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古典文法書間で「む」「むず」の 記載内容はこんなにも違う ―「 古典文法教育が苦痛であること」の本当の理由 ―

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古典文法書間で「む」「むず」の

記載内容はこんなにも違う

― 「古典文法教育が苦痛であること」の本当の理由 ―

福 嶋 健 伸

1.助動詞「む」「むず」の意味を説明できるか 大学受験を控えている高校生から古典の助動詞「む」「むず」の意味は何か と質問されたら、何と答えるべきか。「(授業で使用している古典文法書を生徒 に見せながら)〈推量〉、〈意志〉、〈適当〉・〈勧誘〉、〈仮定〉・〈婉曲〉ですよ」 と答えるのが一般的とも思える。しかし、その生徒が次のように続けたらどう 答えればよいか。「友達の文法書だと、「①推量 ②意志・希望 ③婉曲・仮定 ④ 勧誘・丁寧な命令 ⑤可能推量」とあって、聞いたこともない〈丁寧な命令〉 や〈可能推量〉があるんです。別の友達の文法書だと、「①推量 ②意志 ③可 能 ④当然 ⑤命令 ⑥適当 ⑦仮定婉曲」とあって、〈当然〉や〈可能〉や〈命令〉 があるんですが、〈勧誘〉がなくて、〈仮定〉と〈婉曲〉の違いがないようなん です。ところが、いとこの文法書だと、「①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定 ⑤婉曲」とあって、〈仮定〉と〈婉曲〉がはっきりと分かれているんです。い とこの妹の文法書だと、「①推量 ②意志 ③適当 ④勧誘 ⑤仮定 ⑥婉曲」とあっ て、全て意味が分かれています。どの文法書が正しいのでしょうか。また、ど の意味を覚えればよいのでしょうか。」 結局、古典文法書によって、内容はまちまちであって、「む」や「むず」に 関して(ひいては、古典の助動詞全般に関して)、「どれだけの意味を認めるか」 「大学入試に出してよい意味はどれか(大学入試で問うてはいけない意味はど れか)」等の厳密な公式的見解はない。大学入試の作問は、比較的自由になさ れており、「む」「むず」の意味として、何が問われて何が問われないのかは、(あ

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る程度の予測はできるものの)厳密には分からない。生徒達に何を教えればよ いのかも厳密には分からないし、生徒達が何を覚えればよいのかも、厳密には 分からない。A という文法書と B という文法書があって、内容が異なった場合、 どちらを覚えた方がよいのかも、結局は分からない。これは、(特に生徒達にとっ ては)かなり理不尽な状況ではないだろうか。この状況を少しでも何とかした いと思う。 また、次の問題は、『標準古典文法』(第一学習社、2017 年改訂 23 版、出典『枕 草子』)のものである。 (1) 次の傍線部の助動詞「む」の意味と活用形を答えよ。 「思は①む子を法師になしたら②むこそ、心苦しけれ。」 活用形はともに「連体形」としよう。意味はどうか。当該文法書の解答には、 ①の答えは〈婉曲〉とあり、②の答えは〈仮定〉とある。しかし、『新選古典 文法』(東京書籍、2017 年 21 版)では、全く同じ例に対して、①②ともに〈仮 定〉としている。生徒としては、「どのような根拠から、①の答えを導き出せ るのか(〈仮定〉とは何か、〈婉曲〉とは何か)。」を知りたいと思うだろうが、 説明できる者は、文法研究者の中にもいないはずである。 つまり、〈仮定〉とは何ぞや、〈婉曲〉とは何ぞや等のことが、教える側も、 教わる側も、よく分からないまま授業が進み、入試が行われているのである。 古典文法の授業が苦痛であることの根本的な原因の一つは、このような、「(本 当は)全員がよく分かっていないのだが、全員がよく分かっている振りをしな ければならない」という状況ではなかろうか。先行研究により、古典を嫌う生 徒が多いことはよく知られている(鳴島 2007 等)。しかし、一方で、今述べた ような状況は、これまであまり議論されることがなかったように思われる。 そこで、本稿では、古典文法の授業改善に資するための基礎資料として、古 典文法書の「む」「むず」に関する調査結果を示したい。この調査結果から、「実 は全員がよく分かっていない」という看過できぬ状況が明確に見て取れるので、 教壇に立つ方には是非、見て頂きたいと思う。その後、古典文法書において、「む」 「むず」の記載内容が多様であることの背景を、最近の古典文法研究の成果を 踏まえて述べ、最後に、問題解決のための提案として、「ガイドラインの必要性」 を主張し、本稿をまとめたい。

