• 検索結果がありません。

蔣経国の総統期における国防建設(1978~1988)――「台湾防衛」型の軍隊への改編と残存する「大陸反攻」の任務――

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "蔣経国の総統期における国防建設(1978~1988)――「台湾防衛」型の軍隊への改編と残存する「大陸反攻」の任務――"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

?経国の総統期における国防建設(1978∼1988)―

―「台湾防衛」型の軍隊への改編と残存する「大陸

反攻」の任務――

著者

五十嵐 隆幸

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジア経済

62

1

ページ

2-33

発行年

2021-03

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00052076

doi: 10.24765/ajiakeizai.62.1_2

(2)

蔣経国の総統期における国防建設(1978 ~ 1988)

―「台湾防衛」型の軍隊への改編と残存する「大陸反攻」の任務―

い が ら し

十嵐 隆

たか

ゆき 《要 約》 1979 年 1 月の米華断交後,米国が台湾関係法を制定したことで,国府は台湾の防衛に関して米国か ら一応の保障を得ることができた。だが同法は米華相互防衛条約と異なり,米国に台湾防衛の義務が なかった。そのため蔣経国は単独で台湾を防衛することを想定し,「大陸反攻」の態勢を保持していた 国軍を「台湾防衛」型の軍隊に改編させた。また,同法に依って提供される「防御性」兵器も米国の 判断で選択されるため,国府のニーズに合った兵器とは限らなかった。それゆえ国府は,「大陸反攻」 のイデオロギーが色濃く残る大規模な陸軍兵力の削減によって経費を捻出し,兵器の自主開発・生産 体制の構築と米国以外からの調達で軍近代化を進めた。 米華相互防衛条約の失効という安全保障上最大の危機への対応を迫られた蔣経国は,実質的に「大 陸反攻」の構想を「放棄」した。そして国軍は「攻守一体」の軍事戦略に基づく「大陸反攻」任務と のジレンマを抱えつつ,「台湾防衛」のための軍隊へと変貌していくのであった。   はじめに Ⅰ 蔣経国の総統就任と米中国交正常化への対応 Ⅱ 米華断交と「台湾防衛」型の軍隊への改編 Ⅲ レーガン政権への期待と国軍の「大陸反攻」任務 Ⅳ 「台湾防衛」型の軍隊への変貌と将来的な「大陸反 攻」への望み  おわりに

は じ め に

1.台湾防衛に対する米国の関与と蔣経国の 行政院長期における国防建設 1978 年 5 月 20 日,中華民国第 6 代総統に就 任した蔣経国は,就任から約半年後に米中国交 正常化といった外交上の衝撃を受け,「中華民 国」の存続に直結する安全保障上最大の危機へ の対応を迫られることとなった(注1) 1949 年 10 月 1 日,中国共産党(以下,共産党) が中華人民共和国(以下,中国)の成立を宣言 すると,中国国民党(以下,国民党)が指導す る中華民国政府(以下,国府)は中央政府を台 北に移転させ,蔣介石は軍事力で中国大陸の奪 還を目指す「大陸反攻」の準備を開始した。一 方の中国は「台湾解放」を掲げ,「正統中国」 を主張する二つの政府の台湾海峡を挟んだ対立 が始まった。そして朝鮮戦争を契機に両政府の 対立は「冷戦」に組み込まれ,台湾海峡の「現 状維持」を決めた米国は,「米華相互防衛条

(3)

