• 検索結果がありません。

[Absolute Submission to Allah, Bravery and the Fight for Advancement : From a Life History of an Old Javanese Romusha in Sabah, Malaysia ]

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "[Absolute Submission to Allah, Bravery and the Fight for Advancement : From a Life History of an Old Javanese Romusha in Sabah, Malaysia ]"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東南 ア ジア研究 34巻 1号 1996年6月

絶 対 依 嘱 ・勇 気 ・前 進 の た め の 戦 い

- あ る ジ ャ ワ人 ロ ー ム シ ャの生 涯

-染

道 *

AbsoluteSubmission to Allah,Bravery and theFightforAdvancement From a LifeHistory ofan Old Javanese

Romus

ha

in Sabah,M alaysia

YoshimichiSoMEYA*

In Sabah,many oftheromusha,orforced laborers,taken from Javaby theJapanese MilitaryGovernmentduringWorldWarⅡ arestillalive.Whenthewarended,theywere obligedtostayinSabah.Amongthenativesthere,theyhaveearnedareputationfor diligenceandgood conduct,whichseemstoderivefrom theireffortstoadapttothe differentculturesandsocietiesofSabah.Particularattentionshouldbepaidtotheways ofthinkingoftheirleaders,whohavehadastronginfluenceontheircompatriots.Here,I willintroducethelifehistoryofonesuchleader.

Thismancomesfrom avillageonthenorthcoastofCentralJava.HeisapiousMuslim andarationalman.Althoughhecameasaromusha,heinsiststhathecameofhisownwill. Inthusemphasizingthevoluntaryaspectandde-emphasizingthepassiveaspectofthe forcedlabor,heshowedhisspiritofindependence.Nowheiswell-off,andheattributeshis successtoabsolutesubmissiontothewillofAllah,andhisownbraveryandwillingnessto fightforadvancement. 1993年, コタキナパ ル市 か ら北西方 向約 30キ ロほど行 った トゥア ラ ンのあ る村 で, 筆者 は 「ブ ンガ ワ ン ・ソロ (ソロ河)」 の歌声 を聞 いた。 その村 に住 み込 んで ドゥス ンの法文化 を調査 して きた宮本勝氏 の帰 国 に当た って村 の人 々が送別会 を催 した時 の ことで あ った。 「ブ ンガ ワ ン ・ソロ」 はい うまで もな くジ ャワの名 曲の一 つで あ る。 それがサバで歌 われ た。 どの よ うな経 過 を た ど って ドゥス ンの人 々が 口ず さむ よ うにな ったのか。 それ はよ く判 らな い。 しか しそれが ジャワ文化流入 の一例 で あ った ことはま ざれ もない事実 で あ った。 イ ン ドネ シアで は労働力 が余 り, マ レー シアで はそれが不足 して い る。 隣 り合 った国 の間 の この労働力 の不均衡 のために, サバ州 で も多 くのイ ン ドネ シア人労働者 を見 か け るよ うにな っ た。 もちろん その大多数 はいわゆ る出稼 ぎで,彼 らは数 カ月 あ るいは数年 のあ いだ働 くとやが

静 岡大学人文学部 ;Faculty ofHumanitiesand SocialSciences,Shizuoka University,836 0hya,Shizuoka422,Japan

(2)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戟い て イ ン ドネ シアに戻 る。 その中 に は再 びサバ にや って くる者 もい る し, 兄弟 や同郷者 を伴 って くる者 もい る。 そ う した出稼 ぎ者 の なか に ジ ャワ人 も多 く含 まれ て い る。 若者 が圧 倒 的 に多 い出稼 ぎ者 の他 に, サバが まだ北 ボル ネオ特許 会社 の所 有地 だ った戦 前, ゴム園労働 者 と して渡 って きた人 々の子孫 や本稿 で紹 介 す る元 ロー ム シ ャ もた くさん住 んで い る。これ ら多数 の イ ン ドネ シア人 は勤勉 で,品行 方正 だ と して サバ社会 で は概 して評判 が いい。 そ うい う彼 らが ジ ャワ文化 の貝現者 と して サバ の人 々になん らか の影響 を与 えて きた ことは想 像 に難 くな い。彼 らの評判 は良 いわ けだが, そ のため に彼 らは地道 な努 力 を積 み重 ね て きたの で あ った。 サバ の イ ン ドネ シア人社 会 を支 えて い る団体 が あ る

「サバ ・サ ラワ ク在住 イ ン ドネ シア人 家族連 合 PerhimpunanKeluargaIndonesiaSabah-Sarawak」とい う名称 の組織 で,普 通 , プルキサ (PERKISA)とい う略称 で呼 ばれて い る。 プルキ サの副会長 で あ るイ スム ・マル ガ ン デ ィ氏 の説 明 とプル キ サ の定 款 に記 載 され て い る と ころを要 約 す れ ば, この団体 の 目的 はサ バ ・サ ラワクに住 ん で い るイ ン ドネ シア人家族 の繁栄 を達成 し, 相互扶助 の精 神 を高 め, イ ン ドネ シア とマ レー シアの友好 関係 を強化 す る ことで あ り, 具体 的 な活動 と して移動 の ための書 類 を作成 す る こと,労 働許可証 の ための便 宜, 火事 ・病気 ・死亡 な どの災 害 に遭 った人 を援助 す る こと,結婚や メ ッカ巡 礼 の補助 ,労働補 償 の問題 を抱 えて い る人 の補助, コ タキナパ ルの 総領事館 か ら遠 い地域 に住 ん で い る人 た ちの ための仲介役, 文化 ・スポー ツ ・教育活動 を通 じ て メ ンバ ーの志 気 を鼓 舞 す る こと, マ レー シア王国 とイ ン ドネ シア人地域 社会 を結 びっ け る こ とな ど とな って い る。l) プルキサがで きたの は1976年 で あ るが, その母 体 は 1961年 に創立 さ れ た 「ジェ ッセ ル トン ・イ ン ドネ シア協 会」 で あ る。 本稿 の 目的 は, この協会 を組織 した数 人 の名 士 の うちの一 人 に焦点 を あて, 彼 が異 国 サバ の 激動 の現 代 史 を生 き抜 くにあた って 自 らの どの よ うな文化 を駆 使 したのか を明 らか にす るこ と で あ る。 彼 の名前 を仮 に スキ マ ンと してお こ う。 スキマ ン氏 は 日本軍 政 時代 に強制 的 にサバ に 連行 され て きた いわ ゆ る ロー ム シ ャで あ る。 彼 は戦 中 そ して戦 後 の イギ リス直轄 植民地 時代, マ レー シア独立 に際 して の 「対決 」 な ど激動 の中 を生 き抜 いて きた。本稿 で紹 介 す るよ うに彼 はつ ね に世 界 史 的 な試練 に積極 的 に立 ち向か い, 今 日, ゆ と りあ る老後 を送 って い る。 彼 の6 人 の子供 た ちが大病 院勤務 の看護 婦,銀行 員, あ るい はマ レー シア航空 の社員 や電 気 技術者 な どにな って社会 的 に活躍 して い るのを見 る とき彼 の人生 はひ とっ の成功物 語 とい って よい。 し か し本稿 で は紙 幅 の関係 で紹 介 で きないが, ロー ム シ ャの全 てが彼 の よ うな人生 で あ ったわ け で はな い。 む しろ彼 の よ うな人生 の方 が少 なか った。 ジ ャワ文化 自体 が決 して一 様 で はな い。 ジ ャワ人 が住 む地 域 は広 く, 外来文化 との接触 の度

(3)

東 南 ア ジア研 究 34巻 1号 合 い も違 え ば ジャワ内部 の交渉史 も異 な る。 階層 によ る違 い もあ る。 ま して長年外国 に住 んだ ジ ャワ人 となれば ます ます大 きな変異 を見せ るだ ろ う。 軍政期 の 日本人,植民地 時代 の 白人 そ して中国人 や カ ダザ ン人 な ど現地 に住 む人 々 との交渉 を通 じて さまざまな文化 的影響 を うけて きた と考 え られ るか らで あ る。 その影響 も一様 で はな く, また, その影響 に対 す る応答 も一 様 で はない。 もちろん,世界 の さまざまな地域 にお ける似 た よ うな現象 と比較 すれば, ジャワ人 に共通 す る反応 の仕 方- た とえば いか な る状況 に遭遇 しよ うとも我慢 強 く,耐 え抜 き,争 いを避 け, しなやかかっ したたか に対処 す る とい った- をみ ることがで きるか も しれ ない。 しか しそ う した比較 を行 うための基礎資料 が十分揃 って い るとはいえないのが現状 であ る。 本稿 はその基 礎資料 の一部 をなす もので あ る。 スキマ ン氏 は現在 コタキナパ ル市 に長男 や三男, それ に孫 たち と一緒 に住 んで い る。決 して 豪邸 とはいえないが,広 い敷地 に大 きな屋敷 を構 えてお り,敷地 の一角 にはイ ン ドネ シア人 の 出稼 ぎ者 を住 まわせ る貸 間 もい くつか備 えて い る。 夫婦 と もときお り軽 い病気 に悩 まされて い るが, おおむね健康 で あ るとい って よい。彼 と筆者 の会話 は ジャワ語 とイ ン ドネ シア語 あ るい はマ レー シア語 で行 われ た。ジ ャワ語 はいわゆ る敬 ・準敬体 (madyakrama)ない し中間準敬 体 (madyantara)で あ る。2)以下 で はそ う した点 を考慮 し, 「です」, 「ます」調 で訳 出 した。