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2.古典文法書の記載内容はまちまち 高校で用いられる古典文法書等の調査は、小田(2014)や小田(2016)以外 に、あまりなされていないため、「文法書間で差が見られる」という問題が顕 在化していないようである。そこで、高校で用いられていると思われる次の文 法書(15 種)を調査し、「む」「むず」の記載内容の異同を把握する。 (2) 調査対象とした古典文法書([ ]内は略称。初版の出版年順に示す。) 『新訂 古典文法』[大修館 1](大修館書店、1986 年 3 月 1 日初版 1 刷、 2011 年 4 月 1 日 21 刷) 『読解をたいせつにする 体系古典文法 八訂版』[数研](数研出版、 1990 年 2 月 1 日初版第 1 刷、2017 年 4 月 1 日八訂版第 16 刷) 『楽しく学べる 基礎からの古典文法〈二訂版〉』[第一学習 1](第一 学習社、1992 年 2 月 1 日初版、2016 年 1 月 10 日改訂 27 版) 『古典にいざなう 新古典文法』[大修館 2](大修館書店、1992 年 4 月 1 日初版第 1 刷、2012 年 11 月 1 日第 15 刷) 『生徒のための古典読解文法』[右文書院](右文書院、1992 年 4 月 1 日初版、2013 年 4 月 20 日改訂 16 刷) 『古文読解のための 標準古典文法〈三版三訂〉』[第一学習 2](第一 学習社、1995 年 1 月 10 日初版、2017 年 1 月 10 日改訂 23 版) 『【基礎から解釈へ】 新しい古典文法 四訂新版』[桐原書店](桐原書 店、1996 年 1 月 10 日初版第 1 刷、四訂新版第 17 刷) 『よくわかる 新選古典文法』[東京書籍](東京書籍、1997 年 2 月 1 日初版、2017 年 2 月 1 日第 21 刷) 『古文解釈のための総合力を養う 完全マスター古典文法〈新版五訂〉』 [第一学習 3](第一学習社、2000 年 1 月 10 日初版、2017 年 1 月 10 日改訂 18 版) 『新修 古典文法 二訂版』[京都書房](京都書房、2000 年 1 月 10 日初 版第 1 刷、2017 年 1 月 11 日二訂版第 12 刷) 『標準 新 古典文法』[文英堂 1](文英堂、2000 年 1 月 20 日第 1 刷、 2016 年第 22 刷) 『詳説 古典文法』[筑摩](筑摩書房、2012 年 12 月 10 日初版第 1 刷、 2016 年 9 月 10 日初版第 3 刷) 『読解のための必修古典文法〔改訂版〕』[文英堂 2](文英堂、2013 年

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1 月 20 日第 1 刷、2016 年第 4 刷) 『必携 古典文法』[明治書院](明治書院、2013 年 2 月 1 日初版、2016 年 10 月 20 日 5 版) 『読解する力がつく 精選 古典文法』[三省堂](三省堂、2015 年 3 月 10 日第 1 刷、2015 年 12 月 20 日第 3 刷) 本稿では、「(i)「む」「むず」の意味に何を立てるか」「(ii)〈仮定〉と〈婉曲〉 を分けるか」「(iii)〈勧誘〉と〈適当〉を分けるか」について見ていきたい。 (i)「む」「むず」の意味に何を立てるか 調査結果は、次の通りである(なお、[大修館 1][推量]とある場合は、[大 修館 1]においては、「む」「むず」は、「推量の助動詞」とされているという ことである)。 [大修館 1 ][推量] ①推量 ②意志・希望 ③婉曲・仮定 ④勧誘・丁寧な命 令 ⑤可能推量 [数研] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [第一学習 1] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [大修館 2] [推量]①推量 ②意志 ③勧誘・適当 ④仮定・婉曲 [右文書院 ] [ 推 量 意 志 な ど ] ① 推 量 ② 意 志 ③ 適 当 ④ 仮 定・ 婉 曲  ※「勧誘」の意味にも言及あり [第一学習 2] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [桐原書店] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [東京書籍 ] [推量] ①推量 ②意志 ③婉曲 ④仮定 ⑤適当 ⑥勧誘  ※④⑤⑥の扱いは小さい [第一学習 3] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定 ⑤婉曲 [京都書房 ] [推量] ①推量 ②意志 ③可能 ④当然 ⑤命令 ⑥適当 ⑦仮定婉曲  ※ ③と⑤は、用例のまれな例として、他の意味とは別に説明をし ている [文英堂 1] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [筑摩] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [文英堂 2] [推量] ①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲 [明治書院] [推量] ①推量 ②意志 ③仮定 ④婉曲 ⑤適当・勧誘

