伊
藤
誠
会
員
︵平成二二年六月一四日提出︶ベーシックインカムの思想と理論
一
ベーシックインカムへの関心
このところベーシックインカム︵ Basic Income, BI ︶の構想 に つ い ての関心が、加速度的に広がりをみせている。ことに日本では、こ の数年、ベーシックインカムの構想をめぐる論議が社会政策、社会 思想、フェミニズムなどの分野で学問的に興味ある論点とされ、欧 米での研究があいついで紹介、翻訳されるとともに、雑誌での連載 や特集、研究書や入門的な解説書がつぎつぎに出版される状況がみ られる。政財界の一部にも関心は広がり、週刊誌や大新聞もこれを とりあげるようになった。二〇一〇年四月にはこの構想の研究と普 及 に 取り組むベーシックインカム日本ネットワーク ︵ BIJN ︶も 多 くの研究者を集めて結成されている。 本稿では、こうした動向を歓迎しつつ、そこにふくまれる改革思 想の意義と課題に考察をすすめてみたい。世界的にみると、このベ ーシックインカムの構想は、資本主義のもとでの社会保障改革の新 たな試みとして提唱されるとともに、あわせて個人の自由を尊重す る社会主義の再生につらなる発想としても論議され、そこに多様な イデオロギーとの接合関係が興味ある緊張関係の奥行きや広がりを もたらしている。これにくらべ日本における論議は、従来主として 資本主義のもとでの社会保障改革論の幅のなかに枠組みが狭められ ていたように思われる。それはこの論議への日本のマルクス学派と しての寄与が不足していることも意味している。それを補整する方 向での試みも最近提示されつつある︵たとえば、上野義昭︵ 2010 ︶ 、 村岡到︵ 2010 ︶ ︶ 。その発想を尊重しつつ、ここではさらにベーシッ クインカムの構想への関心を喚起している社会的背景、この構想に ベーシックインカムの思想と理論 一〇九つらなる思想と理論の系譜、現代的な論議の争点としてのフリーラ イダーの可能性や、実現できそうなベーシックインカムの規模と財 源などに点検をすすめ、あわせてマルクスの思想と理論におけるこ の構想との親和性に考察を及ぼしてみたい。 まずベーシックインカムとはなにか 。 その構想の検討にあたり 、 日本でも研究者の多くが参照し典拠としているパリ ー ス ︵ Parijs, 1995 ︶は、つぎのような定義を与えている。 ﹁ すなわち 、 ベーシックインカムとは 、 その人が進ん で働く気 がなくとも 、 その人が裕福であるか貧しいかにかかわりな く 、 その人が誰と一緒に住んでいようと、 その人がその国のどこ に住んでいようとも、社会の完全な成員すべてに対して政府から 支払われる所得である。 ﹂ ︵ Parijs, 1995. p.35. 邦訳、五六ページ︶ 。 パリースはこの表現に込められた含意として 、 資力調 査 ︵ means test ︶ を伴わない無条件的給付により 、 それぞれ の個人が人生をつ うじ安心して頼りにでき、他のあらゆる所得をそれに追加しうる物 質的基礎をえることが期待されている、としている。資本主義のも と での従来の社会保障給付金にくらべ 、 社会成員すべてに一律に 、 資力調査なしに 、 個人単位で 、 ということに特徴があ る 。 同 時 に 、 パリースは、この定義にはベーシック・ニーズの概念とかかわるも のではなく、見苦しくない生存に必要な水準に足りないことも、そ れを超過することもありうる、ともしている。 そこで 、 フィッツパ トリック ︵ Fitzpatrick, 1999, 邦訳 、 四二ペー ジ︶は、それだけで生活するのに十分な水準のものを完全BI、そ れだけで生活するには十分でなく、他の給付、稼得、所得源により 補われる必要があるものを部分BI、それら社会全員への無条件給 付の二形態にいたる過渡的形態のものを過渡 的 B I と区分してい る。過渡的BIはなんらかの条件をともなうもので、したがって社 会全員を包括することにはならない。たとえば、日本で新たに実施 された子ども手当は 、 資力調査なし の B I とみることができ る が 、 過渡的形態とされることになる。これらに加え、グローバルBIの 構想やその可能性に論及されることもある。 フィッツパトリックの区分基準とはややずれるが、なんらかの条 件をつけて、社会成員すべてにかならずしも包括的に及ばない公的 所得給付の構想にも、ベーシックインカムとの類縁性や同じ方向へ の志向性が認められ、BIをめぐる論議でとりあげられることがあ る 。 とくに 、 ︵ 賃金労働でなくとも ︶ ケアなど社会への有 益な活動 をおこなっていることを条件とする﹁参加所得﹂を部分BIの修正 版とみなす場合もある。 いまなぜベーシックインカムへの関心がある種の期待感をともな い拡大してきているのであろうか。 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一一〇
さきのパリースによれば、このベーシックインカムという用語を 現 在 の も の と 近 い 意 味 で 最 初 に 用 い た の は 、 テ ィ ン バ ー ゲ ン ︵ Tinbergen, J., 1953 ︶ であるが 、 英語としては一九八〇 年代初頭か ら使われはじめた。一九八四年にはロンドンで国際的な研究学会と して Basic Income R esearch Group が形成され 、 九二年には Citizen’s Income Research Group と改称され 、 その間に二年ご との国際会議 Basic Income E arth Network ︵ BIEN ︶ も開催されるようになっている。 パ リ ースはその創設者の一人で 、 長くその事務局長役を務めてい る。 ︵日本で結成された BIJN もこの BIEN との連帯、協力 をめざし ている。 ︶ その間、 Basic Income B ulletin, C itizen’s Income Bulletin, C iti-zen’s Income N ewsletter, Newsletter o f B IEN などの機関誌やニュー ス レターなどでも継続的に論議がおこなわれてきている。 そうしてみると、ベーシックインカムの構想への関心は、エスピ ン・アンデルセンのいう北欧の社会民主主義的福祉国家モデルの伝 統のなかから ︵1︶ 、とくに一九八〇年代以降に高まり、継続的に成長し てきた。日本にはほぼ二〇年の時差を経て、その熱気が移入されつ つあるとみてよい。一九八〇年代といえば、一方で、それに先立つ 戦後資本主義 の高度成長が七三年を境に危機と再編の時代に転換 し、それに対応して社会民主主義的福祉政策やケインズ主義にもゆ きづまりが深まり、市場の競争的活力を再評価し、さまざまな分野 での規制を緩和・撤廃し、公企業を民営化し、労働組合を弱体化す る方向に新自由主義が資本主義世界の支配的政策潮流となる傾向が 進展していた。他方で、かつては資本主義への有力な代替路線を示 すものとみられていたソ連型社会主義にも、経済的な摩滅と、官僚 主義的専制支配のもとでの非民主的で不自由な社会経済秩序への失 望や反感が広がりつつあった。そのような資本主義と社会主義とに わたる歴史の進路への世紀末的な閉塞感から、官僚主義的な規制や 管理を軽減し緩和することで市場における個人主義的な自由を再活 性化しようとする新自由主義に魅力が感じられ、広く期待がよせら れる風潮も生じていた ︵2︶ 。 こうした新自由主義の政策潮流は 、 現代の資本主義が情報技術 ︵IT︶ を再編の基礎として 、 企業の多国籍化をす す め つ つ、と く に女性の低賃 金労働を多様な非正規の雇用形態のもとで大量動員 し、労働組合の組織や機能を弱体化しつつ、家族や家庭の役割も大 きく変容させて、概して個人主義的な就労、生活・消費スタイルを 強化してきたことに、適合的な経済的基盤をおいてきたと考えられ る。激増する非正規のパート的就労形態がワーキングプアのような 新 た な 貧困問題や子どもや高齢者のケアをめぐる社会問題を生じ 、 正規労働者を中心としてきた労働組合も、世帯単位での社会保障制 度も、家族もそれらに十分対応できない状態が生じていた。とくに ベーシックインカムの思想と理論 一一一
