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環境運動の二つの原理

著者

畑 一成

著者別名

HATA Kazunari

雑誌名

「エコ・フィロソフィ」研究

14

ページ

107-114

発行年

2020-03

URL

http://doi.org/10.34428/00011595

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

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環境運動の二つの原理

畑一成(

IRCP 研究支援者)

要旨:環境をめぐって、現在ドイツを中心としたヨーロッパで展開されているのは、運動である。そ して、この運動は、実践哲学の領域に根差しており、倫理がその基本的な原理となっている。しかし、 この環境に関する運動は、単なる倫理的実践ではなく、知ることと密接に結びついている、あるいは 科学的知識に基づいた行動であるといわれる。それは、倫理的行動規範について反省をするだけでは なく、倫理からは引き出せない科学を堅い核とする運動となっている。いわば二重の原理を自らの運 動の源泉として引き込んでいるのだが、それら二つの異質なものが織りなす関係性がどのようなもの なのか明白にされなければならない。相容れないもの同士の力動性は、一方の優位性が強調されるこ とによっていびつになったり、互いに乖離してしまうことで霧散したりしやすい。環境運動の参加者 には、互いに異質な学知を省察するという少なくとも二つの課題が与えられている。現在の環境運動 がどのような事態になっているのか、そしてそれがどのような道をたどるのかを考察した。 キーワード:ドイツ、環境運動、倫理と科学、理論哲学と実践哲学、自然哲学、ビジネス 1 環境運動(Umweltbewegung)は、環境にまつわる諸科学とは独立に興隆している。特にドイツで は、この運動が盛んで、歴史的に見ても最も多くの人々を巻き込んだ運動の一つとなっている。そし て、多くの歴史の事例が示すように、運動の参加者は常に若者である。そうした運動の背景には、環 境倫理や環境の諸科学があり、参加者たちも口々にそうした諸科学を引き合いに出している。環境運 動と科学は、確かに互いに深く関与している。しかし、知と行為が、いわば鏡の中の世界のように、 それぞれにとって触れられない不思議な事象であると映る。それゆえ、科学と運動がどのように結束 するのかは、実践哲学と理論哲学の境界に触れるような非常に哲学的な問いとなっている。 およそ200 年前に活躍したドイツの哲学者ヘーゲルは、哲学を運動としてとらえなおしている。こ の運動という概念に、ヘーゲルは多くの思想を詰め込んでいる。彼の哲学において、理論と実践ある いは理想と現実は密接に接合されており、知と運動は表裏一体のものとして考えられている。その彼 の哲学に対する鏡像は、フランス革命であった。封建的領主らを追放し、人々を開放するのがフラン ス革命であり、それによって人間の本当の自由へと至ることが真の革命なのだと期待していた。しか し、その革命の先導者は、ドイツを侵略し、百日天下を謳歌した後、戦争に負けて、島流しにあった。 ヘーゲルは、自由を形式と内容という二つの点から規定している 1。つまり、それそのものとして 客観的に制限のない自在な状態があることと、主体がそれを理解していることである。単に自由奔放

