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ポール・ウッドフォード著『民主主義と音楽教育』が投げかけた波紋

── 音楽教育哲学をめぐるリベラリズム,ポストモダニズム,フェミニズムの議論 ──

杉 田 政 夫

1. は じ め に 本研究は,ポール・G・ウッドフォード1の『民 主主義と音楽教育』2,同書に寄せられた批判,ウッ ドフォードの反論やその後の論考の総合的検討を 通し,彼の音楽教育哲学の意義や問題点を明らか にするとともに,日本における今日的な社会・文 化的状況に合致した音楽教育哲学を(再)構築す るための示唆を得ることを目的としている。 『民主主義と音楽教育』がその後の音楽教育研 究に与えた影響は,極めて大きいと考えている。 ウッドフォードは,同書が 1950 年代に音楽教育 と民主主義とを関連付けたマーセル以来の試みで あったと述べたが3,その後の自身の論考におい て,「民主主義」は音楽教育研究において「流行語」 (guzzword)になったと言及するほど4,頻繁に論 じられるようになった5。たとえば,2007 年の第 2回タングルウッド・シンポジウムにおけるプレ イベントのテーマとして「音楽教育と民主主義」 が設けられたこと,NNME(北欧音楽教育ネット ワーク)のプロジェクト「北欧的視座からの音楽 教育における民主主義」が 2009 年から 3 年にわ たり実施されたことは,かような動向を反映した ものといえよう。ごく最近においても,同書が民 主的な民族音楽教育を探究する際の理論的ベース とされたり6,音楽教育における社会正義(social justice)を考究した論文において中心的に分析さ れるなど7,その影響や議論は継続中である。 音楽教育研究において民主主義に関する議論を 活性化させたもう一つの要因と推察されるのが, MayDay Group(以下,MDG と略記)の電子ジャー8

ナル Action, Criticism, and Theory for Music

Educa-tion(以下,ACT と略記)7/1 (2008)における特 集であり,全頁が『民主主義と音楽教育』の書評, このテーマに関連する論考,ウッドフォードによ るリプライで構成された9。フランクフルト学派, 批判的教育研究の理論的系譜に位置付き,音楽教 育の哲学,社会学,倫理,社会正義に焦点を当て てきた MDG が同書の特集を組んだのは,いわば 必然的といってもよいであろう10 本稿では,ウッドフォードによって提起された 民主主義的な音楽教育哲学のさらなる理論構築に 向けた予備的作業として,以下の手続きで論を展 開する11。まず後の議論と関わる部分に限定し, 『民主主義と音楽教育』の概要を提示する。次に ACTを中心に,同書に寄せられた批判,並びにウッ ドフォードによる反批判の論点を整理する12。そ れらをウッドフォードの『民主主義と音楽教育』 やその後の論考とも照合し,ウッドフォード批判 のどの部分が既に彼の理論的枠組み内で説明可能 なのか,あるいは何が未解決のまま残されている のかを考察し,最終的に彼の音楽教育哲学が内包 する問題点を提起する。 2. 『民主主義と音楽教育』の概要 同書の内容については既に拙稿で論じているの で13,後述するウッドフォードに寄せられた批判 と対応する部分を中心に,概略を示しておきたい。 ウッドフォードは,デューイの民主主義論,リ ベラリズム概念を起点とし,プラグマティズム, 批判的教育研究,政治哲学等,多様な学問的所産 を取り込みつつ,固有の音楽教育哲学を構築して いる。彼は『民主主義と音楽教育』の目的を,「我々 や子どもの生き方における音楽の本質や重要性に 関する広範な理知的,政治的議論に寄与すること で,音楽教育の民主主義的な目的を再生するよう