約」(注2)を結ぶことによって中国の「台湾解放」 を防ぐ一方,国府の「大陸反攻」をも防いだ[松 本1998;Lin2016]。 1960 年代に入ると,国府は中国の大躍進政 策による社会の混乱を契機とし,幾度となく機 会をとらえて現状の変更を試み,米国に「大陸 反攻」への支持と軍事的な支援を求めた。しか し,台湾海峡の「現状維持」を望む米国に断ら れ続け,国府は一度たりとも大規模な「大陸反 攻」作戦を発動することができなかった(注3) そして,米国からの無償軍事援助(Military AssistanceProgram:MAP)の削減と中国の沿岸 防衛戦力の強化を前に,国府は 1969 年 3 月の 国民党第 10 回全国代表大会後,1949 年以来続 いた「攻勢作戦」の軍事戦略を,大陸光復のた めの「攻勢」と,中国統一のための復興基地と して位置づけた「台湾」の安全を保障するため の「守勢」を目標とした「攻守一体」へと転換 した[五十嵐2019]。 1969 年 7 月,蔣経国が国防部長から行政院 副院長に転じて間もなく,ニクソン大統領が グァム・ドクトリンを発表し,アジア諸国に防 衛責任の自己負担を求めた。またニクソンは, ソ連や北ベトナムとの交渉を有利に進めるため, 中国への接近に踏み切った。1971 年 7 月,ニ クソンが訪中の意向を発表すると,国府の国際 的な立場は急速に悪化し,10 月の国連総会で 中国の国連代表権が承認され,国府は国連から の「脱退」を宣言した。ニクソンが 1972 年 2 月の訪中で毛沢東らとの会談を経て共同声明 (以下,「上海コミュニケ」)を発表すると(注4),国 府内部では「国難」を乗りこえるため蔣経国に 指導力の発揮を求める声が高まるほか(注5),高 齢化した党幹部の世代交代を求める主張が強 まっていた[頼2017,23;29]。そして同年 6 月, 蔣経国は行政院長に就任し,1969 年の交通事 故以来,表舞台に立つことが少なくなった蔣介 石の最高権力を実質的に引き継ぐこととなっ た(注6)。しかし,蔣介石の存命間,あくまで蔣 経国は病床に就く総統の権限を「代行」してい る状態であり,その国防建設は,「大陸反攻」 を前提とした従来の蔣介石路線に従うもので あった[五十嵐2020]。 蔣経国の国防建設に独自性が出てきたのは, 1975 年の蔣介石死後に「今後の国防方針」を 示してからのことであった(注7)。ただし,それ は高位軍人のリストラなど人員削減による国軍 の少数精鋭化を目指すものであった。「大陸反 攻」を行うためには大規模な兵力が必要であり, さらに戦場が中国大陸であることを考えると, その土地で戦ってきた彼らの経験は重要であっ た。しかし,高齢化した彼らは過酷な実戦に相 応しくないばかりでなく,多額の人件費として 限りある国防予算を圧迫し,かえって「大陸反 攻」に必要な戦力構築の妨げとなっていた。こ の方針が示された後,国軍は人員削減の検討を 始め,定員の見直しや退役制度の厳格化などを 定めるのだが,そのプロセスは「自然減」を期 待する消極的なものであった(注8)。一方,蔣介 石の死後,周恩来や毛沢東などが相次いで亡く なると,国府では共産党内の権力闘争を好機と とらえ,「大陸反攻」の気運が高まっていた。 しかし,「攻守一体」の軍事戦略を掲げてはい たものの,国軍は「大陸反攻」に必要な戦力を 構築できていなかった。そして1977年8月に「文 化大革命」が終結する頃には,国軍将兵たちの 「大陸反攻」に向けた気運は収まりを見せてお り(注9),それは発動されることなく収束を迎えた。

(4)