1 Vgl. Hegel, G. W. F.: Werke in zwanzig Bänden, Theorie-Werkausgabe. Auf der Grundlage der Werke von

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東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.14 な状態があるだけでは不十分であるとヘーゲルはいう。革命に携わる者たちが、自在な状態にあり、 かつそれを明瞭に理解していることが本質的であり、その二重の規定を満たしてはじめて自由を主張 することができる。ヘーゲルは、先導者が死んだ後もなお、フランス革命を世界史的な出来事だとと らえている。あるいは、もはやたった一人の先導者に帰されるものではない「世界史的」な運動であ るとみている。今日の環境運動がヘーゲルのいうような世界史的な出来事なのかどうかは、環境問題 に関するその二重の規定を満たすことができるかどうかによっている。知と行為は、そのどちらか一 方が欠けていては、なにかしらの出来事として成立することができないのである。 2 ドイツは環境大国だとよくいわれるし、ドイツ自身もそう自任している。実際に、世界経済フォー ラムと共同で、イェール大学とコロンビア大学が作成した「環境パフォーマンス指数(Environmental Performance Index)」では、第 13 位(2018 年)に位置しており、日本の 20 位よりも 高い評価を受 けている。この指数は、「健康的環境」と「生態系の活力」という大分類がたてられ、それぞれに空気 や水の質、水源、森林、農業、水産資源、生物の多様性や生息地の保全、そしてCO2 排出量などの 小項目でもって評価されている。ヨーロッパ広域の水源に位置し、全電源に原子力発電が占める割合 が 40%弱のスイスはこの指数の第一位で、80%も賄っている原子力発電大国のフランスは第二位に つけている。第三位に、風力発電が全体の50%弱を占めるデンマークが位置付けられている。この指 標は、人や生物にとっての環境の健全さを精査しており、より広範な評価を行っている。その中でド イツは常に上位に位置し、2014 年には第六位の評価を受けており、ドイツは環境大国の一つである といえる。しかしながら、そのドイツにおいて環境運動が、科学に支えられた知、あるいは環境に関 する知を十分に内省しているのかどうかいまだ考察の余地がある。 近年のドイツの環境運動の中心は「未来のための金曜日」である。これは、政財界の指導者に環境 保護のために行動を起こすよう要請する運動である。こうした抗議運動の発端となったのは、スウェ ーデン人のグレタ・トゥンベリである。彼女は、現在世界で最も有名な環境活動家だとみられている。 現在までにマクロン大統領やオバマ元大統領、ローマ教皇などに会い、アムネスティをはじめとした 多くの団体から表彰されている。特にドイツで彼女の人気は高く、当初より様々なメディアが取り上 げていた。彼女に端を発して組織された「未来のための金曜日」は、ドイツ国内ですでに500 以上の 拠点をもっており、2018 年 3 月 15 日の世界同時抗議集会には 30 万人の学生が集まったと主張して いる。これは、様々な国で組織された「未来のための金曜日」の国別で最も多い参加者数である。 トゥンベリや「未来のための金曜日」の主張は、指導者の立場にある政治家が、少なくともパリ協 定にある平均気温の上昇を1.5 度未満に抑えるよう行動せよというものである。彼ら彼女らの主張の 細目はより急進的である。例えば、EU が 2030 年までに 1990 年比で 40%の温室効果ガスの削減を 掲げているが、80%削減すべきだとトゥンベリは主張している。ドイツの「未来のための金曜日」は、 2035 年までにドイツ国内の電力すべてを再生可能なエネルギーに置き換え、温室効果ガスの排出を

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ゼロにせよという。以下具体的な「未来のための金曜日」の要求項目を挙げる: - 2030 年までに石炭発電をゼロにする。 - 2035 年までに CO2 の排出をゼロにする。 - 2035 年までに再生可能エネルギーを 100%にする。 - 化石燃料への助成金をやめる。 - 1 トン当たりの CO2 に 180 ユーロの税金を課す(一人当たり年間、約 22 万円)。2 こうした彼ら彼女らの主張が、受け入れられなかったり、受け入れたとしても実行に移されなかった りすると、毎週金曜日に学校をストライキし、連邦議会前などで抗議集会を開くとされる。こうした 要求に対して、それが正しいかどうか批判的に吟味する目が向けられている。2019 年 8 月 20 日のド イツ公共放送連盟(ARD)によるニュース番組「ターゲス・テーメン(Tagesthemen)」にて、ドイ ツにおける「未来のための金曜日」の代表であるルイザ・ノイバウアー(Luisa Neubauer)がインタ ビューに答えている。ARD による質問が、いわば一般のドイツ人が感じている「未来のための金曜 日」に対する疑問だといえる。まず、政府の環境保護政策について感想を聞かれ「言葉だけで、行動 が伴ってない」と答えている。次に「未来のための金曜日」は政治家ばかりに抗議活動をし、極めて 政治的だが、本来は一般の人々に対しても向けられるべき抗議ではないか。そして一般の人たちは若 者も含め、より環境負荷の大きい消費行動を多くしているし、環境に負荷を与える炭素に対して税金 をかける炭素税に対しても反対する人が多い。そうした場合、どうやって人々を動機づけるのかとい う問いに対して、「人々や政治に創造的であってほしい」と答えている。また、多くのドイツ人が納 得しないであろう炭素税に関して、「未来のための金曜日」は1 トン当たり 180 ユーロの税金を課す という主張に対して、「結局未来の人が払わなければならない」ことからその額は妥当であると答え ている。そうした多大な要求を突き付ける場合、社会が分断される危険があるが、それについてはど う思うかと聞かれ、「自分たちは真実を語っているだけで、それは社会の成長のチャンスになるはず だ」という。また、「未来のための金曜日」の参加者が裕福な家庭の子供ばかりで、環境保護が単に富 裕層の運動でしかないのではと問われ、「それでもデモを行うことができる人がいることは第一歩で あり、その他の参加者に対しても門戸は閉ざしていない」と答えている。具体的で厳しい質問に対し て、ノイバウアーは、具体的な解決策を示すというより、おおよその方向性を示す回答をしている。 この学生による運動は、60 年代後半の学生運動とよく比べられる。ドイツでは 1968 年に 1 万人規 模の学生運動が繰り広げられたが、今回の環境問題の学生運動は、30 万人とそれをはるかにしのぐ 規模である。それ以外に60 年代の学生運動との大きな違いがいくつかあり、例えば学生の年齢層と、 それに伴う大人の後ろ盾がある。68 年のドイツの学生運動に参加したのは、主に 20~30 歳までの若 者であるが、「未来のための金曜日」では10 代の学生が主である。それゆえ実質的な主張内容は、学 生をサポートする 2 万 7 千人以上にのぼるとされる科学者によって議論されていることになってお