欧米ではシン グルマザーとその子どもたちの問題が重大化してい る。家事労働としての非市場労働の多くを担う女性が、その負担を 負いながら、市場労働でも非正規の恵まれない就労形態におかれて いることから、フェミニズムがそれにどう報いるかを批判的に問い かけた問題も重要性を増していた。さらに大学の学部や大学院など で の 学費の負担が増しながら 、 適切な就職の機会が十分でないま ま 、 自 己 責任で生活の基盤を考えなければならない若年層が増加 し、インテレクチュアルな社会層にも、正規就労の困難と自由時間 確保の代償の重さがきびしくなっている。 こうして現代資本主義の再編過程で生じてきている、個人主義的 自由拡大への魅力が、就労、生活・消費面である形で実現され、労 働時間と自由時間の区分線がまた個人主義的に多様化され選択可能 とされながら、 そのもとで、 従来型の社会保障制度も、 家族関係も、 労働組合も容易に対応できないような社会・経済問題や不満が累積 している。そこに、新たな戦略構想で解決を与える可能性のひとつ として、ベーシックインカムが期待を集め、関心を広げる社会的基 盤があるとみなければならない。 さしあたり、従来型の社会保障制度の改革案としてみれば、ベー シックインカムには、たとえばつぎの三つの弊害を克服する機能が 期待されている。 第一に、資力調査をともなう生活保護などの申請や受給には、つ ねに恥辱︵ stigma ︶ を さけられないところがある 。 申請手続き自体 も 煩瑣で 、 その受給を必要とする人びとを躊躇させる傾向がある 。 一九九〇年代の日本では本来であれば生活保護を受給できる生活水 準で暮らしている人びとのうちで、実際に生活保護を受給している 人は二〇%を切っており、しかも徐々にその比率は低下を続けてい るとみられている︵橘木俊詔・山森亮︵ 2009 ︶ 、二二五ページ︶ 。ベ ーシックインカムはこうした問題を生じえない。 第二に、従来型の社会保障では、受給者は働いて賃金所得を多少 でも増やすと、給付を打ち切られるおそれがあり、そのため﹁失業 の罠 ﹂ に閉じ込められ 、 就労のインセンティブを失いがちであ る 。 ベーシックインカムは、そうした作用をもたず、人びとに就労によ る 所 得 の増加と自由時間の確保との自由な選択の可能性を広げる 。 他方、ベーシックインカムには、就労者にも過度労働による疲弊を 回避させて、就労時間の短縮への余裕を与え、失業者や半失業者と のワークシェアを実現する作用も期待できる。 第三に、ベーシックインカムは、社会保障の管理費を大幅に軽減 できる。 それはまた 、 シングルマザーや子どもたちの貧困問題も緩和し 、 家事労働のような非市場労働にも社会的貢献への経済的保障を、と 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一一二
いったフェミニストの要求にもある形で応えるものと期待されてい る。 とはいえ、ベーシックインカムの戦略構想への関心は、こうした 期 待 も含め 、 従来の社会制度の改革案にのみとどまるものではな い。 とくに欧米では、この構想は、新自由主義に支持を与えやすいリ バ タ リアンをもひきよせて 、 個人の自由を真に拡大する方策とし て、資本主義を前提とする社会民主主義の再生路線とされるととも に、それをステップとして民主的社会主義への道筋も展望できるも のとみなされてきている。たとえばパリースは、方法論的個人主義 を重視するアナレティカル・マルクシズムの有力な思想家でもあっ て、その観点から﹁社会主義の最適形態は最適資本主義のもとで達 成可能なものを持続的に上回るかたちでベーシックインカムを上昇 さ せ る可能性がある 。 人民主権という点での決定的優位性によっ て、社会主義はリアル・リバタリアン的基準において資本主義をし の ぐのである ﹂ ︵ Parijs, 1995, p.224. 邦訳 、 三六二 ︱ 六三ページ ︶ と 明言している。 フィッツパ トリック ︵ 1999, 邦訳 、 一七四ペー ジ︶も、 ベーシッ クインカムの構想が、急進右派、福祉集合主義、社会主義、フェミ ニズム、エコロジズムなど多様なイデオロギーから支持されてきた ことを、それぞれのイデオロギーによってベーシックインカムに期 待される政治経済的役割が異なることとあわせて検討しつつ、社会 主 義 の未来に期待をよせている 。 欧米マルクス学派の有力な理論 家、マ イ ケ ル・ハ ー ト、ア ン ト ニ オ・ネ グ リ︵ Hardt & N egri, 2000 ︶ 、アンドルー・グリン︵ Glyn, 2006 ︶などが、ベーシックイン カムの構想に支持と関心を寄せているのも同様の視点によるものと い え よ う 。 むしろベーシックインカムの構想をどのように扱うか は、多様なイデオロギーの差異やそれらの可能性をめぐる特性を検 出する現代的試金石ともなりうる。 ところが、日本にこのベーシックインカムの構想への関心が、ほ ぼ二〇年遅れて移入される過程では、欧米での論議にみられるこう した思想的・理論的スケールがせばめられ、資本主義市場経済のし くみを当然の前提としたうえで、そのもとでの社会保障制度の欠陥 を手直しし、改革する新たな構想としてのみ受けとられ、論じられ る傾向が強い。そこには、この構想をめぐる研究上のある種の欠落 が生じているのではなかろうか。
二
この構想の二類型の系譜
ふりかえってみると、ベーシックインカムという名称でかならず ベーシックインカムの思想と理論 一一三しも呼ばれてはいなかったにせよ、その構想につらなる発想は、事 実上、二類型の系譜において、かなり古くからくりかえし提示され てきていた。 そのひとつは、資本主義市場経済を前提してそのもとでの所得再 配分を提唱するものであり、いまひとつは社会主義経済を前提して の所得配分の構想である。 第一類型の系譜の端緒として、トーマス・ペインの構想があげら れる。ペインは、自然権としての基本的人権尊重の立場から、アメ リカ独立戦争への原動力となったといわ れ る ﹃ コ モ ン ・ セ ン ス ﹄ ︵ 1776 ︶ やフランス革命を擁護し た ﹃ 人間の権利 ﹄ ︵ 1791−92 ︶の 著 者として知られているが、とくにその後に執筆した﹃土地配分の正 義﹄ ︵ 1795−96 ︶ において 、 つぎのような構 想をイギリス社会につ いて提示している。 すなわち 、 もともと自然の未耕作状態にある土地は 、 ﹁ 人類 の 共 有財産 ﹂ であったし 、 いぜんとしてそうあるべきだということ は 、 論駁の余地がない。それゆえ、個人の所有権は、土地そのものでは なくして、改良された価値のみであることはいぜん真理である。し たがって耕作された土地のすべての所有者は、彼の保有する土地に 対して、基礎地代︵ ground-rent ︶を共同社会に支払う義務がある。 そこで 、 そのような基礎地代を集め 、 ﹁ 国民基金を 設 け 、 二 一 歳 になったすべての人に、土地財産制度の導入によって、彼や彼女 の自然的相続権の喪失にたいする補償の一部として、一五ポンド をそこから支払い、また現在五〇歳に達したすべての人に、また その年齢に達するときはそうした人びとに、生涯を通して年に一 〇ポンドを支払う 。 ﹂ ︵ Pain, T homas ︵ 1795−96 ︶ 、 邦訳 、 一六一 ペ ージ︶ 。 こうしたペインの構想は、社会構成員の全員に、性別や資産、収 入を問わず、その意味で一律に国民基金からの給付を提唱している 点で、たしかに現代のベーシックインカムの先駆をなしている。も っとも、二一歳の時点で支払われる一五ポンドは、自律した経済生 活への発端を助成するにとどまるものであり、五〇歳から毎年給付 される一〇ポンドもおそらくそれだけで見苦しくない経済生活を支 えるに十分なものとは思われない。現代の論議では、完全BIとは みなせないものである。せいぜい部分的BIにとどまるものと考え られる。とくに二二歳から四九歳までの成人は、その給付にあずか らず、大多数の人びとはその間は働いて所得をえるものと想定して いる。その意味で、国民基金からの給付には年齢別ニーズへの配慮 も加えられていた。 さらにその財源に、土地所有者に課せられる基礎地代が想定され ているのも特徴的なところである。その背後にはJ・ロックの労働 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一一四
所有権論が想定されており、これにてらし、土地の底地はだれが作 り出したものでもなく 、 本 来 、 社会成員の共有財産であるはず で 、 その私的所有者は、他の社会成員にたいし、土地の共同所有権を放 棄した補償として、底地からえられる基礎地代部分を国民基金に払 い込むべきである、と主張されているのである。その文脈からみれ ば、ペインの構想は、土地の私的所有の正統性をめぐり、底地から えられる地代の社会的配分を正義として求めていたわけである。 ペインの構想は、むろん私的所有にもとづく市民社会の︵資本主 義的︶市場経済による秩序に依拠しつつ提唱されているものであっ た。その後、マルクス︵ 1867, 第 一巻第二四章 ︶ があきらかにして いるように、私有制による商品経済の秩序を社会的規模で実現する 資本主義は、その成立にあたり、資本の原始的蓄積の基礎過程とし て 、 農 民からの耕地の伝統的利用権の収奪による土地の私有化を 、 労働力商品化の基本前提として先行させていた。したがって、労働 力の商品化による資本主義市場経済のしくみを維持しつつ、その歴 史的な基本前提をなしている土地の私有制度を底地部分について否 認して、社会成員全員の共同的権利をその収益について主張するこ とには困難があり、その実現には、むしろ社会主義的な社会変革を 必要条件とすることになりはしないかと思われる。 とはいえ、ペインの構想は、現代のベーシックインカムの論議で も参照され、 ときに拡張や変奏を加えて再現されている。 たとえば、 現代に実現されているベーシックインカムの数少ない実験例とされ るアラスカ恒久基金は、州有地とその近郷の油層からの原油のロイ ヤリティ収入の二〇%を信託財産とし、そこから一九八二年以降住 民全員に一律に︵九八年には一人年一五〇〇ドルの︶配当を給付し ており ︵ Fitzpatrick, 1999, 邦訳 、 一七〇ペー ジ ︶ 、 ペインの提唱に 近い。それは、州有地の利権が主たる収益源としているために、土 地の私有権をめぐる問題を回避しえた実例といえる。 イギリスの多くの教区で、賃金への補助金や、さまざまな児童手 当、家族手当を給付したスピーナムランド制度が導入され、一七九 五 − 一八三四年のあいだ地域社会の人びとに生存可能な所得を与え る人道的試みとされていた場合も、その原資はペインの構想とは異 なり、底地権や地代に限定されるものではなかった。 資本主義経済のもとでの貧困対策、社会保障制度改革案ないし有 効需要政策の一形態としての公的所得保障の構想は、フィッツパト リック︵ 1999 ︶が回顧しているように、二〇世紀にもデニス・ミル ナーによる国家特 別手当構想 ︵ State B onus Scheme ︶やC・H・ダ グラスによる月五ポンド︵平均勤労所得の三分の一程度︶の社会ク レジット給付の構想、あるいはジェームズ・ミードによる社会配当 への賛同などにも継承され、展開されてきている ︵3︶ 。 ベーシックインカムの思想と理論 一一五
他方、第二類型の構想の系譜として、社会主義社会を想定し、し たがって生産手段の公有制を前提し、そのひとつの利点としてベー シックインカムにあたる社会成員すべてへの所得保障が実現される とみなす、主張もさまざまな形でくりかえされてきた。 その先駆をなしたのは、一九世紀末のアメリカの社会派作家エド ワード・ベラミー︵ Bellamy, E dward ︶であった。その代表作﹃顧 み れば ﹄ ︵ 1888 ︶ は 、 私企業に代わり 、 国家があらゆ る財の唯一の生 産者となった未来︵二〇〇〇年︶のアメリカをユートピア社会とし て描き、そこでは毎年、国民の生産のうちの各人の分け前に相当す るクレジットが公の帳簿に記入されるとともに、各人にそれに対応 するクレジット・カードが発行され、それによってショッピングモ ールのような店で、なんでもほしいものをいつでもほしいときに買 い、共同体社会の公営倉庫から買い物が敏速に配達されるしくみを 予想しつつ記述していた。ドルやセントの価格名称は残っているに せよ 、 貨幣も商業取引も不要となるとされている 。 このしくみ は 、 分権的な企業 による市場社会主義を想定しているものとは思えな い。人びとが避けたがる職種は一日あたりの労働時間を短くするよ うな、一種の需給調整のしくみを組みこんではいるが、生産体制と しては統合的で集権的な社会主義を想定しつつ、意外に現代的なシ ョッピングモールでのクレジット ・ カードでの支払いが 、 事 実 上 、 完全BIを実現する構想として提示されているところが興味深い。 ついで、二〇世紀に社会主義経済計算論争のなかで、オスカー・ ランゲ ︵ Lange, 1936−37 ︶ がつぎのようにベーシックイン カムと同 じ内容の構想を述べていた。すなわち、反社会主義者のミーゼスや ハイエク ︵ Hayek, 1935 ︶ に よ れ ば 、 生 産 手 段が公有形態のもとに おかれる社会主義社会では、各種の生産手段が私有財産として自由 な競争市場で価格が決定されないので、代替可能な生産諸手段の組 み合わせを選択するにあたり、最も経済的な費用最小化を実現する 合理的経済計算ができない。労働時間での経済計算をおこなう理論 的可能性はあるが、手間がかかりすぎ、複雑労働の単純労働への還 元 問題も克服しがたい難問をなしている 。 これにたいしランゲは 、 社 会 主義社会でも 、 消費者の自由な選択と職業選択の自由を前提 に、消費者の需要に表現される選好が生産と資源配分の決定基準と なる均衡価格体系を決定するしくみをつぎのように提唱する。すな わち、中央計画局が、公有の生産諸手段に需給バランスを配慮しつ つ価格表を提示し、分権的に費用最小化を図る諸企業のそれらにた いする実際の需要動向をみて、価格表を改訂する試行錯誤をくりか えせば、各種生産手段の完全利用を実現する合理的均衡価格の体系 は、手間と時間のかかる計算手続きを経ずに、事実上、自由な市場 経済で実現されているのと同様に確定できる。このような市場社会 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一一六
