父祖の地を目指して ‑‑カザフスタンに「帰還」す る在外カザフ人 (分析リポート)
著者 岡 奈津子
権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名 アジ研ワールド・トレンド
巻 216
ページ 27‑33
発行年 2013‑09
出版者 日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL http://doi.org/10.20561/00045562
カザフスタンは一九九一年の建国以降、三〇〇万を超えるともいわれる在外カザフ人(現在のカザフスタン共和国の領域外に住む民族的カザフ人⑴)に、父 ふ祖 その地への「帰国」を呼びかけてきた。これに応えて、いままでに九〇万人近い人々がカザフスタンに移住している。彼らはどのような希望を抱いて祖国にやってきたのか。そして現在、いかなる現実に直面しているのだろうか。
●在外カザフ人呼び寄せ政策
一九九一年一二月、ソ連から独立したカザフスタンは、カザフ人の民族自決を掲げるとともに、世界唯一のカザフ人国家として、移住を希望する国外の同胞を受け入れてきた。諸外国からカザフスタンに移り住んできたカザフ人は 「帰還民」(oralman )と呼ばれている。この呼称には、在外カザフ人のカザフスタンへの移住は単なる移住ではなく、父祖の地に戻ることなのだ、という見方が反映されている。 カザフスタンは一九世紀なかばまでにロシア帝国に併合されたが、ロシアの侵攻と支配に抵抗する反乱が繰り返された結果、住民の一部が難民化した。さらに、ロシア革命とそれに続く内戦、およびソビエト政権樹立後も、多くの人々が周辺諸国に逃れた。なかでも一九三〇年代には、カザフ遊牧民の強制的定住化・集団化と、それによって引き起こされた深刻な飢餓により、当時のカザフ人のおよそ四割が死亡、生存者の約半数が周辺の共和国やソ連国外に逃れたとの推計もある。 ただし、かつての難民は必ずしも現在の在外カザフ人とは一致しない。在外カザフ人のなかには、先祖代々その土地に住み続けてきた人たちもいるからだ。他方、政治的混乱や戦火、飢餓などでカザフスタンを離れることを余儀なくされた人々のなかには、カザフ人以外の民族の出身者もいる。 独立後まもなく採択された一九九二年移民法は、外国に移住したかつてのカザフスタン市民⑵に帰国の権利を認めていた。また一九九三年憲法も、カザフスタンの「領土を去ることを余儀なくされたすべての共和国市民、および他の国々に居住するカザフ人」に、カザフスタン国籍を取得する権利を付与していた(第四条)⑶。すなわち在外カザフ人だけでなく、以前カザフスタンに住んでいたソ連 国民はみな、その民族的帰属にかかわらずカザフスタン国民になることができたのである。 現行の一九九五年憲法には、在外カザフ人や旧カザフスタン市民への国籍付与に関する規定はない。他方、一九九七年移民法は、国家がその定住を支援する「帰還民」を、かつて祖国から追放され国籍を奪われ、自由意思でカザフスタンに戻ってくる民族的カザフ人、と定めている(第一条)。その後、二〇〇二年三月二七日の移民法改正により、「帰還民」はカザフスタン独立時にその領域外に定住していた外国籍ないしは無国籍のカザフ人で、カザフスタンに移住した人々とされ、祖国からの追放と国籍剥奪に関する文言は削除された。 ただしこれらの変更は移民政策の方針転換ではなく、法律を実態により近づけた結果だと解釈すべきであろう。当初から、呼び寄せの対象として念頭に置かれていたのは旧住民というよりはカザフ人であった。また「帰還民」の法的地位を付与するにあたって、移民本人あるいはその直系尊属が、かつてカザフスタンに住んでいたか否かが問われることはなかったと
父 祖 の 地 を 目 指 し て ― カ ザ フ ス タ ン に 「 帰 還 」 す る 在 外 カ ザ フ 人 ―
岡 奈 津 子
