宮崎滔天の「支那革命」の思想
著者
針生 清人
著者別名
HARIU Kiyoto
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
1978
ページ
13-30
発行年
1978
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010258/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja宮
崎
活
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﹁支那革命﹂
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ま [こ じ め 中園最初の政党ともいうべき﹁中国革命同盟会﹂の結成(一九O
玉、明 治三八年)に関与して以来、孫文、黄興、宋教仁等に対して物心両面での 援助をおしまず、辛亥革命に同志として参加した潜天宮崎虎蔵(明治三年l
大正十一年)の生涯は文字通り中国革命に全てを捧げたといい得る。中 国革命に関わった所謂支那浪人の中で、治天の支那革命論は最も純粋であ った。その私心なき活動は、孫文、黄興、その他支那留学生をはじめ多く の支那革命党員に最も愛され信頼されたところであるが、政党軍閥の対中 国強硬政策が進行し、日中関係が硬直する中で、換言すれば、日本の被圧 抑的立場から圧抑的立場への変佑につれて、治天の日本における役割も次 第に無視されるにいたったが、その様な閉塞的状況の中で、治天は真の日 中友好の関係を確立すベく、政党軍閥、またそれに便乗する支那浪人を批 判し続けたのである。日本の政治状況が中国に対して分割主義的になるに つれて、酒天は﹁何故支那人となって支部革命に嘗らなかったか﹂と後に 悔みながら、支那革命、日中関係を純粋に考え続けたのである。 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 田 川 } 相 ん )針
清
人
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確かに、活天は支那に関わった様々な人と交流し、 ﹁玄洋社﹂の機関紙 ﹁九州日報﹂の記者をするなど、玄洋社 H 黒龍会に連なる点もあったが、 その代表としての硬石内田良平を﹁正しく園家的浪人の好模型﹂(︿- t
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・ ﹁浪人生活﹂)と評して自らと一線を画している。﹁園家的浪人﹂とは、﹁祖 閣の利害の矯めには入の園土を害し人民を虐するを敢てして忌障なき者に して一意専心只々祖閣の矯めと云ふより外に観念なき者即ち是れ﹂と規定 するところのものである。又、若き北一輝の天才肌を認めるものの、己惚 れ、功名、擢略に傾き過ぎる点を批判してその距離を明らかにしている( 口 同
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・﹁出鱈目日記﹂)。或は他方で酒天は問中正造、新人会とも関わ り、所謂支那浪人を超えるところがあった。 活天は﹁支那革命の事跡を系統的に研究したことはない﹂(円単﹁﹁支 那 革 命 物 語 ﹂ ) を述べており、書くところのものも生存者、又革命の進行 中、その他の理由で未だ公になし得ぬところを伏せているので、活天の支 那革命論を体系的に把握することは困難であるが、辛亥革命の実見談を様 々な新聞に掲載することを通じて、支那革命派の人物評、革命の意義、裏 話等を日本に紹介し、その革命の性格を最も多く明らかにしている。また宮 崎 沼 天 の 一 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 彼 の 主 著 と も い う べ き ﹁ 一 ニ 十 三 年 之 夢 ﹂ 、 孫文の略伝ともいうべき ﹁ 孫 逸 仙﹄は漢訳されて、革命家孫文の名を中国青年に刻銘するところ大であっ た 。 治天は自己の立場を次の様に規定している 。 ・
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・﹁三十三年之夢・自 序 ﹂ ) 。 川﹁人類同胞の義﹂、﹁世界一家の説を奉じ﹂、﹁弱肉強食の現欣を忌﹂み ﹁現今の園家的競争を憎﹂むところから﹁世界草命者を以って自ら任﹂じ た 。 ご言にして吾徒の宗旨を告白すれば、人類同胞主義也。寓邦平和主 義 也 ﹂ ( 口 ・ 。 N u -﹁ 渇 上 評 論 ﹂ ) と い う 。 同不平等のままにある﹁多数細民の肢態を一愛﹂せねばならぬと考える の で 、 ﹁是に於て余は又吐曾主義者﹂を自認する。また、 ﹁ 個 人 の 自 由 権 利を認﹂めるが故に、 ﹁財産平均の説﹂や﹁園家杜舎説﹂を採らぬ。 同しかし、土地は﹁人力の生出する所にあら﹂ざるもので少数者の専有 すべきものではないので﹁地権の快復﹂を行ない﹁細民の窮境﹂を一変し ょうとするものである。 凶だが、それを実現するには、 ﹁言論畢寛世に効なし唯腕力の穫に頼る 一 法 の み ﹂ で あ り 、 ﹁進んで人道を宇内に敷くに於ても、或は退いて人権 を擁護するに就ても、その敦よりするも腕力の基礎の切要にして且急務な るを認め﹂、革命は﹁銃千挺もあれば津山なり﹂という。 同 ﹁ 腕 力 の 権 ﹂ H 暴力革命論は、﹁革命は算盤的のものに非ず﹂﹁要は一 気珂成にある﹂もので﹁神風連的奉動﹂に依らねばならぬが、 ﹁ 想 ふ に 草 命 な る の も は 、 一園志士の力量によりて行はる﹂(口-S
∞ ・ ﹁ 渇 上 評 論 、 登 刊の鮮﹂)という前衛主義と重なっており、この前衛主義は最後まで残る。 四 そして、列強に気がねをし革命派に援助をなし得ぬ外交が存する聞は、日 中両国を結ぶのは民間の志士でしかない。 ﹁借越ながら吾等のような連鎖 も 必 要 ﹂(
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-G N 。 ・ ﹁ 財 界 撹 乱 の 妄 を 舞 ず ﹂ ) と い う と こ ろ で あ る 。 同また﹁腕力の権﹂は、我国に於いて実践するのは夢想にすぎぬので、 ﹁革命の機の迫れる﹂、﹁人多く地震﹂い﹁支那を選んで以て腕力の根披地﹂ となし、自ら革命に従事するか﹁然らざれば同主義者をして之に代らし め﹂て、志望を遂行しようとする。治天は支那革命家を以って任守するので あるが、この腕力主義は後にはなくなった。 治天の支那革命の志は明治二四年二O
才の時に抱き、実践に入ったのは 孫文と出会った明治三十年二六才の時以来である。以来、治天は、孫文の ﹁騒尾に付して経策﹂するに至るのである。 間しかし酒天は支那革命を超えて、 目 を 世 界 に 向 け 、 革命の到着点は ﹁ 四 海 兄 弟 、 自 然 自 由 の 境 部 是 の み ﹂ ( 口 ・ 0 H A H -﹁ 革 命 問 答 ﹂ ) だ と い う が 、 無政府主義、社会主義、共産主義の何れでもなく、 ﹁ミルの自由之理を支 那に賓行せんと欲するのみ﹂ ( H -H 8 ・)だといい、遂に明治初期の自由民権 論を超えなかった。 こ の よ う な 、 活 天 の 思 想 の 径 路 を 知 る に は 、 ﹁治天が生れた家の停統的精 神と治天が父母の訓育方針とを注視する必要がある﹂(︿・九日誌・﹁宮崎浩 天﹂)と実の甥築地宜雄が述べているところである。E
酒天の思想形成 ﹁今吃一の吾等兄弟と云ふものは、自由民権の家庭に生れ、自由民権の教育 を受け、自由民権主義を以て生涯を貫くと云ふのが吾等の畳悟であった﹂(H-N8 ・﹁支那草命物語﹄)と自らも述べている様に、治天の思想形成に大 きな影響を与えたのは、家庭、特に兄弟の自由民権の思想であり、生涯を貫 いた。今必要な限りで、その影響したところを要約しておくことにする。 川父宮崎長蔵(文化十玉年
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明治十二年)についての記憶はコ蒙傑、大 終になること、金銭に淡白なれということ﹂であり、母サキ(天保十一年l
明治四一年)も又、 ﹁墨の上で死するを男子の恥一辱﹂と教える様な家庭 である。長蔵の遺した﹁家訓﹂(全集月報 3 ) ともいうべきものによれば、 知行を三分し﹁其一は近憐之宝賞者に施し﹂、﹁人之交りは、賓を以、厚薄 なく有度﹂ということを考え、子供には一通りの教育を与えたならば、各 々で生きるべきであり、家督はわざわざ養子を迎えて継がせてもいる。 同長兄八郎真郷(嘉永四年l
明治十年)は、治天にとって単に兄である という以上に郷党の英雄であり、治天の人格、思想形成に最も大きな影響 を与えた。八郎は明治三年東京に遊学し、尺振八の共立学舎、西周の育英 社、山東一郎の洋学塾に於いて英学、高国公法を学んだ。その頃、既に志 は 大 陸 に 向 っ て お り 、 ﹁寓事を放棄して直に大陸に踏度きものに候、島園 の事に至つては一も謂ふべきものなし 唯一日も速かに大陸の空気を呼吸 仕度きのみ﹂の書簡を残している(曽根俊虎あて、明六年、 H ・5