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音楽教育者を導くことである」14と述べる。ここ での「民主主義」概念とは生成的,暫定的で,時 代状況に応じて新たな息吹が込められるべき理想 の集合体とされる。 ウッドフォードはデューイに立脚し,本書のリ ベラリズム概念を,「個人のシティズンシップや 政治的権利,責任が最優先される,生き方におけ る民主主義的方法のための哲学」15とし,新自由 主義やリバタリアニズムとの相違を強調する。彼 は,リベラル民主主義の中心概念でありながらも, ポストモダニズム,脱構築,ラディカル・フェミ ニズム等に攻撃されてきた「抽象的理性」の蘇生 を試み,ローティ,ハーバマス,ガダマーらを援 用する一方で,デリダ,フーコーらを酷評する16 彼は,教育の規制緩和,民営化を目論む新右派や, 啓蒙やリベラリズムの所産にまで切り込む文化的 左派の双方を批判し,音楽教育者に思慮深い懐疑 主義,批評と可能性の言語へのコミットを要求す る17 ウッドフォードは,音楽教育において顕著な, 立証済みのメソッドやオーセンティックなレパー トリーに固執する古い美学理論,並びにグローバ ルな音楽ビジネスに加担して消費文化の教化に仕 える功利主義的合理性の両者を,非民主的と論難 する18。ポピュラー音楽の教育的有用性を一定認 めながらも,それがグローバリズムとも関与しつ つ経済的,政治的に人間をコントロールする側面 を問題視する19。多文化音楽教育については,レ パートリーや教授法の多様化,コミュニティ感覚 の促進に寄与する点は評価するが,そこに見出さ れる文化相対主義,レッセフェール(自由放任), 理知的批評の不在に疑義を呈す20 結論部分においてウッドフォードは,デューイ 経由の民主主義論とアリストテレス的美徳論, ローティらの接合を試みる21。彼は音楽教育に理 性と知性を取り戻し,民主主義的な関心と愛情に 基づく批評を通した議論,価値判断を錬磨する場 とし,社会・文化的他者ともつながるなど,民主 主義社会やシティズンシップの形成に積極的に関 与することの重要性を力説する。 3.  『民主主義と音楽教育』批評の概要,及び ウッドフォードの反論 3-1 共通する問題意識 ACTにおけるウッドフォード特集号の序論で, デイビッド・ラインズは『民主主義と音楽教育』 が「ACT における特別な問題の焦点を提供した。 彼の著書の主題はタイムリー且つ重要であり,音 楽教育における政治的関心を改めるよう要求して いる」22と称賛し,同書が惹起した議論を歓迎し ている。 ラインズは,『民主主義と音楽教育』に関連付 けつつ,西洋の音楽教育を取り巻く問題状況を二 点ほど抽出しているのであるが,これらは,ウッ ドフォードはもとより全員の評者にも共有された 内容であるため,共通認識として以下に要約して おく。 第 1 に,ラインズは西洋における教育制度が, リベラルな人間主義的精神から,経済に扇動され た新自由主義的なグローバリズムを優先する教育 アジェンダへと急速に移行してきたとし,これが 一般教育としての音楽科の位置を危うくしている と指摘する23。グローバル経済下においては,効 率的に機能するための技術とコンピテンシーが追 求され,(音楽科を含めた)教師は学習成果への 期待と説明責任に重きが置かれ,デューイが提示 したような包括的でリベラルな教育の理想を追い かけることが困難になってきているという。 第 2 の喫緊の関心事として,制度的音楽教育が 現代社会における音楽的精神と共鳴するような手 法で音楽学習や教員養成を展開すべきかどうかを 問う24。ラインズ曰く,公的音楽教育は性質的な 危機を経験している途上にあり,近代的,伝統的 な教授学の価値は,現代の教育や社会と益々無縁 になりつつある。とはいえ,今日の音楽的精神を 表象するポピュラー音楽は,今なお教育現場にお いて扱う範囲や方法面において問題を内包してい る。ポピュラー音楽それ自体についても,「自己 演出的」デジタル音楽プレイヤー,「民族共同体的」 ワールド・ミュージック,その他メディアを通し

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た音楽的関与の急増により,個人,集団の音楽ア イデンティティに深い影響を及ぼしている。ライ ンズは,ウッドフォードが指摘する音楽メディア の偏在化とそれが齎す影響を,音楽教育の視角か ら考察することの重要性を切実に訴える。 以下,ラインズによる各執筆者の概要25も参照 しつつ,『民主主義と音楽教育』批判の論点,及 びウッドフォードによる反論のエッセンスを析出 する。 3-2 民主主義における不一致の重要性,及び「抽 象的理性」の問題点 パトリック・シュミットは,ウッドフォードと 同じくデューイやローティ,ハーバマスらに依拠 しつつ,ウッドフォードが提示した音楽教育にお ける民主主義概念のさらなる拡張を探求する。彼 は,ウッドフォードが音楽教育のための政治哲学 を前進させたことに賛辞を送りながらも,政治性 を教育経験の形成部分と提案するならば,一致と 同様,不一致,衝突を議論の一部としなくては ならないと言及し,その理由を次のように説明 する26。第 1 に,ウッドフォードが提示したアリ ストテレス的な「相互の理解と尊重」を旨とする 実践は,議論が抑圧的となる場では植民地主義と して機能しかねず,対峙を避けて統一を歓迎する 場では実在する境界や周縁を侵食する可能性が考 えられるからである27。第 2 に,民主的議論に建 設的衝突なくしては,教育とは単なるメソッドの 適用といった手続き的過程とみなされるからであ る28 シュミットは,『民主主義と音楽教育』では知 性のみが教育的,社会的病巣の吟味を可能にする という筋書きを辿っており,そのことが,合意構 築的な民主的コミュニティの観念で,過去との連 続性を保持する「抽象的理性」への再関与を要求 していると指摘する29。しかしながらこの「抽象 的理性」では,世界が秩序立てられた技術的な環 境とみなされ,二者択一的思考が助長されるため, 不完全というのである30, 31。もし,教育ビジネス をグローバル産業の一部と見做す GATS(サービ ス貿易一般協定)が音楽教育に及んだ場合,公的 知性や抽象的理性とは,市場や教育ビジネスの権 威が有するものとなる危険性にも触れる32 ローティを引きつつシュミットは,議論を可能 にする「一致」とは,合意の機能というよりもむ しろ,意見の価値が高く,重要とされる者によっ て行使される権力であると説く33。このようなエ リート主義の陥穽を回避するには,統一や基準の 背後に横たわる複雑,且つ矛盾した実態に注意深 くなる必要があると論じる。このように彼は,民 主主義における理性,知性概念の再考を促し,意 見の不一致や無秩序を,民主的な思考や交流の構 成要素とすべきと主張するのである。 シュミットの問題提起に対しウッドフォード は,民主主義における衝突や対峙の必要性を指摘 したことに敬意を表しながらも,「どの程度の衝 突や暴動は寛大に扱われるべきか」「このレトリッ クは,潜在的に生徒を急進化させないか」と疑問 を投げかける34。この種の議論は憎悪,攻撃,暴 力を誘発する可能性があるため,慎重を期する必 要があるとの言辞は,次に取り上げるグールドも 念頭にあってのことと推測される。 3-3 リベラル民主主義をめぐって トロント大学のエリザベス・グールドは,自身 の論考「他者の飽食─民主主義と音楽教育」と『民 主主義と音楽教育』とは無関係であり,関連付け て読まれるべきではないとしながらも,ウッド フォードが重んじる「リベラル民主主義」をラディ カルに攻撃する35 ……リベラル民主主義は,世界中に宣教師的 熱意を伴って輸出される製品として機能す る。自由,正義,平等の抽象的概念に維持, 支援され,リベラル民主主義は他者(…中略 …)に対する先制攻撃,侵略,占拠のための 正当化と道徳的権威の双方として展開され, (キリスト教原理主義者の)神の意志として 喧伝される,もう一つの形而上学的理念であ る36