その後,1978 年 5 月に蔣経国は中華民国第 6 代総統に就任,名実ともに国軍の最高権力を掌 握した。そしてその年末,カーター大統領が中 国との国交正常化を発表し,「米華相互防衛条 約」は終了を迎えることとなった(注10)。蔣経国 が行政院長を務めた 1972 年 6 月から 1978 年 5 月の期間は,おおむね米中国交正常化のプロセ スと重なった。しかし,その国防建設は,「予 想される対米断交」に備えて国府が独自に「台 湾」を防衛する体制を整えることを目指したも のではなく,あくまで「大陸反攻」に重きを置 いた蔣介石の路線を継続するものであった [五十嵐2020]。 2.先行研究とその課題 1978 年 5 月から約 10 年間におよぶ蔣経国の 総統期を対象とした研究は,多くが民主化の過 程や経済建設に関心を寄せている(注11)。殊に「台 湾」の国防軍事・安全保障面に関しては,近代 化が進む中国人民解放軍(以下,解放軍)との 軍事バランスに注目が集まるほか[Wu1994], 米国による「台湾関係法」(注12)の制定プロセス や対華武器売却の再開に焦点が当てられていた [Chou1988;Garver1997;戴2001;李洪波2014]。 それでは,「米華相互防衛条約」によって事 実上「台湾」の防衛を米国に依存してきた国府 は,同条約の終了をどのように受け止め,どの ように安全保障上の危機に備えようとしたので あろうか。平松[2005,122-138]は,米国との 外交関係断絶という事態に直面し,国府は一層 軍事力の強化,装備の近代化,兵器輸入先の分 散化,兵器・装備の国産化に力を入れることに なったと,ニクソン訪中後の対応からの継続と して論じる。平松をはじめとする多くの研究は, 兵器・装備の近代化に着目しているが,国軍の 編制について触れた研究も存在する。たとえば Cole[2006,27-28]は,すでに 1970 年代を通じ, 国軍が蔣経国の指導下で島嶼防衛型の軍隊に性 格を変えたと指摘し,小川[1995,92]は 1980 年代の軍事力が「大陸反攻」に相応しくない構 造をしていると説明する。また林吉郎[1992, 110-111]は,蔣経国が 1975 年 9 月に今後の国 防方針を示し,人員削減による国軍の少数精鋭 化と武器・装備の更新による戦力強化に取り組 み始めたと指摘する。しかし,これらの研究は 必ずしも国軍の具体的な改編や近代化の動向, 作戦準備の態勢などについて説明できていない。 一方,蔣経国の総統期における国防軍事・安 全保障を論ずるうえで着意しなければならない のは,当時は「攻守一体」の軍事戦略に基づき, 国軍の任務として「台湾防衛」のみならず,「大 陸反攻」も掲げられていたことである(注13)。こ の「大陸反攻」について,若林[1987,386]は, 1960 年代以降の順調な経済発展が続くなか, そのスローガンはいつの間にか消え,軍事より も政治,経済の成果によって「反共」の正しさ を顕示するようになったと説明する。松田[2013, 355-357]は,蔣介石の退場とともに消えたと論 ず る。 し か し,2015 年 に 李 登 輝 元 総 統 が, 1990 年代初頭の時点で国民党には「大陸反攻」 を考えている党員がいたと明かしているよう に(注14),「大陸反攻」は蔣介石ただ一人の執念 に収まらず,国是・党是として浸透し,蔣介石 の死後も消えることはなかったのではなかろう か。五十嵐[2016]は,米華断交後も保持され た「攻守一体」の軍事戦略が「守勢防衛」へと 転換され,武力による「大陸反攻」を完全に諦 めたのは,蔣経国の死後に李登輝政権が「国家

(5)

統一綱領」を示した 1991 年のことであったと 指摘する(注15)。実際,1982 年に再版された『国 軍軍事思想』には,現段階の国防思想として「大 陸反攻のため,まず金門,馬祖,台湾,澎湖の 防衛に着手しなければならない」と明記されて いる(注16)。また,夏鎮中[2006,67-70]や李銘藤 [2009,162-166]は,国府が 1980 年代にも特殊 作戦部隊などを中国大陸に潜入させて軍事的な 反攻へ発展させる準備をしていたことを指摘し ている。そして門間[2016,56-57]は,李登輝 政権の下で国軍が「台湾」を守るための軍隊に 改編されたと指摘する。 このように,従来の研究では蔣経国が総統で あった 1978 年から 1988 年の期間,「攻守一体」 戦略下において国軍の任務となっていた「大陸 反攻」の構想や,米華断交後における「台湾防 衛」の体制構築については関心が寄せられるこ とは少なく,国軍の態勢についても不透明なま まであった。とりわけ,蔣経国政権下の国府は, いつ「大陸反攻」を不可能と認めて実質的に「放 棄」することを決断し,そしていつ「台湾防衛」 型の軍隊への改編に踏み切ったのであろうか。 3.史資料と研究の目的 これまで米華断交に関しては,米中国交正常 化の裏面史として研究が進められることが多 かった[松田2011]。とりわけ,カーター政権 期まで発行されている米国国務省編纂の「米国 外 交 文 書 史 料 集 」(Foreign Relations of the United States: FRUS)など,史料公開が進展 している米国の外交文書に基づき,米国政府の 対応を焦点として分析する傾向が強かった。ま た,近年,台湾では一次史料の公開が著しく進 展しているものの,総統府直属の歴史編纂機関 である国史館において「米華断交」をはじめと する蔣経国の総統期に関する重要な政治案件の 公開には至っておらず(注17),国府側の認識につ いても米国の史料に依拠して論じられることが 多かった。こうした制約があるなか,国民党中 央常務委員会文化伝播委員会党史館(以下,党 史館)に保管されている中央常務委員会(以下, 中常会)会議紀録を利用し,米中国交正常化と いった外交上の危機を国府がどのようにして乗 り切ったのかを明らかにした研究もある[松田 2011]。 ただし,同会議紀録については第 11 期末の 1981 年 3 月下旬までの公開にとどまっており, FRUS についても 1981 年 1 月下旬からのレー ガン政権期は公開されておらず,1981 年以降 を取り扱った研究の多くは,新聞などに依拠し ているのが現状である。また,本稿では,2020 年 2 月 3 日に公開された「蔣経国日記」の一部 を利用した。ただし,公開された日記は,1979 年 12 月までとなっている。したがって,米華 関係を含む蔣経国の総統期における国防軍事・ 安全保障関連について,一次史料を用いて実証 的に再検討するには時期尚早かもしれない。し かし,本稿では国防部政務弁公室史政編譯室に 開示請求した「国軍史政档案」のほか,レーガ ン大統領図書館において収集した同政権期の公 文書を利用するとともに,国軍将校の日記や回 顧録などを活用し,蔣経国の総統期における国 府の国防建設の実態について考察を進めること とする。 なお,本稿では,国民党機関紙『中央日報』 と国防部機関紙『青年戦士報』(『青年日報』)を 使用した。党や軍の機関紙についてはプロパガ ンダ的な要素が否めないものの,非公表となっ

