• 検索結果がありません。

中学受験対策社会一菜センセのサブノート日本の歴史 31 平安時代 ( その 1) 平安時代の政治 1( 桓武天皇の治世 ) 794 年に桓武天皇が 長岡京から今の京都の平安京に遷都してから 鎌 倉に源頼朝が幕府を開くまでの約 400 年間の時代を平安時代と言います ただし だんのうら この時代の終わ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中学受験対策社会一菜センセのサブノート日本の歴史 31 平安時代 ( その 1) 平安時代の政治 1( 桓武天皇の治世 ) 794 年に桓武天皇が 長岡京から今の京都の平安京に遷都してから 鎌 倉に源頼朝が幕府を開くまでの約 400 年間の時代を平安時代と言います ただし だんのうら この時代の終わ"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

日本の歴史

31 

平安時代(その1)

◎ 平安時代の政治1(桓武天皇の治世)

         年に         天皇が、長岡京から今の京都の       に遷都してから、鎌 倉に       が幕府を開くまでの約400 年間の時代を         時代と言います。ただし、 この時代の終わりの年号に関しては、 だんのうら 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後に守護・地頭が設置された、        年とする見方と、      が征夷大将軍となった       年とする見方があります。 (ホント、歴史って、色々な見方があってめんどくさいわね…。でも、だからこそ楽しいのかもね♪)  さて、この         時代の政治ですが、初期は天皇が自ら国を治めていました。このような政治 のことを         と言います。  784 年に奈良の       から       に遷都し、その 10 年後に       に 遷都をした         天皇はその都の「造作」と、「 えみし 蝦夷」と呼 ( ばれていた東北地方の制圧(「軍事」)に力を注ぎました。  この朝廷と東北の人々との戦いは、774 年から 811 年まで続き、 「三十八年戦争」と言われています。この戦いに際し、朝廷は右 図のように城を築いたり、797 年、       に任命 した       を蝦夷の征討に向かわせました。 そして、802 年には、蝦夷のリーダーの あてるい 阿弖流為 が投降し斬殺さ れてしまいました。  「えっ?同じ日本人どうしなのに、なんで『戦争』って言うの? あと、『 あてるい 阿弖流為』ってヘンな名前だね。この人、もしかして外国人 だったの?」ですって?本質を突いた質問ね♪と言うわけで、以下は一菜センセの ニセ 贋方言教室です。 (スミマセン、ここからはスペースの都合でフォントを小さくしてしまいました) ① 「おめ、よぐぎだな、はらさぺこぺこだべ。めっさけ。」 ② 「◎◎ちゃん、よく来てくれたわね。お腹が減っているでしょ。ご飯を食べてね」 ③ 「あんさん、ようお越しなはりましたな。お腹すいているやろ。ご飯を用意したさかい、召し上がってくれなはれ♪」  スミマセン、①と③はでっち上げと言いましょうか、「なんちゃって方言」です(東北地方と関西地方の方々には深くお詫び申し上げます)。  同じ日本語でもこんなに表現が異なることを分かって欲しかったのよね。そして、①~③のどの言い方も素敵だと思いませんか?  でも、①の表現が一番分かりづらいと感じた方も多いのではないかとも思います。そして、「蝦夷」や「アイヌ」の言語や文化が、大和朝廷 の人たちにとっては理解不能に近く、だから、東北以北の地域の人々が、「蝦夷」≒異邦人とみなされたのかもしれませんね。  さて、この「造作と軍事」を推し進めていった        天皇は、792 年に こんでい 健児の制を し 布いて軍制を 変えたり(現代で言うと徴兵制をやめて志願兵による軍隊を作るようなものです)、国司を規制する かげゆし 勘解由使という りょうげのかん 令外官 (律令には規定されていない官職。征夷大将軍も令外官の一つです)を設けるなどの改革も進めていきました。そして、 晩年の805 年には、「造作と軍事が百姓(民衆)を苦しめている」との ふじわらのおつぐ 藤原緒嗣(藤原不比等の息子の宇合の 孫)の意見を取り入れて、この二つを取りやめ、翌年の806 年に崩御しました。