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個人主義,正義,自由,合理性によって表現, 交渉される基礎的,普遍的な大きな物語と抽 象的な概念に基づき,リベラル民主主義はあ らゆる形態において差異を同化する37 グールドはまた,リベラル民主主義が人種,階 級,ジェンダー,セクシャリティ間の構造的不平 等を内包し続けているとも批判するのである38 彼女は,エコ・フェミニストとして知られるヴァ ル・プラムウッドの「他者飽食」39の概念を援用し, 西洋哲学,とりわけ合理主義や啓蒙にみられる理 性/感情,人間/自然,主体/客体といった二元論的 思考により,外見上は理性的,民主的なプロセス を通して差異(他者)が同化(飽食)され,(ピエー ル・ブルデューが概念化した)「象徴的暴力」が 発動される様態を描出する40。彼女は,リベラル 民主主義にこの二元論的思考や,植民地主義の制 度化の融合を指摘し,これを民主主義の空虚な形 式,シュミラークルであると非難する41 グールドは,音楽教育において女性作曲家の楽 曲を扱ったり,教師の位置で生徒が活動したり, 生徒にレパートリーを選択させるといった所謂 「民主的実践」は,生徒と権力を共有しているに 過ぎず,近代の教室に内在する権力関係の転換が 企図されないため,記号的次元に留まっていると 冷淡である42。彼女は,リベラル民主主義が齎す 同化や占有の制度的差別,象徴的暴力に対する音 楽教育者の適切な反応とは「侮辱」であり,二元 論的思考に基づく実践を徹底的に軽蔑することで あると説く43。これこそが「同化と占有」ではなく, 「差異と異議」に基づく民主主義の仕事であると 結論付ける44 ウッドフォードは,グールドを(後述のピーター スと共に)非友好的と指弾し,リベラル民主主義 が市民の自由,正義,平等を保障してこなかった との主張は,政治システムの進歩全てを否定する 奇異な発言であると批判する45。極端な衝突の必 要性に訴える主張は,一面的でイデオロギッシュ であり,リベラル民主主義や公益に対するグール ドのシニカルでネガティブな攻撃は,公教育や医 療制度の解体,破壊を望む極端な右派に加担する だけであると難じる。 3-4 ピータースとの論争  1)  ホイットマンとアメリカン・ナショナリ ズム イリノイ大学の教育哲学者,マイケル・ピーター スによる挑発的なタイトル「私にはアメリカのハ ミングが聴こえるが,それは調子はずれである」46 は,ウッドフォードが『民主主義と音楽教育』の 冒頭に,(デューイよりも先に)引用したウォルト・ ホイットマンの詩,「おれにはアメリカの歌声が 聴こえる」に向けられたものである。以下に引用 しておく。 『民主主義と音楽教育』においてウッドフォー ドは,ホイットマンの詩に顕現する民主主義の原 理や理想へのビジョンを称賛し,また,彼の詩に おける政治的理念の描写に用いられる音楽的メタ ファーに引き込まれると述べている47。しかしな がらピータースは,ウッドフォードが望むような 民主的精神を,ホイットマンはもはや提供してい ない可能性を示唆する48。ピータースによると, この詩は 1860∼70 年代のアメリカにおける労働 者の尊厳が描写されており,ホイットマンの民主 主義への関与とは粗野な開拓的個人主義に基づく 資本主義自由市場を暗示し,労働の男性主義的 ジェンダー区分が根底にある。これを今日の民主 主義に当てはめるのは,時代錯誤で政治的にも疑 わしいと批判する。 ホイットマンは,しばしばアメリカの民主主義 や国家の魂の象徴とされるが,ここでの国家とは この上なく重要で神聖なアメリカであり,アメリ カ例外主義の一バージョンであると難じる49。さ らにピータースは,ウッドフォードが影響を受け ているデューイ,ローティにも「凄まじい」愛国 主義の側面を指摘し,『民主主義と音楽教育』を, 「情熱と精神,リベラル民主主義を賛美する,弁 解なきアメリカ人によって書かれた著書である」51 と指弾する。 ウッドフォードによるホイットマンの詩の選択