主義の古典的理論モデルを提示して、ランゲは、生産手段を公有化 する社会主義 社会は合理的に存立可能であると主張したのであっ た。 そのさいランゲは、この理論モデルにおける消費者の所得に二重 の構造を想定している。すなわち、消費者は一面でそれぞれの適性 や好みにしたがい職業選択の自由を保持しつつ、労働市場での需給 の動向にしたがい、それぞれに職をえて、労働用役にたいする代価 をえる。しかし、それにとどまらず、国民は、他面では資本や天然 資源を共有する社会の主人公でもあって、その側面からすれば、生 産諸手段の完全利用を実現する均衡価格とそれぞれの維持費用との 差としてえられる︵資本主義のもとでの地代、利潤にあたる︶所得 の共有者としての位地にある。そこで、公有されている生産手段に もとづく社会的所得から、生産拡大への蓄積にあてる部分や共同消 費にあてる部分などを控除した後に、国民すべてに社会的な配当が 給付されてよい。そのような社会的配当の給付は、職業選択や労働 配分に影響しないよう、たとえば国民一人あたり均等に、あるいは 年齢や家族構成にしたがって、 公正、 平等に配分されるべきである。 こうして 、 ランゲの市場社会主義の古典的理論モデルにおいて は、さきにペインが構想していた土地への社会成員の自然権による ベーシックインカム給付論が、社会主義の基本とされる生産手段一 般の公有化を前提に、土地などの天然資源やその他の生産手段全体 の公有にもとづく社会的配当論に論理整合的に拡大されている。さ しあたり社会成員のすべては、社会の主人公であり生産手段の共有 主体とみなされているのであるから、生産手段の公有にもとづく社 会的配当の給付部分は、理論上、市場社会主義のもとで労働市場を 介し職をえているかいないかにかかわらず、したがってまた労働に た い す る代償としての賃金部分をえているか否かにもかかわらず 、 たとえば家庭内の無償のケア労働に従事している者や、病気や高齢 で職を離れた者にも、とうぜん受給権があるものと解釈できる。そ れは内容上、 ベーシックインカムの構想が、 社会主義社会になれば、 容易に、しかも安定的に実現されやすいことを示唆するところとな っていた。パリースがペインとランゲをベーシックインカムの構想 の先駆として指摘しているのは 、 首肯できるところである 。 他 方 、 ランゲは、消費者は、労働市場で需給に応じて決定される賃金所得 をもえるものと想定し、BIにあたる社会的配当は、賃金をえる職 業選択や労働配分に影響しないようにとの注意も記していた。かり に完全BIを保障すれば、それらに影響せざるをえず、市場労働へ のインセンティブを阻害し、労働市場の機能に重大な障害を生ずる おそれがある 。 そのかぎりでは 、 ランゲ以来の市場社会主義論 は 、 価格体系決定のしくみにおいてそうであるように、資本主義経済の ベーシックインカムの思想と理論 一一七
作動と機能に類似性があり、市場を介しての労働配分の機能を確保 してゆくためにベーシックインカムも部分BIにとどめざるをえな い限界を有するように思われる。現金給付としてのBIにそのよう な限界があることは、 社会主義のもとでは、 共同消費としての医療、 教育、介護などに公的現物サービスが拡充されてよいことからもい っそう明確にしておきたくなる。 アナレティカル・マルクス派の有力な理論家、ジョン・ローマー ︵ Roemer, 1994 ︶ は 、 ランゲの市場社会主 義モデルを現代化し 、 金 融市場、とくに株式市場の役割を組み込む試みを展開している。す なわち、すべての社会の成員には、成人に達したときに株式購入に 使える一定額のクーポンが支給され、それによって生涯にわたり全 員が株主としての配当を取得し続けることができる。成長する企業 の株を選択しえたか否かで、受け取る配当の有利不利や株価変動の 有利不利が分かれるが、それは出発点での平等な額のクーポン配布 と生涯を終えた時点での全保有株式、クーポンの社会への返還︵相 続はみとめない︶により、生産手段をふくむ株式企業の社会的所有 とその利益の社会的配当の平等性の基本は維持されるものとされて いる。ローマーは、アメリカの統計にもとづき、かりにこうした形 態でのクーポン市場社会主義が実現されたとした場合、その株式配 当の水準は黒 人男性の中位的所得に一九五〇年代であれば約二五 %、一九八〇年代であればほぼ一二%にあたる所得を加えることに なると推計している。したがってその配当は、貧困層の所得を大幅 に増加し、所得配分を根本的に変化させるであろう、と期待してい た。このローマーの理論モデルでは、社会的な企業の共同所有から 生ずる配当は、クーポンで各自が購入する株式の選択をめぐる運不 運で不均等となりうるが、労働への報酬ないし代価としての賃金と は異なる社会的配当を成人に達した国民全員に生涯にわたり保障す るしくみを構想している点で、ベーシックインカムと事実上同様な 役割を果たすものとみてよい。 しかし、 この構想でも、 その配当は、 あきらかに部分BIにとどまることになろう。 こうしてみてくると、ベーシックインカムの構想の系譜には、資 本主義市場経済の枠内で、社会的正義、所得と富の分配の是正、社 会全員への経済面での生活権の保証を求めようとする発想と、さら に資本主義をこえる社会主義のもとで生産手段の公有化により、そ れらが容易に、あるいは安定的に実現されうるとみなす発想との二 類型が存在していた。その両者の流れに配慮し、それらの異同や関 連 に 強 い興味を示している欧米でのベーシックインカムの論議は 、 ソ連型社会主義の崩壊後、むしろこれからの社会主義として民主的 社会主義、分権的社会主義の有力な可能性として、市場社会主義の モデルの多様な構想に活発な研究と論争が続いていることにも照応 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一一八
している。もっとも、社会主義社会になれば、完全BIがとうぜん 容易に実現されてよいはずであるといった期待が一部にあるとすれ ば、右にふれたように市場社会主義については、それは理論上、誤 解とみなければならない。 日本におけるベーシックインカムの構想をめぐる論議では、パリ ースやフィッツパトリックの見解がくりかえし参照されながら、こ の構想の先史が点検されるときにも、社会主義の思想と理論の系譜 が軽視あるいは無視されやすい ︵4︶ 。そのことは、日本にこの構想をめ ぐる論議が遅れて移入されたさいに、はじめにふれたような最近の 少数の例外はあるにせよ、もっぱら社会保障の改革案の側面に関心 が集中されてきていることに由来することといえよう。しかし、そ れ に よ って欧米でのこの構想をめぐる思想と理論の検討にくらべ 、 学問的にも奥行きを欠き、視野が狭くなっているおそれが危惧され るところである。
三
フリーライダーの可能性