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[三省堂] [推量] ①推量 ②意志 ③適当 ④勧誘 ⑤仮定 ⑥婉曲 [右文書院]以外の古典文法書は、[推量]を一番大きな分類として立ててお り、「む」「むず」は、基本的に「推量の助動詞」と考えられていることが分か る([右文書院]の本文中にも、「推量の助動詞「む」」という表記は見られる)。 このため、一見、「推量の助動詞」という点は、統一がとれているかのように 見える。 しかし、[推量]と対立する概念として[推定]を立てているもの([第一学 習 2][第一学習 3])では、「む」「むず」は「推量の助動詞」となるが、「らし」 「めり」「なり」は「推定の助動詞」として区別される。一方、[推量]の下位 概念として[推定]を考えるもの([大修館 1][第一学習 1][文英堂 1] )では、 「む」「むず」「らし」「めり」「なり」は全て「推量の助動詞」として扱われる。 つまり、[推量]という概念自体に揺れが見られる。さらにややこしいことに、 [数研] [大修館 2][桐原書店] 等では「らし」「めり」は「推量の助動詞」だが、 「なり」は「伝聞・推定(あるいは推定・伝聞)の助動詞」として扱われており、 [推量]のカバーする範囲は、文法書によって、まちまちなのである(なお、[右 文書院]では、「らし」「めり」は「推定の助動詞」だが、「なり」は「推定伝 聞の助動詞」となっており、[推定]という用語のカバーする範囲も文法書によっ て異なっている)。よって、「推量の助動詞」の内実は、統一がとれているとは 言いがたい。 全ての古典文法書を通して見ると、用語は全部で、〈推量〉〈意志〉〈適当〉〈勧 誘〉〈仮定〉〈婉曲〉〈丁寧な命令〉〈可能推量〉〈可能〉〈当然〉〈命令〉の 11 が ある。様々な用語が存在していることが、とてもよく分かる。これは、比較的 自由に文法の用語を作成しているためだろう。なお、〈推量〉〈意志〉は、どの 古典文法書にもある。これは、〈推量〉であれば現代語に「だろう」という形 式があり、〈意志〉であれば「う」「よう」という形式があるため、意味を立て やすかったという側面もあると思われる。 意味の数でいえば、[京都書房]の 7 つの意味が最も数が多く、[東京書籍] と[三省堂]の 6 つがそれに続く。なお、15 冊のうち、9 冊が「①推量 ②意 志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲」のパターンである(あるいは、これに類する パターンである)が、残りの 6 冊はこのパターンではない。つまり、実に 3 分 の 1 以上が、「①推量 ②意志 ③適当・勧誘 ④仮定・婉曲」以外の示し方をし ているのである。 意味と用例の関係についても述べておきたい。例えば、[京都書房]では、「翁

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の申さむことは聞き給ひてむや。(竹取物語・貴公子たちの求婚)」の例を、〈命 令〉としているが、[東京書籍]では、全く同じ例を〈勧誘〉としており、[三 省堂]でも、「翁の申さむこと、聞きたまひてむや。」という事実上同じ例を、〈勧 誘〉としている。[京都書房]では、〈命令〉の他に、〈当然〉や〈適当〉があり、 「命長くとこそ思ひ念ぜめ。(源氏物語・桐壺)」の例を、〈適当〉ではなく、〈当 然〉の例として挙げている。ところが、[東京書籍]と[三省堂]では、全く 同じ「命長くとこそ思ひ念ぜめ。」の例を〈適当〉の例として挙げている。[第 一学習 1][文英堂 2(の基本問題)] では、この例を〈適当・勧誘〉の例とし ている([第一学習 1][文英堂 2]等では、〈適当〉と〈勧誘〉を分けていない)。 そうすると、「翁の申さむことは聞き給ひてむや。」の例でいえば、[京都書房] で学習した生徒達は、この例を〈当然〉や〈適当〉ではなく、〈命令〉と考える。 一方、[東京書籍][三省堂]で学習した生徒達は、〈適当〉ではなく、〈勧誘〉 と考える。しかし、[第一学習 1][文英堂 2]等のように、〈適当〉と〈勧誘〉 をまとめて扱う古典文法書で学習した生徒達は、〈適当・勧誘〉と考えるだろう。 さらに、「命長くとこそ思ひ念ぜめ。」の例でいえば、[京都書房]で学習した 生徒達は、この例を〈適当〉ではなく〈当然〉として考え、[東京書籍][三省 堂]で学習した生徒達は、この例を〈勧誘〉ではなく〈適当〉として考え、[第 一学習 1][文英堂 2]等で学習した生徒達は、「翁の申さむことは聞き給ひて むや。」の例と同様、〈適当・勧誘〉と考えるだろう。 これはかなり滅茶苦茶な状況ではないだろうか。このような状況であること を、授業を行う側も、大学入試の作問をする側も、知っておいた方がよいと思 われる。 (ii)〈仮定〉と〈婉曲〉を分けるか 〈仮定〉と〈婉曲〉の違いを生徒から質問され、答えに窮した教員もいらっしゃ るのではないか。では、実際の古典文法書ではどうなっているのだろうか。調 査結果は、次の通りである。 (3) 〈仮定〉と〈婉曲〉を分けているもの:[東京書籍][第一学習 3] [明治書院][三省堂] (4) 〈仮定〉と〈婉曲〉を分けていないもの:[右文書院][桐原書店] [文英堂 2]