少年時代のスキマン氏

スキ マ ン氏 は1927年 に現在 の中部 ジ ャワ州 グロボガ ン県 プル ウ ォダデ ィ郡 ジュワ ンギで生 まれ た (従 って1992年 の調査時点 で 65歳)。 プル ウォダデ ィ郡 はデマ ックとソロの中間 のデ マ ック寄 りにあ る。また ジュ ワ ンギ はセマ ラ ンか ら50キ ロほどで あ り,い うまで もな くこの地 域 は ソロ ・ジ ョクジ ャを中心 と した ジャワ内陸 の山域世界 で はな く, ジャワ北海岸 の海域世 界 に属 す る とみな して よい。3)彼 は子供 時代 を次 の よ うに語 った。 私 は7歳 の ときに親 か ら離 れ ま した。私 は兄 や姉 が学校 に行 くのを助 け るため に働 き始 めたのです。親 を助 けるためで した。親 はその当時大変 で した。農夫 と しての収入 はわず かだ し, 商売 の収入 もわず かで した。 だか ら今 日稼 いだお金 は今 日の食 べ物 を買 えば な く な って しま うし,次 の 日に稼 ぐ金 もその 日の うちにな くな って しま うとい うあ りさまで し た。 だか ら兄 たちが学校 に行 って い るのをみ ると私 は学校 に行 きた くあ りませんで した。 2) 染谷 [1993:7]参照。 3) 染谷 [1995]参照。

(4)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戦い 親 を見 て い るとかわ いそ うにな りま した。私 が金 を稼 いで くれば少 しの足 しにな ると思 っ たか ら働 き始 めたのです。 7歳 とい うの は今 か らみれば まだ まだ子供 ですが, その当時 の ジャワで はそん な もので した。 た とえばあれ これ と親 が子供 に命 じて働 かせ, お金 が入 ると子供 は親 にそれを渡 すんで す。 ジ ャワで は喜 んで親 のため に稼 ごうと した ものです。半 セ ン,5セ ン,10セ ンな どと 少 しで も渡 さないお金 が あ った りす ると殴 られ ま した。 それ は兄 が本 を買 うため に使 われ ま した。兄弟 のなか には学校 に行 きたい者 もいれば父 と一緒 に働 く者 もいま した。私 は学 校 に行 くの も嫌 だ ったが,家 にい るの も嫌 で した。(賃金 は)い くらで もいいか ら外 で働 き た い と思 って い ま した。 仕事 はいろい ろで した。 た とえば よその うちの庭掃除 をすればお金 が もらえ ま した。 そ の当時,一 日仕事 をすれば確 か 10セ ンもらえ ま した。 1932年 か34年 の頃です。 「あそ こに板 が あ る。何 を作 るんだ ろ う。何 か建物 を建 て る らしい。よ し行 って訊 いて見 よ う」 砂 の運搬 のため に人 を探 して いる人 が い ると聞 くと天秤棒 に-担 ぎ運 んだ らい くらか と訊 きに行 って働 いた もので した。 私 は12歳 の頃, セマ ラ ンに行 きま した。 日本 が入 って きた42年 といえば私 は もうセマ ラ ンに1年 いま した。待 て よ。セマ ラ ンで働 き始 めたの は14歳 の ときだ ったか な。日本人 の ところで働 きま したよ。40年 の ときです。セマ ラ ンで は飛行場 の壁 作 りの仕事 を して い ま した。 エ ンジ ンをか け る と ころで操縦 士 が外 か ら見 え な い よ うに ジ ャワ語 で 「グデ ア ケ

」4

)とい って壁 を作 ったわ けです。 セ マ ラ ンで は5カ月働 いて い ま した。 自分 だ けで は な く, た くさん の ジャワ人 が志願 して働 いて いま した。 それか ら42年 には私 はバ ンテ ンに行 きま した。 バ ンテ ンも自分 で希望 して行 きま した。 友達 の斡旋 で セマ ラ ンで働 いて いた連 中が行 ったんです。 飛行場作 りで した。 まだ戦闘 は あ りませんで した。戦闘 が始 ま ったの は私 が海 を渡 った ときです。 もうアメ リカの船 が い ま したよ。 バ ンテ ンにいた1942年,私 は 「日本 の旦那 が来 て は しい とい って い る」か ら故郷 に戻 る よ うに呼 び出 され,故郷 に戻 りま した。故郷 に戻 ると 「ボルネオに行 きたいか」 と聞かれ た。道路,飛行場,棉,税 関 の建物 な どを作 る仕事 で, 期間 は6カ月, もし延長 した けれ ばそれ もで きる, も し希望 す れば帰 って もいい とい うことで した。 行 きた くな い とい って もだめで した。 私 の家族 か らは2人 出 さな ければな らなか ったか らです。私 と兄 です。拒 否 はで きませんで した。絶対行 かな けれ ばな らなか ったんです。 その当時, 日本軍 の命令 4) gedhegake,gedhegが語根で竹壁の意味,akeは他動詞化する接尾辞。 261

(5)

東 南 ア ジア研 究 34巻 1号 には絶対従 わなければな らなか ったんです。 日本軍政府 にはとにか く応 じる しかなか った んです。 だか ら私 は召集 を受 け入 れたんです。 で も私 は喜 んで受 け入 れたんです。私 は出 稼 ぎのつ もりで した。 そん なわ けで私 は喜 んで受 けたわ けです。 いやだ とはいえなか った んです。兄弟 が多か ったか らです。兄弟 が多 い と 2人召集 され,少 ない と 1人 で した。 も し男 の子 が いなければ,女 の子 が要求 され ま した。 日本軍政府 は村長 に差 し出す労務者 を 割 り当て,村長 は村民 にそれを話 しま した。 村長 は 「あそ この家 は子供 が何人 い るか

?

と村人 に訊 いて

(

「5

人 です」 とい う答 えを 聞 いて)「5人か。よ し1人 だ

「あそ こは

?

「9人 です

「よ し,それな ら2人 だ」 とい っ た具合 に,差 し出す人数 を決 め ま した。私 の村か らは確 か20人以上 はいた と思 います。 し か しその多 くは戦争 中に死 にま した。村全体 の人 口は判 りませんが,一 つの村 には7つか 8つ の集落 が あ りま した。 そ して二 つ の集落 か ら 20人以上 の子供 が召集 を受 けたわ けで す。 17歳 で召集 を受 けた彼 の兄 は後 に戦闘 に巻 き込 まれて死亡 した。

日本軍時代のスキマン氏

日本 時代 の 日本人 はマ レー語 が あ ま りうま くあ りません で した よ。 主人 は 「これ, こ れ」, 「もって こい, もって こい」, 「上等,上等」 な ど片言 の 日本語 を使 っていま した。馬 鹿 な人 は意味が判 らな くって うろ うろ して いると

,

「ばかやろ-」と怒 鳴 られて殴 られ ま し た。何 か取 って こい と命令 されてて ものろのろ してい ると殴 られ ま した。早 くや らなけれ ばな らないか らです。可愛 そ うで した。 下 っ端 の兵隊 は台湾人か朝鮮人 か,中国人 のよ うな人達 で した。マ レー語 が上手 で した。 だ けど彼 らは捕虜 で した し,悪 だ ったんです。本 当の 日本人 はアルース (上品) で した。 ジャワでた とえれ ば ソロの人 の よ うで した。 私が もっと頑が よか った ら日本 時代 もその後 ももっと上 の方 の仕事 をあてがわれていた と思 います よ。 私 は日本時代 に はボーイに させ られ ま した。 日本軍 の時代 にはまだ読 み書 きがで きなか ったので監督 にはな りた くなか ったんです。 それで ボーイにさせ られ たわ け です。 あ る日,人 が倒 れま した。 「何 で あの男 は働 か ないのか

?

「彼 は病気 なんです

「どこが悪 いんだ

?

