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日本経済の浮沈と東アジアの発展

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(1)

I

はじめに

1965

年から

5

年間続いた「いざなぎ景気」の期 間に、日本は国内総生産規模で世界第二の経済 大国にまで登りつめることができた2)。戦後期の混 乱を象徴するインフレや失業、栄養失調などの記 憶が薄れつつある中で、日本経済は高度経済成 長を体感できる段階に到達することが出来た。平 均成長率が長期間にわたって

10%

前後で推移し た結果、「日本の奇跡」と賞賛される規模を持つ 経済を実現させることに成功した。モノつくり日本 という特性を活かし、製造業を中心に生み出され る製品の輸出促進に真摯に取り組んできた。その 結果、貿易赤字を生み出し易かった経済構造に 改善傾向が見え始め、

1960

年代後半から対外収 支ポジションについて安定的な黒字基調が実現す ることになった。日本企業の多くは、米国と東南ア ジアの市場を視野に入れた国際化を本格化させ る段階を迎えていた。

1970

年前後の日本経済は、 ある意味で明るい展望に溢れた時代の幕開けで もあったと言えよう3)。例えば、旺盛な消費を支え

日本経済

浮沈

アジアの

発展

1970年代:国際化の始まりと

東アジアの台頭

1) 1)本論文は筆者の最終講義向けに用意された 講義録をもとにして加筆されたものである。 最終講義を企画支援してくださった 三ツ石郁夫経済学部長、伊藤博之教授、 そして本論文執筆を勧めて下さった 筒井正夫教授に心より感謝をいたします。 同時に、さまざまな機会を通じて国際問題の議論に 多くの時間を割いてくださった経済学部の諸先生方にも 深甚の謝意を表します。 経済経営研究所スタッフの方々は 快く多くのサポートをしてくださいました。 併せて感謝を申し上げます。 小田野純丸 Sumimaru Odano 滋賀大学 / 名誉教授 論文 2)2011年春に発表された政府経済統計は、 日本が世界第二の経済大国の地位を 中国に譲ったことを明らかにした。 報道では2010年にすでにその可能性が高いことが 報じられていた。時代の趨勢とは言え、 日本経済が40年にわたって第二位の地位を 持続させてきた時代に幕を下ろす段階を迎えたことになる。 3)高度経済成長を扱った研究書は多い。 その当時の経済発展についての理念や 政策を扱った文献として、 佐和隆光著、「高度成長─「理念」と政策の同時代史」 (NHKブックス、昭和59年9月)を挙げておきたい。 同書は戦後の日本経済を概観して、 高度経済成長を達成させた過程を詳述し、 そのプロセスを支えることになった理念と関連する 政策について詳説している。

(2)

ることになる賃金の高い伸び、電化製品や車など が当たり前の豊かな生活、大学卒業生の恵まれた 就職率など多くの明るい話題が思い起こされる。 社会全体を通して、前向きにひた走る活力と息吹 に溢れる時代を確実なものにしていた4)  本論は、

1970

年代の日本経済が辿った国際化 のプロセスと、東南アジア経済の発展を関連付け ながら論述するものである。

1970

年前後の世界経 済を概観すると、日本経済が飛躍する一方で、米 国経済に陰りが見え始め、特に対外収支ポジショ ンの悪化に米国政府は大きな懸念を持ち始めて いたことが特徴的であった。また、中近東の第四 次中東戦争をきっかけにして、原油価格が高騰し たいわゆる「オイル危機」が登場することになり、 世界のエネルギー資源政策に大きな影響を与え ることになった。東南アジアでは、ベトナム戦争が 泥沼化する一方で、周辺諸国は共産主義の浸透 によるドミノ化を心配する声が高まり、タイ、インド ネシアなど東アジア

5

か国は

1967

年に東南アジア 諸国連合(

ASEAN

)を組織していた5)。中国は、 独自の政治体制を持続させながらもまだ国際政 治経済の表舞台に登場するまでには至っていな かった6)。東アジアは世界経済の主要課題に関わ りを持つまでには認知されておらず、むしろ、アジ アを取り巻く中心的経済課題は、急速に力をつけ ていた日本経済の動向にあったと言えよう。

II

1970

年前後の日本と

アセアン

5

か国の経済事情

 日本が工業化を急速に進め成果を挙げている ことが国際的に広く認知されるにつれて、周辺東 アジア諸国では同様の工業化に向けた取り組み を進める機運が確実に生まれていた。特に

60

年 代後半から、台湾、香港、韓国、シンガポールなど が輸出産業の育成を基軸に据えて、新興工業経済 (アジア

NIEs

)としての基盤を形成させる段階に 到達していた7)。雁行形態論と呼ばれる産業セク ター別の成長図式が、それぞれの国の経済政策 論議の中にも明示的に取り上げられることになっ た8)。繊維、機械、そして自動車やエレクトロニク スなどの産業の高度化の流れの中に自国の産業 4)米国ブルッキングス研究所から

H. Patrick and H. Rosovsky両教授の編集による

『アジアの新しい巨人(Asia’s New Giant)』と題された

日本の成長と特徴を正面から扱った940ページに及ぶ 大部の研究書が公刊されたのは1976年のことであった。 その後、欧米の多くの経済学者や経営学者が 日本研究に関心を持ち始めることになった。 5)アセアン5か国のそれぞれの独立過程と その後の内国の安定化の過程を通じて、 共産勢力との様々な確執があったことが注目される。 当時のアセアン5か国の首脳は彼らの共通認識として 共産化の影響力を封じ込めたいという意思を共有していた。 そうした意向が、相互に政治的不干渉という 緩やかな原則のもとで、共通の課題として 対共産勢力に当たるという枠組みの形成に大きく作用した。 その後、アセアンは加盟国を増やし、 アセアン自由貿易などの相互依存を基調にして 経済発展を目途に地域協力強化に向かうことになる。 6)1972年2月の米国大統領ニクソンの電撃的な 中国訪問によって、米中交流のレールが敷かれた。 それ以前に、国務長官キッシンジャーは 隠密外交を展開していた。 ベトナムでの戦局を視野に入れた時、 中国の役割に期待する意向があったと言われている。 国際政治の表舞台に中国が登場する 序章となった出来事と言えるものであった。 中国側の主役は周恩来首相であった。 7)1970年代初頭のそれぞれの国の 主要輸出品を見ると工業化初期の興味深い特徴を 知ることができる。韓国の代表的輸出品の一つは 女性用カツラであったし、香港の品目上位には プラスチック製の造花などを見ることができる。 四か国共通に見ることができる代表的輸出品目は 繊維製品であった。

8)雁行形態論(Flying Geese Hypothesis)は、 一橋大学の赤松要教授が提唱した発展パターンを

類型化したものである。産業の段階的発展を

要約したものとして知られる一方で、 静学過ぎるという批判が寄せられている。

(3)

基盤をどのように形成しつつ定着化させていくの かという議論が高まっていた9)  シンガポールを除いたほかのアセアン

4

か国に ついて見ると、それぞれの国の発展状況に大きな 差異が歴然と存在していて、一律的な発展戦略を 描くことは難しい状況にあった10)