分析リポート
みられる(参考文献①)。 表は、一九九一年から二〇一一年第 民」と呼ばれている。 身者であっても、しばしば「帰還 「帰還民」ではなくなった外国出 の報道や日常会話では、法的には 法的地位を失うが、マスメディア (全体の八八%)は「帰還民」の る。なお、国籍を取得した移民 口の約八%が国外からの移民であ とになる。カザフ人に限れば人⑷ と、住民のおよそ五%を占めるこ 人)がすべて定住したと仮定する から、仮にこれらの移民(八六万 六七万人(二〇一二年初)である る。カザフスタンの総人口は一六 の数を出身国別に示したものであ 3四半期までのカザフ人移民
ちなみに「帰還民」といえば、 一九九〇年代にはモンゴルから来たカザフ人を指すことが多かったが(参考文献②)、その後ウズベキスタンと中国からの移民が増大し、総数ではウズベキスタン一国で全体の六割を占めている。 カザフスタンの法律は、政府がこれらのカザフ人移民に国籍を付与し、語学研修や職業訓練など様々な援助を提供するよう定めている。それに加えて、移住費用の補償や住宅購入資金の供与を受けられる世帯数が毎年設定されており、その枠が「クォータ」と呼ばれている。カザフスタンは原則として、カザフ人であれば移住希望者全員を受け入れているが、このクォータ制の内容をみると、移民の属性によって優先順位がつけられていることがわかる。
カザフ人移民向けのクォータ制が導入されたのは一九九三年である。当初は一万世帯分の枠が用意されたが、その数は毎年削減され、一九九九年および二〇〇〇年にはわずか五〇〇世帯にまで縮小した。その後、おそらくはカザフスタンの経済成長を受けて枠は拡大され、後述するように住宅援助の方針変更もあり、二〇〇四年以降は一万〜二万世帯で推移してい る。 クォータ制に質的な転換をもたらしたのは二〇〇七年七月六日の移民法改正である。このとき、「帰還民」のうち誰をクォータに含めるかは「基準を考慮して」決められることになったからだ(第一四条二項)。この時点では、移民法は「基準」の具体的内容を示していなかったが、この改正を受けて翌二〇〇八年から、高学歴者と子供の数が多い世帯がクォータの配分において優先されることになった。 移民の「質」を重視する傾向は、二〇一一年七月に施行された移民法においても顕著である。この新移民法はクォータの配分において、上から順に①特定の専門分野の学歴、技能および経験を有すること②子供の多い世帯③高等教育機関で学ぶことのできる成人の若者④不安定な政治・社会経済状況下にある国の出身者、が優先されると定めている(第二〇条四項)。②および④は人道的観点に立ったものだが、専門教育や技能がトップにあげられていることからも、二〇一一年移民法は、移民の労働力としての価値に重きを置く傾向を追認したものといえよう。 ところで二〇〇九〜一一年のクォータは二万世帯に設定されていたが、二〇一一年一二月二二日付の政令で翌年以降の分は一万世帯に減らされた。さらに翌二〇一二年四月、政府は二〇一二年度分のクォータの配分停止を決定した。この措置は「別の指令があるまで」とされ、クォータの完全廃止を意味するわけではないが、その後、制度変更に向けた道筋は示されていない。
●移民の厳しい生活
このようなクォータの縮小、ひいては停止の背景にあると考えられるのが、二〇一一年一二月に発生したジャナオゼン事件である。カザフスタン独立記念日の一二月一六日、西部にあるマングスタウ州ジャナオゼン市の中心部で、祝典の最中に石油労働者と警察が衝突、治安当局の武力行使などにより公式発表で一五人が死亡、数十人の負傷者を出す事態となった。 事件に先立つ数カ月間、カスピ海に接する西部地域では賃上げや待遇改善を求めて石油労働者がデモを続けていたが、二〇一一年九月、サムルク・カズナ基金のクリバエフ総裁(当時)が、デモの首 表 カザフスタンに移住したカザフ人移民(1991 〜 2011 年 10 月 1 日)