。 ・ ﹁ 三 十 三 年 之 夢 ﹂ ) 。 明治七年﹁台湾征討﹂に参加。帰国後、﹁民選議院設立建白書﹂を書き、 それに前後してフランス帰りの中江兆民と交り、兆民訳﹁ルソi
民 約 論 ﹂ を愛読。八年には﹁植木学校﹂を設立し熊本民権党の中心となった。官権の 弾圧により閉鎖後は、集思社に拠り自由民権論と征韓論とを主張点とする ﹁評論新開﹂﹁近事評論﹄﹁湖南新聞﹂において政府を批判し続けた。明治 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 十年西南の役には、熊本民権党を結集して﹁熊本協同隊﹂を結成し薩軍に 合流し戦死した。八郎の大陸への志はどの様なところにあったかは定かで は な い が 、 ﹁協同隊奉兵の趣旨﹂に﹁内ハ千歳不抜ノ闘檀ヲ確立シ、外ハ 高園封峠ノ権利ヲ快復シ、全園人民ト共ニ長成ノ幸福ヲ保タント欲ス﹂ ( 同 ︿- H
5
・)とあり、また、西南の役が起った時、友人中江兆民が東京より かけつけ﹁西郷は自由民権主義にあらず﹂とその本意を問うた折、﹁西郷に 天下取らせて復た謀反するも快ならずや﹂ 本協同隊﹂)。このことから、自由民権に依る再革命を期待していたとも考 と答えたというQ
︿- H
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・ ﹁ 熊 えられる。村人に兄八郎の如くなれと煽られて育ったという治天は、この こ と に 関 し て 、 ﹁熊本協同隊﹂を﹁民権保全・園穣讃張﹂において捉え、 ﹁協同隊は平素民心の卑屈を歎じ、人の穣利義務を説き、頗る圏家を以つ て己が任とす。故に人呼んで民権黛と云ふ﹂(同︿ -H H N ・ ) と そ の 性 格 を 述 べ て い る 。 同このような兄を有する家庭で育った治天は﹁余や先天的自由民権家な り、唯自由民穫を善き事と思ひ、大将豪傑と賊軍謀反とは、自由民権と離 るべからざるものを知るのみ﹂であって、中学に入っても、官吏を﹁自由 民穣の首の敵﹂﹁泥棒なり悪人なり﹂Q
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と 思 い 定 め て 、 ﹁ 志 望 目 的 は 官吏﹂とする同窓生と相容れる所がなく、詑麻原に於いて自'由民権を鼓吹 していた蘇峰徳富猪一郎の大江義塾に入るが、塾生の﹁演説文章の修練﹂ にのみ終始するのを見て、上京する。 凶上京し早稲田専門学校に在学中、 キリスト教に魅かれ、旧師徳富猪一 郎の紹介で小崎弘道(番町教会)により受洗する。自由主義の﹁組合派﹂ を選んだのも﹁教会政治の共和的にして、信仰候目の自由﹂に依ってであ 一 五宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 り ﹁これ一たび放機したる自由民権主義の比廃に復活せるものか、余は 到底自由民権と分離する能はざる﹂ Q ・
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﹀といい、﹁矢張り自由民権は僕 の 天 性 と 見 え る ﹂ Q ︿- N
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・﹁浪人界の快男児宮崎浩天君夢物語﹂) という と こ ろ で あ る 。 その後一時長崎に出で(明治一二年十七才﹀、 カブリ校( n
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山口伊門司) に 入 学 し た 折 、 転会のすすめに遂に応じなかったのも﹁組合派の 教会政治を離る与は、自由民穫を棄つる所以なりと思惟せるが故﹂であっ て、酒天のキリスト教はあく迄も自由主義という語に魅かれるものであっ た 。 同兄および母にキリスト教入信をす与めたほどの治天が教会を離れるに 至 っ た の は 、 ﹁ 西 洋 乞 食 皇 ﹂ イ サ ク ・ ア ブ ラ ハ ム ( 岡 田 回 目 円 切g
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とのものは、﹁一種の凡(
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・ ﹁ 亡 友 録 ﹂ ) と の 出 会 い に よ っ て で あ る 。 神説を把持する極端の自然主義者﹂ Q ・ ぉ ・ 同 ︿ ・83
で あ り 、 ﹁ 現 今 の 文 明 な る も の を 憎 悪 ﹂ し、﹁現社舎を破壊し蓋して無政府の世界となし、 人 民 箇々の私有権を奪ふて共有とな﹂すことを語るアブラハムから学んだの は、欧米人の﹁基督教なるものと、基督自身の基督教なるものとは全然別 種 の 者 ﹂ ( 口 ・ 巴 品 ) と い う こ と 、 ま た ﹁敵米貧民の肢態・文明に随伴する 貧富隔絶の弊毒﹂であり、 ﹁余が家庭に受けて基督教に依って培養せられ た る 自 由 民 権 論 を 、 一層虞潤切買ならしめたる事﹂であった。更に、 ア ブ ラハムは日本、が既に﹁文明の病毒﹂におかされているといい、文明に汚れ ぬ﹁支那﹂を幾度か夢見ていることを聞いたのである Q ︿-g
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。 治天は このものに依って﹁基督教的迷信・基督教的迷想﹂ Q ・ 島 ・ HJ1 ・N 。 。 ・ ﹁ 浪 人 界 の 快 男 児 ﹂ ) より遠去かるのである。 このアブラハムの影響は酒天にと 一 六 って大きく、﹁西洋文明は、今や自己の文明の力を以て自己の文明を壊はし つつある﹂こと、我が日本も﹁既に柳か西洋文明にカブレ過ぎ﹂たこと、 ﹁ 支 那 は 殆 ん ど 無 垢 に 近 ﹂ い こ と ( 同 ︿ ・ 白 川 y ﹁ 久 方 ぶ り の 記 ﹄ ﹀ 、 こ れ ら の 意見を最後まで持ち続けるのである。 同生存せる内の長兄巡耕宮崎民蔵(慶応元年 l 昭 和 三 年 ﹀ にとって、 ﹁宗教の安心﹂﹁慈善的救助﹂は賓境を慰めるものであるにしても、それは ﹁ 完 全 な る 方 法 ﹂ で は な く 、 ﹁道義の切買にして一時の姑息手段﹂にすぎ なかった。民蔵にあっては、 ﹁人権の大本に湖って之が快復を策﹂するこ とが全てであるが、それは土地問題に要約された(戸島)。土地は ﹁ 天 の 人類に供せる共同物件なり、人之を耕作して利を収むるの模ありと雄も、 専有して以て私欲を張るの要具となすべき権あるなし﹂。土地のこの様な 性質とそれに対する人間の権利の問題については未だ﹁正富合理の解稗﹂ が与えられていないが、それがもし与えられるとしたならば﹁天下賓民の 状態を一愛する﹂だけでなく、 ﹁現社舎の根底を革むるを得て、民の平和 幸福始めて庶幾﹂し得るといえる。このため﹁地権快復﹂﹁土地公有主義﹂ を唱え、これを広く内外に於いて唱道したのである。民蔵の﹁土地復権主 義は、敵米を漫遊して車税主義者に聴き、無政府主義者に聴き、共産主義 者に聴きて且つ愛守する﹂ことがなかったQ
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∞ ・ ﹁ 績 三 十 三 年 之 夢 ﹂ ﹀ と い ぅ。活天はこの民蔵から﹁欧米社舎主義の主張と其運動方法の一斑﹂を学 び﹁賓てう印象を刻銘﹂したのである。治天、が民蔵から受けついだこと は、活天晩年の思想の骨子となる。即ち、 ご種の永代奴隷﹂の地位に置 かれている﹁下級農民﹂ ﹁細民の境遇を改善せざれば、我園決して安園品 と 言 ふ 可 か ら ず ﹂ (HH ・s
・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ 。 HHH ・8
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・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) 、 ﹁ 土 地 問題にして徹底的に解決さるれば、爾能の社舎問題は刃を迎へて解けんの み ﹂ ( 口 同 ・ ω 巴 ) と い い 、 地主
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小作人の奴隷的関係を否定し、 ﹁ 理 想 的 自 治 社 人 管 ﹂ ﹁ 個 人 の 自 由 を 基 礎 と す る 第 二 天 園 ﹂ ( H H H -b c ) を生来させ様とす る。いうならば、自由な独立自営農民の確立を主張することになるのであ る 明治天はニ兄調蔵(慶応三年l
明治二九年) か ら ﹁ ﹁ 支 那 ﹂ てう一貼の 印象﹂を初めて得たQ
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)
