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公共日本語教育学 社会をつくる日本語教育

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Academic year: 2022

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書 評 ページ上部に印刷業者が飾りを入れるのでこの2行の余白をカットしないこと

川上郁雄編

公共日本語教育学 社会をつくる日本語教育

くろしお出版、2017年発行、251p.

ISBN:978-4-87424-733-4

細川 英雄

1.今、なぜ「公共日本語教育学」か

本書は、早稲田大学大学院日本語教育研究科(以下、早稲田日研)が総力を挙げて、こ とばの教育と公共性の関係について問う提案の書であるといえるでしょう。

「公共性」という概念についての議論は、政治学・哲学・社会学等の分野で1960年代か ら始まっているもので、戦後の社会・制度・政治等を考える上での重要な意味を持ってい ます(阿部斉、1966)。

この議論は、1990年代に入ってからますます盛んになり、民主的な社会のあり方を考え る場合、当該分野では、不可欠のものとなってきました。言語教育との関係については、

残念ながらこれまで議論も言及もほとんどありませんでしたが、人がことばによって何を めざすのかと言う課題は、ことばを使用する人すべてに広く開かれなければならない問題 であり、その意味で、ことばの教育が地球環境における人類の共存の思想にもつながる課 題であると考えると、公共性の概念は、言語教育にとっても不可欠の課題だということに なるでしょう。

「公共日本語教育学」と銘打たれた本書は、そうした社会・制度・政治の思想の流れを、

いち早く日本語教育に取り入れ、日本語教育を新しい方向に牽引する役割を持っていると いえます。

評者は、この課題について、すでに「公共日本語教育という思想へ―早稲田日研のこれ までとこれから」(細川、2016)と題して論じたことがあります。これまでの早稲田日研 の理念と役割、そしてこれからの方向性との関係において、本書の意義について論じてみ たいと思います。

2.言語教育と公共性の関係

1970年代から80年代以降、いわゆるコミュニケーション能力育成が目的化されてきた言 語教育に対して、90年代後半からの世界的なポスト・モダンの潮流の中で生み出されたポス 書 評 ページ上部に印刷業者が飾りを入れるのでこの2行の余白をカットしないこと

川上郁雄編

公共日本語教育学 社会をつくる日本語教育

くろしお出版、2017年発行、251p.

ISBN:978-4-87424-733-4

細川 英雄

1.今、なぜ「公共日本語教育学」か

本書は、早稲田大学大学院日本語教育研究科(以下、早稲田日研)が総力を挙げて、こ とばの教育と公共性の関係について問う提案の書であるといえるでしょう。

「公共性」という概念についての議論は、政治学・哲学・社会学等の分野で1960年代か ら始まっているもので、戦後の社会・制度・政治等を考える上での重要な意味を持ってい ます(阿部斉、1966)。

この議論は、1990年代に入ってからますます盛んになり、民主的な社会のあり方を考え る場合、当該分野では、不可欠のものとなってきました。言語教育との関係については、

残念ながらこれまで議論も言及もほとんどありませんでしたが、人がことばによって何を めざすのかと言う課題は、ことばを使用する人すべてに広く開かれなければならない問題 であり、その意味で、ことばの教育が地球環境における人類の共存の思想にもつながる課 題であると考えると、公共性の概念は、言語教育にとっても不可欠の課題だということに なるでしょう。

「公共日本語教育学」と銘打たれた本書は、そうした社会・制度・政治の思想の流れを、

いち早く日本語教育に取り入れ、日本語教育を新しい方向に牽引する役割を持っていると いえます。

評者は、この課題について、すでに「公共日本語教育という思想へ―早稲田日研のこれ までとこれから」(細川、2016)と題して論じたことがあります。これまでの早稲田日研 の理念と役割、そしてこれからの方向性との関係において、本書の意義について論じてみ たいと思います。

2.言語教育と公共性の関係

1970年代から80年代以降、いわゆるコミュニケーション能力育成が目的化されてきた言 語教育に対して、90年代後半からの世界的なポスト・モダンの潮流の中で生み出されたポス