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(5) 〈仮定〉と〈婉曲〉を分けているのか、分けていないのか、よく分か らないもの:[大修館 1、2][数研][第一学習 1、2][文英堂 1] (6) 両者に高校生レベルでは違いがないことを積極的に主張しているも の:[京都書房] (7) 〈仮定〉と〈婉曲〉とにきれいに分類できないことを積極的に説明し ているもの:[筑摩] ここで、(5)の「〈仮定〉と〈婉曲〉を分けているのか、分けていないのか、 よく分からないもの」という分類について説明したい。例えば、[第一学習社 2] では、〈仮定・婉曲〉としてまとめて扱われており、本文中では両者を分けて いないようにも見える。しかし、練習問題(本稿の(1)のもの)を見ると、「婉 曲・連体形」が正解になる場合と、「仮定・連体形」が正解になる場合とがあり、 事実上、〈婉曲〉と〈仮定〉の違いを問うているので、両者を分けているよう にも見える。また、[数研]等では、本文中では両者を分けていないように見 えるものの、「「む」の意味の判別法の原則」等のところで、〈婉曲〉と〈仮定〉 を分けて扱っているので、両者を分けているようにも見える。このように判断 に迷うものを(5)に分類した。 (6)に挙げた[京都書房]では、「(筆者注:〈仮定〉と〈婉曲〉について) 実際の文例での厳密な訳し分けは難しく、高校生の段階では、ひとまとめにし て理解しておきましょう。」(p.76)とあり、同書の「入試情報」というところ でも「仮定と婉曲を細分化させることは、ほとんどありません。」(p.76)とある。 また、(7)に挙げた[筑摩]では、「「む」は基本的にその出来事が実現してい ないことを表す。」(p.65、ゴシック原文)とし、本稿が(1)で示した「思は む子を法師になしたらむこそ、心苦しけれ。」の二つの「む」について、「仮定・ 婉曲のどちらに訳すこともできる」(p.65)とする。 一方で、〈仮定〉と〈婉曲〉を別の意味として立てている古典文法書や、両 者の意味の違いを問うている古典文法書もあるわけであり、記載内容は、まち まちであるといえる。 このような状況では、「〈仮定〉と〈婉曲〉の違いが良く分かりました」といっ ている生徒の方が不安である。一体、何が分かったのだろうか。

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(iii)〈勧誘〉と〈適当〉を分けるか 〈勧誘〉や〈適当〉という概念も、難しいところである。そもそも、[大修館 1] のように〈適当〉がないものや、[右文書院][京都書房]のように〈勧誘〉が ないものもある。既にこの時点で見解が分かれているが、〈勧誘〉と〈適当〉 の両方を立てている古典文法書の調査結果を示すと、次の通りになる。 (8) 〈勧誘〉と〈適当〉を分けているもの:[東京書籍][三省堂] (9) 〈勧誘〉と〈適当〉を分けていないもの:[数研][第一学習 1] [桐原書店][文英堂 1、2][筑摩][明治書院] (10)〈勧誘〉と〈適当〉を分けているのか、分けていないのか、よく分か らないもの:[大修館 2][第一学習 2、3] (10)の「〈勧誘〉と〈適当〉を分けているのか、分けていないのか、よく分 からないもの」という分類について説明を加えたい。〈勧誘〉と〈適当〉を分 けていないもの(つまり(9))との対比が分かりやすいと思うが、例えば、[数 研]では、〈勧誘〉と〈適当〉を分けていないと思われ、「「む」の意味の判別 法の原則」のところでも、「二人称……適当・勧誘(~がよい)」とあって、両 者をまとめて扱っている。一方、(10)に挙げた[大修館 2]では、本文中で は両者をまとめて扱ってはいるものの、「「む」「むず」の意味と用法」という ところでは、「相手(二人称)の動作 勧誘」となっており、〈勧誘・適当〉と は書いておらず、両者を分けているのか、はっきりとしない。また、同じく(10) に挙げた[第一学習 3]では、本文中、及び「「む」の意味の見分け方」のと ころでは、〈適当・勧誘〉とまとめて扱っているが、同書の確認問題の 2(p.53) では、「法師は人に疎くてありなむ。(徒然草・七六段)」の「む」に関して、「適 当・終止形」を正解としており、〈勧誘・終止形〉だと不正解になるのかどう か(つまり、〈適当〉と〈勧誘〉の別を問うているのかどうか)、よく分からな い。このため、両者を分けているのか、はっきりしないと判断した。なお、[第 一学習 2]でも、本文中、及び「「む」の意味の判別」のところでは、〈適当・ 勧誘〉として、まとめて扱っている。しかし、[第一学習 2]では、先ほどの「法 師は人に疎くてありなむ。」の「む」に関して、「「疎遠なのがよい」と適当の 意味にもとれるし、「疎遠であるべきだ」と(強い)勧誘の意味に訳すことも できる。」(p.61)としており、〈適当〉と〈勧誘〉を分けて考えているように