。調蔵は酒天にとって ﹁ 闇 中 の 燈 明 ﹂ ﹁ 一 生 の 進路を指示する羅針盤﹂ Q -E ) と評され、﹁買に余が活動の源泉﹂、﹁余が 最初の同志として之を撰揮したる﹂ Q -N ω 吋 ・ ﹁ 績 三 十 三 年 之 夢 ﹄ ) と 常 に い わ れ て い る 様 に 、 ﹁ 支 那 革 命 の 洗 謹 を 受 け た ﹂ 実 に ( H N S ・ ﹁ 支 那 革 命 物 語﹄)のは、この二兄調蔵によってであった。 若き調蔵の考えたところは次の通りである。 ﹁世界の現欣は弱肉強食の 一修羅場﹂であり、﹁弱者の権利自由日に月に探踊君愛﹂されて、﹁黄入賂 に長く白人の匪抑する廃﹂となる(参照、同︿ -M 。 。 ・ ﹁ 浪 人 界 の 快 男 児 ﹄ ) で あろうし、﹁人権、自由を尊ぶ者はこれの快復をはかるならば弊政一掃し、 以て黄人の擢利を依復﹂することができ、 ﹁ 道 を 高 邦 に 布 く ﹂ ことが可能 である。それは﹁懸って支那の興亡盛衰如何﹂に関わっている。この為、 調蔵は横浜の支那商館に勤め ﹁ 労 働 の 傍 ら 英 、 悌 清三園の語を修め﹂ (門誌)、その準備をはかるとともに、支那革命派との接触をはかつていた が、後に酒天が孫文に出会う機会を与えた陳白の名を、治天に残して病死し た 。 治天はこのニ兄に依って支那草命に志を抱くに至るのである。 即 ち 、 ﹁支那、印度、遅羅、安南、非律賓、挨及﹂を振起し、人権を快復し﹁宇 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 宙に新紀元を建立するの方策﹂ Q -g ) をもとめたのである。 しかし治天にとって、何故に﹁支那革命﹂でなければならぬのか、につ いては、後年微妙に変化するが、次の様な理由に依ってであった。それは 当初、世界の大勢と支那の現欣から、支那革命の必然を確信し、 ﹁ 祖 園 を して方向を誤ることなからしめんとの微意﹂によって、 ﹁ 彼 我 の 連 鎖 と な りて、祖園をして列強の聞に立後れしめず、以て積極的永久的基礎の上に、 東 亜 の 平 和 を 確 立 ﹂ ( 口 ・8
品 ﹁ 財 界 擾 乱 の 妄 を 簿 、 ず ﹂ 明治四三年) ずると いうもので前衛主義に立つものであった。そこでは、列強に伍さねばなら ぬ日本ということがやはり重要な意味を有する考えであるといえる。 しかしこれに対して、後には、 ﹁併し、私は、日本が如何に豪くなって も、辿も玉世界を動かす力はないものだと断定すると同時に支那をして理 想的園家ならしむる事が出来たらば、その力を以って宇内に競令して高邦 を道化するに見るとの断定の下に一身を委ねた﹂ Q H H -N 島 ・ ﹁ 矩 健 の 中 よ り﹂大正八年)というように、国際的環境における日本の限界が語られて 、 ・ ﹀ 。 ) ν v u d ' h︿ 以上治天の思想形成にとって、白からが影響を受けたと称するところの ものを見ると、当初から治天の支那革命論の根底には、自由民権論、世界 同胞主義にもとづく世界革命論というユl
トピーが語られていると云え、 そ の 限 り で 、 ﹁支那﹂は世界革命の起点という﹁場﹂の意味が強い。その ﹁場﹂としての支那に関わった限りで治天は﹁支那浪人﹂という大きな範 醸の中に入れられて来たが、支那を直接の目的とせぬため、支那革命党の 人達には﹁私心なき者﹂と見られたし、支那革命だけでなく比律賓独立に も自由に関わり得たのである。しかし、その反面、国家主義的な思想、運 七宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 動から大きく離れていたのであり、直接に日本の社会草命を意図した平民 社等の社会主義に立つ人達からも離れていたのである。 治天が初めて大陸に渡ったとき(明治二四年)、 旅 費 に 事 欠 き 、 荒尾精 の主宰する﹁日清貿易研究所﹂を紹介されたが、これについては、 ﹁ 荒 尾 精君及び其一派の人々を目して支那占領主義者の一固なりとなし、異主義 の 集 圏 な り ﹂ Q -E ) 、 ﹁ 到 底 吾 等 と 相 容 れ ぬ ﹂ ( H N S ・ ﹁ 支 那 革 命 物 語 ﹂ ) 、 ﹁占領主義は人道に房るのみならず、永遠の平和を維持する所以の道でな い ﹂ Q ︿ -N ∞ N ・ ﹁ 金 玉 均 先 生 を 懐 ふ ﹂ ) 一貫して厳しく自他の主義の相 と 違を指摘している。治天にとって、最後迄、占領主義は承認し得るもので はなく、次第に日本の対支政策が﹁匪抑的﹂となるとき、政府、軍部に対 する強硬な批判が展開されるところである。 E 支那革命の実践 )
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( 実践のための準備 支那革命の志を抱いてはいたものの、その方策もないままに過ぎていた 活天が、初めて支那革命の志を他に油らし相談したのは、亡命中の朝鮮の 志士金玉均であった。明治二四年頃、友人田尻一喜が居候をしていた金玉 均宅を訪れ、金に﹁朝鮮問題や東亜問題や人物評論を拝聴﹂ Q ︿ ・ 混 同 ・ ﹁ 金 玉 均 先 生 を 懐 ふ ﹄ ) し て い た が 、 二兄調蔵との語らいの中で、 支 那 革 命 へ の志を固くした治天は調蔵と相談の結果、 ﹁支那問題を解決して東亜の基 礎を立て様と云ふ抱負を一身に背負って﹂ Q ・8
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﹁ 支 那 革 命 物 語 ﹂ ) 、 旧 知 の金玉均を訪れたのである(明治二七年初春)。﹁支那に入って支那人にな り す ま し 、 一大革命を行ふて興園の気運を煽り、祖園なる日本と根本的同 ;i. 盟を結んで興亜の基礎を固め、人道を口にして亜洲人を奴隷視する白人に 一泡吹かせたい﹂旨を述べて援助を求めたところ、 ﹁支那は東亜運命の係 る槙子たるのみならず、恐らくは全世界の運命の繋る﹂ところと考えてい た金玉均の賛同を得て、 ﹁共に支那永住の策を建てん﹂の返事を得たが、 金玉均はその直後、中国にわたり洪鐘宇に暗殺され、この計画は挫折した。 これに依って道の閉ざされた治天兄弟は、新たに前途の方針三僚を建 て中国に渡る計画を練った。その一は後援者を求めその義気に訴えて直ち に中国に入ること。その二は、先ず﹁支那語学を専修﹂した後、 シ ヤ ム その三は華僑の多い遅羅に渡り、 ﹁ 支 那 内 地 に 進 入 す る ﹂ 。 ﹁支那人の言語・風俗 に習俗した後、機を見て支那本土に進入する﹂というものであった。 宮崎兄弟は結果的には、この三策の全てを試みる事になる。即ち調蔵は 金玉均の友人南岬渡辺元の援助で、家族にその目的を秘したまま、横浜の 支那商館に住み込み、支那革命派の人との出会いに備え、後に陳白を知る に至ったが、途中で病死した。同時に治天は進羅に至り、植民事業に従事 し機会を待ったのである。 明治三十年、犬養木堂の尽力で、外務省と関係して、支那秘密結社の実 情を視察する計画が立てられる Q ・5
∞ ・ ﹁ 三 十 三 年 之 夢 ﹄ 。 目 白 。 ・ ﹁ 支 那 革 命物語﹂では﹁支部青年黛興中舎と稿する孫逸仙一派の新式革命窯の調 査﹂)。横浜在住の興中舎の陳自の紹介で香港の興中舎と接触し、孫文の日 本亡命を知り、横浜の陳自宅で孫逸仙と初めて出会うのである。 その時治天の聞いた孫逸仙の支那革命の主旨とその方法手段は﹁支那蒼生の矯め、亜洲黄種の角め、又世界人道の矯め﹂ Q ・ 戸 。 ) 、 ﹁ 自 ら 進 ん で 草 命 の 先 駆 と な り 、 ﹁西勢東漸の風潮に封抗して 以て時勢の要求に臆﹂じ、 世界人道の不平等の矯正﹂(円
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・ ﹁ 支 那 草 命 物 語 ﹄ ﹀ を 目 的 と し 、 ﹁ 政 治 の 精神に於て共和主義﹂をとるというものであった。 従来、支那に於ける愛国運動は所謂﹁滅清扶漢﹂などのスローガンに見 られる様に、漢満両民族の民族対立を根底にし、各地に分裂しているのが 実情であったが、孫の﹁共和主義﹂はそれを超える新しい視点であり、自 由民権と世界同胞主義を基調としてとる治天と互に共感し合う所があり、 治天は生握、孫文の革命運動を支援し続けることになった。それは治天の 支那革命の実践の始まりであると同時に、支那革命そのものの開始でもあ っ た 。 (2) 治天の功績 活天の支那革命の関わりのなかで最も評価されねばならぬのは、分散孤 立していた様々な革命思想・運動を大同団結させるべく努力をし、それを 軌道にのせたことにあるといえよう。 その第一は、孫逸仙と康有潟とを結合させようとしたことである。治天 は、私塾高木草堂を主宰し、 ﹁饗法自彊の計謀﹂を立て L 改革派を代表し ていた康有負を高く評価Q