2 Cf. https://fridaysforfuture.de/forderungen/(2020 年 1 月 31 日)

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東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.14 り、抗議活動も親や学校の先生が見守るなか行われていたりする。 何よりも大きな違いは、世代間倫理の出現である。少女や少年たちが「私たちの未来を奪い取って いる」と大人たちを糾弾するとき、訴えている内容そのものは世代間倫理の問題である。将来の世代 も、現在と同じくらいの生活要求を満たす機会が与えられていなければならないと主張する世代間倫 理は、主に70 年代以降に普及している。この倫理的原則によって、トゥンベリの強い批判も、学校 をさぼるという10 代の子供のストライキも、理解されるだけでなく、様々な大人たちからもサポー トされている。 3 フランスの哲学者ミシェル・オンフレ(Michel Onfray)は、現在のヨーロッパを席巻している環境 運動を批判している。彼はトゥンベリを次のように評している: ・人類の滅亡とポストヒューマン時代の開始を告げるシリコン人形のようである。 ・このサイボーグは、緑の資本主義によって推進される革命を口にしている。 ・16 歳の少女は、科学の名のもとに学校へ行くことを拒否している。そして哲学者ハンス・ヨナス が書きこんでくれていたソフトを無視している。 ・ヨナスは『責任原理』で大惨事を引き起こしたわけでもない啓蒙主義を終わらせようとし、今や 「恐れの発見術」しかないのだという。つまり自らに恐怖を抱かせるよう大げさに誇張し、ショ ックを与えなければならないという。それは思慮深く考えることや議論することと真逆である。 ・大人に講義をたれる子供。大人は怒ることなく、むしろそれを喜んでいる [...] これは疑いなく立 ち止まって考えなければならないことだ。私たちはニヒリズムの最上段へと駆け上がっていこ うとしている…。3 厳しい表現で批判を行っているが、これらの文章にあらわれる用語からも読み取れるように、批判対 象はスウェーデンの少女そのものというよりも、彼女をきっかけとした現代にまで至るヨーロッパの 歴史をめぐる哲学的批判であるともいえる。彼は「ポストヒューマン時代」「サイボーグ」や「緑の資 本主義」といった語を挙げながら、「革命」という言葉につなげている。そして、現代において世間の 耳目を集めるポストヒューマン時代やサイボーグといった議論が、人類の滅亡という革命を推し進め ていると皮肉をいう。そして批判の矛先は、ヨナスへと向けられる。彼が、『責任原理』において「恐 れの発見術」というものを持ち出し、その理性の限界を超えた原理を立てることで、理性的に考える という啓蒙主義に対して革命を起こそうとしているとオンフレはいう。内容のいかんにかかわらず、 否定的で警告的なことを声高に叫ぶ人が、肯定的で楽天的なことをいう人よりももてはやされる。楽 天主義者の主張の方が合理的であろうとも、自戒に満ちた警告を発する人の方が信頼を得やすく、さ らにショッキングなことを言って危機をあおる人はより耳目を集めやすい。オンフレは、ヨナスの議

