はじめに
横光利一は一九二〇年代から度々科学について言及し︑新心
理主義へと移行した一九三〇年前後には文学における科学性と
いうものを頻繁に論じている︒この横光の科学的意識の概要と
作品への反映を考察し︑新心理主義への転換の様相を解き明か
すことが︑本稿の目的である︒横光の科学に対する関心は︑関
東大震災後の急速な科学的近代化やマルクス主義への意識から
芽生えたものだろう︒横光は震災後の社会状況について次のよ
うに書いている︒
眼にする大都會が茫茫とした信ずべからざる焼野原となつ
て周圍に擴がつてゐる中を︑自動車といふ速力の變化物が
初めて世の中にうろうろとし始め︑直ちにラヂオといふ聲
音の奇形物が顯れ︑飛行機といふ鳥類の模型が實用物とし
て空中を飛び始めた︒これらはすべて震災直後わが國に初
めて生じた近代科學の具象物である︒焼野原にかかる近代 キーワード横光利一・﹁鳥﹂・科学・新心理主義
要 旨
横光利一は科学を文学に反映させる意識を持った作家であっ
た︒一九三〇年前後を中心に︑横光の評論には科学に関する言
及が数多くあらわれる︒この時期は︑横光が新感覚派の作風か
ら︑新心理主義と呼ばれる作風へと転換した時期でもある︒本
論では︑横光の科学に関する意識とその文学作品への反映を考
察することで︑横光の新心理主義への転換の様相を解明した︒
横光が不明瞭な人間心理のその不明瞭さを明瞭に描くという科
学としての文学を試み︑﹁鳥﹂においてそれを反映させたもの
の︑次第に科学の限界を意識するようになっていったと結論付
けた︒
岩 崎 な つ み 横光利一 における 科学的意識 と 心理主義
︱︱﹁鳥
﹂に
関する一考察︱︱
︿
平成二十七年度鈴木賞受賞論文﹀
た︒つまり︑科学を文学創作のための必須の要素ととらえたの
である︒科学から発した新しい感覚を︑計算的に仕組まれた構
成と文章で表現することが横光の新感覚派としての認識だっ
た︒
この文学に科学を結びつける意識自体は新心理主義において
も変わらない︒しかし一九三〇年前後に横光の言う︿科学﹀の
意味合いが変質する︒
横光
の
科学的意識
の
質的変容
に関
しては
︑すでに
山崎
氏に 4
よって︑﹁新感覚派における科学の末梢的適用が︑心理主義に
至っては︑科学の本質を踏んだ作家の基本的態度にまで介入し
た発展的方法論に高められた﹂と指摘されている︒そして新心
理主義という﹁科学主義に立脚した新しい心理主義﹂は﹁早く
から横光に内在していた科学への関心に︑当時移入された西欧
文学のフロイディズムに裏うちされた心理主義の方法が結合﹂
されたものだったと山崎氏は述べている︒この横光における科
学主義の質的変容に関しては概ね同意する︒だが︑新心理主義
に﹁フロイディズムに裏うちされた心理主義の方法﹂が適用さ
れたという見解には疑問を覚える︒なぜなら正確に言えば︑横
光が説いているのは科学の応用ではなく︑文学という新たな科
学の開拓だからである︒
本論では︑このように改めて横光の科学的意識の内実につい
て検討し︑把握する︒そして︑そのような意識が一九三〇年前
後の作品の中でどのように模索され︑実践されてきたか︑また︑
その結果がどのようなものであったかを考察していくことで︑
横光における新心理主義への転換の一側面を明らかにする︒ 科學の先端が陸續と形となつて顯れた青年期の人間の感覺
は︑何らかの意味で變らざるを得ない
︒ 1
ここで横光は震災後に大都会が崩壊し︑﹁自動車﹂﹁ラヂオ﹂
﹁飛行機﹂といった︑科学によって﹁速力
﹂ ﹁
聲音
﹂ ﹁
鳥類﹂を変
化させた新たな物体が次々に現れたことで︑青年たちの感覚に
変化をもたらしたと述べている︒さらに︑先の引用に加えて﹁こ
の時︑早くも唯物史觀が我が國に顯れた最初の實證主義となつ
て︑精神の世界に襲つて來てゐた﹂と述べており︑科学的社会
主義とも呼ばれるマルクス主義の考え方を実証主義として意識
していたことがわかる︒横光は︑科学的近代化や︑自然科学や
唯物史観をはじめとする学問分野における実証主義の浸透を目
の当たりにしたことで︑科学に対する関心を深めていったのだ
と考えられる︒
この科学の浸透による人々の感覚の変化に応えるように︑横
光は新しい文学を模索し始めた︒それが新感覚派としての文学
運動である︒山崎國紀氏の言を借りれば︑﹁新感覚派の企図し
たものは︑科学の持つ諸原則を適用しようとした︽世界観の抽