書評 特集

(2)

ト・コミュニカティブ・アプローチの立場は、これまでの言語教育の範疇を超え、ことばと 文化の教育を人間科学として捉えようとする、大きなムーブメントであるといえるでしょう。

公共性の議論も、こうしたポスト・コミュニカティブ・アプローチの流れと決して無関 係ではないでしょう。なぜなら、ことばを個人間のコミュニケーションの道具としてのみ 扱うのではなく、人と社会をつくるための思想形成のよりどころと捉えるならば、ことば の教育は、民主的な社会を形づくる公共性の概念と不可分の関係にあるからです。

しかし、改めて言語教育と公共性の関係とは何かと問うならば、その課題は、そうたやす いものではありません。たとえば、橋爪(2000)は、公共性の概念を, 「ある問題領域が, 不特 定の人びとに開かれているところに成り立つ」とし、その開放性について論じていますが、

その開放自体に、official(公的)、common(共通)、open(開放)の三つの面のあることを 齋藤(2000)は指摘しています。このあたりの困難性について、本書では、「互いに抗争す る関係にもある」ものとしての公共性(蒲谷:225-234)という解釈を前提としています。

あわせて、公共性と公益性の違いについても、その検討が必要でしょう。

この点は、本書の結びに、公共日本語教育学について、「日本語教育の「公共的な性質あ るいは側面」、また国内外の「認知度」「普及度」などを議論することではな」いとして明 快に示されています(川上:245-246)。ここから、公共日本語教育学とは、たんに当該分 野の公益性をめざすものではないことが読み取れます。

ここでは、「一人ひとりの日本語教育実践者が、モノリンガルな言語教育としての日本語 教育を脱し、日本語教育を通して日本語使用者とともに複言語使用の生き方を考え提案し ていく」実践研究であり、また新たな社会秩序と個の人権のバランスのあり方を考え提案 する」実践研究として位置づけられていて(川上:244-246)、本来の実践研究の理念であ る社会変革の理念に近いものがあります(細川・三代、2014)。

私事にわたりますが、「公共性」という概念に関連して、言語教育の文脈で「公共」とい う術語をはじめて耳にしたのは、1995-96 年にパリ大学交換研究員としてフランスに滞 在した折、G.ザラトの研究会Pluralité des Langues et des Identités en Didactique : Acquisitions, Médiations(PLIDAM)に参加したときのことです(細川、2012a)。この 時期は、ちょうどヨーロッパ言語共通参照枠CEFRの試作版がインターネットで公開され る直前のことで、複言語・複文化という概念を初めて知ったのもこの研究会でした。「公共 的であること」が言語教育とどのような関係にあるのかということさえもまったく知らな かったわけですが、振り返ってみると、すでにコミュニカティブ・アプローチからアクショ ン・アプローチへという明確な動きがあり、そうした方向性について、すでにヨーロッパ の各分野の人たちが積極的に議論していたという事実は、とても感慨深いものがあります。

このあたりの経緯については、2015年8月のボルドーでのヨーロッパ日本語教育シンポ ジウムにおいても、ヨーロッパ言語共通参照枠CEFRへの関心がことばの教育と「公共性」

へと結びついていることを確認しました(https://www.eaje.eu/ja/symposium/25)。 3.日本語教育の専門性とは何か

本書においては、とくに「専門性から公共日本語教育学を考える」(小林:220-221)と

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いう視点が示されています。

具体的には、「成熟した「ことばの使い手」になる」(小林:202-207)、「「自立した書き 手」を育てる」(太田:214-221)という考え方とほぼ一致するものです。

このことはさらに、評者の提唱する、充実した言語活動主体のあり方としての「ことば の市民になる」(細川、2012)という考え方とも共通するところがあります。

ここでの課題は、日本語教育の専門性とは何かということです。

日本語教育の専門性を固定的に実体化し、それを技術・方法として習得することが日本 語教師になることだというような短絡的な考え方は、一種の文化本質主義であり、専門性 の意味を極度に矮小化するものでしょう。こうした専門性本質主義から脱却するためにも、