(2)

日本の歴史

31 

平安時代(その1)

◎ 平安時代の政治1(桓武天皇の治世)

         年に         天皇が、長岡京から今の京都の       に遷都してから、鎌 倉に       が幕府を開くまでの約400 年間の時代を         時代と言います。ただし、 この時代の終わりの年号に関しては、 だんのうら 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後に守護・地頭が設置された、        年とする見方と、      が征夷大将軍となった       年とする見方があります。 (ホント、歴史って、色々な見方があってめんどくさいわね…。でも、だからこそ楽しいのかもね♪)  さて、この         時代の政治ですが、初期は天皇が自ら国を治めていました。このような政治 のことを         と言います。  784 年に奈良の       から       に遷都し、その 10 年後に       に 遷都をした         天皇はその都の「造作」と、「 えみし 蝦夷」と呼 ( ばれていた東北地方の制圧(「軍事」)に力を注ぎました。  この朝廷と東北の人々との戦いは、774 年から 811 年まで続き、 「三十八年戦争」と言われています。この戦いに際し、朝廷は右 図のように城を築いたり、797 年、       に任命 した       を蝦夷の征討に向かわせました。 そして、802 年には、蝦夷のリーダーの あてるい 阿弖流為 が投降し斬殺さ れてしまいました。  「えっ?同じ日本人どうしなのに、なんで『戦争』って言うの? あと、『 あてるい 阿弖流為』ってヘンな名前だね。この人、もしかして外国人 だったの?」ですって?本質を突いた質問ね♪と言うわけで、以下は一菜センセの ニセ 贋方言教室です。 (スミマセン、ここからはスペースの都合でフォントを小さくしてしまいました) ① 「おめ、よぐぎだな、はらさぺこぺこだべ。めっさけ。」 ② 「◎◎ちゃん、よく来てくれたわね。お腹が減っているでしょ。ご飯を食べてね」 ③ 「あんさん、ようお越しなはりましたな。お腹すいているやろ。ご飯を用意したさかい、召し上がってくれなはれ♪」  スミマセン、①と③はでっち上げと言いましょうか、「なんちゃって方言」です(東北地方と関西地方の方々には深くお詫び申し上げます)。  同じ日本語でもこんなに表現が異なることを分かって欲しかったのよね。そして、①~③のどの言い方も素敵だと思いませんか?  でも、①の表現が一番分かりづらいと感じた方も多いのではないかとも思います。そして、「蝦夷」や「アイヌ」の言語や文化が、大和朝廷 の人たちにとっては理解不能に近く、だから、東北以北の地域の人々が、「蝦夷」≒異邦人とみなされたのかもしれませんね。  さて、この「造作と軍事」を推し進めていった        天皇は、792 年に こんでい 健児の制を し 布いて軍制を 変えたり(現代で言うと徴兵制をやめて志願兵による軍隊を作るようなものです)、国司を規制する かげゆし 勘解由使という りょうげのかん 令外官 (律令には規定されていない官職。征夷大将軍も令外官の一つです)を設けるなどの改革も進めていきました。そして、 晩年の805 年には、「造作と軍事が百姓(民衆)を苦しめている」との ふじわらのおつぐ 藤原緒嗣(藤原不比等の息子の宇合の 孫)の意見を取り入れて、この二つを取りやめ、翌年の806 年に崩御しました。

794

桓武

平安京

源頼朝

平安

1185

源頼朝

1192

平安

親政

平城京

長岡京

平安京

桓武

征夷大将軍

坂上田村麻呂

桓武

(3)

日本の歴史

32 

平安時代(その2)

◎ 平安時代の政治2(平城と嵯峨の兄弟喧嘩)