象化︾であり︑︽文体の人工美化︾としての文学的技法の革命﹂
であって︑その基幹として﹁近代生活の母体になり︑新しい文
化における重要な要素となった科学的気質﹂があった
︒ 2
横光
は﹁
新感覚派の研究
﹂において︑﹁新しい感覺活動の様式 3
︱︱感覺器官の受け入れ方︑その發見︑その構成を︑諸科學の
綜合的発達を武器として︑意識的計畫的に︑われわれの創作の
根本的規準となすこと﹂を主張し︑小説を書く際には﹁科學者
の態度で﹂最も的確で鋭い言葉を選び取らねばならないとし
理について科学的正しさを提供できるのが文学表現にほかなら
ないというのである︒
また︑同評論において横光は︑﹁他の科學の持ち得ない文學
の特質である心理描寫︑及び︑それを使用しなければどうしや
うもない人間生活の運命の計算といふことが︑何よりも武器で
ある﹂とも述べており︑諸科学の発達を武器としていた新感覚
派時代に比べて︑他の諸科学からは独立したものとして文学の
科学性をとらえていたことがわかる︒﹁文學の科學主義が︑他
の科學である自然科學や精神科學や社會科學や歴史科學から離
れて獨立した嚴密科學となる﹂必要性を説くように︑この時期
の横光は︑文学を︑人間の心理という真理を究明し鮮やかに映
し出すことを可能にする新たな科学の一形式として模索してい
たのである︒
この考えは翌年︑さらに明確化される︒横光は﹁心理主義文
學と科學
﹂において︑﹁文學はどこまでも文學であつて︑いふ 7
ところの科學そのものでない︒フロイドの精神分析學を引つぱ
つて來て文學に應用したつてそれはどこまで眞實として頼れる
のか分るものではない﹂とし︑心理小説に科学を取り入れるの
は誤りであるとする︒その上で︑﹁唯文學には文學として別に
他の科學から獨立した︑文學のみの科學があるといふことが大
切だ﹂と主張する︒横光がフロイトの精神分析学の文学への応
用に懐疑的である以上︑横光がフロイト的心理学を文学に導入
したとする説には疑問の余地がある︒この時期の横光は︑むし
ろ︑文学の心理描写において人間心理を描き出す新たな科学を
見出そうとしたと言ったほうが正しいのではないか︒真理の探 一 横光利一の科学的意識
横光は一九三〇年
に﹁
人間學的文藝論
﹂において︑﹁眞理は人 5
間を離れて存在しない︒人間のすることごとのいかなることと
雖
もそれが
惡
であらうと
善
であらうとに
拘
らず
︑それは
眞理
だ﹂と述べ︑真理を科学と等しい厳密さで整理し描くことを重
視した︒この人間存在と真理とを等しく結びつける観点から︑
横光は心理主義と真理主義を結びつけていく︒同年の評論﹁藝
術派の眞理主義について
﹂では︑﹁科學はその科學的なことに 6
於て科學的になり得られるが︑非科學的なことに於てまで科學
的な正しさを保つことは出來ない︒譬へば︑われわれ人間の心
理を︑その心理の進行することを時間と見る場合︑その時間内
に於ける充實した心理や︑心理の交錯する運命を表現し計算す
ることの出來得られる科學は︑藝術特に文學をおいて他にはな
い﹂とし︑真理を探る方法として︑﹁非科學的な實體の部分を︑
科學的な正しさに表現し計算し得る方法の發見及びその應用﹂
を提示する︒ここで横光が︑科学が﹁非科學的なことに於てま
で科學的な正しさを保つことは出來ない﹂とするのは︑自然の
すべてを科学的に解明できるという自然科学の立場からすれ
ば︑非科学的とは︑実証されていないことではなく︑実証不可
能なことであるからだろう︒実証によって真理を保証する科学
にとって︑その保証ができない物事は非科学的とされ︑対象の
埒外に置かれる︒人間と真理とを結び付けた横光は︑この非科
学的なことの例として﹁人間の心理﹂を挙げ︑人間心理を真理
の非科学的実体と考えたのだ︒そして︑その非科学的な人間心
て明晰に表現することこそが︑横光の文学実践をめぐる科学的
意識の核だったと考えられる︒
ところで︑このような一九三〇年ごろの横光の科学的意識の
変化には︑フランス象徴派の詩人であるポール・ヴァレリ
イの 8
影響が考えられる︒ヴァレリイは︑両大戦間の﹁最高の知性﹂
と謳われ︑精神の働き︑特に自我の探求に最大の関心を寄せて
いた人物とされる
︒ 9
横光は︑一九二九年の評論﹁バレリー
﹂ 10
の
中で︑﹁近頃ポール・
バレリーの﹁ダビンチ方法論序説
﹂ ︵
河上徹太郎譯
︶を
讀む﹂と
述べているが
︑さらに同年の藤澤桓夫宛書 11
簡では︑ヴァレリイ 12