(6)

ている内容であってもその一部が漏れ伝えられ ることもある。とりわけ,1988 年 1 月 1 日に 報道の部分的自由化が認められる前については, 発行停止処分などを含めて民間紙の浮き沈みが 激しいため,一定の発行が保たれていた機関紙 を利用し,それを丹念に読み込むことで時代の 流れを感じ取ることに着意した。 ここまでの史資料の状況をふまえたうえで, 本稿では,米華断交を迎えた国府が,「中華民国」 の存続がかかる安全保障上最大の危機に備え, どのように米華断交後の「台湾防衛」体制の構 築に取り組んでいったのかを明らかにするとと もに,「攻守一体」戦略の下に維持されている「大 陸反攻」に対する蔣経国や国軍高官の認識につ いても論じていきたい。

Ⅰ 蔣経国の総統就任と米中国交正常化

への対応

1.蔣経国の総統就任と米中国交正常化交渉 の加速 1978 年 5 月 20 日,蔣経国は中華民国第 6 代 総統の就任演説において,「三民主義の実践に よる大陸国土の回復」,「反共の立場の堅持」な ど,蔣介石路線を継承する基本方針を示した[蔣 経国1980,47-52]。また,蔣経国が総統に選出さ れた 3 月の国民大会において,宋長志参謀総長 が国軍の主要な目標を「復興基地を堅固にし, 大陸反攻の好機を創出する」と説明するほ か(注18),立案中の 1981 年から 10 年間の長期計 画についても「大陸反攻」を前提としているよ うに(注19),「大陸反攻」を掲げていることも蔣 介石の時代と変わりなかった。 だが,蔣経国政権が向かう道には,国防政策 の再考が迫られる事態が待ち構えていた。ブレ ジンスキー大統領補佐官の訪中を直前に控えた 5 月 12 日,カーターはブラウン国防長官に対し, 在台米軍の総数について緊急事態への対処を目 的とした戦備物資管理と航空基地管理に係る要 員 660 名を残し,10 月 1 日までに撤退させる よう指示をした(注20)。この指示と同時期,台湾 では「復興 9 号」米華共同兵棋演習が行われて いたのだが,同演習の計画において,解放軍の 侵攻に対して投入される米軍の作戦部隊は,す べて台湾以外の地域から派遣される運用になっ ていた(注21)。この演習は,すでに米軍が緊急事 態へ対処するため最低限の要員のみを残した 10 月以降の態勢を基準に検証が行われていた。 ブレジンスキーの訪中後,アンジャー駐華大 使は蔣経国を訪ね,中国側との会談について説 明した。これに対して蔣経国は,正常化に関す る具体的な進展の有無を問い,アンジャーはそ のような証拠は見られなかったと回答した。た だしアンジャーは,個人的な予想として今後数 カ月以内に米国政府が中国との正常化について 具体的に検討を始めるであろうと述べた(注22) そして,その「予想」が的中するかのように, 1978 年 6 月 13 日にヴァンス国務長官は 12 月 中旬に中国との関係正常化を公表することで カーターから承認を得た(注23)。そして 7 月 5 日, 北京でウッドコックと黄華による国交正常化交 渉が始まった(注24)。米中国交正常化交渉がカー ター政権の下で一気に加速していくのだが,国 府側は断交の時が近づいていることを予期でき ていなかった[松田2011,179]。