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に対するカウンターポイントとしてピータースが 提示したのは,1920 年代のハーレム・ルネッサ ンスの詩人,ラングストン・ヒューズの「民主主 義」である52。ヒューズは,抵抗の詩学や,黒人 芸術家を肯定するネグリチュード概念を導き,黒 人精神の表明としてのジャズ,ブルースを解した 人でもあったという。同国人でありながら,「民 主主義」が両者に抱かせた想念のコントラストは, 実に鮮明である。 民主主義53 民主主義は あらわれない 今日 今年  また 永久に 妥協 や 恐怖を とおしては。 ぼくは おなじだけの 権利を もつ 他のひとが 二本の 足で  立って 土地を 所有するのと おなじだけの。 ぼくは ひとびとが 云うのに 聞きあきて いる。 <ものごとを 成行きに まかせよ> <明日は いつか 来る> ぼくは じぶんの死んだとき ぼくの自由が  必要じゃない。 ぼくは 明日のパンで 生きることは でき ない。 自由 とは たいそう 必要 なので 植え られた つよい種子。 ぼくも ここに 生きる。 自由を ぼくは 欲しい。 きみと ちょうど おなじほど。   2) リベラリズムとポストモダニズム ピータースは,「民主主義」と同様,「リベラリ ズム」も論争的な概念であり,あらゆる世代の多 様性,時代性において問題化,歴史化され,理解 される必要を述べる54。リベラリズムは広範な信 条,イデオロギーと関わっているとし,古典的リ ベラリズム,保守的リベラリズム,福祉国家リベ ラリズム,ネオリベラリズム(新自由主義),社 会的リベラリズムを例示する。したがってデュー イのリベラリズムを引用するだけでは不十分であ り,デューイの道徳,成長,コミュニティといっ た概念を,新自由主義や新保守主義の台頭,教育 の私事化を狙うグローバル市場といった今日的な おれにはアメリカの歌声が聴こえる50 おれにはアメリカの歌声が聴こえる,いろいろな賛歌がおれには聴こえる, 機械工たちの歌,誰もが自分の歌を快活で力強く響けとばかり歌っている, 大工は大工の歌を歌う,板や梁の長さを測りながら, 石工は石工の歌を歌う,仕事へ向かうまえも仕事を終わらせたあとも, 船頭は自分の歌を歌い,甲板員は蒸気船の甲板で歌う, 靴屋はベンチに座りながら歌い,帽子屋は立ったまま歌う, 木こりの歌,農夫の歌,朝仕事に向かうときも,昼休みにも,夕暮れにも, 母親の,仕事をする若妻の,針仕事や洗濯をする少女の心地よい歌, 誰もが自分だけの歌を歌っている, 昼は昼の歌を歌う ─夜は屈強で気のいい若者たちが大声で美しい歌を力強く歌う。

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政治,経済的文脈で考察し,注釈,更新,再評価 する必要があると指摘する55 ウッドフォードが「抽象的理性」を擁護するた めに展開したポストモダニズム攻撃に対してピー タースは,「風説と偏見に基づくゴシップに鼓舞 された学問界における最悪の誤りの繰り返し」56 と厳しく論難し,二次的ソースに基づくフーコー 批判を,ナンセンスと切り捨てる。「抽象的理性」 概念についても混乱しており不分明とし,明確な 説明を求める57。理性概念については,デューイ と同様,ローティにも章を設けるべきであったと 言及する58 3) ウッドフォードの反批判 ウッドフォードは,自身の哲学がアメリカ的で, アメリカ国家を神聖なものと捉えていることから して,ピータースが『民主主義と音楽教育』を部 分的にしか読んでいないと切り返す59。同書全体 を読めば,アメリカ,イギリス,カナダの新自由 主義,新保守主義的な社会,教育政策に持続的な 批評を提供しているのが分かるはずと述べる60 戦略的事情で言明しなかったにせよ,強固な医療 や社会福祉政策,無骨な個人主義への拒否,過剰 な愛国心への警戒,諸外国の情勢に対する多国間 主義的信条など,幾つかの重要な関心をアメリカ よりも,自国カナダに置いていると応じる。(ピー タースが不適当にも強調するという)ローティよ りも,カナダのジョン・ラルストン・ソウル,ジャ ニス・グロス・スタイン,マリー・シェーファー を多く参照しているという。 ピータースが同書をデューイ哲学の音楽教育へ の適用と考え,「弁解なきアメリカ人」と描写す るとき,「誤った音を歌っている」と応酬する61 デューイは今日的問題に関する自身の理論化の起 点であり,多様な思索家からアイデアを借りるこ とで自分の意見を発展させたかったため,第 3 章 以降,頻繁にデューイが登場しないのは意図的で あったという。ピータースはポストモダニズムの 定義など純粋な哲学的考察に理屈を捏ねること で,政治や現実世界の問題をごまかしていると, 幾分感情的に応戦している。 3-5 ポストモダニズムとの対話 カーステン・ロックは,ウッドフォードがポス トモダニストを酷評しつつも「音楽教育における ポストモダン状況のよりよい反映のために改善が 必要」62と述べる両義的なスタンスに着眼し,ポ ストモダニストとして知られるリオタールの概念 を通して,『民主主義と音楽教育』との対話を試 みる63 ロックは,ポストモダン状況に特徴的な「大き な物語」の失墜は,音楽教育におけるオーセン ティックな教授学的アプローチや西洋中心的レ パートリーにも及んでおり,それらの「絶対的正 確性」は維持できないと論じる64。一方で,テク ノロジーの進化によって,より狡猾な「大きな物 語」である「遂行性」(パフォーマビリティ)が 現代社会の思潮になっていると指摘する65。つま り,効率を最優先し,容易に消化されない,ある いは即座に利益を産出しない知識を切り捨てる, といった技術的合理主義が優位になっているとい う。ロックは,音楽教育に蔓延するそのような風 潮や,経済面の最適パフォーマンスを追求するポ ピュラー音楽に批判的なウッドフォードと,問題 意識を共有している。さらに彼女は,リオタール の「倫理的判断」に特徴的な不確定性と,音楽教 育を「倫理的邂逅の形態」と捉え,オープンエン ド・アプローチを採用するウッドフォードの主張 とに,アナロジーを見出しているのである66 4. 考   察 ウッドフォードのリプライで主に紙幅が割かれ たのは,論争が展開されたデイビッド・エリオッ トと,非友好的と指弾されたグールド,ピーター スである。友情の精神での議論に謝意を表された シュミットとロックは,「別の機会を待たなくて はならない」67として余り言及がないのであるが, まずはこの二名から検討したい。 シュミットは,哲学的バックグラウンドが近い ということもあり,『民主主義と音楽教育』を補 完する議論を展開している印象を受ける。「理性」 や「知性」概念への見解は異なるが,「衝突なく