1965

年から

1980

年までの期間を通じた日本とアセアン

5

か国 の成長率は図

1

に要約されている。図

2

にあるアセ アン

4

の一人当たり

GDP

のグラフは、まずフィリピ ン、タイ、インドネシアのそれぞれの国の水準が

1,000

ドルに満たない低所得国であったことを明 らかにしている。政変直後のインドネシアはイン フレの高進と食糧不足などの経済的混乱に直面 していた。フィリピンは独裁政権による強権的政 策が浸透し、国内の経済改革の着手までには至っ ていなかった。資源富裕国のマレーシアは一次産 品依存型の経済構造からどのように脱却するかと いう模索が始まったばかりであった。タイは、米作 中心の農業国であったが、ベトナム戦争の前線に 近い基地を提供していたため米軍による特需景 気を享受できていた。しかし、

1970

年代に入ると、 ベトナム戦争はどのような形であろうとやがて終 戦を迎えるという見通しが少しずつ共有され始め ていた。それぞれのアセアン諸国は国内政治問題 を抱えつつも、ベトナム戦争終結後を睨んだ経済 発展戦略が求められていた。特に、対外収支が赤 字体質であったアジアの国々はその改善に取り組 まなければならない課題を抱えていた(図

3

は、日 本とアセアン

5

か国の財とサービス勘定の対外収 9)韓国などの例を見ると、日本に追いつき追い越せという アプローチが様々な産業分野で見られたと言われている。 経済発展と第二次産業の競争力には何らかの相関があると 考えていた可能性がある。日本の産業の高度化についての 研究は今の中国でも広く展開されていると言われている。 10)設立当初のメンバーである5か国(インドネシア、 マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)をここでは アセアン5と呼ぶことにする。 シンガポールは工業化を成功させた先行する 新興工業経済であるため、シンガポールを除く アセアン諸国についてはアセアン4と呼ぶ。 アセアンにはその後、新たな5か国が 順次加盟することになるが、本論文では もともとのアセアン5か国を対象に論議することにする。 出典:World Bank, World Development Indicators(CD-ROM), 2007 年から関連データを採録。 -2 0 2 4 6 8 10 12 14 16 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1975 1976 1977 1978 1979 1980 日本 インドネシア マレーシア フィリピン シンガポール タイ 1974

出典:World Bank, World Development Indicators(CD-ROM), 2007 年から関連データを採録。 0.0 200.0 400.0 600.0 800.0 1000.0 1200.0 1400.0 1600.0 1800.0 2000.0 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 インドネシア マレーシア フィリピン タイ

出典:World Bank, World Development Indicators(CD-ROM), 2007 年から関連データを採録。 -25 -20 -15 -10 -5 0 5 10 15 20 19 65 19 66 19 67 19 68 19 69 19 70 19 71 19 72 19 73 19 74 19 75 19 76 19 77 19 78 19 79 19 80 日本 インドネシア マレーシア フィリピン シンガポール タイ 図1 日本とASEAN5GDP成長率(%) 図2 ASEAN4の一人当たりGDP(ドル) 図3 日本とASEAN5の対外収支(対GDP,%)

(4)

支と

GDP

の比率を示している。日本と資源輸出国 であるマレーシア以外の国は恒常的に赤字であっ たことが見て取れる)。その段階で、日本によるさま ざまな取組や協力の可能性に期待する声は殊に大 きなものがあった。日本企業による投資(企業進 出)や技術移転、輸出市場としての可能性などが 想定されていた。このような東アジア諸国からの 要請と、高度経済成長の勢いに乗って大きく成長 した日本企業の海外展開戦略の双方がうまくか み合った時代、それが

1970

年代であったとも言え る。日本経済の国際化の背景を理解するために、 以下では簡単に当時のアセアン

5

か国の政治・経 済状況を国別に概観しておくことにする。 1:インドネシア

1965

9

30

日、いわゆる

9

30

事件と呼ばれ るクーデターが発生した。

1945

年のインドネシア 独立運動を指導しその後の国家建設を牽引して きたスカルノ体制が終焉を迎えることになった。 クーデターのきっかけは、当時の中国と連携を強 めていた共産勢力による陸軍将軍の暗殺によるも のであると公表されている11)。しかし、その真の原 因はいまだ不明と指摘する研究者も多い。クーデ ターの結果、

1967

年にスハルト将軍が臨時大統 領に任命され、その後

30

年間にわたり続くことに なるスハルト独裁体制の始まりを迎えることになっ た。大統領スハルトは

1968

年に正式に承認され ることになり、世界最貧国の一つであったインドネ シアの発展に取り組むことになった。スハルトは 政経分離を徹底させ、経済発展のための政策立 案とその運営には経済学者を任用した12)。バーク レー・マフィアと呼ばれる学者集団は、その後の インドネシア経済のかじ取りに多大な影響を与え ることになった。この集団の中心的リーダーはウィ ジョヨ・ニティサストロ教授(インドネシア大学)で、 経済発展計画の立案と開発予算の配分で多大な 貢献をした。大蔵大臣はアリ・ワルダナ教授で、 危機的な状況にあった国家財政のかじ取りに指 導力を発揮した。そのほか幾つかの主要経済官庁 を指導することになった大臣の多くは米国カリフォ ルニア大学バークレー校で博士号を授与された 俊英であった13)

1970

年前後のインドネシアの最 大の経済的課題は、インフレの終息に引き続く物 価の安定とコメに代表される食糧不足の解消で あった(図

4

を参照のこと)。また、インフラや教育 といった経済開発に不可欠である開発予算を安 定的に確保するために、海外からの資金援助を確 約させることも重要な課題であった14) 11)スカルノはアジア・アフリカ会議を主導し 非同盟諸国首脳会議を推進する立場に立ち、 中国政府に接近をしていた。 12)スハルトはパンチャシラと呼ばれる 独立の5原則に立脚して、たとえば特定の宗教勢力に 影響されることのない宗教には寛容な立場を堅持した。 スハルト退陣後のインドネシアでは、 イスラムによる様々な影響が表面化しつつある。 イスラム政党の台頭や女性のヘジャブと呼ばれる 被り物などが目につくようになったと伝えられている。 13)エネルギー工業相のスブロト教授 (後にOPEC議長職を担当)や環境問題を指導する エミル・サリム教授もバークレー・マフィアのメンバーである。 14)スハルトが西側陣営に接近したことにより、 旧ソ連邦からの債務凍結を断行するために インドネシア債権国会議(IGGI)が組織され、 インドネシアの開発を有利に進めるための 基金援助の窓口となった。 この会議は他の発展途上国には見ることのできない インドネシアを特別扱いするような存在であった。

出典:International Monetary Fund, International Financial Statistics, 2010 年から関係データを採録。 0 200 400 600 800 1000 1200 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 図4 インドネシアのインフレ(CPI,%)

(5)

2:マレーシア  マレーシア連邦が結成されたのは

1963

年であっ た。英国の植民地政策の下に長い間おかれてきた こともあって、地域間の連帯が取れずにいたが、ア ブドゥラ・ラーマンを初代首相に選出したことでよ うやく連邦国家として船出をしたばかりであった。 しかし、国内の最大の政治問題はマレー系人種と 華人の間の確執であった。カリマンタン島のイン ドネシアとの国境線の問題も頭の痛い問題であっ た。華人との融和はなかなか進まず、