(7)

2.米中国交正常化直前における米国の対華 武器売却 1978 年 7 月 1 日,米国政府関係者は,カーター が国府に対する F-4 戦闘機の売却案を否認する 考えであることを明かした(注25)。同時期,イス ラエル訪問中のモンデール副大統領が,イスラ エル製のクフィル戦闘機を国府へ売却すること を承認したと報じられた(注26)。これら報道に対 し,国府はイスラエルから同戦闘機を購入する 計画は一切ないと発表した(注27) 8 月に入ると,国防省消息筋の話として,カー ター政権が連邦議会に提出した 1979 会計年度 (FiscalYear1979:FY79)(注28)の武器売却リスト のなかに,国府向けに 2 億 1770 万ドル分の武 器が含まれていることが報じられた(注29)。また, 国防省の依頼を受けたノースロップ社が,国府 の老朽化した戦闘機の更新用として新たに F-5G 戦闘機を開発していることが明らかに なった[Fink1978,12-13]。そして 9 月 5 日,米 国政府は F-4 や F-16 戦闘機は航続距離が長い ことから「攻撃性」戦闘機に該当するため国府 の要望には応じず,国防省が提案した F-5G の 売却に同意し,カーターの批准後に連邦議会へ 通知する旨を発表した(注30) 10 月 26 日,カーターは国府への武器売却を 承認した。ただし,F-5G が試作段階との理由で, 1981 年に共同生産が終了予定の F-5E に改良を 加えて追加生産することになった(注31) 11 月 6 日, 蔣 経 国 は ア ン ジ ャ ー に 対 し, F-5G の提供が認められなかったことは残念だ と述べ,将来的に F-5G や F-16 が提供される ことに期待を示した(注32)。同日,国務省報道官 は F-5E 戦闘機 48 機を国府と共同生産するこ とを発表するとともに,カーター政権の方針と して航続距離が中国大陸に到達する F-4 や F-16 および F-18 戦闘機の提供を認めない決定 に至ったことを説明した(注33)。翌 7 日,国府は 国防部報道官を通じ,米国政府が台湾海峡の防 空と復興基地の防衛に必要な高性能戦闘機の提 供を認めなかったことに遺憾の意を表明すると ともに,将来的に高性能戦闘機の提供が認めら れることに期待を示した(注34) FY79 以降の戦闘機更新にかかる交渉におい て,米国政府は国府が望む高性能戦闘機に関し て,イスラエルからクフィルを購入することを 認めていた。だが国府は,米国以外から戦闘機 を購入することで保守・管理が煩雑になると判 断し,F-5E の共同生産を延長することで妥協 した(注35)。カーター政権下で米中国交正常化が 現実味を帯びるなか,国府は戦闘機調達先の分 散化に踏み切ることなく,米国への依存を強め ていたのである。 3.米中国交正常化発表に対する国府の対応 1978 年 12 月 15 日 21 時(台北時間 16 日 10 時), カーターが 1979 年 1 月 1 日に中国と外交関係 を樹立することを宣言するとともに,国府に米 華相互防衛条約の終了を通知することを発表し た(注36)。蔣経国は米中国交正常化の伝達に訪れ たアンジャーを通じ,米国政府に対して抗議の 意を示した(注37)。また,同日に示された総統 令(注38)に基づき,国軍は解放軍の侵攻に備えて 警戒態勢の強化を進めた(注39) 19 日には孫運璿行政院長が 1979 会計年度の 下半期(注40)における国防予算を増額し,最新兵 器の購入と重要な武器の自主生産能力の向上に 充てることを発表した(注41)。さらに各界に呼び かけた募金がわずか 1 日で 1 億元近くに達した

