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『ピーター・パン』における子供とイングリッシュネス―ダーリング家とネヴァーランドというホーム―

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―ダーリング家とネヴァーランドというホーム―

金  子  幸  男

西 南 学 院 大 学 学 術 研 究 所 英 語 英 文 学 論 集 第 56 巻 第 2 ・ 3 号 抜 刷 2  0  1  6 ( 平 成 28 )年  3  月

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『ピーター・パン』における子供とイングリッシュネス

―ダーリング家とネヴァーランドというホーム―

金  子  幸  男

Of all delectable islands the Neverland is the snuggest and most compact, not large and sprawly, you know, with tedious distances between one adventure and another, but nicely crammed. When you play at it by day with the chairs and tablecloth, it is not in the least alarming, but in the two minutes before you go to sleep it becomes very nearly real. That is why there are night-lights. (Peter and Wendy, Chapter I)

序 論:成長ということ

2012 年ロンドンオリンピック開会式はいろいろな意味でイングリッシュネス (イギリス的なるもの)のお披露目の場面であった。中でも、国民保健サービス (National Health Service)に勤める現役の看護師たち(Great Ormond Street

Hospital)がダンスを披露し、多数の病院のベッドの上で子供たちが眠る場面 を覚えている者も多いだろう。ふとんをかぶりながら、子供の本を広げて読ん でいる子供たちに向かって、J.K. ローリングがファンタジーを朗読する場面は、 児童文学がいかにこの国を代表するものであるかを示していたと言ってよい。 本論文の冒頭に掲げた一節は、その際にまさに彼女が朗読した一節なのである。 つまり彼女は数あるファンタジー物語、児童文学の中でもピーター・パンの物 語を選んだのである。それほどまでにイギリス人の想像力をとらえたこの作品 は、ジャクリーン・ローズ(Jaqueline Rose)が言うように、“It is in fact

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remarkable how often ‘Englishness’ and childhood innocence appear as mutually reinforcing terms”(xii, 太字は筆者の強調、以下の引用も同じ)を例 証するものなのである。「無垢な子供であること」がいかに「イギリス的なるも の」であるか、何とも不思議な国である。『ピーターとウェンディ』は戯曲がロ ンドンで 1904 年に初演されて以来、毎年クリスマスになると上演されてきた。 物語版は 1911 年になってやっと出版にこぎつけたものの、戯曲版はさらに遅れ て 1928 年に『ピーター・パン』となって出版されている。 序論というには、少し長くなるが、このセクションでは、先行研究の紹介、 冒険物語と教養小説という観点からみた成長概念の検討、世紀末からエドワー ド朝の文化的社会的背景、本論文の目的を述べてゆく。 この作品は、有名な児童文学ということもあり、さまざまな批評が出ている。 作者バリーと、友人のデイヴィズ家の母シルヴィア及びその 5 人の子供たちと の交流に作品誕生の鍵があることを描いて見せた、バーキンによるバリーの伝 記がある(アンドリュー・バーキン)。母親マーガレット・オギルヴィーとの不 幸な関係、すなわち母が、事故死した次男でお気に入りのデイヴィッドのこと を忘れられず、バリーがどんなに努力しても母の愛情を自分にふり向けること ができなかったこと、それがトラウマとなってピーター・パンを生み出すこと になったということはよく理解できる。デイヴィズ家の父アーサーと母シル ヴィアの早すぎる死を受けて、バリーは 5 人の男の子の後見人となる。しかし、 第一次世界大戦で仲のよかったしっかり者の長男ジョージは戦死、三男ピー ターはシェルショックにかかるが後に一応は回復、バリーお気に入りの四男マ イケルが下手な水泳の練習中に溺死するなど、デイヴィズ家との幸福な交流の 時代の後に一連の不幸な出来事が襲ってきた。それがバリーに与えた衝撃はこ の伝記中の白眉であり、心動かされるところである。また、バーキンと同じよ うに伝記に着目しつつも、ピーターをキリスト像ととらえる独自の見方をして いるハンフリー・カーペンター(Humphrey Carpenter)のような批評家もいる。 バリー個人よりも彼を取りまく文化的・社会的コンテクストに目を向ける批 評家もいる。世紀末においては都市下層民の貧困と失業、都市の公害と衛生問

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題、苦戦のうえ辛勝のボーア戦争、米独による激しい経済的な追いあげ、大英 帝国の衰退感、人種の退化への恐怖などさまざまなネガティブな要素が出揃い、 それに対する反応の一つとしてナショナリズムが台頭する。たとえば田園のイ ングリッシュネスが生じ、田舎が都会の中産階級の逃避先になった。それと同 じように、エドワード朝においては子供は特別な存在となった。子供と言えば、 ロマン派の時代にブレイクとワーズワースによって始まった子供崇拝が、子供 と大人の意識や経験との統合を目ざしていたのとは対照的に、エドワード朝で は子供時代や子供の無垢が大人の退行的な逃避の場、ノスタルジアの牢獄に なったという(ピーター・カヴニー)。ジリアン・エイヴェリー(Gillian Avery) はエドワード朝の子供崇拝について、さらに一歩を進めて次のように言う。ヴィ クトリア朝の道徳的に厳しい両親への反発から、この時代の両親は愛の繭の中 に子供をくるんで大事に育て、真実をうちに秘めた存在として子供を重要視す る。ファッションやインテリアの飾りとして子供をとらえる。17 世紀から 19 世紀までは、嘘の同義語としてピューリタンによって否定されてきた想像力が 19 世紀には徐々に復権し始め、遊びや妖精崇拝の格上げがなされ、きわめて盛 んになる。さらには、イギリス的な未熟さの崇拝(English cult of immaturity) はヴィクトリア朝にすでに存在していたと言う。この点は松村昌家も無垢な子 供における「成長の停止願望」という言葉で同様の指摘をしている。エイヴェ リーは、“The Peter Pan type of childhood, where maturity was delayed as long as possible and the child held back from reality, was a product of the early twentieth century and vanished after the Second World War.”(184)で あり、きわめて中・上流階級的現象であり、“exclusively English” であると言っ ている。これは言いかえれば、子供のイメージがイギリス的なものであるとい うことを意味する。 これに対してコンテクストよりも作品世界内部に焦点をしぼるジョン・ロ ウ・タウンゼントのような批評家もいる。彼は作品の語りの声の統一性、ファ ンタジーの質の統一性があるかないか、という新批評的な基準を持ち出してこ の作品を失敗作であると断じている。彼は大人の語り手が子ども向けに語る部 分と、大人の聴衆を想定して語る部分が併存している点が不自然であるとして、