1965

年に リー・クヮン・ユー率いる華人によってシンガポー ル分離が実現した。しかし、その後もこの問題が 尾を引くことになり、ついに

1969

年に

5

13

事件と 呼ばれる民族間衝突に発展してしまった。

1970

年 に第二代首相ラザクが就任することになり、一応 の人種間の表だった確執を抑え込むことに成功し、 翌

71

年に非常事態解除を実現させることができた。 しかし、このような国内問題の鎮静化のために「ブ ミプトラ政策」と呼ばれるマレー人優遇政策を導 入せざるを得なくなっていた15)。経済政策面では

新経済政策(

New Economic Policy,

通常

NEP

呼ばれる)を公表することにより、マレーシア経済 の発展と近代化の方向を明らかにした。それでも ゴム、錫、ヤシ油などの伝統的一次産品に依存す る従来からの経済構造はなかなか変わる兆しを 見せなかった。マレーシア経済を語るうえで特筆 されるべき「ルック・イースト政策」の導入は、マハ ティール首相が登場する

1980

年代のことである。 3:シンガポール

1965

年のマレーシア連邦からの分離によって、 シンガポールでは指導者リー・クヮン・ユーのもと で新国家建設が始まった。もともと、英国の主要 貿易基地であったシンガポールには加工貿易基 地としての有利な条件は備わっていた。若く優秀 な人材が豊富に存在していたこともシンガポール がその後採用することになる産業政策の運営に有 利に働くことになった。経済発展を第一目標に据 えたことから、政治的不安定化の原因になりかね ない政党間の不和による混乱などを警戒し、当初

から人民行動党(

People’s Action Party, PAP

)だ

けが認知された政党であった。リー初代首相はそ の後長期間にわたりシンガポールの経済発展に 多大の貢献をすることになる16)。警察国家、強権 政治と揶揄されることもある一方で、政治ポストや 官僚には清廉で優秀な人材を積極的に登用する ことで、時代の先を読み解いたような政策案件を 次々に実現させることに成功してきた。持ち家制度 を実現させた住宅政策(強制預金を基礎にして高 層住宅建設を展開)、ジュロン工業団地の発展(現 在では世界有数のコンテナ港)、ハブ機能を予想 したうえでのチャンギー国際空港の建設など、多く の注目すべき政策がリー首相のもとで達成された 17)。今日では東京を凌ぐ勢いのある国際金融市場 シンガポールを育成させてきたことでも注目を集 めている。 15)ブミプトラ政策はマレー人を優先的に雇用し、 金融についてもマレー系企業を優遇するという政策である。 商工会議所の活動でもマレー系の組織と 華僑系のグループは明らかに分離されていた。 現ナジブ首相はこの差別的政策の改善を約束している。 また、前マハティール首相も、 ブミプトラ政策がマレー系の人たちによる 経済活動をより活性化させられたかどうか 疑問であると批判的見解を述べている。 政策を推進していた本人からこのような見解が 表明されたことに注目があつまっている。 16)リー首相は退任後も上級相としての扱いを受け、 シンガポールの顔として様々な国際部面に登場して、 アジアを代表する賢人という立場から発言する機会を 得てきた。中国の鄧小平主席から求められた助言に対し、 ケンブリッジ大学法学院を首席で卒業したリー氏は、 シンガポール建国の経験から『法の支配(rule of law)』 を進言したことが知られている。 最近、公務からの引退を発表したばかりである。 17)シンガポール経済の発展と 競争力の改善に関連して、リー首相は 日本の生産性と改善の専門家から多くのことを 学ぶことができたと述べている。

(6)

4:フィリピン  スペイン、米国の双方の植民地として、フィリピ ンは長期にわたってその支配下に置かれてきた。 そのフィリピンは

1946

年に第三共和国としてロハ ス大統領のもとに新たな一歩を踏み出すことがで きた。しかし、米国の強い影響から独立できてい ない状況に変化は見られなかった。反共基地とし てのフィリピンの存在は大きなものがあった。

1953

年の共産主義勢力の討伐に大きな功績を残 したラモン・マグサイサイ大統領が生れると、大 土地所有制の見直しや農地改革などのフィリピン 固有の課題に取り組むことになった。しかし、それ らの取り組み努力について大きな成果は見られず、 フィリピン社会の階級間の対立がむしろ激化する という逆効果を生み出してしまっていた。その後、

1965

年の大統領選挙でフェルディナンド・マルコ スが当選すると、強権的アプローチが目立つように なってしまった。

1968

年には毛沢東主義に影響を 受けたフィリピン共産党が再建され、ミンダナオ を中心にした南部ではイスラム集団がモロ民族解 放戦線を組織するに至ってフィリピン全体に社会 不安が増幅することになってしまった。マルコス自 身は

1969

年の大統領選挙で再選された。しかし、 この結果は腐敗選挙によるものという批判を受け ていた。その直後に社会転覆を狙った反乱を理由 に、マルコスは戒厳令を敷いて、その後の独裁者 的地位の強化に動き出すことになった。

1970

年代 の周辺アジア諸国の発展からフィリピンが著しく 遅れをとることになったのは、

1981

年まで続くこと になった戒厳令によるところが大きいと言われてい る。その戒厳令の停止はマルコス失墜を引き起こ したエドゥサ革命と呼ばれる市民革命の登場まで 待たなければならなかった18) 5:タイ  東アジアで唯一植民地化されなかったタイは、 複雑な近代化の道を歩んでいた。

1950

年代から 軍事クーデターが続き、軍人主導の民主主義の 試みが繰り返されてきた。タイの経済開発は軍人 と官僚を中心に進められてきた。そのため業益と 保護を求める実業家層がそこにへばりつく形で認 められるという特殊な関係が生れていた。当然の ことながらこのような権力構造は腐敗と不合理の 温床となり易い。サリット、タノムといった軍出身 者による政権は、そのために絶えず不正蓄財という 批判を浴びることになった。ただ、

50

年代から経 済開発を積極的に進めてきたことが大きく作用し て、首都バンコクを中心に中間所得層が急速に増 えていた。また、高等教育の要請の高まりを受けて、 大学などの教育研究機関が次々に開設されて いった。このような社会的素地の形成は、その後 のバンコクを中心にした組立型工業地域形成の 推進に大きく貢献することになった19)。冷戦の真っ ただ中、

1954

年に組織化された東南アジア条約 機構(

SEATO

)は東南アジアの共産化を阻止す るために生まれた組織であった。タイは有力メン 18)市民革命の指導者的存在は ベニグノ・アキノ議員であった。 しかし、亡命先から帰国した直後に空港で 暗殺をされるというショッキングなニュースが駆け巡り、 マルコスを引き摺り下ろそうと意気込む 国民の怒りに火をつけることになった。 その後、コラソン・アキノ夫人によって フィリピンの民主化が急速に進むことになった。 19)教育水準が高く、良質の労働者の存在と アジア的価値観を有するタイは日本企業を中心に 外資にとって望ましい投資条件を備えた進出先であった。