を﹁天下にこんなに豪い男がゐたのかと思ひ︑一切︑筆を捨て
たくなつた﹂と評している︒横光は︑科学への関心から︑理性
を重視し︑論理的に真理を探求していくヴァレリイの理知主義
的側
面に共感したのだろう︒しかし同時に︑ヴァレリイの語る︑ 13
理性に則った︑自分を知り︑相手を知ろうと欲する理知的生活
の困難に束縛されてしまう︒純粋に理知的生活は人間心理がど
こまでも理性的ではありえない以上︑実現は困難である︒この
困難に直面した横光は同書簡で︑ヴァレリイの理論から脱出す
る方法について次のように記している︒
彼
から
抜け出
るためには
︑ 數學
を疑
つてかからねばなら ぬ
︒ いかにして
數學
を疑
ふかと
言ふ緒を見
つけるために
は︑現實性の解剖をしなければならぬ︒數學と言ふものは
現實性の中の︑︵必然性と可能性の中の︶その必然性を價
値づけた頂の中にある︒此の必然性は現實性の中に於てい
かなる高度を持つか︑と言ふことを決定することは︑バレ 究という科学の本質を取り入れつつも︑非科学的な心理をも描
き出す新たな科学として︑文学が目指されたのである︒
しかし︑文学が﹁獨立した嚴密科學﹂になることには困難が
伴う︒自然科学の方法は︑不可思議な事象を理論的に解明し︑
それを観察や実験によって論理的に実証することで真理を認定
するというものであり︑社会科学もこの方法に則っている︒一
方︑文学は実証するというシステム自体を持たないため︑この
方法を採用できない︒よって︑原理的には文学は科学たりえな
い︒だからこそ横光は︑さきの評論で︑﹁文學はどこまでも文
學であつて︑いふところの科學そのものでない﹂︑﹁文學のみの
科學﹂があると言い表したのだろう︒
このように︑横光のいう︿科学﹀は︑実際の科学からは解離
したものだった︒では︑横光はどのように人間の心理=真理と
いう非科学的実体を科学的に描いたのだろうか︒
この横光の企ては︑言い換えるなら︑人間心理の実体が抽象
化できず確定し得ない非科学的なものであることそれ自体を︑
科学的に描くということだと考えられる︒一般に科学的と非科
学的の違いは科学的に確かであると保証されているかどうか︑
すなわち︑その論理的明確さの有無にある︒横光の︿科学﹀に
これを当て嵌めるなら︑人間心理という真理の非科学的な実体
を科学的に描くこととは︑人間心理の実体が定常ではない様を
根拠立てて明確に描ききることであると解釈できる︒横光が実
際にどの程度の科学的方法の実践を考えていたかは定かではな
いが︑少なくとも同時代の評論からは︑科学で説明できない人
間心理の複雑で不明瞭な実体のその不明瞭さそのものを︑極め
るからである︒
﹁鳥﹂は︑﹁高架線﹂とともに一九三〇年に発表された作品で
ある︒地質学者である﹁鳥
﹂の
主人公﹁私
﹂は
下宿先の娘リカ子
と結婚するも︑次第にリカ子は︑﹁私﹂の尊敬する友人Qに心
を寄せるようになり︑Qと結婚してしまう︒しかし︑リカ子が
再び
﹁
私﹂
に
好意を抱き始めると︑﹁私
﹂は
彼女の心変わりに困
惑するも︑過去を捨て去り︑彼女とともに新たな生活を始めよ
うと決意する︒
先行研究では︑主に︑リカ子の心理的変化が﹁デアテルミイ﹂
という機械の作用として説明される点や︑人間関係が勝敗関係
として抽象的に描かれる点に横光の科学的意識が反映されてい
ると指摘されている︒例えば︑河田和子
氏は︑リカ子の心理が 17
﹁ ︿
機械﹀の効力でもって説明されようとし﹂︑﹁微妙な二人の心
理までも機械的に説明されてしまう﹂ところに﹁横光の科学に
対する信仰﹂があるとしている︒また︑小川直美
氏は︑リカ子 18
が﹁より優れた人物﹂を愛し︑優劣の事実が﹁客観的に一目で
判断できるものだと考え﹂ていることから︑﹁人間の愛情とい
う﹁
非科学的な実体
﹂を
客観的な優位性という︑﹁計算し得る問
題﹂
へと
転換した﹂作品であると論じている︒
確かに︑﹁私﹂がリカ子の心理を機械的に動くものであるか
のように説明しようとするため︑横光に人間心理を機械的に捉
える唯物的発想があった可能性はある︒しかし︑小川氏も河田
氏も︑﹁私﹂の認識と横光の認識とを安易に結びつけてしまう
ところに問題がある︒﹁鳥
﹂は
語り手﹁私
﹂の
認識で語られるが︑
その認識が横光の認識と一致するとは限らない︒そもそも︑既 リーから抜け上ることだと︑昨夜になつて考へついた︒
ここからは︑横光がヴァレリイの呪縛から抜け出るために︑