3 Cf. https://michelonfray.com/interventions-hebdomadaires/greta-la-science(2020 年 1 月 31 日)

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論をそのように評価し、そこにニヒリズムを感じ取っている。 これまで啓蒙主義を超克しようとする試みは、何度も繰り返されてきたが、その試みは―ロマン主 義やポストモダンを見ても―何度も跳ね返されてきた。ヨナスが「恐れの発見術」4を持ち出し、再び 啓蒙主義に挑戦しようとするのは、もはやニヒリズムに他ないとオンフレに思われている。彼は、こ のニヒリズムという語に、ニーチェが指摘するような道徳的な「転倒」を含意させている。ニーチェ は、『善悪の彼岸』で君主の道徳と奴隷の道徳の二種類の道徳を挙げている5。君主道徳は、階級組織 的であり、物ごとを「優か劣か」という物差しで測る。それに対して奴隷の道徳は、ルサンチマンに 根ざし「善か悪か」で物事を判断する。奴隷道徳は、権力者に対する「不信」でもって規定されてい る。ニーチェは、この二つの道徳が転倒し、奴隷の道徳が第一のものとして捉えられる状態を「退廃」 であるとみている。彼は、世界の真の姿が「力への意志」であるはずなのに、奴隷が主とされている ことにニヒリズムを感じ取っている。ニーチェにおいて「力への意志」を通じた転倒が語られている。 君主や奴隷という言い方と転倒という見方には、フランス革命以来の伝統的な哲学の歴史分析が込 められている。ヘーゲルは『精神現象学』において、フランス革命を背景に、自己意識の運動として 主人と奴隷の弁証法を論じている6。主人とは自分自身のためにある存在であり、奴隷とは他の誰か のためにある存在のことである。それゆえ、主人が奴隷を虐げているというのが一般的な理解の構図 なのだが、ヘーゲルは逆に奴隷に依存する主人を描いている。つまり、主人が主人であるためには、 奴隷によって承認される必要がある。自分が主人だと自認するだけでは、いかなる主従関係も構成で きない。奴隷によってその人が主人であると承認されることによって初めて、主人になることができ る。主人は奴隷に依存している。奴隷の上に立っていたかと思うと、実は奴隷に隷属していた。奴隷 は主人のことであり、主人とは奴隷のことである。両者は同一のことであり、弁証法的に運動をして いるだけである。 4 オンフレは、近年の環境運動をフランス革命の変種であり、啓蒙主義と恐れの転倒であるとみてい る。ヘーゲルが主人と奴隷の関係を弁証法的運動であると述べたように、転倒とは運動の一種である。 ヘーゲルがちょうど、主人と奴隷の弁証法を論じた『精神現象学』を書き終えたころ、彼は馬上のナ ポレオンを見て「世界精神」と呼んだといわれている。この革命の先導者は、後に自国や他国の民に 追い詰められ、島流しにあう。いわば自分の奴隷に引きずり降ろされ、自らも奴隷になる。しかし、 中心を失った運動そのものは、それでも霧散することなく、台風のように発達し続ける。つまり、主 人の奴隷に対する依存が明らかにされた後、主人は奴隷になりはてるが、奴隷が主人になることはな

4 Jonas, Hans, Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt

a. M. 1979, S. 63.

5 Vgl. Nietzsche, Friedrich: Sämtliche Werke, Kritische Studienausgabe, hrsg. v. G. Colli und M. Montinari,

Deutscher Taschenbuch Verlag de Gruyter, Bd. 5, Berlin/New York, 1988, Abschn. 260.