(7)

バーとしてそこに参画し、バンコクにはこの機構の 本部が置かれていた。ベトナム戦争に際しては米 軍に前線基地を提供して協力したことから、タイ は

1960

年代を通じて戦争特需景気に沸いていた。 パタヤなどの有名な保養地の発展は米兵保養の 目的から生まれたという背景を有している。

1960

年代後半から政治的に安定していると判断された こともあって、日本企業はタイに進出を始めていた。 日本企業の投資パターンは、国際化の初期には雪 崩現象的な集団行動を特徴としていたため、日本 企業のオーバープレゼンスによって、バンコクでは 反感を生み易い環境が作り出されていた。

70

年代 に登場した日貨排斥運動や田中訪タイ反対運動 などはこうした雰囲気の中で生まれた現象であっ た20)。しかし、このような近代化の過渡期を経て、 タイはやがて自由で望ましい投資対象国として評 価されるまでに大きく変貌していくことになる。こ の

30

年くらいの期間を通じて、外国人投資家によ る投資先評価ではタイは常に高い位置づけが与 えられている。自由経済を原則とする国家として受 け止められているためである21)

III

1970

年代の日本を襲った

対外経済ショック

1:翻弄される通貨:円  戦後の国際経済のルールと枠組みを最も享受 できた国の一つが日本であったと言われている。 ブレトン・ウッズ体制と呼ばれる戦後の国際経済 システムは、通貨の安定を担うことになった国際 通貨基金(

IMF

)と自由貿易を是とするガット体制 (

GATT

)の二つによって体現されていた。日本の 国際社会への復帰の道が開かれたのは

1951

年の サンフランシスコ講和条約の締結がきっかけで あった。その後、

53

年に日本は

IMF

14

条国とし て、

55

年には

GATT

12

条国として加盟が認めら れることになった22)。為替レート

1

ドル

=360

円とい う設定は

1949

4

月に決められていたため、日本 が国際社会の一員として積極的に貿易活動に参 画できる環境がやっと出来上がったことになる。  

1970

年までの日本経済にとって喫緊の国際的 課題は、貿易不均衡についての海外からの批判 の高まりに対しどのように対処するかという問題で あった。戦後経済復興のために、日本政府と経済 界は輸出促進に大きな期待と可能性を求めてい た。特にアメリカ市場は日本の企業にとっては貴 20)軍事政権に対する不満のはけ口として 日本批判が使用されたという見方は多い。 当時の学生運動主導者も、その後になって特に日本を 目の敵にしていたわけではないというような コメントを残している。 軍事政権下でどちらかというと大挙して 経済進出をしていた日本企業がスケープゴートにされた 可能性は多分にある。その後のタイ経済を 支えることになる外資は、日本企業の直接投資によるところが 大であったことを付言しておく。 21)バンコクの別名として『アジアのデトロイト』と 呼ばれるように、いつの間にか自動車組み立て産業の 集積地として認知されるまでに発展してきている。 行政指導型の政策によってこの工業集積が 生まれたものではなく、自由な政策の下で 外資の集積によって発展したことに注目する必要がある。 22)IMF14条国は、国際収支の擁護のために 為替制限が許される国を規定している。 GATT12条国は、国際収支のために貿易制限を 実施しても良い国を規定している。 これらの制限が許されないIMF8条国には、 日本は1964年に移行している。 また、国際収支を理由に輸入制限ができない GATT11条国には1963年に移行している。 23)戦後経済復興段階で、ドルは希少な資源であった。 原油の輸入や技術の導入のために国際通貨ドルが 不可欠の支払い手段であったからである。 24)この間の大蔵省内の混乱と対応の詳細は、 塩田潮著「霞が関が震えた日」(講談社、1993年)に詳しい。 当時の国際金融関係者が、学会でも実務界でも、 為替レートの変更などについて議論を 十分にしていなかったという説明は、 日本の国際金融研究の第一人者である

(8)

重なドルを確保するための憧れの舞台でもあっ た23)。その結果、対米輸出の拡大が急速に進むこ とになり、米国は日本に対して輸入制限の撤廃要 求を強めていた。その頃、残存輸入制限品目の縮 減やケネディー・ラウンドによる関税一括引き下げ などを通じて、日本政府は貿易自由化を積極的に 進めているというアピールに努めていた。そこには、 増え続ける貿易黒字の存在があったため、その対 処に細心の注意を払うことが対外政策の遂行に とって特に重要であるという認識があった。民間 部門では、日本の国際競争力がようやく揺るぎな いレベルに到達できたという見方が定着し始めて いた。官民双方が少なからず意識していたことは、 米国の国際収支赤字の拡大に日本の黒字が大き く関わっていることは紛れもないという問題意識で あった。  

1971

8

月にニクソン・ショックが日本を襲うこ とになった。アメリカ大統領ニクソンが、テレビ演 説を通じて、金とドルの交換停止と

10%

の輸入課 徴金の導入などの緊急声明を発表したからである。 この突発的通告は日本の輸出業者を中心に大き な衝撃を与えることになった。米国が国際収支を 理由に直接介入的政策を断行したことによって、 赤字問題に対する米国政府の懸念と本気度を知 らされることになった。このことによって、輸出依存 型の成長路線が断ち切られたと理解した人は相 当数いたと思われる。それよりも、世界が注目した ことは、東京の為替市場を巡る混乱であった。欧 米の市場がニクソン発表直後から閉鎖されたの に対し、東京市場だけが通常業務を続けていた。 日本の増え続ける黒字とアメリカ大統領による米 国対外ポジション悪化に関する決意表明から、世 界はブレトン・ウッズ体制がやがて立ち行かなく なることを予想していた。特にこれまで通りの固定 相場制度の維持は難しいと読んだ投機家、投資 家は多かったに違いない。そのために、円切り上げ を期待した資金流入が東京市場を襲っていた。 興味深いことに、当時の大蔵省幹部は市場を開き 続けるという姿勢を変えることはなかった24)。実質 的には固定相場制度を基礎にして維持されてきた

IMF

のルールに恭順過ぎたという批判はしばらく 後に生まれたものである25)。米国の有名大学であ るシカゴ大学の国際経済学のクラスでは、フリー ドマン、マンデル、ハリー・ジョンソンといった著 名教授が日本の当時の為替市場の混乱を取り上 げて様々な議論を展開したと伝えられている26)  ニクソン通達でも米国の赤字問題を改善させ ることは出来なかった。

1971

12

月に米国ワシン 新開陽一大阪大学名誉教授から 聞かされたことがある。固定相場の堅持が 当時の当たり前の理解であったからである。 通貨当局もそれ以外の選択は眼中になかったものと 想像される。 25)厳密には、金・ドル平価を基礎に置いた アジャスタブル・ペッグ(Adjustable Peg) 制度と 呼ばれるものであった。各国の通貨当局は、 ドルに対して決められた為替レートの 上下1パーセントの変動幅の中に納まるように レートを調整する義務が課されていた。 つまり、1ドル360円の水準から円高方向に 為替が動く圧力が生まれた場合には、 日本の通貨当局はドル買い介入を断行して 約束された為替レートを堅持させる仕組みであった。 26)Milton Friedman 教授は1976年に ノーベル経済学賞を受賞している。 Robert Mundell教授は国際金融研究の貢献によって 1999年にノーベル経済学賞を授与されている。 シカゴ大学大学院の議論の展開は、 筆者の指導教授であり、シカゴ大学で学位を修得した John Makin教授から直接聞くことができた。 シカゴ大学の巨星のコメントは、 投機家の全面勝利を政府が後押ししたようなもので 理解に苦しむ政策対応であったという指摘である。 不均衡の状態にある為替レートを長期間持続した場合の コストは、その後の調整段階で膨大な 調整のためのコストを要することになるという 研究事例となってしまった。

