C A N C E R,2 (1992) 57- 59
酒井恒先生への思い出
伊 藤 十 治1992
年7
月25
日付, 小 田原利光先生か ら次 の よ うな有難 いお便 りをいただいた. 『先生 (筆者) は学会 の古 い会員であ り, また酒井先生 の直接 の お弟子 さんで憶 い出等 も多 いと存 じます. 何か短 か くて も宜 しいですが, 御寄稿 いただけませんか - (略)』小 田原先生 か らのお便 りは何か因縁 めい た感 じが して感無量 の気が します. と言 うのは酒 井恒先生 が御逝去 されてか ら一度 も墓参 りがで き なか ったので, 停年退職 の機会 に7
月4
日に鎌倉 の覚園寺 にある酒井先生 の墓前 にぬかづ き, 今 日 までの無礼 の段お許 しを乞 いま した. 時間をか けて奥様 ともいろいろな思 い出の一刻 をす ごしたか ったのですが, お尋ねで きなか った のが とて も残念で した. 墓前で酒井先生 と約束 し た ことが形 を変 えて先生 に通 じたのか ? 小田原 先生か ら酒井先生 の憶 い出を語 って ほ しいとは奇 遇 と しか思 えない. 本文 は読者 の皆 さんにとって は誠 に僧越で はあるがお許 し願 いたい. 酒井恒先生 に筆者 が最初 に出会 ったの は昭和27
年(1952) 8
月17
日 敦賀湾の船上であ った. 酒井先生 は福井市立郷土 自然科学博物館主催 磯 における動物学習会 の講師 として来福 された. 先 生 は昭和26
年 当博物館創立 当時か ら標本 同定 を お願 い したのが きっかけで, しか も大野市 に御親 戚があ った関係上講師依頼 をお引受 けされた由で ある. 当時筆者 は福井大学2
年生で, カニの酒井 か, 酒井 のカニか, カニ類 の世界的な権威者であ ることは知 っていま した. また,T .H .H U x LEY の "ザ リガニの生物学'' を, 九大 ・ 京大 ・ 東大 などに その書物 の存在 を問い合せたが, どこの大学 に も なか った. そ こで, 船上でず うず うしくも初対面 の酒井先生 にその話 を した所, もの しずかな口調 で, 気軽 に 「借 してあげま しょう」 と約束 されたJujiIT O ;M em ory of the late P rof.T U N E S A K Al.
57 感激 は
40
年 も前 の事 だ けど脳裡 の中 に焼 きっ い ている. 一大学生 で筆者 が どんな人間か もわか ら ないのに, よ くもまあ 貴重 な書物 を借すなんて とうてい考 え られない. これは写真 にある堀芳孝 初代館長 (筆者 の旧制中学校 での生物教諭) の紹 介が効 をそ うした もの と感謝 している。 (昭和32年8月1日 学習会 にて 右か ら堀初代館 長, 酒井先生, 小林四代館長) (動物学習会での酒井先生のご様子) 採集 した動物 を, バ ッ トの中か ら1
つ
1
つ酒井 先生が とりあげその種名 を教 えて下 さり, 先生身 づか ら手 にとって, ルーペをのぞ きなが ら, やさ しく丁寧 に種名 をお っしゃ る. 聞 いている者が, 理解 で きるよ うに, ゆ っくりと分か るまで何回で も同 じことを くりか え され る。 普通 な らば嫌 に な って しま うことで も, 笑顔 で相手 の気持 ちに な ってお っしゃることは偉 い学者 とい うものはち が うんだなアとつ くづ く思 った. さすがに人格者 だなアと参加者一 同, 異 口同音であ ったことが思 いだ され る. ある時 には, 動物図鑑 をみなが ら, ルーペをのぞいて『×
×だね』 とお っしゃる. 種 名だけでな く, その種名 にまつわ る忘れることの で きな い特長 や エ ピソー ドな どをお りまぜなが58 酒 井 恒 先生への思い出 ら, おっしゃるか ら, 笑いの中に理解ができ, 栄 年 も先生 の学習会 に参加 しよ うとい うことにな る. だか らこそ今 日まで続 けられたので しょう. その当時の先生のご説明が走馬灯のように思 いだ される. 昭和
39
年(1964)
学術調査記録, 神奈川 葉山海岸1
巻を酒井先生が制作 された. これは葉 山海岸が土地 ブームにより, だんだんおかされて い くので, 日頃か ら酒井先生が自然保護を強 く主 張 されているので学術上か ら自然生態を調査記録 されたものである. オペ リアか ら放出されるクラ ゲなど世界で も例が少な く, 学問上貴重な もので 大変 ご苦労 された由, 学習会の席上 上映 された こともなっか しい. 子供 ・素人 にで もいやな顔1