262

(6)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進 のための戦 い 「お腹 です」 「それな ら食 べ ち ゃいかん」 「頑 が痛 いんです」 とい うと 「働 か な き ゃいかん。あ っちへ行 け。褒美 が あ るぞ」それで 言 われた方 -行 くと殴 られ ま した。「働 け。働 け。働 か な き ゃいかん。怠 け るの はけ しか ら ん」 私 も日本人 に2回殴 られ ま した。 1回 目は こ うで した。主人 の灰皿 に少 し水 を入 れて置 いたんです。灰皿 に置 いたたば こが燃 え尽 きて しまわないよ うにす るためで した。 そ う し て残 った吸 い殻 を病院 にい る病人 に持 って行 って売 ったんです。 なぜ売 ったか とい うとそ の当時 たば こは売 って いなか ったか らです。吸 い殻 は一 つ5リンギ ッ トで売 りま した。 た ば こを吸 え るの は 日本 の旦那 たちだ けで した。 ところがつ いに主人 も気 が付 いたんです。 なんで半分 しか吸 って いないの に消 えて しま うのだ ろ うと不審 に思 ってや っと判 ったわ けです。そ こで私 は主人 に言 った。「全部 吸 った ら御主人様 は病気 にな って しまいます。 たば この煙 が御主人様 の体 に入 って病 気 にな りま す」 と。 しか し主人 は私 のい うことを信 じませんで した。「ばかや ろ-。 もうこん な ことを した ら承知 せんぞ」 と言 って殴 られ ま した。 2回 目は こうで した。私 はた くさん の食事 を主人 に出 しま したので いっ もた くさん残飯 が出 ま した。私 はその残飯 を捨 て るの は もったいない と思 いま して, ためてお いてそれを 病院 にい る病人 にや ったんです。病 院 の食事 は十分 で はなか った し, た とえお金 が あ って も病院 に食 べ ものを売 りに来 る人 はいなか ったんです。 これ もだめだ と言 われて殴 られ ま した 。 日本 に は 日本 の 「や りかた (ア ダ ッ ト)」が あ ります。 「死 ぬ ことは素晴 しいか (Mati baguskah?)」 と聞 かれた ら 「死 ぬ ことは素 晴 しい ことです。 御主人様 (Matibagus, Tuan)」と答 え な け れ ば な らな か った ん で す。 「お許 し くだ さい 。 御 主 人 様 (Minta

ampun,Tuan)」とか,「とんで もございませ ん。 御主人様 (Jangan,Tuan)」な どと答 え

よ うものな ら殴 られ ま した。「お許 しくだ さい」と答 えて殴 られ,立 ち上 が ると反対側 か ら 殴 られ ま した。それが 日本 の 「や りか た」だ ったんです。私 はそ うい う日本 の 「や りか た」 が判 った もんですか らあま り殴 られ ませんで した。 遠 くの村 に塩 を買 いに行 った ことが あ りま した。売 って い る もの は少 しで した。近 くで はあ ま り売 って いなか ったん です。頭 の い い人 が いて猫 を殺 して そ の肉 を売 って い ま し た。大 きい猫 にな るといい値 で売 れたんです。村 には塩,芋 (キ ャッサバ),バ ナナな どを 買 いに行 ったんですが,主人 に見つか る と殴 られ ま した。干飯 (kerak)や こげ飯 は この位 の大 きさの もの は5リンギ ッ トか ら10リンギ ッ トで売 れ ま した。

(7)

東南 ア ジア研究 34巻 1号 ⅠⅠⅠ 英 国植 民地 時代 の スキ マ ン氏 日本軍 が降伏 した後,日本 の兵 隊 は国 に帰 された。そ して 1946年 7月 にサバ はイギ リスの直 轄植民地 とな った。 ジャワか らの ローム シ ャはオ ラ ンダ船 で ジャワに帰 れ るとい うことにな っ たが,行 き先 は ジ ャワで はな くパ プア (イ リア ン) だ とい う噂 が流 れ,乗船 を見合 わせ た ジ ャ ワ人 が多 か った とい う。 ローム シ ャの一人 カル デ ィ氏 (仮名) は こう語 って い る。 戦争 が終 わ った 45年,私 は ラブア ンで オー ス トラ リア人 や イギ リス人 の下 で倉庫 の荷 役作業 を して いま した。一 日1リンギ ッ トで した。 あ る 日, オ ラ ンダ人 の船 で イ ン ドネ シ アに帰 れ るとい うことを聞 いたのですが,帰 るところは ジャワで はな く, パ プアだ とい う 噂 を聞 いて帰 りた くな くな りま した。 それで 「帰 りた くない」 とい った ら,飯 は少 ししか くれ な くな りま したよ。 実際, あの ときにオ ラ ンダの船 に乗 った ジ ャワ人 はイ リア ンに連 れて行 か れたのだ, と多 く の ジャワ人 は語 って いた。その後,英国植民地政府 か らは二度 と帰 国 の用意 はな されなか った。 そのために今 日で も多 くの旧 ローム シ ャがサバ に居残 る運命 とな ったので あ る。 ところで, スキマ ン氏 は英国植民地 時代 の 自身 の生活 につ いて次 のよ うに語 った。 墓 掘 りの監督 とな る 私 は子供 の ころ教育 の大事 さを全 く判 って いませんで した。 しか し, ボル ネオに来 て戦 争 が終 わ ってか ら教育 の大事 さに気 がつ きま した。私 はなぜ学校 に行 か なか ったのか と後 悔 しま した。 もっと勉 強 して いた らもっと頑 が よ くな って いたのに と悔 やみ ま した。 私 は 小 さい ときア ラ ビア文字 だ けは うまか ったのです。 とい うの は,村 のイ ス ラム礼拝所 (ラ ンガール)で コー ラ ンを読涌 して いたか らです。読詞 には行 か な くて もよか ったんですが, 行 けば なお よか ったんです。 たいて いの親 は行 かせ よ うと しま した。私 の親 も私 が家 でぶ らぶ ら して い るのを嫌 いま した。今 の子供 た ちはみんな ア ラ ビア文字 の読 み方 が もっとう ま くな って います。 白人 の時代 にな って も 「私 は字 が書 けない し,読 めないか ら監督 に はなれ ない」 と辞退 したんですが,事務所 で 「シス トは 3番, シノ ヨは 4番 とい うよ うに番号 が判 って彼 らの 仕事 ぶ りを報告 すれ ばいい」 とい うので命令 に従 ったんです。 マ ン ドール [墓穴掘 りの監督] にさせ られ たんです。私 が監督 だ って い うこと,3カ月 間誰 も知 りませんで した。

(8)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戦い [監督 にな る前]私 は病院 の墓場係 を命 じられ ま した。死人 が出 ると遺体 を墓場 まで運 ん で埋 め る仕事 で した。死者 が出 ない ときに は,私 はぶ らぶ らして い るのが嫌 な もんですか ら庭 の花 の世話 な どの仕事 に精 を出 しま した。 それ は命 じられてや ったので はな く,私 の 自発 的 な行 いで した。 あ るとき軍 曹 に呼 ばれ ま した。 そ して 「今 か らお まえを8人 の部下 に守 られ る監督 にす る。 死人 が 出た ときに は 4人 が穴 を掘 り,残 りの 4人 が遺体 を担 ぎ, お まえ はただ指図す るだ けで よい」 とい うので した。 しか し軍曹 か らそ うい う命令 を受 け てか ら3カ月間 は誰 も私 が監督 にな った ことを知 りませんで した。私 はみんな と一緒 に仕 事 を していた し,私 が監督 にな った ことを誰 に も言 わなか ったか らです。 ところが,給料 を受 け取 るときに私 だ けが他 のみん なよ り多 い ことが判 って しまいま した。 それで,何 で スキマ ンだ けが給料 が多 いのか文句 を言 い始 めたのです。 私 はアル フ ァベ ッ トが読 め ませんで したが,数字 は判 りま した。朝 の点 呼 の とき全員 が 番号順 に並 びます が,私 はそれぞれの番号 を覚 えてお いて一 日の仕事 が終 わ ったあ と上 司 に は番号 を指 しなが ら,これ は働 いた,これ は働 かなか った,とい うよ うに報告 しま した。 どの人 も頑 が よか ったんです。 みん な数字 が理解 で きたんです。 なぜ スキマ ンはいっ も 番号 を見 て い るのか といぶか る人 もいま した。 9人 の うち 5人 は私 よ り先 にいま した し, 大体 同 じ年齢 で したので なぜ新入 りが監督 にな るんだ と怒 る人 もいま した。 だか ら殴 られ るか も しれない と思 って こわ くて監督 にな った ことを黙 っていま した。 バ ン ドン出身 の男 が監督 にな った ことが あ りま したが,皆 か ら嫌 われ殴 られて死 んで しま った とい う話 を聞 いて怖 くな りま した。 そ こで,他 の仕事 に代 えて くれ と上 司 に頼 み ま したが, 聞 いて くれ ませ んで した。 43年,45年,46年,戦争 のあ と,ああ,自分 が アル フ ァベ ッ トを読 めないのを嘆 きま し た。 それで ア ラ ビア文字 と比 べ なが らアル フ ァベ ッ トの発音 の仕方 を少 しずっ覚 えて い き ま した。 この ア ラ ビア文字 と この アル フ ァベ ッ トが同 じな らこう発音す るんだ とい った具 合 に, だんだん アル フ ァベ ッ トを書 けるよ うにな り,読 め るよ うにな りま した。 私 は 6カ月間, 白人 の ところで働 いて い ま した。 サ ンダカ ンで も 6カ月働 きま した。 そ のあ と,少 しお金 が た ま ってか ら食 べ物 を売 る商売 を始 め ま した。繁盛 すれば儲 け も大 き い と思 ったか らです。 植民地政府 に嘘 をつ いて食 品販売許可証 を取得す る 1947年 に トゥア ラ ン [コ タキ ナパ ルか ら北 東 方 向 30キ ロほ どの と ころ に あ る町] で ソ ップ [ジャワの汁物料理 「ソ ト」 の こと] とサ テを売 る仕事 を始 め ま した。 で もそ こに は 1年 もいませんで した。 それか ら トゥ レポ ック [トゥア ラ ンとコタキ ナパ ルの問 にあ る 町] に1年 いて, そ して タ ンジュ ン ・アル [コタキナパ ル市南西部] か らピナ ンパ ン [コ