(9)

トンにあるスミソニアン博物館で先進

10

か国蔵 相会議が開催された。多国間協議を経てドルが 金に対して

8%

程度の切り下げを決定し、日本の 円は対ドル

16.88%

の切り上げで合意され

1

ドル

=308

円となった。  切り下げられたドルではあったが、ブレトン・ウッ ズ体制を踏襲した固定相場制が依然として貫か れていた27)。しかし、市場関係者の間では、新しい 固定相場レートによって米国の経常収支の不均 衡を是正することは難しく、早晩新たな調整が不 可避であることを心配し始めていた。その調整は 時間の問題に過ぎないという論評も出始めていた。 実際、あまり時間を置くことなく、そうした予想が 的中する事態が登場することになってしまった。

1972

6

月から

73

1

月にかけて登場したさまざま な国際通貨市場の動揺を経て、英国ポンド、イタ リア・リラ、スイス・フランが相次いて変動相場制 度に移行することが発表された。このような流れ を受けて、日本政府も

73

2

月に変動相場制度に 移行することを決断した。この決断は、戦後一貫し て採られてきた安定した為替レートのもとで輸出 促進に邁進してきた日本経済にとって、構造転換 を受け入れなければならない一大転換点となって しまった。  円の対ドル価値の大幅な変更は輸出企業を中 心に大きな負担を与えることになった。日本経済 は急速な景気後退に直面し、政府は公共投資を 積極的に進める財政政策を採用し内需拡大を目 指して政策基調を大きく変更させていた。それと 前後して、大幅な国際収支黒字が続いた結果、銀 行部門を通じて大量の流動性が供給されてい た28)。同時に、景気後退局面で金融緩和政策を 推し進めたことも重なって、多額の過剰流動性をさ らに増幅させることになり、日本経済は急激なイン フレに陥りやすい環境を作り上げていた。折から 登場した田中角栄内閣の政策シナリオは、「日本 列島改造論」を標榜し大々的な国土開発や工場 再配置を展開することで再び高い成長経済に転 換することを説くものであった。この政治スローガ ンは、国民のインフレ期待を大きく刺激すること になった。投機行為も加わって、土地や株式という 資産価格は急上昇することになった。 2:対外エネルギー資源に翻弄される 日本経済の構造  インフレ基調が続く中、いわゆる「オイル危機」 が日本経済を急襲した。原因は中近東で発生した 第四次中東戦争である。元来、原油供給における 探査・掘削・生産・流通などの活動はオイル・メ ジャーズと呼ばれる国際石油資本によって支配さ れてきた世界であった29)。石油を産出する中東諸 国はそれまでの状況を転換して、石油支配権の奪 還と石油による収益拡大を狙う機会を探っていた。

1960

年に石油輸出国機構(

OPEC

)を組織してい た中東諸国は、対イスラエル戦略の一つとして、

73

10

月に開戦した第四次中東戦争に乗じて、 生産縮減と輸出禁止を断行し、一気に価格を引き 上げる戦略に転換をした。石油輸入依存度の高い 日本は、この原油価格の急騰と数量削減の影響 をまともに受けることになってしまった。狂乱物価 27)新たに生み出されることになったスミソニアン体制は、 許容される通貨の変動幅を上下2.25%に拡大をして 固定相場制の維持を目論むものであった。 28)固定相場制度のもとでの国際収支の黒字は、 簡単に言えば、輸出業者の輸出代金ドルを 市中銀行が受け取り、中央銀行が円と引き換えに ドルを買い入れるという制度である。 不胎化政策をとらない限り、中央銀行には ドルが積み上げられ、民間銀行には大量の流動性が 供給されることになる。 29)世界的に著名なノン・フィクション作家である

Anthony Sampson著の「The Seven Sisters 」

(Viking, London, 197) は、 石油メジャーズの歴史と業界の力関係を 詳説したベストセラーとなった作品である。 30)危機直後に登場したトイレット・ペーパー事件などは、 当時の日常生活の中で振り回された人々の苦闘を 物語る出来事として思い出される。

(10)

とか大インフレ時代とか形容される混乱が人々の 生活を翻弄することになった30)。卸売物価指数で 見ても消費者物価指数で見ても、双方の物価が急 騰したことは明らかであった(図

5

を参照)。

74

年 の春闘賃上げ闘争の結果、平均賃金は

30%

を越 える賃上げが実現したものの、実質賃金が改善す ることはなかったと言われている。  オイル危機は、当然のことながら非石油生産国 に様々な負の影響を与えることになった。産油国 であるインドネシアを除くアセアン

4

のインフレ率 を表したものが図

6

である。オイル危機が消費者 物価指数を急激に押し上げたことが明らかである。 多くの国で経済活動が停滞し、失業問題が悪化 し、物価高騰や国際収支の悪化に苦しめられるこ とになってしまった。特に日本は、高度経済成長の 過程で「石炭から石油へ」と言われる流体革命を 積極的に推し進めてきたこともあって、厳しい経済 状況に追い込まれてしまった31)。殊に産業部門で の石油消費依存は異常に高く、工業製品の輸出 大国である日本経済は実は対外エネルギー資源 に過度に依存した体質の上に出来上がったもので あった。オイル危機は日本経済の脆弱性を一気 に露呈させる出来事であった。その結果、日本経 済は戦後初のマイナス成長に落ち込む由々しき事 態を迎えることになっていった。最重要の政策目 標はとにかく物価水準を落ち着かせることであっ た。異常なインフレを鎮静化させるためには、人々 のインフレ期待を落ち着かせなければならず、思 い切った総需要抑制政策が実施された32)。公共 事業費の伸び率はゼロ・パーセントに抑制され、 31「流体革命」) の背景と経過は、 小田野純丸・荒谷勝喜「日本のエネルギー産業の 構造変化─石炭産業の衰退と流体革命─」 (彦根論叢、第367号、2007年7月)を参照のこと。 32)豊田利久「大インフレーション期における期待の形成」 季刊理論経済学、1979年30巻3号、pp193-201を参照。 日本の狂乱物価時代を取り上げて、 インフレと期待形成の関係を 計量経済学的に扱った業績である。