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この作品を拒絶、また、現実世界のファンタジーとネヴァーランドのファンタ ジーとが異質のものとなっており結びつかないため、傑作ではないと言う(タ ウンゼント 152-54)。同じく内部に焦点を絞っているのだが、さまざまな版の 間の異動を論じる R.D.S. ジャック(R.D.S.Jack)のような批評家もいる。彼は、 1904 年上演の戯曲の草稿(1903 年の日付)およびそのタイプ版(Beinecke 版、 1904/1905)がセクシュアリティへの言及など大人に訴える要素を多分に含んで いたが、徐々にそれらが減り、逆に子供に訴える要素が増えていった過程は、 当初は大人の聴衆に向けられていた作品が子供向けに改変されていったことを 意味するのだと示唆する。 自律的なモダニズムの小説世界が外部の歴史の侵入によって崩壊を被るとい う洗練された読み方をする評者もいる。富山太佳夫は、論文「閉じる、閉じな い―(ポスト)モダニズムと大英帝国」において、T.S. エリオットとピーター・ パンを類比的に並べながら、「人間の時間の外と内を往来する存在を中心にすえ た物語である」(47)ピーター・パンを読むには、「時間の内にあるものとそれ を超えるものを、同時に一緒に受けとめること」(47)が必要であると言う。さ らにモダニズム的な「閉じられた安定性と調和を持つシステム」の崩壊(49)、 つまりネヴァーランドの崩壊と時間の外に連れ出された「永遠の少年」という 図柄をそこに見ている(2003)。崩壊をもたらすのは、外部の歴史世界からの ウェンディと二人の弟の来訪、ウェンディがピーターの妻の役割を演じてしま うこと、ロスト・ボーイズが現実世界に戻って成長し市民になってゆくこと、 フック船長の死であると言う(47-55)。 さて、タウンゼントのように否定的に作品を眺める者はむしろ少数派で、肯 定的に作品をとらえている批評家の方が多いだろう。この中には主人公ピー ター・パンに着目し、時間と空間を超越した普遍的なアイコンとしてとらえる 立場から作品を論じる評者がいる。ホリンデイルは、“What Barrie added to the existing archetypes, thereby adding a powerful neomythic figure to the pantheon, was the condition of eternal childhood.” (Hollindale 24-25)、“Peter Pan” is the spirit of everlasting youthfulness, defeating the processes of

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time and age.” (Hollindale 25、下線は筆者の強調、以下の引用も同じ)と述べ、 神話的イメージ、永遠の子供、永遠の若さを強調する。これと似たような立場 から、ピーター・パンの造型のもとになった、ギリシア神話のパン神に注目し、 その生命力が人気の秘密であると指摘する松田義幸のような論者もいる。「ピー ター・パンの正体は、「大人になりたがらない」、「大人になれない」軟弱な少年 でもなければ、単なるメルヘンのヒーローでもない。最も強い生命力、旺盛な 生命力、自然の精霊、現代的表現で言えば、セックス・シンボルの半獣神パン の性格を持ち備えているのである」(44)、また、「ピーター・パンの全身を覆う 緑色は “ 自然 ”、それも単なる自然ではなく、つねに生命が芽吹き、緑の木々が 茂る生命力の旺盛なアルカディアの森を暗示している」(44)と言う。このよう に普遍的・神話的な若さのイメージ、子供のイメージを扱った物語というのが 一つの流れである。また、ピーターと牧神パンの関係を扱った山内暁彦は、バ リーの創作したピーター・パンがなぜ「パン」という姓を持っているかについ て論じている。当時のヨーロッパの詩、音楽、小説、絵画、バレエなど、さま ざまな芸術の分野でしばしば牧神が取りあげられていたという時代の流れに、 彼も大きく影響を受けていたのではないか。とりわけ、フランス絵画のミレー やブグローなどとの関係を論じている(山内 2013)。アン・ヨーマン(Ann Yeoman)は、ユングの分析心理学の観点から、永遠の少年ピーター・パンと いう原型を分析していく。神話やポピュラー・カルチャーが、ある時代、ある 社会の色調を決める意識、無意識の反映、個人的、集団的心理の反映であると する立場を取りながら、ピーター・パンの神話上の祖先である、古代の永遠の 若さを象徴する神々(パン、イカロス、ディオニュソス、ヘルメスなど)を見 てゆく。その上で『ピーターとウェンディ』の読解を試み、小説に描かれた永 遠の少年のアイコンを通して子供の心理に迫る。 さらに、岩尾龍太郎は冒険物語というジャンルの観点から、ロビンソン物語 群の系譜に属するものとして本作品を論じる。バリーは子供時代、冒険小説雑 誌の予約講読をし、母と一緒に『ロビンソン・クルーソー』を何度も読んだと いうことなので、冒険物語という観点からの分析には理がある(バーキン 26)。 ただ、岩尾はピーター・パン物語が正当派冒険物語からは逸脱した、ファンタ

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ジーの要素がかなり入っている風変わりな物語であると指摘し、以下のような 幾つかの特徴をあげている。ファンタジーの要素については、“fairy tale” とい う言葉でマーティン・グリーンも指摘していることである (Martin Green 157)。 1. 冒険の場所・経路・移動方法は出まかせ(142) 2. 冒険の主体もはっきりしない(142) 3. 冒険世界は方向性と位置を失って幻想に陥没(143) 4. 終り(目的)のない「日常」とさほど変わらぬ「冒険」を無限反復(143) 5. 出発―冒険―帰還の時間構造、本国―外地の空間構造は徹底的に相対化 (143) 6. ピーター・パンと子どもたちの「冒険」は、それに対する距離を欠如し ているため、成長にとっての意味を完全に失っている。これは、冒険の 場を失いながら「国民主体」として立ちあがることを要請される現代の 「少年」に生じてくる問題。行ってもいないところから帰るのは大変だろ う。(144) この中で興味深いのは、6 番で「成長」という言葉が出てくることである。成 長が意味を持たないというのは、ピーター・パンが成長を拒絶する人物である からよく理解できるが、それではそれまでの冒険物語の主人公はどのような成 長を遂げたというのだろうか。 岩尾は、始祖ロビンソンの物語を近代ブルジョワ社会の起源神話と位置づけ たうえで、この系統の物語を四期に分けている。第一期「直接的模倣譚(逃避 型恋愛冒険)譚」(1720-1762)、第二期「教育的ロビンソン」(1762-1812)、第三 期「冒険ロマン的ロビンソン」(1812-1904)、第四期「寓意的あるいは反ロビン ソン」(1904- 現代)なのであるが、第一期では、宗教性が強く、主人公の罪の 意識をバネに、神への愛、敬虔を説くのであるから、宗教的覚醒や悔悟が主人 公の成長のあかしとなる。第二期では、「子供」に要求されたのは、親や大人に 対する従順さ、無垢のイメージ、慎重・中庸・柔和・忍耐という徳目であった ということから、権威への服従、文明社会の汚れからの自由、分別を学んでい

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くところに成長の姿があったと言えよう。また、第三期の「少年」に推奨され たのは、家庭からの離脱、蛮勇に近い勇気とリーダーシップ、その背景には国 家主義の攻撃性・軍事性がある。19 世紀イギリスにおけるロビンソン物語が、 国民国家のイデオロギー統合の中心にくる作品として位置づけられたことから、 この時期の成長とは、国民国家を担うにふさわしい、心身ともに鍛え抜かれた、 男性性(masculinity)を身につけることであったと言えよう。するとピーター・ パンにとって成長の意味がなくなるとは、上で述べた三種類の成長の意味のど れをも失うということである。 作品中の成長概念の喪失については、高田英和が、ピーターには成長概念が 内面化されておらず、無垢に意義を見出し、19 世紀的成長概念から断絶された 身体をもつ内向的な人物であると指摘する。男性が結婚することで一人前にな るという概念がそもそも内在化されていないという(「マーティン・パージター とピーター・パンの間に」2012 年)。高田の場合には国民国家において国民の 再生産をする家族を作ろうとしないピーターという観点から眺めていると言え よう。 成長概念、特に 19 世紀の成長概念については、教養小説(ビルドゥングス・ ロマン)における男性主人公の成長という観点から考えてみることも、ピー ター・パンの成長についてより深く理解することにつながるだろう。 川本静子は、19 世紀から 20 世紀初頭にかけて、人間の成長を扱ったイギリ ス小説を教養小説としてとらえ、「イギリス社会が生み出した「地方出の青年」 が、経験を通して如何に苦しみながら自己成長し、社会の一隅にささやかな居 場所を得るに至ったか、あるいは至らなかったか――すなわち、主人公のビル ドゥングを主題とした小説である」(11)と定義する。1850 年代の『デヴィッ ド・コパフィールド』を皮切りに、20 世紀初頭に現れた『トーノ・バンゲイ』 (1909)、『人間の絆』(1915)、『若き日の芸術家の肖像』(1916)までを代表的な 教養小説として、全部で 13 作品を川本は分析している。ここにビルドゥングと は主人公の人間形成の意味であり、作者の自伝的要素が色濃く現れ、主人公は 市民としてのあるいは芸術家としてのイニシエーションを経験する。具体的に