現実性にとって必然性がどれほどの価値を持ちうるかを考え始
めたことがうかがえる︒横光はヴァレリイに出会い︑数学的に
答えを導くことや︑﹁必然性﹂すなわち真理について問い直し︑
そこから現実の中の非理性的・非科学的側面へアプローチして
いくことを考えたのである︒
そして︑一九二九年
の﹁
文學的實體について
﹂では︑﹁數學と 14
は︑現實の含む必然性のみの抽象によって︑現實性を紛失した
幽霊である﹂ため︑近代文学の特長である﹁騒音
﹂という真実を︑ 15
数学を用いて計算するのは誤りだと主張する︒横光はヴァレリ
イに突き当たって︑計算された現実は現実性を失ってしまうと
思い至
ったのである
︒こうして
現実性
に基
づく 真理
を描
くに
は︑数学のような科学技法は適さないという考えに至り︑横光
は新感覚派において採用していた︑意識的計画的に計算された
文章構成によって描いていくという手法を転換しなければなら
なくなったと考えられる︒
二 ﹁鳥﹂
ここからは︑以上に論じてきた横光の新心理主義における科
学的意識が︑短編小説﹁鳥
﹂ ︵ ﹃
改造﹄一九三〇年二月︶にどのよ
うに反映されているかを読み解いてみたい︒横光自身
︑ ﹁ こ の
最も苦中の時期に出來た作
が﹁
鳥﹂
と﹁
機械﹂である
﹂ 16
と
述べて
いることから︑特にこれらの初期作品には︑横光の新心理主義
への転換をめぐる方法的模索が見て取れるのではないかと考え
じて次第に変化していくことだ︒
﹁私﹂とリカ子は結婚するが︑リカ子は次第にQに心を寄せ
るようになる︒それに応じて﹁私﹂は﹁實はリカ子もQを愛し
てをり︑Qもリカ子を愛してゐたのだ﹂と思うようになり︑こ
の結婚の不幸を嘆く︒﹁私﹂とリカ子の結婚は︑もともとリカ
子とQが愛し合っていたため成立するはずがなかったにもかか
わらず︑デアテルミイという機械の過失により︑リカ子
が﹁
私﹂
に
好意
を抱
いてしまい
︑
誤
って 成立 したものだったと
︑﹁
私﹂
は考え始める︒デアテルミイとは︑透熱療法という物理療法や
その機器のことをいう︒一般的にはジアテルミー︵diathermy︶
と呼ばれ︑現在でも︑鎮痛や網膜剥離の治療などに用いられて
いる
︒ ﹁ 19
私﹂はこのデアテルミイの作用によってもたらされた
リカ子との結婚を嘆き︑リカ子をQのもとへと送り出す︒そし
て︑その後︑リカ子が再
び﹁
私
﹂に
好意を見せ出すと︑﹁私
﹂は
次のように考える︒
それは丁度私の家にゐたときの彼女がデアテルミイの醒め
るに從つて逃げ出たやうに︑Qから逃げ出して來始めたの
も︑Qの中に潛んでゐた新しいデアテルミイの私が效力を
失ひ出して來たからではなからうか︒私がリカ子と最初に
結婚する破目になつたのも︑彼女の身體にデアテルミイが
火を點けたからにちがひないのだ︒彼女がQと結婚したの
も︑私がデアテルミイのやうに彼女に火を點けてゐたから
にちがひないのだ︒さうしていままた彼女が私へ舞ひ戻つ
て來始めたのは︑Qのデアテルミイが彼女に火を點け返し
て來たのであらう︒ 述したとおり︑横光の意識は非科学的な実体を科学的に描く
こ
とに向けられており︑非科学的な実体を科学的に認識し直すこ
とには向けられていない︒もしも小川氏の言うように︑非科学
的な人間心理を﹁計算し得る問題﹂へと転換したとしたら︑そ
れは科学的に測定可能な心理になってしまい︑︿非科学性﹀が
剥奪される︒横光にとって︑人間心理があくまで非科学的な実
体であることを考えれば︑その︿非科学性
﹀が
剥奪されれば︑︿実
体﹀からも遠ざかることになる︒そのため︑心理という非科学
的実体を科学的に描くには︑科学的に測定可能なものとして心
理を描くのではなく︑その非科学性そのものを科学的に描く必
要があるのだ︒
ならば︑横光の科学的意識は﹁鳥﹂にどのように反映されて
いるだろうか︒
﹁鳥
﹂の
語り手﹁私﹂は︑リカ子との結婚と別れ︑そして再婚
に至るまでの﹁私﹂とQとリカ子という三者の関係性とリカ子
の愛情の変化を語っていく︒﹁私﹂は︑﹁私﹂とQの勝敗関係に
応じて二人の間をリカ子が揺れ動くという抽象化︑単純化され
た関係として︑三者の関係性を捉えている︒これはリカ子の心
理を科学的︑機械的に説明しようとする﹁私﹂の試みの表れと
も言
える
︒ 人間関係
の
抽象化
と
論理
や
状況
の
説明 とが 中心
と
