• 検索結果がありません。

福井県内のいくつかの地域の地質 その5:南条山地北部の地質構造の解釈 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "福井県内のいくつかの地域の地質 その5:南条山地北部の地質構造の解釈 利用統計を見る"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

北部の地質構造の解釈

著者

服部 勇

雑誌名

福井大学地域環境研究教育センター研究紀要 「日

本海地域の自然と環境」

21

ページ

129-141

発行年

2014-11-01

URL

http://hdl.handle.net/10098/8819

(2)

1.はじめに 福井県南条山地北部の地質については,1969年までの調査成果を福井県地質図(福井県,1969)に, その後2010年までの知見を2010年版福井県地質図(福井県,2010)によってまとめられ,その時点ま での研究成果に関する論文等はそれらの地質図説明書に整理されている.南条山地の北端に近い杣山 ・連光坊山地域(図1)の調査は2010年以降も押し進められ,狭い地域の地質図が,服部(2011)に よって提出され,一方,地質調査総合センターによる5万分の1地質図幅「今庄及び竹波」(以後,今 庄図幅)とその地質記載(中江ほか,2013)が2013年に公刊された.また,Nakae(2012)は南条山 地北部に分布する東俣層について,地質調査を行い,層序と構造について記載し,引き続き,Nakae (2013a,b)は今庄地区と東隣の冠山地区の放散虫化石を詳細に記載し,南条山地の地質年代を論 じた.これらの報告は,服部らの報告や解釈(服部,2012:服部・吉村,1979,1982)と大勢について は一致するが,細部については一致しない点もある.この論文では,南条山地の北部の杣山や連光坊 山に分布するチャートについて,野外での新観察事実を加味し,地質学的位置づけを解釈する. 服部・吉村(1979)は,南条山地の地層群を層相に基づき,グループA,グループB,グループC と区分し,服部・吉村(1982)は,それらに放散虫化石年代を加味し,春日野相,今庄相,高倉相と よんだ.春日野相は緑色岩・石灰岩の岩塊を含む混在岩相であり,他の二つは砂岩・頁岩・チャート からなる層相であり,ともに厚層チャートを挟んでいるが,今庄相は頁岩が,高倉相は砂岩が多い. 砂岩と頁岩の量比の違いは本質的ではないとみなし,服部らの現今の報告は,今庄相を高倉相に含め ている.一般的には,春日野相は混在岩相,高倉相と今庄相は整然相と考えてよい. 「今庄図幅」では,層序,年代,構造的解釈の観点から南条山地の地質区分を定義し直し,春日野 相を湯尾コンプレックス,今庄相を今庄コンプレックスとし,高倉相に当たる部分は徳山コンプレッ クスとした.相の区分を用いるか,コンプレックスの区分を用いるかは野外調査の層相分類や構造発 達史の視点からの解釈を伴う.著者自身は現時点でも相区分が適切であると思っているが,混乱を防 ぐために,この論文では,コンプレックス区分を用いる.そのため,湯尾コンプレックスを春日野相, 今庄コンプレックスを今庄相,徳山コンプレックスをと読み替えてもよい.同じ理由から,東俣コン プレックスは東俣層を示す. 2.検討すべき問題点 問題点1:チャートの産状と分布 地質調査の精度,すなわち踏査密度の上昇により,2010年版福井県地質図(福井県,2010)では,1969 年版の福井県地質図(福井県,1969)の杣山−連光坊山地域の地質図に大幅な変更を加えた.従来の 南条山地における野外調査の基本的考え方は,砂岩・頁岩およびチャートの野外で測定される地層の キーワード:福井県,南条山地,中生代,付加体,発達史 福井大学地域環境研究教育センター協力メンバー ㈱サンワコン(918‐8525 福井市花堂北1丁目7番25号)

福井県内のいくつかの地域の地質

その5:南条山地北部の地質構造の解釈

Geology of A Few Areas in Fukui Prefecture

Ⅴ:Tectonic Interpretation of the Northern Part of the Nanjo Massif

服部

Isamu Hattori

(3)

傾斜に基づき,地層面は比較的高角度(50°∼90°)に立っている,そして,チャートに関しては,チ ャート層は本来側方に連続し,連続しない場合は断層で切断されている,というものであった.この 立場から作成された地質図が磯見(1955),西田(1962),福井県(1969)及び服部・吉村(1979),吉村 ほか(1982)による地質図である.2010年版福井県地質図では連続するチャート(杣山地区)とブロ ック状チャート(連光坊山地区)が存在するように描かれている.その後,服部(2011)では,北西 −南東に連続していると思われた八乙女北のチャートが,実は北西方向には連続せず,ブロック状で あることを明らかにした.「今庄図幅」では,杣山−連光坊山のチャートは側方に連続し,薄化する ように描かれている.今回,杣山を再度高密度に調査したので,阪本・服部(1999)の調査結果と解 釈を加味して,この地域のチャートの連続性について論ずる. 問題点2:チャートの所属 服部・吉村(1982)は,杣山−連光坊山地区の厚層チャートが分布する地区を今庄コンプレックス に含めていた.杣山地区の地形的に低い場所にはペルム紀の放散虫チャートを含む頁岩や湯尾集落の 西には紡錘虫を含む石灰岩塊の存在が報告されており,中江ほか(2013)が区分したように,基部(マ トリックス)は湯尾コンプレックスに含めるのが正しいと思われる.問題は,杣山−連光坊山地区に のみ分布する厚層チャートが湯尾コンプレックス所属か,今庄コンプレックス所属かという点である. 現在のところ,杣山−連光坊山のチャートからは,保存が悪いながらも少数のトリアス紀の放散虫化 石がみつかっているが,ペルム紀を思わせるものは見つかっていない(吉村ほか,1982).杣山−連光 坊山地域のチャートは全体として北西から南東方向に並んでいるが,田倉川で失われる.「今庄図幅」 では田倉川沿いにコンプレックス境界があり,田倉川から北側に湯尾コンプレックスが,南側に今庄 コンプレックスが分布しており,杣山−連光坊山のチャートは湯尾コンプレックス所属であるとして いる.田倉川の南側で,杣山−連光坊山のチャートの延長部には今庄コンプレックスの厚いチャート 図1.調査地域(杣山−連光坊山地域)の位置を示す図. ― 130 ―