出典:International Monetary Fund, International Financial Statistics, 2010年から関係データを採録 -5 0 5 10 15 20 25 30 35 40 1972M0 1 1972M0 3 1972M0 5 1972M 07 1972M0 9 1972M111973M 01 1973M0 3 1973M0 5 1973M0 7 1973M0 9 1973M111974M0 1 1974M0 3 1974M051974M071974M0 9 1974M111975M0 1 1975M0 3 1975M0 5 1975M0 7 1975M0 9 1975M1 1 1976M0 1 1976M0 3 1976M0 5 1976M0 7 1976M0 9 1976M1 1 卸売物価指数 WPI 消費者物価指数 CPI 図5 日本の狂乱物価の軌跡 対前年同期比(%)

(11)

日銀は金融引き締めを迫られる中、公定歩合を

9%

に引き上げる思い切った政策に転じた33)。それ 以外にも、生活関連物資の需給に関連する対策 が導入されるなど、物価抑制に影響あると考えら れた政策手段が多数講じられた。  こうした努力の甲斐あって、物価鎮静化の兆し が見え始め、物価安定と景気の持ち直しが

1975

年になって確認されるまでになった。日本は安定 成長を目指す経済構造に向けて再びその取り組 み強化に努めることになった。この間、国民の間に は省エネ、省資源という努力目標が定着し、高度 経済成長の時のような資源浪費型の生活習慣か ら離別して無駄を切り詰めるスタイルを歓迎する 機運が広まっていった。産業界は製品の「軽小短 薄」と呼称される努力目標を設定して、エネルギー 節約型の新商品の開発にむけた努力段階に入っ ていった34)。エレクトロニクスの重要性が認識さ れた時代に入っていたこともあり、従来型の製造 技術にエレクトロニクス技術(特に制御回路)を 組み込んだイノベーションが生産現場で支持を集 めることになった。いわゆるメカトロニクスという 新しい応用技術の展開であった35)。省エネの一つ の象徴としてロボット研究とその応用が広く普及す るようになり、例えば自動車組み立てラインでは組 33)日本銀行の政策姿勢について、 小宮隆太郎「昭和48,49年のインフレーションの原因」 (東京大学経済論集、1976年、42巻1号、pp2-40)は 日銀による窓口規制などの直接管理手法を批判して、 それが有効ではないことを指摘した論文である。 近代的金融システムの管理運営は 民間銀行を巻き込む数量的調整による政策によって 運用されるべきことを指摘し、直接的管理手法に 決別すべきことを指摘した論文として注目された。 34)高度経済成長の落し子的な問題が 公害問題であった。本論はこの問題には立ち入らないが、 同時期を契機に日本は公害にも積極的に取り組む体制を 強化していった。自動車メーカーのホンダは、 世界に先駆けて、米国カリフォルニア州が設定した 厳しい排ガス規制をクリアーできるエンジン開発に 成功したことも、この分野の象徴的な出来事であった。 ソニーが「ウォークマン」を市場に投入したのが

出典:International Monetary Fund, International Financial Statistics,    2010 年から関係データを採録。 -5 0 5 10 15 20 25 30 35 40 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 日本 マレーシア フィリピン シンガポール タイ 図6 日本とASEAN4のインフレ率(CPI,%)

(12)

立アーム型ロボットの利用が 急速に広まって いった。  オイル危機の経験と教訓によって、

1970

年代後 半の日本経済はエネルギー効率を一段と高めた 経済社会に変容することに成功していた。企業の 多くがひたすらにイノベーション努力に傾注した 時代であった36)。このような取り組みは、日本の 製造産業が競争力を着実に伸ばし、国際競争市 場でビジネスを優位に展開できる体制を作り出す ことに貢献した。日本製品の輸出が円高や原油高 の圧力を受けても下降線を辿ることはなかった(図

7

を参照)。ただ、図

8

に示されているように、

1976

年から円高傾向が止まらず、

1978

10

月に、ブレ トン・ウッズ時代の為替レート

360

円から

50%

も 切り上げとなる

1

ドル

180

円のラインを越えて円高 が進んでしまった。貿易黒字が一向に減らないた めであるという説や、日本経済の堅調さによるもの という説などが広く論議されていた。理論的な解 説として、マーストン教授が指摘したように、生産 性の比較から、日本の生産性が米国のそれを確 実に上回ってきたことが円高の説明要因であると いう仮説が提唱された37)。当時は、日本と諸外国 との生産性の比較では、日本が圧倒的に他国を上 回っているという理解が定着していた。 1979年のことであった。 一気に市場の人気を勝ち得たこの商品は、 当時の軽小短薄を代表する画期的音響製品であった。 35)メカトロニクスと呼ばれる新しい概念は 早川電機の技師森徹郎によって提唱された新思考である。 一時は早川電機によって登録商標されたが、 70年代にこのアプローチが急速に普及したことから、 一般用語として通用する措置が講じられた。 36)プロダクト・イノベーションに限定されることなく、 プロセス・イノベーションにも注意が向けられていた。 37)Richard C. Marston,

“Real Exchange Rates and Productivity Growth

in the United States and Japan”,

in Real-Financial Linkages among Open Economies,

(eds.) Sven W. Arndt and J. David Richardson, MIT Press, 1987.

出典:World Bank, World Development Indicators(CD-ROM), 2007 年から関連データを採録。 0 2 4 6 8 10 12 14 16 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 財・サービスの輸出(対 GDP,%) 財・サービスの輸入(対 GDP,%)

出典:International Monetary Fund, International Financial Statistics,    2010 年から関係データを採録 100 150 200 250 300 350 400

Yen Dollar Exchange Rate

図7 日本の輸出と輸入の動向 対GDP比、%

(13)

1978

11

月にイランの政情不安が深刻化した ことから、再び石油市場に需給不均衡が発生し、

OPEC

の段階的原油価格引き上げが始まった。い わゆる第二次石油危機の発生である。しかし、こ の危機によって日本経済が受けることになった影 響は、他の国に比して格段に限定されたもので あった(図

6

を参照)。物価も比較的落ち着いた動 きを示していたし、製造業の多くは原油価格の高 騰に直面しても、改善された生産システムと省エ ネ技術を駆使することで新たな危機をスムースに 乗り切ることができた。世界には日本経済の良好 なパフォーマンスを評価 する声が高まりつつ あった。

IV

70

年代の東アジア経済

 東南アジア経済の発展を語るうえで、見逃すこ とのできない発展の指針が少なくとも二つあると 考えられる。一つは緑の革命(

Green Revolution

) と呼ばれ、農業部門における飛躍的発展を実現さ せた努力である。もう一つは輸入代替から輸出促 進に政策基盤を転換した決断である。  緑の革命に連なる考え方は決して新しいもので はない。農業部門の発展を望み、それを政策とし て後押ししてきた事例はこれまでに多数存在する と考えられる。その中で、ことさら「緑の革命(

green

revolution

)」と呼ぶに至った背景には、農産品の 収穫が確実に増産できる素地が確認できたため である。米国国際援助局長官(

USAID

)ウィリア ム・ゴード(

William Gaud

)は、ソ連共産党によ る赤い革命に対し、農業部門の発展による社会的 発展を緑の革命という表現を使って、経済発展に おける農業部門の重要性と可能性を説いた38)。そ の頃、フィリピンにある国際稲作研究所(