なった客観的語りによって︑﹁私﹂はリカ子の心理の動きに法
則性
を
見出
し
説明 しようとするのである
︒その
試
みのもと
︑
﹁私﹂はリカ子の心理的変化をデアテルミイの効力として論理
的に考察し︑﹁〜のだ﹂といった断定的な表現を用いて明確に
語っていく︒しかし注目したいのは︑﹁私﹂の論理が状況に応
て常に自らを敗者に位置付けてきた︒そのため︑﹁私
﹂は
︑ ﹁
私﹂
からQ︑Qから﹁私﹂へのリカ子の愛情の変化がQ自身の落ち
度によるものでも︑﹁私﹂の優位性によるものでもなく︑それ
以外の要因によるものと認識していくのである︒
この﹁私﹂の︿負けようとする心理﹀について︑松村良
氏は 20
﹁ ︿
私﹀は自分を虐げることによって︑幻想のQの優越感を生み
出し︑その一瞬においてのみ︑Qとの関係に安定を見出す﹂の
であり︑﹁︿私
﹀は
﹁
負けて勝つ﹂のではなく︑Qに対して﹁図抜
けて馬鹿﹂であり続ける為に︑ただひたすらみずからを虐げる
ことに執着するのだ﹂と述べている︒勝者Qと敗者﹁私﹂とい
う関係の安定を松村氏
は﹁
軽蔑する自己
﹂と
﹁
軽蔑される自己﹂
との分裂によって説明しているが︑別の視点から見れば︑Qよ
り敗者であることこそが﹁私﹂がQと親しくあるために必要な
条件であるためともいえる︒﹁私﹂のQに対する意識は︑知識
面でのQへの敗北に起因した﹁私﹂のQに対する劣等感に起因
しており︑勝者であるQに褒められることは﹁私﹂の自己肯定
の一部にもなっている︒そして︑Qは﹁自身より弱者に對して
はいくらでも自身を犠牲にすることの出來る善德﹂を持ってい
るが︑﹁自身より強者に對しては死ぬまで身を引くことの出來
ない男﹂であるため︑﹁私﹂がQと親しくあるにはQより敗者で
なければならない
︒つまり
︑Qより
敗者 であることが
︑﹁
私﹂
の自己肯定の成立要因になっているのだ︒ゆえに﹁私﹂がQに
褒められる自己を保つには︑﹁私﹂はQに負け続けなければな
らないのである︒
しかし︑実際は︑﹁私
﹂は
敗北による苦痛を感じてもいた︒ ここでは︑リカ子がQへと心変わりしたのも﹁私﹂がリカ子
にデアテルミイのように刺激を与えたためであり︑再度
の﹁
私﹂
への転向も︑Qがリカ子に刺激を与えたためであると考えられ
ている︒つまり︑リカ子の愛情はデアテルミイのような外部か
らの刺激によって変化するものと認識されているのである︒だ
が︑この後半の論理は︑離婚の際の︑リカ子との結婚はデアテ
ルミイの過失によるものであり︑リカ子とQは本来愛し合って
いたというもともとの論理と矛盾する︒前の論理では︑リカ子
は﹁私﹂との結婚前からQを何の外的影響なしに愛していたこ
とになるが︑この論理では︑リカ子とQの間の愛情も﹁私﹂が
刺激を与えたからこそ成立したもので︑﹁私﹂との結婚以前か
らリカ子の中に芽生えていたものではないことになる︒このよ
うな論理それ自体の変容は︑﹁私﹂がリカ子の心理を科学的に
捉えきれていない証左にほかならない︒﹁私﹂の語りはリカ子
の心理を科学的に把捉しようとするも︑状況が変わるごとに論
理を変更せざるを得ず︑結局︑普遍的な法則を見出すには至ら
ない︒これによって﹁私﹂の語りは︑その試みとは裏腹に︑結
果的にリカ子の心理の非科学性を表してしまっていると同時
に︑リカ子の心理を科学的にとらえきれず振り回される︑﹁私﹂
の語りそのものの非科学性まで露見させてしまっていると言え
る︒このリカ子の愛情をめぐる﹁私
﹂の
論理の転倒は︑﹁私
﹂の
Q
に︿
負けようとする心理
﹀か
ら
生じているものと思われる︒﹁私﹂
はQに負け始めたときから﹁彼を尊敬することだけが専門にな
り始め﹂︑Qの自らに対する優位性を考え︑Qとの関係におい
盾した心理や︑そのような心理の変化が弁証法というロジック
で説明し得るのである︒この弁証法のロジックは矛盾を肯定す
ることで成り立つものである︒そういった意味では︑弁証法で
説明される﹁私﹂の心理は︑矛盾のある︑不明瞭なものとして
肯定されているのである︒
﹁私﹂の認識はそれぞれに齟齬を生みながら︑その状況に応
じて都合の良い説明を付与するためのものでしかなく︑それが
むしろ肯定される︒そのような﹁私﹂の認識の論理性︑確実性
の転倒とその論理的妥当性があらわになるのが︑この﹁鳥﹂の
語りの特徴なのだ︒
このように︑﹁私﹂の論理の変化を通じて︑心理の複雑な変
化そのものを浮かび上がらせようとしたところに︑横光の︿科