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・ ﹁ 清 園 革 命 軍 談 ﹂ ﹀ し 、 ﹁ 要 之 官 時 の 康 有 策は賓に支那思想界の革命王として恥しからぬ人物﹂、﹁余が所謂ルl
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の名を辱かしめぬ人物﹂(︿- M
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﹁東京だより﹂)とまで考えており、その 失脚後は、康の子弟を保護し、康自身を日本に伴ない、高弟の梁啓超と再 会させたりしている。治天は﹁嘗時余の康君を見る甚だ重く、其同志中亦 多少の英傑あるを思へり、故に此機を利用して孫黛と結ばしめん﹂ Q ・53
宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 としたが、その康は﹁皇帝ノ権力ヲ擁シ、其上ヲ頼ミ以テ所謂改革ナルモ ノヲ賓行セント企テ失敗﹂Q
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。 ・ ﹁ 孫 逸 仙 ﹂ ) し た の で あ っ た 。 その失敗 は、皇帝の実権のない事を知らずに上諭に頼むが、実権なき皇帝の上諭が 空文にすぎぬことに気づかなかったことにあると治天はいっている。結果 的には、孫・康両派の立場の相違から両派の結合は失敗したが、 そ れ は ﹁改革派﹂と﹁革命派﹂の路線を統一し得なかったということである。 治天の功の第二は、興漢会結成を成功させたことである。反清的性格の 壮士的諸団体の分裂の欣況を見て、治天は、畢永年、陳自らと香港におい ﹁三合、興中、寄老の三舎を合して一つとなし、孫君を推して統領と な さ ん ﹂ Q ・53
とすることをはかつて、﹁忠和堂興漢曾﹂ て 、 を 興 し 、 孫文 (当時、横浜に在った)を総会長とし、﹁綱領三則﹂を定めた(一八九九、 明 治 三 二 年 九 月 、 H ・53
。この興漢会の綱領については不詳であるが、孫 文を代表とした興中会の三則は﹁駆除韓虜、快復中華、創立合衆政府﹂で あり、興漢会を発展させて成った、﹁中園同盟会四綱領﹂(明治三八年八月) は﹁騒除韓虜、快復中華、創立民園、平均地権﹂(︿・83
であるので、そ の聞には大きな相違はなく、従って、興漢会三綱領は興中会のそれを踏襲 し た と 思 わ れ る 。 この興漢舎は、分裂していた古い形の反清運動を統一した最初の近代的 な革命的政党である。そしてそれに依って、当時進歩的な青年、学生のご く少数に知られていたにすぎぬ孫文が、中園革命の中心になったことを意 味し、またそれに依って、横浜に在った孫丈に﹁線曾長印章﹂を捧呈する ため、大会代表として陳白と共に横浜におもむいた酒天も、革命運動の中 心に位置して活動することになったことを意味しているのである。 九宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 義和団事件に端を発して、清国は北京出兵の列強八ヶ国に宣戦布告(明 治 三 三 年 六 月 二 一 日 ) 。 これに対して日本を主力とする連合軍は北京を総 攻 撃 ( 八 月 十 四 日 ) 、 西 太 后 、 それ以後、列強各国は 光緒帝は逃亡した。 在華権益の確保を露骨に一不すが、日本も今や中国に対して圧抑する側に位 置した。このような状況のなかで、活天はフイリッピン独立運動に武器援 助、孫文らの恵州起義(明治三三年十月八日)などに関係し、東奔西走し ていた。しかし一方では、 日本の中国に対する強圧的な政情に対応して、 中国に進出しようとする者は、内田良平を主幹に国粋主義的な﹁黒龍曾﹂ を発足(明治三四年二月)して行く。これに対して、泊天は﹁夫れ諸外園 の支那に珪むや、常に眼を表裏二面に着けて市して腕を陰陽雨様に揮ふ﹂ と列強の権謀術策を批判すると共に、 ﹁何ぞ目を割って列強裏面の所潟を 注 視 せ ざ る ﹂ Q ・
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と日支両国の同志に呼びかけるが、当然、この﹁列 強﹂の中には日本も含まれているのである。 このような状況の中でも酒天の支那革命に対する、従って支那に対する 態度は変らない。 ﹁人民が可愛と思ったら人民と情死するのである。闘家 が可愛と思ったら即園家と情死するのである。世界再民が憐れと思ったら 世 界 寓 民 と 情 死 す る の で あ る ﹂ ( 口 円 。 ・ ﹁ 濁 酌 放 言 ﹄ ) 。 ﹁ そ の 聞 に 軽 重 大 小 はないものだ。己に此至情がなくて園家の潟め人民の矯め東洋の潟めを云 々するのはウソだ。皆私心の殻頴だ﹂と、中国に権益を求めようとする者 たちを批判しながら、あくまでも治天は﹁僕は天理人道議だ﹂ ﹁ 己 を 愛 す る如く支那人を愛し又支那の園情を悲しむ﹂という。そこには治天の善悪 を超えた思想以前の情念を見ることができる。ここに至って、支部は酒天 にとって担国日本と同じ意味を持ち、 ﹁支那は僕の園だ、僕が神様に頂戴ニ
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した園だぞ﹂とさえ叫ぶのである。支那革命は治天にとって思想というよ りは、情念的というべきであろう。 支那草命の運動のことごとくは失敗して、孫文は欧州に逃れ、治天は極 貧 に あ え ぎ な が ら ﹁ 一 二 十 三 之 夢 ﹂ を 書 き 、 ﹁半生夢畳めて落花を懐ふ﹂と ﹁ 自 笑 自 弔 ﹂ す る の で あ る 。 明治三五年三月、酒天は芝愛宕下寄席八方亭に浪曲師桃中軒雲右衛門を た ず ね 入 門 し た 。 一つには、糊口をしのぐ為ということもあったであろう が、それは支那革命の目的を秘したまま﹁同憂の士を索めて園内各地方を 巡 行 ﹂ ( ︿- h
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・﹁宮崎浩天﹂)するためであったと後に甥築地宜雄に語った ように、その根底には支那革命の運動を民衆に語るという目的があり、そ の 頃 の 治 天 作 ﹁ 落 花 の 歌 ﹂ Q -N ω ω ) 、 ﹁ 四 民 平 等 無 我 自 由 、 高 圏 共 和 の 極 楽 を、斯世に作り建てなんと﹂を歌つての巡業であった。 治天の第三の功は、孫文と黄興を合同させたことである。明治三玉、六 年頃には在日支那留学生は約一万以上を数えたQ-N∞
N ) が 、 そ れ ら の 内 、 革命に志を有する﹁種々なる人物﹂が満天を訪れている。その中でもきわ 立って留学生に﹁革命の俸道をなし、其牛耳を執って﹂いたのが黄興であ る。黄興は長沙蜂起(明治三七年十月)に失敗した後、日本に亡命し、宋 教仁、劉挺一等と学生の聞に革命を鼓吹していたのである。 明治三八年七月パリから日本に帰った孫文と黄興との出会い(七月二八 日 ) は 、 ﹁ 革 命 運 動 に 封 し て 非 常 な る 愛 展 の 動 機 ﹂ Q -N 器 ・ ﹁ 清 園 革 命 軍 談 ﹂ ) となった。それが動機といわれる所以は、従来の壮士的な三会合同の古い 革命集団に対して、学生を中核とする新しい革命集団への再編をもたらした か ら で あ る 。 ﹁今日の新しい革命圏瞳を組織﹂ 円 μ ー コ 、 目 的 よ 下 一 黄 興 、 治天らは 。 ・ い お ω ) しようとして、内田良平宅(赤坂区槍町)で準備会を聞き、次い で 、 ﹁中園革命同盟舎﹂を結成(八月二十日)し、孫文を総理、黄興を庶 務幹事に選出した。 次いで中国同盟会は機関誌﹁民報﹂(主筆章畑麟) を発刊(明治三八年 十 一 月 二 六 日 ) 、 ま た 、 雲南革命党の雑誌﹁雲南﹂を発刊し、 それらの発 行所住祉を治天宅に置いたのである。この﹁民報﹂の活動を側面から援助 する目的で、治天は萱野長知らと﹁革命評論﹂を発刊(明治三九年九月)、 これの発行所も治天宅に置いた。 ﹁革命評論﹂の発刊の辞によれば、﹁社舎沈滞腐敗の要素を破壊して、清 新の新天地を開拓する。只是れ比の革命あるのみ﹂という。ここでいう ﹁此の革命﹂とは、﹁完全な平和﹂をもたらす﹁根底ある革命﹂だという。 そこでは支那革命はもはや単に支那一国の国内的問題としてではなく、列 強との関わりにおいて捉えられている。即ち、支那革命を世界革命史に正 しく位置づけ、支那革命は世界革命をその根底に有すると読み取るもので ある。明治時代における秀れた世界革命史観を比処に見ることができる。 それによれば、十八世紀前半の﹁思想界の革命﹂はその後半に至って ﹁僻闘の大革命を激成﹂し、その影響は﹁全欧を震掘し、以て政治革命の 一時代を劃﹂するに至った。これによって﹁政治的人類の権利﹂は発展し たが、同時に起る﹁自由競争﹂に依り﹁経済上の不平均・賓富の偏重﹂が 生 じ て 、 ﹁多数民人をして困頓の悲境に沈論せしむる﹂ようになった。こ のため﹁社舎主義者起りて、経済上の革命を叫破﹂するが、これが十九世 紀前半の予言者の芦である。しかし、この﹁諌言的叫聾﹂が事実に近づく 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 のは﹁所謂帝園主義に伴なう軍備披張﹂に他ならない。ロシア輩命は﹁政 治革命と社舎革命を一奉に遂行せんと欲する﹂ものであったが、今支那の 現 状 を 見 る と 、 ﹁新阜の勃興﹂があり﹁青年率生の海外遊亭となり、思想 の革命﹂を迎えているといえ、しかも﹁その主張の、露園草命黛と相一致﹂ するのを見ることができる、というのである。 以上に要約した﹁発刊の僻﹂は無署名で酒天の筆になるという確証はな いが、同三九年九月五日の﹁支那留事生について﹂ Q ︿