IRRI

) の改良努力によって作り出された米粒種

IR8

が収 量に著しく優れていることが確認され、インドや フィリピンでその普及が始まっていた39)。稲作研 究所は

1960

年にフィリピン政府とフォード財団、 ロックフェラー財団が協力して設立した国際的研 究機関であった。病原菌に強く、生産性に優れた 品種改良を目指して研究を進める非営利団体で ある。インドシナにあるタイ、カンボジア、ラオス ばかりでなく、インドネシアやフィリピン、そしてイ ンドなどは米を主要な食糧源としている国である。 これらの国には、食糧不足という深刻な問題を抱 えている国もあれば、農村の貧困に長期間にわ たって苦闘している国もある。新種の発見は、灌漑 施設の普及や肥料の散布などを組み合わせること によって、農家の生産性を著しく改善させる可能 性を暗示させた。同時に、それまで、経済発展の 議論を通じて成長を牽引する部門とはみなされる ことの少なかった農業部門について、農業部門こ そが経済発展の底上げのカギを握る部門であるこ とを認知させた点に大きな意義があった。アジア を代表する経済発展論の研究者であるラ・ミント (

HlaMyint

)ロンドン大学教授は、自身の出身国 であるミャンマーの事例や多くの東南アジア諸国 の経験を武器に、経済発展と農業部門の関係に ついて多くの業績を残してきている40)。アジア開

発銀行(

Asian Development Bank

)と協賛して、 同氏はアジアにおける緑の革命を推進するときの 理論的支柱となっていた。日本の国際協力事業団 (

JICA

)も東南アジアへの開発援助プログラムの 中で、灌漑施設の普及と増強に巨額の資金援助 を拠出し、緑の革命を支える努力を続けてきた。 農業部門を抱えるアセアン諸国のそれぞれも、農 38)William Gaudによるこうした指摘は 1968年のことであった。 39)1968年にIR8は発見されている。

40)HlaMyint, Southeast Asia’s Economy:

Development Policies in the 1970s, New York,

Praeger Publishing, 197. 

本書は農業部門の発展を明示的に論じた アジアの発展のための処方箋とも言える 代表的著作である。

(14)

業部門の近代化と貧困対策としての農業部門の 発展に真剣に向き合う姿勢を明らかにしていた41) 緑の革命によるさまざまな取り組みを通じて、その 意義はアセアン諸国の政策の中に生かされてきて いる。  アセアンの経済発展に大きく寄与したアプロー チが輸出主導型の経済発展政策である。これは、 先行するシンガポールなどのアジア新興工業国の 経験が、成功例として少なからず影響を与えたもの と思われる。しかしながら、

1950

年代から工業化 の指針として採用されていたアプローチは、南米 諸国を中心に展開されていた輸入代替政策で あった。このアプローチが注視していた点は、途上 国が国際収支の赤字に直面しやすく、それが発展 を阻害しているという問題意識であった。途上国 は発展に必要な資本財や中間財を輸入せざるを 得ず、必然的に対外収支の赤字問題に陥り易い 状況に頭を痛めていた。輸出を主導する財は、途 上国の場合、一次産品に偏る場合が多く、それら の数量的拡大は輸入国(多くは先進工業国)の消 費動向に左右されていた。しかも、一次産品消費 の所得弾力性は相対的に低いのが通例であった ため、先進工業国の経済が好況に転じたとしても、 数量拡大はそれほど期待できるものではなかった。 同時に、一次産品の価格そのものが国際市況では 低迷する傾向があり、途上国の輸出の展望はそれ ほど楽観視できるものではなかった。  輸入代替は、このような状況に置かれている途 上国について、輸入に頼っていた資本財(中間財も 含めて)を国内生産に振替える基盤を形成させれ ば、国際収支の圧力から解放されるという視点か ら提起されたアプローチであった。資本財、つまり 第二次産業分野は雇用拡大の可能性も期待でき るうえ、自前で必要な資本財を供給できることは、 ナショナリズムの高揚にも一役買うことになると考 えられていた。しかし、中南米などでの輸入代替 政策による工業化はことごとく失敗に終わったと 言われている。資本財部門を自国内に作り上げる ことは、膨大な資金需要を必要とするため、ゆくゆ くは対外資金依存に陥ってしまうことになった。こ のことによって、当該国の対外債務の累積問題と いう新たな課題を招き入れてしまった。それと同時 に、実現された自国の資本財産業を守るためには、 輸入される資本財との価格競争に対抗せざるを 得ず、さまざまな産業保護政策が不可避であること が判明した。高い関税率や様々な貿易排他的な 政策が追加的に必要となる傾向があった。同時に、 保護政策の下での工業化は、不公正な経済活動 の温床になりやすいことも明らかになった。経済的 に高くつく保護政策、と同時に政治的に汚職や不 公正を生み出しやすい輸入代替政策の行く先は 自明のことであった。  しかし、アセアン諸国による政策すべてにわたっ て輸出促進が徹底されていたわけではない。例え ば、インドネシアの鉄鋼会社クラカタウは、当初 から政府の厚い保護下に置かれてきた。

1962

年に 当時のスカルノ大統領がインドネシアに自前の鉄 鋼産業の育成を切望したものの、直後に政治混乱 が生起した影響を受けて、実際には

1970

8

月に クラカタウ鉄鋼会社が旗揚げをすることになった。 政府企業として、続く長い期間にわたって政策的 な保護を受けてきた。というより、企業として存続 するためには保護政策なしでは成り立ち得なかっ た。設立当初から輸出視点が欠如していたため、 国際競争力や価格競争力という経営視点は見ら れなかったと言われている。国内需要サイドからは 41)インドネシアの例を参考にすると、 緑の革命の成果として、それまで世界最大の コメの輸入国であった同国が、1980年初頭までには コメの自給自足を確認できるまでに 農業部門の改善を成功させることができた。 一層の生産性の改善と近代化、そして農産品の多様化など の挑戦はこれからもまだまだ続けられることになる。

(15)

品質の問題が絶えず指摘されていた。財政当局か らは様々な改善が求められていたものの、それで も政府保護による支援は継続した。クラカタウ鉄 鋼が新しく生まれ変わったのは、政府保護が廃止 され自前で国際競争に直面しなければならなく なった今世紀に入ってからのことである。類似の 事例は、ほかのアセアン諸国にも存在する42)。し かし、

1970

年代を通じて、それでもアセアン諸国 の基本姿勢は、輸出の促進が国内産業基盤の形 成に有効に働くという理解に傾いていた。  シンガポールを除くアセアン

4

の国々は、程度の 差はあるものの、輸出促進に直結する手段として 直接投資の受け入れには前向きであった。度重な る外からの経済ショックに見舞われた日本経済が 国際化を急ぐ取り組みに積極的であったことも、 アセアンが投資を受け入れるために好都合であっ た。表