(4)

が存在し,分布だけを見れば,両者は一連のものと考えることもできる. 湯尾コンプレックスは,一般的に厚層チャートを含まず(福井県,2010),杣山−連光坊山地域のみ に厚いチャートがブロック状に存在している.これらの事実を偶然と考えるか,何か地質学的意味が あると考えるかという問題である. 問題点3:付加作用とコンプレックス 湯尾コンプレックスは黒色頁岩・細粒砂岩を主体し,内部に緑色岩や石灰岩の岩塊を含む.含まれ るチャートの大半は薄層である.チャートの放散虫年代は,ペルム紀からジュラ紀最前期である(服 部・吉村,1982:田賀,1997).本コンプレックスは,全体として,オリストストロームと考えられる(服 部・吉村,1979).一方,今庄コンプレックスは砂岩・頁岩・厚層チャートからなり,付加体堆積物と みなしてもよい.このように岩相が大きく異なる湯尾コンプレックスと今庄コンプレックスを,年代 は異なるが,一連の付加堆積物(continuous accretion, Nakae, 1992)とみなしてよいかという問題であ る.なお,ここでいう一連の付加堆積物とは,プレート集束帯に対して同じ方向から接近し,付加し た堆積物のことを指す. 3.問題点に関する野外の事実と解釈 問題点1に対して:杣山−連光坊山地域は,西田(1962)の地質図にあるように,厚いチャートが分 布し,それらは断層で切断され,側方には連続しないように表現されていた.吉村ほか(1982)でも, 問題のチャートは,厚層ではあるが,北西−南東に連続するように描かれている.この時点では,南 条山地の厚層チャートの傾斜は高角度で,側方にも連続するはずであるという信念があった.その後, 南条山地を含む美濃帯の調査が進むにつれ,厚層チャートといえども,頭ごなしに側方に連続すると はいえない場合があることが明らかとなった.厚層チャートの連続性を確認するためには,結局は丹 念な野外踏査しかない.この視点から,阪本・服部(1999)は連光坊山のチャートについて,高密度 な踏査を行った.その結果,厚層チャートは基本的にはブロック状であり,頁岩(泥岩)・薄層チャ ートからなる湯尾コンプレックスとは不調和に分布し,見かけ上湯尾コンプレックスの上に載ってい るように見えることを示した.彼らの調査では,厚層チャートの内部のチャート層(単層)は激しく 層内褶曲し,地層面の傾斜は高角度であるが,厚層チャートと基盤の湯尾コンプレックスの境界はほ ぼ水平である. 2010年版福井県地質図では,阪本・服部(1999)の地質図を,一部修正して,採用したが,杣山地 区は調査が遅れていたので,従来のままであった.「今庄図幅」では,杣山−連光坊山のチャートは 湯尾コンプレックス中のチャートであり,(おそらく構造的に)膨張した部分が厚層チャートとなり, 圧縮した部分(あるいは構造的に削り落とされた部分)が薄層チャートであり,それらは急激に移行 すると読めるチャート分布が描かれている. 2010年版福井県地質図発刊後に,著者は杣山地区を高密度に踏査した(服部,2011).高密度調査に より作成された地質図を図2に示す.杣山地区において,2010年版福井県地質図や「今庄図幅」と大 きく異なる点は,八乙女の北に分布するチャートは北西には延長せず,大きなブロックとして存在し ていることを明らかにした点である.このことは湯尾集落の東で日野川に架かる橋あたりからほぼ東 南東に向かって新たに敷設された林道の調査により判明した.そこで,杣山周辺を再調査したその結 果が図2である.図2の地質図のうち連光坊山地区については阪本・服部(1999)および福井県(2010) の地質図を一部改編し,コンプレックス境界も最新の調査により変更してある. 八乙女北のチャートはこの地区に厚層チャートの巨大なブロックが存在することを示しているが, 一方,今回の追加調査で,杣山の頂上を通過するチャートは西側の珪石採石場(中部鉱業)のチャー トに繋がり,さらに高速道路橋の下の日野川に露出するチャートに繋がり,四瀬山北東のチャートに 連続しているようにも見える(地質図の点線.確認はできていない).この場合,厚層チャート全体の 傾斜は大変ゆるく,傾斜方向の斜面では大変厚く(幅広く)分布していることを思わせる.仮に連続 しているとしても,厚層チャートが湯尾コンプレックスのメンバーであるのか,湯尾コンプレックス ― 131 ―

(5)

の上に載っているのかを決定的に示す露頭は見つからなかった.なお,杣山北の阿久和のチャートの 分布を詳細に調査したところ,チャート層の傾斜は北傾斜が多いが,全体の分布は南傾斜を思わせる 構造をしている. 問題点2に対して:杣山の頂上を経由するチャートの南東側は田倉川に遮られて不明となっている. 「今庄図幅」ではおおよそ田倉川に沿って今庄コンプレックスと湯尾コンプレックスの境界があり, 杣山のチャートは薄化しながらコンプレックス境界に沿って東方に延長していくように描かれてい る.2010年版福井県地質図をみると,杣山チャートの延長方向で,田倉川を越えたところに厚いチャ ートが描かれている.高村・早見(1984)の調査結果に基づく2010年版福井県地質図も信頼性がある. コンプレックス境界を無視すれば,両方のチャートは見事に連続する.コンプレックスのメンバーが コンプレックス境界を横切ることはありえないので,もし連続しているとすれば,この連続性は矛盾 図2.杣山−連光坊山地域の最新の地質図 ― 132 ―

(6)