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に お い て 、 活天は大略同じ語句を用いているので、酒天の主張と見なし得るであろう。 それによれば、革命的留学生の二大主張は﹁共和政府の建設と、土地平均﹂ で あ り 、 ﹁彼等は政治的革命のみを以て満足する能はずして、社合百的革命 をも兼行せんと欲する﹂ものだと指摘している。更に、露園革命は﹁共和 政府の建設、土地平分のこ大綱領に一致せり。是れ正に支那革命黛の綱領 と一轍に出ずるもの﹂ ﹁彼等は賓に主義に於ける兄弟圏﹂ということがで きる。両国の﹁主義的同盟は是れより匹胎﹂し、﹁共和同盟﹂﹁社合目的革命 同盟﹂ともいうべきものとなりこれによって﹁人類同胞、四海一家の意義﹂ が起り﹁人種問題、市して帝園主義﹂は無意味となるであろうといってい る。それは﹁予が濁断的課一一言﹂とはいうものの確かな革命史観に裏づけら れての発言であるといえる。 また、﹁支那革命と列園﹄(明治三九年十月五日、ロ・83
において、治 天 は ﹁敵州一般に支那分割の聾が高﹂い事実から、 ﹁ 併 呑 主 帝国主義を 義﹂と規定している。この併呑主義は軍備拡張を伴ない、それは又金を伴 なう。この金を負担し戦争の犠牲となるのは﹁多数人民である。此多数人 民は他園を征服して果して何の得る庭あるか。只重税の外一物の収得も無宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 い﹂。この従順なる人民も、﹁社舎主義や無政府主義や世界同胞主義の見地 より種々の見解を着けて、此等多数人民と聯絡して﹂ ﹁ 現 社 舎 の 打 破 ﹂ に 立ち上っていると述べ、﹁園家帝園主義と、社舎革命、世界主義との決戦﹂ としての﹁世界革命の動機を惹起﹂すると、世界草命の必然性を述べるの である。この見方は、後のシベリア出兵と米騒動に関して、兵士として出 征する農民を考えるときにも一貫して変らない。 (3) 中国草命同盟会の主なる動き 明治四十(一九
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七 ) 年 、 虞 東 省 黄 山 間 ( 五 月 ) 、 七 女 湖 ( 六 月 ﹀ 、 欽 州 ・ 廉州(九月﹀、虞西省鎮南関(十一月)に蜂起。 明 治 四 ( 一 九O
八)年、雲南省河口蜂起(四月)。 明治四三(一九一O
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年、虞東新軍蜂起(一月)。在兆銘、 摂政王載浬 の 暗 殺 失 敗 ( 四 月 ) 。 明治四四(一九一一)年、黄興、両広総督衛門襲撃(黄花岡事件、 四 月 ) 。 武昌蜂起(十月十日、辛亥革命の始り、革命運動全土に拡大)。孫文、 京十七省代表会議で中華民国臨時大総統に選出さる(十二月二九日)。 明治四五(一九一二)年南京臨時政府樹立。孫文、臨時大総統に就任 (一月一日、中華民国元年)。宣統帝退位、実世凱に臨時共和政府組織の全 権を付与(二月十二日)。孫文、臨時大総統を辞任し、実世凱就任(三月)。 大 正 改 一 苅 ( 七 月 三 十 日 ) 。 宋 教 仁 ら 、 中国革命同盟会を改組し国民党を結 成。酒天、萱野長知入党。 大正二(一九一三)年、中国、 国会選挙で国民党勝利(二月)。虞東、 湖南、安徽、福建、四川の各省独立し討哀軍組織、第二革命始まる(七月)。 大正三(一九一四)年、孫文、東京で中華革命党結成ハ七月﹀。 大正四(一九一五)年、日本、 中国に一一一条の要求(一月)。上海に国 民 対 日 同 士 山 会 結 成 。 上海・漢口・広東に日貨排斥運動起る(二月)。衰世 凱 、 帝 位 に 就 く ( 十 二 月 ) 。 大正五(一九二ハ)年、黄興没。 大正八(一九一九)年、中華革命党、中国国民党に改組(十月)。 大正十三九一一一)年、孫丈、広東新政府を樹立、非常大総統に就任(玉 月五日)。上海で、中国共産党創立大会開催(七月一日)。 N 活天の日本現情認識とその批判 満 天 に と っ て 、 ﹁ 今 ノ 文 明 ハ 野 盤 的 文 明 ﹂ ( 門 局 品 ・ ﹁ 孫 逸 仙 ﹂ ) と い う 認 識 が全てである。それによれば、文明の進歩は必然的に﹁野聾力﹂をも﹁進 歩・援大﹂している。欧米はこの野蛮的文明によって﹁常ニ主動ノ姿勢ヲ 取リテ我ニ直﹂む帝国主義となっており、これを﹁防グコト能ワ、ザルモノ 南 ハ 巳 ニ 倒 レ ﹂ 、 ﹁ 東 方 ニ 員 呼 濁 立 園 ヲ 求 メ パ 、 惟 之 一 日 本 ﹂ で し か な い 。 ﹁常ニ受動ノ地位ニ立ツテ彼ヲ防﹂いでいた日本も、一二十年の文明の発達に よって、今や﹁賓ニ世界無比ト稿ス。殊ニ警察兵馬ノ術ニ於テ然リトナス﹂ というところである。日清日露の両戦争は、治天にとって、 一 方 で は 野 蛮 的文明の﹁其素養深クシテ﹂いる欧米の侵略を防ぎ、 しかも﹁能ク東方諸 国ヲ双肩ニ捨ツテ、己ニ倒レタルヲ起シ、持ニ倒レントスルヲ支ユル﹂こ とを意味していた。しかし他方で、日本は今や一つの野蛮文明固として支 那に対して﹁主動ノ姿勢﹂をとってのぞんでいる。 ﹁若シ支那ニシテ衰亡 ニ了ンヵ、東方諸園遂ニ救フ可カラ、ザルニ至ラン。若シ支那ニシテ勃興セ ン ヵ 、 東 方 諸 国 以 テ 救 フ 可 シ ﹂ 。 治 天 に と っ て 、 列強の支那分割を防ぎ、これを真に独立させることに依って東方諸国に波及さすべき役割を担ふの は日本であるにも拘らず、日本はそれに逆行していると認識するのであ る。即ち、支那革命党は元々、治天らの協力によって﹁其関芽を裂し形盟 を備へ来ったのは日本に於て﹂であり、彼等は日本を﹁第ニの故郷﹂とし て﹁衷心から我園を信頼﹂ Q H H -N 白 ・ ﹁ 矩 憶 の 中 よ り ﹂ ) して来たところで ある。そして、日本は、支那革命派という﹁亜洲唯ー一の比の主義あり根竣 あ る 志 士 の 一 一 圏 ﹂ ( 口 円 切 き ・ ﹁ 虞 東 行 ﹂ ) それを援助する の 成 功 を 期 待 し 、 力を有しており﹁之を生かすか殺すかは賓に日本の胸三寸﹂にあるにも拘 らず、これを為していないという。 日支親善は、真に中国を知りその民衆を愛することにこそその基礎をお く べ き で あ る の に 、 ﹁我が官僚は政府と政府の親善を以て日支親善なりと 心 得 ﹂ ( H H H -E G ・ ﹁ 湖 南 行 ﹂ ) 、 かえって民衆の中に排日感情を醸成してい る。﹁日本及び日本人は彼に十分の援助を奥ゆることをしなかった﹂(口円 目 。 ・ ﹁ 桂 太 郎 と 孫 逸 仙 ﹂ ) し 、 ﹁ 少 く な く と も 政 府 首 局 者 は ﹂ ごつも民園 の確立のために一筆の土さへ運んだものはない﹂ Q H H N 品 同 ・ ﹁ 矩 憶 の 中 よ り﹂)。それどころか、大隈内閣の﹁対支二一候問題﹂ハ大正四年)、寺内内 閣の中国段棋瑞内閣財政援助という援北主義的対華政策決定(大正六年) は﹁能りに非道・乱暴﹂であったし、商費人は飴りに﹁我利我利﹂であっ た 。 一般国民も能りに騎慢不遜であった
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∞ ・ ﹁ 虞 東 行 ﹄ ) 。 日本人全体 の風潮が占領主義的となって﹁二言目には、呼ぶにチャンコロを以てす。 即ちチャンコロ扱ひをなすが故に、彼等を反捜せしむ。是れ富然の理な り 、 自 然 の 結 果 ﹂ ( 口 ・ 叶 ・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) で あ る 。 日本の中国に対する大国主義は、中国革命に向つての支援、或は指導者 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 的立場に立つ限りで酒天もこれを許容するが、これが中国を脅かす存在の 一つになると自覚されるとき、治天は日本の対華政策を批判するだけでな く、国民の対中国感情そのものも批判さるべき悪と考えるのである。 ﹁有も一闘をなしたる闘民が、斯る侮蔑を甘受する道理﹂はなく(﹁虞東 行﹂)、排日運動が生ずるのも必然である。日中関係も、 ﹁ 我 代 表 機 関 た る 政府の外交にして宜しきを失せば水上の泡﹂となると批判しながらも、治 天は中国における排日の気運を鎮静せしむる努力を数度の中国旅行によっ てなすのであるが、今や孫文すらも次第に日本から離れる様子を見て、改 めて﹁排日感情を殴った源因は、政治外交の不善も一動機であるに相異な けれど、更に深刻に評すれば、日本人の倣慢心が第一源因﹂ ( ロ ・ ω 出 ・ ﹁ 東 京より﹂)であると指摘する。 ﹁我は我が園民の総てが:::侵略的方向を取って来たことを承認する﹂。 軍国主義者の﹁侵略主義の殻露﹂は、新旧の差はあるが欧米各国と同じ侵 略主義 ( H H H h F ∞∞・﹁出鱈目日記﹂)であることを認める。このような侵略主 義的対支政策を是正するには、国内政治状況の﹁改造﹂がなされねばなら ぬ。﹁改造さえ出来れば、対外問題は問題でない﹂ Q ・m g