そのような問題を念頭にベーシックインカムの構想をめぐる争点 としてフリーライダーを許容しうるかという問題と、実現可能なベ ーシックインカムの規模と財源に検討をすすめてみよう。そこでは 資本主義経済の基本的枠組みの制限が問われざるをえないところが ある。と同時に、市場社会主義にもつうずるベーシックインカムの 意義や限界が浮上するところもある。 まず 、 ベーシックインカムの給付を社会構成員として受けなが ら 、 生活時間全体を自由時間として ︵ たとえばサーファーとし て ︶ たのしむだけで、社会的貢献をなにもしないフリーライダーが生じ うることをどのように考えたらよいかという問題をとりあげてみよ う。この問題は、無条件で一律な個人への所得給付としてのベーシ ックインカムの構想にたいし、もっとも有力な反論の根拠のひとつ となってきた。 フィッツパトリック︵ 1999, 第4章︶は、ベーシックインカムを 支持する立場からのこれへの再反論として、とくに説得力のある主 張につぎの四つのものがあるとしている。 すなわち第一に、われわれの社会の所得は現在の労働のみの成果 とはいえない。①天然資源のような自然や②過去の経済からの授か り物としての技術、知識などは社会成員に共同で保有されてよいは ずで、それらに依拠して生ずる所得部分の分け前は、社会に役立つ しごとをしないフリーライダーにも、ベーシックインカムとして帰 属してよいはずである。フィッツパトリックはこの発想を﹁自然か らの授かりもの説﹂とよんでいる。それは発端のトーマス・ペイン ベーシックインカムの思想と理論 一一九の構想や、現代のアラスカ恒久基金にはよくあてはまる名称である が、②の側面までふくめると、かならずしも自然からの授かりもの とはみなせない。その側面に技術、知識とあわせて、多くの場合そ れらを体現している過去の経済での労働の成果の蓄積としての生産 諸手段も加えないでよいのかどうか。 さきにも指摘したように、資本主義経済においては、土地に代表 される自然、天然資源は概して私的所有のもとにおかれ、過去の経 済からの授かりものとしての生産手段としてのストックやそれにし ばしば体現されている技術や知識は、私的所有としての資本に集積 されているのであって、それにもとづく剰余価値や利潤もまた私的 に取得されることが、経済秩序の原理的前提をなしている。したが って、この①、②の側面からの所得を社会構成員全体がシェアして よい﹁自然からの贈りもの﹂として、ベーシックインカムの基礎と するには、資本主義社会の経済秩序の基本前提をなす土地と資本の 私的所有について、その特殊な歴史性を認識したうえで、その正当 性を問いなおし、社会変革を促すなり、かなりの制限をこれに加え る必要がある。ベーシックインカム論は、この問題をめぐりマルク スによるロック的労働所有権論の批判をあらためて浮上させるとこ ろがあった。同時に、資本主義をこえる未来社会の基本前提を考え させる側面を生じているともいえる。逆に資本主義経済を前提する かぎりでは、この論拠は一般的説得力に乏しいのではなかろうか。 第二に 、 フィッツパトリックは ﹁ 雇用レント説 ﹂ を あげている 。 すなわち、非ワルラス的な経済のもとでは、働きたい勤め口がかぎ ら れ ているために 、 やむをえず就労していない社会成員が生じう る。 これにたいし就労しているものは、 就労機会をいわば独占して、 完全にフレクシブルな市場でえられるはずの賃金所得にくらべ、雇 用レントをえていると考えられる。そこで就労機会から遠ざけられ ているサーファーのような人びとへのべーシックインカムの給付の もととなる所得の供出をおこなわなければ、就労している人びとの ほうが雇用レントを独占し続けるフリーライダーのようになってし まうのではないか。 こうした雇用レントの独占のように解釈される就労や、その逆の やむをえざる非就労としてのフリーライダーの発生はいずれも望ま しいこととはいえない。なんらかの社会的に必要な労働や活動への 参加を求める参加所得型のベーシックインカムの設計や、ワークシ ェア、ワークフェア型の就労機会の調整への社会的配慮が、ベーシ ックインカムとあわせて求められることとなりうる。しかし、就労 機会の不平等が︵市場社会主義においても︶結果的に残るかぎりで は 、 ﹁ 雇用レント説 ﹂ による所得再配分としてのベーシックイン カ ムが、サーファーのようなフリーライダーにも支払われてよいとさ 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一二〇
れる余地はあろう。 第三に 、 フィッツパトリックにしたがえば 、 ﹁ プラグマティ ッ ク な議論﹂として、フリーライダーとして社会になにも有用な活動を 貢献していないかどうか見分けて、特定の個人をベーシックインカ ムの給付対象から除外するのは厄介で、そのプライヴァシーに立ち 入る監査を要し、行政コストもかかる。だから、むしろ放置してお くほうがよいという考え方もある。たしかに、サーファーもコーチ として役立つためにトレーニング中であるか、あるいはそう申し立 てれば、将来のために一般教育や職業教育を受けている人びと区別 して、ベーシックインカムの給付に不適当なフリーライダーである と認定するのは、厄介な行政作業となりうる。 それに加え、当面実施可能なのは部分的ベーシックインカムにと どまるであろうから、なんらかの稼得収入による補足が必要となる はずで、たんなるフリーライダーとしてベーシックインカムの受給 者にとどまる選択は、自由であるとしても、高い代償をともなうこ ととなる。その代償をさける努力をしても適合的就労機会に恵まれ ず、結果的に失業状態にある人びとであれば、ベーシックインカム の受給はとうぜん認められてよいはずである。 いずれにしてもこの﹁プラグマティックな議論﹂の二面は、労働 力の商品化を基本前提とする資本主義では、市場労働へのインセン ティブやそれを介しての労働配分の需給調整機能を確保するために も、完全BIに到達することは期待できないし、その点は市場社会 主義についても同様であるとみるなら、その双方の社会システムに かんし程度は異なれ、あてはまるものとなろう。もともと資本主義 を こ える社会主義社会において 、 十分な生活保障が実現された後 に、労働や社会的に有用な活動に個人がどのように自発的に参加す る動機や誘因を保持しあってゆけるか。市場社会主義の可能性をふ くめ、民主的社会主義の多様な未来にとって、重要な課題がそこに 残されていたともいえる。 第四に、ベーシックインカムは本来、人びとが生きてゆくうえで の個性の自由な発揮、それにともなう多様な生活の選択の自由を最 大限に尊重しようとする実験を促しているのであるから、それにと もなうある程度のフリーライダーの存在は、受け入れられなければ ならない社会的代償とも考えられる。フィッツパトリックはこの発 想を﹁プライスタグ説﹂としているが、その名称はややわかりにく い。しかし、彼は右にみた第三の﹁プラグマティックな議論﹂との 関連でも、実際にはこの問題はさほど深刻でない、とみている。ま たこの﹁プライスタグ説﹂の説得力は、人びとのあいだの個性や多 様性の尊重と、互酬性の尊重との両側面をどうみるかで変わりうる とも指摘している。その注意もうなずけるところである。その点は ベーシックインカムの思想と理論 一二一
社会主義社会にとっても妥当する指摘ともなりうる。 こうしてみてくると、ベーシックインカムがフリーライダーにも 受給されてもよいとするなら 、 第三の ﹁ プラグマティックな議 論 ﹂ での二面に根拠をおいておくのが、当面わかりやすいのではないか と考えられる。そのさい、こうしたフリーライダーの可能性をめぐ る検討が資本主義と社会主義との特質の相違をあきらかにするとと もに、程度の差はあれ同型の争点解決案を資本主義と市場社会主義 とに生じうることにも興味をひかれる。
四
規模と財源