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しては,教育とは単なるメソッドの適用となる」 というシュミットの見解は,立証済みの方法論に 固執する音楽教育者を批判するウッドフォードと 重なるし68,(音楽)教育ビジネスのグローバル 化への危機感も共有している。「一致を求める合 意形成はしばしばエリート主義に陥る」という シュミットの指摘は,通常の音楽教員の能力に信 頼を寄せ,エリート主義を忌避するウッドフォー ドにとっても示唆的であろう。 『民主主義と音楽教育』では激しいポストモダ ニズム批判が展開されたが,リオタールの概念「ポ ストモダンの条件」「遂行性」「倫理的判断」を援 用したロックの議論は,意外なほどウッドフォー ドと共鳴している。「倫理的判断」の不確定性に 依拠したロックの音楽教育理念は,不確定性の美 徳を説き69,レッセフェールを回避しつつその都 度の最良を積み重ねるプラグマティズムに立脚す るウッドフォードとも通底しているように思う。 ロックやリオタールへの言及はほとんどない が,ウッドフォードのリプライにおける「今日の 高等教育における功利主義者のアジェンダには, 複雑さや論争的なもの,即座に商業的価値のない ものへの解釈がほとんどない」70といった言説は 「遂行性」概念を彷彿とさせるし,近年の論考で はリオタールを分析視角に用いてもいる71 次にグールドであるが,論稿を読む限り,彼女 が批判する「リベラル民主主義」とは,当時のア メリカ(2008 年,ブッシュ政権時代)を典型と した民主主義であり,ウッドフォードが別の部分 で論難した「グローバルな自由貿易や制御なき資 本主義と同義と捉えられている最も普及した民主 主義概念」72に近いのではないかと推察される。 したがって,両者間に概念上の齟齬があるため, 議論が噛み合っていない。さらに『民主主義と音 楽教育』においては,グールドのような主張につ いて,「完全主義者やユートピア主義の教育アジェ ンダの危険性は,それが定義上,非現実的で抑圧 的なことである」73として完全に退けている。両 者の思想的懸隔は余りに大きく,対話が困難なた め,グールドはウッドフォードの著書を無視する 選択をしたものと思量する。 同じポストモダニストでも,先述のロックと比 して,ピータースがウッドフォードに向けた反応 は極めて厳しい。『民主主義と音楽教育』を一読 すれば,ウッドフォードがリベラリズム概念を新 自由主義や新保守主義とは峻別しており,それら に批判的であることの察しはつく。しかしながら, ポストモダニズムやデリダ,フーコーを酷評し, 思想的には対極にあるホイットマン,デューイ, ローティを称揚すれば,このような激烈な批判を 招きかねないということなのであろう。ポストモ ダニズムをめぐる両者の議論は,リベラリズム対 ポストモダニズム論争を彷彿とさせる部分もある が,概ね感情的な水掛け論となってしまっている。 またピータースが教育哲学者ということもあって か,議論が音楽教育から遠のいている感も否めな い。 ここで問題にしたいのが,ウッドフォードのポ ストモダン概念の曖昧さや,それへのアンビバレ ントな評価である。ポストモダニズムを批判しな がらも,他方で「音楽教育はポストモダン的世界 をさらに反映する必要がある」「美学と社会学の 位置,モダンとポストモダンとをある種の緊張関 係のある存在と見做すのが,音楽教育の理論と実 践の問題に対するもっとも人間的,合理的且つ生 産的なアプローチに思える」74とも述べているの である。 ウッドフォードの議論をつぶさに見ると,彼は 啓蒙や理性,公益,福祉といった近代の所産を掘 り崩すような言説に対して否定的であることが分 かる。澤田稔氏は,ヴァーブレスとライスによる ポストモダニズムの区分を紹介している。それを 参照すると,ポストモダニズムの思想潮流とは, <ポストモダニズム>(モダニズムの拒否ではな く,モダニズムを超えると同時に,民主主義や自 由などモダニズムとの連続性を保つもの)と<ア ンチモダニズム>(モダニズムからの切断・断絶 であり,理性・平等の再編成ではなく,脱構築・ 拒絶の身ぶりに終始し,オールタナティブの構築 が困難であるもの)に分類されるという75。これ