である. この連続しているように見えるチャートの分布は,単なる偶然であり,無視してもよいかもしれな い.もし連続しているのが事実とすると,このチャートは今庄コンプレックス中のチャートであり, 湯尾コンプレックスの上に載り上げているとみなすことができる.このことは,今庄コンプレックス は湯尾コンプレックスより上位にあることを意味する.後者の場合,問題となるのは,南側に分布す る今庄コンプレックス中のチャートが北傾斜であるにもかかわらず杣山のチャートなどの内部構造及 び全体的な分布から傾斜方向が北ないし北東である点であり,表層部のみであるが,転倒褶曲を考え なくてはならない. 一般に,湯尾コンプレックス中のチャートは薄層であり,側方連続性に乏しい(服部・吉村,1979,1982: 中江ほか,2013).また,東方の「冠山図幅」域や西方の旧河野村地域の湯尾コンプレックスはチャー トそのものをほとんど含まない(福井県,2010)(図3).それらに比較して,ここで問題にしている杣 山−連光坊山のチャートは厚層・ブロック状であり,異様である.厚層チャートは今庄コンプレック スのチャートの特徴である.湯尾コンプレックスの上に厚層チャートを含む今庄コンプレックスが衝 上し,その後に侵食により,チャートのみが残されたため,この地域で突出した山々をつくっている ことも否定しがたい. 「今庄図幅」では,河内集落北の林道沿いの露頭に見られる低角の断層を湯尾コンプレックスと今 庄コンプレックスの境界断層としている.著者は林道が敷設されてから間もない時期にこの露頭を観 察し,当時はまったく逆の解釈をした.そして,この露頭は湯尾コンプレックスが下で今庄コンプレ ックスが上位であることを示すとして1995年に県内の地質巡検会で説明した.その根拠は,砂岩・頁 岩の岩質に基づいていた.露頭の下部の砂岩と露頭上位の尾根沿いの砂岩とは岩質が異なり,下位の 砂岩は湯尾コンプレックス(当時は春日野相)の砂岩に,上位の砂岩は今庄コンプレックス(当時は 今庄相)に類似していると判断した点にある.湯尾コンプレックスにはチャートが乏しいことも根拠 のひとつであった.なお.「今庄図幅」域のみならず「冠山図幅」域には低角断層(衝上断層)が発 達する露頭がいくつも存在するが,多くの場合,露頭を越えて追跡することは困難であり,また衝上 断層がコンプレックス境界のみならずコンプレックス内部にも存在するので,実際のところ,各コン プレックスの分布範囲を正確に画定することは難しい. 阪本・服部(1999)は,河野海岸には今庄コンプレックスの地層が全く出現しないので,今庄コン プレックスが湯尾コンプレックスの上位にあると考えた.今庄コンプレックスと湯尾コンプレックス がほぼ水平な境界断層で接し,今庄コンプレックスが下位であれば,河野海岸に今庄コンプレックス が出現するはずである.「今庄図幅」では,柳ヶ瀬断層系の一部が旧河野村赤萩の北まで延長してお り,この断層を境にして,断層の東側(構造的下位にある今庄コンプレックス)が数百メートル上昇 していると解釈しているのであろう. 越前海岸に分布する湯尾コンプレックスには中新世の火成岩(!岩・花崗閃緑岩)が貫入している が(Hoshi and Takagawa, 2009),その近くの今庄コンプレックス分布域にはほとんど見つからない.こ のことは,今庄コンプレックスが上位で,湯尾コンプレックスが下位ということを示しているのでは ないだろうか.阪本・服部(1999)は冠山地域の調査で,整然相である徳山コンプレックスは褶曲し ながらも,湯尾コンプレックスの上位に定置しており,両者の境界はほぼ水平な断層と解釈した.服 部(2011)が示した杣山地区の地質断面図では,杣山の山体を作るチャートの上位(北東側)に薄い チャートや頁岩が平行に存在し湯尾コンプレックスの泥岩に被覆されているように描かれていたが, 上述したように,杣山北の阿久和のチャートの分布は境界が南傾斜をしているように思わせる構造を している. 問題点3に対して:今庄コンプレックスと徳山コンプレックス(服部・吉村,1982の高倉相)の岩相 は,ともに厚いチャート,薄いチャート,砂岩,頁岩からなり,これらの量比のみが異なる(年代的 には徳山コンプレックスがやや若い).付加作用の際に海底層序のどの部分が付加したかという差であ ― 133 ―

(7)

り,連続的な付加作用の産物とみなしてもよい.どちらのコンプレックスにおいても砂岩は長石や石 英に富み,基質の少ないワッケ質からアレナイト質である.問題は湯尾コンプレックスである.湯尾 コンプレックスは,緑色岩や石灰岩の岩塊を数多く含み,一部の緑色岩は側方に連続する(服部・吉 村,1979,1982,1983).砂岩は基質に富んだ石英質であり中粒のグレイワッケ質である.頁岩は黒色で あり,砂岩片や緑色岩片を多く含む(服部・吉村,1979).湯尾コンプレックスには堆積性メランジェ (オリストストローム)が多く分布する.湯尾コンプレックスと今庄コンプレックスとの間には層相 上大きな違いがあり,全てを連続的付加作用により海底層序の一部が付加したと解釈するには苦しい. 湯尾コンプレックスのオリストストロームは堆積性であり,その供給源には石炭紀からペルム紀ま での石灰岩,それにおそらくペルム紀の緑色岩が存在した.また堆積時には苦鉄質火山活動があった. 岩石化学的には,これらの緑色岩は海洋島起源と考えられる(縣・服部,1999,2001,2002:Agata and Hattori,2002).湯尾コンプレックスは海底地すべり性堆積物であり,岩相の特徴から今庄コンプレッ クスとは全く異なる起源をもつのであろう.今庄コンプレックスの構成要素が南から移動してきたと 考えられるので,おそらくそれとは異なる構成要素をもつ湯尾コンプレックスの供給源は相対的に北 側にあったのであろう. 今庄コンプレックスを含む美濃帯の多くのコンプレックスは南あるいは南東から付加したと思われ ている.すなわち,北側の供給源から海底地すべりにより運搬された堆積物(湯尾コンプレックス) の堆積盆地の南のほうに今庄コンプレックスの起源となる海底堆積物が存在し,両者の間には収束境 界(海溝)が存在した.時間の経過とともに両者は接近し,やがて接合した可能性があると思われる. それまでは,両者の間では堆積物などのやり取りはなく,全く無関係であった. 湯尾コンプレックスは河野海岸から越前市西南部,南越前町北部,それに池田町南部に連続して分 布している混在岩相である.服部・吉村(1979)と福井県地質図2010年版では,全域にわたり混在岩 相であることは共通であるが,コンプレックス内部におけるチャートの分布と構造に違いがある.厚 層チャートは杣山から北西方向に分布し,河野地区や池田町南部には分布しない.大きく見ると(図 3),杣山から北西方向にシンフォームの軸(北西方向にプランジする)があり,その北西端が南越前 町中津原から勾当原に分布する緑色岩の分布パターンから描かれたシンフォームであるように解釈で 図3.南条山地北部の地質図.本論文に関係する図柄のみ凡例に示した.それ以外は下記の通り Jg 古期花崗岩,Cr 中生代流紋岩,Er 漸新世流紋岩,Fa 中新世安山岩類,Tg 新生代 花崗岩,Pp !岩,Qt 段丘堆積物.2010年版福井県地質図(福井県,2010)から取り出した. 杣山付近のチャートの分布は服部(2011)と本論文の図2により修正されている. ― 134 ―