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は父の試練、金の試練、女の試練という三つの試練を受ける。この主人公は幼 児期、少年期、青年期を経て成人し、社会に自分の居場所を確保するのである が、そこにある歴史観は、「変革」(Revolution)ではなく、「発展」(Evolution) である。言い替えれば、人間の個人的過去を重視し、「過去」から「現在」への 「時」の経過において「自己」を把握しようとする欲求が教養小説の底流には流 れているということである。ただし、もう少し細かく見ていくと、19 世紀半ば から 20 世紀初頭へと時が下るにつれて、教養小説のパターンに変化がみられ る。中産階級的生活理想にもとづいて、紳士としての自己形成をして社会の中 に指導的場所を確保するというのが教養小説のパターンであったのが、20 世紀 初頭になるにつれて教養小説の主人公は、世間に背を向け、中産階級的価値体 系から離れてゆき、紳士階級の理念は主人公をしばる力を次第に失う。代わっ て登場するのが、「芸術家の自己形成」であり、「紳士」から「芸術家」へ、エ グザイルへと教養小説は展開する(7-32)。 20 世紀初頭については、同じビルドゥングス・ロマンという言葉は使っても、 “late Bildungsroman” としてそれ以前のドイツ、フランス、イギリスで現れた ものとは区別して論じる者もいる。Franco Moretti は、トマス・マン以降の晩 期教養小説の特徴として以下のように述べる。

In the nineteenth century, the wisdom of adults had been a constant, critical counterpoint to the hero’s adventures. But from Mann onwards countless stolid professors will suggest that, as soon as they become professional teachers, adults have nothing left to teach. Youth begins to despise maturity, and to define itself in revulsion from it. Encouraged by the internal logic of the school—where the outside world disappears, while grades overdevelop the sense of the slightest age difference—

youth looks now for its meaning within itself; gravitating further and

further away from adult age, and more and more toward adolescence, or

preadolescence, or beyond. If the twentieth century heroes are as a rule

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relevant symbolic process is no longer growth but regression.(231) 若者が成熟を軽蔑し、成熟に反発しながら自己を定義し、青年期、前青年期に 関心をよせ、20 世紀のヒーローは成長ではなく退行のシンボルとモレッティが 述べるとき、それでも教養小説と言えるのかどうかという疑問はわく。しかし、 川本の言葉を借りれば、芸術家が自己形成を、社会的成熟という考え方に反発 して行う芸術家小説、社会に背を向ける者の小説としての教養小説は成り立つ ということが言えなくもない。 川本とモレッティの考え方を踏まえてピーター・パンを眺めてみよう。成長 概念が内在化されていないといわれるピーター・パンは、過去から現在に流れ る個人の成長という時間の外に位置しているのであり、それは社会化の拒絶で もあるから歴史の外にいるということでもある。したがって、父との対決もな ければ、お金で苦労することもない、母親という形以外に、恋人や結婚相手と いう意味での女性とは無縁である。よってイニシエーションもなければ市民社 会に居場所を得ることもない。幼児期に母親に拒絶されてネヴァーランドの住 人になってからというもの、どんな家庭にも属さず、どんな社会にも属さず、 どんな国家にも属さない、永遠に遊んでいる姿でとらえられる子供というアイ デンティティしか持たない存在、それがピーター・パンである。しかし、この ピーターは、晩期教養小説が掲げる成熟の軽蔑、幼児期への退行という特徴に はあてはまると言えよう。ただ、ネヴァーランドは異界として設定されている ので、教養小説と呼ぶには無理がある。あくまでもファンタジーと冒険物語が 融合したものととらえるのがいいだろう。 ここからは、エドワード朝において成長が否定されるピーター・パンのよう な表象が現れてきた、文化的、社会的背景について少し眺めてみよう。エドワー ド朝よりも少し前の時期への言及になるが、エレイン・ショウォーターは著書 『性のアナーキー』について、「十九世紀の末の特徴となっている性の危機と黙 示録にかかわる神話、隠喩、イメージの研究であり、それが英米の文学、美術、 映画にいかに表象されたのかを研究する」ことを目的としたものであり、1880

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年代、90 年代をギッシングにならって「性のアナーキー」の時代と呼んでいる (以下第 1 章の一部をまとめる)。アナーキーという危機的状況がもたらす世紀 末の不安は、性・ジェンダーの面だけではなく、人種、階級、ナショナリティ にも及んでいる。 文化が不安定化し、逆行や退行の不安がつのる時期になると、ジェンダー、 人種、階級、ナショナリティの定義をめぐる境界線上の規制を厳しくした いという願いがとくに強くなる。それぞれの人種を本来の土地に封じ込め、 各階級を都市の固有の地域に足止めし、男と女を別々の領域に固定してお くことができるならば、黙示録的な世界はくい止められるし、千年周期の 大変動という亡霊を前にしても心安らかにアイデンティティと永続感を維 持してゆけると、多くの人が思ってしまうのだ。(6) 定義をめぐる問題が生じたということは、境界線が曖昧になりつつある時代状 況があるということであり、おそらくはそれが 20 世紀初頭にも継続し、その反 動として境界線を強化しようという動きが見られるということであろう。ピー ター・パンとの関連で言えば、成長して男らしさ、女らしさを身につけること に対する不安が生まれてきたために、子供のままでいてほしい、ややこしい青 年、大人にはなってほしくないという大人の欲求が生まれてきたとしても不思 議はないであろう。これは冒頭で述べたエドワード朝の子供崇拝とも関係する 欲求である。このようなジェンダーの不安定な状況下、男性は従来のジェン ダー役割を守ろうと躍起になる。英米の男が女性参政権反対グループを組織し、 フランスの反フェミニスト文学が台頭(ゾラなど)、絵画においては女性嫌悪 (女のナルシシズム、宿命の女、スフィンクス、鏡像に接吻する女、円形の浴槽 に映った自分を見つめる女、オナニーに浸る女、こういったイメージが世紀末 には、女の性を描く狂暴なほど「女性的な」形象に変貌)が顕著になった。こ のように女性の去勢力に対して男は恐怖を抱いただけではなく、積極的に男の 力を誇示しようという方向もあった。ただし、それはかえって男の活力の弱体 化に対する不安を表しているとも言えよう。帝国主義的政策と力強い男らしさ