  ※ この部分は高校で勉強する内容なので、ざっと読むだけでいいわよん♪  右の系図にあるように、806 年に        天皇が崩御 した後に、息子の へいぜい 平城天皇が即位しました。この天皇は、藤 原四兄弟の一人の藤原 うまかい 宇合の孫で、長岡京造営の中心人物 で785 年に暗殺された藤原 たねつぐ 種継の子どもの なかなり 仲成と くすこ 薬子の兄妹 を厚く信任しました。しかし病弱であった へいぜい 平城天皇は、809 年、 弟の さが 嵯峨天皇に天皇位を譲り、 だいじょう 太上天皇となって、奈良時代 の都であった      に移りました。  その後、健康を快復した平城天皇(譲位しているので、平城 上皇と記すべきですね)は復権を目指しますが、弟と対立。 この兄弟喧嘩は、嵯峨天皇の命を受けた さかのうえの 坂上 たむら 田村 まろ 麻呂(この 人は      に任命されていますね)などの働き によって、弟の        天皇の勝利に終わり、藤原仲成は 射殺(と言ってもピストルやライフルではなくて、弓ですわよぉ)され、その妹の くすこ 薬子は服毒自殺をしました。810 年に起きたこの出来事を「薬子 の変」(または「平城太上天皇の変」と言います。 「あのさぁ、なんで、高校レベルの話なんかするの?それでなくても、ボク、理科の生物や天体の勉強でアタマが飽和状態な ので、余計な話はして欲しくないんだけど…」ですって?そうね、キミのその気持ちはアタクシにも良く分かるわ(だって、この プリント、「こんなに勉強したのは何年ぶりかしら」って言う気持ちで作っているんだもん…)。実はね、この事件のあと、1156 年に起きた ほうげん 保元の乱で、 みなもとのためよし 源為義 が死刑になるまでの約346 年間、この国では死刑は執行されていないとされているのね。 そして、このことって、まさしく「平安」時代って感じがしない?  さて、お兄ちゃんとの争いに勝利した嵯峨天皇ですが、天皇の秘書室長とも言える くろうどの 蔵人 とう 頭や、京の治 安警察長官とも言える けびいし 検非違使と言った、       (律令には規定されていない役職)を設け ました。そして、この       がその後の朝廷の中軸となっていきます。  また、嵯峨天皇には約50 人もの子どもたちがいたのですが、その多くに みなもとの 源 あそん 朝臣の かばね 姓 を与えて天皇 一族から臣下の立場にしてしまいました。このようなことを しんせき 臣籍 こうか 降下(現在の日本国では「皇籍離脱」と 言っています)と言います。そして、上の系図モドキには、その後の武士の二大勢力となったとも言える、 桓武         と清和         のルーツが分かるように緑色で記しておきましたが、こうやって 見ると、平安時代の末期、太政大臣にまで登りつめ、「         に あら 非ずんば人に非ず」と言われる ほどの時代を築いた、        や、鎌倉に幕府を開いた        、京都に幕府を開 いた        も天皇家の血筋を引いていることがわかりますね。

藤原宇合 藤原良継 藤原百川 藤 原 旅 子 藤 原 乙 牟 漏 藤 原 吉 子 平 城 天 皇 嵯 峨 天 皇 藤 原 順 子 伊 予 親 王 阿保親王 在 原 行 平 仁 明 天 皇 多 冶 比 真 宗 葛 原 親 王 高 望 王 淳 和 天 皇 文 徳 天 皇 在 原 業 平

桓武平氏へ

清和天皇 陽成天皇 貞純親王

清和源氏へ

50 51 52 53 54 55 56 57

(4)

日本の歴史

32 

平安時代(その2)

◎ 平安時代の政治2(平城と嵯峨の兄弟喧嘩)