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を当てはめて考えるならば,ウッドフォードは後 者の<アンチモダニズム>に批判的なのであり, 現にデリダ,フーコーをアンチモダニストと呼ん でいる76。先述のグールドも,こちらに分類され ることになるであろう。それに対して,リオター ルや77,(ウッドフォードが影響を受けたと述べ ている)ヘンリー・ジルーは,モダンとの連続性 を重視した人物であり78,ウッドフォードとの対 話が可能であったのは,そのためと考えられる。 5. お わ り に 以上,ウッドフォードへの批判を,『民主主義 と音楽教育』,リプライ,並びにその後の論考と 照合しつつ,考察してきた。ここでウッドフォー ドの音楽教育哲学に残された問題,疑問について 若干,取り上げておきたい。 まず,最後に少し触れたジルーと『民主主義と 音楽教育』との関係である。デューイ以外で同書 に大きな影響を及ぼしているのが,(ピータース の指摘する)ローティと,もう一人がジルーだと 考えている。澤田氏の論考を参照すると,『民主 主義と音楽教育』の重要なキーワードである「批 評と可能性の言語」や「民主主義のリーダーとし ての音楽教師」等,ジルーの批判的ペダゴジーと 重なる部分は多い79。ウッドフォードは,文化的 左派への批判を展開する中で,ジルーを「私の趣 味からすると,ラディカルに過ぎる」80と感覚的 に退けるだけでは不十分であり,理論的異同に関 する明快な説明が必要である。なお,ジルーとウッ ドフォードとの学問的関係の探究は,本研究の課 題でもある。 最後に,日本とも関わる部分への疑問である。 ウッドフォードはローティに倣い,民主主義がど この人々にとっても唯一適切な方法とは限らず, それは我々西洋にとってであると述べる81。また 非西洋の伝統音楽を西洋の教室に輸入する際に は,西洋民主主義的な基準や文化に適合させるべ きとし,例として日本の伝統音楽にも言及してい る82。世界中で進行する音楽教育や芸術のグロー バル化を批判的に検証するために,「精神のグロー バルな会合」83を唱える彼の主張とは,やや隔た りを感じる。そもそも同書が非西洋圏の読者をど の程度想定して書かれたのかは定かでないし,そ のような言及が殆どないため断定こそできない が,彼にとっての西洋民主主義とは,地理的概念 を超え出ていないのではないかという疑問は残 る。 いずれにせよ,日本の音楽教育を民主主義とい う視角から考察するという課題は,我々自身に残 されているということになるであろう。ウッド フォードを基軸として日本の音楽教育を分析する ことは,音楽教育の目的論や社会・文化的意義を 再考し,音楽教育哲学を構築するための重要な契 機になるものと考えている。これを,今後の課題 としたい。 <付記> 本稿は 2013 年度日本音楽教育学会 全国大会(於 : 弘前大学)において発表した内容 に,加筆,訂正を施したものである。 注 1 カナダのウエスト・オンタリオ大学ドン・ライト音楽 学部教授で,音楽教育の哲学,歴史,社会学を研究領 域としている。

2 Woodford, Paul G. (2005). Democracy and Music

Education : Liberalism, Ethics, and the Politics of Practice.  Indiana University Press.

3 Woodford, Paul G. (2008). “Fear and Loathing in Music Education ? Beyond Democracy and Music Education,”

Action, Criticism, and Theory for Music Education 7/1 :

120.

4 Woodford, Paul G. (2009). “Two political models for music education and their implications for practice,”

Sound Progress. National Association of Music Educa-tors, 109. ただし近年になってウッドフォードは, マーセルが初期冷戦下という時代状況において, デューイの政治哲学を正当に継承し得なかったと論じ ており,またリーマーにもその傾向を指摘している (Woodford, P. (2012). “Dewey’s bastards : Mursell, Broudy, McMurray, and the demise of progressive music education.,” Visions of Research in Music Education 21 : 1-29.)。

5 デイビッド・エリオットは,『民主主義と音楽教育』 刊行以前,他領域の教育研究においてはウッドフォー

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ドと民主主義的関心を共有できる研究は幾多もある が,音楽教育研究では DeLorenzo(2003 年),Allsup (2003 年)程度であったことを示唆している(Elliott, D. (2008). “Music for Citizenship : A Commentary on Paul Woodford’s Democracy and Music Education :

Liberalism, Ethics, and the Politics of Practice,” Action, Criticism, and Theory for Music Education 7/1 : 46-47.)。 ジョン・フィニーは,それまでイギリスの音楽教育研 究では政治,道徳性,社会秩序を論じた研究がほとん どなかったと述べている(Finny, J. (2006). “Book Review of Democracy and Music Education : Liberalism,

Ethics, and the Politics of Practice, by Paul Woodford,” British Journal of Music Education 23/2 : 242.)。しかし 『民主主義と音楽教育』刊行後,音楽教育と民主主義 を関連付ける研究は,急増している印象を受ける。 6 Krüger, Simone.(2011). “Democratic Pedagogies :

Perspectives from Ethnomusicology and World Music Educational Contexts,” Ethnomusicology 55/2 : 280-305. (シモーヌ・クリューガー著・西村純子訳「民主的教