学﹀としての心理主義文学の試みが反映されているのである︒
おわりに
横光は︑急速な科学の浸透によってもたらされた新しい感覚
を︑文字数や文字の印象を計算によって意識的に構成していく
ことで表現しようとした︒しかし︑ポール・ヴァレリイに触れ
たことで︑真理と現実性について見直し︑この数学的な科学の
応用を問い直す︒そして︑横光はより現実的な真理を描いてい
く必要性を見出し︑文学独自の科学性を持たなければならない
という考えに至った︒一九三〇年前後の横光は︑文学独自の科
学性として︑人間の心理という不明瞭な真理の実体のその不明
瞭さを明確に描写するということを意識するようになったので
ある︒ 私は賞
められゝば
賞
められるまゝの
姿に堅
められ
︑ます
〳〵不幸な方向へばかり辷り込んで來てゐたのだ︒その癖
心は絶えず反對の幸福を望み︑人に勝つことを心がけ︑負
けると人の急所を眺めて心を沈め︑あらゆる凡人の長所を
持ち︑心靜かに悟得し澄ましたやうな顔をし續けてひそか
に歎き︑鬪ひを好まず氣品を貴んで下劣になり︑︱︱私は
私自身でまだか〳〵と私をやつゝけ出すと︑面前のリカ子
と一緒に兇暴に笑ひ出した︒
﹁私﹂はそれまでQに褒められる美点のある自分を維持する
ために︑不幸を耐えなければならなかった︒しかし︑もう一方
では幸福と勝利を望み︑敗北に苦痛を感じていたのである︒
この﹁私﹂の心理的矛盾は︑最終的に︑一点に着地する︒そ
れが敗北を肯定する論理を受け入れ︑リカ子とともに﹁最も新
しい生活
﹂を
始めることである︒﹁私﹂はリカ子との再婚を決め︑
Qに負けたことに気がつく︒しかし︑﹁何を好んで自分の敗北
に罪の深さまですりつけて苦しむ奴があるだらう﹂﹁敗けたら
敗けたでそれでも良い﹂と敗北を受け入れ︑競争に片を付ける︒
﹁私﹂はリカ子とともに飛行機に乗り︑﹁合戰するかのやうに煌
めく虹の足もとにひれ伏して私とリカ子はまた再び結婚をした
のである﹂と語る︒﹁私
﹂は
﹁
合戰
﹂に
参加するのではなく︑﹁ひ
れ伏して﹂リカ子とともに生きることを決めたのである︒
この﹁私﹂の矛盾した心理の帰結は︑マルクスの唯物史観の
基本となった弁証法のプロセスに似ている︒﹁私
﹂の
︿
負けよう
とする心理
﹀と
︿
負けたくない心理﹀という矛盾した心理
が︿
負
けることを肯定する心理
﹀へ
と
止揚されるのである︒﹁私
﹂の
矛
の根源に神を信じるというのである︒科学がすべての事象を法
則で説明するなら︑その法則の存在︑法則を生み出すものは何
で説明されるのか︒その科学の矛盾︑限界を横光は意識してい
るのである︒
この考えは﹁機械﹂における﹁これは興味を持てば持つほど
今迄知らなかつた無機物内の微妙な有機的運動の急所を讀みと
ることが出來て來て︑いかなる小さなことにも機械のやうな法
則が係數となつて實體を計つてゐることに氣附き出した私の唯
心的な眼醒めの第一歩となつて来た﹂という一節にも反映され
ている︒﹁機械のやうな法則
﹂へ
の
気づきが﹁唯心的眼醒め﹂に
つながるのは︑その﹁法則
﹂の
先にある﹁法則
﹂を
生み出した存
在﹁神
﹂へ
の
意識によるものだといえる︒科学的
な﹁
法則
﹂へ
の
意識が︑非科学的
な﹁
神﹂
へ の
意識へとつながっており︑﹁機械﹂
において科学と非科学の境界があいまいに認識されていること
がわかる︒
﹁機械﹂以降︑横光は︑再
び︿
科学
﹀に
対する認識を改めだし
ている︒心理の非科学的な実体を描き出す文学独自の科学を創
出するという試みは︑科学の矛盾や限界を意識しだすことで︑
次第に科学の追求を離れていったように見える︒
たとえば︑作中の科学的要素に着目すると︑﹁鳥﹂では地質
学の話題やデアテルミイという機械︑飛行機などが登場し︑﹁機
械﹂
では
化学反応のことや﹁鹽化鐵﹂などの薬品が登場するが︑
両作品の翌年に発表された﹁時間
﹂ ︵﹃
中央公論﹄一九三一年四
月︶においては︑物語内にこのような科学的な要素が見られな
くなる︒﹁時間﹂は︑劇団長の失踪で宿賃未払いのまま宿屋に そして︑その科学的意識を如実に反映させたのが﹁鳥﹂だっ
た︒横光は﹁鳥﹂において登場人物の心理的変化を明瞭に認識
する﹁私﹂と︑その﹁私
﹂の
矛盾する心理や認識の変化を描くこ
とによって︑人間心理の複雑な動きを象った︒
﹁鳥﹂の次に発表された﹁機械
﹂ ︵ ﹃
改造﹄一九三〇年九月︶で