  ※ この部分は高校で勉強する内容なので、ざっと読むだけでいいわよん♪  右の系図にあるように、806 年に        天皇が崩御 した後に、息子の へいぜい 平城天皇が即位しました。この天皇は、藤 原四兄弟の一人の藤原 うまかい 宇合の孫で、長岡京造営の中心人物 で785 年に暗殺された藤原 たねつぐ 種継の子どもの なかなり 仲成と くすこ 薬子の兄妹 を厚く信任しました。しかし病弱であった へいぜい 平城天皇は、809 年、 弟の さが 嵯峨天皇に天皇位を譲り、 だいじょう 太上天皇となって、奈良時代 の都であった      に移りました。  その後、健康を快復した平城天皇(譲位しているので、平城 上皇と記すべきですね)は復権を目指しますが、弟と対立。 この兄弟喧嘩は、嵯峨天皇の命を受けた さかのうえの 坂上 たむら 田村 まろ 麻呂(この 人は      に任命されていますね)などの働き によって、弟の        天皇の勝利に終わり、藤原仲成は 射殺(と言ってもピストルやライフルではなくて、弓ですわよぉ)され、その妹の くすこ 薬子は服毒自殺をしました。810 年に起きたこの出来事を「薬子 の変」(または「平城太上天皇の変」と言います。 「あのさぁ、なんで、高校レベルの話なんかするの?それでなくても、ボク、理科の生物や天体の勉強でアタマが飽和状態な ので、余計な話はして欲しくないんだけど…」ですって?そうね、キミのその気持ちはアタクシにも良く分かるわ(だって、この プリント、「こんなに勉強したのは何年ぶりかしら」って言う気持ちで作っているんだもん…)。実はね、この事件のあと、1156 年に起きた ほうげん 保元の乱で、 みなもとのためよし 源為義 が死刑になるまでの約346 年間、この国では死刑は執行されていないとされているのね。 そして、このことって、まさしく「平安」時代って感じがしない?  さて、お兄ちゃんとの争いに勝利した嵯峨天皇ですが、天皇の秘書室長とも言える くろうどの 蔵人 とう 頭や、京の治 安警察長官とも言える けびいし 検非違使と言った、       (律令には規定されていない役職)を設け ました。そして、この       がその後の朝廷の中軸となっていきます。  また、嵯峨天皇には約50 人もの子どもたちがいたのですが、その多くに みなもとの 源 あそん 朝臣の かばね 姓 を与えて天皇 一族から臣下の立場にしてしまいました。このようなことを しんせき 臣籍 こうか 降下(現在の日本国では「皇籍離脱」と 言っています)と言います。そして、上の系図モドキには、その後の武士の二大勢力となったとも言える、 桓武         と清和         のルーツが分かるように緑色で記しておきましたが、こうやって 見ると、平安時代の末期、太政大臣にまで登りつめ、「         に あら 非ずんば人に非ず」と言われる ほどの時代を築いた、        や、鎌倉に幕府を開いた        、京都に幕府を開 いた        も天皇家の血筋を引いていることがわかりますね。

藤原宇合 藤原良継 藤原百川 藤 原 旅 子 藤 原 乙 牟 漏 藤 原 吉 子 平 城 天 皇 嵯 峨 天 皇 藤 原 順 子 伊 予 親 王 阿保親王 在 原 行 平 仁 明 天 皇 多 冶 比 真 宗 葛 原 親 王 高 望 王 淳 和 天 皇 文 徳 天 皇 在 原 業 平

桓武平氏へ

清和天皇 陽成天皇 貞純親王

清和源氏へ

50 51 52 53 54 55 56 57

桓武

平城京

征夷大将軍

嵯峨

令外官

令外官

平氏

源氏

平家

平清盛

源頼朝

足利尊氏

(5)

日本の歴史

33 

平安時代(その3)

◎ 平安初期の仏教(最澄と空海、天台宗と真言宗、延暦寺と金剛峰寺)