育法─イギリスの音楽民族学およびワールド・ミュー ジック教育の観点から」『南九州大学人間発達研究』 第 2 巻,2012 年,135∼152 頁)。

7 Dale, Peter. (2012). “Derridean Justice and the DJ,”

Philosophy of Music Education Review 20/2 : 135-153. な お,ACT で最初に『民主主義と音楽教育』を取り上 げた Vaugeois は,音楽教育研究における社会正義を 論じた重要な人物としてリーマー,エリオット,ウッ ドフォードを掲げ,ポストコロニアルな視座から批判 的 に 分 析 し て い る(Vaugeois, Lise. (2007). “Social Justice and Music Education : Claiming the Space of Mu-sic Education as a Site of Postcolonial Contestation,”

Ac-tion, Criticism, and Theory for Music Education

6/4 : 163-199.)。

8 MayDay Group については,村尾忠廣「書評 The

Ox-ford Handbook of Philosophy in Music Education」日本音 楽教育学会編『音楽教育学』第 42 巻第 2 号,2012 年, 13∼14 頁に詳しい。 9 なお,同誌上で展開されたデイビッド・エリオットと の論争については,杉田政夫「ポール・G・ウッドフォー ドの音楽教育哲学(2)─『民主主義と音楽教育』をめ ぐるエリオットとの議論を中心に」『福島大学人間発 達文化学類論集』第 17 号,2013 年,47-57頁を参照 されたい。 10 加えて,『民主主義と音楽教育』が MDG や,その重 鎮で,編集長を務めたエリオットを厳しく批判し,ま た MDG 発足当初の論敵であったベネット・リーマー を擁護する論調であったことも,遠因になったと思わ れる。 11 本研究の方法論は,主に澤田稔「アメリカ合衆国にお ける批判的教育研究の諸相(1)─ヘンリー・ジルー の教育論に関する批判的再検討(上)」『名古屋女子大 学紀要』54 号(人・社),2008 年,60∼70 頁,及び 市川秀之「ヘンリー・ジルーのクリティカル・ペダゴ ギーにおける問題点の提示」名古屋大学大学院教育発 達科学研究科教育科学専攻編『教育論叢』第 51 号, 2008年,17∼26 頁より示唆を得た。 12 本研究では,ウッドフォードが同誌リプライにおいて 反論,言及したジョン・フィニー,ハイジ・ウェスター ランド,リッツ・ガーネットらによる他誌レビューに ついても分析対象に含めている。 13 杉田政夫「ポール・G・ウッドフォードの音楽教育哲 学─『民主主義と音楽教育』の検討を中心として」『福 島大学総合教育研究センター紀要』第 11 号,2011 年, 19∼26 頁,及び杉田前掲論文,2013 年を参照のこと。 14 Woodford, Democracy and Music Education., xi. 15 Ibid., 17. 16 Ibid., 38-56. 17 Ibid., 57-75. 18 Ibid., 11. 19 Ibid., 26-28. 20 Ibid., 18-19, 76-78. 21 Ibid., 84-85, 89-90.

22 Lines, D. (2008). Democratic Conversations in Music Education : An Introduction. Action, Criticism, and

Theo-ry for Music Education 7/1 : 2.

23 Ibid., 3-4. 24 Ibid., 4-5. 25 Ibid., 5-8.

26 Schmidt, P.K. (2008). “Democracy and dissensus : Constructing conflict in music education,” Action,

Criti-cism, and Theory for Music Education 7/1 : 10-14. 27 Ibid., 20-21. 28 Ibid., 17. 29 Ibid., 13. 30 Ibid., 13-14. 31 この「抽象的理性」についてエリオットは,ウッド フォードによるその過度の強調が,感情/理性という 二元論を招来し,また音楽教師にとって社会変革の潜 在的な力となるべき「音楽経験」の価値を減じている と批判している(Elliott, “Music for Citizenship,”68.)。 ハイジ・ウェスターランドは,ウッドフォードによる 「抽象的理性」概念の彫琢が,結果的にデューイの哲 学的企てとの乖離を招いていると指摘している(West-erlund, H. (2006). “Review of the Book Democracy and

Music Education : Liberalism, Ethics, and the Politics of Practice, by Paul Woodford,” Philosophy of Music Educa-tion Review 14/2 : 236-238)。

(10)

33 Ibid., 20-21.

34 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 122. 35 Gould, E. (2008). “Devouring the Other : Democracy

in music education,” Action, Criticism, and Theory for

Music Education 7/1 : 41.

36 Ibid., 29. 37 Ibid., 30. 38 Ibid., 31.

39 Plumwood, V. (1993). Feminism and the Mastery of

Nature. Routledge, 192-195. 40 Gould, “Devouring the Other,” 32-39. 41 Ibid., 40.

42 Ibid., 29-30. 43 Ibid., 40. 44 Ibid., 41.

45 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 123-124.

46 Peters, M. (2008). “I hear American humming and it is out of tune : Review of Paul G. Woodford’s Democracy

and Music Education : Liberalism, Ethics, and the Politics of Practice,” Action, Criticism, and Theory for Music Edu-cation 7/1 : 88-102.

47 Woodford, Democracy and Music Education., xiii. 48 Peters, “I hear American humming and it is out of tune,”

88-89. 49 Ibid., 89. 50 以下の邦訳は,ホイットマン著・飯野友幸訳『おれに はアメリカの歌声が聴こえる─草の葉(抄)』光文社, 2007年,14 頁による。 51 Ibid., 90-91. 52 Ibid., 98-99. 53 邦訳は,ラングストン・ヒューズ著・木島始訳『ラン グストン・ヒューズ詩集』思潮社,1993 年,161∼ 162頁による。

54 Peters, “I hear American humming and it is out of tune,” 91-92.

55 Ibid., 92-93. 56 Ibid., 94. 57 Ibid., 95-96. 58 Ibid., 98.

59 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 124. 60 彼は,リプライの前半においても,『民主主義と音楽 教育』刊行後の社会的,教育的動向について,同様な 批評を行っている。

61 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 124-125.