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のイメージが結びつき、スポーツする運動選手、筋肉質の肉体が男らしさとし て讃嘆された。特に男性性の構築を担ったのが、「クラブランド」(すべての階 層に提供され、家庭生活にとって代わるものを提供)で、パブリック・スクー ル付属組織やオクスフォード、ケンブリッジの男性組織の延長のようなものが 存在した。このようにして、男と女を分けている空間的、社会的な境界線を強 化する方向へと向かっていったのである。  男性性と帝国主義の密接な関係についてはジョナサン・ラザフォード (Jonathan Rutherford)も論じているが、帝国主義が称揚する男らしさは、感 情とセクシュアリティを抑圧し、母親への固着をもたらし、女性嫌いと男同士 の感情的な絆を促すものである。スポーツと愛国主義、戦争とスポーツを重ね 合わせる視点(『ホームズの世紀末』)については富山太佳夫が提供しており、 二人ともすぐ上で述べた主張を補強してくれる。岩井学も「大英帝国の衰亡を 目の当たりにしていた 20 世紀初頭英国の上流、中流階級の抱いていた不安や焦 り、そこから生まれた愛国主義的イデオロギー、そしてそれを流布させる装置 として機能した当時の教育、といったものからテクストを読み解き、ピーター・ パンとその仲間の少年たちを描くことが当時のイギリスでどのような意味を持 ちえたのか、そしてこの小説全体には当時の閉塞感がどのような形で現れてい るのか」(85-86)に深い関心を示している。 アン・ウィルソン(Ann Wilson)は、テクノロジーの発展、特に職場のテク ノロジーの発展と帝国の没落、退化が、中産階級の不安定性、特に、男性性の アイデンティティ(男らしさの考え)の変化による不安を生みだしたのだと言 う。

Peter Pan is a fable of modernity, anxiously negotiating industrial

technologies that produced a middle class predicated on instability and

which encoded impossible roles for men and women. Given the circulating ideologies of manliness that involved notions of their agency, of being patriarchal masters in their immediate households and in that enterprise of nation predicated on a lexis of “family,” middle-class men

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at the turn of the twentieth century seem to have been denied any actual way of becoming “real” men. (608)

テクノロジーの発達とともに、それまでは男性ジェンダーに属していた事務職 が二分化し、専門的な技術と知識が要求される事務職(男性ジェンダー)とルー ティーンの仕事だけをすればよい事務職に二分化し、前者は男らしい仕事のま まであったが、後者については、女性の就業者数が増加し、従来のようには男 らしい職業とは言えなくなった。第 1 節でみるダーリング氏などもこの後者の 仕事をしているように見受けられ、去勢されていると言えるのではないか (Wilson 600)。つまり世紀転換期、中産階級と言ってもアッパーに属するので はない男性は、本当の男性にはなれないのだ。 本当の男性にはなれないという観点にたって、水間千恵は、すぐれたピー ター・パン論を書いている。彼女は物語の中の成人男性とピーターの関係に注 目し、作品に反映されているヴィクトリア朝末から第一次世界大戦前の閉塞状 況と時代の無意識を明らかにしようとする。具体的には伝統的男性性と母親に 対する思いにみられるバリ自身の個人的傾向と、世紀転換期の文化的状況に関 して考察を行っている(163)。作品の男性二人、ダーリング氏とフック船長に 注目して、ダーリング氏(Mr.Darling)が国家のイデオロギーを内面化しなが らその重圧に悩む男性の姿、フック船長(Captain Hook)が国家のイデオロギー を内面化できなかったことに悩む男性の姿を表していると言う。別の言い方を すれば、家庭の大黒柱という役割に悩む父親と、家庭を持つことを拒否したホ モセクシュアルの物語であるということができる(1-20, 157-226)。 ピーターが成長概念を持たないのに対し、ヒロインのウェンディは、成長へ の関わり方は、拒絶ではなく、受け入れである。いや、ウェンディのみならず、 マイケルやジョンというダーリング家の子供たち、それにロスト・ボーイズは、 最終的には成長を拒絶しない。ピーターではなく子供たちに着目して、成長を 国民国家のイデオロギー装置という観点から分析している評者が山路千佳で、 山路は国家の未来を担う健康な子どもの育成に関わる「母性」を、特にウェン

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ディと、彼女を母親と慕う子供たちに焦点をあてながら分析する。つまり、成 長概念を否定するピーターとは対蹠的な位置にウェンディを置いている。さら にウェンディの成長を理想の母親像の変遷という観点から木博周夫は論じる。 ダーリング夫人はヴィクトリア朝の典型的な中産階級の家庭の天使であるが、 ネヴァーランドのウェンディは、料理、洗濯、掃除、つくろいなどをすること によって、母親を知らないうちに批判していることになり、「この物語では、 ヴィクトリア朝が作りあげてしまった母親像を反省し、そのような母親は「忘 れられて」しまわなければならない、つまり、この作品が描かれた 20 世紀初頭 においては、「家庭の天使」である 19 世紀的母親像はすでに時代遅れであるこ とを暗示している。」(50)と言う。しかし、木博は明確にしていないのである が、新しい母親像がメイドのするようなこともする母親であると言うのである ならば、それは到底考えられないのではないか。世紀末は「新しい女」が登場 し、ジェンダー・アイデンティティの不安定化がもたらされつつある激動の時 代であったことを考える必要があろう。 ここでピーターとウェンディおよび子供たちの成長ということを考えるとき に、作品中に現れる場所に注目したい。本作品ではダーリング家とネヴァーラ ンドが二つの大きな舞台となっている。二つの世界の移動過程も第 4 章「飛行」 (Flight)で描かれるが質的に後者に属しているとみていい。前者はエドワード 朝の現実世界であり、最初の 3 章と、終りの 2 章を占める。初めと終わりの現 実世界にはさまれるようにして、どこにあるのか分からない、手紙が配達され ることがないというネヴァーランドという島が登場する。 ピーターが島の主人として成長を拒絶できるのはこのネヴァーランドという 島においてである。島はピーターがいるときには活動的だが、いないときには 不活発であるという。このネヴァーランドにおいて、ピーターに連れてこられ たダーリング家の子供たちはそこにもともといた、ロストボーイズたちととも に冒険をし、ピーターとウェンディを父母役として、子供たちだけで一つの疑 似家庭、疑似的なホームを形成する。ロストボーイズというのは、幼児期、乳 母車から乳母が目を放した隙に落ちて、そのまま乳母にも家族にも省みられる

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ことのなかった、おそらくは孤児をさしていると見られる少年たちのことで、 ホームという情感を養う制度の外へとはみ出した者たちのことである。 このホームの問題が、ナショナル・アイデンティティと容易に結びつき、国 民国家の問題として考察されるのは珍しいことではない。イングリッシュネス の分析においては、ホームは、家族という最小レベルから、故郷、故国までカ バーしうる、イングリッシュネスの基礎にある重要な概念である(Smith, chapter 1)。ホームを持たない者、ホームを拒絶してネヴァーランドに遊ぶ者 がピーター・パンである。他方、ダーリング家の子供たちは、いったんはホー ムを飛び出して拒絶しつつも、ネヴァーランドにおいてピーターの仲間として、 ロストボーイズと各種の「ごっこ遊び」をする中で、疑似的な家族を形成し、 海賊と戦う中でホームを守る勇気という男らしさを学び/示し、再びダーリン グ家というホームに戻ってくる。 < 論文の目的 > 本論文の目的は、『ピーターとウェンディ』をテキストとして読むにあたり、 イングリッシュネスとしてのホーム(生まれた家庭、地域、本国 / 故国)を念 頭におきながら、本土にあると言われるダーリング家のホームと、ネヴァーラ ンドという島に形成された疑似的なホームを分析の二つの大きな柱とする。ま ず、第 1 節で、中産階級ダーリング家のホームがイギリス国民を形成するホー ムとしては欠陥を持つことを明らかにし、次に第 2 節で、ネヴァーランドとは 何か、その主人のピーターとは誰かをみてゆく。さらにダーリング家の子供た ち(ウェンディ、ジョン、マイケル)が、ネヴァーランドで疑似的だが理想的 な家庭を築きあげ、活動、冒険をしていく様子を見、それが何を意味するのか を検討する。そしてまた第 3 節では、本土のダーリング家に戻ってくることで、 彼らが愛国心を持った、フェアな、立派な国民として、ダーリング家というホー ムを修復していく様子を見てみたい。また、ピーターがその仲間には加わらず に永遠に歴史の外にいる者としての道を選んだことは何を意味するのかをネ ヴァーランドにおける活躍を通じて見てゆく。それは単なる成長の拒絶ではな く、大人になることでイギリス社会に組み込まれることの拒絶であること、す

