツァとサンフェリーチェ・

チルチェオが自分たちの町こそがその場所であると主張して譲らないと

『ニューズウィーク』(2014 年 2 月 28 日号)は報じている。観光客誘致 にとって、この魔女伝説が大いに有効なのだ。

 近代日本では「魔女」を悪役とみなしても、ヒステリックに退治しなけ ればならない反宗教的対象との感覚はなかった。なにより、我が国で「魔 女」という言葉が用いられたときには西洋でも魔女裁判はすでに終焉して いたし、日本におけるキリスト教徒人口は1%といわれているほどマイノ リティなのである。従って最近はクリスマスばかりではなく、ハロウィン に盛り上がる若者が増え、その経済効果は聖バレンタインデーを越えると の予想が 2014 年 10 月 23 日付日本経済新聞の春秋で紹介されていたほ どだ。今は「愛」より「化け物」の時代らしい。なるほど子供向けには『妖 怪ウォッチ』とやらのゲームが 2013 年に発売されて以来、そのコミック、

テレビアニメ、映画、主題歌、関連商品なども大ヒットしている。

《魔女とは誰か》

 既に述べたように、一般に魔女狩りはヨーロッパ中世の暗黒時代の迷信 深い人々の所業というイメージがある。だが、中世に行われたのは異端審 問であり、魔女狩りではなかった。ここでいう異端者とは、時の法王庁と 信仰について考え方の違う、ある意味熱心なキリスト教徒であった。しか しそれは法王庁の権威を揺るがすゆえに、対処しなければならなかったの である。

 中世にも魔女とみなされた人々はいたが、「有害な呪詛を行う者」であ り反キリスト教的存在ではなかった。魔女狩りが盛んになる時代の「魔女

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が悪魔と結託している」とみなされたのとは認識が異なっている。実際に 魔女狩りが始まるのは中世末だが、本格化するのは西欧においては 16 世 紀後半以降、東欧と米国においては 17 世紀以降といわれている。そして 黒猫を従え、箒に乗って飛ぶという姿も、実は中世ではなく 16 世紀以降 に作り上げられたようである。(西洋では箒は男性性器、猫は女性性器を 表すので、魔女が悪魔とみだらな関係にあるとのイメージ発信に効果的で ある。)

 さらに、これも我々が抱くイメージとおそらくは異なるのだが、カト リックよりもプロテスタントにおいて、むしろ魔女狩りは盛んに行われた のだ。先に述べたようにラテン系よりもむしろゲルマン系諸国で数多く真 面目に行われた。(ひょっとしたら我々は西洋文化や歴史を、たとえば映 画などプロテスタント的ニュースソースから得るきらいがあったのかもし れない。)ヨーロッパにおいて、ルネサンスの開始時期が異なるため、一 概にはいえないのだが、1400 〜 1800 年のあいだに約5万人が処刑され、

その8割が女性であったといわれている。

 そしてその魔女狩りは「出エジプト記」22 章 18 節「魔術をつかふ女 を生かしおくべからず」という一節が正当化したのである。これはおそら く英語の witch を訳したものと思われる。英語の聖書ではここで女性とは 規定していない。「出エジプト記」の主人公たるモーセ自身も「魔法」を 用いている。ただし、体制側の宗教家たちにとって歓迎すべき魔術なら「奇 跡」とされ、不都合であった場合は実行者を「魔女」として迫害、処刑し たと考えられるのだ。

 では西洋では、魔女とは何者だったのか? 魔法を使った女性が、昔は 多かったなどとは誰も思うまい。前述のように国や時代に依っても異なる が、おおむね「女性」が魔女裁判で処刑されたことから、まず産婆=魔女 説が、有力である。その理由には次のようなことが考えられる。

(1)産婆と教会とは対立関係になりやすかった。

 産婆は医学に通じていたため薬草などで薬を作った。ところが、製薬こ そ魔女の生業とみなされていた。たとえばシェイクスピアの『マクベス』

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で3人の魔女は、第4幕の始めで怪しげな材料を大釜で煮て薬を作ってい る。(ちなみに外国船での演劇ワークショップでこの魔女役の希望者を募 ると、半数以上が手を挙げるほどの人気であった。醜い老婆役ではあるが、

演劇好きなら一度は読んでみたい台詞なのである。なにより魔女たちはこ の作品の冒頭でも登場して観衆を劇に引き込むという重要な役割を与えら れているのだ。名台詞 fair is foul, and foul is fair を3人が口を揃えて言う のは印象的だし、それほどに魔女のキャラクターが魅力的であることの証 であろう。)

 ところが本来、教会は祈りによって病気を癒してもらう、もし治らなけ れば、それが神の意志だとみなし、積極的な治療には反対の立場であった。

そのような教会にとって、神の慈悲を無視して投薬などで治療する産婆は 腹立たしい存在に違いない。

 しかし実際的に医療の必要性が認められるようになると、次には教会が、

薬の製造を始めた。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』では、二 人の結婚に立ち会った神父が、仮死に陥る薬をジュリエットに渡すなど、

様々な製薬を行っている。教会によっては同じ建物内に薬局を開くことも あった。すると、教会と産婆は商売敵となる。

 また時代と場所によって、産婆は出産において、それが死産などの場合、

洗礼を授ける資格を与えられていたらしい。大急ぎで処理しなければ、死 者が天国に行けないからである。このとき、産婆と教会とは良い関係にあっ たようだが、カトリックは今でも女性の司祭を認めていない。そのような 女性差別がさらに強かった時代に、このような産婆の特権について聖職者 が皆、心から同意していたとは思えない。むしろその失脚を望んでいたの ではあるまいか。

 

(2)産婆は為政者とも対立関係になりやすかった。

 産婆は婦人科系の知識が豊富であったため、出産だけではなく、避妊や 中絶の方法も熟知していた。貧しい人々にとって、そのような産婆の助言 や処置は有難いものだったが、為政者にとって少子化は国力低下や軍の弱 体化の原因となり、徴税にも影響する。教会にとっても区域の信者数の減

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少は決して望ましいことではなかった。そこで両者とも、避妊や中絶の知 識のある産婆を目の敵にしたのである。