日本におけるベーシックインカムの論議がとみに活発となる発端 となったのは、小沢修司︵ 2002 ︶によるこの構想の紹介と日本にお ける一人月額八万円のベーシックインカムの規模での配分とその財 源の試算であった。そのさい、小沢は、この構想をつぎのように定 義していた。 ﹁ ベーシック ・ インカムの構想とは 、 結婚の有無 を 問 わ ず、す べ ての個人︵男女や大人子どもを問わず︶に対して、ベーシック・ ニーズを充足するに足る所得を無条件で支給しようという最低限 所得保障の構想である。社会保障給付︵租税ならびに社会保険に よる︶のうち現金給付部分︵ ﹁保険﹂ ﹁扶助﹂ ﹁手当﹂ ︶をすべてこ れに置き換え、その財源を勤労所得への比例課税ならびに各種所 得控除の廃止に求めようとする租税 = 社会保障改革構想なのであ る。 ﹂ ︵小沢、 2002, 一〇〇ページ︶ 。 この規定は、さきにみたパリースの定義とあきらかに異なり、小 沢自身のベーシックインカムの解釈を織り込んでいる。とくにBI の構想は︵資本主義経済を前提したうえでの︶租税 = 社会保障改革 構想であるとしているのは、欧米での論議との対比で読めば、あき らかにその幅を狭く限定しすぎている。社会主義者からのこの構想 の提示・展開の試みやその貢献の意味も正確に理解されえないこと になる。パリースがベーシックインカムは、ベーシック・ニーズに 足りないこともそれを超過することもありうると述べていたことに はそのような配慮が込められていたと思われる。これに対し、小沢 は ベ ーシックインカムをベーシック ・ ニーズを満たすものと規定 し、生活保護の生活扶助の水準︵都会での一人暮らしで約八万五〇 〇〇円︶ 、老齢基礎年金︵満額で約六万七〇〇〇円︶ 、障害基礎年金 ︵ 一級で約八万四〇〇〇円 ︶ などを参考にして 、 ベーシックイン カ ムを一人月額八万円と想定していた。 一 人 月額八万円のベーシックインカムは年額で九六万円となる 。 日本の人口を一億二〇〇〇万人として、総額一一五兆二〇〇〇億円 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一二二を要することとなる。小沢︵ 2002 ︶は、二〇〇二年度の給与総額二 二二兆八〇〇〇億円の各種所得控除を廃止し、その全額へ比例課税 して、この一一五兆円を調達するとして五一・六%、およそ五〇% のBI所得税となるとしていた。その後、小沢︵ 2008 ︶は、分母に 給与所得のみでなく、申告所得税に関わる個人所得も加えて、BI 税率はおよそ四五%に低減されうると﹁修正﹂を加えている。それ によって試算すれば 、 七〇〇万円の年収がある四人家族 ︵ 片 働 き 、 二人の子どもでうち一人は特定扶養控除対象︶の場合、現行制度下 では社会保険料と所得税を控除すると家計所得は六一三万四五〇〇 円となるのにたいし、BI導入後は、現物︵医療、介護など︶給付 の社会保険料として所得の四%、二八万円を控除し、残る所得に四 五%のBI税が控除されるとみて、家計所得はそれらを控除した三 六九万六〇〇〇円と四人分のBI、三八四万円との合計七五三万六 〇〇〇円となり、 一四〇万一五〇〇円の所得増となる、 とみている。 この試算では、BI導入にともない、現金給付としての社会保険 は国民年金をふくめ、 BIに統合されるものとしている。 とすれば、 斉藤拓が指摘しているように、そこにBI導入に回せる財源が浮い てくることにならないか ︵ 立石真也 ・ 斉 藤 拓 ︵ 2010 ︶ 、 二八六ペー ジ ︶ 。 おそらくこ うした指摘も考慮して 、 小 沢 ︵ 2009 ︶は、BIの 導入により、年金をこれに一本化して社会保険料四四兆七〇〇〇億 円など社会保障の現金給付部分約五〇兆円と、所得控除を廃止する ことで期待できる税収増加二〇兆円余とをあわせてBIの財源に回 せば、現行税制の基本構造のもとでも月約五万円のBI支給は可能 となるとする構想も示している。 いずれにせよ、こうした制度設計にさいしては、従前の各種税負 担やその他の公的負担との統合関係での負担と給付のさらに細かな 検討も必要となろう。また、追加的労働所得をえにくいうえ、医療 費もかさみがちな老後の生活に不安を生じないよう、年齢別ニーズ の差異にも配慮を要するのではなかろうか。また家計をともにする 人数が増すほど、生活費における規模の経済効果が働き、逆に﹁お ひとりさまの老後﹂にきびしい制度にならないか。個人の自由を尊 重するはずのBIの理念が、現実には家族などの共同生活を有利と する作用に反転する可能性もふくんでいる。その点をどう補整しう るか。BIの規模と財源のあい関連した争点には、その制度設計の 全 影 響になお幾重にも慎重な検討を要するところがある 。 現実に は、社会構成員に一律な給付としない、子ども手当のような社会的 ニーズに配慮したBIの漸進的な制度設計が、受け入れられやすい 面もあるにちがいない。 なお、こうした検討をすすめるさい、小沢は、BIの財源をもっ ぱら勤労所得への比例課税に求めているが、それは、ひとつにはB ベーシックインカムの思想と理論 一二三
Iと引き換えに、社会保障的な意味をもつ所得税の各種税額控除を 廃止する社会保障改革案としての発想にもつらなるところと解釈で き る 。 し か し 、 そ れ とあわせて 、 小 沢 ︵ 2009 ︶ は 、 ﹁ 私たち全員の 生活を維持するためのBIは、私たち全員の労働により毎年新たに 生み出される価値︵所得︶から調達されるのが相応しいと﹂とも述 べている 。 しかし 、 それは 、 労働により生み出 される価値 ︵ 所 得 ︶ は、いわゆる ﹁勤労所得﹂ に限られており、企業利潤や利子などは、 年々の労働が新たに生み出す剰余価値ではなく、資本が生み出す価 値であるとする物神的な理解によるものとも読める。とくにマルク ス学派の価値論からすれば、大いに疑問が残る規定である。現代的 なベーシックインカムの基本となる財源を考えるさいに、古典派経 済学以降多年にわたる理論経済学上の剰余価値源泉をめぐる争点が はからずも再浮上することにもなっている。そこでかりに営業余剰 ︵九〇︱一〇〇兆円︶も毎年の労働が生み出している新たな価値で、 その意味でBIを支える所得の分母に加えてよいことになれば、さ きの小沢︵ 2008 ︶の試算のBI税率はさらに低減されることになり うる。村岡︵ 2010 ︶の指摘している企業や宗教法人への法人税の軽 減 や優遇措置の廃止などもそこにふくまれてよい 。 しかしそれは 、 さきにもふれたように、資本主義経済の基本前提にかなり踏み込ん だ変革案とみなされることともなりうる。 いずれにせよ、フィッツパトリック︵ 1999 ︶も小沢︵ 2008 ︶もみ とめているように、ベーシックインカムの導入は、当面、財源の制 約もあって、過渡的BI、参加所得や部分BI、などを経て漸次支 給水準を高めてゆくことをめざし、順序をふんで漸進的にすすめら れてゆくしかないであろう。日本ではじめられた子ども手当の支給 は、イギリスに労働党政権下で一九七八 − 七九年に導入された児童 給付 ︵ Child Benefit ︶ に続く 、 過渡的 B I の第一歩と考えることが できる。そこからつぎに社会成員すべてに無条件で支給される部分 BIが導入可能かどうかが、その規模や財源とともに当面の争点と なってゆくのではなかろうか。 理論上興味ある問題は、そのさきに完全BIを、資本主義市場経 済のもとでの社会保障改革の枠内で構想できるかどうかである。ひ とつには、マルクスによって宇野学派の恐慌論が重視してきたよう に、完全雇用状態が実は資本主義経済にとっては危機的な資本蓄積 の困難と不安定性をもたらすことからしても、むしろ完全BIの実 現は、資本主義のもとで、労働市場の弾力的な機能を損なうおそれ が強い。それは、事実上、資本主義市場経済の基本前提とする労働 力の商品化の止揚にごく近いものであり、社会主義社会においての み期待できるゴールではないかと考えられる。しかも、さきにもふ れたように、市場社会主義においても、完全BIは労働市場の調整 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一二四