1

は、日本経済の国際化のプロセスを対内 外投資、政府開発援助、海外出国者数で見たも のである。

1970

年代は日本経済が国際化を加速 化させた時代であったことをうかがい知ることが できる。対外直接投資は、

1971

年の段階で

8

億ド ル規模に留まっていたものが、

1981

年にはそれが

89

億ドル規模の水準にまで急増している。日本社 会の中に国際化の本格的な流れが動き始めた時 代、それが

1970

年代であった。 42)例えば、マレーシアの自動車メーカー・プロトンは、 1980年代にマハティール首相の肝いりで設立された 国策企業であった。国産車構想という国の願望を 実現させるために、産業保護政策が徹底されていた。 しかし、狭小な国内市場を越えて、 プロトン車の販路を国際市場に展開する戦略が 必要となるにつれ、国の政策保護に依存しない 経営体質を実現させる取り組みを強化させてきている。 その結果、輸出業績を見れば、プロトンの実力が 確実に向上していることが判る。 43)日本製品に対する米国での当初の評価と反応は 著しく厳しいものがあった。ワン・ダラー・シャツと 呼ばれた繊維製品に代表されるように、 年 (対外直接投資

100

万ドル)(対内直接投資

100

万ドル)(政府開発援助

100

万ドル)出国日本人数(千人)

1961

164

40

104

86.3

1962

98

22

88

74.8

1963

125

42

138

100.1

1964

118

30

116

127.7

1965

159

44

244

158.8

1966

227

39

285

212.4

1967

274

29

385

267.5

1968

556

52

356

343.5

1969

665

53

436

492.9

1970

904

114

458

663.4

1971

858

255

511

961.1

1972

2,337

160

611 1,392.0

1973

3,494

167

1,011 2,289.0

1974

2,395

153

1,126 2,335.5

1975

3,280

166

1,148 2,466.3

1976

3,461

195

1,105 2,852.6

1977

2,805

224

1,424 3,151.4

1978

4,598

235

2,215 3,525.1

1979

4,995

524

2,638 4,032.3

1980

4,693

299

3,304 3,909.3

1981

8,932

432

3,171 4,006.4

出所:「がんばれ日本」読売新聞創刊120周年記念号、1994年 11月、ページ356から一部採録。 表1 日本経済の国際化の展開

(16)

V

まとめ

 日本企業が最初に投資を積極的に進めた国は 米国であった。貿易摩擦というプレッシャーがあっ たことと、巨大な市場である米国に生産や販売拠 点を確立させることは、日本企業の国際戦略に とっては至極当たり前の選択であった43)。同時に、 成長の兆しが見え始めてきた東南アジアに経済界 は関心を持ち始めていた44)

70

年代に東南アジア に投資をした企業は、多くは日本の大企業群で あった。早い段階から、松下、日立、東芝、東レ、帝 人、トヨタなど多くの企業が現地生産体制を整え 始めていた。進出目的は、進出した国や進出した 企業の戦略によって大きく異なっていたと思われ る。それでも、受け入れ先のアセアン諸国では、日 本企業の進出を歓迎する姿勢を見せていた。輸出 に結びつく場合は、外貨獲得に大きく貢献するこ とになったし、雇用機会の拡大と従業員教育、そし て生産管理手法の定着や技術移転に大きな期待 が寄せられていたためであった。対外直接投資の 段階として、近隣諸国を足掛かりに拡大するという 一般的な傾向があると言われている45)。その意味 では、

60

年代に韓国や台湾といったアジアの新興 工業経済(

NIEs

)を突破口にして海外生産経験 を積み上げ、続いてアセアン

4

か国に展開を拡大 させたパターンは欧州企業の国際化の歴史に近 いものがある。  このような展開プロセスを通じて、日本企業は 東アジア経済と密接な関係を作り上げていくこと になる。自動車産業の場合、ノックダウン方式と 呼ばれる現地組み立てから開始され、やがてそれ が資材や部品の現地調達の道を辿ることにな る46)。一企業の成功は、日本の競争相手を刺激す ることになり、すぐに投資ラッシュを生み出す傾向 を持っている。

70

年代は、このような日本経済と企 業が国際展開を進めていく体制を作り上げた時代 となっていった。このような様々な努力によって、日 本経済が目覚ましい国際展開を加速化させる段 階である

80

年代に連結することになる。日本経済 の更なる国際展開と、続くバブル以後の経過と東 アジア経済の関係については次の機会に論述す ることにしたい。 低価格製品の輸出に依存していた時代が 先行していたことが思い出される。 日本企業の現地進出は、こうした背景を乗り越えて 実現されたものである。 44)商社は戦前から東南アジアで貿易などの経験を積み、 現地事業に精通していたことも忘れてはならない。 繊維、機械などの分野で、東南アジアとの経済活動を 結びつける橋渡しとなった人々が70年代にも 相当数いたことが思い出される。 45)企業が国際化の段階をどのように経過するかという

研究は、例えば、Peter Buckley and Pervez Chauri,

The Internationalization of the Firm,

Academic Press. Ltd., U.K. 1993, に詳しい。

同様の研究課題を扱ったものとして、 小田野純丸(編)、「多国籍企業の生成・発展と新展開」 大阪国際大学研究叢書、No.5, 2000年。 46)政策によって、完成品の持ち込みを 厳しくすることによって、 現地組み立てによる現地の付加価値を アジア諸国が期待した時代も当初は存在した。 このような段階を経て、現地生産の基礎が 少しずつ出来上がっていくことになった。

(17)

Ups and Downs of Japan

and Emerging Asian Economies

1970s: Beginning of the Japanese Economic Internationalization

Sumimaru Odano

The aim of this paper is to describe the

inter-nationalization process of the Japanese

economy and the early stage of

industrializa-tion in the Southeast Asian economies. Both

were observed throughout the 1970s. After

having experienced the rapidly growing stage,

Japan certainly entered into the new phase in

the early part of the 1970s. Due to a fact that

the persistently aggravating trade imbalances

were no more trivial in the world economic

re-lations, Japan realized severe pressures from

abroad. At the same time, many trading

part-ner countries repeated their criticism on the

disequilibrium exchange rate of the Japanese

yen. Meantime, Japan experienced two shocks

appeared in an unanticipated way in the early

1970s, namely the so-called Nixon Shock in

1971 and the first Oil Crisis in 1973. Those

events in fact helped initiate various structural

changes in the Japanese economy and society.

Some of those adjustments were to some extent

inevitable, although having been unwelcome,

under the circumstance in the international

economic relations in the 1970s. The massive

scale of the exchange rate adjustments was

in-troduced. Nevertheless Japan chose to

maintain the stable economic growth as its best

alternative policy option. This in fact led the

economy to go internationalizing in more

vig-orous fashion. Major Japanese corporations

considered the Southeast Asian economies as

their favored investment destination after the

United States. Asian countries at the same

time understood the outward strategy, like

ex-port promotion policies, more effective to

attain the growth momentum. After following

the successful cases of the Asian NIEs in the

1960s, various ASEAN nations took a stance

to welcome the foreign direct investments

from Japan. It looks that the Asian

develop-ment were closely correlated with the Japanese

structural changes in the course of the 1970s.

This phenomenon is therefore regarded as an

early call for more widening and deepening

re-lationships between Japan and Southeast Asia.

Efforts from both sides eventually succeeded

to provide much more profound

interdepen-dent relationship throughout the entire 1980s.

The 1970s served to a certain extent to make a

turning point of the internationalization

pro-cess of Japan.

(18)

図 7  日本 の 輸出 と 輸入 の 動向 対 GDP 比、%

参照

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