(3)産婆は一般人とも対立関係になりやすかった。

 現在でも分娩が不幸な結果をもたらすことがある。ましてや昔の新生児 の死亡率はどれほど高かっただろうか。死産や生まれて間もない子供の死 が、産婆のせいにされて「殺した」と疑われたのだ。もちろんなかには本 当に産婆が失敗したこともあっただろう。だが子供が生まれるのを楽しみ にしていた者が、その悲しみのはけ口を求めるべく、産婆に責任を押し付 けたこともあったに違いない。さらには、悪魔の儀式で赤ん坊の死体が用 いられると噂されたことから、そのような死体が入手しやすい産婆に「魔 女」のレッテルが貼られたようだ。

 さらに、教会が医学を認め、男性が医者(内科のこと。外科は床屋が兼 業)を名誉ある職業として選べるようになると、男性のみが学べる医学と 産婆の民間医療が対立することがあった。医者にかかる経済的余裕のない 貧民は産婆にかかり、中産階級以上は医者に治療してもらう。しかしとも すれば、当時の医学より民間医療のほうが効果があり、さらに医者と産婆、

支配層対被支配層の構図も生まれたのである。産婆が診療、治療、看護ま で行うことも患者の容態を常に把握できて好ましかったようだ。いっぽう 医者の治療で悪名高いのが「瀉血」で、このため患者はますます衰弱して いったのである。

 そもそも西洋医学では、白人男性が栄誉を独占する傾向にあった。たと えば 1796 年にジェンナーが種痘を発見したとされているが、この免疫法 はトルコですでにアラブ人によって一般的に行われており、実際に英国の 医者も 1700 年には知っていたが、リスクを伴うので実施しなかった。天 然痘に罹ってあばたのできたレディ・メアリー・モンタギューが、1716 年、

トルコ大使となった夫とともにコンスタンティノープルに渡って、これを 知り、英国人医師を説得して4歳の息子に接種させたのが、英国人の種痘 の最初と伝えられている。帰国後の 1721 年に英国で天然痘が流行し、メ アリーは3歳の娘にも種痘を受けさせた。彼女の二人の子供の接種が成功

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したので、時の英国皇太子も2人の娘に受けさせることにした。伯爵家出 身のメアリーの勇気ある行為なので王室をも動かせたのだが、聖職者たち は納得せず抗議文を書いたほどであった。これが 18 世紀の英国だったか ら良かったが、もし 16 世紀のドイツなら魔女の仕業とみなされたに違い ない。ジェンナーはより安全な種痘を開発したことの功績はあるものの、

それ以前からいわば人体実験がなされていたことになる。そして、メアリー の英断なくしては、ジェンナーの栄光も考えられないのだ。

《黒い羊=魔女説》

 もちろん産婆以外にも「魔女」はいた。天然痘やペストなどの疫病が、

かつては「魔女」のせいで流行すると考えられた。また災害についても、「魔 女」のせいにされた。このような災難についての対策が後手に回るのはい つの時代の政府も同じであろう。そこで庶民の不安や不満を解消するため、

その責任を「魔女」に転嫁したのである。天災や疫病で愛する家族を失っ て、やるせない気持ちの人々が、それを企んだ者の処刑を望むのは当然の 成り行きである。

 そんなときに「魔女」の疑いをかけられたのは、その地域で嫌がられて いた者たち、とりわけ独り暮らしの貧しい老婆やユダヤ人、売春婦であっ た。この独居老婆は童話に登場する魔法使いのおばあさんを連想させよう。

守ってくれる男性も財産もない弱い女性はいつの時代も犠牲者になりやす かったのだ。また「魔女」に男性が含まれ、とくにロシアで男性の魔女が 多く処刑された理由のひとつは、性別を問わず「ユダヤ人」を「魔女」と して迫害したためではあるまいか。また売春婦は「男性をたぶらかす」と みなされたのだろう。キリスト教において「誘惑」こそがもっとも悪魔的 な所業なのだ。そしていつの時代も買春者が罰せられることはほとんどな い。いずれにせよ、人権という概念のない時代、彼らを酷い目に遭わせて も、一般庶民が同情して反論する心配はなかったのである。

 しかし文字通りの「魔女裁判」の時代は終わっても、比喩的な意味での 魔女裁判はいつの時代にも社会不安とともに起こる。そしてその場合は、

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この老婆や娼婦、ユダヤ人のように、根拠無くデマなど誤った情報で、無 実の人々が断罪されたり、リンチに遭うのである。それに実際的な暴力が 伴うこともあれば、社会から抹殺されるという「死」がもたらされること もあろう。(『ニューズウィーク』2014 年 6 月 24 日号によれば、アメリ カの「あらゆる形態の差別的偏見」と闘うユダヤ系団体・名誉毀損防止連 盟が世界 100 カ国を対象に行った調査では、「4人に1人が『反ユダヤ感 情に染まっている』ことが分かった」そうで、これなどまさに現代の魔女 狩りの土壌があることを示していよう。)

 さらに、これらの恵まれない者たちがほぼ一掃されると、一般市民、と くに小金持ちが狙われることがあった。魔女として処刑することで、教会 や為政者が彼らの財産を没収できるからである。その場合、大金持ちは為 政者と結びついているので安全だったのだ。魔女であることは拷問によっ て自白させ、また他の魔女についても密告させればいい。自白しなくても、

たとえばコロンビアのカルタヘナでは 17 世紀の魔女裁判についての展示 をする博物館があるが、体重計などで強引に「魔女」と決めつけられた。

軽ければ「空を飛ぶ」という理由で、重ければ「体の中に悪霊が満ちてい る」として、いずれにしても処刑は免れなかったのだ。

《昭和における宮中の「魔女」》

 西洋のような魔女狩りの歴史のない我が国のマスコミが「魔女」という 言葉を最初に派手に用いたのは、1964 年の東京オリンピックで大活躍し た女子バレーボール選手たちについてではなかっただろうか。その「東洋 の魔女」は、もちろん『日本国語辞典』の「普通の人にはない、特別にす ぐれた能力をもつ女性」を表す褒め言葉であった。その興奮がまだ冷めぬ 1966 年 1 月 3 日から 1971 年7月 30 日まで、当時の侍従長・入江相政 は日記に「魔女」なる言葉で、皇后の女官、今城誼子について酷評し続けた。

やんごとなき世界では、やはり言葉の用い方が世間一般と異なるらしい。

 このときの事情については、河原敏明著『昭和の皇室をゆるがせた女性 たち』(2004)に詳しい。結局のところ彼女は伝統・保守派の良子皇后に

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味方し、合理・改革派の入江と価値観が合わなかったのだが、それだけで はなく、勤務時間中に飲酒する入江とは対照的に、彼女は自他に厳しかっ た。そのような勤務態度ゆえに今城は良子皇后の信頼を得たのだが、その ことにまた入江は嫉妬したようだ。