出身国 人 全体に占める割合(%)
ウズベキスタン 519,734 60.4
モンゴル 113,705 13.2
中国 90,881 10.6
トルクメニスタン 64,862 7.5
ロシア 36,357 4.2
タジキスタン 11,684 1.4
キルギス共和国 9,248 1.1
イラン 5,985 0.7
トルコ 3,511 0.4
その他 4,483 0.5
全体 860,450 100.0
(出所)参考文献③
謀者はウズベキスタンとトルクメニスタンからのカザフ人移民だと公言し物議をかもした。デモに移民が加わっていたのは事実であろうが、彼らの役割を過大評価するクリバエフの発言は、デモ参加者と移民、双方から非難を浴びた。なおサムルク・カズナ基金は、労働争議を抱えていた三社のうち、二社の主要株主(国有石油ガス会社カズムナイガス)の株を独占的に所有する利害関係者である。
他方クリバエフは、ジャナオゼンには大量の移民を受け入れるだけの社会インフラはないのだから、移住を制限すべきだった、ともコメントしたと報道されている。実際に、マングスタウ州は住民に占めるカザフ人移民の割合が最も高く、公式統計によれば人口の二割にものぼっている。事件後、政府は今後ジャナオゼンへカザフ人移民を定住させないとしたうえで、すでに住んでいる移民を他地域に移す可能性にも言及した。
こうした政治エリートの発言やジャナオゼン事件後の政府の対応から浮かび上がってくるのは、国策として呼び寄せたカザフ人移民が、いまや社会不安の一因とみなされている、という事実である。 祖国の呼びかけに応じて帰還したのに十分なサポートを得ることができず、見捨てられたと感じている移民は少なくない。現状に対する彼らの不満が、西部で発生したようなデモやより暴力的な異議申し立てに結びつくことを、政府は危惧しているのである。 カザフ人移民の生活は全体として厳しい。職歴、学歴、言語能力、親戚や知人のネットワークの有無、移住時期などによって置かれている状況は異なるし、なかには社会的地位を築くことに成功した例もある。しかし大多数の移民は安定した職に就いていないとみられる。先述のように、カザフ人移民は国籍を取得した時点で法的には「帰還民」ではなくなるが、こうした人々の就業に関するデータは存在せず、その実態は不明である。 先に述べたとおり、クォータ制に基づき住宅取得のための公的支援が行われているものの、この恩恵にあずかることができたのは移民全体の六割弱に過ぎない。なお一九九九年から二〇〇三年までは住宅が現物支給されていたが、二〇〇四年以降は現金が支払われることになった。しかしその後、不 動産価格が高騰したため、支給金による住宅購入は都市部はもとより農村部でも難しくなってしまった。出身地域や資産状況にもよるが、たとえばウズベキスタンの不動産価格はカザフスタンのそれよりも低く、持ち家を売却しても自己資金が不足することが多い。そのため、長期にわたって劣悪な居住環境におかれている移民もいる。
二〇〇七年一二月、筆者はカザフスタン南部の都市、シュムケント郊外の移民集落をいくつか訪問した(この地域に住む移民のほとんどがウズベキスタン出身である)。これらのうち、モデルケースとして全国的に注目されているのがアサル地区だ。この地区は移民自らが立ち上げた会社によって整備され、筆者が訪問した時点ではまだ住宅建設中で、一七〇〇世帯あまりの入居が予定されていた。担当者の説明によれば、居住面積は一〇〇〜二三〇平米だという(写真①)。入居者は住宅ローンを組むことができるそうだが、こうしたケースは例外的だ。
これとは対照的なのがジャナタラプ村である。こ の村はかつての避暑地で、シュムケントの住民が休日を過ごし、家庭菜園を楽しむための別荘(dacha )があった。別荘といってもその多くは簡素な作りで冬場の居住には適さないのだが、地元住民が手放したそうした家々に、移民が移り住んでいるのである。この地域に電気は通っているが、水道はなく井戸に頼らざるを得ない(写真②)。