も︑登場人物たちの心理をとらえきることのできない﹁私﹂を
描き︑心理の不明瞭さが表された︒﹁機械﹂においても︑﹁鳥﹂
におけるデアテルミイのように︑心理を動かす︿機械﹀の存在
が意識されている︒しかし︑﹁鳥﹂におけるデアテルミイが物
理的に作用する物体であり︑のちにデアテルミイという機械で
はなく︑デアテルミイが与えるような刺激に焦点が移っていっ
たのとは異なり︑﹁機械﹂における︿機械﹀は﹁私﹂の意識の中
に存在する﹁見えざる﹂概念的な存在として不明瞭な心理の背
後に
居座
り︑
心理
の
実体
を測り動
かしていると
意識 され
続け
る︒﹁機械﹂において︑人間心理は︑﹁私﹂には捉えきることの
できない不明瞭なものであると同時に︑︿機械﹀によって確実
に推し測られて動かされているものでもある︒人間心理を合理
的かつ明確に説明しようと試みる﹁私
﹂ 21
が
認識するこの︿機械﹀
は︑言ってみれば︑﹁私﹂に捉えることができない心理を合理
的に説明するための装置なのである︒この︑︿機械﹀の存在は︑
心理と行動とを結
ぶ﹁
法則
﹂の
存在を意識させる︒
横光は﹁肝臟と神について
﹂において﹁私は唯物的であるこ 22
とは好きだ︒しかし︑唯物論は嫌ひである︒私の神を信じるの
は︑唯心論からではない︒メカニズムからだ﹂と述べている︒
横光は︑メカニズムのその法則性を信じるからこそ︑その法則
への転換の様相を﹁鳥﹂に捉えてきた︒本稿では︑横光の科学
的意識の﹁機械﹂への反映や︑その変化については軽く触れる
にとどまった︒これらについて︑さらなる考察を重ねることは︑
横光における﹁心理
﹂を
描く方法の模索と科学への意識の変化︑
そして晩年の日本主義への展開についての考察とあわせて︑今
後の課題としたい︒
注︵
一九四一年十月 1︶﹁解説に代へて﹂︵﹃三代名作全集︱︱横光利一集﹄河出書房
︶ ﹃
定本横光利一全集﹄十三巻︵河出書房新社 一九八二年年七月︶
︵
2︶山崎国紀﹁横光利一論︱︱新心理主義への変転と相対的人
間観の諸問題︱︱﹂︵﹃論究日本文学﹄一九六九年四月︶
︵
3︶﹁新感覚派の研究
﹂ ︵ ﹃
文藝創作講座﹄一九二八年十二月から
一九二九年九月
︶ ﹃
定本横光利一全集﹄十四巻︵河出書房新社 一九八二年十二月︶
︵
4︶注2に同じ
︵
5︶﹁人間學的文藝論
﹂ ︵ ﹃
改造﹄一九三〇年五月
︶ ﹃
定本横光利一
全集﹄十三巻︵河出書房新社 一九八二年七月︶
︵
6︶﹁藝術派の眞理主義について﹂︵﹃読売新聞﹄一九三〇年三月
十六︑十八︑十九日
︶ ﹃
定本横光利一全集﹄十三巻︵河出書房新
社 一九八二年七月︶
︵
7︶﹁心理主義文學と科學
﹂ ︵ ﹃
文学時代﹄一九三一年六月
︶ ﹃
定本
横光利一全集﹄十四巻︵河出書房新社 一九八二年十二月︶
︵
8︶ポール・ヴァレリイの主な著作は︑評論﹁レオナルド・ダ・
ヴィンチの方法への入門
﹂ ︵
一八九五年
︶ ︑
哲学的コント﹁テス
ト氏との一夜
﹂ ︵
一八九六年
︶ ︑長詩﹁若きパルク﹂︵一九一七 取り残された団員たちが宿屋から逃げ出す際の心理の模様を︑
団員の一人である﹁私﹂が語っていくという小説である︒この
﹁時間
﹂の
語り手﹁私
﹂は
集団全体の心理の動きを明確に語って
いるが︑﹁鳥﹂や﹁機械﹂の﹁私﹂に比べ︑科学者という性質が
外された分︑その論理的思考力を担保する要素がなくなってい
る︒
科学の限界を意識しだした横光は︑心理の非科学的な実体を
描くという点に主眼を転換していったのではないだろうか︒横
光は﹁覺書四
﹂において︑文学と科学の差異を強調し︑現実に 23
法則を与えたり︑法則を発見したりする科学に対し︑文学は現
実から﹁法則や體系﹂を拭い去るものであると主張している︒
そして︑﹁法則といふものは︑やがて新しい心から拭き消さる
べき條合のもの﹂で︑﹁心は法則を使用する番にならねばなら
ぬ﹂のであり︑﹁ヨーロッパの行き詰りは法則に使用された心
の行き詰りではないか﹂と述べている︒心理に法則を埋め込む
のではなく︑心理から法則を拭い去ることこそが文学のあるべ
き姿であると横光は言うのである︒ここにはもはや﹁文學のみ
の科學﹂という考え方は見受けられず︑文学の科学に勝る点が
強調されるばかりである︒横光のいう﹁文學のみの科學
﹂ ︑
文
学だけの科学的方法を模索し︑非科学的な心理を理論的に書く
ことを試みたのが新心理主義時代の始まりであったが︑次第に