 そもそも今城と入江は、どちらも堂上子爵家出身で天皇家とのつながり もよく似ている。今城の父親が明治天皇の生母・慶子の里、中山家の分家 に当たるのに対し、入江は大正天皇の生母・愛子の姪を母親としている。

もしこの 2 人の出自レベルにかなりの差があったなら、確固たる上下関 係が成立し、騒ぎを起こすこともなかったのではあるまいか。結局、今城 は、昭和天皇を味方につけた入江たちに追い出された。おそらくは、良子 皇后の権力が宮中においてかなり弱くなっていたのだろう。

 今城が辞職した後も、良子皇后は寂しさのあまり彼女に電話をかけたが、

ほどなく宮中での電話機が不足しているとの理由で皇后からその一台が取 り上げられた。つまり、皇后のためにこの程度のことすら取りなす者が、

いなかったことになる。戦後は側近といえどもサラリーマンだから、事な かれ主義に徹していたのだろう。入江にとって、本当に鬱陶しかったのは 皇后だろうが、それではあまりに恐れ多いので、今城を目の敵にして追い 出し、それによって皇后への嫌がらせを行ったと思われる。

《現代日本の美魔女とは》

 このように組織における嫌われ者を「魔女」とみなすこともあったが、

それとは対照的に、いつの時代にも「魔法」や「魔女」は人気があった。

だからこそ、体制派の宗教組織や為政者には都合が悪く、迫害や拷問、処 刑の恐怖によって人々の心を引き戻そうとしたのではあるまいか。「魔女 裁判」の時代は遥か彼方であるが、現代における「魔女」とは、次の3種 類が考えられる。

(1)あくまでドラマやアニメーション、アトラクションなど「フィク ション」の登場人物。

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(2)社会にとって都合の悪い、忌むべき人々。もはや「魔女」という言葉 は用いないが行われることは、かつての「魔女狩り」と同じである。

(3)日本における美魔女。

 そこで最後に「美魔女」について考えたい。池上俊一著『魔女と聖女』

(講談社、1992)によれば「中世最古の医学センターというべき南イタリ アのサレルノでは、数多くの女性が医学と薬学を学んだようである。女性 は婦人病学や化粧術だけではなく、日焼けなど軽い病の治癒も得意とした」

ということだ。どうやら女性が学んだのは、いわゆる家庭医学や、化粧品 というある種の薬品を用いた治療や予防であったのではあるまいか。しか し医術を施す女性は「魔女」である。つまり、美容術は女性にとって大事 な医術あるいは魔術であったと考えられるし、現代日本の美容術を頼みと する美形の熟年女性すなわち「美魔女」は、はからずもここに起源を見出 すこともできそうだ。

 「美魔女」がもっとも熱心なのは「アンチエイジング」法であろう。プ ラセンタはコラーゲン以上にその強い味方とみなされているようだが、「プ ラセンタ」とは胎盤のことである。なんだか産婆=魔女を連想してしまう ではないか。アンチエイジング化粧品の広告をみると「プラセンタ原液 100%の美容液」とあったりする。成分を読むとプラセンタエキスと記さ れている。プラセンタエキスとは、胎盤の成分をエタノールで抽出したも のだが、これだけではどの哺乳類なのかは不明である。もし本物のプラセ ンタエキスなら、動物愛護団体が黙っているのがおかしいだろう。もっと 奇妙なのは別の広告で、「植物性プラセンタ」なる言葉すら使われている ことだ。植物に胎盤があるとは、牧野富太郎博士ですらご存知なかっただ ろう。

 さて、そもそも現代日本の「美魔女」という概念は、40 代女性をターゲッ トにする月刊誌『ストーリー』と『美ストーリー(後に美 ST に名称変更)』

編集長・山本由樹によって 2009 年後期に仕掛けられた。きっかけは、裕 福な夫に顧みられなくなった専業主婦の妻が綺麗になるよう努力し、恋人 ができ、夫からも見直されるという事象と、45 歳の女性はファッション

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よりも美容にカネをかける、なぜならファッションの力だけでは若返れな いからという読者の動向を知ったことである。そしてシミ、しわ、たるみ の悩みに向き合うアンチエイジング新市場を見出したのだ。

 彼の戦略は、「まだ認知されていない、人々の欲望をマーケティングし、

それをコンテンツ化、ブーム化できれば、そこには新たな消費が発生」す るということである。つまり 40 代(いわゆるバブル世代)の、まだ女性 としてみられたいとの密かなる欲望を見つけ、そのためのノウハウを雑誌 で毎月、発信することに成功したのだが、そのときに、すべての 40 代の 女性ではなく、経済的に恵まれたもともと綺麗な女性に的を絞っている。

つまり素人セレブをファッション・ビューティリーダーにすることにより、

他の女性の憧れを誘うのである。

 「美魔女」という言葉は、あるとき山本が写真をチェックしていたとき「こ の年齢でこの若さって、魔法を使っているとしか思えないよな。美しい魔 女だから美魔女って呼ぼう」という単純な発想によるものであった。さら にこのブームを広めるため、2010 年 11 月、応募資格が 35 歳以上の女 性という「第一回国民的美魔女コンテスト」を開催し、ファイナル 20 人 を読者モデルに採用したのだ。このイヴェントのタイトルは、もちろん「国 民的美少女コンテスト」のもじりである。

 「美魔女」という言葉には賛否がわかれるのだが、それはそれだけ強烈 な表現ということで、発信力に期待できるということなのだ。韓国の女性 誌ではクリスチャンが3割いるため、この言葉がネガティブ過ぎるとして

「K - Queen」となったらしいが、これでは良くも悪くも印象に残らないだ ろう。

 このように「美魔女」とは「年齢を超越した若さと美しさを持つミドル エイジ女性」を指す言葉として、今や市民権を得たのだが、これはあくま で日本だけの話である。なぜなら欧米では若く見えることが、さほど重要 ではない。日本の男性は、とにかく若い女性を好む傾向があるが、欧米の 男性はそうではない。また欧米では、経済的にある程度ゆとりのある女性 なら、どんな年齢になってもおしゃれ心を忘れない。欧米は伝統的にカッ プル社会のため、パートナーとの外出が多いということも、美しいシニア