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東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.14 く、奴隷はその姿を変えない。あるいは、奴隷全員が主人となったともいえるが、それらはもはや奴 隷とも主人とも呼べるものではない。運動は中心を欠いたまま、そこには純粋な運動とも蠢きとも呼 べるものだけが残るのである。環境運動も、スウェーデンの少女は、中心にいながらもそれ自体は運 動から切り離されうる。運動そのものにとって中心となる人物は、部分と全体という関係性を有して いない。つまり少女は、環境保護運動のいわゆる象徴ではありえない。両者は、いわば鏡の前だけで 一致しているかのように見えるだけの別個の世界にあるものである。それゆえ、オンフレは特定の人 物だけではなく、その背景にある運動全体を批判の対象としている。 環境運動を考察する中で、次第に明らかになってくるのは、こうした「転倒」と「分断」である。 オンフレの批判は、環境運動の中の「科学」と「恐れ」を主題としている。そして、それらが転倒し、 分断されようとしていることを指摘している。これは、科学と倫理、あるいは理論哲学と実践哲学、 真と善の問題を指している。それら両者の、接点はどこに求められるのか、そもそもどのような関係 性を有しているのかは、伝統的な哲学の問題である。オンフレの記述からは、倫理に対する科学の優 越を説いているのか、真と善の調和を説いているのかは、明確でない。しかしながら、環境問題は、 ことの性質上、理論的哲学であり実践的哲学であるほかない。環境に関する諸問題は、倫理的に解答 が与えられても、科学技術的課題は消えない。また、科学技術的に解決されても倫理的問題は消えな い。両者は、互いに深く関与しつつも独立して進行しており、それぞれに独自の解決策が模索されな ければならない。 環境問題は、それら両方の面を含んでいる。オンフレの本能的な、しかし哲学史的な拒否にみられ るように、環境問題に関する科学と倫理の関係性は、転倒や分離といったものであってはならない。 環境運動が進展するなか、そうした転倒や分断が時として起こるとしても、それでもって特徴づけら れるべきものではない。互いは、ある種の協働の中にあり、すれ違いながらも共に展開する。環境問 題において真と善は、互いにどちらか一方に吸収されるようなものではなく、重なる部分があったと しても、完全に同一化されることはない。あるいは、両者の一致は、永遠に引き延ばされ、そこに至 るまでの運動のみが目の前に広がるだけである。もし、オンフレがある種の調和を考えているのなら、 ヘーゲルからニーチェに至るような運動というより、シェリングの自然哲学的な図式に近くなる。シ ェリングは、まさにすれ違いの運動を論じていた。 5 実践的な領域の内部だけからも、近年の環境運動の特徴がいくつか見いだされる。特にビジネスと の協働においてそれが明瞭に表れてくる。若者が環境問題を訴え始めた当初、起業家などビジネス界 もこうした運動を援助しようと動き出していた。ここに世代間倫理だけではない、企業倫理に絡む問 題が浮上している。2018 年 8 月にトゥンベリがスウェーデン議会前ではじめて抗議活動をしてから、 彼女は瞬く間に有名になるのだが、その最初期から彼女を取り上げていたのが、環境問題を扱うスタ

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(Ingmar Rentzhog)だった。彼がフェイスブックなどでストライキをする少女を取り上げたことで、 それが大きな反響を生み、彼女が一挙に有名になる。それゆえレンツホクは、トゥンベリの発見者だ といわれていたりもする。 彼は、当時まだ国際的にはそれほど有名でなかったトゥンベリを自身のスタートアップにユース・ アドバイザーとして迎え入れている。起業家のレンツホクの考えでは、短期間で世界を変えようとす るならば、まず最適なプラットフォームを作り、その基盤の上に様々なものを自由に広げられるよう にすればいいということだった。そのためには、寄付を待っているのではなく、組織の成長に応じて 収益を自動的に生み出す仕組みを作らなければならない。組織が成長していることは、会社の価値が 向上していることと同じであるから、投資も増え、それがまた組織の成長へと循環していく。そうし た仕組みを欠いているから、多くのNPO や社会運動は、広がりとスピードを手にすることができな いのだと考えている7。このレンツホクの考えは、ビジネスの側からすると極めて合理的であり、早 急に環境問題を解決したいという理念の実現からも企業の倫理としても正当であるといえる。 しかし、ほどなくしてレンツホクのプロジェクトは、批判にさらされてしまう。メディアから、名 声高まる少女の名前を使って、たんに金儲けをしているのではないかと批判されてしまうのである。 トゥンベリ側からも、NPO のアドバイザーの就任は了承したが、投資を募るようなビジネスとして は承知していないといわれてしまう。NPO「私たちには時間がない」財団の一部門に、スタートアッ プビジネスの「私たちには時間がない」がある。レンツホクによれば、このスタートアップはビジネ スとNPO のハイブリッド組織であり、社会貢献企業である。そうすることで、環境問題に寄与しよ うというヴィジョンを、ビジネスの規模とスピードでもって早期に実現しようとする試みだった。レ ンツホクの言い分によると、投資家などの支援者への透明性を確保するために事業計画書にはトゥン ベリの名前を挙げなければならなかったという。しかし、その事業計画のことをトゥンベリ側にしっ かり伝えていなかったことを認め、謝罪することになった。 こうした行き違いの原因になったものを、レンツホクは、トゥンベリがあまりに有名になり過ぎた ことにあるとみている。もし、彼女がたまに地元の新聞に取り上げられるだけの熱心な学生のままで あったなら、設立間もない小さなスタートアップのアドバイザーに就任することは大きな問題となら なかったであろう。しかし、この少女が一挙に世界で最も有名な環境活動家として各国のメディアに 取り上げられ、「未来のための金曜日」など巨大組織もつくられ、一部からは神聖視されるような存 在になったとき、お金というイメージが付きまとうのが許されなくなったのではないかということで ある。トゥンベリをはじめとする10 代の学生活動家の大きな特徴は、「草の根運動」と「純粋さ」で ある。そこに、投資を集めるビジネスが絡んできては、矛盾したイメージになってしまう。 トゥンベリは、自分の背後にPR 企業のようなものはないと弁明し、お金のためにやっているので はないと明確にしている(レンツホクのスタートアップからアドバイザー料など一切受け取っていな