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も見える。よって、[第一学習 2]も両者を分けているのか、はっきりしない と判断した。なお、[第一学習 2]では、このような状況を踏まえてか、「この ように「む」は、原則どおりに解釈できない例や、いろいろな意味にとれる場 合があるので注意しよう。」(p.61)と述べている。 以上、(i)(ii)(iii)の調査結果を見てきたが、古典文法書に統一的な見解 はなく、予想以上に、文法書によって記載内容が異なることがお分かり頂けた と思う。 これは、授業で用いられている、古典文法書の用語の内実が、実はよく分かっ ていないことを反映している。用語の定義や外延が定まっていないのである。 このため、自分達が持っている古典文法書には、一応の答えは書いてあるが、 改めて、用語の概念や、答えの根拠を聞かれると、はっきりとは説明できない (古典文法書でも見解が一致していないのだから無理もない)。これでは、教え る方も、教わる方も、大変だろう。これが、「古典文法教育が苦痛であること」 の本当の理由(少なくともその一つ)ではなかろうか。何ともひどい状況であ る。 非常に言いにくいことだが、用語の概念や、答えの根拠を、はっきりと説明 できないようでは、古典文法教育は根本的にダメである。数十年前から全く進 歩していないわけだが、この何十年もの間、我々は、一体、何をやってきたの だろうか。 国語教育系の研究者や学界は、古典文法書がこのような状況であることを、 あまり気していないのだろうか。もちろん、中には「このような状況であるこ とは、何となく気づいていた」という方もいらっしゃるだろう(小西 1962 に も「文法学者たちは、めいめい勝手な術語を使うから、受験生にとって、これ ほど迷惑な話はない。」(p.148)という指摘がある)。しかし、本稿投稿時(2020 年 7 月)では、この状況が改善される具体的なきざしは見られない。現実的に、 数十年以上にわたって「迷惑な話」を放置してきたわけだから、「古典文法書 に出てくる用語や概念が、厳密にはよく分からなくても、(その結果、生徒が 混乱しても)あまり気にしていない」と言われても仕方がないだろう。少なく とも、真剣に改善に取り組んでいるようには見えない。 本稿の内容を、全国大学国語教育学会学会誌『国語科教育』に投稿してみた のだが「不採択」であり、「不採択」の理由の一つに、「現場の混乱の事実が示 されていない。」というものがあった。審査の結果は仕方がないとしても、率 直にいって、このようなコメントには、問題の深刻さに対する筆者の認識との 温度差を感じざるを得なかった。このままだと、おそらく今後も、状況の改善