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女性を育てているのだろう。欧米のしかるべき場所の照明は、日本のよう な明るさ重視ではなく、女性の肌を美しく見せるような色調のものやキャ ンドルが用いられ、中高年女性の味方である。そのような文化において、

いまさら「美魔女」などを提唱する必要はないのだ。

 してみれば、昨今の「美魔女」ブームは、日本がまだ男性中心社会で女 性が家庭を守り、美容にも服装にも無頓着になってゆくきらいがあり、男 性は若い水商売の女性をからめた飲食接待やゴルフ接待で家庭を顧みない という、経済的に恵まれた階層を反映しているのである。もちろん美しく なることは決して悪いことではないが、現代の「美魔女商法」が、美貌の 衰えを心配する、経済的余裕のあるアラフォーの不安につけ込んでいるこ とは事実だ。山本自身、「美魔女って、けっこうブスなんです。.... 彼女た ちは『努力する普通の人たち』なんです」と言い切っている。つまり、雑 誌情報に忠実にアンチエイジング化粧品、プチ整形、ダイエットなどを取 り入れて「努力」すれば、「努力」していないオバサンよりは当然ながら 美しく見えるようになるのだ。しかしそのような「美魔女」は褒め言葉で はなく、情報に振り回される自信のない女性の危うい姿にも思えてくる。

かつての西洋の産婆は「魔女」として迫害されるリスクを負いながらも、

人類にとってなくてはならない仕事をしているとの自負があったはずだ。

それに比べて現代日本の「美魔女」は、美容ビジネスに踊らされる虚しい 存在とも思えてくるのである。

*本稿は 2014 年 11 月 8 日に行った講演「魔女から美魔女へ ――比較 文学的に考える」をもとに「読み物」として一部変更・加筆したもので ある。

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終わりの予感

――『コリンヌ』のヴェネツィア

坂本 千代

 ジェルメーヌ・ド・スタール夫人が 1807 年に出版した『コリンヌ、あ るいはイタリア』(本稿では『コリンヌ』と略す)は 19 世紀前半のヨー ロッパで大いにもてはやされ、作者の同時代人たちおよびその後の世代に 大きな影響を与えながらも、現代においては比較的かえりみられることの 少ない作品である。この点では、彼女の恋人であったバンジャマン・コン スタンの『アドルフ』が現在もフランス心理小説の傑作として取り上げら れ、ひろく読まれているのとは対照的である。日本語訳も『コリンヌ』は 1 種類しかないのに対して、『アドルフ』の方は少なくとも 9 種類存在し ている。この違いはどこからくるのだろうか。両作品とも男女の恋愛を扱っ ており、その主人公にいくらか作者の面影をただよわせ、その悲劇の顛末 に作者の経験した恋の一部を投影している点では共通している。だが、コ ンスタンの作品が恋愛とその心理(特に恋が冷めていく過程)を徹底的に 描き、それ以外の要素を極力排しているのに対して、スタール夫人はこの 小説の中に当時のイタリアをめぐるさまざまな考察や文明論・文化論を投 入し、さらに一種のイタリア観光案内のような趣さえ加えているのである。

『コリンヌ』のこの点が 19 世前半、まだまだ外国旅行が一般的ではなかっ た時代の西ヨーロッパの人々の異国趣味や知的好奇心を刺激したのであろ う。

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図版 1:スタール夫人 図版2:コンスタン

 本稿ではまずこの長編小説の主題について考察したあと、ヴェネツィア でのエピソードについて検討する。これは小説の後半の山場であり、イタ リアにおける主人公たちの物語がひとまず終わって、その後の破局に向か う直前のエピソードである。スタール夫人はなぜ 1795 年のヴェネツィア を主人公たちの別れの舞台として選んだのか、そこには何が描かれ、どの ように解釈することができるのかを中心に、この本の読解の一例を示すの が本稿の目的である。

1.スタール夫人と『コリンヌ』

 のちにスタール夫人となるジェルメーヌ・ネッケルは 1766 年にパリで 生まれた。父はルイ16世の財務総監を務めたジュネーヴ人の銀行家ジャッ ク・ネッケルである。平民ながら大金持ちの有力者のひとり娘であるジェ ルメーヌは、幼いころから英才教育を受け、母のサロンでもてはやされる 天才少女であった。彼女は 1786 年にパリ駐在のスウェーデン大使と結婚 してスタール男爵夫人となり、その知性と社交性で当時のパリの有名な社 交サロンの女主人となった。やがて、1789 年にフランス革命が勃発する。

スタール夫人は最初のうちは革命の理想に共感していたのであるが、国王

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夫妻が処刑され恐怖政治が始まるとフランスから脱出せざるをえなかっ た。

図版 3:少女時代のジェルメ―ヌ・ネッケル

 革命の混乱のさなかナポレオン・ボナパルトがフランスの救世主のよう に登場すると、夫人は彼に期待して接近を図るが、彼のほうは彼女の思想 傾向、作品、取り巻きの人々を嫌った。1802 年の小説『デルフィーヌ』

はナポレオンの怒りを買い、スタール夫人はパリ立ち入り禁止、ついで国 外追放となった。そこで、スイスのジュネーヴ湖畔のコペの城館を拠点に スタール夫人の周りにはナポレオン体制に批判的な知識人たちが集まるこ ととなった。彼女は 1803 年から 4 年にかけてドイツを訪ね、のちの名 著『ドイツ論』の構想を得たが、ドイツで知り合った人々によってイタリ アへの興味を掻き立てられ、1804 年 12 月から翌年にかけてイタリア各 地を旅行し、その時の体験などを駆使して書きあげたのが『コリンヌ』で あり、その内容は次のようなものである。

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図版 4:コペの城館

 スコットランドの貴族ネルヴィル卿オズワルドは父の死に目に会えず、

鬱屈した日々を送っていたが、意を決して南国イタリアへの旅に出た。メ ランコリックな彼は心を閉ざし、外の世界にはあまり関心を持てないまま 旅を続けてローマに到着する。その翌日、当時のローマで人気の高い即興 詩人コリンヌがカピトールの丘で栄誉の冠をいただく式典があることを 知ったオズワルドは、興味をそそられて会場に出かけ、若く美しく才能に あふれた天才女性を目の当たりにする。謎に包まれたコリンヌは自由で気 ままなひとり暮らしの、浅黒い肌に黒髪の美女で、社交的な女性であっ た。華やかな彼女と知り合いになったオズワルドはすぐに彼女に惹きつけ られ、コリンヌも彼に恋するようになる。