●祖国の現実
人々にカザフスタンへの移住を決意した理由を聞くと、まず返ってくるのは「カザフ人なのだからカザフスタンに住むのが当然だ」「祖国に帰るのが夢だった」という答えである。しかし、さらに詳
①シュムケント市郊外のアサル地区。カザフ人移民の ための住宅建設が進んでいた(2007 年筆者撮影)
父祖の地を目指して
― カザフスタンに「帰還」する在外カザフ人 ―しく話を聞いてみると、彼らがカザフスタンにやってきた背景には、さまざまな経済的、政治的、社会的要因が存在することがわかる。
豊富な資源を武器に急速な発展を成し遂げたカザフスタンは、一人当たりGDPでカザフ人移民の主な送り出し国(中央アジア諸国やモンゴル、中国)に差をつけている。「帰還」の主な動機のひとつに生活水準の向上があるのは明らかだ。しかし、よりよい暮らしを求めて移住したのに思い描いていたような生活ができず、失望する人々がいることはすでに述べたとおりである。
それと同時に、カザフスタンに移住することで少数民族の地位を 脱し、社会的上昇の機会をつかもうという狙いもある。同化の圧力や不当な扱いなど出身国の問題も指摘されるが、たとえ差別を受けていなくても子供の将来を案じて移住を決意した人も少なくない。また、子供にカザフ語で教育を受けさせたかったからカザフスタンに来た、という説明もしばしば耳にした。 カザフスタンに「帰国」した結果、カザフ人移民は民族的には多数派に属することになった。しかしその一方で、彼らは必ずしも祖国の同胞に一体化しておらず、移民と現地住民とのあいだには亀裂が生じている。さらに旧ソ連以外の国々からやってきた移民は、父祖の地で異民族の言語であるロシア語を新たに学ばなければならないという試練にも直面している。 ソ連時代、カザフスタンはもっともロシア化が進んだ共和国のひとつであり、ロシア人が多い都市部や北部・東部を中心に、カザフ人自身の間でもカザフ語をあまり話さない、あるいはカザフ語よりもロシア語の読み書きのほうが得意な人々が現れた。独立から二〇年以上がたった現在も都市部ではロシア語が優勢であり、農村部で もロシア語ができなければ就職には不利である。 父祖の地がロシア化されていることへの幻滅は、筆者がインタビューした移民の口からもしばしば発せられた。ウランバートル出身の女性Tさん一家は、一九九二年にカザフスタンに移住、インタビュー当時(二〇〇七年)はカザフスタン北部のパヴロダル市に住んでいた。Tさんはロシアへの留学経験があり、モンゴルでロシア語教師をしていたこともあってロシア語会話に不自由はない。しかしその彼女にしても、パヴロダルでカザフ語ではなくロシア語が話されているのを目の当たりにして、腹立たしく感じたという。ちなみに、Tさんの子供たちはモンゴルの首都育ちでカザフ語を知らなかったそうだが、成人したいまではカザフ語とロシア語のバイリンガルである(写真③)。
中国新疆のクルジャ(伊寧市)出身の青年Sさんに会ったのは、二〇〇八年、カザフスタン南東部のサルカン市を訪問した際のことだ。酒もタバコもやらない まじめな青年で、中国では教師としてカザフ語とカザフ文学を教えていた。二〇〇五年に移住してきたが、カザフ語で教える学校でもロシア語ができなければ採用できない、といわれてしまった(カザフスタンの公立学校の教授言語は、少数民族の言語で教える若干の例外を除き、カザフ語かロシア語である)。夢がかなわず落胆したが、生計を立てるため寝具を手作りして販売している(写真④)。将来はカザフ語話者が多い南部に引っ越し、教職に就きたい
③ウランバートル出身のカザフ人女性と娘さんたち(2007 年筆者撮影)
②シュムケント市郊外のジャナタラプ村。井戸に水を汲 みに来た人たち(2007 年筆者撮影)
と考えているという。
●地元住民の見方