機能に障害を生ずる公算が高いので、それをどうのりこえて完全B Iの理念実現にいたるかは、社会主義にとってすらそう容易な課題 とはいえない。この点は、日本ではもとより、欧米でのベーシック インカム論でもこれまで理論上かならずしも明確にされてきている とはいえないのではなかろうか。 同時に、現金給付としてのBIのみでは、医療、ケア、教育など の広い分野で公的サービスの施設や人手の拡充が求められているニ ーズに応えられないという限界もある。後者の拡充にしたがい、完 全BIの給付水準自体も、望ましい部分BIの水準もまた変化しう ると考えるべきであろう。 いずれにせよ、 資本主義経済のもとでは、 ベーシックインカムは、 労働力の商品化による賃金所得を基本的には生活上不可欠なものと し、剰余労働の資本による搾取関係と接合可能なかぎりで、部分B Iとしてのみ導入されるにとどまる公算が高い。そうなると、ベー シックインカムの導入が、先駆的事例の一つとされているスピーナ ムランド制のもとで、生活補助によってイギリスでの労働賃金の抑 圧と雇用条件の劣悪さが一面で緩和されつつ、他面でそれを助長す る役割も果たしていたとされる作用が現代的にも生ずる危険も残り 続ける。 企業の側からすれば、 ベーシックインカムを緩衝材として、 いま広がりつつある低賃金の不規則・不安定な雇用形態をさらに自 由に利用しやすくなることを期待することになりやすい。その意味 でも、ベーシックインカムは、その構想が本来求めているすべての 人びとの経済生活の安定と自由の拡大にむけて、けっして万能薬的 な方策とは考えられない。その意味でベーシックインカムの実現を 自己目的化することも適切ではない。その実現や実施過程でも、ど のような社会理念にむけてその運用が図られるのかが問われ続ける ことになるにちがいない。 ことにその構想が当面、資本主義のもとで部分BIとして実現さ れてゆくかぎり、 経済生活の安定を保障しうる賃金水準 ︵最低賃金︶ と雇用期間、雇用機会の確保が可能となるような政策や労使関係の 規制、医療、ケア、年金、教育をめぐる公共的サービスの拡充、そ れ ら を求める労働者 、 市民の組織的社会的運動の尊重と助成など が、同時に求められてゆかなければ、働く人びとや社会的弱者の生 活の安定に十分つながらないおそれがあるといえよう。
五
ベーシックインカムとマルクスの思想と理論
マルクスの思想と理論は、以上にみてきたようなベーシックイン カムの構想とどのような親和性をもつであろうか。あるいはその構 想に、どのような貢献や示唆を加えうるであろうか。さらにその検 ベーシックインカムの思想と理論 一二五討をつうじ、マルクスの思想と理論に現代的な再考を求められると ころはないか。 マルクスは、古典派経済学の労働価値説を批判的に継承し、労働 力の商品化にもとづく資本主義経済の原理を体系的に解明した。そ の し く みのもとで働く人びとの剰余労働が剰余価値の源泉となり 、 生産力の上昇も剰余価値増進の手段とされることとなり、労働者の 大多数は不安定で疎外された経済生活をよぎなくされ、貧困問題も く り かえし生じざるをえないことを明確にしている 。 それによっ て、労働者の結束した社会運動にもとづき﹁自由な個人のアソシエ ーション ﹂ ︵ Marx, 1867, 邦訳 ① 、 一四五ページ ︶ に変革を求める 社会主義の主張に学問的根拠を与えようとしていた。こうした変革 をつうじ、生産手段が公有化されて無階級社会が実現され、働く人 びとすべてが社会の主人公となれば、資本主義がその発足にあたり 理念として掲げた自由 、 平 等 、 人権も 、 経済生活の実質 において 、 はじめて保障されることになる。こうしたマルクスの理念は、あき らかにベーシックインカムの構想と親和性がある。とくにベーシッ クインカムの水準を上昇させる可能性は、パリースも認めていたよ うに、最適社会主義において容易に資本主義をしのぐものと期待さ れうる。現代の有力なマルクス理論家にもベーシックインカムの構 想が支持を広げているのは、こうした理念の親和性によるものとい えよう。 他方、資本主義経済を前提しつつ、所得再配分による社会保障制 度やその改革案としてのベーシックインカムの過渡的ないし部分的 導入案については、マルクスにこれにつうずる発想をみいだすこと は難しい。そこで、マルクス学派の﹁正統派﹂もベルンシュタイン らによる社会民主主義的改良の肯定的評価につき、資本主義の階級 性とその革命的変革の方針をあいまいにする﹁修正主義﹂として全 面否定する傾向があった。日本の宇野学派からすれば、この修正主 義論争には、資本主義の新たな発展段階論の用意を欠くまま、マル クスの原理的規定の妥当性が直接一九世紀末以降の時代について争 われていた点に問題があった。生産力を格段に上昇させ、二度にわ たる世界戦争や大恐慌の危機をも経て、労働者階級にも融和的な譲 歩や所得再配分がおこなわれる余地が拡大されてきた二〇世紀なか ば以降の先進資本主義諸国について、社会保障制度の北欧的な拡充 や、ベーシックインカムによるその改革案をひとつのステップとし て社会主義への進路を展望するユーロソシアリズムの発想が、マル クス学派にもあらためて有力視される現実的背景が広がってきてい る。とくに官僚主義的な集権的計画経済に依拠したソ連型社会主義 の危機と崩壊の過程で、欧米マルクス派の理論家のなかに、ベーシ ックインカムの構想への支持が広がってきている。その発展段階論 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一二六
的な主張の論拠をあきらかにすることは、おそらく周辺途上諸国に いぜんより急進的革命運動がくりかえし生じていることへの理解と あわせて、現代世界の構造とそのもとでの諸社会の進路の多様な選 択可能性についてのマルクス学派にとっての新たな考察課題をなし ているように思われる。 マルクス︵ 1875 ︶は、革命後の﹁共産主義社会の第一段階﹂につ いては、労働に応じた配分がおこなわれ、したがって﹁平等な権利 は、不平等な労働にとっては不平等な権利である﹂とし、そのかぎ りで ﹁ ブルジョア的権利 ﹂ が残ると想定し 、 ﹁ 各人はその 能力に応 じて、各人はその必要に応じて﹂という労働と配分の関係は、協同 的富の源泉が豊かになった共産主義社会の高次段階ではじめて実現 可能になるとしていた。 こうした規定から、 マルクス学派は、 各人の必要に応じた配分を、 遠い未来社会に到達可能となる生産力段階を要するものと考えすぎ てきたのではなかろうか。革命後の社会主義社会ではもとより、現 代 の先進資本主義社会においても 、 労働に応じた分配とあわせて 、 各人の必要に応じた分配も、社会保障制度やその改革案としてのベ ー シックインカム構想には 、 少なくとも部分的には取り入れられ 、 拡充されてゆく余地があることが示されつつあると考えられる。ベ ーシックインカムの論議をも介し、現代のマルクス学派は、マルク スのこうした 未来社会の二段階規定に再考を加えてよいと思われ る。 他方、共産主義の低次段階では、労働に応じた配分に不平等なブ ル ジョア的権利が残る 、 とされていたことにも再考の余地がある 。 マルクスは価値論において 、 複雑労働は 、 教育訓練を要するだ け 、 労働力の価値が高く、その労働はおなじ一時間で単純労働の何倍か にあたる労働時間を生産物に対象化することになるという、古典派 経済学以来の規定を残していた。しかし、労働過程論で、マルクス は、他の動物の生命維持活動と異なり、人間が働くさいには、みず からの目的をあらかじめ構想し、合目的的に意志を発揮して目的を 実現する広い構想と実行の可能性を共有しているという認識を提示 していた。この広い人間の潜在的労働能力は、それぞれに異なる具 体的有用形態に支出されて社会的分業を形成するさいにも、基本的 には互換的で通約可能な抽象的人間労働の同質性を支えているとこ ろであり、またそこに人間社会の労働にもとづく平等性、経済民主 主義の究極の基盤も求めることができるのではないか。そのような 認識に立てば、教育や訓練を積んだ複雑労働も単純労働もともに抽 象的人間労働の同質的な支出をおこない、時間経過にしたがい、同 等な社会的貢献を果たしているとみなすことができる。複雑労働力 の使用価値として、その労働支出が同じ一時間でも単純労働力の何 ベーシックインカムの思想と理論 一二七