 やがて、恋人たちはナポリに旅行に出かけるが、ローマに帰ってくると 伝染病が蔓延していてコリンヌも感染してしまった。献身的なオズワルド の看病で快復した彼女は彼とともにヴェネツィアに向かい、そこで静かで 幸福な生活を送った。だが、イギリスとフランスとの戦争が激しくなり、

帰国命令を受けたオズワルドは故郷に戻る。彼は母国の秩序と安楽さと豊 かさの中に身を置いて心安らかになり、父親が彼の結婚相手にと考えてい たルシールという若い娘にしだいに心を奪われていく。彼女は金髪で色白、

控えめで家庭的な女性であり、実はコリンヌの異母妹でもあった。その後

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オズワルドとコリンヌの間には悲劇的なすれ違いが重なって手紙も届かな い状態が続き、ついに彼はルシールと結婚してしまう。数年後、彼は妻と 娘を連れてイタリアに赴くが、不治の病にかかっていたコリンヌは彼に決 して会おうとはしない。しかし、彼女はオズワルドの幼い娘にはイタリア 語と音楽の手ほどきをする。やがて、衰弱したコリンヌはオズワルドやル シールらに囲まれて息をひきとるのであった。

 以上があらすじであるが、『コリンヌ』の主題は、まずなによりもヨーロッ パの北(イギリス、ドイツ、そしてフランスも含む)の文化と南のそれと の出会いとその影響であろう。小説の冒頭部分、ローマに到着したばかり のオズワルドが、カピトリーノの丘で詩人として冠を授けられる儀式で初 めてコリンヌを目にする部分を読んでみよう。

 ひとりの女性の運命に与えられるこの大がかりなお披露目ほど、イギ リス人の習慣や意見になじまないものは確かに他になかった。だが、想 像力によるあらゆる才能がイタリア人に抱かせる熱情は、一時であるに せよ、外国人にも乗り移るのである。1

 聞いたことすべては彼にとって、コリンヌが社会で最もあいまいな階 層に属していることを示していた。しかし、南ではあまりに自然に、こ の上なく詩的な表現をするので、言葉は、空気からくみ取られ、太陽か ら霊感を得ているかのようだった。(25)

 この美しい空、この熱狂的なローマの人々、そして何よりも、コリン ヌがオズワルドの想像力に衝撃を与えた。自国でたびたび彼は政治家が 人々の肩車に乗せられて祝福されるのを見たことがあったが、ひとりの 女性に対して、ただ天賦の才能によって名を上げた女性に対して敬意が 1 Madame de Staël, Corinne ou l’Italie, Honoré Champion, 2000, p.23. なお、今 後本書からの引用文はページ番号のみを引用の終わりに示す。また、日本語訳 については佐藤夏生訳『コリンナ』(国書刊行会、1997 年)を大いに参考にさ せていただいた。

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表されるところを見るのは初めてだった。(26)

 このようにコリンヌとの出会いは、彼にとって、祖国(スコットランド を含むイギリス)とイタリア、北の国と南の国の出会いであり、それは彼 の価値観や美意識に大きな衝撃を与えるものであった。『コリンヌ、ある いはイタリア』という題名にはっきり表れているように、女主人公コリン ヌは理想的なイタリアの化身として描かれている。

 彼女をごらんなさい。我々の美しいイタリアのイメージなのです。我々 が運命づけられている無知、羨望、反目がなければコリンヌになるのです。

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 一方、スコットランド人オズワルドはその生い立ちや性格、考え方など すべてがヨーロッパの北部、とりわけ英国的なものの典型だという設定で ある。

 ところで、18 世紀後半から 19 世紀にかけて、まるでそれまでのギリ シャ・ローマ文化や文学を規範とする古典主義的な美意識から競って逃れ 出ようとするかのように、ヨーロッパ諸国は自国のルーツや、土着の古い 民話・伝承を探し出して称揚していた。ドイツ語圏で『ニーベルンゲンの 歌』が注目され、スコットランドでは古代ケルトの叙事詩とその詩人オシ アンが発掘されていた。これらは古典文学とは全く違うやり方で感性に訴 えるものであった。『コリンヌ』においても、主人公がオズワルドに向かっ て、オシアンの詩とラテン詩を対比して次のように言う場面がある。

 自然を感じ取るにはたいへん異なる2つの方法しかないのです。古代 の人たちのようにそれを愛すること、つまり多くの華麗な形でそれを完 全なものにするか、あるいは昔のスコットランドの吟遊詩人たちのよう に神秘への恐れや、不確実なものと未知のものが引き起こす憂鬱に身を 任せるかなのです。オズワルド、あなたを知ってから、私は 2 番目の方 法が好きになりました。(402)

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 一方オズワルドも、最初のうちこそコリンヌが代表する明るく端正で熱 狂的な南の人々とその文化にとまどったものの、やがて彼女をとおしてイ タリアを理解し馴染んでいく。

 彼は英国を忘れさえしていた。未来にたいしてはイタリア人たちの呑 気さのいくらかを取り入れていた。(405)

 このように北の男と南の女が出会い、恋をし、お互いに大きな影響を与 えあうのであるが、18 世紀末から 19 世紀初頭のヨーロッパ、つまりフ ランス革命後のナポレオン戦争時代の政治状況と、男性側の優柔不断が悲 劇を生むことになるのである。18 世紀後半から 19 世紀にかけてイギリ ス(そしてのちにはドイツも)を筆頭とするヨーロッパ北部の文化の優位 性は決定的なものとなり、古典古代の遺産を継承している南部のそれを圧 倒してしまったのである。

 それではここでヴェネツィアでのエピソードに目を向けよう。これは 小説の後半に位置し、第 15 部 7 章から第 16 部 3 章にあたっている。

1795 年の秋に主人公たちはブレンタ河経由でこの都市に入る。ちょうど その時、ラグーナ(潟)にある島から 3 発の砲声が聞こえ、ひとりの女 性が修道女の誓願をしたことが知らされる。コリンヌはそこに不吉な予兆 を見た。

 次に、ふたりの物語を追う前に語り手はこの町の政治体制や習俗や歴史 について考察を繰り広げ、その後で読者はコリンヌとオズワルドのヴェネ ツィア散策についていくことになる。彼らはドージェ宮、アルセナーレ(海 軍工廠)、サン・マルコの鐘楼を尋ね、ゴンドラに乗って町じゅうをめぐる。