 さて、奈良時代、       寺に大仏を造営したり、各国に        寺や国分尼寺を建設させたり と、    教によって国を まも 護ろうとした政治を行った        天皇に対して、平安京への遷都を行っ た        天皇は寺院や僧侶を統制し、平安京には とうじ 東寺と さいじ 西寺を建立するにとどめ、山林に入って 思索修行を重ねる学僧には ひご 庇護を加えました。  そのなかで、804 年に       の一行に加わって唐に渡った 2 人の僧は、その後の日本の仏 教界に大きな影響を及ぼします。  一人は805 年に帰国し、今の滋賀県大津市にある         山に        寺を建て、        宗を 伝えた         です。(右はそのお寺の総本堂の根本中堂)  もう一人は805 年に帰国し、今の和歌山県高野町にある         山に       を建て         宗を開いた        です。この人は弘法大師としても 有名ですね。(右下はそのお寺の総本堂のなかの写真です)  この二つの宗派について下の表にまとめましょう。

◎ 平安時代の政治3(摂関政治の序章)

 さて、またまた系図モドキの登場です。この図から、 藤原 ふゆつぐ 冬嗣は、 もんとく 文徳天皇の      であること が分かります。そして、その息子の は、 せいわ 清和天皇のお祖父さんですね。実は、この人は、 孫の清和天皇の代に、藤原氏で初めて        (聖徳太子が推古天皇の何という役割を果たしていたか思い出してね) の立場に立ちました。そして、その おい 甥であり、 ゆうし 猶子と なっていた       は、日本史上初めて        の職務に就きました。(地位としては太政大臣) (このように、藤原氏は着々と政治の実権を握って行ったのよね) 比叡山延暦寺の根本中堂 高野山金剛峯寺金堂の内部 宗派 天台宗 真言宗 開祖 場所

山 

山 

寺院

寺 

寺 

藤原不比等 藤原房前 藤原真楯 藤原内麻呂 藤原冬嗣 桓武天皇 嵯峨天皇 仁 明 天 皇 文徳天皇 清和天皇 陽成天皇 藤原良房 藤原明子 藤原順子 藤原長良 藤原高子 藤原基経 藤 原 沢 子 光孝天皇 宇多天皇 50 51 平 城 天 皇 52 淳 和 天 皇 53 54 55 56 57 58 59 醍醐天皇 60 藤原穏子

(6)

日本の歴史

33 

平安時代(その3)

◎ 平安初期の仏教(最澄と空海、天台宗と真言宗、延暦寺と金剛峰寺)

 さて、奈良時代、       寺に大仏を造営したり、各国に        寺や国分尼寺を建設させたり と、    教によって国を まも 護ろうとした政治を行った        天皇に対して、平安京への遷都を行っ た        天皇は寺院や僧侶を統制し、平安京には とうじ 東寺と さいじ 西寺を建立するにとどめ、山林に入って 思索修行を重ねる学僧には ひご 庇護を加えました。  そのなかで、804 年に       の一行に加わって唐に渡った 2 人の僧は、その後の日本の仏 教界に大きな影響を及ぼします。  一人は805 年に帰国し、今の滋賀県大津市にある         山に        寺を建て、        宗を 伝えた         です。(右はそのお寺の総本堂の根本中堂)  もう一人は805 年に帰国し、今の和歌山県高野町にある         山に       を建て         宗を開いた        です。この人は弘法大師としても 有名ですね。(右下はそのお寺の総本堂のなかの写真です)  この二つの宗派について下の表にまとめましょう。

◎ 平安時代の政治3(摂関政治の序章)

 さて、またまた系図モドキの登場です。この図から、 藤原 ふゆつぐ 冬嗣は、 もんとく 文徳天皇の      であること が分かります。そして、その息子の は、 せいわ 清和天皇のお祖父さんですね。実は、この人は、 孫の清和天皇の代に、藤原氏で初めて        (聖徳太子が推古天皇の何という役割を果たしていたか思い出してね) の立場に立ちました。そして、その おい 甥であり、 ゆうし 猶子と なっていた       は、日本史上初めて        の職務に就きました。(地位としては太政大臣) (このように、藤原氏は着々と政治の実権を握って行ったのよね)

