[ 昭和 19 年 12 月 3 日大規模でバラエティーに富んだ空襲であった ] ~2~ 11 月上旬 初の偵察飛行があってからは 下旬にかけて各地への空襲は激烈化していった 学童疎開はこの頃から急速に始まった 妹達は父の知人がいる新潟へ疎開したが 私は 帝都を守れ 銃後の少国民 と かの歌い文句で

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全文

(1)

吉田 洋 (昭和6年生まれ)

当時、私は東京の杉並区阿佐ヶ谷に在住していた。幸にして戦災は 免れたものの、終戦を迎えるまで日毎に激しさを増す空襲を体験した。 今ここに私は一人の語りべとして空襲にまつわるエピソードを、 年と共に徐々に薄れいく脳細胞を活性化させ記憶も新に語り告げて いきたい。 とのアナウンス。 やがてそれは 空襲警報に変わった。その日は雲 ひとつない快晴。紺碧の空の中に ポツンと一点の米粒のような白い 機体。高度は約1万米位。白い筋の 飛行機雲を引きながら帝都上空へ (その頃は東京を帝都と称していた) 侵入、右旋回で東方へ去っていった。 どうやら初の偵察飛行らしい。 高射砲は鳴り響いたが日本空軍 による迎撃は見られなかった。 ●[昭和18年4月18日 ノースアメリカン B-25 による日本本土初空襲] その日の天候は晴れ、自宅の庭で妹と 遊んでいたとき、突然妹が「お兄ちゃん 変わった飛行機が飛んでいるよ」と。 空を見上げると黒色の胴体で双発、垂直 尾翼は2枚。エンジン音は「キーン」 と-いう金属音。翼には星のマーク。 「あっ敵機だ」高度は目算で約500m位。 頭上を飛び去り数分後に高射砲弾の 爆裂音とほぼ同時に空襲警報が鳴り 響いたが約1時間後には解除になり、 当時「空襲とはざっとこんをものか」 と思っていた。 米陸軍ドゥーリトル中佐が率いる空母「ホーネット」からの飛来が日本本土空襲の幕開け であった。 執筆者 ●[昭和19年11月上旬頃からサイパン・テニアンを基地としたボーイングB-29による 本格的な東京空襲が始まる] 当時、私は旧制中学2年生。いつものように阿佐ヶ谷駅から省線電車(現在の JR 中央線) で学校へ通うため自宅を出ようとした。そのとき突然ラジオから 「東部軍管区情報。敵B-29 一機、南方洋上を北上しつつあり。関東地区、警戒警報発令」・・

より

より

Boeing B-29 Super Fortress

(2)

11月上旬、初の偵察飛行があってからは、下旬にかけて各地への空襲は激烈化していった。 学童疎開はこの頃から急速に始まった。妹達は父の知人がいる新潟へ疎開したが、私は 「帝都を守れ、銃後の少国民」と、かの歌い文句で疎開することはできず、もっぱら空襲の お相手と相成った。新聞には「竹槍の使い方」の連載。 また「将来、敵は千葉県九十九里海岸に上陸のおそれあり。一人一兵、竹槍で殺傷せよ。 そして関東平野でくい止めろ。関東平野は7割が田んぼである。戦車も兵士も脚を捕られて 進むことは出きぬ。また、できる限り黄金プール(肥え溜めのこと〉を確保せよ。撃退間違い なし」・・当時は真剣なのだ。疎開の方法のもうひとつに建物疎開というのもあった。密集 家屋の間の家を柱にロープを結わえ総勢で引っ張り倒壊して類焼を防ごうというアイデア。 欲はいっていられない。 12月3日、この日は12月なのに朝から小春日和。今日も東の空には阻塞気球(飛行船 の形をしたバルーンを200から300m位、地上からロープで上空に設置して低空で侵入 した敵機を阻塞することが目的。効果は薄いようだ)が7箇所ほど上げられていた。 記憶では昼頃であった、突然ラジオから「・・・敵B-29数編隊・・・」、今日はどうも 大掛かりのようだ。やがて空襲警報のサイレンが鳴り響く。そのとき自宅の2階の窓から、 ふと西の方角を見た途端に私は驚いた。上空にはB-29の大編隊が次ぎから次ぎへと向って くる、機体は白く輝き飛行機雲を引いている。爆音も強烈だ成増や調布の飛行場から飛び たったのであろう、日本の戦闘機「飛燕」などの新鋭機が機関銃を試し撃ちしながら急上昇 していった。やがて「ザーツ」という異様な音がしてきたので自宅の庭の防空壕へ飛び込んだ、 爆弾の風切り音である。私はそのとき直ちに両手の人さし指と中指で目玉を、親指で耳の穴を、 薬指で鼻の穴をそれぞれ塞いだ。要は爆風により目玉の飛び出しや聾になることを防ぐ最良の 方法だ。相変わらず次ぎから次ぎへと爆弾の風切り音は続いた、生きた心地は全くなくなった、 どうやら今日は近くの中島飛行機製作所武蔵野工場にターゲットを絞っている様子だ。終わり のない波状攻撃だ。「人間というのは、ある程度落ち着くと要領を覚えるようだ」私もその 言葉にあやかり、おまけに好奇心も手伝ってとうとう防空壕を抜け出し、再度2階の窓から 自作のガリレオ式望遠鏡で編隊の様子を眺めていた。