公共性の概念を検討することは、広く日本語教育にとってきわめて重要な課題であると考 えられます。

日本語教育および教師の専門性をどのようなものとして捉えるかは、さまざまな立場が あると考えられますが、言語と人間の関係をホリスティック(全包括的)に見ることによっ て、ことばを使って活動しているすべての人のための言語教育という立場について考える ことができるようになります。それによって、ある言語の形式や構造についての知識を想 定される場面で運用できるようにするという知識応用的な発想を超えて、人はことばを 使って何をしようとするのかという根本的な問いと向き合うことになるでしょう。

それならば、教師は何をするのかという問いが発せられるのは当然のことですが、一言 でいえば、教師が正解を示し教えるのではなく、学び手自身が自らの納得解を得ることが できるような状況あるいは環境をつくること、これが教師の仕事、すなわち教育の専門性 だということになるでしょう。

このような考え方からは、すべての人がことばを使って何ができるかということを考え なければなりません、だから、専門性という用語によって決してその世界を閉ざしてはい けないということになるのです。日本語母語話者に限らないという意味で、あえて「日本 語人」という言い方をすると、すべての「日本語人」が日本語に関わることのできる「公 共性」の可能性ということを構想すべきだろうということになります。教室は、仮想の空 間としての「教室外」のための訓練や練習の場であってはならないのです。それは、すべ て日本語の使い手の生活に向けて開かれていなければならず、さらに、日本語教育は、教 室空間での技術的・方法的な練習に終始せず、ことばの使い手一人一人の日常と学習を結 ぶこと、すなわち「状況に入れる」(ハーバーマス、1994)役割を果たすことを考えなけ ればならないでしょう。

このように、自らの専門性を開いていくことを、あえて「開かれた専門性」と呼ぶなら ば、この「開かれた専門性」というのは、ごく簡単に言えば、教育の原点に戻ろうという ことになります。このことを教育内容の公共性という観点から考えると、日本語教育の世 界を、定められた正解やそれを教授する技術・方法の問題に閉ざしてしまうのではなく、

もっと広く誰でもが関わりそれを使える方向へ目を広げる必要があるということになり、

それは、本書全体の趣旨にもつながると考えられます。

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4.公共性につながる日本語教育とは何か

では、公共日本語教育学の具体的な実践の姿とはどのようなものなのでしょうか。

本書では、そのひとつの例として、早稲田大学日本語教育研究センターのカリキュラム が挙げられていますが(小宮:161-164)、それがなぜ日本語教育の公共性とつながるのか は明確にされていません。むしろ早稲田日研の本来の母体であった日本語センターのカリ キュラムの行方こそが、大学教育における日本語教育の方向性を示すものであり、そこに 日本語教育のひとつの将来のあり方を見ることができるはずではないでしょうか。

このように考えていくと、ことばの教育のカリキュラムというものは、決して個人の当 該言語の習得だけを目的とすべきではないということが見えてくるでしょう。

たとえば、ヨーロッパのCEFRでも主張されているように(欧州評議会、2003、2016)、

社会的行為者として言語活動主体を捉えること、そして多様な他者とのさまざまな関係性 を考えていくこと、決して一つではない複数の自己アイデンティティについて考えていく こと、そのようなことが言語による対話的活動によってしだいに明らかになってくるので す。つまり、ことばの教育の場では、言語を習得して、たとえば、母語話者並みの能力を つける、というようなことが目的になるのではなく、対話的活動を軸にしつつ、自己・他 者・そして社会を考えるということ自体が目的となり、動態的なアイデンティティのこと も考慮の範疇に入るということなのです。

つまり、そうした思想を含みつつ、言語教育のカリキュラムをどのように構想するかと いう視点がきわめて重要な課題となります。

このことは、個人がある言語を習得するためでもなく、またそのような能力をつけるこ とではなく、社会それ自体がことばの「公共性」を持つように、あるいは、学生が、「公共 性」のある社会をことばの活動によって経験できるように、言語教育のカリキュラムを計 画することが必要となります1