7 Cf. https://medium.com/wedonthavetime/a-letter-from-the-ceo-and-chairwoman-we-dont-have-time-to-wait-fadfd50f3cb1(2020 年 1 月 31 日)

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東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.14 い)。彼女によると、レンツホクが来る前にもすでに自分で発信したツイッターなどで大きな反響が あり、マスコミなどが来ていたという。そんな中、起業家のレンツホクがいて、短い間アドバイザー として籍を置いていただけだと述べている。 両者は、同じ方向を向き、同じ目的をもっていたが、それを達成する方法が異なっていた。レンツ ホクは、目的のために「最短」の方法を合理的に選択すればいいと考えていたが、トゥンベリ側は、 目的も方法も「純粋」でなければならなかった。前者は、早く目的を達成するため、広告や投資など 手段を多様化させる。しかし、後者は清廉さを強調するため、手段を厳しく限定する。どちらも倫理 的であるといえ、一方が他方より良いとは本来いえない。しかし、同じ理想を掲げていても、純粋さ の倫理性は、常に運動の最初期に示されるが、企業側の目的の達成による倫理性は、常に最後の段階 になってのみ実現されることから、中間期に判断が下されると、必ず企業側が批判の的になる。環境 運動に関する倫理は、カント的な「善意志の純粋さ」が必ず優位となる。ビジネスと社会営利活動と の反発と乖離は、そうした「方法」や「手順」といった運動性の違いを巡って起こってしまう。 6 環境倫理において、ビジネスと社会貢献は、究極的に反発しあう。両者は、乖離しないようにすれ 違い続けることこそできるが、一致することはできない。倫理をめぐる環境運動は、その内部におい ても反発しあう関係があり、科学に関するものには、転倒する関係がある。それぞれに、主と奴隷を めぐる力への意志や弁証法といった相克的な運動がある。もし、そうしたことを運動の当事者たちが 知らないとすると、環境運動は、内容が空虚となってしまい、単なる喧噪であるといわれてしまう。 環境倫理は、知ることと密接に結びついた運動である。この異なる二つの原理を持った運動は、軋轢 を生みやすく、解消しやすい。環境問題が、全員参加型で永続的な運動を要求しているのならば、こ の環境のための運動そのものが維持されなければならず、その持続可能性がまず精査されなければな らない。環境運動に関する二つの原理は、いまだ解決されていない課題を含んでいるが、まさにそれ ゆえにそこから新しい質を伴った何かが誕生しようとしているように見える。 <参考文献> ミシェル・オンフレ、マクシミリアン・ル・ロワ『ニーチェ―自由を求めた生涯』(國分功一郎訳、 ちくま学芸文庫、2012 年) イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2012 年) フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2009 年) フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2009 年) G.W.F. ヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦訳、ちくま学芸文庫、上下巻、2018 年) ハンス・ヨナス『責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武訳、東信堂、 2010 年)

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