(9)

東南 ア ジア研究 34巻 1号 タキナパル市 の南東部 に隣接 した町]に釆 ま した。1948年,まだ結婚 していなか った頃, 私 は一 日18時間か ら20時間働 いた もんです。 や は りソップとサ テを売 っていま した。 ピ ナ ンパ ンの あ と49年 の終 わ り頃 に コタキナパ ル- 当時 はア ピ ・ア ピとい って いま した が- に移 りま した。 植民地政府 は若 い者 に食 品販売許可証

(

l

e

s

e

n,

s

ur

a

tke

be

na

r

a

nma

ka

n)

を出 さなか っ たのでその頃 の コタキナパ ルには 30軒か ら40軒 ほど しか食堂 はあ りませんで した。 タ ン ジュ ン ・アルには 5,6軒 しかあ りませんで した。 ゴム園 はた くさんの人 を必要 と して いま した。私 の よ うな若 い者 は物売 りを して はいけ なか ったんです。 しか し,私 は うま くや ったんです。物売 りをす るためにさ っそ く手紙 を 書 きま した。 「私 は昔食 べ物 をつ くる仕事 を していま した。

○ さん の ところで ボーイを して いま し た。今 は もうそ こで働 きた くないのでサテを売 りたいのです」。私 はサテとだけ書 いたんで す。あれや これや並 べたて ると許可 が取 れないだ ろ うと考 えたか らです。「私 の親 は もう年 老 いている し,私 には子供 も学校 に行 っている弟 もいるんです」。その頃私 にはまだ妻 はい なか ったか らこれ は作 り話 です よ。 あ とで親 を連 れて こい といわれ るとは思 って いません で した。 警察官 は私 の手紙 を読 んで 「ほ う, なか なか結構」 とい って奥 に入 ってい ったんですが 出て くると 「だめ」 と言 いま した。 そ こで私 は上官 に会 わせて くれ と頼 み ま した。上官 と い うのは白人 の地 区官 (D.0.)で した。私 は彼 の前 に行 って さっきの手紙 を渡 して 「ミス ター」 と言 ってか ら 「私 には年老 いた親 がお り,息子がお り,弟 がお ります。 だか らサテ を売 って働 かな ければ食 べて いけないんです」 と出任せ に言 った。 地 区官 は 「主人 とい うのは誰 の ことかね

?

」と訊 いた。その頃サテ売 りの親方 はいなか っ た ものですか ら 「旦那 です」 とだ け言 った。 す ると彼 は 「誰 が この手紙 を書 いたのかね。 タイプを打 ったのは誰 かね」 と尋 ねて きた。 「す みません。兄弟 が書 いて くれたんです」 「その兄弟 とい うのは誰 かね。教 えて くれんか」 私 は嘘を言 って いるか ら嘘がばれた ら許可 は もらえない と思 って考 え ま した。 そ こで私 は 続 けま した。 「それを書 いたの は兄弟 です。その兄弟 とい うのは,以前私 と同 じ家 に住 んでいた妻 の兄 で す」 その当時,私 には妻 はいませんで した。 しか しあ とで妻 にな った女 は もういま した。実 はその兄 に頼 んで書 いて もらったんです。 ですか ら結局,私 は嘘をつ いていないんです。 「そ うか。 それ じゃあ,薫別まどこにいるのかね

?

266

(10)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進 のための戦 い 「はい,判 りま した。親 を連 れて参 ります」 そ こで私 は一人 の息子 が い るジャワ人 の年 寄 りを探 しま した。私 はその年寄 りを役所 に 連 れて い きま した。 「旦那, これが私 の親 です」 その老婆 は1918年 に ジ ャワか ら渡 って きた人 で した。 「ああ, あん た には子供 はい るのか

?

と地方官 は尋 ねた。 「はい,旦那。 この子 は食 べ物 を売 ろ うとい うんです。それで許可証 が ほ しいん です。サ テ を売 ろ うとい うんです」 「何 で この子 はサ テを売 ろ うとい うん だね。働 き口は ゴム園 とか他 にい くらで もあ る じゃ ないか」 「ええ,この子 はい ろいろな仕事 を して きま したが,や っぱ り食 べ物 を売 る仕事 が一番 いい と言 って い ます。天秤棒 を担 いで あの村, この村 と回 って」 ど うです? 私 は話 を作 るの うまいで しょう? 私 は誰 かか ら入 れ知恵 されたわ け じゃな いんです よ。 私 は許可証 を もらいま した。 あち こちで食 べ物 を売 る人 は許可証 がないので び くび くし て いま した。 そ こで,私 のた くさんの友達 たちが許可証 を もらいに行 きま したが,誰 もも らえ ませんで した。昔 はサ テは1本 2.5セ ンで, 2本 で 5セ ンで した。 スープは-椀 で 20 セ ンで した。 幽霊屋敷 を借 りた 家 を貸 したい とい う人 が いま した。私 は 「空 き家 が あ るそ うですが, それを借 りられ ま すか

?

と尋 ね ま した。 「借 りられ ますかなんて もん じゃあ りません よ。 ど うぞ。 ど うぞ」 「それ はそれ は。 で も,何 でそん な風 にお っ しゃるんですか

?

「なぜか って い うんですか? それ はあの家 には幽霊 が出 るか らなんです よ。 それで もいい ですか

?

「ええ,結構 です よ。 で も, それな ら安 くして くだ さい」 と私 は言 いま した。 それで,私 は安 く家 を借 りることがで きま した。私 は家主 の中国人 に会 って掛 け合 いま した 。 「あの家 を借 りたいんです けれ ど」 「あん た は何 人家族

?

「私一人 です よ」 「え ー っ。 一 人で住 むん だ って

?

(11)

東南 アジア研究 34巻1号 「私 は食 べ物売 りです」 「どこで売 って るの

?

「あそ この店 です」 「ああ, あそ こね。 そ う。 いいです よ」 「安 くしておいて くだ さい」 「そ うだね。30 リンギ ッ トに してお きますか」 こうして私 は家一軒 を 30リンギ ッ トで借 りることがで きま した。普通 な ら 80 リンギ ッ トは した ところです よ。 その家 はそれ まで どの借家人 も2,3週 間 もす ると出て い ったんです。持 ち主 の中国人 は借家人 がなぜ出てい くのか知 っていま したか ら

,

「金 はい らない 。庭 の手入 れを して くれ て,(家 は傷 むか ら)住 んで くれ るだ けで いいか ら」と私 に言 ったんですが,ただで住 む と い うので は近所 の人 に恥ずか しいので, せ めて 25 リンギ ッ トは払 いたい と言 ったんです。 幽霊 はほん とうにいます よ。夜 10時か11時 に仕事 か ら帰 って くると私 はまず一 階の台 所 に行 きます。 朝5時 には コタキナパルに出か けるのでその仕度 を しなければな らないか らです。 その支度 が終 わ ると2階 に上 が って寝 ます。 そ うす ると本 当 に人間が歩 いている のが見 え るんです。それで下 に降 りると台所 の ところに もいま した。ええ,見 えま したよ。 その とき親 が言 っていた ことを思 い出 しま した。金曜 日の夜- 西洋暦 でいえば木曜 日の 夜 とい うことにな りますが- 寝 ないで戸 口の ところで 「ヤ シンの書」5) を終 りまで読 み ま した。 それを読 む と幽霊 は嫌 が るか らです。 それで幽霊 は怖 くて出て きませんで した。 必 ず逃 げ出すのです。 幽霊 は影 みたいな もので形 が あ るもので はあ りません。道化 (banyulan)の人 み たいな ものです。 しか し歩 いているのが見 え るんです。本 当 にいます よ。私 も妻 も実在 す るのを 知 って います。妻 は一人 じゃい られないんです。 だか らそ うい うときには妻 は店 か兄 の家 にい るんです よ。 その2軒 の家 に近 いんだ けれ ど幽霊 はその家 に出ないんです よ。他 の家 に移 ることはないんです。 幽霊 は蛇 みた いな もので3カ月 も姿 を見せ ない こともあ ります。夜 10時 に帰 って さて も見当 た らないが,二 階 に昇 るといること もあ ります。見 えないけれ ど肩 のあた りに感 じ る こと もあ ります。 も う一 人 の 自分 が後 ろに立 って い るみた いな ものです。夜,墓場 に 行 って感 じるよ うな もの とは違 う。 幽霊 は何 か悪 さをす るわけで はあ りません。 あ っち こっちを歩 き回 って いるだ けです。 ジンとい うのは悪 さを します。台所 の ところで ガ タガ タさせて邪魔 した り。私 はそれをお 5) コー ラ ンの第 27章。