 一方、コリンヌがヴェネツィアに来たことが知れると、あちこちから招 待状が届くようになる。そして、ぜひにと望まれた彼女は、ある貴族の館 で当時人気のあった喜劇の主役を演ずることになる。そして、劇は大成功 を収めるが、遅れてやってきたオズワルドは、その夜にイギリスに向けて 発たなくてはならなくなったことを告げる。

 コリンヌの家に戻ったふたりは悲嘆にくれながらも 1 年後の再会を誓

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いあう。やがて午前 3 時に迎えのゴンドラが現れ、オズワルドを運び去る。

その直後にすさまじい雨と風が起こり、コリンヌは恋人を呼び戻そうと外 に飛び出るが、嵐のため、彼の乗った船を追うことができない。彼女は興 奮状態のまま夜明けまで過ごす。そして、オズワルドが無事にラグーナを 越えたという知らせがやっと届いて彼女は喜ぶが、その後は不安と苦悩に 苛まれる孤独な日々を送ることになるのだった。

2.18 世紀末から 19 世紀初頭にかけてのヴェネツィア

 それではここでスタール夫人のフィクションをいったん離れて、ヴェネ ツィアの歴史を振り返っておこう。11 世紀から 15 世紀ごろまで地中海 貿易を手中にして繁栄を誇ったヴェネツィア共和国であったが、16 世紀 になるとその栄光が陰り始め、もはや地中海の商業やヨーロッパ経済の主 役とは言えなくなっていた。しかしながら、ヨーロッパじゅうで有名に なっていたカーニヴァルなどの華やかな祭りや、すばらしい劇場やカジノ の建設などによって、17 世紀以降においても、ヴェネツィアはヨーロッ パ各地から多くの人々をひきつける魅惑にみちた町であった。そしてこの 時期に、中世以来の繁栄を支えた、地中海貿易という経済的な基盤を失い、

実直な伝統から逸脱した爛熟と退廃の時代としての近世ヴェネツィアのイ メージが固まったのであった。18 世紀末に迫った共和国の最後に向かっ て後戻りできぬ道をたどっていたのである。

 ヨーロッパ的規模で眺めると、まず 1789 年にフランス革命が勃発し、

93 年には国王ルイ 16 世が処刑された。そして、国王の処刑という事実で、

一挙に反フランス共和国で団結したヨーロッパ各国は、四方からフランス に攻め入ったのであった。アルプスからはオーストリア・サヴォイア連合 軍が、ピレネーからはスペインが、北西方面からはイギリスとオランダが、

北東からは、オーストリアとプロイセンが迫ったのである。だが、最初は 防戦一方であったフランスはやがて反転して、各国に進軍するようになっ てくる。ヨーロッパ全体が戦争に巻き込まれる大混乱時代の幕開けである。

フランスをめぐるこのような国際情勢の中でヴェネツィア共和国は中立政

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策をとりつづけたので、処刑されたルイ 16 世の弟のプロヴァンス伯爵(の ちのルイ 18 世)はヴェネツィア領のヴェローナに亡命を求め、ヴェネツィ ア共和国政府はそれを許可している。彼は 3 年間その地にとどまったあと、

1796 年フランス側の圧力により再び亡命の旅に出ることとなった。

 『コリンヌ』のヴェネツィアでのエピソードは 1795 年の秋に展開する。

そして、ちょうどその頃からナポレオン・ボナパルトという戦争の天才 の名がイタリアに知られはじめていたのであった。『コリンヌ』のヴェネ ツィアでのエピソードの翌年である 96 年に、ナポレオンはニースのイタ リア方面担当フランス軍総司令官として着任した。そして着任直後の 96 年 4 月 10 日、すでにフランス領であったジェノヴァの西で行なわれた戦 闘が、当時北イタリアを支配していたオーストリア軍とナポレオンの最初 の戦闘となり、5 日間続いたこの戦いはフランス軍の勝利に終わった。そ のあと、トリノを獲得したフランス軍は、なおも東進を続け、96 年 5 月 10 日、ミラノの近くで再びオーストリア軍と対戦した。フランス軍はこ れにも勝ち、ミラノを占領する。ミラノ公国領と国境を接しているイタリ ア本土のヴェネツィア属州には、ミラノからの難民が押し寄せ騒然となっ ていた。本国に向かって退却するオーストリア軍を追いかけてフランス軍 がヴェネツィア共和国領に入ってくるのは避けられないからである。そし て、予想どおり、まもなくチロルへ向かって退却を続けるオーストリア軍 と、それを追ってきたフランス軍で、本土のヴェネツィア領は埋まってし まった。そして、もはやオーストリア軍もフランス軍も中立の立場を守る ヴェネツィアの事情など歯牙にもかけなくなっていた。

 当然両国から圧力をかけられたヴェネツィア政府であるが、それでも従 来の政策である中立路線を続行すると宣言した。そして、ヴェネツィア共 和国の政治担当者たちは、再編成を終わって南下を始めたオーストリア軍 とフランス軍の対決の結果を見守った。戦闘は 96 年 7 月 31 日に始まり、

8 月 5 日にフランス側の勝利が決定的になると、イタリア本土のヴェネ ツィア領はほとんどフランス軍に占領されたのと同じであった。食糧や家 屋敷はフランス軍に徴発された。略奪や暴行事件も後を絶たなかった。こ のようにして、1796 年末には事実上、ヴェネツィア本国以外のイタリア

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本土のヴェネツィア領はフランス軍の支配下に入っていたのであるが、翌 97 年春、ナポレオンはヴェネツィア共和国に対し公式に宣戦を布告した のである。それに対して、共和国政府は同年 5 月 12 日、戦わずに降伏す ることを決定し、ヴェネツィア共和国は終わりを迎えた。5 月 16 日にフ ランス兵がヴェネツィアに上陸して占領を開始する。10 月 18 日のカンポ・

フォルミオ条約によって、ヴェネツィア共和国の領土は、オーストリアと フランスの間で分割され、本土の大部分はフランス領に、本土の一部とヴェ ネツィアの町、そしてアドリア海沿岸地方はオーストリア帝国領となるの である。スタール夫人がヴェネツィアを訪問したのは 1805 年の春、オー ストリアによる占領の時代であった。

 1805 年 12 月、すでにフランス皇帝となっていたナポレオンはヴェネ ツィアを、自分の支配下にあるイタリア王国に編入した。そして、1814 年にナポレオンが失脚すると、ヴェネツィアは再びオーストリアに占領さ れる。しかし、やがて 1861 年に新しいイタリア王国が建国されてイタリ ア統一が実現すると、ヴェネツィアも 1866 年にこれに編入されることと なるのである。