(8)

ため(注42),孫院長は「自強救国基金」を設け, その運用について検討を始めた(注43)。そして 23 日,孫院長は新型兵器の研究開発に資する軍・ 公・民連携体制を構築するプランを発表し た(注44) 一方で米中国交正常化の発表翌日,「国防次 官補が中心となって国府への武器売却の継続に 関する文書がすでに作成されている」とのリー クが報じられたほか(注45),国務省サイドからも 同様の発言が飛び交っていた。そのため宋長志 は,解放軍が新たな戦闘機の配備を進めている ため,米華相互防衛条約の失効後は台湾海峡の 航空優勢が維持できなくなるとの危機感を米国 政府に訴え,F-16 や F-18 の売却を再検討する ように要求するとともに,再び拒否された場合 は他国から調達する考えがあることを示し(注46) 米国政府に揺さぶりをかけた。このほか宋は, 各総司令部等に対し,断交後も 6 月末までの 1979 会計年度における在米研修や留学を継続 するとともに,7 月からの 1980 会計年度にお ける在米研修などの調整を継続するように指示 を出した(注47)。米華断交という危機を迎えよう とも,米国の援助に依存せざるを得ないのが国 府の置かれた現実であった。 4.米中国交正常化直前における米華協議 1978 年 12 月末,クリストファー国務副長官 が台湾に赴き,断交後の関係について国府側と 協議を行った。その出発に先立ち,ブレジンス キーがクリストファーに対し,断交後に非公式 の関係を維持していくための新しい取り決めに ついてカーターの方針を伝えた。また,承認済 みの武器売却については予定どおりに進め, 1979 年末までは新たな契約を結ばないものの, 1980 年以降は再開予定であることが国府側に 伝えられることになった(注48) 訪台したクリストファーは,蔣彦士外交部長 や宋長志参謀総長らと協議を重ね,米国側は米 華相互防衛条約を除き,両国間で締結された各 種条約を継続する意向を正式に表明した。これ に対して宋は,国府を取り巻く厳しい安全保障 環境を説明したうえで,高性能戦闘機と各種最 新兵器の提供,軍事協力関係の実質的な継続を 要求した(注49)。また蔣経国はクリストファーに 対し,①両国関係の持続と不変,②「中華民国」 が中国を代表する正統な政府として存在する事 実,③米華相互防衛条約失効後の安全保障,④ 防御性兵器の売却継続に関する法制化,⑤公式 な政府間関係の将来的な構築,を将来の米華関 係で築かなければならない五原則として訴え た(注50)。しかし,この協議で具体的な結論は見 いだされることはなかった(注51) 事実上「台湾」の防衛を米国に依存していた 国府にとって,米華断交は「中華民国」の存続 がかかる安全保障上の危機であった。その「国 難」に際し,国府は米国政府に対して断交前と 実質的に「不変」の関係を求めたのであった。

Ⅱ 米華断交と「台湾防衛」型の軍隊へ

の改編

1.国防工業発展への努力と「攻勢」方策の 再検討 1979 年 1 月 1 日,国府は米国と断交した。 米国が国府に対して米華相互防衛条約の終了後 も武器売却を継続すると説明したものの,国府 が必要とする武器が売却を認められる保証はな く,かつ米国の「台湾防衛」に対するコミット

(9)