(12)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進 のための戦 い ぼ け (oranghalus)とい って ます。 ジャワには トゥヨル (tuyol)がい る し, ジンもい る。 イ ス ラームの ジ ン。 ジ ンを飼 って い る人 もいますね。 ジ ャワ人 は, トゥヨルに他人 の金 品 を盗 んで くるよ うに命 じて, 金持 ちの家 に入 れ るのが うまい。 は, は, は。 そ うい う習慣 を持 ってい るジャワ人 は多 いです よね。 今 の若 い人 は邪術 な どは信 じな いか ら昔 の人 とは 違 い ますね。 カダザ ンの娘 と結婚 私 は1949年,20歳 の時 に結婚 しま した。その前年 の1948年,カダザ ン人 が多 い ピナ ン パ ンには ジャワ料理 の食堂 は少 な い ものですか ら,条件 はよい と判 断 して移 り住んで,負 堂 の一 角 を借 りてサテを売 り始 めたんです。 た またま私 のサ テ売 りを手伝 って くれた家族 が あ りま した。 その家族 は手伝 い賃 を払 お うと して も受 け取 ろ うと しない良 い人 たちで し た。 そ こで, その家族 の, 当時

8

歳 くらいの娘 を洗濯 や掃 除の手伝 いに頼 もうと母親 に申 し出ま した。 そ うした ら,母親 は 「そんな小 さい娘 じゃな く大 きいのが いるか らそれ に し た ら」 と言 ったんです。 それ じゃあ とい うので彼女 を使 うことに したんです。 しば らくして私 はコタキナパ ルに店 を出す ことに しま した。朝5時 に起 き,9時頃 にサ テの仕込 みを し終 え ると自転 車 で コタキ ナパル に向か うんです。帰 りはいっ も夜 の10時 か11時 にな り,寝 るの は12時 とい う毎 日で した。 そ うい う毎 日の中で二人 は恋 し合 う仲 にな りま した。 です けれ ど,一所懸命 に働 いて金 がで きた らイ ン ドネ シアに帰 って しまう ので はないか,と彼女 は心配 しま した。「豆 は皮 を捨 てて い く」けれ ど私 を捨 てないで ほ し い と彼女 は言 い ま した。私 たちは結婚 しま した。 彼女 は ピナ ンパ ン生 まれの カ ダザ ンです。 彼女 は子供 が生 まれ る前 か ら完全 に私 を信用 して いま した。 日々の収入 は私 が管理 しま したが,彼女 がそれを しよ うと した ことはあ り ません。一体 い くらの金 があ るのか と尋 ねた こともあ りませ ん。68年 の ことで した。一 人 の借家人 が妻 に訊 いた とい うんです。 「一 日の収入 はどの くらい

?

「知 らないわ」 「結構 あ るみたいだ け ど」 「何で そんな ことき くの

?

「あ ら,知 らないでいいの? 一 日い くら, 1カ月で い くらにな る ぐらいの こと知 らな きゃ だめよ

「知 らな くて もいいの よ」 「あんたの旦那, イ ン ドネ シア人 だ って」 「そ うよ」 269

(13)

東南アジア研究 34巻 1号 「大丈夫

?

」, とい った具合 だ とい うんです。 私 は まだ マ レー シア国籍 を取得 して いません。6) だか ら土 地 の所有 は妻 とい うことに な って います。 なぜ妻 の名義 に してい るか とい うことにつ いて は別 の理 由 もあ ります。妻 が私 を完全 に信用す るためです。私 は妻 を本 当に愛 しています。本 当に家族 を大事 に して います。 その証 と して妻 の名義 に して いるのです。私 は,妻 を手段 と して蓄財 に努 め,十 分 たま った らイ ン ドネ シアに帰 るとい うことを考 えて いるので はない とい うことを示す た めです。私 はそのよ うに見 られた くあ りません。 異民族 同士 の結婚 は互 いに考 え方が違 うか ら離婚 のケース もあ ります。 しか し,人間 と い うものは信心 が なければいけません。 名 目だ けの信者で はな くて本 当に神 の存在 を信 じ ている人間 は妻 を裏切 ることは しません。 必ず罰 を受 けることを知 って いるか らです。妻 だ って同 じことです。 夫 は妻 に対 して責任 を持 たな ければいけません。 妻 が信心深 くない とか,教育 が欠 けて いれ ば もの ごとを よ く理解 で きるよ うに教 え な けれ ば い けな いん で す。時 々,悪 い ことだ と知 りなが ら,悪 い ことを悪 いことだ と妻 に教 え ない夫 もい るが, それ は誤解 の元 にな ります。信心 の心 を もって教育 すれば必ず妻 はよ くなる ものです。 自 分 で は判 っていて も妻 を教育 しなければ,妻 は判 らないままで いることにな ります。反対 に,妻 は判 って いて も夫 を諭 さない。 た とえば,酒 を飲 んで酔 っ払 えば病気 にな ると妻 は 知 って いた と します。酒 を飲 む ことは宗教 で禁 じられて いることを知 っていた と します。 しか し,夫 が酒 を飲んで もその ことを教 えない。 それ どころか, 自分 も一緒 にな って飲 む なんて, これ は間違 いです。妻 として夫 のあ るべ き態度 を守 るよ うに しなければな りませ ん。 キ リス ト教 の 日本人 とイス ラム教 のイ ン ドネ シア人 が結婚 した と しま しょう。 お互 いに 尊敬 しな くて はいけません。 お互 いに教育 し合 わな ければな りません。 キ リス ト教 の人 は 酒 を飲 ん で いいのか悪 いのか私 は知 らないが, 日本人 はよ く飲 む ことを私 は知 って い ま す。 イス ラームの人 は酒 を好 み ません。 そ こで, 日本人 の妻 が イス ラームの夫 に諭 され る とす れば 日本人 の妻 は傷 っ くわ けです。 しか しイ ス ラー ムの教 え も教 え な ければ な らな い。 キ リス ト教 が酒 を飲 んで妻 を殴 って もよい と教 えて いるとは思 え ません。 今移民局 があ るところに私 は店 を持 っていま したが, そ こで間貸 しも して いま した

。4

9

年 の ことです。 ドゥス ン族 でキ リス ト教 の男が部屋 を借 りて いま した。 その妻 はまだ宗教 があ りませんで した。夫 と同 じ ドゥス ン族 で した。 あ る夜,私 はその家族 の部屋 に行 きま した。夫,妻 そ して子供, みん な座 って いま した。 6) サバに残 った多 くのロームシャたちは既にマレーシア国籍を取得 しているが

,

「対決」 のときにイ ンドネシア人協会の役職に在った人たちは今でも国籍を取得できないでいる。 270

(14)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戟い 「なんで さ っきは喧嘩 なんか したんだね。真夜 中だ って い うのに。あ っち こっちの間借 り人 に聞かれた らみ っともない じゃないか。 なんで喧嘩 にな ったんだ」 「この人 が酒 なんか飲 むか らです」 キ リス ト教 の人 はよ く酒 を飲 み ます。昔 は酒 は安 か った。大瓶 で2リンギ ッ ト半,小瓶 で1リンギ ッ ト半,いや,大瓶 が 1リンギ ッ ト半 で小瓶 が80セ ンだ った。今 は8リンギ ッ トか9リンギ ッ トだ。 しか し昔 は 1カ月 の収入 はい くらだ ったか。一 目で 1リンギ ッ トか 2リンギ ッ トで した。 その妻 が言 いま した。 「酒飲 んで酔 っ払 うんです

夫 の方 も何 かを言 い出そ うと したので,私 はそれを さえ ぎって, 「ち ょっと待 て。俺 が訊 くか ら。 それ に して も夫 と争 うなんて よ くないよ」 と言 ってか ら, まず妻 の言 い分 を聞 くことに しま した。 妻 はいいま した。 「この 4カ月,給料 を全部飲 み代 に使 って しま ったんです」 「何 だ って?,お まえ,毎晩酒 を飲 んで るんだ って。酒 は宗教 が禁 じて い るんだぞ。酔 っ払 っ て女房 を殴 るなんて。 お まえ は損 して い ることにな るんだぞ。 い くら祈 った って何 の役 に も立 たない じゃな いか。一 日一本飲 めば1カ月で何本 にな る? 5本飲 まな きゃマ ッ ト一 枚 が買 え るだ ろ。 お まえの ところには子供 のマ ッ トがない じゃないか。3本飲 まな きゃ子 供 に枕 を買 ってやれ るだ ろ。 いつか子供 が学校 に行 くよ うにな った らど うす るつ もりだ。 本 も買 えない じゃないか。男 に は責任 があ るんだぞ。お まえの給料 は月 30 リンギ ッ トだ と か。飲 むな らお茶 か コー ヒーに しろ。そ うした くない とい うんな らここを出て行 って くれ。 俺 は恥 ずか しい。こんな屑 みたいな奴 を置 いてお くなんて。俺 は, 自分 の子供 と患 うよ う な人間 じゃな きゃ住 んで もらいた くないよ」 今 の移民局 の ところにあ った店 は月 70 リンギ ッ トで借 りま したが, 1951年 に買 い取 り ま した。 コタキ ナパ ル に店 を出す とき,現在 ア ジア ・ホテルの所有者 にな って い る店主 (中国人)が飲 み物 を売 り,私 が食 べ物 を売 ったんです。その時,その店主 に許可証 はあ る か と訊 かれたので許可証 を とろ うと思 ったんです。 イ ン ドネ シア人協会 を作 る スキマ ン氏 はサバ に住 む イ ン ドネ シア人 の安寧 と発展 を考 え, 同志 たち と協力 して 「ジェ ッ セル トン ・イ ン ドネ シア協会 (PersatuanlndonesiaJesselton)」を組織 した。ジェ ッセル トン とい うの はア ピ ・ア ピと並 ぶ コタキナパ ルの旧称 で あ る。