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なわち白人の成人男性というジェンダー、ダーリング家という下層中産階級に 所属すること、愛国心あふれるイギリス国民であることの拒絶を意味すること、 イングリッシュネスにからめとられるのを拒絶していることを明らかにする。 と同時に逆説的に、永遠なる子供のアイコンとして大人に逃避場所を提供する ことにより、イギリスの田舎と同じくイングリッシュネスを表現していること を明らかにする。 第 1 節:ダーリング家 ロンドンにあるダーリング夫妻の家庭は、ホームとして、大英帝国を担うべ きイギリス国民を再生産するのにふさわしい家庭なのだろうか。 ダーリング家は中産階級家庭の条件を一見すると満たしているようであり、 リスペクタビリティを保とうと努力しているが、実はそれがあやしいことがわ かる。ダーリング氏は、シティに職を持ち(8)、株に詳しい人間だ。乳母を雇 い、リザというメイドが一人いる。しかし、この中産階級家庭には綻びが見え る。ダーリング氏は、どうもシティのアッパー・ミドルに属するジェントルマ ンではないようなのだ。ウェンディが誕生した際、養育費を勘定して家計破綻 の危険はおかしたくないダーリング氏と、危険を冒してでも育てたいとする夫 人との間で滑稽なやりとりが展開する(6)。手元の貯金、会社にある現金、コー ヒーを我慢することで浮くお金、細かな数字が並べられ、はては、おたふく風 邪、はしか、風疹、百日咳にかかったときの治療費まで細かく計算して、やっ ていけるかどうかと心配するダーリング氏の姿がある(6-7)。語り手は、子供 たちの飲むミルクの量が多くてダーリング家は貧しかったとはっきり言う(7)。 それ故、ナナという乳母は人間ではなく、ニューファウンドランド犬の野良犬 を拾ってきて使うことにしたのである。もっとも働きぶりは見事だとある。ナ ナは子供たちの通うフルサム嬢の学校では、乳母としての地位の低さ(犬だか ら ?)からだろうか、他の乳母たちに無視された。しかし逆に彼らの薄っぺら な会話を軽蔑するだけのプライドはある(7)。また、ダーリング家はリザとい う召使一人雇うのが精一杯、それでも見栄があって、複数形で召使を呼ぶこと にしている。中産階級としてのリスペクタビリティを取りつくろおうとする態

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度は、ピーター・パンが逃げようとして残していった自分の影を、窓から家の 外にぶら下げてピーターが取り戻しやすいようにしてやろうとナナが考えたと きに、ダーリング夫人が “it looked so like the washing and lowered the whole tone of the house” と言ってためらうところにも表れている(14)。どうもダー リング家は、ロウワー・ミドルクラスに属する貧しい家庭のようである。 綻びが見え隠れしているダーリング家であるが、ダーリング氏には、一応ロ ウワー・ミドルながら、中産階級の家長にふさわしい尊敬を受けているのかど うか、とても心配しているふしがみえる。株に通じていることから妻の尊敬を 勝ち得ているとは信じていながらも(5-6)、乳母とはいえ犬のナナは自分を尊 敬していないのではないかという不安にかられているのだ(8)。そんな夫ジョー ジのために、夫人は子供たちに父親にやさしく振舞うようにと言い、夫の自尊 心が傷つかないようにと配慮する(8)。自尊心の危機はおそらくは生活の苦し さや、序論で見たように、事務員という職業が女性のジェンダーを強く持つよ うになったこととも関係し(Wilson 600)、男性性の未熟さという世紀末に生じ た不安感の中でとらえることも可能だろう。 問題があるのは自尊心の危機だけではない。家長としての威厳があるのかど うかという問題がある。子供たちが夜、ネヴァーランドへと旅立ったのと同じ 日、ダーリング氏が、パーティに行くに際してネクタイを結べずに駄々をこね る場面があり、次のような捨て台詞を口にする。

“I warn you of this, mother, that unless this tie is round my neck we don’t go out to dinner to-night, and if I don’t go out to dinner to-night, I never go to the office again, and if I don’t go to the office again, you and I starve, and our children will be flung into the streets.” (16-17)

まったく無茶苦茶な論理で、中産階級にふさわしい家長とは思えないのである が、これは子供たちの前で言われた言葉でもある。結局は夫人がたやすくネク タイを結んでやり、事なきを得るのであるが、このような子供じみた家長を持 つ家庭が世紀転換期、黄昏を迎えつつあった大英帝国の維持に必要な次世代を

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再生産するのにふさわしい典型的な中産階級家庭であるとは到底思えない。 中産階級男性であれば、心身ともに頑健な男らしさを身につけ、帝国の守護 者としてふさわしい男性でなければならない。次節でみてゆくフェアプレイの 精神を、スポーツを通じて学び、礼儀正しさを守るジェントルマンであらねば ならないはずであるが、ダーリング氏はどうもそうではない。薬を飲むことを めぐる、息子マイケルとダーリング氏の騒動はそのことを端的に伝えるエピ ソードである(18-19)。

苦い薬を飲みたくないというマイケルに対して、“Be a man, Michael,” (18) と、同じく飲みたくない自分は棚にあげておいて、薬を飲むことにおいてさえ 男性性を発揮するようにと迫るダーリング氏。彼は、記憶違いに過ぎないのだ が、自分は子供の頃、大胆にも薬を飲みほし、両親に対して、“Thank you, kind parents, for giving me bottles to make me well.” (18) と感謝の言葉を述べさ えしたことがあるとマイケルやウェンディに言う。自分はぜひとも男らしさの 見本を見せたいが、薬の仕舞い場所が分からず残念と言いつつ、実は隠してい たダーリング氏だが、召使のリザが薬のボトルの場所に気がついて元の化粧台 の上に戻したのを知っていた娘のウェンディは、いらぬお世話にも父の薬を 持ってくる。万事窮す。模範を示さざるを得なくなるダーリング氏。それでも 飲まずにすませたいダーリング氏は、マイケルに先に飲めというがマイケルが 従うはずもない。氏は自分が嫌がる理由を、“The point is, that there is more in my glass than in Michael’s spoon. . . . And it isn’t fair; I would say it though it were with my last breath; it isn’t fair.”(19) であると言う。“fair” と いう言葉が使われていることに注意したい。膠着状態にウェンディは父とマイ ケルが同時に飲んではどうかと提案する。しかし、父はその時が来ても飲まず、 マイケルのみが飲むことになる。ダーリング氏は約束の反故、ルール違反、フェ アプレイの精神に反することをしたことになる。さらに、ダーリング氏は、自 分が飲むはずの薬をナナのボウルに注いで飲ませるという悪質ないたずらもす る(20)。氏は、家族を楽しませるためにやったのだといい、もっと自分を優し く扱ってほしいからやったのだとも言う(20)。稼ぎ手(breadwinner)として 外は戦場であっても、家庭の内は魂の癒しが得られるところにしておいてほし