・ ﹁ 虞 東 行 ﹂ ) の で あ る 、 が 、 しかし国内の改造は今や困難である。治天はここに至って、 -, 私 は有僅に申上ます。二十年支那の改造の角めに微力を議して、自国の封支 みすみず 政策の改善の矯めに翠髪のカを致す能はず、看々今日の如き事態を現出せ しめた不覚と無力を﹂想うて、日本の現欣打破を考えるが、 ﹁ 鳴 呼 、 我 は 老 い た り 、 疲 れ た り ﹂ Q ︿ ・ 怠 品 ﹁ 近 蹴 如 件 ﹂ ) と自己の置かれた位置を考 えざるを得なかったのである。それは、日本が﹁何時しか侵略的気分にな っ て ﹂ ( 同 戸 島 ∞ ﹀ 来 た こ と か ら 、 次第に酒天の立場は顧慮されなくなり、宮 崎 浩 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 発言の場も限られて来ていることによる。満天を訪れるのは中国留学生の み で あ る 。 ﹁我れ日本人として生れて現に日本に住みながら、語るべき友 を有せず、却て隣邦民園に、語るべき多くの友を有す。サテも我れの性は 日本に適せぬと見えたり﹂ (HHH ・ω 誌 ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) という状況にあるの で あ る Q さらに、中国の南北分裂と日本の対華強硬政策進展の中で、排日 運動の高まるにつれて、 ﹁日本人﹂治天は﹁遺憾ながら最早私共は支那に 於て無用の長物﹂ QHH-MXC ・ ﹁ 矩 健 の 中 よ り ﹂ ) になったことを自覚せざる を得ぬのである。このような、治天の支那観を受け入れず、治天を無用視 する時勢の生来は、日中関係の断絶を意味するものであって、そのことに 対する治天の怒りと絶望が晩年の諸著述の根底にある。 V 酒天の批判の対象 活天の時代認識は、日本も今や欧米列強と同種の侵略主義によって、支 那に対して庄抑的立場を採り、国内においても、普選問題をめぐる政党政 治の堕落、思想弾圧の激化、また、旧師の徳富蘇峰の如き知己友人の多く が、かつての﹁自由民権論を一機して軍国主義の鼓吹者﹂ Q 口
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・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) と な っ て お り 、 かつての同志もまた国権論者と化している、 いう状況の変化の認識に基づいている。支那における排日というような限 定された状況ではなく、国際的孤立という状況に陥った日本の現状に対し て 、 ﹁私は今の時局に鑑みて、我園の前途の不安を感ぜずには居られ﹂ぬ と い い 、 ﹁ 悲 観 病 ﹂ に か か っ て い る 包 ︿ ・ 部 品 ・ ﹁ 鎖 夏 漫 録 ﹂ ) と い う 。 こ の ようなとき、治天は日本の全てを批判せざるを得ない。軍閥、政党、財閥 はいうに及ばず、庶民をも含めて日本そのものが批判されるのである。従 二回 って、そこには﹁日本人﹂治天に対する自己批判も存するのである。 ) t A ( ﹁ 悲 観 病 ﹂ H 日本批判 治天のいう﹁悲観病﹂とは、 ﹁現に日本と云ふ園家に封して、悲観的﹂ Q H H ・ ω O A F -﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹄ ) と い う よ う に 、 日本の時局を﹁亡園﹂ と捉える ところから来るもので、時局批判の尺度には、常に中国に対する日本及び 日本人の態度が当てられる。 日清日露両戦争後、日本国民は﹁意満ち気購って﹂﹁満蒙を略し西伯利亜 を取るべしとなし軍国主義の高潮遂に絶頂に達し﹂(口・5
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・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) ている。しかも﹁亡園的軍閥外交 H 斬取強盗主義﹂を善と一するのは、それ が忠君愛国的行為だとされているからである。しかし、我国を毒するこの ような偏狭な忠君愛国的行為を﹁改めざれば、我園の世界的孤立は遂に克 る ﹂ ことはできぬだろうQ
︿ ・ 色 。 ・ ﹁ 久 方 ぶ り の 記 ﹂ ) 。 高 遇 な 理 想 を 抱 い ての孤立ならまだしも、 ﹁ 野 心 を 包 蔵 し て の 孤 立 ﹂ ( 口 ・5
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・ ﹁ 東 京 よ り ﹄ ) 斗品、 全て﹁白人に怯にして同種同族に橋なる﹂(口・3
日本人全体の責任 で あ っ て 、 ﹁高尚なる人類的感情によりて列園人を遇するの心を持ち得ざ る聞は、今の孤立﹂も必然である。しかも、思想弾圧の厳しい﹁日本と云 と ふ園は理想を容さぬ園也、道理の研究を允さぬ園﹂ ( H H H ・ω 宏 ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記﹂)であって、﹁我園は精神的致命病者である。既に精神的に死に瀕して﹂ ( 口 ・ ω∞
ω ・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) い る 。 その﹁亡園的要素﹂は、川国民のあくなき責欲、権利の思想・公共心の 欠除、間利を追及するだけの政治家の主義、方針の欠除、同園民的指導者 の不在、凶時代の風潮に便乗して一貫した見識も持たぬ原稿成金主義的な 山主省、問財閥、軍閥、労働階級の利己的な現状、に認められている。(2} 軍閥批判 ﹁我園を支配せる園是とも一一品ふべきもの﹂は﹁軍国主義に則れるものに て所謂力の福音に渇仰﹂(口 -H N 叶 ・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) し て 、 ﹁園民を奉げて兵士 とし、園庫を奉げて軍備讃張を行ふも、未だ以て彼等の満足を買ふ﹂には 足りぬかのようである。 治天の軍閥批判は、軍備損張が園民の重荷になっていること、近視眼的 な﹁低脳外交、盲目外交﹂を主張し外園U支部に対して侵略的な干渉を行 うこと、この二点にある。 兵士の大多数は﹁多数細民、小作人﹂であるが、軍備拡張は﹁彼等の家 族が生活難に陪るべきには十分﹂(口 -N U ﹀ ﹁比上の重荷に堪ゆる で あ り 、 や否や﹂は問うまでもないことである。要するに、対外侵略という﹁泥棒 さきだ 主義は資本がかかる。軍備が必要マある。軍備は金が先っ。金には限りが ある。軍備には限りがない。限り無き軍備に限りある金をつぎ込む。人民 は身代限りだ。自棄の滞旗が翻る﹂(同︿
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・ ﹁ 園 是 問 答 ﹂ ) ということで ある。この日露戦争直後の明治三九年に書かれた治天の戦争に対する立場 は、民衆の側に立って、軍備援張の人民に及ぼす点を明確に捉えて最後ま で 変 ら ず 、 明 確 に 、 ﹁軍関と民衆とは既に火と水也﹂という論旨を一貫さ せ て い る 。 また、軍閥は﹁共和とか社曾主義者とかが、虎列刺ベスト以上に怖くて、 支那の共和も露園の革命も、可成成立させたくない﹂ Q ︿ ・ ω 邑 ・ ﹁ 南 北 妥 協 問題に就いて﹂)ところから干渉しているが、﹁世界の潮流に逆行して、忠 君愛閣の美名の下に、日本を滅亡の淵に導きつ L ある軍隊政治家を呪はず には居られ﹂ない。このことを今において目ざめなければ﹁汝の園はその 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 大砲によりて破壊され﹂ Q H H -A S ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) るだろうと警告する。 時勢も人心の傾向も察せずに、何事も強硬に押し通そうとする﹁軍閥の頑 迷 さ と 、 それを抑へきれぬ首局の無能﹂ さ せ とが国家を滅亡。口 -h H C C ) るのである。そうであるならば、日本は﹁結局改造せらるべき運命に在る 園 ﹂ ( 口 ・53