つみせないで, 話の中に最高学術的なことを物腰 やわ らかな態度で話 される酒井先生が価 (慈父) のように思える. この状態が昭和天皇にご進講 申 し上 げた所以であろう. (思 い出のかずかず) 昭和31
年8
月横浜国大附属理科教育岩実験所 へ我が福井県の小中高校の先生方が, 臨海実習に 行 ったときのことである. 先発隊 として田尻利虞 先生 (県中学校長会長で退職) と筆者の2
人で夜 行列車で上京. 熱海で下車 して真鶴へ行 くのにね す ごしで しまった. それで大船 まで行 き, そのま ま朝早 く予告な しに酒井先生宅 (現在の家でな く 筆者 はこれまでに先生宅 を尋 ねている) へ直行 し, おやすみの酒井先生を起 して しまった. そ し て朝食 までよばれた. 今で も誠 にはずか しいこと を したと肝に銘 じている. ``友 遠方 よりきたる. 盆栽を断ち切 ってで も暖をとろう'' という先生の お心持ちであったろう.2
人 は先生の友で もない のに・- -酒井先生の人類愛 とで もいお うか, 誠 に 有難 い酒井先生 の人間性 の一端 を紹介 させて も らった. 酒井先生 の許へ筆者が内留 したのが昭和34
年4
月1
日か ら翌年3
月31
日の1
年間であった. 酒井先生の許へ留学 したのが筆者が最初であった と聞いている. 酒井先生の許でカニの分類学 ・生 態学の勉強を専門にするつ もりで留学 したのでは ない. 筆者 自身酒井先生の学問を受 けつ ぐ自信 も ない し実力 もない. また 将来それを続行す る家 庭環境で もない. たゞあるのは酒井先生が, 世界 的な学者であり, 研究者であり, 教育者である人 間- 酒井先生 - 性を学びたかったのである. 特 に 学問 ・趣味 ・ 実益 とが一致 した人生の活 き方 にと て も魅力を感 じたのである. 酒井先生のカニ学を 受 けついで下 さる方 はいっぱいいらっしゃること で しょう. 筆者 は, 酒井先生の自然観の一端を受 けついだっ もりである. いや酒井先生か らぬすみ とったという方がよいか もしれない. それが何 よ りの証接 とで もいお うか, 福井県 より "自然観察 の手引ぎ' (計9
冊) ``環境教育副読本. かんきょ うはみんなの仲間'' (計4
冊) 福井県の自然観察一 野外学習の手びき- (計3
冊) などの企画原理 は 酒井先生の自然観を筆者な りに消化 してつ くった ものである. 留学当初 は横浜国大酒井教授室および酒井先生 宅の液浸標本の薬品取 り変え, 標本の補充 ・標本 ぴんの密閉など, 昭和天皇より下賜 された標本に 対 し殺虫剤散布 とか、 経験のない標本 と文献の比 較など、 岩実験所へでかけて講習会の材料収集, 大学での自由な聴講など自由な学究生活をお くら せて もらった. これ も酒井先生の心あたたまるご 配慮 にはかな らない. あるとき, 陛下か ら下賜 さ れた標本の台布が虫害を受 けていたのでその台布 と同 じ物を探がすのに東京都のデパー トを始め各 種の店を尋ね, やっと同 じ物を手に入れたときの 喜 びもっい昨 日のことのように思えて くる. 標本の整理分類を横浜国大酒井教授室でや って いるとき, 酒井先生か ら 『伊藤君, 明 日の午前10
時までにモズの生費を もってきなさい』 と指示 さ れた. どうして もっと早 く言 いっけて下 さらんの か. い くら何で も行動できる時間は夜間をいれて も採集できる時間は数時間 しかない. 蒲生重男助 手 や園田康子研究生等 が収集 しているはず なの に? よほど酒井先生が こまって しまわ られたの で しょう. 筆者が命令を受 けた以上 は何が何で も 酒井先生のご希望 どお りすることが筆者の使命 と 考え必死で した. 先づ, 生物教室の学生 さん達 に 集合 して もらい, モズが生費 にする材料の樹木が 大学校舎附近のどこにあるか. その樹木分布を知 る. モズの生息範囲がどこか, 大学校舎附近での モズの行動範囲はどうなっているか. モズの行動 範囲内で しか も生費 にす る材料樹木がある所をさ伊 藤 十 治 がせば必ずモズの生費 にぶつかると考えた. 一方 学生の中に自分の家にモズの生費があるか もしれ ないという情報 も手 にはいる. 明 日の午前