私 は, まず第一 に 自分 の子供 を教育 す るのが大事 で あ るの と同 じで,他 の民族 を導 くよ りも先 に 自分 の民族 を導 く必要 が あ ると考 え ま した。 自分 が正 しい道 を歩 けるよ うになれ

(15)

東南アジア研究 34巻1号 ば他 の人 に も教 え られ ます。 自分 が正 しくな くて ど う して他人 を正 す ことがで きま しょう か。他人 が受 け付 けるはず はないで しょう。 英 国 の植民地 時代 にはまだ協会 はあ りませんで した。 中国人 たちのなか に も協会 に似 た よ うな組織 はあ りま したが, まだ小 さい もので した。1957年 や 58年 当時 の イ ン ドネ シア 独立記念 日には中国人会 の会長が きた もので,彼 は 「あん た は もうこん なにた くさんの会 員 を集 めたイ ン ドネ シア入会 を作 って い るのか」 と驚 いて いた ものです。 1960年 に協会 の憲章 を作 りま した。それ以前 には協会 のよ うな もの はな くて,イ ン ドネ シアか ら賓客 が来 ると,植民地政府 は私 を呼 びつ けて,何 を買 い, どん な料理 を作 るかを 尋 ね, それを用意 す る仕事 を任 され た もので した。 そ う した経験 を積 む うちに このサバで イ ン ドネ シア人 が発展 す るに は ど う した らよいか, その ため に は政府 の許 可 を得 た会 を 作 った らいいので はないか と思 うよ うにな ったんです。単 な る仲 間 の集 ま りの会 で は しっ か り した ものにな らない と考 え ま した。 そ こで会則 を作 りま した。 それ は政治団体 で はな く,社交 団体 で した。 1946年 に ラブア ンで ス ラ ッ トマデ ィとス プ ラプ トの兄弟7)が イ ン ドネ シア人労 働組 合

(PersatuanKaum BuruhIndonesia)を作 ったんですが,その とき私 は社会部 を担 当 しま した。スラ ッ トマデ ィ兄弟 は日本 時代 に ラブア ンに来 ま したが,当時 で

3

0

歳位 で した。あ の人 たち は56年 か 57年 に帰国 しま した。46年 に ブル ネイやサバ にいたイ ン ドネ シア人 の 全 てが ラブア ンに集 め られ ま した。 7,8千人 もいた と聞 いて います。 46年 の最初 のイ ン ドネ シア独立記念 日はラブア ンで迎 え,右 にユ ニオ ン ・ジャック,左 にイ ン ドネ シア国旗 を立 て ま した。第二 回 目と第三 回 目は コタキナパ ルで行 いま した。 ス ラ ッ トマデ ィ兄弟 が 帰 国 したあ とは私 が旗 を立 て る役 にな りま した。独立記念 日はジェ ッセル トン ・ホテルで 行 いま した。私 は協会 を政府 に認 めて もらうために公式 の文書 を書 きま した。61年 に協会 は認 め られ,私 の食堂 でそれを祝 いま した。 なぜ文章 もうま く書 けない私 が協会 の会長 に選 ばれ たのか不思議 ですね。 サル ジャナ ・ ムダ [大学卒程度 の学位] もいたのにた くさん の人 が私 を推 したんです。 それ は,私 が 白 人 [英 国人] に対 して物怖 じしなか ったか らだ ったんです。他 の人達 は怖 が って しま うん です。 なぜ物怖 じしなか ったか とい うと, それ は, もし物怖 じして いた ら何 もで きないか らです。本 当 は内心怖 か ったんですが,怖 が って いた ら協会 がで きない と思 ったか らです。 白人 はた くさん いま した。彼 らはマ レー語 が うまか ったか らマ レー語 で話 しま した。 会 を作 って初 めて援助 を求 め る ことがで きるとい うもんです。 た とえば独立記念 日か イ

7) AliUmry Nasutionによればこの二人の兄弟はジャワの貴族の称号であるラデン (Raden) 杏 持 って いた とい う [AliUmryNasution1990:36

]

(16)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戦い ン ドネ シアか ら賓 客 が来 た とか で10人 が集 ま った と します。 そ の ため に料 理 を用意 しな けれ ば な らな

い。

しか しお金 が な い。 そん な と きに は まず お金 を作 る こ とで す。 そ して 人 々が それ を知 った ときに彼 らに援助 を求 め る ことがで きるんです。 これ はイ ン ドネ シア 人 に向か って の話 で, はか の民族 の人達 に は要求 で きません。 あ りが た い ことに少 しず つ 集 ま って よ うや く借金 を返 せ るわ けです。 だ け どいっ も十分 な金 が集 ま るとい うわ けで は あ りませ ん。私 の持 ち出 しとい うこと もあ ります。 私 の店 で会 合 を持 った ときな どは, と きど き, いや, いっ も食 べ物 や飲 み物 は私 の負担 で した。 妻 も協 力 的で した。「対決 (コ ンフロ ンタシ)」8)のあ と,1968年 に初 めて スバ ル ノ領事 が 在 コ タキ ナパ ル ・イ ン ドネ シア領 事 館 に就 任 しま した。初 代 の領 事 は ム ン トロ氏 で 1962 年 の就任 で した。 スバ ル ノ氏 は2代 目です。 た くさん の イ ン ドネ シア人 が領事 公邸 に集 ま りま した。妻 は婦 人 たちの世話 を しま した。 その当時,子供 た ちを学校 にや らな けれ ば な らな い し, 家計 は火 の車 で, その 日に入 っ た金 は次 の 日に は消 えて しま うとい うあ りさまで した。 だ け ど経営 はそれ ほ ど厳 しい とい うわ けで はあ りませ んで した。「神 は もっと金持 ち」といいます。神 は人 間 よ りよ く知 って います。 だか ら神 は幸 福 を与 え る ことがで きるのです。私 は喜 んで その幸 福 を追 い求 め ま す。私 はそれを確信 して います。 自分 を社 会 のため に犠牲 に した者 を神 は知 り, その者 に 報 いを与 え るとい うことです。 それ はイ ス ラムの教 えで, 私 が親 か ら教 わ った もので はあ りませ ん。 私 の親 はそんな ことを教 え られ るよ うな親 で はあ りませんで した。 そ うい うこ とは こち らに来 てか ら学 びま した。 サバ に住 んで い る ジ ャワ人 は始 めの うち は同 じよ うな境遇 にい ま したが, いっ の間 にか 差 が 出て しまい ま した。 その差 は独身 の若 い うちか ら出て い ま した。独身 で あ って もいず れ結婚 し,結婚 す れば子供 も生 まれ ます。 そ うなれ ば 自分 の家 も必要 にな る し,教育 の こ と も考 え な けれ ばな らないで しょう。 その ため に金 を ため よ うと しな けれ ば い けな い。 しか し, そ う した者 もいれ ばそ う しなか った者 もい ま した。私 は協 会 で いっ も言 って い ま した。年 寄 り世代 に は間違 った者 が多 い。 しか しこれか らの若 い者 は決 して それ を繰 り 返 して はな らな い。 第一 に,自分 の将来 を私 た ち老人 はあま り考 えなか った けれ ど,考 え な けれ ばな らな い, と。 頑 の い い人 はよ く考 え ま した。 だか ら, 今,楽 を して い ます。 もち ろん, 豪勢 とい う 8) 1963年 9月 16日に予定 されていたマレーシア連邦独立に対 してスカルノ政権下にあったインドネ シアはこれを承認せず,63年 1月か ら外交関係の断絶やインドネシア軍のサバ ・サラワク侵入な どを展開 した事件。 この紛争 は1965年のインドネシア政変などもあり, ス-ル トが実権を握 った 66年 5月まで続いた。 その間, サバ在住の多 くのインドネシア人は嫌疑を受け, 当局の取 り調べ を受け,投獄された。

(17)