その軸足は心理の非科学性を描くこと︑言い換えれば科学主義
から心理主義へと移されていったのではないかと考えられる︒
以上のように︑本稿は一九三〇年前後の横光における科学的
意識の内容を改めて考察し︑それを視座としつつ︑新心理主義
日
︶ ﹃
定本横光利一全集﹄十三巻︵河出書房新社 一九八二年
七月︶
︵
15 ︶横光は﹁騒音とは何であらうか︒私は思ふ︑それはただ眞
實であると︒騒音以外に眞實はない︒現實とは騒音そのもの
に他ならない﹂と述べている︒そして︑現実の騒音は真理の
ように不明快であり︑それを整理することで発生させる幻想
上の騒音が文学的騒音であり︑数学のように複雑なものを単
純に整理するのではなく︑単純なものを複雑に整理するとき
に近代的意味を持つことを主張している︒
︵
16 ︶注1に同じ
︵
17 ︶河田和子
﹁ ︿
機械﹀の新感覚︱︱横光利一の﹁鳥﹂と近代科
学の文学的受容︱︱﹂︵﹃近代文学論集﹄二〇〇四年十一月︶
︵
18 ︶小川直美﹁横光利一﹁鳥
﹂︱
︱﹁
悲しみの代価
﹂か ら﹁
機械﹂
へ︱︱﹂︵﹃同志社国文学﹄一九八八年十二月︶
︵
19 ︶﹃医学書院医学大辞典
﹄ ︵
医学書院 二〇〇九年二月
︶ ︑﹃
リ
ハビリテーション事典
﹄ ︵
中央法規出版 二〇〇九年十月︶を
参照した︒また︑河田氏が当時のデアテルミイの詳細につい
て論
じて
い
る︒ ︵
﹁ ︿
機械﹀の新感覚︱︱横光利一の﹁鳥﹂と近
代科学の文学的受容︱︱﹂﹃近代文学論集﹄二〇〇四年十一月︶
︵
20 ︶松村良﹁横光利一﹁機械
﹂ ﹁
寝園
﹂︱
︱
短編から長編へ﹂︵﹃日
本近代文学﹄一九八九年十月︶
︵
21 ︶﹁私
﹂は
度々﹁ちがひない﹂﹁分つているのだ﹂というように︑
物事を明確に理解しているかのように語っている︒特に﹁私﹂
と
軽部
︑
屋敷
の
三人
の
関係性
と
心理
を
明確
に語
ろうとする
︒
これは︑﹁私﹂が屋敷の死の真相を解明しようとしているから
であり︑そのためには︑その因果関係にたどり着く可能性の
ある三人の関係性と心理の動きを明確に認識し直す必要があ 年
︶ ︑﹁
海辺の墓場
﹂ ︵
一九二〇年
︶ ︑
詩集﹁魅惑
﹂ ︵
一九二二年︶
などである︒この当時︑横光が読み得た主な著作は︑﹁レオナ
ルド・ダ・ヴィンチ方法論序説
﹂ ︵ ﹃
白痴群﹄︶︑﹁テスト氏の序﹂
︵ ﹃
文学﹄︶︑﹁テスト氏との一夕
﹂ ︵﹃
詩と詩論﹄︶などである︒
また︑一九三二年には﹃テスト氏一
﹄ ︵
江川書房︶︑﹃ヴァリエ
テ一
﹄ ︵
白水社
︶が
刊行されている︒
︵
9︶篠沢秀夫﹃フランス文学案内
﹄ ︵
朝日出版社 一九九六年五
月︶
︵
10 ︶﹁バレリー﹂︵﹃皿﹄一九二九年九月
︶ ﹃
定本横光利一全集﹄
十四巻︵河出書房新社 一九八二年十二月︶
︵
11 ︶一九二九年に河上徹太郎が翻訳﹁レオナルド・ダ・ヴィン
チ方法論序説
﹂を
﹃白痴群
﹄に
発表している︒これはヴァレリ
イが一九一九年に﹁レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への入
門﹂ ︵
一八九五年︶を再発表する際に書いた前書を訳したもの
である︒
︵
12 ︶一九二九年九月十一日消印藤澤桓夫宛の書簡
︵ ﹃定本横光利
一全集﹄十六巻 河出書房新社 一九八七年十二月︶
︵
13 ︶横光が﹁詩と小説
﹂ ︵ ﹃
作品﹄一九三一年二月
︑ ﹃定本横光利
一全集﹄十三巻 河出書房新社 一九八二年七月︶において
ヴァレリイを﹁法則の權化
﹂と
評するように︑ヴァレリイは自
我の探求において理知主義を重視している︒﹁方法論序説﹂冒
頭で︑ヴァレリイは﹁アポロン﹂とたとえるダヴィンチの理智
主義
が﹁
信頼すべき正しい力﹂であると説き︑その優位性と勝
利を謳い︑そして︑理性に則った︑自分を知り︑相手を知ろ
うと欲する理智的生活が︑完成された自意識へ導くというこ
とを語っている︒
︵
14 ︶﹁文學的實體について﹂︵﹃讀賣新聞﹄一九二九年九月二十七
るからであると考えられる︒
︵
22 ︶﹁肝臟と神について﹂︵﹃中央公論﹄一九三〇年一月
︶ ﹃
定本横
光利一全集﹄十三巻︵河出書房新社 一九八二年七月︶
︵
23 ︶﹁覚書四
﹂ ︵
原題﹁現實界隈
﹂︶ ︵
﹃
改造﹄一九三二年五月
︶ ﹃ 定
本横光利一全集﹄十三巻︵河出書房新社 一九八二年七月︶
︵いわさき なつみ︑平成二十七年度国文学科卒業生︶