東大

国分

聖武

桓武

遣唐使

比叡山延暦寺の根本中堂 高野山金剛峯寺金堂の内部 宗派 天台宗 真言宗 開祖

最澄

空海

場所

比叡 

山 

高野 

山 

寺院

延暦 

寺 

金剛峯 

寺 

比叡

延暦

天台

最澄

高野

金剛峯寺

真言

空海

藤原不比等 藤原房前 藤原真楯 藤原内麻呂 藤原冬嗣 桓武天皇 嵯峨天皇 仁 明 天 皇 文徳天皇 清和天皇 陽成天皇 藤原良房 藤原明子 藤原順子 藤原長良 藤原高子 藤原基経 藤 原 沢 子 光孝天皇 宇多天皇 50 51 平 城 天 皇 52 淳 和 天 皇 53 54 55 56 57 58 59 醍醐天皇 60 藤原穏子

外祖父

(お祖父さん)

藤原良房

摂政

藤原基経

関白

(7)

日本の歴史

34 

平安時代(その4)

◎ 平安時代の政治4(

すがわらの

菅原

みち

ざね

真の出世と失脚)

 さて、日本史上初めて関白の職務についた       が891 年に亡くなると、 うだ 宇多天皇は、 後に天満宮に まつ 祀られ、現代でも「学問の神様」として あが 崇められている      を、まずは、 くろうどの 蔵人 とう 頭に登用するなど、厚く信任しました。その一例が、894 年の         の建議によった      の停止です。 その後、日本の文化は、それまでの中国の影響が大きい唐風文化 から日本独自の        文化に移っていったとされています。  また、897 年に宇多天皇は息子の だいご 醍醐天皇に譲位し、その政務の 全てを、この人と、藤原 もとつね 基経の息子の藤原 ときひら 時平を通じて行うように命 じました。これが、「 ないらん 内覧」といわれる制度の始まりで、899 年には藤原 ときひら 時平は左大臣に、この人は右大 臣に昇進しました。  しかし、この異例の出世は、藤原氏をはじめとした貴族の反感を買い、901 年に大宰府に左遷させら れ、903 年に失意の中で亡くなりました。

◎ 平安時代の政治5(

えんぎ

延喜・

てんりゃく

天暦の

治)

※ この部分も大学入試レベルなので、ざっと読むだけでいいわよん♪        が亡くなった6 年後の 909 年に 藤原時平も亡くなり、 だいご 醍醐天皇は自らが中心となって、政 治を推し進めました(天皇自らによる政治を と言いましたね)。そして、醍醐天皇の息子の村上天皇も、 関白の藤原 ただひら 忠平が亡くなった後は親政を行ったとされて います。この2 人の天皇の治世は、元号の名をとって、         の治と言われ、後世の一部の人々 に聖代視されました。その典型的なひとは、足利        や 新田        、楠木        らの武士の力によって鎌倉幕府を倒してもらい、       の新 政を行った      天皇ですね。 ちな 因みにこの天皇の息子の一人は、後村上天皇となっています。  また、日本の近代の始まりとも言える      でも、この時代の治世のあり方が理想視され、 時代を動かす原動力の一つとなりました。  しかし、現代の歴史学では、この治世の実際は、醍醐天皇のお父さんの宇多天皇(と菅原道真)の政 策の延長でしかなく、律令国家から王朝国家への移行期の一部でしかないと評価されているようです。  とは言え、醍醐天皇については、日本で初めての ちょくせん 勅撰 和歌集(天皇の指示で作成された和歌集)である「古今和歌集」を きの 紀 つらゆき 貫之 など に命じて編纂させたことなどが入試で出題されるかもしれないので、覚えておいてね♪ 北野天満宮(京都市上京区) 仁明 光孝 文徳 清和 宇多 醍醐 陽成 敦実親王 源雅信 村上 朱雀 貞純親王 源経基 冷泉 円融 具平親王 宇多源氏 清和源氏 源師房 村上源氏 54 55 56 57 58 59 60 61 62 64 63