(8)

きる.杣山の東方では厚層チャートは存在せず,また湯尾コンプレックスの内部構造はほぼコンプレ ックス境界と並行である.一方,河野海岸地区では,西に開いた大きなシンフォームが推定される. これらの構造を統一的に説明することは困難であり,場合によっては3つのサブコンプレックス,す なわち,チャートを含まない河野海岸部の地域,厚層チャートを含む杣山から中津原にかけての地域, 杣山から冠山北にかけての地域に分けて考えた方がよいかもしれない. 4.南条山地北縁部の古地理 湯尾コンプレックスは堆積性メランジェ(オリストストローム)を多く含む.その構成物から判断 すると,海溝より陸側に位置した古期弧状列島あるいは付加した海洋島とその周囲の堆積物が崩壊し て集積した前弧盆堆積物と考えられる.泥岩中の放散虫化石から判断すると,主たる崩壊時期(堆積 時期)はジュラ紀最前期であろう.この時期に海溝よりも海側に存在し,海溝に接近しつつあった海 洋層序があり,それらは今庄コンプレックスと徳山コンプレックスの材料となった.一方,湯尾コン プレックスのより陸側にはペルム紀末の東俣コンプレックス(超丹波帯)や,飛騨外縁帯が存在した が,それら相互の距離関係は不明であるし,それらの間にどのような地質体が存在したかも不明であ る.東俣コンプレックスはペルム紀末の収束境界における陸側斜面堆積物と考えられている(Nakae, 2012).西方の超丹波帯は基底にペルム紀新世の緑色岩を含んでいる(楠ほか,2011).しかしながら, その緑色岩類が南条山地のどの地質体に相当するのか,あるいは収束境界ではどの地質体とどの地質 体が衝突していたか,また,東俣コンプレックスの堆積基盤が何であったかも全く不明である. 湯尾コンプレックス中の緑色岩類には海洋島の苦鉄質岩に類似したもの(縣・服部,2001,2002:

Agata and Hattori, 2001)や超苦鉄質岩(服部,1976:大橋ほか,1979)も含まれている.湯尾コンプレ ックスの構成材料の起源となった古期弧状列島あるいは海洋島は,今となっては全て失われてしまっ たと考えることができる.湯尾コンプレックスのすぐ北側には超苦鉄質岩を含む舞鶴帯や緑色岩を主 体とする野尻層群が存在するので,これらが湯尾コンプレックス中の緑色岩類の供給地であり,これ らから巨大なオリストリスや砕屑物が供給され,東俣コンプレックス(超丹波帯)の上を通過し,海 洋に流入した可能性も否定できない. 湯尾コンプレックスには,ブロック状ではなく側方に連続する緑色岩があり,それらは堆積岩に挟 まれている.この緑色岩の年代はトリアス紀からジュラ紀前期であろう(服部・吉村,1982:藤井ほ か,1993).すなわち,古生代の石灰岩やチャート,緑色岩を含む弧状列島などが崩壊し,泥質の砂岩 や頁岩とともに低地に流入し,その時期には海洋島に関係した火山活動もあった. 飛騨帯では,ジュラ紀中期から白亜紀にかけて手取堆積盆地が存在し,そこには中朝地塊からの砕 屑物の供給があった(竹内,2006:Kawagoe et al., 2012).その時期に今庄コンプレックスと徳山コンプ レックスは湯尾コンプレックスに付加・上昇し,山脈をつくり出した.この山脈から,手取層群(石 徹白亜層群,赤岩亜層群)中のチャート礫(斉田,1987:竹内ほか,1991)が放出された.手取層群中 のチャート礫は小礫から中礫の円礫である.手取層群と美濃帯との間には飛騨外縁帯と超丹波帯(東 俣コンプレックス)が存在しているので,当時のこれらの幅は不明であるが,チャート礫を運んだ河 川は外縁帯や超丹波帯を越えて飛騨帯内部まで流れていたことになり,その古流系は北向きであった. ジュラ紀後期から白亜紀にかけて(石徹白亜層群・赤岩亜層群の時期)の手取層群の古流系は南西→ 北東が多い(Matsukawa et al., 1997)ので,受け入れ可能なシナリオである.この場合,湯尾コンプ レックスは付加・上昇した海洋層序がつくる大山脈(今庄・徳山コンプレックス)の下にあった. 一方,美濃帯にはチャート角礫層(斎藤・塚本,1993:脇田,1983)が存在する.その構成物である チャート角礫のサイズは,美濃帯中央部の上麻生の木和谷では小礫サイズであるが,南条山地では最 大15cmに達する.これらは全て角礫であり,美濃帯のメンバーに含まれる砂岩に伴っているので, 砂岩が流入してくる時に海洋層序の半固結状態であったチャート部分を撹拌し,運搬された(自食性) と考えてよい.斎藤・塚本(1993)は,チャート角礫岩は海溝の陸側に付加した海洋層序が崩壊する ことにより海溝へ流れ込んだものであり,現在位置でいえば,北から南へ流下したものである,と考 ― 135 ―

(9)