言語教育は、社会や他分野への準備教育として位置づけられてきており、日本語教育も また、外国人のみを対象とした日本語の教育が、社会のメインストリームから離れた教室 の中で、専門家のみが知る方法によって、個別に実施されるという構図におかれたままで す。「公共性」をこれら「分断」「私的」「個別的・一面的」に利益(公益性)を追求するこ とへの対抗概念として位置づけることで、市場原理に回収されない言語教育のあり方を構 想しなければなりません。

このような考え方には、「熟議(討議)」(ハーバーマス、1994)という概念が参考にな るでしょう。私たちの暮らす「社会的領域」(アレント、1994)における「公共的領域」

と「私的領域」の境界は、きわめて曖昧、かつ動態的です。他者とともに生きるというこ と自体がすでに「社会的領域」である、つまり、「公共圏」だということができるからです。

「社会的領域」における「公共圏」を確保するためには、「活動」の内容そのものをいかに 開いていくかが問われているのだと考えられます。

それはさらに、「一人ひとりの日本語教育実践者が社会実践の学として日本語教育の研究 成果を世に発信していくときに、公共日本語教育学の地平は開かれていく」(川上:246)) とする、本書の理念は、「理論と実践の統合」「早稲田から世界に発信」とした早稲田日研の

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開設理念と紛うかたなく符合しているのです。

「パラドクシカルな実践研究」(川上:244-246)とよばれるものは、日本語教育によっ て複言語使用の生き方を考える、個の人権の実現と国民国家の枠組みやシステムの維持に はつながらない可能性、新しい社会秩序と個の人権のバランスのあり方を考え提案すると いう、ある意味ではさまざまな矛盾に満ちた現実を、実践研究として引き受けなければな らないことを示唆しています。

そのことは、公共日本語教育学という分野自体が、国家政策、大学戦略に振り回されな い、個々の主体による自由をどのように保障するのか、「「人とことばと社会」のあり方、

21 世紀に生きる人の生き方の構想」(川上:245)という立場でなければならないでしょ うし、この考え方は、「ことばの教育こそが人と社会をつくる」2という方向性に根ざした ものであると考えることができます。

本書の刊行を機に、日本語教育全体が、広くことばによって活動する人間を研究対象と する、新しい実践研究へとその座標軸を移すきっかけとなることを願うものです。

注:

1 こうした社会それ自体がことばの「公共性」を持つこと、あるいは、学生が、「公共性」のある 社会をことばの活動によって経験できるようにするために、言語教育のカリキュラムを計画する ことを言語教育カリキュラムの公共化と呼ぶ。パネルディスカッション「日本語教育の公共性の 意味と課題」日本語教育学会2017年度秋季大会(新潟)予稿集参照。

2 南米シンポジウム2017823(サンパウロ)での福島青史氏による趣旨説明を基にした、評者の 表現化による。

参考文献

阿部斉(1966)『民主主義と公共の概念』勁草書房 斎藤純一(2000)『公共性』岩波書店

橋爪大三郎(2000)「公共性とは何か」社会学評論Vol. 50 No. 4 pp.451-463 細川英雄(2002)『日本語教育は何をめざすか』明石書店

細川英雄(2012a)『研究活動デザイン』東京図書 細川英雄(2012b 『「ことばの市民」になる』ココ出版

細川英雄(2016「公共日本語教育という思想へ―早稲田日研のこれまでとこれから」『早稲田日本語 教育学』20pp.21-31

細川英雄・尾辻恵美・マルッチェラ・マリオッティ(編)2016『市民性形成とことばの教育―母語・

第二言語・外国語を超えて』くろしお出版

欧州評議会 2004 吉島茂・大橋理枝 他(訳)『外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共 通参照枠』朝日出版社

欧州評議会(2016) 山本冴里(訳)『言語の多様性から複言語教育へ ―ヨーロッパ言語教育政策 策定ガイド』くろしお出版

アレント、H1994) 志水速雄(訳)『人間の条件』ちくま学芸文庫 ハーバーマス、J1994) 山口晃訳『公共性の構造転換』未来社

(ほそかわ ひでお 早稲田大学名誉教授)

参照

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