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いと言うのだろうが、ルール違反とアンフェアな行動を家長が率先して行うの がダーリング家であり、理想的な中産階級とは言い難いということを伝えてく れるエピソードである。 夫が自尊心を持てない、フェアプレイの精神も持っていない、中産階級の家 長にふさわしからぬ心性を持っているのに対し、夫人には家庭の天使として何 も欠点はないのかというとそうでもない。ダーリング夫人は、家計簿もまとも につけられない女性として描かれている。夫人は結婚後、“at first she kept the books perfectly, almost gleefully, as if it were a game, not so much as a Brussels sprout was missing; but by and by whole cauliflowers dropped out and instead of them there were pictures of babies without faces.” (6)であり、 家計簿ではだんだんと野菜の品目が落ちて、計算する代わりに将来の赤ん坊の 顔を描くようになったとある。そしてウェンディ、ジョン、マイケルが生まれ たのである。夫人は必ずしも家事をとりしきる家庭の天使としてはふさわしく ないのであろうが、子供を産む仕事を果たしたという点では、夫ジョージほど 中産階級家庭を支えるのにふさわしくないというわけでもないのかもしれない。 しかし、子供たちに十分な注意を払わずピーターに連れだされてしまうほど パーティのほうに夢中だった点には疑問が残る。 最後にウェンディをピーターと対照させて少し見ておこう。名前については ピーターと比べると、“Wendy Moira Angel Darling” であることで(24)、ミド ルネームが二つも入っている。そういうものは自分の直系の先祖や親戚から取 られることが多いから、世代の交代を通じて、ダーリング家ひいてはイギリス という国民国家が過去から未来へと受け継がれてゆくこと、またピーターには それができないことを暗示する。ピーターには母親がおらず、それがコンプレッ クスになっていることが見て取れるが(25)、ウェンディはダーリング夫人がい ることで、家庭の再生産がどういうものかを肌で知っている。また、キスの意 味をピーターは知らないが、逆に言うとウェンディはそれを知っているという ことで、セクシュアリティが暗示されている。キスは子供を再生産するための 第一歩である。キスの意味を知らないピーターに対してウェンディは指抜きを 与えるが、それは縫物をするという女性性を暗示して、ピーターにとってウェ

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ンディが妻というより、代理の母親という位置にあることを示唆している(26-27)。縫物をする母親的ウェンディの姿は、彼女がピーターの影をぬいつけてや る場面に現れている(25)。ウェンディの母性は、ダーリング家を描いた冒頭の 場面で暗示され、ダーリング家を描いた物語の最後のほうの場面へとつながっ てゆく。 < 第 1 節のまとめ > ダーリング夫妻とウェンディを中心に我々はみてきた。夫ジョージ・ダーリ ング氏は、シティで働いてはいるものの、あまり男らしさを感じることができ ないようなルーティーンの仕事をしているようである。自尊心を持てないこと に不満を持っているせいか、それを家庭にも持ち込んでおり、家庭ではお金の ことを事細かく心配していることから、ダーリング家はロウアー・ミドルクラ スの家庭であることが分かった。その上、ネクタイの件では、家長としての風 格を欠き、薬事件では、子供に対してフェアな態度を貫けない父親であること も分かった。ダーリング夫人のほうは、家計簿をつけられないやら、子供に十 分な注意を払えないやら、こちらも母親としての適格性があるのかと考えさせ られる人物だった。ダーリング家はどうも、心身ともに健全な大英帝国を担う 国民を形成するのにふさわしい家庭かどうか疑問が残る。ウェンディだけは ピーターとのキスのやりとりや、影を縫ってあげることを通して、母性という ものが強調され、理想的な中産階級家庭を築けるのではないかという一つの可 能性を与えてくれるのであった。 第 2 節 ネヴァーランド:「ごっこ遊び」の世界 第 2 節では、ダーリング家という現実の場所からネヴァーランドという非現 実の場所に目を移して、ネヴァーランドとは何か、ネヴァーランドの主人と言 われるピーターとは誰なのか、ネヴァーランドで起きた出来事は何を意味する のかをみてゆきたい。特にダーリング家の子供たち(ウェンディ、ジョン、マ イケル)、ロスト・ボーイズおよびピーターが、ネヴァーランドで疑似的だが理 想的な家庭を築きあげていく様子を見、それが何を意味するのかを検討する。

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ネヴァーランドとは何か、それはファンタジーのモードで書かれている異世 界であるが、どう定義したらよいのだろうか。現実界との関係はどうなってい るのだろうか。 アン・ウィルソンによれば、ロスト・ボーイズは、親に捨てられて放置され 死んでしまった子供であると考えることもできるので、ネヴァーランドは死者 の世界であると言う(595)。この説は、アンドリュー・バーキンが紹介する次 のエピソードにより一応の納得のいく解釈ではある。バリーは、1899 年のある 日、つきあいの深かったデイヴィズ家の長男ジョージとケンジントン公園内を 歩いていたとき、教区の境界石に遭遇する。バリーはジョージにそれらの標石 の由来を説明する。閉演時刻をすぎた公園で迷い子が死んでいるのを見つける と、ピーター・パンが死んだ子供を二人一組で埋めてやり、その上に墓石を立 てるのであり、ジョージが見つけたのもそれであった。子供たちは子守がよそ 見をしている間に乳母車から落ちて亡くなったのだと説明する(80)。「この子 たちの行く先はどこかわからない次の世界だったが、やがてこの観念が発展し てネバー・ネバー・ランド―子供の天国で迷い子の避難所、血なまぐさい冒険 を求める少年の心に適う楽しみに満ちた国―になった」(バーキン 81)という ことから、ネヴァーランドは死者の世界であるという説も可能なのである。 死者の国以外の他の可能性を探ってみよう。この場所の正体を知る一つのヒ ントになるのがネヴァーランドの地図である。第一章で、子供の心の中にある 地図、しかも混乱した地図に言及される個所があり、それがネヴァーランドで あると語り手は言う。

I don’t know whether you have ever seen a map of a person’s mind. . . . a map of a child’s mind, which is not only confused, but keeps going round all the time. There are zigzag lines on it, just like your temperature on a card, and these are probably roads in the island, for the Neverland is always more or less an island, with astonishing splashes of colour here and there, and coral reefs and rakish-looking craft in the offing, and savages and lonely lairs, and gnomes who are

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mostly tailors, and caves through which a river runs, and princes with six elder brothers, and a hut fast going to decay, and one very small old lady with a hooked nose. (9)

ここまでならば、子供の心の地図に出てくるネヴァーランドは、後の章で出て く る ネ ヴ ァ ー ラ ン ド そ の も の と 言 っ て い い の で、 子 供 の 想 像 力 の 世 界 (Carpanter 185-186)、おそらくは絵本の物語などから仕入れた想像上の世界が ネヴァーランドだと言えなくもない。高田英和は、「ネヴァーランドは、(もは や表象不可能な)植民地として空想上の島なのであり、この空想上の島は同時 に、イギリス国内を入れ子のように含んでいるのである。逆に言えば、ネヴァー ランドはイギリス国内と地続きだからこそ空想上の島としてしか描かれ」(高田 2015)ないのだと空想の世界である点を強調する。さて、上記の地図上には、 現実社会で子供が見、聞き、経験したこと、“first day at school, religion, fathers, the round pond, needle-work, murders, hangings, verbs that take the dative, chocolate pudding day, getting into braces, say ninety-nine, threepence for pulling your tooth youself”(9)、それらが雑然と描かれており、同じ一つの 地図上にあるのか、それとも下に重ねて置かれている地図が上の地図の破れか ら見えているのか判然としない、また静止しておらず動いているのではっきり しないと言っていることから、現実の経験を表象または想起した世界であると も言えよう。ネヴァーランドとは子供の心に存在する想像上の世界または現実 経験の表象または想起された世界であり、この地図は意識の統制下にあると 言ってよい。 しかし、どうもこの地図は意識される世界を指示するというだけではないら しい。では無意識にも関わる世界ということなのだろうか。この引用の直前の 部分では、ダーリング夫人が子供の心のなかを整理整頓する(tidying up her minds)様子が次のように描かれている。