地元住民の間にはカザフ人移民についてさまざまな見方がある。はるばる外国からやってきた彼らを、隣人あるいは同僚として温かく迎え入れる人も数多く存在する。しかしここでは、現地のカザフ人が諸外国から移住してきた同胞に対して持つ見解のうち、批判的なものを挙げてみよう。
まず指摘されるのが、地元民と移民の文化的差異である。地元のカザフ人の間では、移民のメンタリティや生活習慣は自分たちとは違う、と感じる人も少なくない。外国出身者が異なる文化的バック グラウンドを持っているのは、むしろ当然のことだ。ただし、数世代にわたって異郷で暮らした在外同胞だけでなく、「祖国」のカザフ人自身が異文化の影響を強く受けて言語的・文化的変化を遂げたことに、カザフスタンの複雑さがある。 また、モンゴル、中国、ウズベキスタンなど、カザフ人移民の主な送り出し国では、カザフ人が集住し、民族的特徴を保持しやすい環境にあった。地元のカザフ人も移民も、出身地域によって言語・文化的な差異が大きく単純な比較は難しい。しかし、あえておおざっぱな議論をするなら、現地のカザフ人とカザフ人移民を比べると、しばしば後者のほうが民族の言語や伝統をよく保持しているのである。 祖国の同胞と接した移民たちは、しばしば彼らがロシア化されていることに当惑し、自分たちこそが「本当の」カザフ人だと自認している。これに対しカザフスタンのカザフ人たちは、ソ連時代、民族の言葉や文化、伝統が軽視されたことには不満を抱いているが、ロシア語を通じて近代的な文明世界に接することができたとい う自負ももっている。地元のカザフ人にしてみれば、文化的・経済的に「遅れた」地域からやってきた移民に、彼らの基準を押しつけられるのは受け入れがたいことなのである(たとえば地元のカザフ人は移民のカザフ語を、外国語交じりであるとか、なまっていると批判する)。
なお旧ソ連出身者はソビエト時代の経験を共有しており、彼ら自身もそのほとんどがロシア語を話すため、地元住民との文化的差異は比較的少ない。言語、文化、メンタリティなどの違いに起因する対立は、旧ソ連以外の国々から来た移民との間においてより深刻である。
二点目は経済的な不平等感である。現地住民の間では、住宅購入などで国家の援助を受けられる移民は自分たちよりも恵まれている、という不満がある。なかには、国籍を取得し一時金などを受け取ったあと、カザフスタンに定住せずもとの国に戻るケースもあるといわれている。意図的な制度の悪用は全体からみれば一部に過ぎないと思われるが、こうした事例も地元住民の不満を煽る原因となっている。 なお、移民よりも地元住民の生活を優先すべきだ、という主張とともにしばしば表明される見解として、移民は祖国が苦境に陥ったときに出て行ったのに、豊かになってから戻ってきた、というものがある。かつて人々が戦火や混乱、飢饉を避けて周辺地域に逃れたのは生き残るためであって、よりよい暮らしを求めてではない。しかし「祖国に貢献していないのに援助だけを求めるな」という意見は一部の地元住民の間で根強い。
このように現地住民と移民との間には一定の緊張関係があり、移民が同胞として無条件に歓迎され
④中国・新疆出身のカザフ人青年(2008 年 OlgaKusis 氏撮影)
⑤中国・新疆から来たカザフ人移民の家にある寝具。美しい伝統的 装飾が施されている。カザフスタンの都市部でみかけることは少
父祖の地を目指して
― カザフスタンに「帰還」する在外カザフ人 ―ているとは言い難い。しかしカザフ人コミュニティにおいては、在外カザフ人の帰還に疑問を挟むと「反民族的」であるとして攻撃されかねないため、公の場では反対意見を述べにくい雰囲気がある。