東南 ア ジア研究 34巻 1号 に は程遠 く,質素 な生活 で はあ りますが,楽 を して い ます。 もう何十年 もここに住 ん で い るの に家 は借 家 とい うので は困 ります。 第二 に,彼 らは博 打 が好 きで した。昔 , ゴム園 で働 いて いた独身 時代 に, ゴム園 を経 営 して いた白人 た ち は賭博場 を開帳 す れ ば ジ ャワ人労働 者 を縛 りつ け られ る と考 え ま した。 月 に2回 で した。博打 で金 を使 い果 たせ ば前貸 しす るん です。 ですか ら月末 に どれだ けの お金 が手 元 に入 る ことで しょう。 た とえ1カ月 の給料 が 100リンギ ッ トだ った と して も, 50リンギ ッ トを前借 り して いれ ば 50リンギ ッ トしか手 に入 らな い。 みん な博打 をや りま した。 白人 経営者 が大 きな建物 を建 てて賭博場 に しま した。 そ うい う賭博場 は どの ゴム園 に もあ りま した。1917年,18年,20年 に ジ ャワか らや って きた人達9)はみん な博打 が好 き で,生活 は貧窮 の極 みで した。 お じい さん た ちが ここで博打 をやれ ば, その息 子 た ちが そ の向 こ うで,そ して孫 た ち もその向 こ うで博 打 をや る とい うあ りさまで,驚 いた ものです。 フ ィ リピンや イ ン ドネ シアか ら外交 代表 団 がや って きた ことが あ りま した。 私 はイ ン ド ネ シア領事 に訊 いた ものです。 「領事 は何 日 ここに滞在 され ます か

?

「三 日の予定 です よ」 「三 日ですか。それで は ゴム園 に ご案 内 いた します。といい ます の は,サバ の ゴム園 で はイ ン ドネ シア人, その多 くは ジ ャワ人 です が, その人 たちが月 に 2回 白人 の と ころで博打 を します。 そ こで,領事 が帰 国 され た ら, サバ の イ ン ドネ シア人 た ち はよ く博打 を して い る ことをです ね, それ も, こ っちで は老人 た ち, あ っちで はその息子 た ち, そ して その向 こ うで は孫 た ちが熱 中 して い る様 子 を是非知 らせ て欲 しいんです」 私 は, こん な ことで は将来, ここにい るイ ン ドネ シア人 の子供 た ちに どん な結果 を もた らす ことか, とて も心配 で した。子供 や孫 は何 と してで も学校 にや らな けれ ば い けな い と 思 いま した。 17, 18,20年 にや って きた人達 は とにか くめ ち ゃ くち ゃで した。終戦 後, ラ ブ ア ンか らラバ ウの ゴム園 にや って きた イ ン ドネ シア人 た ち は,前 か らい た た くさん の ジ ャワ人 た ちが, ただ ゴムの樹 液 を取 る仕事 だ けで空 き地 に何 を植 え るで もな い生活 で, 何 か を請 け負 って少 しで も足 しにす るで もな い, ただ豆削こあ るの は博打 の ことだ け とい う 生 活 ぶ りを見 て驚 いた もん です。 そん な調 子 ですか ら, か りに何 か を頼 まれて もど う して よ いか判 らない。将 来 に向 けて ど う した らよ いか な ど考 え も及 ばなか ったわ けです。 と ころが,54年 に ラブア ンか らや って きた ジ ャワ人 は3時 に ゴム園 の仕 事 が終 わ る と鍬 9) 1917年,18年,20年にやってきたジャワ人 というのは北ボルネオ特許会社がゴム園の契約労働者 として雇用 したジャワ人たちのことである。 太平洋戦争直前の1941年に北 ボルネオ保護領政府が 発行 した報告書 には1914年以降41年 までの年毎のジャワ人労働者の死亡者数,帰国者数,定住 者数,再契約者数などが詳細 に記録 されている。

(18)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戦い を もって空 き地 を耕 しま した。 だか ら半年 もす る とた くさん の作物 を手 にす る ことがで き ま した。 しか し前 か らいた イ ン ドネ シア人 た ち は10年経 と うと 20年経 と うとま った くお 金 は残 りませんで した。 違 い はそん な もので した。 1942年 にや って きた ジ ャワ人 の中 に も博 打 に と りつ か れ た者 もいて困 った もので した。 他 人 の話 や忠告 に耳 を傾 け る人 々 とはま った く別 で した。私 はい ろい ろな人 に忠告 して き ま した。 私 の忠告 に耳 を傾 け る人 もいま したが, 傾 けな い人 もいま した。 60年 に私 が音 頭 を と って きた協 会 が 61年 に植民地政 府 か ら許可 を得 た とき,ジ ャワ人, ブギ ス人, ブ トン人, テ ィモール人 な ど民族 ごとに組 をっ くり,組 長 を選 び ま した。 そ う す る冒的 を私 は説 明 しま した。 それ は, テ ィモ ール人 はテ ィモール人 自身 を守 らな けれ ば な らな い。 ブギ ス人 は ブギ ス人 自身 を守 らな けれ ば な らな い。 人 間 とい うもの はほん と う は良 いので あ って, よ く働 く人 間 に な らな けれ ば な らな い, そ の た め に民 族 単 位 で助 け 合 って いか な けれ ば な らな い。それが私 の 目指 した もので した。ジ ャワ人 は もち ろん です。 です か ら,通 りか か った人 が ジ ャワ人 だ と判 る とよ く見 て か ら 「お茶 で も飲 んで行 か な いか」 と誘 いをか けて 「ど こに住 んで い るの

?

とか 「仕事 はあ るのか

?

な どと訊 い た も のです。 それ に対 して 「いいえ, な いん です」 な ど とい う答 えが返 って きた ら 「何 で仕 事 が な いの。 私 た ち は どん な仕事 で も しな き ゃい けな い。仕事 を選 ん じゃい けな いよ,金 が な いん な ら。 何 も しな いでぶ らぶ らして いた らここの人 た ちに恥 ず か しい じゃあ りませ ん か」 あ ち こちに泥 をつ けた ままの格好 で コタキ ナパ ルの町 に野 菜 なん ぞを運 んで きて ち ょっ と一休 み して い る人 が いた りす る と言 うん です よ。 「土地 が あ るん な ら木 を植 え な さいよ。 それで食 って い け るで しょ」。要 す るに,私 と同 じ民族 の人 間 が私 の店 にや って きて 1時 間 もそれ以 上 も座 った ままぱ ー っと して お茶 をすす って い るのを見 るのが た ま らな く嫌 なん です。 そ うい う人 を見 る と私 は注 意 しな い と気 が済 まな いんです。 しか し, ジ ャワ人 で はな いイ ン ドネ シア人 とな る とそ う簡 単 に はい きませ ん。 ジ ャワ人 だ とたいて い は私 の言 うことに耳 を傾 けます。 昔, 税 関 の荷役 作 業 を して い た ジ ャワ人 が た くさん い ま した。 そのなか の一 人 が カ ンポ ン ・アイール [コ タキ ナパ ル市 内 の一地 区。 水上 家屋 が あ った] に一軒 の家 を借 りて い ま した。 カ ンポ ン ・アイ-ル はそ の当時, まだ海 で した。今 はた くさん の家 が建 って います が。 その男 がや って きて言 い ま した。 「スキマ ンさん,私 の給 料 はいっ も食 べ るだ けで な くな って しま うんです。家賃 も払 え な い 状態 で, ど う した らいい と思 いますか

?

「お まえ はまだ独身 だが, いっ か妻 子 が で きた らど うす る? も しお まえ のつ れ あ いが頑 が よ けれ ば いいだ ろ う。 だ け ど,そ うで はなか った らど うす る? ここの (植民地 )政府 は土

(19)