Mrs Darling first heard of Peter when she was tidying up her children’s minds. It is the nightly custom of every good mother after her children

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are asleep to rummage in their minds and put things straight for next morning, repacking into their proper places the many articles that have

wandered during the day. . . . It is quite like tidying up drawers. You

would see her on her knees, I expect, lingering humorously over some of your contents, wondering where on earth you had picked this thing up, making discoveries sweet and not so sweet, pressing this to her cheek as if it were as nice as a kitten, and hurriedly stowing that out of sight. When you wake in the morning, the naughtiness and evil passions with which you went to bed have been folded up small and placed at the bottom of your mind, and on the top, beautifully aired, are spread out

your prettier thoughts, ready for you to put on. (8)

ここでダーリング夫人によって整理整頓されている子供の心とは、眠っている 子供の心の中の整理を示しているので、子供の無意識の世界、夢の世界とも言 える。不思議なことに、その眠っている子供の心の世界に母親は入っていくこ とができ、「腕白な悪い情念」は心の引き出しの一番下に置き、「かわいらしい 考え」は一番上に持ってくることができるのである。つまり夢の世界、無意識 の世界がネヴァーランドの存在する場所でもあるのだ。 ネヴァーランドとは、意識の統制下にある、想像の世界や、現実経験の表象 または想起された世界である。と同時に無意識の世界、夢の世界なのだと言っ てもよいだろう。しかし、問題がある。ピーター・パンがやって来て、影を現 実界に残していったり、ピーターの服である木の葉を一枚残していくという物 質性の問題が残るのだ。また、子供たちはダーリング家の子供部屋から飛んで 去って行ったところを目撃されているという事実も残るのだ。よってネヴァー ランドは現実界とそれほど明確に区別できる世界ではなく、無意識説、夢の世 界説も否定はできないが肯定もできない。結局はファンタジーとはそういうも のだと言うほかはないのだろう。『不思議の国のアリス』のウサギの穴、『鏡の 国のアリス』の鏡、『ナルニア国ものがたり』の衣装ダンスなどが思い浮かぶ。 したがって、ネヴァーランドという島は異世界ということにしておいて、む

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しろ島と一体化しているピーターとは何者なのか、島で子供たちが経験するこ とがどういう意味を持つのかに目を向けよう。ネヴァーランドのピーターにつ いてはホリンデイルが次のように簡潔にまとめている。

He is heartless, possessive, and scheming. His life is a series of attitudinizing games, in which, with the security of eternal

irresponsibility, he imitates the adult roles which he will never enjoy

for real. Deprived of the growth and development which link one

experience to another in the normal course of lifetimes, he constantly

discards and forgets both people and events, caught forever in the successive oblivions of make-believe.(Hollingdale 29)

「永遠に続く無責任という安心」を得ていることからは、社会性ゼロの存在であ ることが分かり、「ゲーム」、「大人の役割」、「ごっこ遊び」(make-believe)か らは、決まったアイデンティティがないことが分かるが、役割を通じて学習で きる可能性を示唆することもあり得、後で説明するが、ウェンディたちがこの 恩恵にあずかる。また、ピーターに「成長と発達」がないことは、彼の健忘症 と合わせて、一定のアイデンティティ構築が不可能であることを示している。 ピーターの健忘症については、ウェンディたちがネヴァーランドへ向かって 飛翔しているところで言及される。ある時、彼は星に向かって面白いことを言っ ておきながらその中身をすぐに忘れ、隊列を離れて戻ってきたときに人魚の鱗 をつけていながら、何が起こったのか忘れてウェンディたちに語ることができ ないのである。ウェンディはこれでは自分たちのことさえ、彼は思い出せない のではないかと心配する。実際にそのような状況になると、“I’m Wendy,” と 言って、思い出させるが、ピーターは、“I say, Wendy, . . . always if you see me forgetting you, just keep on saying ‘I’m Wendy,’ and then I’ll remember.” (39) とすまなそうに言う。記憶がなくなるということは昨日、今日、明日とい う時間の連続性の中に自分を位置づけることができないということで、当然、 成長とか発達という概念とも無縁になり、アイデンティティ構築などできるは

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ずもない。時間の外で活動する存在であるから、ピーター自身が、“I’m youth, I’m joy” (130) と高らかに言うのである。

喜びはどこから来るかと言えば、「ごっこ遊び」(make-believe)から来る。 「ごっこ遊び」の世界について、グリフィス(Griffith)は次のように言う。

“Make-believe is the power of the mind to create its own

psychologically insulated place—‘for the Neverland is always more or

less an island’. . . —in which one can act out, symbolically and therefore recklessly, the desire which the real world denies him.(34)

「ごっこ遊び」は現実社会が否定した欲望を、心理的に隔絶したネヴァーランド という島で実現することである。ウェンディ、ジョン、マイケル、ロスト・ボー イズたちは「ごっこ遊び」に興じることで、何を達成するのかと言えば、現実 世界から受けた傷を癒す、現実世界によってもたらされた葛藤を解決するので あるとイーガンは言う。

“The movement of the story . . . is from the recognizably everyday world of a middle-class household in Victorian London to the unconscious universe of the Neverland, and then back again to the waking reality of the closing scenes. By the time the Darling children return safely to the nursery, all the conflicting psychic tensions presented on the island have been pleasantly resolved. . . . Like Freud, however, Barrie emphasizes that each new generation of children must undertake the

pilgrimage afresh, an essential condition for maturity. (Egan 41)

イーガンにとっては、ネヴァーランドはフロイトのいうイド(快楽原則に従う 本能的衝動の貯蔵所)にあたり、そこで経験することは心的葛藤を解決する機 会を提供して成熟へとつなげてくれるのである。第 3 節で無意識の世界である ネヴァーランドからヴィクトリア朝ロンドンの日常世界に戻ったときに、子供

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たちが達成した成熟とは何か、その意味を問うことになるが、ここでは、ピー ターはネヴァーランドを離れない限りにおいて、成熟とは無縁であると言うに 留めておこう。

ネヴァーランドで最も大がかりな「ごっこ遊び」と言えば、ピーター、ウェ ンディ、ジョン、マイケル、ロスト・ボーイズたちの間で形成される、疑似ホー ムごっこであるが、それは、第 6 章「小さな家(The Little House)」、第 7 章 「地下の家(The Home Under the Ground)」、第 10 章「幸福な家庭(The

Happy Home)」、第 11 章「ウェンディの物語(Wendy’s Story)」で前景化され ている。これらを見てゆく前に、間にはさまれるように置かれた第 8 章「人魚 の環礁」で登場する、ネヴァー・バードについて見ておこう。理想的な母親像 がそこでは提供されているからである。 「孤島に置き去りにされた者の岩」(Marooner’s Rock)でのフック他海賊たち との戦いの後、ピーターは潮が満ちて溺れるのを一人で待っている。すでに ウェンディは漂流していた凧を使って逃がしてやったばかりであった。そのよ うな絶体絶命の時に救助に駆けつけたのが、巣に卵を幾つか抱えたまま巣を舟 代わりにしてやってきたネヴァー・バードである。ピーターにはよくいじめら れていたのに、嵐の中、助けに来たのは、彼の乳歯が彼女の母性本能を動かし たからであると語り手は言う。