[昭和19年12月3日 大規模でバラエティーに富んだ空襲であった] 昭和 19 年 11 月上旬 南方洋上より侵入し上空から帝都を偵察、 左旋回し東方へ去った B-29。 下方のあどばるーんのようなものは 阻塞気球。 ~2~

(3)

そのとき編隊の周囲を米粒位いの日本の戦闘機が数機、左右から攻撃を加えていたと思うや、 そのうちのB-29 一機がバランスを崩し高度を下げながら東方へと去っていった。 どうやら体当りの様子に思えた。その間、高射砲の射撃は一斉に止んだ、しばらくして日本の 戦闘機の尾翼と主翼が別々に落下したのに続いて、一人の日本兵が落下傘で降下してきた。 しかし、その落下傘は開いていない。日本兵は敬礼しながらの降下である。いずれも近くの 高円寺方面に落下していった。翌日新聞紙面に「無念、開かぬ落下傘。皇居に向かつて敬礼し 降下」と大きく報道された。 昭和 19 年 12 月 3 日 東京西方より我が家の上空を通過する B-29 大艦隊。当日は三鷹の中島飛行機製作所武蔵野工場が被爆した。下方には 日本の戦闘機に体当たりを食らい編隊から離脱、バランスを失いながら 東方へ下降していく B-29 の姿があった。 やがて最後尾の編隊が通過するころ、ロケット機?のような物凄い速さでB-29に 立ち向った戦闘機があった。しかしそれは力およばず途中で遥か地上へ消えていった、 私は未だにそれが何んだったのかは不明である。また、何やら空から降ってきた、電探 妨害用のアルミ泊のテープのようだ、当日は一部には時限爆弾も投下されたようだった。 時限爆弾はタイマー付きで暫くしてから爆発するから始末が悪く無気味である。とにかく この日は双方とも今までにない激しい攻防戦に終わったようだ。 B-29に体当たりし分解墜落する日本戦闘機。そのあと開かぬ落下傘で 皇居に向かい敬礼をしながら 落下する日本兵。 ~3~

(4)