といわざるを得ないし、 ﹁ 軍 閥 、 比 物 改 善 ﹂ そのためには せねばならぬところである。ここにいたって、治天の軍閥批判は、 ﹁ 日 本 間民が軍閥を倒し、彼等の停統外交を一愛すべきは、単に封支問題の粛の みならず、世界的政策の上より見て目下の最大急務﹂であるということに 達したのである。 (3) 政府・政党批判 内政、外交ともに﹁存亡の機既に脚下に迫る﹂(口- H
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・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) の を覚えるが、それに危機感を有して社会の不合理を批判する者に対しては、 ﹁奮態依然たるサーベル政治﹂による思想・言論弾圧が続いている。それ は﹁正に頼らしむべし知らしむ可からずの筆法に一歩を進めたる言論匪抑 也。お話にならぬ憲政の逆轄﹂である。 ﹁民衆の自由意志を基礎として組 織せられたる社舎に、自由の束縛せらるべき謂れ﹂ は な く ( H H H ・ 自 ∞ ・ ﹁ 出 鱈目日記﹂)、自由であるべき言論思想を弾圧する﹁嘗局の遣り口は園民を して過激化﹂(口円単品﹀させるまで止まぬとすれば、﹁結局危険思想は嘗局 が 製 造 ﹂ ( 口 ・5
吋・﹁東京より﹄)するものである。思想を取締まるにしては ﹁思想そのものの性質さへ燐えぬ﹂(口目見。)ような官僚軍閥も、 さらに ﹁ 現 在 政 黛 も 、 現 在 的 政 治 家 も 既 に 過 去 の 物 ﹂ ( 口 ・ 邑 ω ) であるといわざ るを得ない。しかも彼等は、 ﹁官穫により築き上げられたる地盤﹂に立つ て、﹁少数資本階級に結び金力権力の限りを蓋して一般民衆を慶迫﹂ Q H F 五宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 革 命 ﹂ の 思 想 ω ω 叶 ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) し て い る 。 こ の よ う に 、 ﹁ 民 意 を 阻 害 す る も の は 政 黛 ﹂ (HHH-NB) で あ る 。 し か し 、 ﹁民主的人類的世界思潮は、満々として産自社舎を洗い清めんと する。愚なる我が富局が如何に之を阻止せんと努むればとて、 そは到底不 可 抗 力 ﹂ ( 口 ・
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と い う 状 勢 、 が あ る 。 自 由 を 弾 圧 し 、 しかも﹁今に普通 の賃金を奥へずして十ニ時間労働を強ふる﹂様なとき、真に国民が自覚 し、自由をパンをと要求するならば、それは﹁革命﹂であり、 ﹁ 人 は 皆 過 激派﹂となるであろう。それが怖いならば、せめて、自由と﹁普選擢を輿 えよ﹂と活天はいう。 しかしこのようなサーベル政治を行なう様な政党政治 H 議 会 の 堕 落 は ﹁則ち園民の堕落﹂であり、酒天はここで、堕落した議会政治を批判し、 それを堕落であると批判し否定し得ぬ国民の覚醒を迫るのである。 ﹁ 唯 祈 る。我園民の一日も早く彼等を度外視して、自己の大道を自ら開拓するに 至 ら ん 事 を ﹂ ( H H H・ 巴 ∞ ・ ﹁ 恒 健 の 中 よ り ﹂ ) と。政党の頼むべからざるを自 覚することが、民衆の進歩の第一なのである。民衆は、 ﹁資本家とその法 律、習慣、道徳、宗教の匪伏の下に虐げられて奴隷的境遇に眠っているが 既にその限りより醒め﹂ Q ︿ ・ ω 自)なければならぬときである。 普選権要求の世論に対しては、制限選挙が当初からの議論であって、民 衆党を称するものも、 ﹁ 三 一 国 出 せ / とぬかすお国柄﹂であり、ここでは っきりと酒天は政党政治に対して、少数者が﹁多数人を駕御する底の政治 は既に時代錯誤﹂と断定し、 ﹁此もの撲滅せずんば、我園の改善は望み難 し﹂という。そのためには、 ﹁園民は政黛の力を頼らずして、自ら並日選を 徹底せしむるの覚悟﹂ Q H H -N S ) がなければならぬと説くのである。そし 一 一 六 て 、 ﹁三聞出さねば園民権を奥えぬ闇家は吾の闘家にあらず。我は賓質に 於て非園民なれば也。若し吾をして愛園者たらしめんと欲せば、先ず我に 自由と権利を奥ゆるがよし。然る時に園家は我有也﹂(口回目∞戸)。 ﹁ 闇 家 を難破せしむるを愛画家也とせば、我は愛園家たるを願はず、寧ろ非園民 の 誹 を 甘 受 ﹂ ( 阿 国-g
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するとさえ断言するのである。 このような、首天の叫びは、現情の閉塞的状況に絶望しての、大正時代に 於ける最も孤高の、最も痛烈な当局批判の一つであったといえよう。 (4) 庶民批判 自由を奪われでもなお、黄金万能主義の政党政治を容認し、結果的には 侵略主義的軍閥外交をも支持し、白からも外圏人、特に支那人に対して倣 慢不遜な態度をとる庶民の無自覚も、活天の批判の対象である。 ﹁皐覚するに園民自身の自覚が足りぬのだ。園民が悪るいのだ。金で選 血 争 樫 を 買 る 園 民 が 悪 る い の だ ﹂ ( H H H ・23
と痛烈である。﹁永久奴隷の境遇 に安じて選奉樺を要求﹂せず、 ﹁金と酒食とに依り何れにも動く﹂民衆、 さらには虚偽、騎慢、貧斐、無情非道を特有物とする有識中産階級、 ー-, ム,
、 や全ての階級を通じて堕落﹂している。これが即ち、 ﹁ 所 謂 憲 政 墜 落 ﹂ の 実 体 で あ る 。 本来、自ら弱き者である庶民も、支部留学生に対してどのようなことを し て 来 た か 。 ﹁暴利を貧る下宿屋、淫売婦を取持ち折半する車夫、日本の 皐 生 、 教 員 、 志 士 仁 人 を 以 て 任 、 ず る 者 、 富 豪 紳 士 ﹂ ( 口 ・8
・ ﹁ 東 京 よ り ﹂ ) これらは皆、支那人を﹁チャンコロ扱にして之を胡魔化﹂し、 ﹁ 誰 一 人 と して彼等を其情を以て保護するものなかりしは我等の目撃したる所﹂ Q ︿ ・ 台 。 ・ ﹁ 久 方 ぶ り の 記 ﹂ ) で あ る 。庶民もこの意味で批判されねばならぬ。しかしそれは、 ﹁ 園 家 は 、 我 等 の頭脳の愛育の最盛期に於いて自分勝手な教育を施して、同一型の中に打 込むことに努めて、我等の員面白を失はしめている﹂。そして社会人ともな れば、習慣、道徳、法律、地位、名誉、生活などの圧力によって、在来の 因襲の中に閉じこめられてしまい、庶民はかくして園家社会に於いて﹁精 神 的 不 具 者 ﹂ ( H H H ・
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・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) に さ れ て い る の で あ る 。 治天の批判は庶民の現状をつき抜けて、その背後の因襲、制度、体制の 批判にまで深められて行く。そして治天の批判は、 ﹁ 国 民 の 笈 憤 ﹂ を 以 つ て園民自からが自己の置かれた現状を自発的に批判することを期待しての ことであり、因襲の中でその個性が如何に傷けられていても、批判をなす ﹁自由のある所に人間としての債値が俄存する﹂ことを確信してのことで ある。それであるからこそ、 ﹁園民の議憤﹂を許さぬ政治を、首天は断乎と して批判し、それを拒否し続けたのである。V
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酒天の﹁社会主義﹂観 治天が最後まで貫き通す思想の核心に存するのは、自由主義、世界同胞 主義である。それを否定するような民族的倣慢、 ﹁黄金高能主義とその唯 一の伴侶たる帝国主義の膨張﹂(口円怠3
、 さ ら に は 、 それと関連して起 る政党の堕落、軍備援張に依る細民の貧窮、土地不均衡に基く貧困。これ ら一切は酒天によって否定された。しかも前に見たように、時には国家そ のものですら否定する酒天にとって、 一体何が残るのであろうか。治天は それについて明確にはしていないが、 ﹁要は唯世界寓民をして衣食に満足 せ し む る に あ り ﹂Q
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-﹁ 濁 酌 放 言 ﹂ ) と い う ユl
ト ピ ー が 語 ら れ 、 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 聞の民生活は平和なる農民生活に返るにありと信ずるもの也。而して我は それを希ふもの也。然り、農民農夫となり、脅しく鼓腹撃壌の境に安住し て、共に南風の歌を唄ふて大自然を讃美するの詩人たらば、その柴しきこ と 如 何 ぞ や ﹂ QHHωNN ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) という記事に見られるように、晩 年は屡々、郷里に帰って田園生活をおくることが夢みられている。しかし それは単なる個人的な夢想ではなく、現実批判をなしとげて後のユl