(8)

日本の歴史

34 

平安時代(その4)

◎ 平安時代の政治4(

すがわらの

菅原

みち

ざね

真の出世と失脚)

 さて、日本史上初めて関白の職務についた       が891 年に亡くなると、 うだ 宇多天皇は、 後に天満宮に まつ 祀られ、現代でも「学問の神様」として あが 崇められている      を、まずは、 くろうどの 蔵人 とう 頭に登用するなど、厚く信任しました。その一例が、894 年の         の建議によった      の停止です。 その後、日本の文化は、それまでの中国の影響が大きい唐風文化 から日本独自の        文化に移っていったとされています。  また、897 年に宇多天皇は息子の だいご 醍醐天皇に譲位し、その政務の 全てを、この人と、藤原 もとつね 基経の息子の藤原 ときひら 時平を通じて行うように命 じました。これが、「 ないらん 内覧」といわれる制度の始まりで、899 年には藤原 ときひら 時平は左大臣に、この人は右大 臣に昇進しました。  しかし、この異例の出世は、藤原氏をはじめとした貴族の反感を買い、901 年に大宰府に左遷させら れ、903 年に失意の中で亡くなりました。

◎ 平安時代の政治5(

えんぎ

延喜・

てんりゃく

天暦の

治)

※ この部分も大学入試レベルなので、ざっと読むだけでいいわよん♪        が亡くなった6 年後の 909 年に 藤原時平も亡くなり、 だいご 醍醐天皇は自らが中心となって、政 治を推し進めました(天皇自らによる政治を と言いましたね)。そして、醍醐天皇の息子の村上天皇も、 関白の藤原 ただひら 忠平が亡くなった後は親政を行ったとされて います。この2 人の天皇の治世は、元号の名をとって、         の治と言われ、後世の一部の人々 に聖代視されました。その典型的なひとは、足利        や 新田        、楠木        らの武士の力によって鎌倉幕府を倒してもらい、       の新 政を行った      天皇ですね。 ちな 因みにこの天皇の息子の一人は、後村上天皇となっています。  また、日本の近代の始まりとも言える      でも、この時代の治世のあり方が理想視され、 時代を動かす原動力の一つとなりました。  しかし、現代の歴史学では、この治世の実際は、醍醐天皇のお父さんの宇多天皇(と菅原道真)の政 策の延長でしかなく、律令国家から王朝国家への移行期の一部でしかないと評価されているようです。  とは言え、醍醐天皇については、日本で初めての ちょくせん 勅撰 和歌集(天皇の指示で作成された和歌集)である「古今和歌集」を きの 紀 つらゆき 貫之 など に命じて編纂させたことなどが入試で出題されるかもしれないので、覚えておいてね♪

藤原基経

菅原道真

北野天満宮(京都市上京区)

菅原道真

遣唐使

国風

菅原道真

仁明 光孝 文徳 清和 宇多 醍醐 陽成 敦実親王 源雅信 村上 朱雀 貞純親王 源経基 冷泉 円融 具平親王 宇多源氏 清和源氏 源師房 村上源氏 54 55 56 57 58 59 60 61 62 64 63

親政

延喜・天暦の治

尊氏

義貞

正成

建武

後醍醐

明治維新

参照

関連したドキュメント

東京都環境局では、平成 23 年 3 月の東日本大震災を契機とし、その後平成 24 年 4 月に出された都 の新たな被害想定を踏まえ、

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

★代 代表 表者 者か から らの のメ メッ ッセ セー ージ ジ 子どもたちと共に学ぶ時間を共有し、.

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹

1時間値が 0.12 ppm 以上になった日が減少しているのと同様に、年間4番目に高い日最 高8時間値の3年移動平均も低下傾向にあり、 2001~2003 年度の 0.11 ppm