62 Woodford, Democracy and Music Education., 97.  63 Locke, K. (2008). “Music Education and Ethical

Judg-ment in Postmodern Condition,” Action, Criticism, and

Theory for Music Education 7/1 : 77.

64 Ibid., 78-80. 65 Ibid., 80-81. 66 Ibid., 81-86.

67 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 122-123. (ただし,友好的な対話ということもあっ てか,その後のウッドフォードの論考にも,シュミッ ト,ロックへのまとまった言及はない)。 68 なお,ウッドフォード自身も『民主主義と音楽教育』 において,「重要にも『衝突,分裂,不平等』はカリキュ ラムで『あり』」と,シュミットと同様の趣旨を述べて いる(Woodford, Democracy and Music Education., 98.)。 69 Ibid., 95-96.

70 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 113. 71 Woodford, “Dewey’s bastards,” 21.

72 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 128. 73 Woodford, Democracy and Music Education., 53. 74 Ibid., 55. これは音楽学者,ローゼン・スボトニック

を参照しての見解である。

75 澤田前掲論文,67∼68 頁,及び Burbules, N. & Rice, S. (1991). “Dialogue across Difference : Continuing the Conversation,” Harvard Educational Review 61/4 : 397-398を参照した。

76 Woodford, Democracy and Music Education., 46. 77 リオタール,J.F. 著,管啓次郎訳『こどもたちに語る

ポストモダン』ちくま学芸文庫,1998 年,30∼36 頁。 78 澤田前掲論文,68 頁。

79 同上,61 頁,69 頁。

80 Woodford, Democracy and Music Education., 71. 81 Ibid., 79. ローティに依拠し,ウッドフォードは「民 主主義は,我々自身に特有の歴史と,必然としての自 民族中心主義の表明である」と述べており,この辺り が,ピータースによるアメリカ例外主義との批判を招 いた所以のように思われる。ただし,すぐ後に続けて ウッドフォードは,我々の関与をできる限り拡大する 必要性についても述べていることを付言しておく (Ibid., 80.)。 82 Ibid., 77-78.

83 Woodford, “Fear and Loathing in Music Education ?” 126-127. <引用・参考文献> 上野正道『民主主義への教育』東京大学出版会,2013 年。 齊藤直子『<内なる光>と教育』法政大学出版局,2009 年。 澤田稔「アメリカ合衆国における批判的教育研究の諸相(1) ─ヘンリー・ジルーの教育論に関する批判的再検討 (下)」『名古屋女子大学紀要』54 号(人・社),2008 年, 71∼80 頁。 シュスターマン,R. 著,樋口聡・青木孝夫・丸山恭司訳『プ

(11)

ラグマティズムと哲学の実践』世織書房,2012 年。 デューイ,J. 著,松野安男訳『民主主義と教育』(上・下) 岩波書店,1975 年。 デューイ,J. 著,栗田修訳『経験としての芸術』晃洋書房, 2010年。 苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社, 2011年。 バーバー,B. 著,鈴木主税訳『ジハード対マックワールド』 三田出版会,1997 年。 ハウ,K. 著,大桃敏行他訳『教育の平等と正義』東信堂, 2004年。 村尾忠廣「『音楽教育学における哲学的研究』の動向─リー マー/エリオット論争をめぐって : 企画趣旨」日本音 楽教育学会編『音楽教育学』第 40 巻 1 号,2010 年, 26∼28 頁。 リオタール,J. F. 著,小林康夫訳『ポスト・モダンの条件』 星雲社,1986 年。 ローティ,R. 著,小澤照彦訳『アメリカ 未完のプロジェ クト』晃洋書房,2000 年。 (2014 年 4 月 17 日受理)

Paul Woodford’s Democracy and Music Education Makes a Stir :

── Liberalism, Postmodernism, and Feminism

in the Philosophy of Music Education

──

SUGITA Masao

  This study highlights the content and significance of Paul G. Woodford’s music education philosophy in

Democracy and Music Education : Liberalism, Ethics, and the Politics of Practice (2005), along with reviews of the book, Woodford’s replies to them, and his recent articles. By examining his philosophy, I intend to gather suggestions for a democratic music education philosophy that fits within the social and cultural context of Japan.

  Democracy and Music Education ignited intense arguments over the philosophy of music education. To illustrate the sensation it caused, I examine an issue of the Mayday Group’s Action, Criticism and Theory for

Music Education (Vol. 7, Issue 1, 2008), which was dedicated to reviews of the book.

  After briefly outlining the book, I analyze an introduction by David Lines ; reviews by Patrick Schmidt, Kirsten Locke, and Michael Peters ; an article by Elizabeth Gould on democracy in music education ; and Woodford’s responses to these critics, and his recent articles. Through comparison and analysis, I consider the characteristics and significance of Woodford’s music education philosophy, which is based on liberalism. I also pose some questions regarding Woodford’s definition of postmodernism, his criticism of Henry Giroux, and his views of non-Western (music) culture.

参照

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