3.境界都市

 スタール夫人はなぜヴェネツィアを『コリンヌ』後半の山場、恋人たち の別れの舞台に選んだのだろうか。その大きな理由として、前項で述べた 歴史的状況と、この都市の「境界」としての地理的・文化的特徴が考えら れる。『コリンヌ』は「北」と「南」の出会い、反発、魅惑の物語であるが、

ヴェネツィアはそれに「東」と「西」、「海」と「陸」というそれぞれ相反 する要素を付け加えることになるのである。

 11 世紀以来地中海を往来してオリエントとの貿易で富を築いたヴェネ ツィアには当然のことながら「東」、エジプトやトルコやさらにその彼方 の国々の影響が目に見える形で存在している。

 サン・マルコ広場は、青い天幕で囲まれて、天幕の下には大勢のトル

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コ人、ギリシア人、アルメニア人たちが憩い、その端にある教会は、外 観はむしろキリスト教の聖堂というよりモスクに似ている。この場所は オリエント人たちの怠惰な生活を思わせ、彼らはカフェでソルベを飲ん だり香り煙草を嗅いで毎日を過ごしている。ヴェネツィアでは時々、花 の鉢を足元に置いたトルコ人やアルメニア人たちが屋根なしの小舟に呑 気に横たわって通り過ぎていくのが見える。(397)

 建物だけでなく、人々やその言語、衣服、食べ物、香りなど、ヴェネツィ アを訪れる人々の五感すべてにその存在を主張するオリエント。ものうげ で怠惰なオリエント人たちの醸し出す独特の雰囲気が、ある意味でオリエ ントとオクシデントの両世界の境界に位置し、それらが混ざり合ってヴェ ネツィアのユニークな風景を構成していることがわかる。ここは、東西南 北の異なる要素が出合うことのできる特権的な場なのである。

 それでは、もうひとつの境界、「海」と「陸」の出会う場としてのヴェネツィ アについて考えてみよう。ブレンタ河がアドリア海にそそぐ河口の干潟に 建設されたこの都市は文字通り陸と海の境界に作られたものであった。

 ヴェネツィアに入ると、悲しみの思いが想像力をとらえる。植物には 別れを告げる。この土地では蠅さえも見かけない。あらゆる生き物がこ こから追放されている。海と戦うために人間のみが残っている。(393)

 語り手によると、この並はずれた都市にはイタリアのどの都市よりも社 交があり、はなやかな社交界が存在するのである。ヴェネツィアに滞在し ている間にコリンヌはあちこちに招かれ、その才能によって人々を魅了す るのであるが、1795 年 11 月 17 日、ある貴族の館でゴッツィというヴェ ネツィアの作家の『空の娘、あるいは若き日のセミラミス』のヒロインを 演ずることになる。伝説の女王の役を演じた彼女の歌と演技は大成功をお さめ、聴衆の賞賛にまるで本物の女王のような様子で応えるコリンヌで あったのだが、まさにその直後に恋人の口からヴェネツィアを去ることが 告げられるのである。「空の娘」は得意の絶頂から絶望のどん底へとつき

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落される。コリンヌの部屋での悲痛な別れのあと、彼女は今一度オズワル ドを呼びとめようと外へ飛び出すのであるが、その時すさまじい雨が降り 始め、強風で彼女の家は海のただ中の船のように揺れるのである。

 運河と家々を隔てる狭い石道を、コリンヌはひどく興奮して歩いてい た。嵐はどんどんひどくなり、オズワルドを案じる彼女の恐れは刻々と つのった。あてずっぽうに彼女は船頭たちを呼んだ。彼らはその声を、

嵐の中でおぼれている気の毒な人の苦しみの叫びと思った。だがだれも 近づいてこなかった。大運河の荒波はそれほどすさまじかったのだ。(415)

 ほんの数時間前には「空の娘」にして陸の女王であったコリンヌはこう して海の水と風によって打ちのめされるのである。ヴェネツィアでのエピ ソードのこのような幕切れは、もちろんその後の恋の破局と不幸を予想さ せるものとなっている。

4.共和政の考察

 それではヴェネツィアでのエピソードのもうひとつの重要部分に入ろ う。わずか 2 年後に最後を迎えることになる「共和国」をスタール夫人 はどのように描いているのだろうか。まず、コリンヌとオズワルドはヴェ ネツィアの人々の衣服に目を向けている。

 上流階級の男女は、黒い頭巾つきの外套を着ずに外出することはない。

また、白い服にばら色の帯をしめた船頭が漕いでいるゴンドラもつねに 黒色であることが多い。なぜなら、ヴェネツィアでは平等の方式が主に 目に見えるものにたいして行きわたっているからである。(397)

 国民の間に存在する富や権力の差をできるだけ見えなくする配慮を共和 国はとってきたのであり、それが衣服に反映しているのである。そしてそ れは奇妙な逆転現象を引き起こし、この国では、民衆が祭りの時のような

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はでな衣装を身に付け、上層部の人々は、少なくとも外出時は、喪中のよ うに地味な色を身につけているのであった。

 また、この国では他国のように街中で兵士を見かけることはない。しか し、語り手は次のように続けている。

 祝日に集まった 3 万人の人間を整然とさせるには、ふちなし帽に金貨 をつけた国家警察の警官がひとり現れるだけで十分だった。もしこの分 かりやすい権威が法の尊重からきているのであればりっぱなことなのだ が、政府は治安を維持するために秘密の手段を講じており、この権威は 恐怖によって強められていたのだった。(398)

 このあとにドージェ宮の中にある牢獄の描写、密告が頻繁・制度的に行 われていたこと、また死刑を宣告された者の秘密の処刑の恐怖について語 られるのである。それではここでヴェネツィアの共和政についての詳しい 説明を読んでみよう。