昭和20年に入ってからは、空襲のターゲットは軍需工場から一般民家へとも移りだした。 爆弾もさることながら、焼夷弾も降るようになった。爆撃方法も今までの昼間から夜間爆撃 も含まれるようになった。特に夜間の雲上爆撃は恐ろしい。いつ、どこから爆弾が降って くるのかわからない。最も印象的なのは何といっても3月10日の東京大空襲だ。正確には 3月9日の深夜から始った。 その日は一機つ次ぎ次ぎと低 空で侵入してくる。焼夷弾は仕 掛花火のように落下してくる。 夜空は地獄さながら、炎と煙り が物凄い真っ赤である。やがて B-29一機が超低空で我が家 の方へ飛来してきた。高度は 150m位、その機体は火炎に 照らし出され翼の星のマーク も鮮やかだ。爆弾庫は開かれ、 機体の中に赤いランプの光が 灯っていた光景は印象的で今 でも脳裏に焼き付いている。またサーチライトに捕獲され、それに立ち向かう日本の夜間 戦闘機から発射する砲弾の命中により火だるまとなって墜落してゆくB-29もあった。 東京大空襲は10日の未明 まで続いた。焼け出されたので あろうか、自宅の前を西の方角 に向って只ひたすらに歩く 長 蛇の列が延々と続いていた。 その光景は黙々としていて何 とも表現のしようのない恐ろ しさを物語っていた。この日の 空襲で東京の中心部ほ大壊滅 に至った。

[やがて終戦]

昭和20年8月15日 永きに亙った戦争に終わりを つげた。当時、私は板橋の陸軍造幣廠に学徒動員として赴いていた。仕事は食糧班であった ので、お蔭で食べ物には不自由はなかった。配属教官であった横山伍長から「飯はいっばい 食えよ。遠慮はいらんからな」と大豆入りのご飯をご馳走してくれた。当時の横山伍長殿 はその後どうされたか、今でも涙がでる。やがて天皇陛下の重大放送がラジオから流れ、 放送局のアナウンサーも「今夜からは灯火管制は解除」との知らせもあり半信半疑の落ち つかない気持で終戦を迎えた。 ●[ 昭和20年3月10日 東京大空襲 ] 昭和20年3月10日未明、東京夜間 大 空 襲 で 帝 都 上 空 に 侵 入 し て き た B―29の先導機、サーチライトに捕獲 され高射砲弾の攻撃を一斉にうける。 当日は単機侵入が中心となった。 昭和20年3月10日未明、東京大空襲の際、超低空で我が家 の上空を通過していくB-29、高度は 150m位。全開された 爆弾庫からは赤く点灯したライトが見えたのが印象的で あった。この日の夜間大空襲で東京の日本橋、浅草、本所、 深川、神田等の広範囲が焦土と化した 火炎に照らし出されたB-29の巨体 ~4~

(5)

その後、一週間位してからB-29の大編隊が再び飛来した。 その編隊はやがて一機ごとに分散して超低空で次々に我が家の上空を通過していった。 主翼には「P・W。SUPPLIES」と記され爆弾倉からはドラム缶のようなものが下げられていた。 これは捕虜になったアメリカ兵への救援物資を捕虜収容所へ投下のために飛来したのであった。

[空襲が持たらした美しい心]

お読みいただいてお解りのように私は空襲の末期には殆ど防空壕へは入らなかった。 いつも2階の窓からその光景を眺めていたが、その物凄さはとうてい言葉では簡単には 表現できないものがあった。もう二度とこのようなことがあってはいけない。しかしながら そのようを光景のなかにも美しいものもあった。それは特に空襲時に外出の際には全雨戸 を開放しておくことが日常の定めであった。しかし不思議なことに、あらゆる物資が不足 していた時代に何ひとつ盗まれることはなかった。このことは当時、皆が心を一つにして 目標に向かつて進んでいたからであろう。その心は実に美しかった。私はその心に改めて 感謝の意を表したい。 ・・・完・・・ 昭和20年8月下旬頃 捕虜収容所へ救援物資投下のため超低空で飛行する B-29.爆弾庫からは救援物資を入れたドラム缶のようなものが吊り下げ られ、主翼には「P.W.SUPPLIES(戦争捕虜用供給物資)」と記されていた。 ブルーのシャツを着た爆撃士の姿も見え、機首には(アメリカン・ビューティー) と記されたコメットのマークが描かれそれがすこぶる印象的であった。 昭 和20 年5月 下旬 京 浜地区 夜間大 空襲で 我が軍 の高射砲 撃に尾 翼と主 翼 の 一部を もぎ取 られ墜落 するB -29 .物凄 い音を 発しなが ら落下 してい っ た。 ~5~

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