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は望めないだろう。 本節では、「む」「むず」の記載内容が古典文法書間で異なることを見てきた。 次節では、記載内容が、まちまちであることの背景について述べていきたい。 3.古典文法書の記載内容はなぜ多様なのか 既に、山田(1908)、川端(1997)、井島(2014)、小柳(2014)等にも指摘 があり、一部の古典文法書でも言及があることだが、「む」「むず」の根本的な 意味は、言語学でいう〈非現実(irrealis)〉と捉えるのが妥当だろう(この用 語は研究者よって〈未実現〉と訳す場合もある。なお、用語は異なるが、小西 1962 や室城 1993 も、〈非現実(irrealis)〉にかなり近い指摘をしている)。〈意 志〉〈推量〉〈仮定〉〈婉曲〉等は、いずれも現実の世界では起こっていない(あ るいは、起こったという確信をもてない)ことである。次の(11)の例では「来 る」ということは、まだ起こっていないし、(12)の例でも「こたえる」とい うことは、まだ起こっていない。つまり、いずれも〈非現実〉である。 (11)「迎へに人々まうで来むず」(『竹取物語』)[訳:迎えに人々がやって くる] (12)「ただ一度にいらへむも」(『宇治拾遺物語』)[訳:ただ一度でこたえ るのも] 実は、1000 年前の日本語(古代語)は、〈非現実〉のことを表す場合には、 ほぼ義務的に「む」「むず」等が必要な言語なのである。この点は、『国語学大 事典』(1980 年、東京堂出版)の「推量表現」の項や尾上(2012)が指摘する 通りである。このような言語は、言語類型論でいう「ムード優位言語(Mood-prominent language)」であるといえる(Bhat 1999、福嶋 2014、福嶋 2018 等 参照)。 (11)(12)の現代語訳では、「くる」「こたえる」のように、助動詞等が接続 しない形(動詞基本形)が用いられるが、古代語では状況が異なっている。(11) (12)のような〈非現実〉のことがらを述べる時には、(現代語と比べて)動詞 基本形は極めて出現しにくいのである。では、当時の動詞基本形は、どの領域 に分布していたのか(何を表していたのか)というと、次の例のように、〈現 実(realis)〉の領域に広く分布している(鈴木 2009、福嶋 2014 参照)。

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(13)水を汲み歩く。(『竹取物語』)[訳:水を汲み歩いている] 現代語では、「ている」を用いる場面だが、古代語には、「ている」という表 現はまだなく、そのような場面では動詞基本形が出現しているのである。 なお、古典文法書によっては、「む」「むず」の〈婉曲〉等の意味について、「遠 回しに表現する」「奥ゆかしいエチケット表現」等の説明が用いられるが、厳 密にはこれは正確ではない。古代語では、〈非現実〉なことを表現する場合には、 そもそも動詞基本形を使用しにくく、「む」等が必要なので、単刀直入に表現 したい場合でも、「む」等が付くのである。次の例は分かりやすい例だと思う。 『竹取物語』の翁が、かぐや姫を迎えに来る天人をやっつけてやるぞといきり たっている場面である。 (14)「御迎へに来む人をば、長き爪して、眼をつかみつぶさむ。(略)」 (『竹取物語』) (14)の下線部分の「む」は、次に名詞が続くので、〈仮定・婉曲〉に分類さ れる「む」だろう。しかし、直後で、「眼をつかみつぶす」と言っている(こ の後には、髪の毛をつかんでひきずり下ろして、そいつの尻をめくり出して、 辺りにいる兵士に見せて恥をかかせる、と続く)ので、「遠回しに表現する」 や「奥ゆかしいエチケット表現」等の可能性は極めて低い。「来る」というこ とが実現していないので、「む」が接続しているとみるべきだろう。 ここまでをまとめると、「む」「むず」の表す意味は、〈非現実〉であり、古 代語は「ムード優位言語」というタイプの言語であった、ということになる。 ところが、中世を境に、日本語が大きく変化し、中世末期くらいになると「て いる」が用いられる言語になってくる(湯澤 1929 や柳田 1990 参照)。 (15)西もんに立ている(『虎明本』瞽女座頭) 「ている」の発達に伴い、「む」「むず」の後継の形式である「う」「うず(る)」 や、動詞基本形等の分布にも変化が生じる。大まかな流れを示すと次ページの 表のようになる。

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古代語の「む」「むず」のところには、現代語では動詞基本形が分布しており、 古代語の動詞基本形のところには、現代語では「ている」が分布している。「て いる」の発達に伴い、言語のタイプが変わってしまい、現代語では、〈非現実〉 のことを表す場合に、特別な助動詞を接続させる必要はない。現代語は、もう 「ムード優位言語」ではないのである。 このように、「む」「むず」の表す意味は、〈非現実〉という、やや抽象的な 概念であり、表のような変化を経た現代語の話者は、言語のタイプが異なるた め、「〈非現実〉を表す場合に義務的に助動詞が必要」という感覚自体が理解で きない。このため、「む」「むず」の各例について、〈意志〉〈推量〉等の我々に 理解できるものに、(それぞれの用語を用いて)置き換えて解釈しているとい うのが実状だろう。これが、古典文法書において「む」「むず」の記載内容が まちまちであることの背景といえる(この点は、小柳 2014 も参照のこと。また、 〈非現実〉という概念の教育への実践は、吉田 2017 も参照のこと)。「む」「むず」 は〈未来〉を表していると感じる方も多いだろうし、実際にそのような学説も あるが、これも、「〈未来〉はまだ起こっていないことなので、〈非現実〉の一 部である」という説明になる。また、「一人称:意志」「三人称:推量」等の解 釈方法も、一人称主語で、述語が〈非現実〉を表す場合は、自分のことを推し 量ることは少ないため、結果として主語の意向を表すパターンが多く、逆に、 三人称主語で、述語が〈非現実〉の場合は、他人の心中は把握しにくいので、 結果として主語の動き等を推し量るパターンが多いということだろう。次の例 のように、三人称主語で、〈意志〉とも〈仮定・婉曲〉とも解釈できる用例が あることからも、当時の人々が、人称(一人称等)と意味(〈意志〉等)とを 一対一の対応で結びつけてはいなかったことが分かる(〈非現実〉のマークと して「む」「むず」が必要だったということだろう)。 表 古代語から現代語への体系の変化 〈非現実(の一部)〉 〈現実(の一部)〉 古代日本語 む・むず 動詞基本形 中世末期日本語 う・うず(る) 動詞基本形 ている 現代日本語 (う) 動詞基本形 ている ※ この表は、「む」「むず」(及びその後継の形式)、動詞基本形、「ている」の関係について まとめたものであり、「たり」「けり」「た」等が表す〈完了〉や〈過去〉の領域等をカバー するものではない。詳しくは、福嶋(2011ab)や福嶋(2018)を参照のこと。