 ヴェネツィア政府の権力は、その存在の最後の頃には、ほとんど習慣と 想像力のおかげで成立していたのだった。昔の政府は恐ろしかったが、と ても穏やかになっていた。昔は果敢であったのが、弱腰になっていた。昔は 恐ろしげだったので、政府にたいする憎しみがたやすく生まれた。もう怖く なくなったので、それは容易に倒された。民衆の人気を必要とした貴族階 級は専制主義的なやり方でそれを求め、民衆を楽しませるだけで、啓蒙は しなかった。ところが、民衆にとっては、楽しませてもらえるのが、なかな か快適なことだった。とりわけ、想像力にたいする好みがその風土と美術に よって、社会の最下層まで浸透している国々においては。民衆には、彼らを 愚かにするような粗野な楽しみではなく、音楽や絵画や即興詩人や祭りが 与えられた。その点で、政府は国民に対して、ハレムに対するスルタンのよ うに気を配った。政府は国民に、まるで女に言うように、政治に首をつっこ まないように、当局の批判をしないようにとだけ要求した。だがその代わり として、国民に多くの娯楽、十分な名誉さえも約束したのだった。(395-396)

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 この引用中の、政府は国民に対してハレムの女に対するスルタンのよう に気を配ったという表現に注目すべきであろう。ヴェネツィア共和国にお いては、「民衆」と「女」は同列に置かれていたのだ。楽しませ、甘やか すことはあっても、決して「男たち」(為政者たち)と同等に扱われるこ とはなかったのだと語り手は主張するのである。

 ところで、『コリンヌ』は今までしばしば最初期のフェミニスト文学と されることがあったが、「フェミニスト」という言葉を、女性の置かれた 不当な状態を告発し、女性に男性と同様の権利を与えるよう要求するもの であるとするなら、この小説をフェミニスト文学と呼ぶのは必ずしも正確 ではないと思われる。しかしながら、たとえ声高に男女同権を主張するこ とはないにしても、スタール夫人は自分の経験から、政治や学問など公的 な分野で女性が排除されていることを苦々しく思っていて、それを『コリ ンヌ』中で、ある時はかなりあからさまに、またある時はほのめかしによっ て表明しているのは確かである。表面上は「民衆」のことを述べつつも、

同時に「女」の状況について語る上の引用文は、典型的なこの「ほのめかし」

の例であると言えよう。『コリンヌ』には政治の分野で腕を振るうような 女性は登場しないが、ヒロインは即興詩人としてイタリアじゅうに知られ 尊敬されているという設定である。一方、オズワルドの国スコットランド やイングランドでは、女性たちには家庭内の美徳のみが期待され称えられ るということになっている。イタリアでは、女性たちはまだ男性に影響力 を持っており、それはヒロインの言葉によると中世的な騎士道精神のなご りということになる。イタリアと違って近代的な立憲君主政がうまく機能 し、( オズワルドの父によれば )「政治制度が、男たちに行動したり意思 表示をする名誉ある機会を与えている国々にあっては、女たちは裏方に留 まらなくてはならない」(431) のであり、女性たちの出る幕はないのであ る。男女の性別役割分担が自明のものとされるかぎり、良き政体と、女性 の自己実現の可能性の拡大は両立しないのであった。2

 先に述べたようにスタール夫人がヴェネツィアを訪れたのは 1805 年、

2 以下参照のこと。坂本千代「スタール夫人の『コリンヌあるいはイタリア』を 二十一世紀に読む」、『近代』110 号、神戸大学近代発行会、2014 年、1 - 15 頁。

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すでにオーストリア占領下の時期であった。また、その年にはナポレオン がローマ王として即位し、フランスがイタリアに厳然たる影響力を行使し ていた。多くのイタリア通のドイツ人から学び、また教養あるイタリア人 の知人も多かった 1805 年のスタール夫人は、未来のことはともかく、イ タリアの近い過去についてはかなり明晰な判断を下すことができる立場に あった。彼女が『コリンヌ』の物語を展開した 1795 年は、多くのイタリ ア人たちの間でナポレオン・ボナパルト将軍が知られ始めた年であり、ヴェ ネツィア共和国にとっては、2 年後の崩壊の予兆がありながらも何とか平 穏を保っていた年であった。北と南の接点(もうすぐ北に呑みこまれるわ けであるが)であるだけでなく、東と西の出会う所、陸と海の文字通りの 境界に位置する当時のヴェネツィアは、『コリンヌ』の舞台となるローマ、

ナポリ、フィレンツェなど他のイタリアのどの都市よりも主人公ふたりの 別れの場、まもなくやってくる恋の終わりを予感させる場として適切だっ たのであり、また、スタール夫人が共和政についての考察、民衆や女性の 置かれた状況について自分の意見を述べるのにも好都合な都市であったの だと言えよう。

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絵画・彫像で読み解く『コリンヌ』の物語

村田 京子

はじめに

 スタール夫人の『コリンヌ』(1807) は、前作の『デルフィーヌ』(1802) と同様に、優れた女性の悲劇的な運命を扱っていると同時に、作者自身が「旅 行小説 (roman-voyage)」「イタリアに関する小説 (roman sur l’Italie)」と呼び 1、 正式のタイトルが『コリンヌまたはイタリア』(

Corinne ou l’Italie

) であるよ うに、イタリアは物語の単なる背景ではなく、一つの大きな主題を構成して いる。スタール夫人は 1804 年 2 月に亡命先のドイツ、ワイマールで作品の 着想を得た後 2、物語の舞台をイタリアに定め、1804 年 12 月から翌年 6 月 にかけてトリノ、ミラノ、パルマ、ボローニャ、アンコーナ、ローマ、ナポリ、

フィレンツェ、ヴェネツィアを巡った。彼女はそこで名所旧跡や美術館を訪 れたばかりか、当地の名士や文学者、芸術家たちとも交流し、克明なメモを

1 La lettre du 4 novembre à Friedrich Schlegel, citée par Christine Pouzoulet,

« Corinne ou l’Italie : À quoi sert un roman pour penser l’Italie en 1807 ? », in L’éclat et le silence. « Corinne ou l’Italie » de Madame de Staël, Honoré

Champion, Paris, 1999, p.39.

2 スタール夫人はバンジャマン・コンスタンと共に 1804 年 2 月 1 日、ワイマー ル劇場で「ラ・サアルのニンフ(妖精)」というオペラを観劇した。その内容は、

一人の騎士が水の精と愛し合うが、騎士は結局、不死の妖精ではなく、平凡な 人間の女性を結婚相手として選ぶ、というものであった。このオペラに感動し たスタール夫人は、優れた才能を持つ「例外的な女性」コリンヌと、彼女を捨 てて家庭的な女性と結婚するオズワルドとの恋愛物語を着想したとされる(Cf.

Simone Balayé, « Corinne, Histoire du roman », in L’éclat et le silence, pp.7-9)。

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