えている.美濃帯の砂岩が示す古流系は南向きである(足立・水谷,1971)ので,話は整合的である. 美濃帯のチャート角礫にはトリアス紀中期からジュラ紀中期のものが多い(斎藤・塚本,1993).手 取層群中のチャート円礫の放散虫年代はやはりトリアス紀中期からジュラ紀中期のものが多い(斉 田,1987:竹内ほか,1991).ジュラ紀後期にはこれら同じ年代のチャートの一部が陸上で山脈をつくり 手取層群へチャート礫を供給し,一部は陸側海溝斜面に付加物として存在し,美濃帯中のチャート角 礫となったことを意味する. 5.プレート収束境界と付加体 かつて,飛騨帯は美濃帯の砕屑性堆積物の供給地と考えられたが,現今は,美濃帯の堆積物の起源 は南中国であり,飛騨帯とは無関係であったと考えられている.南条山地の研究から同様な意見が出 されたことがある(Hattori, 1989).遠洋性堆積物(チャート・珪質頁岩など)が南中国の横(東側) を通過した際に砂岩などが供給され,海洋層序が完成し,その後北側にあった収束域に接近し,付加 体となり,美濃帯ができあがった可能性がある. 美濃帯北部の砂岩主体コンプレックスには,南条山地に分布する冠山礫岩系(服部ほか,1985)や 旧徳山村や木曽山地に発達する礫岩(大塚,1985:田中ほか,2000)のようにサイズが1mを越える花 崗岩円礫が存在する.冠山の北側には長径2mの花崗岩礫が存在する.それらの花崗岩礫の年代は178 ∼260Ma を示している(畔柳ほか,1993).花崗岩礫を含む砂岩中の砕屑性ジルコンのうち若いものは 約180Ma である(田中ほか,2000).冠山礫岩系などを含む堆積岩の放散虫年代はジュラ紀中期であり (服部・吉村,1982:服部,1987,1988,1989:服部・阪本,1989:Nakae, 2013a, b),これらの年代は, 花崗岩礫の侵食・運搬と今庄・高倉コンプレックス中の礫岩の堆積が同時期であり,花崗岩分布地と 今庄コンプレックスの堆積場が近接していたことを示す. 現在の飛騨帯と美濃帯との間には,飛騨外縁帯,超丹波帯が存在している.中部地方の飛騨帯は南 東方向に円弧状に突出しているが,大局的にはこれらの地質帯は飛騨帯の周りに並走している.並走 しているということは,古生代末以降活動的大陸縁(飛騨帯)に対して,ほぼ同じ方向から海洋プレ ートが接近したことを意味する.飛騨帯の突出部(飛騨帯と美濃帯が直接する地域)では失われた地 質体(飛騨外縁帯,舞鶴帯,超丹波帯,美濃帯およびそれらの一部)の面積がもっとも広いはずであ る.現今,海洋プレートの潜り込みにより層序のみならず地質体の欠損や構造侵食による亡失が起き ることが主張されており(磯!ほか,2011:丸山,2012:鈴木ほか,2010),地質体が失われることは容 易に受け入れられる.舞鶴帯の飛騨帯下への潜り込み(飛騨ナップ説)も容易に受け入れられる(小 松ほか,1985:小松,1990).九頭竜湖付近では,左門岳コンプレックスが直接飛騨帯と接しているので, ペルム系を主体とする超丹波帯の一部も飛騨帯の下に潜り込んだ可能性がある. 脇田(1985)による美濃帯の広域的地質図を見ると,砂岩・チャート主体のユニット(コンプレッ クス)でも北方のものは砂岩が多く,南のものはチャートが多い傾向にある.美濃帯では,南ほど若 くなっているので,海洋底におけるチャートの生産が次第に活発になったのか,あるいは海洋底層序 の見ているレベルが違うのか,どちらかであろう.砂岩主体のコンプレックスとして,左門岳コンプ レックスが存在する(小林,1998:小林・大塚,2006).中江(2000),中江ほか(2013)は湯尾コンプレ ックスの北側に左門岳コンプレックスを設定している.脇田(1988)は今庄コンプレックスも徳山コ ンプレックスも左門岳ユニットの名称でまとめている.連続的な潜り込みによる付加作用を考えると, 左門岳コンプレックスの構造的下位に湯尾コンプレックスが存在するのか,左門岳ユニットを分断す る形で湯尾コンプレックスが存在するのか,判断が困難である.後者の場合でも,上位にあった左門 岳ユニットが侵食され,下から湯尾コンプレックスが顔を出したのか,左門岳ユニットの上に帯状に 湯尾コンプレックスが残されているのか,これも不明である. かつては飛騨帯は先カンブリア紀と考えられてきたので,飛騨帯から供給された砕屑物が美濃帯を 形成したと考えても問題はなかった.しかし,飛騨帯形成の最終年代がジュラ紀前期(船津期)まで 若くなった.さらに,ジュラ紀後期から白亜紀にかけて,美濃帯からチャート礫が手取層群へ供給さ ― 136 ―

(10)