ト ピ ア 諮 問 山 で あ る 。 このような形で理想的社会像が語られるとき、暖昧ではあるが、治天は 社会主義についても批判的である。 ﹁私は一種の社舎主義を有っている。それは過激主義でもなく、共産主 義でもなく、又、無政府主義でも園家社舎主義でもない一種の社舎主義で あ っ て ﹂ ﹁ 至 極 穏 和 な 社 舎 観 ﹂ ( 同 ︿ ・ 九 日 見 ・ ﹁ 久 方 ぶ り の 記 ﹂ ) で あ る と い う 。 治天はその活動を通じ、また﹁革命評論﹂の発刊を通じて﹁草命主義を 鼓 吹 ﹂ ( 口23
していたのであるから多くの社会主義者に接していた筈 で あ り 、 事 実 、 ﹁革命評論﹂の発送者、購買者の中に、幸徳伝次郎、北輝 次郎、西川光次郎、横山源之助、大杉栄、堺利彦、森近運平、奥宮健之ら の 名 前 を 拾 い 得 る ( ︿ ・ 島 氏 ・ ﹁ 革 命 評 論 議 送 原 簿 ﹂ ) 。 そして彼らから ﹁ 草 命評論﹂が﹁好感をもって迎えられ﹂ていたにも拘らず、治天の長い執筆 活動を通じて、例えば﹁社会民主党﹂や﹁平民社﹂等の活動にふれること は全くなく、ましてその運動の評価等もなく、活天と社会主義及び社会主 義者との聞に距離があるといえる。また、社会主義者をどのように見ょう としていたかについても明確でない。社会改革を口にする者にとっては最 人 大の事件であった筈の大逆事件についても、唯一箇、 ﹁ 員 相 な る も の に つ 二 七宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 いての惇聞﹂を記るし、 ﹁ 浅 間 し く も 遺 憾 の 極 み ﹂ ( 口 戸 時 ∞ ・ ﹁ 阻 憶 の 中 よ り ﹄ ) と 述 べ る だ け で あ る 。 し か し 、 このことは、酒天が日本の現状につ いて種々の批判をなしているにも拘らず、天皇制について全くふれること がないことと対応している。天皇制については唯間接的に、帝室財産の見 積りを百億円とし、国民の宮は天皇の富とした仁徳天皇の故事に対応させ て﹁陛下の富は国民の富也と言ひ得ベくんば、我園の将来は決して悲観す ぺきにあらざるが如し﹂
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。 ・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) と 、 故 事 の ﹁ 御 趣 意 を 推蹟め﹂るならば幸甚と、軽妙に述べているだけである。この意味からい うならば、治天の﹁日本革命﹂観は大逆事件にまで連なる日本社会主義の ﹁日本革命﹂路線とは異なり、聖天子の下で﹁鼓腹撃壊﹂するという東洋 的な、或は、君側の姦を除くとして西郷に味方した兄八郎的な路線に連な る と い え る 。 治天は﹁一種の社舎主義﹂を有すというが、彼は社会主義者を否定的に 見ている。確かに、新聞、雑誌の広告に社会の﹁改造や社舎主義や乃至ト ル ス ト イ 、 マ ル ク ス 、 ラ ッ セ ル 、 クロポトキン﹂の語が見られるようにな り ﹁斯る雑誌や書籍の世に需要さるだけそれだけ、我園民思想が危険の 方向に向ひっ L あるは何よりの詮援﹂(口円ω
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・ ﹁ 出 鱈 目 日 記 ﹂ ) であると いえる。しかし社会主義者は﹁予定通り﹂演説会を聞き、 ﹁ 予 定 通 り ﹂ に 中止となり、何事も﹁予定通り﹂であるが、革命への工夫がないし、さら に い え ば 、 ﹁手嘗り次第に翻誇し焼直し原稿料を取入れ、其名を費れば即 ち 足 れ り ﹂ ( 口 戸 田C
、 ﹁ 責 名 専 門 の 社 舎 主 義 ﹂Q
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とその否定は瑚 笑的でさえある。これは当然、支那革命の中で多くの同志の戦死、刑死を 見て来た治天の実感であろう。しかも、社会主義者は知的にすぎる。社会 二 八 主義を取締る名案は﹁衣食に窮せぬ丈の金を輿﹂え、 ﹁彼等に関する新聞 記事を掲載せしめざる﹂ようになすことで、それによって社会主義の運動 は直ちに自然消滅するだろうという。それは、治天と社会主義者との直接 の交流のないところから来る誤解もあったであろうが、潜天の社会主義者 に 対 す る 批 判 は 、 ﹁今の社舎主義者なるものにして、異に労働者乃至小作 人と聯絡を有するものが幾人かある。恐らく皆無也。斯くて誰と共に社舎 主義を賓行せんとするか﹂という聞いに謹きるであろう。 ﹁出鱈目日記﹂(大正九年一月1
同十年一月)に見られる酒天の主張の要 約は次の通りである。 現代人が権利に目ざめ﹁資本組織の現社舎を破壊して各自の権利に生き んとす。是れ正首の要求也﹂(口-E
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と、資本主義社会の否定を認める。 しかし権利は差別性のもの、個人主義的なものである。これに対して社会 主義は窮極には無政府共産、無差別になるのであり、従って、 ﹁ 差 別 的 個 人主義と社人宮本位の社合同主義は相容れ﹂ぬのである。しかも現代人は野獣 的であるが、無政府共産は﹁野獣的人間﹂の聞で行うべきものでなく、﹁自 制的道徳﹂の支配に待たねばならぬ。﹁改造社舎の理想﹂としては、﹁レニ ン 主 義 、 パ l ク ニ ン 主 義 、 ク ロ バ ト キ ン 主 義 、 トルストイ主義﹂の諸種が あ る が 、 ﹁之を徹底的に賀行して、永久平和を確保せんには、制度法律の 愛更のみにては不可也。必ずや人心の改造に倹たざる可からず。入心の改 造他無し、我れ自身の改造にあり﹂というのである。 治 天 に よ れ ば 、 ﹁社舎の改造﹂は﹁人心の改造﹂を基礎にしなければな らぬが、社会主義にはこの﹁人心の改造﹂、即ち、精神或いは道徳の革命、 に基かぬ単なる﹁制度法律の愛吏﹂の面しかない、というのが治天の社会主義理解であったといい得ょう。 しかし、治天のいう﹁人心の改造﹂が何に依るのか、については、 舎の改造﹂が求められる今日の状況において﹁新宗教の族出する、必ずし も謂なしとせず﹂といい、宗教にこれを求めていたといえる。事実、治天 自身その晩年は大本教に関心を寄せ、さらには﹁大宇宙秘﹂に入信し、支 那革命派の人々もこれを説いている。それは文字通り、嗣子龍介が語った ように、活天は﹁心霊の革命を策し﹂、 支那においてさらに ﹁ 精 神 革 命 を や る ﹂ (東京朝日新聞、大正十一年十二月七日)というところに帰着した の で あ っ た 。 また、共産主義に対しても、 ﹁共産社舎は個人の自由性奪ひ取って、同 一型に打込まんとする一種の牢獄也。 少くなくとも軍隊也﹂ と い っ て 、 ﹁人類的理想郷としては我れその甚だ不完全なるを畳ふ﹂(口円留品﹀ と し、 って否定的な態度を示している。自由を好む人聞は﹁軍隊的共産社舎に憶 官たる﹂は当然であって、自由を人間の幸福とする点からいうならば、 ﹁浅間しくも窮屈なる社舎﹂だという。しかし共産社会は自由から見るか ぎりで否定されるが、革命を世界にまで及ぼそうとするとき、この軍隊的 共産社会は、革命にとって反って都合のよい組織であるので、 ﹁ 共 産 主 義 にも多少の意義はある﹂と条件づきで肯定される。 例えば、理想社会を目指して苦中にあるロシア革命は﹁改造社舎の唯一 の 試 験 場 ﹂ ﹁生ける参考書﹂であり、これには同情と注意を以って洞察せ ねばならぬという。 そして日本の将来について﹁革命は恐らく避くべからざる﹂ものがある と考えるが、酒天は﹁決して革命は怖れ悪むものではない。義ある革命な 宮 崎 治 天 の ﹁ 支 那 草 命 ﹂ の 思 想 らば寧ろ歓迎する。但し破れかぶれの暴動的革命に至つては、何分怖れ戦 社 は ざ る を 得 な い ﹂ ( 口 ・ ω ぉ・﹁東京より﹂)という。しかし、支那革命を実際 に闘って来た活天が、 ﹁暴動的革命﹂でなく﹁意義ある草命﹂を歓迎する というとき、この﹁意義ある革命﹂とは一体どのようなものであったの か、その実現の方法はどのようなものなのか。 活天のことばの断片をつなぐと、 ﹁我園には其の改造運動、民の文化運 動なるものはない﹂、﹁蓄思想は既に弛緩して何等の勢力なく﹂、﹁欝道徳地 を掠って新道徳未だ生れず﹂等のことばをつなぐことができる。これから 推論すると、前述の様に、宗教を基礎として行なわれる道徳革命こそが、 晩年の治天の求めた﹁民の改造運動﹂であるといえよう。その限りで、活 天の思想は、自由主義、個人主義、世界同胞主義 H 博愛、という十八世紀西 欧の自由主義を受容した熱烈な自由民権論の枠を超えなかったといえ刷。 このような明治のロマンテイカ