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(16)(俊寛達は)平家滅ぼさむずるはかりことをぞめぐらしける(『平家 物語』)[訳:平家を滅ぼす計画をめぐらせた] ※この例は文法書によっては〈意志〉の例とされている。 また、1 節で見た(1)の例について、〈仮定〉か〈婉曲〉かを議論しても、 本質的な意味はない。むしろ、「現実には存在していないことについて述べて いる」ということを押さえる方が重要なのである。 以上、古典文法書の「む」「むず」の記載内容が多様であることの背景につ いて述べた。 4.ガイドライン作成の提案 古典文法書の「む」「むず」の記載内容には、かなりの異なりが見られ、い ずれの見解が正解かも分からない状況だが、これでよいのだろうか。研究とい う側面からいえば、多様な意見があることは健全であろう。しかし、教育とい う側面からいえば、授業で扱う用語がよく分からない(自分達の持っている文 法書には答えがあるが、改めて質問されると定義と外延を説明できない)とい うことでは、教員も生徒も大変困る。繰り返しになるが、古典文法の授業が苦 痛であることの根本的な原因の一つはここにあるといってもよいだろう。この ような状況を改善する第一歩としては、本稿のように、古典文法書を調査し、 その結果を基礎資料として、情報を共有することが大切だと思われる。 また、本稿では「む」「むず」について述べたが、他の助動詞や助詞に関し ても、統一的な見解がないという点は同じであり、古典文法全体にわたって、 本稿で見てきたことと同様の問題が生じている(この点は、小田 2014 や小田 2016 も参照のこと)。教育上、このままでよいとは全く思われないが、一方で、 このような問題は、個人レベルで解決できるものでもない(当然、古典文法書 の責任ではない)。 そこで本稿では、最後に、問題解決のために、次のような提案をしたい。 それは、最近の研究成果を参考に、大学入試問題作問の際のガイドラインの ようなものを、学界(会)が作成するというものである。具体的な手順は次の ようなものが考えられる。 (17)手順 1: 学界(会)として、高校教育レベルで共通見解にできることと、 共通見解にできないことを整理する(例えば、「ぞかし」の

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「ぞ」のように、「係助詞説」「終助詞説」で、説が分かれて おり、それぞれに一定の支持者がいるような場合は、どち らかの説を共通見解にすることはできないだろう)。 (18)手順 2: 高校生に教えるべき内容は何か、また、高校生が知る必要 のないことは何かを整理する。また、この場合、難易度を 考慮してもよいと思われる(「む」「むず」の例でいえば、「古 典文法の定着が進んでいる生徒には、未然形の(ま)を示 すことが望ましいが、定着が難しい場合は、未然形の(ま) は示さなくてもよい」等)。なお、難易度を反映させて古典 文法書を作成した場合、内容が分かれる可能性があるが、 教員はどのようなバリエーションがあるのか予め把握でき るので、現状とは状況が大きく異なる(事態は改善される)。 加えて、現場の教員が安心して授業ができるように、実際 の教材を使用した授業案を示す。 (19)手順 3: 教員向けに、最近の研究成果を反映させた説明を加える。「む」 「むず」の例でいえば、「基本的な意味は何か」「なぜ、文法 書に様々な意味が記載されてきたのか」等を整理し、より 原理的な部分も示す(暗記する部分があるのは仕方がない が、「全て丸暗記」という方法に頼らない)。また、現行の 研究水準で、既に明らかになっていることと、未だ明らか になっていないこと(現在研究中の課題であること)も示す。 このような整理を行うことで、「①生徒が安心して学習できる」「②高校の教 員も安心して授業ができる(教員が分からない部分は、「研究者でも分からな くて、今調べているところなんだよ。」と説明できる)」「③不可解さが軽減し、 古典に興味を持つ生徒が増えるので、結果として、学界も活性化する」「④入 試問題作問の際のリスクや手間が、大幅に減少する(「古典文法の問題を安心 して出題できる→入試等で古典文法の問題が増える→受験生が古典文法をより 勉強するようになる→古典や古典文法の面白さを大学でより伝えやすくなる」 という好循環にも繋がる)」等の多くのメリットが生じるだろう。 逆にいえば、このままの状態が続き、状況が改善されないようであれば、古 典文法教育の未来は、明るいとはいえないと思う。