れた.すなわち,美濃帯の一部が飛騨帯の周りに山脈をつくり,チャート礫を手取層群に供給した. この時期には湯尾コンプレックス,超丹波帯(東俣コンプレックス),飛騨外縁帯は飛騨帯と美濃帯の 下にあったのではないか. コンプレックス収束帯の発生はプレート境界付近での現象である.プレートは数千!単位の広がり を持ち,その活動は時間的にも数千万年の長さをもつ.プレート境界も千!の長さを持ち,収束帯も おそらく数十!以上の幅をもつことになる.プレート収束帯での地層変形は,ベニオフゾーンに沿っ た深さ方向の奥行きで数十!に渡って進行し,そこでは海洋層序の底付け,剥ぎ取り,切断,混合, 衝上,構造侵食などが,時間的にも場所的にも不規則に起きており,世俗的に表現すれば,“ごちゃ 混ぜ(大規模なメランジェあるいはコラージュ)”を作っているのであろう.湯尾コンプレックス中の 緑色岩類は低度ながらブドウ石−パンペリー石相程度に変成しており(服部,1978),この事実も10! 程度の潜り込みを意味している.この論文で問題にした湯尾コンプレックスと今庄コンプレックスは 幅も長さも数!から10数!以下である.これらは大規模メランジェ(美濃帯)中の相互に無関係のコ ンプレックスである.美濃帯が付加体という解釈は正しい.しかし,その内部をコンプレックスに区 分し,対比し,付加の順を定め,付加作用を議論することは地域地質学としては重要であるいが,大 規模メランジェあるいは付加体の形成という立場からは,全体論的に有意義な成果を見るには相当な 努力が必要であろう. プレート収束域で付加体ができあがる.付加物は海洋プレート上に存在した海洋層序と陸域から流 入する砕屑物である.ありとあらゆるものが収束域に集まってくる.構造境界(ベニオフゾーン)は 簡単には移動しないので,集合してきた物質の構造と層序は乱れ,著しく変形・分断する.さらにオ リストストロームとして再堆積も起きる.場所によって,付加物の特徴に差ができ,それらが地域地 質学的にコンプレックスとかユニットとして認められることになる.我々が美濃帯とよんでいる地帯 はこのようにして出来上がったものであろう.収束域で付加物の量が増え,構造境界が後退(海洋側 に移動)することにより,新たな収束域ができる.そこで新たな付加作用が進行し,新たな地質帯が できると考えられる. 美濃帯とか秩父帯のようなサイズで付加作用を論ずる場合は,順次海洋側に若い堆積物が付加して いくと考えることには合理性がある.しかし,各地質帯の内部でもコンプレックス単位でそのように なっている(海洋側に若くなる)と考えるには注意が必要である.今回取り扱っているコンプレック スでも,今庄コンプレックスと徳山コンプレックスを各々独立したコンプレックスとみなすか,単に 構成物の量比が多少異なる程度とみなすかは,調査者の判断に依存する. 上記の立場からみた南条山地北縁部に関連した古地理の変遷は下記のようであったと推測する. 1.飛騨片麻岩帯が石炭紀までにできた. 2.その周りに石炭系が堆積した.宇奈月,石徹白,藤倉,天田地域に見られる含石灰岩層などがこ の時期の堆積物である.現在確認できる含石灰岩層の西端は朝日町金谷に露出する石灰岩・緑色岩 である.宇奈月変成帯は本石炭系の一部であろう.1.とあわせて広義の飛騨帯である. 3.ペルム紀に飛騨帯とかなり離れた南側(海側)に弧状列島ができた.その弧状列島の深部におい て舞鶴帯オフィオライトが発生した.おそらく表層部に堆積した火山岩類が野尻層群であろう. 4.弧状列島の南側斜面に緑色砂岩を含む東俣コンプレックスが堆積した(ペルム紀後半). 5.ペルム紀後期に弧状列島が飛騨帯の下に潜り込み始めた.潜り込まなかった部分が若狭地域の大 島半島であり,削り取られ残された部分が野尻層群である.飛騨外縁帯はこの時期にできた.この 潜り込みは三畳紀末まで続き,船津花崗岩を含む飛騨花崗岩類が飛騨帯に貫入した.(なお,若狭 地方の舞鶴帯と超苦鉄質岩は飛騨帯の上に衝上したかもしれないし,潜り込んだ後に上盤であった 飛騨帯が侵食・削剥され,露出するようになったかもしれない.) 6.超丹波帯(東俣コンプレックス)も舞鶴帯を追いかけるように飛騨帯の下に潜り込み,飛騨花崗 岩類の貫入による熱変成を受けた. 7.石炭紀から三畳紀にかけて弧状列島(現在の舞鶴帯)や東俣コンプレックスの堆積場の南には海 ― 137 ―

(11)

洋島群があり,三畳紀末からジュラ紀初頭にかけてその周囲に湯尾コンプレックスが堆積した.湯 尾コンプレックス中の緑色岩や超苦鉄質岩のオリストリスは崩壊しつつある舞鶴帯か供給されたと 考えてもよい. 8.さらに海洋側には三畳紀末からジュラ紀末にかけてチャートから遠洋性頁岩さらには粗粒砂岩に 至る海洋層序ができていた. 9.この層序が海溝に到達し,湯尾コンプレックスに付加した.付加過程の前半では,今庄コンプレ ックス,徳山コンプレックスに相当する部分は湯尾コンプレックスに衝上した.一部は北側の超丹 波帯や飛騨外縁帯の上にも衝上した. 10.付加過程の後半から末期(ジュラ紀中期)には半固結状態であった海洋層序中のチャートからチ ャート角礫が放出された.ジュラ紀末から白亜紀にかけて,飛騨帯に向けて美濃帯のチャート礫が 流れ込んだ. 11.徳山コンプレックスより若い美濃帯中のコンプレックスは底付けした. 12.底付けの段階(圧縮過程)で,今庄コンプレックスの下位にあった湯尾コンプレックスが上昇し, 湯尾コンプレックスの北に超丹波帯,南の今庄コンプレックスという現在の配置が完成した.この 直後に全域が濃飛流紋岩に被覆された.その後,濃飛流紋岩が削剥された地域で中生界や古生界が 露出するようになった. 13.新生代になってから温見断層の活動に伴って,断層沿いに湯尾コンプレックスが上昇し,それに より,今庄・徳山コンプレックスと左門岳コンプレックスが分断された. 大局的な古地理は①広義の飛騨帯,②舞鶴帯・オフィオライト・超丹波帯,③湯尾コンプレックス, ④美濃帯(今庄,徳山,左門岳コンプレックスなど)に分けて考えざるを得ない.また,1.∼13.で述 べた構造発達史の中で,いくつかの地質帯・地質体を扱っているが,例えば,それらの分布面積が現 在と大差ないという保証は全くない.例えば,飛騨帯はもっと南に張出していた可能性がある. あとがき 地域地質の踏査結果をまとめ,地質図に表現するにあたり,どうしても推測や解釈が必要となる. さらにまとめた成果から地質構造発達史を論じようと思うと,“可能性がある”,“かもしれない”と いう表現が頻発する.あいまい表現を一つ一つ潰していく必要があるが,付加体テクトニクスでは, 時間も空間の広大であり,さらに消えてしまった地質体を推定することが許されるので,自由度が大 きいまま残される.本論では述べなかったが,さらに大きな問題は,我々が見ている南条山地に残さ れた地質は,おそらくそれに関係した地質のほんのわずかであろう.大部分は削剥され,失われてし まっている.そのため,地質調査によって得られた観測事実から推測する構造発達史は,きわめて不 十分なものであることに注意する必要がある.今後自由度を少しずつでも小さくしていく研究が待た れるが,地域地質からの貢献は小さいものかもしれない. 謝 辞 この論文をまとめるにあたり,福井大学地学教室の諸氏には大変お世話になった.また㈱サンワコ ンにはいろいろ便宜を図っていただいた.記して感謝する. 文 献 足立 守・水谷伸治郎,1971:美濃帯古生層の sole markings と古流系について.地質学論集,6号,39 ‐48. 縣 孝之・服部 勇,1999:福井県河野村,アマゴゼ地域に分布する美濃帯中・古生層中の緑色岩類. 名古屋経済大学環太平洋研究所「環太平洋研究」2号,5‐84. 縣 孝之・服部 勇,2001:福井県南条山地,金粕地域に分布する美濃帯中生層中の緑色岩類.名古 屋経済大学 環太平洋研究所 環太平洋研究,4号,17‐26. ― 138 ―

(12)

縣 孝之・服部 勇,2002:福井県河野村,アマゴゼ地域に分布する美濃帯中生層の緑色岩溶岩中に みられるクロマイト含有かんらん石−単斜輝石ドレライト捕獲岩.名古屋経済大学・市邨学園短期 大学 自然科学研究会会誌,36,57‐68.

Agata, T. and Hattori, I., 2002 : Chromite in greenstone lavas from the Kanakasu area, Nanjo Massif of the Mesozoic Mino terrane, central Japan. Mineralogical Magazine, 66, 575−590.

藤井純子・服部 勇・中島正志,1993:中生代初期の赤色層状チャートにおける放散虫生層序と古地 磁気層序の研究.大阪微化石研究会誌,特別号9,71‐89. 福井県,1969:福井県地質図幅(15万分の1)および同説明書(塚野善蔵編).福井県,117p. 福井県,2010:福井県地質図および同説明書(2010年版).福井県建設技術公社,183p. 服部 勇,1976:福井県南条山地における超塩基性岩の発見.地質学雑誌,82,739‐740. 服部 勇,1978:内帯古生層地域に分布する緑色岩類中に認められる沸石相および低変成相の広域的 分帯の地質学的意義.岩石鉱物鉱床学会誌,73,222‐230. 服部 勇,1987:福井県南条山地におけるジュラ紀放散虫について.福井市立郷土自然科学博物館研 究報告,34号,29‐101. 服部 勇,1988:福井県南条山地多留美川上流のマンガンノジュールからの放散虫と美濃帯北西部の 構造的位置づけ.福井市立郷土自然科学博物館研究報告,35号,55‐101. 服部 勇,1989:福井県南条山地西部の3地点におけるマンガンノジュールからのジュラ紀放散虫に ついて(資料).福井大学教育学部紀要,Ⅱ,39号,47‐134. 服部 勇,2011:福井県内のいくつかの地域の地質.その1:巣原−水海地域,冠山−金草岳地域, 杣山地域.日本海地域の自然と環境,№18,1‐12. 服部 勇,2012:福井県内のいくつかの地域の地質.その2:越前市南東部から池田町南西部の地域 および福井市美山地域.日本海地域の自然と環境,No.19,1‐12.

Hattori, I., 1989 : Length−slow chalcedony in sedimentary rocks of the Mesozoic allochthonous terrane in cen-tral Japan and its use for tectonic synthesis. in. Hein, J. R. and Obradovic, J., eds., Siliceous deposits of the Tethys and Pacific regions. Springer−Verlag, New York, 201−215.

服部 勇・吉村美由紀,1979:美濃帯北西部南条山地における古生代緑色岩・石灰岩塊を含む地層の 産状と分布.福井大学教育学部紀要,Ⅱ,29号,1‐16. 服部 勇・吉村美由紀,1982:福井県南条山地における主要岩相分布と放散虫化石.JRS81 Osaka 大阪微化石研究会誌 特別号 №5,103‐116. 服部 勇・吉村美由紀,1983:福井県南条山地に認められるトリアス紀後期・ジュラ紀前期の緑色岩 類.福井大学教育学部紀要,Ⅱ,32号,67‐80. 服部 勇・阪本直樹,1989:福井県南条山地冠山−金草岳地域の地質とそこにおけるマンガンノジュ ール中のジュラ紀放散虫について.福井市立郷土自然科学博物館研究報告,36号,25‐79.

Hoshi, H. and Takagawa, M., 2009 : Early Miocene parallel dike swarms in the Tsuruga Bay area, back−arc side of central Japan. Jour. Geol. Soc. Japan, 115, 96−99.

磯見 博,1955:福井県日野川上流の石炭紀層および二畳紀層とその紡錘虫化石.地調月報,6,19‐22. 磯!行雄・丸山茂徳・中間隆晃・山本伸次・柳井修一,2011:活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史−日

本列島形成史アップデイト−.地学雑誌,120,65‐99.

Kawagoe, Y., Sano, S., Orihashi, Y., Obara, H., Kouchi, Y., and Otoh, S., 2012 : New detrital zircon age data from the Tetori Group in the Mana and Itoshiro areas of Fukui Prefecture, central Japan. Memoir of Fukui Di-nosaur Museum, 11, 1−18. 小林裕哉,1998:美濃帯根尾−和泉地域の左門岳ユニットから産出したトリアス紀およびジュラ紀の 放散虫化石群集.信州大学理学部紀要,33,27‐63. 小林裕哉・大塚 勉,2006:美濃帯左門岳ユニットの堆積相と堆積環境.地質学雑誌,112,331‐348. 小松正幸,1990:飛騨ナップ説とナップ境界.日本地質学会97年学術大会講演要旨,36‐37. ― 139 ―

(13)

小松正幸・宇治原雅之・茅原一也,1985:北部フォッサマグナ周辺の基盤構造.新潟大学理学部地鉱 研究報告,5号,133‐148. 楠 利夫・貴治康夫・三上禎次・村田 守,2011:超丹波帯高槻層基底部の現地性緑色岩類−産状と 地球化学性−.地球科学,65,49‐61. 畔柳勇生・鈴木和博・足立 守,1993:美濃帯,岐阜県徳山地域の含花崗岩礫礫岩とその CHIME 年 代.日本地質学会100年学術大会講演要旨,247.

Matsukawa, M., Takahashi, O., Hayashi, K., Ito, M., and Konovaloy, V., 1997 : Early Cretaceous Paleogeogra-phy of Japan, based on tectonic and faunal data. Memoir of Geological Society of Japan, No. 48, 29−42. 丸山茂徳,2012:造山帯の分類とその意義:古造構場復元の束縛条件−「丸山ほか:太平洋型造山帯 −新しい概念の提唱と地球史における時空分布−」論文(地学雑誌,120巻,115‐233)の追記−. 地学雑誌,121,1090‐1106. 中江 訓,2000:西南日本内帯ジュラ紀付加複合体の広域対比.地質学論集 55号(ジュラ紀付加体 の地域地質と広域対比−ジュラ紀付加体の起源と形成過程),73‐98. 中江 訓・小松原 琢・高橋裕平・吉川敏之,2013:今庄及び竹波地域の地質.地域地質研究報告(5 万分の1地質図幅).産総研地質調査総合センター,110p.

Nakae,S., 1992 : A formative process of the sedimentary complex of the Tamba Terrane in the Wakasa area, Southwest Japan : An example of continuous accretion. Jour. Geol. Soc. Japan, 98, 401−413.

Nakae, S., 2012 : Geology of the Permian Higashimata Complex in the Nanjo Mountains, Fukui Prefecture, Southwest Japan. Bull. Geol. Surv. Japan, 63, 269−281.

Nakae, S., 2013a : Triassic to Middle Jurassic radiolarians from pelagic cherts in the Nanjo Mountains, South-west Japan−Part 1. Imajo district. Bull. Geol. Surv. Japan, 64, 85−112.

Nakae, S., 2013b : Triassic to Middle Jurassic radiolarians from pelagic cherts in the Nanjo Mountains, South-west Japan − Part 2. Kanmuri Yama district. Bull. Geol. Surv. Japan, 64, 151−190.

西田一彦,1962:福井県南条山地の地質.地学研究,13,40‐46. 大橋不三男・縣 孝之・服部 勇,1979:福井県南条山地,中津原に産する超苦鉄質岩.岩石鉱物鉱 床学会誌,74,227‐234. 大塚 勉,1985:長野県美濃帯北部の中・古生層.地質学雑誌,91,583‐598. 斉田縦道,1987,福井県大野郡和泉村田茂谷地域の手取層群中のチャート礫に含まれるトリアス紀お よびジュラ紀放散虫化石,地質学雑誌,93,57‐59. 斎藤 眞・塚本 斉,1993:チャート角礫岩−美濃帯中部,七宗−武儀地域における産状と放散虫化 石.地質学雑誌,99,117‐133. 阪本直樹・服部 勇,1999:野外調査から見た福井県南条山地の中生代堆積岩類の地質構造.福井市 自然史博物館研究報告,46号,65‐76. 鈴木和恵・丸山茂徳・山本伸次・大森聡一,2010:日本列島の大陸地殻は成長したのか?−5つの日 本が生まれ,4つの日本が沈み込み消失した−.地学雑誌,119,1173‐1196. 高村裕司・早見敏幸,1984:福井県今庄町東部地域の中・古生層について.福井市立郷土自然科学博 物館研究報告,32号,1‐16. 田賀秀子,1997:南条山地に分布するチャートに含まれる中・古生代放散虫化石について.福井市自 然史博物館研究報告,44号,35‐55. 田中姿郎・鈴木和博・足立 守,2000:美濃帯北東部,月夜沢峠地域のジュラ紀礫岩から産出した約 178Ma の CHIME 年代を示す花崗岩質礫岩(予報).名古屋大学博物館報告,16号,33‐41. 竹内 誠・斎藤 眞・滝沢文教,1991:黒部川上流域の手取層群の礫岩から産出した放散虫化石とそ の地質学的意義.地質学雑誌,97,345‐356. 竹内 誠,2006:4 来馬層群・手取層群 中・古生代基盤岩類をおおう中生代堆積物.日本地質学 会編集 日本地方地質誌 中部地方,202‐203. ― 140 ―

(14)

脇田浩二,1983:岐阜県郡上八幡南西方のジュラ紀層にみられる異地性岩体と海底地すべり堆積物. 地質調査所月報,34,329‐342. 脇田浩二,1988:2.5美濃帯(1)概説.日本の地質5「中部地方Ⅱ」.日本の地質「中部地方Ⅱ」編集 委員会編,共立出版,37‐54. 脇田浩二,1985:美濃帯中・古生界における研究史と最近の研究動向.地球科学,39,18‐30. 吉村美由紀・木戸 聡・服部 勇,1982:福井県南条山地今庄地域におけるスタイロライトチャート および放散虫化石.福井大学教育学部紀要,Ⅱ,31号,65‐77. 難読地名 阿久和 あくわ 金谷 かなや 杣山 そまやま 八乙女 やおとめ 湯尾 ゆのお 連光坊 れんこうぼう ― 141 ―

参照

関連したドキュメント

活断層の評価 中越沖地震の 知見の反映 地質調査.

東京都北区地域防災計画においては、首都直下地震のうち北区で最大の被害が想定され

aTheTateModem3)4)5)(図6,7,8,9,10):ロン

西山層支持の施設 1.耐震重要施設 2.重大事故等対処施設 1-1.原子炉建屋(主排気筒含む) 2-1.廃棄物処理建屋.

1-2.タービン建屋 2-2.3号炉原子炉建屋内緊急時対策所 1-3.コントロール建屋 2-3.格納容器圧力逃がし装置

自主事業 通年 岡山県 5名 岡山県内住民 99,282 円 定款の事業名 岡山県内の地域・集落における課題解決のための政策提言事業.

 既往ボーリングに より確認されてい る安田層上面の谷 地形を埋めたもの と推定される堆積 物の分布を明らか にするために、追 加ボーリングを掘

その上で、第一地区、第二地区、第三地区とあるなか、今回の第一地区がその3つの地