倍かの労働実体を形成しうるというマルクスの規定は、こうした観 点から是正したいところなのである。むろん、複雑労働力の形成に 特別に要する教育訓練の ︵労働︶ コストは、公教育によらなければ、 複雑労働力の再生産に要する価値を高めることとなる。しかし、複 雑労働力の使用価値としての労働支出の面では、単純労働力のそれ と同等な人間労働の異なる有用形態での支出にほかならず、その時 間を強められた何倍かの労働時間として扱う必要はないのではない か︵伊 藤、 1984 ︶ 。 こうした価値論でのマルクスの複雑 労働の取扱 いの訂正が許容されるならば、マルクス価値論をめぐるこの点での 批判の多くは理論的に筋をとおして解決しうることになる。と同時 に、ベーシックインカムの構想にふくまれる人間生活の平等な保障 を求める発想に、マルクスの労働・生産過程論やそれにもとづく価 値論は、いっそう親和性を増すことになりうる。 その発想はまた、フェミニストが強調してきた家事労働やそこに ふくまれるケア労働を、資本主義のもとでの市場労働と異質で区別 されるべきものとする見解に批判的に対峙し、広く非市場労働の社 会的貢献についても、人間的労働の社会的関係性を認識してゆく理 論的前提を整えることになるであろう。資本主義経済のしくみのな かでは、それらの非市場労働は価値や剰余価値を生むものとしての 役割を認められていないのであるが、社会的再生産やそのためのニ ーズを満たしてゆくためには、 必要とされている。 その担い手にも、 ベーシックインカムが配分される構想は、マルクス価値論の基本認 識と少なくとも相反するものとはならない。マルクス価値論は、市 場経済に組み込まれているかぎりでの労働にもとづき資本主義経済 で取得される貨幣所得の社会的関係が、どのような意味で階級関係 を内包し、非市場労働がどのようにそれを介して差別や抑圧をとも ないつつ社会的に維持編成されてゆくかを分析するためにも、理論 的基準として役立てられてよいものと考えられるからである。とく に宇野学派がマルクスから読み取って強調している、労働・生産過 程 論で扱われる諸社会をつうずる経済生活の基本原則 ︵ 経済原則 ︶ と、資本主義市場経済が労働力の商品化にもとづき、市場経済の特 殊な諸形態のもとにこれを組織し内包するかぎりで示される経済法 則との理論的な区別と関連が、この点でも重要な示唆を与えうる。 さらにさきに指摘したように、資本主義の基本前提としている労働 力の商品化の困難に論拠をおく、マルクス恐慌論の宇野学派による 展開が 、 資本主義のもとではもとより 、 市場社会主義のもとで も 、 完全BIの理念実現に重大な困難がひそむことを理論的に示唆する ことも興味ある論点をなしている。 こうした論点をふくめ、べーシックインカムの構想との親和性を 問い直すことは、マルクスの思想と理論に幾重にも現代的な再考を 日本学士院紀要 第六十五巻 第二号 一二八
せまるところがあり、いま学問的にも関心をひかれる問題群がそこ にも伏在しているように思われる。 注 ︵1︶エスピン・アンデル セ ン︵ Es pi n-Ande rs en , 1990 ︶ に よれば 、 福祉国 家には 、 ① アメリカ 、 カ ナダのような最低限の社会保険プランによ る 自由主義的福祉国家 、 ② フランス 、 ドイツ 、 イ タリアなどの伝 統 的 家 族制度や国家の役割を重視する保守主義的福祉国家 、 および ③ スカン ジナビア諸 国に示される個人の自律を最大化する方向での高い水準で の 平 等化をめざす社会民主主義的福祉国家の三類型が検出される 。 こ の分類によれば 、 ベーシックインカムは 、 そ の個人主義的で平等な基 本 所 得保障の重視において 、 あ きらかに北欧型の社会民主主義的福祉 国家の系譜をひくものと考えられる。 ︵2︶そ れ に と も な い、D・ハ ー ヴ ェ イ が 指 摘 し て い る よ う に、 ﹁個 人 的 自 由 を神聖視する政治運動はいずれも 、 新 自由主義の囲いにとりこま れやすい﹂ ︵ Ha rv ey , D ., 2005, 邦訳、六二ページ︶傾向が生ず る こ と に もなった 。 すなわち 、 一 九六八年の政治反乱のなかで個人の自由と社 会的公正とがともに求められていたなかから 、 リバタリアニズム ︵ 自 由至上主義︶ 、アイデンティティ・ポリティックス、多文 化 主 義 、ナ ル シ ス ト的コンシューマリズムを分裂させる傾向を 、 新自由主義のレト リックが与えることにもなっていた︵同、六三ページ︶とみてよい。 ︵3︶な お、ミ ル ト ン・フ リ ー ド マ ン︵ Fr ie dma n , 1962 ︶ の 負 の 所 得 税 ︵ ne ga tiv e inc ome ta x︶ の 提 案 も と き に 類 似 の 構 想 と さ れることがある 。 しかし 、 フ リードマンの構想は 、 従 来の所得税のしくみを前 提 し 、 資 力 調 査をともなうもので 、 社会構成員に個人単位で無条件に一律な給 付を与えよ うとするベーシックインカムの構想とは異質なところがあ る。 ︵4︶たとえば、日本でのベーシックインカムの構想をめぐる本 格 的 な 諸 研究を喚起した小沢修司 ︵ 2002 ︶ は 、 ト ーマス ・ ペインを 端 緒 と す る これにつうずる諸提案をふりかえるさいに、 エドワード・ベラミー、 オ スカー ・ ラ ンゲには論及せず 、 現 代のアナレティカル ・ マ ルクス 派 と してのローマー 、 パ リースらの貢献に着目する松井 曉 ︵ 1999 ︶に よ る その紹介に言及するにとどめている 。 それは 、 ベーシックインカムの 構 想 を 主 として資本主義市場経済内での社会保障制度の改革案として 取り扱う 、 問 題関心に制約されてのことといえよう 。 その取り扱いの 問題点は 、 そ の後の日本の研究の多くにひきつがれつつあり 、 た とえ ば田村哲樹もベーシックインカム︵BI︶は、 ﹁経済構造の根 本 的 変 化 を目指すものではない。BIは、 ﹃資本主義社会の基本的な枠 組 み を 受 け 入 れ ている ﹄ の である [ W right 2006 : 9 2] ﹂ ︵ 武川編 ︵ 2008 ︶ 、 八 六 ページ ︶ と 保守的解釈をとっている 。 パリース ︵ 1995 ︶ の 邦訳者のひ とり、斉藤拓も、みずからを ﹁ 市場原理主義者﹂ と規定し ︵立石真也・ 斉藤拓︵ 2010 ︶ 、二五九ページ︶その基礎としてハイエクの動 態 的 効 率 性論 、 イノベーション促進的市場観の意義を強調している 。 そのため と う ぜんとはいえ 、 パ リースの指摘しているランゲの市場社会主義論 に お け る ベーシックインカム構想への貢献は無視することとなってい る。 文献 伊藤誠 ︵ 1984 ︶ ﹁ 熟練労働の理論的取扱いについて ﹂ 、 山 口 重 克 ・ 平 林 千 牧編 ﹃マルクス経済学・方法と理論﹄ 時潮社、 ﹃伊藤誠著作集﹄ 第一巻、 社会評論社、二〇一〇年。 上野義昭 ︵ 2010 ︶ ﹁ ベーシックインカムと社会主義 ﹂ 、 ﹃ 科学的 社 会 主 義 ﹄ 一四六号、六月号。 小沢修司︵ 2002 ︶ ﹃ 福祉社会と社会保障改革︱ベーシック・イン カ ム 構 想 ベーシックインカムの思想と理論 一二九