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〈参考文献〉 井島正博(2014)「上代・中古語の推量表現の表現原理」『日本語複文構文の研究』 ひつじ書房,pp.249-278. 小田勝(2014)「高校生向け古典文法書における文法用語・文法説明のゆれについて」 『岐阜聖徳学園大学 国語国文学』33,pp.102-91. 小田勝(2016)「古典文法の学習参考書を読む―古典文法研究者の立場から」『岐阜 聖徳学園大学 国語国文学』35,pp.108-118. 尾上圭介(2012)「不変化助動詞とは何か―叙法論と主観表現要素論の分岐点」『國 語と國文學』89-3,pp.3-28. 川端善明(1997)『活用の研究Ⅱ』清文堂 小西甚一(1962)『フレッシュでわかりよい 古文の読解』旺文社 小柳智一(2014)「古代日本語研究と通言語的研究」『日本語学と通言語的研究との 対話』くろしお出版,pp.55-82. 鈴木泰(2009)『古代日本語時間表現の形態論的研究』ひつじ書房 鳴島甫(2007)「古典教育再考―七割もの生徒に嫌われている古典教育からの脱却」『日 本語学』26-2,pp.6-12. 福嶋健伸(2011a)「中世末期日本語の~ウ・~ウズ(ル)と動詞基本形― ~テイル を含めた体系的視点からの考察」『國語國文』80-3,pp.44-64. 福嶋健伸(2011b)「~テイルの成立とその発達」『日本語文法の歴史と変化』くろし お出版,pp.119-149. 福嶋健伸(2014)「従属節において意志・推量形式が減少したのはなぜか― 近代日本 語の変遷をムード優位言語からテンス優位言語への類型論的変化として捉える」 『日本語複文構文の研究』ひつじ書房,pp.347-382. 福嶋健伸(2018)「新しい学説はどのように古典文法教育に貢献するのか― ~ム・~ ムズの違和感を言語類型の変化とテンス・アスペクト・モダリティ体系の変遷 から説明する」日本語文法学会『日本語文法』18-2,pp.11-27. 室城秀之(1993)「古典語の助動詞の学習について―特に、「べし」と「む」を中心 に―」教育調査研究所『研究紀要 高国』56,pp.11-24. 柳田征司(1990)「近代語の進行態・既然態表現」『近代語研究』8,武蔵野書院, pp.1-27. 山田孝雄(1908)『日本文法論』寶文館 湯澤幸吉郎(1929)『室町時代の言語研究』大岡山書店(再版『室町時代言語の研究』 1975 風間書院) 吉田茂晃(2017)「生徒に嫌われない古典文法指導を目指して―「推量」の助動詞を 面白がる」『天理大学 学報』69-1,pp.1-9.

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〈引用テキスト〉『新編 日本古典文学全集』(小学館)・『大蔵虎明本狂言集の研究』(表 現社)による(便宜上、表記等を筆者が変更している場合がある)。 [付記] 本稿は、第 136 回全国大学国語教育学会(茨城大会、2019 年 6 月 1 日)にて、 「古典文法の授業はなぜ苦痛なのか ―古典文法書の「む」「むず」の調査から 原因療法を探る―」という題目で発表したものに大幅な加筆修正を加えたもの である。 なお、本稿は、科学研究費補助金(課題番号:15K02575、基盤研究(C)、 研究代表者:福嶋健伸)の研究成果の一部を含んでいる。 [追悼] 研究室でお話しした時には、比較的お元気そうに見え、まさかあれが、 近藤みゆき先生との最後の会話になるとは、夢にも思っておりませんでした。 先生にはたくさんのことを教えて頂きました。深いご学恩に感謝申し上げます とともに、在りし日のお姿を偲びつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 (ふくしま たけのぶ・実践女子大学教授)

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