ソビエト的・ロシア的要素を一掃し、カザフ人の言語と文化を復興させ、カザフスタンを真にカザフ人のための国家にしていこうと考える人々―ここではカザフ民族主義者と呼ぼう―は、カザフ人の父祖の地への帰還を当然視し、支持している。そして、カザフ人移民の存在を問題視するのは、民族 のことばを忘れた人々だけだと主張する。「本当の」カザフ人なら同胞の移住に反対するはずがないという言説は、とくにロシア語を母語とするカザフ人に対し、一定の圧力として働いている。彼らはすでに「半カザフ人」(shala qa-zaq)というレッテルを貼られており、自らもその烙印を内面化しているからだ。 このことを強く感じたエピソードがある。筆者が二〇一一年の初夏、アルマトゥで、カザフ人移民をテーマにしたセミナーに参加したときのことだ。このイベントに招かれた一五人ほどの人々は筆者を除き全員がカザフ人で、政治学者や歴史学者、文化人などのほか、中国やウズベキスタンなどから移民してきた当事者も含まれていた。セミナーは二名の発表に基づいて議論する形で進められたが、ロシア語で発表した二番目の若手研究者の発言をめぐって紛糾した。彼は「ロシア語ができない旧ソ連以外からの移民は、言語だけでなく文化的・社会的価値観が異なるため、カザフスタン社会への適応が容易ではない」ということを指摘したに過ぎない。しかし他の参加者は「帰還民も我々も同 じカザフ人だ。移民と地元のカザフ人を分断するな」とか、「カザフスタンのカザフ人がカザフ語を話せばいいのだ」と激しく批判したのである。非難と野次にさらされた発表者は、カザフ語が得意でないことを恥じているのか、ほとんど反論せずひたすらじっと耐えていた。 ところで、カザフ人以外の人々は政府の移民政策をどう評価しているのだろうか。彼らの大半はカザフ人の「帰還」に無関心であるか、口をつぐんでおり、カザフ人だけを招き入れるのはほかの民族に対する差別だ、という批判の声はほとんど聞かれない。独立後、カザフ人を中心とした国づくりが行われる一方、少数民族の権利擁護を掲げた運動は抑圧や懐柔によって実質的に消滅し、一般の非カザフ人は消極的に現状を受け入れざるを得なかった。またロシア人やドイツ人など、自らの「祖国」に移住する少数民族も多く、父祖の地への帰還を当然視する風潮もある。
●カザフ人社会の新たな亀裂
ソ連崩壊を受けて独立したカザフスタンにおいて、基幹民族の同 胞たる在外カザフ人は、ソビエトの支配から脱した新生国家にふさわしい市民になることを期待された。しかし実際には彼らの現地社会への統合は容易ではなく、その「帰還」は国内に新たな亀裂と深刻な社会問題を生んでいる。 カザフスタンがソ連を構成する一共和国であった七〇年間の間に、都市住民を中心にカザフ人のなかにもロシア語を第一言語とする人々が現れた。彼らにとって、ロシア語を解さないカザフ人移民は文化的に異なる人々である。また、「ロシア語を通じた文明世界への接近」という価値観は、農村部のカザフ人にもある程度共有されており、旧ソ連以外の国からの移民の目にはそれが「ロシア化」と映る。そうした祖国の同胞と接した移民は自分たちこそが「本当の」カザフ人だと自負しているが、このような移民の民族意識は、彼らと地元のカザフ人との距離を広げる要因のひとつになっている。 このような「カザフ人らしさ」をめぐる対立と並んで、現地住民の間でカザフ人移民への反発を生じさせているのが、国家が移民に金銭的支援を提供することへの不⑥ウズベキスタン・ジザク州から来たカザフ人移民の家族。年配の男性
(右から 2 番目)は同じ氏族に属するカザフ人のリーダー的存在で、同 族の移住希望者を支援している(2008 年筆者撮影)
平等感である。とくに貧困層の住民は、祖国のために尽くしてきた自分たちがないがしろにされ、最近やってきたばかりの移民が優遇されるのは不公平だと感じている人が少なくない。現実には移民への公的サポートは決して十分とはいえず、少なからぬ人々が苦しい生活を送っているのだが、拡大する貧富の格差を背景に、地元住民の生活を優先すべきだという見方は今後ますます強まる可能性がある。