東 南 ア ジア研 究 34巻 1号 地 を耕 した い と思 う者 に は土地 を与 え ると言 って るよ。 その土地 に野 菜 で も植 え て大 き く な った ら 10束, 20束, 30束 とま とめて売 った らど うか ね」 そん な忠告 を聞 いて それ を実行 に移 した者 もいま した。私 の忠告 を聞 いて コー ヒーや コ コヤ シを植 えて金持 ちにな った人 もい ます。 1950年代 の話 です。 ムル氏 [後述] は協 会 に入 ろ うと も しませ んで した。 祝 日な どに領事 館 で開 か れ る集 ま りに来 よ うと しな い人 は他 人 の考 えが判 りません。 なぜ領 事館 の独立記 念 日の集 ま りに こ な いのか。食事 もで る とい うの に。「忙 しい。忙 しい」 と人 は言 い ます。そ うい う人 に私 は こ う言 い返 す のです。 「一 年 に一 回 の こと じゃあないか。 『忙 しい』 な ど とい うの は理 由 に な らな い。役所勤 めな ら 2,3時間 の休 み を取 った らいい。自分 の個人 的 な ことを優 先 す る のか。 もうマ レー シア国籍 を と ったか ら, 自分 の民族 を忘 れ たのか。 もった いな い。 あん た はいいか も しれ な い。 しか し子供 も孫 も損 す る ことにな らな いかね」 協 会 は絶対 に必 要 だ と思 うのです。 マ レー シア政府 の許 可 を得 て協会 がで きて, も し私 に引 っ込 め とい うな ら役職 を退 いて平会員 にな って もい いんです。 ただ親 が馬 鹿 な ら孫子 も馬 鹿 とい うの だ けは望 まな い とい うこ とです。 経 済 の分 野 で は協 会 を利 用 した にせ よそ うで なか った にせ よ中国人 の場 合 に比 べ る と ジ ャワ人 との差 は大 きいんです。50年 代,60年 代 そ して今 日,彼 らに は資本 が あ ります。 彼 らの場 合,貧 しけれ ば金持 ちか ら借金 で きる。 そ うい う援助 で彼 らは発 展 す る ことがで きたんです。 そ こへ い くとイ ン ドネ シア人 の場 合 は違 う。 た とえば あ るイ ン ドネ シア人 が 経 済 の発展 を望 ん だ と します。 そ こで牛 を飼 った り,食 べ物 の販売 を始 め よ うと します。 しか しど こか ら元手 を手 に入 れ るのか。結局, 資本 が な いので考 えだ けで終 わ って しま う んです。 中国人 の場 合 に は考 えだ けで終 わ る ことはあ りません。実 現 す るのです。 なぜ か とい う と, た とえ ば近所 を見 る と皆金持 ちです。 「よ し, あそ こに金 を借 りに行 こ う」。 借 り手 が 過 去何 の失敗 もな けれ ば なお さ らの ことです。 「よ し, あそ こで金 を借 りよ う」。借 金 して 小 さな商売 を始 め て や が て大 き くす る。 大 き くな った らまた借 金 を して も っと大 き くす る。 と ころが, こ この人 は違 う。 政 府 か らだ ろ うが友 人 だ ろ うが金 を借 りる とす ぐに な く な って しま う。 そん な ことが ここで はた くさん あ る。 そん な ことで政府 は国民 を信 用 で き るだ ろ うか。 た とえ ば,古 い ゴムの木 を切 り倒 して若木 を植 え るよ うに政 府 が農民 に土 地 を与 え, 金 も貸 した と します。 しか しその金 は他 の ことに使 って しま うん です。牛 や鶏 を 買 うの に使 った り,魚 を育 て るの に使 って しま うん です。 そ うい う [ここの] 人 た ちに比 べ る と, イ ン ドネ シア人 の中 に は不正 直 な人 が いて, 気 を付 けな けれ ばな らな いんです よ。 私 に も経験 が あ ります。65年 の ことで した。一 人 の友

(20)

染谷 :絶対依嘱 ・勇気 ・前進のための戦い 人 が い ま した。彼 はムサ ボルの ゴム園 か らや って きま した。 彼 は, 「私 もコ タキ ナパ ルに住 んで スキマ ンさん の よ うに食 べ物 を売 る商売 を した いん です」 「ああ, そ う」 「私 は もう給 料生 活 が嫌 に な ったん です よ。 スキ マ ンさん の よ うに物 を売 って生 きた いん です」 「そ う, それで元手 はあ るんで すか」 「え え, それ なん です が, な いんです」 「だ け ど, ほん と うに物売 りを した いの

?

「ええ, ほん と うです」 「それ な らば,まず許 可 証 が必要 で す よ。売 るため の許可証 です よ。次 に売 り場 を探 さな け れ ば な らないが, それ は私 の店 で いい と して,三 番 目に食器 入 れ な どを揃 え な けれ ばな ら な いが, これ も私 の ところで揃 えてや ろ う。 四番 目は売 り場 の保証 だが, これ も私 が して や ろ う。 第五番 目は材料 を仕 入 れ な けれ ばな らないが, お金 が な い とい うのな ら私 が貸 し てや ろ う」 3カ月 もす ると売 れ行 き もだ いぶ良 くな って きた よ うに見 え たので私 は言 った。 「貸 した金 は もうだ いぶ にな るが,まあそれ はそれ と して,別 の ことなんだ が, もう4カ月 こ こに住 んで い るけれ ど ラ ンプ代 も水道 代 もただで や って きた。売 れ行 き もよ くな って き た よ うだか ら, ど うか ね,部 屋代 だ けで も払 って ほ しいん だ け どな」。す る と 「ち ょっと考 え させ て くだ さい」と彼 は言 い ま した。この男 は協 会 に入 って な い世 間知 らず の男 で した。 「あ とで妻 と相談 します ので」 「何 を い ってん の。違 うん じゃな いの。奥 さん に相 談 す るよ うな こと じゃな いで し ょ。奥 さ ん は当然 『それで 1カ月 い くら

?

とき くで しょうよ」 「はい,判 りま した」 と言 った ものの,妻 に事情 を説 明す るか ら待 って くれ とい うのです。 私 は も うこ りゃあ普 通 で はな いな と恩 い ま した。 「あの -。私 の間違 いで な けれ ば,私 は ラ ンプを借 りたわ けで はなか ったんです」と彼 は言 い ま した。 あ ーあ, この人 は一体何 を言 って るん だ ろ うと恩 い ま した。 その夜, 夫婦 は ス ンブ ラ ン [コ タキナパ ルの一地 区] に引 っ越 して しまい ま した。私 の 家 はまだ サ リ ・ホテルの近 くにあ りま した。 それ か ら 4カ月 た って私 の と ころか ら遠 くな い と ころで彼 らは食 べ物 売 りを始 め ま し た。 そ うこうす る うち, 彼 は役所 に出か けて行 って, 「私 は ムサ ボル ・ゴム園 か らコ タキ ナパ ル にや って きてか らスキ マ ンさん の と ころで働 き ま した。 そ こで は 4カ月働 きま した。 月給 は私 が 150 リンギ ッ トで妻 が 100 リンギ ッ トで す ので合 わせ て250リンギ ッ トの はず で した。私 たち は毎朝 2時 に起 きて仕込 みを始 め る 277

(21)

東南 ア ジア研究 34巻1号 毎 日で したが,4カ月 た って もスキマ ンさん は給料 を払 って くれ ませんで した。仕方がな いので私 はそ こを辞 めたんです」 と言 って訴 えたんです。 私 は役所 に呼 び出され ま した。旦那 たちがた くさんいま した。 「お まえが スキマ ンか

?

「はい, そ うです。旦那」 「わ しはおまえの ところで食 った ことがあるぞ」 「はあ, どうい うことで

?

「わ しには判 ってお る。 嘘 をい って も編 され はせんぞ」 「お まえを訴 えてお るのが いる。 その男 は前 にお まえの ところに住んでお った とい うが本 当か」 「本 当ですが。 それが どうか しま したか

?

「その男 は4カ月間おまえの手伝 いを した とい うが, まだ給料 を払 って いない とい ってお る,妻 の分 もな」 「誰 が給料 を払 うんです? 旦那。 この男 は何 も判 っていない阿呆 です よ。気違 いです。 こ の男 は我利我利亡者です。 この男 は私 の家 に住 んで いなが ら- セ ンも払 わないで出てい っ たんです よ。 なんで この男 が私か ら給料 を もらうんです? この男 は自分 で作 った料理 を 売 るために私 の ところにいたんです よ。元手 は私が出 してや ったんです よ,旦那。陳列棚 を作 ってや った とき誰 が金 を出 したか大工 に電話 して きいてみて くだ さいよ。 もし旦那が どうして も信用 で きないとい うんな ら」 「そ うか。 スキマ ンが言 っていることはほん とうか

?

「とんで もない。 うそぽ っか りです」 「よろ しい。 うそだ とい うんな ら証拠 を見せ よう じゃないか」 翌 日,私 は証拠 を持 って行 きま した。 「失礼 します。証拠 を持 って きま した。もしあの男が私 の ところに住 み込 みの給料取 りだ と い うんで した らなぜ私 にこうい う借金があるんですか。 これは 4カ月分 の間借 り賃 の請求 書です。これを出 した らこの男 は出て行 っち ゃったんです よ。これ は店 の場所代 の請求書, これ は物品代 の請求書 です」 「ほう

。『

〇月〇 日木炭代未払 い』

。『

×月 ×日木炭代未払 い

。『

〇月〇 日ソバ代未払 い』。は う, これで はスキマ ンの手伝 いとはいえないな」 「それ はうそです」 「よ し。おまえが うそだ とい うんな ら裁判所へ行 こう。そ うすれば もっとはっきり決着がつ くだろ うよ」 こうい う人 は本 当に困 った もんです。将来 はど うなることや ら。 278

参照

関連したドキュメント

それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒

それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒

それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒

ところで、モノ、ヒト、カネの境界を越え た自由な往来は、地球上の各地域の関係性に

 地表を「地球の表層部」といった広い意味で はなく、陸域における固体地球と水圏・気圏の

何故、住み続ける権利の確立なのか。被災者 はもちろん、人々の中に自分の生まれ育った場

市場を拡大していくことを求めているはずであ るので、1だけではなく、2、3、4の戦略も

しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん