• 検索結果がありません。

タクシードライバーのライフヒストリー

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "タクシードライバーのライフヒストリー"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

タクシードライバーのライフヒストリー

南 田 勝 也 はじめに 我々の調査に協力いただいた大阪A社では,タクシー乗務員は 10 年クラ スのベテランドライバーが多く,年齢層は40 代,50 代がほとんどであった。 タクシー業は一般的に流動率が高いイメージがあるが,A社B主任の談話に よると,「うちは定着率が高い」。その一方で「新卒で入ってくる人は,まず, いない」(A社E氏)こともあり,全体の年齢層は上昇しているのである。ま た,トラック業界から「体がきつい」という理由で転身してきた人達,営業 職から「人間関係がいやになって」転身してきた人達はことのほか多い1。な にかしらの職業経験を経てタクシー業に定着したというパターンが,ここに は見受けられる。 こうした理由で,操作的に調査対象者を選定したわけではないにもかかわ らず,同じ世代層のインタビュー・データが自然と集まることとなった。ラ イフヒストリーの記述が目的である本稿では,その内の3人の人物に注目し, その生活史を①青年期②遍歴期③現職期に分けて,時にクロスオーバーさせ ながら見ていくこととしたい。登場人物は,C氏・D氏・E氏,年齢はそれ ぞれ,49 歳,48 歳,45 歳(調査当時)である2。年齢に多少の幅はあるもの の,おおむね「団塊の世代」として戦後社会を生きぬいてきた人達である。 ただし,本稿ではそうした職業的・世代的共通性をもとにして「タクシー ドライバーとは○○な人達である」といったカテゴリー化を行うことはしな

(2)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 い。むしろ,それぞれのインフォーマントの個別的な生活史をクローズアッ プすることによって,要約的な傾向性からはこぼれ落ちてしまう側面を記述 するつもりである。一括りにできない生活の実相は,インフォーマル・イン タビューを積み重ねることで初めて見いだされた。 1.岐路 1−1 C氏は1949 年生まれで現在 49 歳。高校時代まで大阪に住んでいた。父親 が戦後復員してから始めた機械工場が成功したこともあり,比較的裕福な環 境で少年時代を過ごした。1958 年にはテレビはもう自宅にあったということ からもそれは伺えるだろう(松下電気が「一生に一度のお買い物です。十二 分にご吟味ください」と宣伝していた時代である)。日本全土が高度成長期に 突入する頃であり,父親の工場はその波にうまく乗った。ただ,途中から仕 事を人に任せゴルフ三昧になっていく父親の姿は,少年C氏の目には良くは 映っていなかったようだ。 だいたい寝てるわけね,布団のなかでね。それで帰ってきたら,寝てるわけね, 間中。もうそれが嫌でねえ。働く姿を,うん,だから働かんいうのはごっつい嫌で ねえ。 勤勉さに価値を見いだす性格は,家の経済状態で困ることはなかったとい うこととも相まって,一つのことにのめり込む志向性を育てていく。小中学 校の頃は,演劇・図工・美術に熱中し,モノを作る面白さに触れていた。そ して中学3年生のとき(1964 年)の東京オリンピックが,一つの転機を迎え るきっかけとなった。前年から請われて水泳部に入っていた彼は,足腰を鍛 えるためにロードランニングをしていたが,そこで走ることの喜びを覚え, 以降,陸上に本格的に取り組むこととなる。 オリンピックの,夏の終わってからの,家からこの道をずうっとぐるりを走って

(3)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) たんよ。ほんだらお婆ちゃんがぱーって手を叩くわけよ。がんばれがんばれーって いうて(笑)。それがきっかけで始めたんよね。 高校時代は陸上一色の日々を過ごした。中長距離のランナーとして,高校 駅伝ではアンカーも任されている。走ること自体は苦しいことで忍耐勝負で ある。だが,一人抜き,二人抜いたときの嬉しさと,走り終わった後の爽快 感はなにものにも変えがたいとC氏は言う。それにのめり込んだおかげで, 取り組み始めた時期は比較的遅かったにもかかわらず,高校の陸上部の監督 による推薦で東京のF大学の教育学部に進学することとなる。 大学でも陸上に打ち込むのだが,オリンピック・クラスの選手がしのぎを 削るような環境で選手になることはなかなか難しかったようだ。それに加え て当時は学生運動の最盛期であり,入学してみるといきなり学校閉鎖,運動 部所属ということで学校側に立ち,闘争にコミットしていくこととなる。学 生との闘争の現場では最前線にアメフト部やラグビー部など体格のいい人達 が配置され,C氏など陸上部で比較的小柄な人達は後方でバリケード用の椅 子を運んだりしていた。それでも「前,囲まれてねえ。殺されるか思たけど ねえ」という具合であった。普段話をする人も闘争となると敵味方に分かれ, それも含めて嫌だったそうだ。この時代背景のなか,授業に出た(出られた) のは正味で「一年,半いったかどうか」であったが,部での活動,学生運動, アルバイトと,多忙な日々を送った。車の免許もこの時期に取得している。 一つのことに熱中する反面いろいろなことに手を出したい性格でもあり,大 学へは写真学科に進みたかったという夢も実は持っていたのだが,卒業して 母校の教師として帰るつもりで,陸上部の活動に勤しんでいた。「強かったか ら,そのころ,F大も。だからそのころの練習方法も盗み取って,高校へ帰 って,そういうつもりでいましたからねえ」。ところが,いざ大学を卒業する 段階になって不測の事態が生じる。 だからほんとは学校の先生になれるつもりでいたけども,その,学区の校長が 12 月にポックリ亡くなったんでねえ。だから口約束でねえ,それは。もう亡くなって しまったら,もう,他の先生は誰も,知らない言うてねえ。だから,就職の,だか

(4)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 らもう,ゼロですねえ。なかった。 状況的に見れば「マンが悪かった」(運・タイミングが悪かった)というこ とになるだろうが,こうしてC氏は新卒採用の仕事に就く道を閉ざされ,以 降さまざまな職業を渡り歩くこととなる。 1−2 D氏も大阪生まれ(1950 年)の大阪育ちだが,その生まれ育った環境は同 年代のC氏とはある意味対照的であり,異なったリアリティをみている。父 親はD氏が生まれる前に死去し,残した借金と兄弟の数の多さゆえに暮し向 きは非常に悪かった。 父親,なくしただけやったらまだましやけど,死んだ親父が,借金残して死んど るからな。借金残して死んで,おまけに何も無いと来るやろ?悲惨やで。ほんでそ こへ持ってきて兄弟多いと来るやろ。まあそんなもん,母親一人の力で,子供7人 も8人も育てられへんで。だから,必然的にみんな,うーん,ちりちりばらばらな ったけどね……。 日本の高度成長が始まったのは一般的には 1955 年とされていて,D氏の 幼少期にあたるが,1958 年の国民意識調査において自らの生活水準を「下」 と位置づける層は17%にのぼり,国民が「一億総中流」意識を持つようにな る(60 年代中期)には数年の開きがある3。これはあくまでも意識調査であ り実態をそのまま反映するわけではないが,D氏のような境遇に至る家庭も 少なくはなかったと思われる。D氏の語る言葉の中には,「時代」という単語 が数多く出てくる。「まだまだぼくらの時代いうたら……高度成長していっ たいうても,それまでどんなんやったいうたらめちゃくちゃ貧しいでっせ」 「ぼくらの家庭も,ぼくらのいうかどこの家庭も……食うや食えんやわから んような,あのー,時代を生きてるでしょ」「まあこれは世間一般に貧しかっ たっていうね,まあそういうような時代のなかで,時代,そう思うんですね」。 置かれた状況の酷さを追憶するときには,それを時代という大きな概念で包

(5)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 括するより他はない。「もはや戦後ではない」という流行語(1956 年)にし ても,D氏にはまるで絵空事のように思えたことだろう。こうした回想を, 彼はどちらかといえば淡々とした口調で語っていた。 彼の原体験は家族観にも反映されている。22 歳のときに結婚して次の年に は子供も生まれるのだが,共働きという形はとらなかった。 もともとはね,女を外へ出すのがきらいやったから,ぼくが小さいころ,かぎっ 子やったから,親を見ずにして育ってきたでしょ?そうすると,ぼくの気持ちの中 で,正直母親っていうのは家庭の中におって,子供の,顔を見てやるもんだと。い うのが強かったからね。だから,うちの女房ってのは,長いこと,働かさなかった んですよ。 しかし,少年期から青年期にかけて何があったかというエピソードについ てはあまり触れてもらえなかった。ただ,中学生の頃はレーサーになる夢を 持っていたそうだ。成人してからも一時期やりかけたことがあるが,資金が 莫大に必要なのであきらめた。ともあれ,アルバイトをしつつ高校までは出 る。その時大学を受験し合格するのだが,やはり金銭面の理由から断念しそ のまま就職する。職場では営業職に就き,以降がむしゃらに働くこととなる。 1−3 E氏(1953 年生まれ)の場合,家庭環境は突出して目立つようなものでは なく,経済的にはC氏とD氏の中間くらいの環境に育った。暮し向きは「団 地ではなくて貸家。ごく一般の家庭で,父親は,まあ普通のサラリーマンと いうわけではないけど,まあ普通の会社員」という具合で,3人のなかでは ある意味もっとも平凡である。しかし,自由な校風で有名な高校(大阪府下) に進学したこともあり,18 歳から 20 歳までの間,同世代の人がそう何人も 経験できるわけではない稀有な体験をする。「もう一年の半ばくらいから制 服なんか着ていかなかった」というような高校の気風に触れることで,偏差 値的な尺度とは別のところに価値を見いだしていたようだ。

(6)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 そういう校風の中で,友達がいっぱいおって,まともに大学いく気なんて無かっ たですね。たまたま平凡パンチでねえ,東京の三宅島ってあるんですけどね,まあ そこで,平凡パンチを通して,牧場作るんで人を募集するいう広告があったんです。 で,それに応募して……嘘かホンマか知らんけど4,5百人応募があったっていう んですけど,受けた中で 10 何人。ほんで通ったんですよ。 ヒッチハイクで東京までいき,そこから島に渡り,1期生として開墾の手 伝いをした。何もないところに牧場を作るということで,まずは木を切り開 き池を作ることから始めた。「もともとその募集かけた人が,かなり,一筋縄 ではいかん人」だったそうだが,千差万別のさまざまな経歴の人がそこに集 まった。牧場は徐々に整備されていった。「そのリーダーの人が人間形成をそ の牧場の中でやりたいと。要するに遊びにくる人も働くとか」ということで, 開墾地は「人間牧場」と名づけられ,三宅島を訪れる観光客用の体験牧場と しての役割も果たすようになった。地元の人との交流はあまりなかったそう だが,入植者同士や観光客との交流は盛んだった。 このプロジェクトが立ち上がったのは,E氏が18 歳のときだから 1970 年 代に入って間もないことである。この当時は,全共闘運動が一段落して,若 者文化の志向性がより内省的により脱世俗的な方向に向かっていた頃にあた る。終わらない競争社会に疲れ果てた人達にとって,この三宅島牧場の実践 や理念は一種の理想郷と映っていたのかもしれない。E氏自身は,昼間は観 光客の相手をして夕方からは牧草を刈りにいくといった具合に働き,合間を ぬって遊び,ナンパをし,仲間と時にはケンカもし,その濃縮された時間を 満喫して過ごした。資金繰りとしては苦しく,メンバーは本土に仕事を探し にいくことも多かったが,ともあれ「入ったとき,その牧場に骨埋める気持 ちやった」と考えていた。しかし,20 歳の時にそこを飛び出してしまう。 ……そういう生活をだから,二十歳の終わりくらいまでやってたのかな。ほんで, なんかのきっかけで,嫌になってぷいと出てきたんです。やめてしもて,ほんで, どうしたんかな。

(7)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 三宅島を飛び出した後,都内の友人宅に転がり込む。そこに,三宅島に遊 びに来たことがきっかけで仲良くなった女性が訪れたこともあって,そのま ま都内にアパートを借りて彼女と同棲生活を始めることとなる。 2.遍 歴 2−1 3人の育った境遇や環境はそれぞれ異なるが,必ずしも望んだ形で社会に 出たのではないという点では共通していた。ともあれ,社会に出たならば食 べていかなければならない。まずは仕事を見つけなければならないのである。 C氏は,高校の教師になるアテが外れて,ひとまず大阪に帰り家の仕事を 手伝っていた。「それでもなんかねえ,あんましやる気ないねやから,好きな ようにせえいうて。ほんでまあ車でも乗るかいうて」トラック運送の仕事を 始めた。これは比較的お金も良く,2年くらいは続けるのだが,何か経験を 生かしたことをやりたいと思うようになる。「スポーツ選手の料理したいて 思って」大阪の料理学校に通い,首尾良く調理師免許を取得し,26 歳になる 頃,東京に再度出向いた。読売巨人軍の料理関係の職をあたってみたりした が,これは女子のみ採用ということで断念して,そのまま東京の料理専門学 校に勤めることとなった。ここで現在の彼の妻と知り合うことになるのだが, 結局そこでの暮らしも3年くらいで終え,再び大阪へ帰ってくることになる。 ――東京から,帰ってくるきっかけっていうのは? だからなんとなくもう大阪へ帰りたいっていうんかなあ。 ――ああ,もう東京,飽きがきたって? 飽きがきたいうんかなあ。なんかこう,なんとなくこう,胸騒ぎ,まあ,親父な くなったからなあ。 C氏の父は,食道癌で亡くなっている。鋳物やラッカーを扱うような工場 の仕事で,粉塵やシンナーを吸い込んでいたことが直接の原因だったと考え られる。入院する直前の時期は,会社の経営自体が傾いていたこともあり,

(8)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 再建のために自ら仕事に取り組んでいた。羽振りの良かった頃に所有してい たオートバイも人手に渡り,自転車で得意先回りなどをしていたそうだ。そ れでも,仕事をする父の姿を見るのは嬉しかったとC氏は言う。 大阪に戻ったC氏は,給食センターの仕事に就いた。しかしこれは給食と 弁当の工場と会社の社員食堂を掛け持ちするという,寝る暇もない労働だっ た。この仕事を 1 年ほど続けるのだが,「とてもじゃないけど出来ひん」と いうことで,その後,F大の先輩のツテで会社社長の専属運転手の仕事を得 る。これは非常に楽だったそうだが,逆に時間を持て余してしまい,焦燥感 を感じることとなる。「自由はきいてたねえ。まあ本読みたかったら読めばい いし。寝とけばいいいうんかねえ。でもそれは空しいいうかな,まあ 30 代 の頃やから」。ポケベルで社長から呼び出しがかかるまでの余った時間のなか で,どんな商売がいいのかということをいろいろと考えたりした。お好み焼 きの店を出す話も直前までいった。 そんなある日,ビデオ撮影技師の求人があることを知る。 まあ,そういうことしとったときに,ビデオのカメラマン募集のあれがあってね。 まあ見に行って。でその,結婚式のときかなあ。お父さんとお母さんが涙ぽろぽろ 流してる,ああいうのみてね,で,ビデオがごっつう綺麗に撮れてるねん。だんだ んと画質がよくなってきててね。あーこんな綺麗に映るんやったら,やってみよう かなあ思って。 初期費用として講習の授業料や機材購入費で100 万円ほどかかった。現場 ではメインのカメラマンの脇につき技術を習得していった。1 年ほど経ち, ようやく会社のOKが出て現場に一人で立てるようになった。各種結婚式, 幼稚園の卒業式など仕事が回ってくるようになり,最終的には独立もした。 仕事にはやりがいを見出していたのだが,しかしいかんせん経費がかかりす ぎた。「カメラをね,2,3年ごとに買い換えないといかん。新しいやつにね」。 業務用だからそれもばかにならない。「まあ年数があるから。まあ,2,300 万とかするからねえ。……カメラの仕事はしたけど,実質働いてる賃金はゼ ロと一緒やね」。1987 年の年の瀬,四人の子供のうち一番下の子が4歳だっ

(9)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) た冬に,生活に行き詰まり,転職を決意する。 それがだんだんだんだん,こう,(苦笑),下がってだんだん,もう仕事なくなっ てもう,もう惨めな状態で食べていけん,年越せんなあいうんで,タクシーでも乗 らんと仕方ないなあ,いう感じでねえ。 こうしたいきさつからC氏は現職のタクシードライバーに転職し,以降A 社に勤めることとなった。彼の前歴はこのように多岐に渡るわけだが,本人 は「でも浅いわ。ものになってへんから」と自嘲する。しかしその一方で「だ からなんでも自分自身では,やめてもなんか,なんでも出来るいう気はある んやけどな。これしか出来んいうのとは違うし」とも考えている。 2−2 このケースとある意味対照的なのがD氏で,彼は主として営業職にたずさ わり,セールスという営為に対してプライドも持っていた。早い時期に結婚 して妻子を養っていかなければならなかったこと,25 歳の時に店を持つに至 ったが3年あまりで失敗してしまったこと,そして自らの貧困の経験が, 「(売り上げの)数字にたいする取り組み方が強い」という志向性に反映され ていくのである。 高校卒業して,そく,働いて……いろんなことはしてましたけどね。まあその頃 からもう,なんていうか営業職っていうんか,うん。工場のプレスとか,いろんな 経験はありますけどね。で,高校卒業して就職して,25 歳のとき,昭和 51 年に独 立して,54 年まで会社やりながら,途中3年頃,自分で店を出して,うん。やりま したよ。で,57 年にそれをぽしゃらして,で,1 年くらいの空白があって,で,A 社くる前の会社,セールス・エンジニアリングちゅうやつですわ。 1983 年に機械の整備会社に勤めることとなる。機械の中でも木工器を扱う メーカーで,パイが小さな業界のなかで350 人規模という中堅以上の会社で ある。木を用いた機械は扱いが難しく,ミクロ単位の精度が要求される鉄と

(10)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 は違ったセールスポイントも必要となる。逆にそれが面白みを生むとD氏は 言う。「木ってのは生き物でしょ。なんぼ整形しても,また変わっていきよる んですよ。だから面白いんですよ」。この会社では,営業にとどまらず販売や 技術管理まで総合的に取り組んだ。 いわゆる機械の。機械の整備メーカー勤めてて,代理店おろして,代理店の営業 を活性化させて,そのために機械を売ってっていうような。そのために,その操作 っていうか取り扱いを我々メーカーがやってやらなあかんっていうか。ちょっとし た機械には当時から,パソコンが導入されてるじゃないですか。その操作の仕方と か。パソコンだけじゃなくて磁気テープだとか。まあそういう機械の取り扱いを。 まあそういうのをしながら,機械を売ってと。 この会社では 10 年近く勤務するのだが,1992 年にタクシードライバーに 転職する。「いまぼく6年ちょっとタクシーやってますけどね,正直言ってこ んなに長いことやるとは思ってなかった」と語るように,A社に入社した当 初はこの業界に長く身を置くつもりはなかった。しかし,入社後すぐ入った 会社の野球部での仲間との交流が楽しかった。「ぼくは学生時代野球やって て,野球好きだった。ぼくは野球好きだったから,他に目を向けたときに, 他にいったとき,他になんかしたときに,野球できるのかなと思った」。転職 した当時の状況や動機に関してははっきりと語ってもらえなかったが,売り 上げの数字を競い,上昇志向の人達の中でもまれることに疲れを感じていた のかもしれない。「正直の話ね,前の会社のほうからね,コールバックの話あ った」けれども結局それは断った,とD氏が語る中に,そのことは示唆され ている。 確かに,収入もちゃうよ。ちゃうけど,むしろ,収入もさることながら,人間な んてしょせん一人では生きていかれへんねやから,それでいうて,その,手短な仲 間とね,アホいうて,わあわあわあわあ,仕事離れてよ,仕事離れたときにアホ言 うて,わあわあきゃあきゃあ言うてよ。そのー,自分の体も動かせて,あのー,ス ポーツでね。そういうふうなところに,じゃあ自分の身が置けるかというたら,ま

(11)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) ずありえないところだからね。そしたら,もうちょっとの間,今のところで仕事や ってみようかと。思うと,後はもう,ずるずるいきよった。 しかし,そうやって仲間との交流を楽しみながらも,同業者の向上心の低 さには時にいらだちを覚えると言う。「ぼくら営業やってて,収入に追っかけ られて,その収入達成するためにはどうとかこうとか,こういう人脈とつき おうてとかね? いろんなこと考えるじゃない。タクシーはそれがない」。一 方での心地よさと他方での不甲斐なさが,アンビバレンツな心情として同居 している。タクシードライバーという職業を選んで6年あまり,E氏は,そ れでもやはり一貫して「営業」のポリシーを持って日々の業務に接するので ある。 2−3 E氏も営業の経験を持つ。ただし彼の場合は一貫して運輸業界に関わる仕 事をしている。同棲していた彼女と正式に籍を入れ,最初はトラックのドラ イバーとして関東で働きはじめた。「まず仕事せなあかん,ほんで新聞広告で 見て,なんちゅうかな,学歴は一応高卒やし,手に職があるわけや無いし, 運送屋さんの道しかないわ,免許証だけはあるから」ということで運転手の 職を得る。結婚,転居,親戚付き合いという生活の展開のなかで,いくつか 他業種に移る機会もあったわけだが,「どういうわけか運送屋さんのハタケ ずうっとやって,他のところへ目が向かなかった」。運輸業の面白さに触れた からだという。 面白味っていうのは,仕事そのものの面白さじゃなくて,こないだも言ってたよ うに,自分中心的な人間にはあの職業は非常に楽なんですよ。で,やりやすい。そ うすると面白いっていうのは,実際ドライバーの時期じゃなくて,営業まわってか らですね。運輸業の面白さは,ドライバー,ドライバーやってたときは楽してた。 仕事そのものはきついけれども,人間関係しがらみとかね,そんなんないんで,う ん,ていうことで,ドライバーやってたんですけど,面白さいうんは,営業のほう です。

(12)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 ドライバーを7,8年経験し,運送会社の営業職に移る。零細企業だった ので苦労も多かったが,その分意思が反映されやすく面白かったという。荷 主の開拓や交渉を行うと同時に,直接ドライバーに指示を出す管理の仕事も 行っていた。荷主の「朝からこいとか,こんだけ荷物積め」という要求には 応えなくてはならないし,それと相反するドライバーの苦情にも応じなけれ ばならない。事故処理や社員教育などの業務も任されていた。気苦労は絶え なかったが,自身の経験を生かしてドライバー心理を巧みに操縦し,取り巻 く環境を改善していくという仕事にはやりがいを感じていた。「とにかく安 く」ということが運輸業に求められていた時代である。 そんなかで,その,ドライバー使う立場になって,ねじりはちまきとか下着姿で 運転するのは止めよう,立ち小便するのはやめよう,みたいなことを言うわけです。 なんでかいうたら要するに,レベルを上げよういうことです。今でこそ,あの佐川 なんかセールスドライバーとかいうてるけど,その先駈けいうのは,運転手そのも ののレベル上げたいいうので。営業でお客さんと話するのも面白かったし,ドライ バーのレベルを,あの,おれ一人で頑張っても全然,その,何十万とおるドライバ ーのレベル上がるわけや無いんですが,自分とこで使てる運転手くらいは,お客さ んと接するときはちゃんと言葉づかいできるように,肌着姿で客の前でどないとか, あの,教育指導していくのも,面白いってのとは違うかもしれないけど,ドライバ ーのレベル向上したいっていうのはありましたね。 その仕事を1987 年,34 歳までやり,それからエアカーゴ専用の運送会社 に転職した。知り合いに請われたからだった。成田空港に到着した荷物は, 生鮮食品と緊急貨物を除いて税関のある千葉県のターミナルに集められ各地 へ配送される。そのターミナルでの仕事である。会社では主に事務職を担当 していたが,かなりつらい仕事だったようだ。「日本の税関のシステムが悪く てですねえ,輸入された荷物,税関で許可を得るのが,かなり遅い時間かか ってたんです。で,実際に貨物が搬出されるのが夜中の2時3時っていうの がざらなんですよ。そうすると,今はタクシー会社ですから一日おきですけ ども,一週間徹夜とかあるんですよ」。まず業者から書類を預かって税関に提

(13)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 出しハンコを貰う。ウワヤと通称される保税貨物,保税倉庫にそれを提出し, 許可を貰ったら次はトラックへ。こうした一連の流れにとにかく時間がかかった。 朝8時半に出てきて深夜2時3時までというスケジュールが毎日続いた。 しかしその会社は倒産してしまう。東京でそのまま仕事を探す手もあった が,両親が住んでいるということで5年前大阪に戻ってきた。 両親がこっちにいたんですね。で,しばらくは何もしなかったですね。挫折感で ね。まあそうこうして,さっきの話じゃないですけど,タクシーでも乗ろかと。そ の時にね,まあさっき話しましたけど,まあこの年でしんどいなと。……だから使 ってる人間のほうが偉いとか,いいとかいうんじゃなしに,やっぱり,使ってるほ うの人間から使われるほうの人間になるっていうのは,都落ちみたいなね。半分。 それと,半分はこっちのほうが楽やと(笑)。 A社での就労サイクルは,朝8時に出勤し翌朝2時∼4時頃まで勤務,そ の日は明番となり,また次の日に朝8時に出勤という形である(4勤後に公 休が入る)。一回の勤務で16 時間から 20 時間は走らないといけないわけで, これでもそうとうきつい仕事のように思えるが,前の仕事と比べると「非常 に楽なんですよ」と言う。「毎日営業のノルマはあるにしても,かといってが んじがらめに縛られているわけではない」。精神的な負担が軽いことが何より 大きいとE氏は語る。 3.現在(いま) 3−1 こうして三者は三様にタクシー乗務員の仕事に就いたわけだが,インタビ ューにも表れているように,彼らが業界に参入するまでに持っていたタクシ ードライバーのイメージはどちらかといえばマイナスのものだった。E氏が 「都落ちみたいな」と語るような感覚がこの職業を選択する際に付きまとっ ていたのである。これは世間的にイメージされるタクシードライバー像が内 面化されていたことを示している。C氏は次のように語る。

(14)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 なんかもう,まあ,職業差別するんじゃないんやけど,ま,タクシー乗るいうた ら,その,なんかこう,落ち目になったいうんかねえ,もう,最後のあれ,……最 後の最後いう,感覚ありましたからねえ。……だから,タクシーだけは乗りたない なあいう,頭,最初ありましたねえ。 D氏は世間の持つタクシードライバー像について言及している。 2,3年前まで社長やってて,銀行や商社で,ねえ,仕事してるわけでしょ。た だそういうのがぽしゃって,タクシーの運転手として勤めた途端にグレードががた んと落ちると。だから,人間的にね,そんなに落ちるかいうたら,そんなバカなこ とがあるかって。ところがタクシーという職業をした途端に,そういうふうに見ら れるんですよ。だから,……おかしな職業でしょ? 現代の社会意識として,世間の人がタクシードライバーをどう見ているの か,これを一概に言うことは出来ない。ただ彼ら自身がこうしてマイナス・ イメージを付与していたことの一つの要因として,世代的に形成された意識 ということが挙げられるだろう。新聞の見出し記事データベース4を見ると, 1950 年代後半から 70 年代前半にかけてのタクシー関係の記事には「雲助」 「カミカゼタクシー」「暴力タクシー」「オオカミタクシー」などマイナスの レッテルが貼られたものが多かったことがわかる。また,いわゆるヤクザ者, アウトローの仕事という印象も強かった5。今では挨拶や制服着用義務などを 徹底している会社がほとんどであるが,当時はそれもなかった。現在 40 代 以上の年齢層の人々にとっては,タクシー運転手は日陰ものの存在であると いう意識がいまだどこかに残っているのかもしれない。 しかし「タクシーでも乗るか」という選択が消極的なものとなる理由は, 何もそうしたアウトロー的イメージによるものだけではない。やはり収入面 でのビハインドが大きいのである。3人とも入社した時期は数年の幅はある がバブル経済期にあたり,比較的収入は良かったわけだが,この職業は非常 に景気に左右されやすい業種である。さらに基本的に歩合給なので毎月の収 入に安定性がない。こうした面での不安を三者とも共通して抱えている。C

(15)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 氏,D氏,E氏の順に見ていこう。 その代わり年功が無いから,結局給料面が。 ――あがっていかんですもんね。 そうそう。いつも初任給,初任給やから,家族のほうが苦労してるわ。それいわ れると,もう。 正直な話,収入面からいえば,前の会社に戻ったほうが,収入面からいえばいい んですよ。全然違う。 わたし 100%の努力しましたよ,だから,月 30 万の給料取れますっていう職種が ありますよね,それと比べたら,120%の努力しました,これだけの給料確保でき ますよって,そういう職種じゃないと思うんですよ。 昨今の構造不況はタクシードライバーに深刻なダメージを与えている。 年々悪くなっていくどころか月ごとに悪くなっていくという感覚もある。朝 の4時,5時まで残業しても売り上げが上がらない。現にインタビュー当日 も,E氏は「営業収入あがらなかったんで,うろうろお客さんを探して遅く なった」ということで4時まで市内を回っていたし,C氏は6時まで走らせ ていた。地域や営業形態によって多少事情は変わってくるだろうが,少なく とも大阪のA社のドライバーには,「タクシーは斜陽産業です」(D氏)とい う感覚が実感としてあるだろう。 3−2 こうした逆境ともいえる状況のなか,どのような意識をもって日々の業務 に取り組むかは,それぞれ異なっている。会社に所属して管理されている部 分はあるにしても,いったん外に出れば基本的にはどこを回ろうと自由であ り,その意味では個人事業主といってもよい職業である。職業観や気の持ち 方の違いは大きいし,それぞれがそれに応じた営業戦略を立てていかなけれ ばならない。

(16)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 D氏の場合は,すでに何度か言及してきたが,営業職のポリシーを持ち続 けている。「給料たくさん欲しいと,そういう形から入っていく。そうすると 数字にこだわる以外ないわけですね」と語るように,流す(タクシーを走ら せる)ポイントを選び,無線を積極的に利用し,状況に臨機応変に対応する ことを心がけている。 売り上げがあがるあがらへんいうのは,自分で,自分が,そのものに執着するこ とですわ。執着しないとまず無理ですよ。どういう計画立てるかとかね。毎日どれ だけやるか,時間をどう使うか。そういう描き方が出来ますよ。ところが漠然とや ってる人は,収入の上げ方とか時間の使い方とか考えない。だから例えば,時間帯 を朝昼晩と区切ったときにこの時間はどうとか,ここはあかんとなると次どこいく かとか。そういう描き方をね,自分が出来るかどうかですよ。 しかし,「この商売は営業努力の範囲が限られている」とE氏も語るように, どれだけ努力してもそれが報われるかどうかはっきりしないという面がタク シー業にはある。D氏もその現実は踏まえているのだが,それに対して努力 を放棄すれば「自分をだんだん落としていくだけ」になると考えている。 E氏の場合は,少し違った考えを持っている。一日でどれだけ売り上げが 上がるかは,もちろん経験や努力が大きな要素をしめるにしても,運次第の 部分がある。近距離の客と遠距離の客を乗せる前に見分けるのは至難の業で あるし,仮に見分けたところでドライバーの方から客を選ぶことは出来ない。 しかしE氏はその天運まかせの部分を「面白い」と表現する。 運に左右されます。景気ももちろんそうですけど,景気はどこの業界でもそうで すけど,この,ツキつかんで,もう80%くらい左右されるっていう気がします。 そういう意味ではね,面白い(笑)。……ギャンブル的なところあると思いますよ。 わたし女房にね,あんた向いてないこの商売っていわれるんですけど(笑)。ツイ てる人はやっぱり,あの,それなりの営業あげてきますもんね。努力はもちろんさ れてるんでしょうけど。それに上乗せでツイてるっていうのが。この商売,ツイて る人っていうのは,この商売合ってると。

(17)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 大阪のタクシードライバーの営業戦略は大別して2種類に分けられる。広 域を流して回る「流し営業」のパターンと,ターミナルのタクシー乗り場に 並んで 30 分から1時間待機する「乗場待ち営業」のパターンである。E氏 は前者のパターンにあたる。「市内の場合は,いろんな人種が集まってるわけ でしょう。だから,とんでもないお客さんがたまにポツンポツンと……そう いうのが面白うてね。やっぱり市内走ってると」。実際には営業まわりのサラ リーマンが利用することが多いそうだが,たまに芸能人や報道関係の人など 大口の客を乗せることがある。「だからそういうことを楽しみで,楽しみちゅ うたら……それをね,友達にはドラマチックな出会いを求めて市内走ってる ゆうてるんですよね」と,E氏は笑いながら語った。 C氏の場合は,上述した2つのパターンでいうと後者のやり方を選ぶこと の方が多い。実質的にこの2つのパターンのどちらが有利なのかは難しいと ころである。市内を回っても渋滞していて客を拾えないことがあるし,それ ならば駅で待っていれば確実に客は拾える。しかし,C氏の口からはそうい った営業戦略上の話はあまり出てこなかった。どういう作戦を練るかという ことよりも「トントンってきたら,気持ち良うパッと開けてねえ,乗っても らうようにしてます」など,心情面について多く語った。運転手が客を選ぶ ようなことはしたくないと言う。もちろんジレンマは抱えている。 ただ乗り場でまじめにやねえ,順番待ってやねえ,来たらそれで(客を)乗せて, はい十三(じゅうそう)とかね,いってたんじゃあがらんわねえ。そういうのが, まあそれは正規やねんけども,そうするか,まあまあ悪い言い方やけど,運転手が お客さん選ぶいうかねえ……。 ――で,それはいやだって言ってはりましたよねえ。 うん,そんなんできひん,うん。まあそれも,やり方やねえ。だからまあ上げて れば,要領ええいうんか,結局数字は,最終的にはねえ,会社自体は,なにしよう がその数字が,あがってたらそれでええんやけどねえ。だから真面目にやっとって, 二万や三万じゃ,結局お前はやり方が悪いいうことになってくるわなあ。 違反にならない程度の要領の良い客の取り方はドライバー同士の間に伝達

(18)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 されるテクニックとして当然ある。C氏の耳にも入ってくるわけだが,「まあ ぼくはやったことないよ。できないから,自分は。やり慣れてないことは, へたにやらんほうが。逆に疲れてまうから」と照れながら語っていた。 3−3 それでは3人の当事者は,タクシー業のどのようなところを魅力だと感じ ているのだろうか。すでに何度か述べているしインタビューにも現れている が,確認の意味もこめて論じておこう。 一つには自由ということがある。それについてはE氏とD氏が言及してい る。両者とも前職は会社組織の中の事務や営業のポストについていたのであ り,上下関係や競争関係のわずらわしさをよく知っている。タクシー業の場 合はそういった人間関係のいざこざが生じにくいことをD氏は述べている。 勤め人として勤めて,普通の会社に勤めれば,普通の人間では,ある程度ね,欲 っちゅうのがあって,どんな人間でもその,あいつよりは,上いきたいとかね。そ の,給料貰う手っ取り早い手段として,ヒラよりは主任,主任よりは係長ね,係長 よりは課長というね,段階がある。だからどうしてもそれを考える。そうすると, そこを,それを考えると,当然競争が生まれるでしょ?で,競争が生まれると,な んぼ傍目で見てても,必ず,人間関係として,落としあいも出てくりゃあ,当然, いわばカベあるんです。そういうことがあるでしょ?ほんで,タクシーのときに, そういうことがないんですよ。タクシー運転手より,その,なんていうか,出世っ ていうか,課長職とか,なんかしたろうちゅうな,まあないちゅうかね。まあわず か,タクシーの現役やめて,まあうちらやったら無線室に入ったりとか,まあ管理 職や,事故係やら,管理職やって,どうのこうのってのはありますよ。たかだかそ の程度でね。そういうなんていうか出世欲というか名誉とかね,ぎらぎらしたもん が無いんですよ。 またE氏は,ノルマによって拘束される負担が軽いことも述べている。会 社の場合,ノルマを果たせなかったとき責任は個人のみならず所属部課に及 び,その分プレッシャーも強い。もちろんタクシー業界もほとんどの場合会

(19)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 社組織であり,そういった面がまるでないわけではないが,感覚的にはタク シーに乗ればそのノルマは自分に対するものであり,自己責任のみが問題と なる(そのかわり自分の生活に直接跳ね返るという別種のプレッシャーはあ る)。タクシードライバーは「一匹狼」的な人が多いと述べるE氏は,次のよ うに語っている。 ぽっと出てしまえば後どこいってもわからへん。精神的にやっぱり楽なんですよ。 毎日営業のノルマはあるけど,かといってがんじがらめに縛られているわけではな いし,それこそ,商社の営業マンみたいにぎしぎしやるわけやないから。 しかし,こうしたタクシードライバーの自由さを,二人は必ずしも理想的 なものとしているわけではない。E氏は「面白さいうんは,営業のほうです」 と別の箇所で述べているし,D氏も「人間ってやっぱり,そういう足かせが あって,成り立っていってる」ということを強調している。前の職業と比べ たときにタクシー業がより自由であることに目がいくが,それは魅力につい てというよりは差異について語ったものだと考えることもできる。 もう少し明示的なタクシードライバーならではの魅力としては,さまざま な客との出会いがある。これについてはE氏とC氏が言及している。E氏は 「わたし個人のあれですけど,やっぱり面白いですね。走ってて,いろんな 人に会って」と述べているし,C氏は以下のように語っている。 そういう,タクシーで良かったっていう場合は,人との巡り会いでしょうなあ。 ――人との巡り会い。 ま,やっぱこの商売ねえ,年間で何千人から乗せて,うん。だから,普通の職業 やなしに,その,人との巡り会い,いうのかなあ。 ――それが,やっぱ大きいですか。 うん。それはもお,その,初対面でも,話しとったら,何年も付き合ってるみた いな感じになるなあ。うん。もう降りはるとき,もう,わかれ難いですねえ。 もちろん嫌な客にあたることもあるし,危害を加える可能性のある危険な

(20)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 客もいる。見ず知らずの他人同士が密室空間で接するわけであるから,何ら かの緊張感は伴うだろうし,危険を避けるべきノウハウはそれぞれが持って いる。しかしだからこそ,気の合う人が乗客となれば安心するし,思いがけ ない出会いの楽しみも倍増される。彼らの自己意識の中でこのことは日々の 業務の糧となっているのである。さらにそうした出会いの魅力に加えて,C 氏は乗客からいろいろな話を聞き知識を積む楽しさがあると語っていた。 人との触れ合いという意味では,同業者仲間との交流もある。これについ てはC氏とD氏が言及している。これはタクシー業に限った魅力ではないし, またどこのタクシー会社でもそうだというわけではないが,A社は定着率が 高いこともあって内部でのコネクションは強いようだ。以下,C氏,D氏の 順に見てみよう。 ――でもまあ,そのまま,ずっと十年以上こられてはるいうのは,割と水に合っ てたっていうのがあるんですか。 まあ会社に,仲間のまあ,仲間が付き合いやすいいうんかなあ。仲のええのがお るんで,おりやすいいうたらおりやすいなあ。だから人付き合いは,まあ,仲間, うん,よかったなあ。 野球以外は……まあ野球が好きで,それ以外とかやったら……,だから,あと, たまに,みんなでわいわいきゃあきゃあいいながら,どっか,近くのところへ旅行 いくぐらいのもんかな。ぼくはあの,他の人みたいに釣りしたりとかあんなんな, できひんから。だから旅行とか,ちょっと近くへドライブいくとかそんなもんやな。 タクシードライバーは「一匹狼」的なところもあるが,シノギをけずって 争うという感じでもない。利害関係がむき出しになるようなことはあまりな いそうだ。基本的に孤独で長時間にわたる仕事なので,情報交換という形で の交流はよく行われている。A社のB主任の話によると,他の会社の人間で も営業エリアが同じなら仲が良くなることは珍しくないらしい。

(21)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 3−4 最後に,彼らが今後の展望として何を考えているかということについて簡 単ながら確認しておきたい。これらははっきりとした決意をもとに語られた ものではなく,他の話題をしているときに出てきたものも含まれている。E 氏は,タクシーを足がかりに他の職業に移るような人は多いですかというイ ンタビュアーの質問に,「まあ私の考えてたのは,会社はここで,まあ現場い かないで,事務職,管理職,そういうことは考えるけども,別の職種へ,足 がかりっていうのは,難しいしねえ」と答えている。運輸業にずっとたずさ わってきた人だけに,運転する側でない方にまわってもこの業種にとどまり つづけたい意向を持っているのかもしれない。 C氏は,タクシーで流すラジオの話題をしていたときに,ある劇団がシル バーの役者を募集している話を聞いて胸が騒いだことを述べている。それに よると,60 歳くらいの役柄の役者を養成する学校が大阪市内で開講されてい るそうである。入会して月謝を納めてという形式だが,チャンスがあればや ってみたいとC氏は言う。料理学校に通い調理師の職に就き,カメラマンも 入ってから資格を取り,タクシーも入ってから二種免許を取るという具合に, 今までにさまざまな職種にチャレンジしてきたC氏らしいエピソードである。 「もう終わりかなという気もするけど,新しいことができれば」と笑いなが ら語っていた。 D氏は,今後のことについて,「今までにいろいろ考えてる。一人になった ときにね」と答えている。どういうことをすれば金銭的に豊かになるか,実 行しようとしたときにどういう人脈が自分には残っているかなど,さまざま なことに思いを巡らせている。そして,「出来ることなら,出来ることならよ, 今のタクシーの収入が倍も3倍もなって,野球とかやれたら,面白おかしく やれれば一番ええと思うんですけど」と語った。それは,多くのタクシード ライバーにとっての共通した願いなのかもしれない。 4.結び 以上のように,3人のタクシードライバーのライフヒストリーをここまで

(22)

関西大学大学院『人間科学』第51 号 見てきた。それぞれの歩んできた道のりによって,それぞれの性格が培われ, 今の生活思想につながっている。考えていることには共通項もあるが,個性 に応じて営業方針も違えば人生観も異なる。その個性は,人生のさまざまな ポイントのなかで養われたものもあれば,タクシードライバーという職業を 選んだ後に状況的に獲得されたものもあるだろう。 しかし,最初に記したように,過剰な一般化を本稿で行うつもりはない。 我々の普段の生活に欠かせない仕事をしているのにもかかわらず,顔が見え にくく(それは原則的に後ろを振り向かないという職業特有の問題でもある が),街の中にとけ込んでいるタクシードライバーの素顔――とまではいかな いまでも少なくとも自分自身で語った自分史6――をかいま見ることが出来 ればそれでよいと考えている。また,団塊の世代として一括りにしてしまい がちな世代層の,一般化からこぼれ落ちる側面を発見できればそれ以上のこ とはない。 <了> 参考文献 間宏 1994 「高度経済成長の社会的影響」間宏編『高度経済成長下の生活世界』文眞堂。 川添登編 1984 『生活学へのアプローチ』ドメス出版。 中野卓・桜井厚編 1995 『ライフヒストリーの社会学』弘文堂。 大島藤太郎 1984 『高度経済成長と交通問題』文昇堂。 『タクシー極楽乗車マニュアル』 1997 アスペクト出版。 1 A社に深夜(AM2:00 以降,すなわち帰社時刻となる)おじゃましたときに,雑談の場でそうした話 を多く聞かせていただいた。 2 彼らへのインタビューはそれぞれ別個に行ったものであることを注記しておく。調査日は,C氏が 1998 年8月 27 日および9月 16 日,E氏が同年 10 月 3 日および 10 月 19 日,D氏が同年 10 月 29 日である。 3 1958 年の調査では「中」意識は 72%,「下」意識は 17%であるが,1964 年の調査では,「中」意 識は実に87%にのぼり,「下」意識は8%にまで減少している(総理府「国民生活に関する世論調 査」)。

(23)

タクシードライバーのライフヒストリー(南田) 4 戦後50 年朝日新聞見出しデータベース CD-ROM(CD-ASAX 50yrs. 朝日新聞社)より。「タク シー」を見出しとする記事の中で「社会−犯罪」分類に属するものは,50 年代で 54 件,60 年代で 299 件,70 年代で 182 件,80 年代で 153 件である。60 年代が突出して多いことが分かる。より精 緻な論証のためには個々の記事の内容把握,項目間の関係の分析などのデータ検証が必要だが, 今回は誌面の都合上割愛する。 5 1970 年代初頭からタクシードライバーをしているG氏(京都)によると,「私が乗った当初のときは ね,あのう,背中に漫画入れてたいうたらわかるやろ。あの,刺青してた人ね,そういうのがよく運 転手にいたんよ,当時はね。仕事終わって会社の風呂あるでしょ,そういう人が洗いながら今日はこ ういうことあったとかもう,面白おかしくみんなしゃべってくれんねん。だからもう,仲間内になる と,おとなしいんやけどね,ちょっとヘタうったらもう,あれやけどね,怖いけどね。そういうヤク ザ屋さんもようけいたし,今はもうそういう人らはもうほとんど辞めていってるね。第一その時分は ね,服装かってそういう服装でみな運転できたんや。スリッパはいてようが。へたなあれやったらス テテコ一丁で。昔クーラーなかったから,そういうなんで運転しとったもん,タクシーっていうのは ね」という具合であった。 6 これらモノグラフの記述は,語られたインタビュー内容をすべて鵜呑みにして書いたわけではない。 本稿で取り上げた生活史の内容は,彼らが自分史という形で表出したものを,また再構成して載せ ているものである。インタビュアーが話に聞き入って言葉を詰まらせてしまったとき,いみじくもD氏は 「いやいやいや,見せかけが強いから,見栄が強いからね。……人間なんて,ぼく誰でもそうや思う けど,百いうたら百がそのとおりなっとるいうたらまあないね。だいたいその,その分,見せかけの 部分が結構あるからね」と語っている。

参照

関連したドキュメント

最も偏相関が高い要因は年齢である。生活の 中で健康を大切とする意識は、 3 0 歳代までは強 くないが、 40 歳代になると強まり始め、

白山中居神社を中心に白山信仰と共に生き た社家・社人 (神社に仕えた人々) の村でし

継続企業の前提に関する注記に記載されているとおり、会社は、×年4月1日から×年3月 31

り減少( -1.0% )する一方で、代替フロンは、冷媒分野におけるオ ゾン層破壊物質からの代替に伴い、前年度比 7.6 %増、 2013 年度比

2016 年度から 2020 年度までの5年間とする。また、2050 年を見据えた 2030 年の ビジョンを示すものである。... 第1章

関西学院大学社会学部は、1960 年にそれまでの文学部社会学科、社会事業学科が文学部 から独立して創設された。2009 年は創設 50

の 45.3%(156 件)から平成 27 年(2015 年)には 58.0%(205 件)に増加した。マタニティハウ ス利用が開始された 9 月以前と以後とで施設での出産数を比較すると、平成

威嚇予防・統合予防の「両者とも犯罪を犯す傾向のある社会への刑法の禁