It was not really a piece of paper; it was the Neverbird, making desperate efforts to reach Peter on her nest. By working her wings, in a way she had learned since the nest fell into the water, she was able to some extent to guide her strange craft, but by the time Peter recognized her she was very exhausted. She had come to save him, to give him her nest, though there were eggs in it. (85)

鳥の母性本能が強いことはこの部分だけでも伝わってくるが、ピーターと鳥の 意志疎通の問題が生じたときにさらに母性の強さが印象づけられる。大抵の児 童文学において人間と動物が言葉で意志疎通するのとはちがって、ピーターと

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ネヴァー・バードの間では言葉が通じない。一方は英語、他方は鳥語を話す。 お互いに相手の言語は分からない。テキストは、双方が感じる理解不能の歯が ゆさを英語表記で 1 ページにわたって記している。やっとのこと、巣を使って 逃げろとのメッセージであることを理解したピーターであるが、彼が卵をどう するかを最後まで見届けようとする母鳥の様子にも、母性の強さが感じ取れる ようになっている。幸いなことにピーターは岩にささっていた、昔は宝の在り 処を示していた棒に、海賊スターキーが残した防水帽子を見つける。彼はその 中に卵を入れ、ネヴァー・バードが巣の代わりとして使えるようにしてやった。 この母性のテーマの重要性はまず、第 6 章「小さな家」で、ピーターと少年 たちが、ネヴァーランドまでの飛行の疲れで眠っているウェンディのために、 小さなコテージを建てる際にも強く感じられる。矢を打たれ、飛行で疲れたウェ ンディが寝ている間に、少年たちがどんな家がほしいかと歌にして問うと、眠っ たままウェンディは韻文で答える。その返答歌により、ウェンディが希望する コテージ像が明らかになる。それは赤い壁、緑の苔むす屋根、明るい窓、バラ がのぞいている、そのような小さなかわいらしいコテージであり、きわめて「イ ギリス的なるもの」(Englishness)と言ってよい。ノッカーはトゥートゥルズの 靴底を、煙突はジョンの帽子を間に合わせに使う。完成するとウェンディに母 親になってほしいと少年たちは頼み込む。第 7 章「地下の家(The Home Under the Ground)」では、子供たちの疑似家族が暮らす地下の家が描かれ、ネバー ツリー、テーブル、囲炉裏、ベッド、妖精ティンカー・べルの小さな部屋、深 鍋とクッキング、夕食の場面など、どれもリアルなので、これが「ごっこ遊び」 で存在していないものとは信じられない。どこまでが本当でどこからが幻想な のかわからない。ピーターにとっては大変リアルなものなので、夕食を食べる と実際に太ると言われる。第 9 章「ネヴァーバード」の後にくる第 10 章「幸福 なホーム」では、ピカニーニ族の酋長の娘タイガー・リリーを、海賊から救っ てもらったお礼に少年たちの味方になったレッドスキンたちが、地下の家の警 護についている。ピーターは “Great White Father” と呼ばれ、部族の父のイ メージを帯びる(88)。疑似ホームが部族レベルまで拡大された形である。ウェ ンディはピーターの忠実な妻を演じる。ロスト・ボーイズがピーターに対して

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不満を持っても、ウェンディは忠実な妻として取り合わない(88)。トラブルは ウェンディに申し立てを行って解決するのが決まりになっている(89)。また、 ピーターの椅子に座りたいというジョンにはノーと言う(89)。一日の仕事を終 えて暖炉のまわりでくつろぐ家庭的な幸せが展開するのだが(92)、これは皆、 「ごっこ遊び」のホームであり、ピーターのウェンディに対する気持ちは献身的 な息子の感情以外のものではない(92)。ウェンディも、タイガー・リリーも、 ティンカー・ベルも、ピーターの母親役では満足していないのだが、ここでは 疑似ホームごっこ以外の、恋愛ごっこは許されない(92-93)。もっとも当初、 バリーは、セクシュアリティの面をもっとはっきりと打ち出していたようであ る。 ジ ャ ッ ク に よ れ ば、 戯 曲 の 草 稿(1903) と タ イ プ 打 ち Beinecke 版 (1904/1905)では、3 人の女性がピーターを性的に引きつけようとする欲望が 後の諸版と比べてより明白に描かれていたと言う(Jack 107)。これはピー ター・パンの物語がもともとは大人の聴衆に向けられていたことを意味する。 しかし、セクシュアリティの要素を減らして子供向けに母性とホームを強調す る方向が強くなっていったのである。この理想的なホームについて、高田英和 は、植民地を開拓する帝国主義者の姿というよりも、移民家族の姿を見て、次 のように言う。 ピーターが最初からウェンディとともにネヴァーランドに行くのは、彼ら が、植民地を開拓する帝国主義者というよりも、むしろ移民家族としてイ メージされていることを意味しているからである。シティに勤める父を持 ち、両親は社交会に出向き、週末は家族で田舎にて過ごすという・・・、 これまでなら、帝国の中心に位置する英国に居るべき存在と思しきウェン ディは、ネヴァーランドに、ピーターだけでなく、ジョンとマイケルを連 れ立って行く。それは、植民地が帝国から分離しないように、彼女が、彼 らが、家族で、ネヴァーランドという植民地に向かい、そこにイングリッ シュネス(Englishness)を植え付け、英国との関係を、帝国という全体性 を維持するためにである。ゆえに、彼女は「家庭の天使」的でありながら、 活発に、主体的に行動する。それは、また、厳しい植民地で生活するため

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に必要であるからだ。つまり、彼女がネヴァーランドに行くことの意義は、 ネヴァーランドという植民地を本土と同様の空間に仕立て上げること、要 するに、英国化/自国化(domesticate)することにある。彼女の行為は帝 国を維持することと密接に連動している。(「ウェンディは何者であったの か 『ピーター・パン』と社会帝国主義」257) もう一度母性の問題に戻ろう。母性の問題が中心を占めることには、ピーター のトラウマが深く関わっている。彼がまだネヴァーランドに来る前、幼い頃に 家から締め出しを食ったことがあった。この話は、第 11 章「ウェンディの物 語」において、母親とはどう振る舞うものかを示す、ピーターとウェンディが 語りあう場面に出てくる。母親役のウェンディがお話をロスト・ボーイズにせ がまれて、ダーリング夫妻、ウェンディ、マイケル、ジョンの物語を語る。い わば、自分たち自身の物語を語るのであるが、違うのは、何年もたって成人し たウェンディら三人がロンドンの駅に降り立つ場面が入っていることだ。相当 な年数がたったというのに、ダーリング家の窓を見あげると開いたままになっ ている。いつ帰って来てもいいようにずっと窓は開いていたのだ。ウェンディ はそこに母親の愛があるということを主張する。ところがピーターはそのよう な母性にあふれた母親像を打ちくだく。

“Long ago,” he said, “I thought like you that my mother would always keep the window open for me, so I stayed away for moons and moons and moons, and then flew back; but the window was barred, for mother had forgotten all about me, and there was another little boy sleeping in my bed.” (98)

ピーターが母親に締め出しを食ったという経験は、すでに、物語『白い鳥』か らピーター・パンが登場する章を独立させて作られた「ケンジントン・ガーデ ンのピーター・パン」のピーターの経験をなぞっている。サーペンタイン池に ある島に住む鳥たちや妖精たちの世界に遊んでいたピーターが、やっと帰る決

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