このような移民への反発や移民政策への不満が存在するにもかかわらず、カザフスタンではいままで、公的な場で同胞呼び寄せへの異議申し立てがなされることはほとんどなかった。在外カザフ人の招聘は国家建設の重要な柱のひとつとして位置づけられ、カザフ民族の復興と歴史的正義の達成という大義名分の下、正当化されていたからである。また、カザフ民族主義者が唱える「真のカザフ人なら同胞の帰国に賛成するはずだ」という言説も、公な批判を封じ込めるファクターとして働いている。
カザフスタン政府は在外同胞の「帰国」を奨励してきたものの、最近は自らが呼び寄せた移民の処 遇が社会経済的に大きな負担になりつつある。政治エリートも、独立当初の歓迎ムード一色から、移民の過度な期待を戒め、むしろ祖国への貢献を促すようになってきている(参考文献④)。
しかし、カザフスタンが同胞呼び寄せ政策そのものを完全に放棄することはおそらく難しい。これ以上同胞を受け入れられないと宣言すれば、カザフ民族主義者や移民から、民族への裏切りだと非難されるだろう。とはいえ、すでに移住した人々に対しても最低限の生活を保障できず、彼らの社会的統合も進まないまま新たに移民を受け入れれば、社会不安は増すばかりだ。脱植民地化のシンボルとして始められた在外カザフ人の呼び寄せは、その民族的根拠ゆえに、政府に困難な課題を投げかけているのである。(おか なつこ/アジア経済研究所 中東研究グループ)
《注》⑴本稿で述べる「カザフ人」とは民族集団を指しており、国籍とは無関係である。言語的にはテュルク系諸語のひとつであるカザフ語を話し、伝統的生業は 羊と馬の飼育を中心とする遊牧であった。ただし本稿で触れているとおり、カザフスタンなど旧ソ連諸国ではソ連時代にロシア語の普及が進んだため、ロシア語を第一言語とするカザフ人も存在する。⑵ロシア帝国の臣民も含まれうるが、一義的にはソ連国籍を持ち、カザフスタン(正式名称は「カザフ・ソビエト社会主義共和国」)に住んでいた人を指すとみられる。⑶一九九三年憲法は、これらの人々は外国籍を保持したままカザフスタン国籍を取得できると定めていたが、現行の一九九五年憲法は二重国籍を禁じた(第一〇条三項)。⑷カザフスタンに定住せず以前住んでいた国に逆戻りするケースもあるが、そのような人の動きは表のデータには反映されていないとみられる。他方、カザフスタンの人権擁護団体によれば、移住後も「帰還民」の登録をせず、不法移民として滞在するカザフ人もいる。
《参考文献》①岡奈津子[二〇一〇]「同胞の 『帰還』―カザフスタンにおける在外カザフ人呼び寄せ政策」『アジア経済』第五一巻六号、二―二三ぺージ。② Alexander C. Diener 2009. One Homeland or Two?: The Nationalization and Transnationalization of Mongolia's Kazakhs. Wash-ington, D. C.: Woodrow Wil-son Center Press.③ Komissiiapopravam cheloveka pri Prezidente Respubliki Kazakhstan 2012. Spetsial'nyi doklad“O situatsii s pravami oral-manov, lits bez grazhdanst-va i bezhentsev v Respublike Kazakhstan.”Astana. [http://unhcr.kz/rus/resourc-es/UNHCRpublications/specialreport/].④ IsikKuscuBonnenfant 2012. “Constructing the Homeland: Kazakhstan's Discourse and Policies Sur-rounding Its Ethnic Return-Migration Policy.” Central Asian Survey 31(1): 31-44.