メントも不確実であった。 そのため国府は,独自に武器の研究開発・生 産を完結できる国防工業を育成するため,行政 院に「国防工業発展政策指導小組」を設置 し(注52),立法院の議決を経て「国防工業発展基 金会設置条例」を制定した(注53)。24 日には同小 組が「国防工業発展強化・国軍武器装備自製推 進構想」を示し,軍・公・民営工業の連携を促 進して国防関連工業を効率的に発展させるため の実施要領や,研究開発の優先順位などを定め た(注54) 国府は国防工業を構築していくにあたり, 1960 年代から軍・公・民の連携を図っていたが, 国内の関係する法規の整備が行き届かず,かつ エンジニアと資金が不足していたため,その発 展が滞っていた(注55)。ところが,米華断交の衝 撃を受けて集まった基金によって思いもよらず 資金不足が解消され,それを有効に運用するた めに政府は横断型の組織を設置し,国防工業の 発展を阻害していた問題の解消に道筋をつける ことができたのであった。 一方,国民党中常会では,軍事工作全般の改 革について議論を行っていた。しかし,その検 討結果は,情勢の変化への対応こそ強調されて いたものの,「攻守一体」戦略を軸とする従来 の路線と変わりなかった(注56)。また,国軍につ いても,大陸で動乱が起きそうな地域に特殊作 戦部隊等を潜入させ,彼らによって抗争や暴動 の激化を導き,大陸の民衆や軍人を「大陸反攻」 の主戦力として蜂起させ,その騒乱に乗じて国 軍本隊を大陸に送り込むことをねらいとした 「王師」作戦計画など,反攻作戦に関する計画 の検証を続けていた(注57) ところが立法院第 63 会期の開会に先立つ施 政報告において,行政院は「大陸反攻」の契機 を創り出すために国軍が積極的に敵後背地にお ける工作を展開している旨を強調する一方 で(注58),「大陸光復」を成し遂げるためには, 新たな概念,新たな方法,新たな実力を用いる 必要があることを指摘した(注59)。また,孫運璿 行政院長が立法院で実施した施政報告において, 現情勢下で進めるべき国防三大要求として,① 堅固な基地防衛,②国軍戦力の増強,③国防工 業の発展,と示すように(注60),米国から台湾の 防衛に対するコミットメントが得られる保証が ない状態では,「攻守一体」を掲げていようとも, 国府にとって最後の拠点である「台湾」を確保 するための「守勢」に努力を傾注せざるを得な かった。そして,国際社会における最大の後ろ 盾であった米国が中国と国交を正常化させた今, 国府は「大陸光復」を達成するための「攻勢」 の方策について再検討を迫られていたのである。 2.「台湾関係法」制定前後における国府の 対応 米中国交正常化の発表以降,国府は米華相互 防衛条約の失効に乗じて解放軍が台湾へ侵攻を 始めることに備え,警戒態勢の強化を続けてい た(注61)。一方,解放軍が 1979 年 1 月 1 日から 金門島に対する砲撃を停め,台湾海峡に面する 中国沿岸部の解放軍部隊をソ連やベトナムとの 国境に転用していることについて,宋長志は, 海・空軍部隊の配備はまったく変更されていな いことから,中国が従来の武力による「台湾解 放」から「平和的統一」に政策転換したことを 示すものではないと説明し,引き続き警戒を強 化する必要性を訴えた(注62)。米国がいかなる形 で台湾の防衛にコミットメントを続けるか不透

(10)

明のなか,国府は解放軍の侵攻に対する警戒を 強めつつ,米国の立法措置を待ち続けるほかな かったのである。 そして 1979 年 4 月 10 日,カーターが「台湾 関係法」に署名し,同年 1 月 1 日に遡及して施 行された(注63)。同法には,台湾の安全保障と武 器売却に関する規定が明記されていた(注64)。米 国は,台湾を防衛する「義務」を放棄したが, 米華相互防衛条約の失効後も台湾関係法によっ て台湾の安全保障にコミットメントする「権利」 を留保した[松田1996,130-132]。同日,カーター 政権が年末に迎える米華相互防衛条約の失効ま での間は,従来の計画に基づき海軍艦艇を台湾 に寄港させることを容認したほか,米華共同軍 事演習についても実施要領を検討中であること が国務省関係筋の話として報じられた(注65)。ま た 1979 年 4 月 17 日,米国在台協会(AIT)は, 国 府 側 が 設 置 し た 北 米 事 務 協 調 委 員 会 (CCNAA)を通じ,年末までに終了する軍人の 在米研修や留学については計画通りに行い,翌 年まで続くコースについては少佐以下に階級を 制限して継続することを通知した(注66)。国交正 常化に向けた米中交渉の主要な論点は在台米軍 の撤退と武器売却であったため,中国にとって は盲点を突かれた形で米華間の防衛協力が続く こととなった。 こうして米国政府が台湾関係法に基づき断交 後も国府への武器売却を継続する姿勢を示した ことで,台湾海峡の航空優勢が失われることを 危惧する国府に対し,米国の航空機メーカーに よる次期戦闘機のセールス競争が始まった。台 湾を訪問したノースロップ社の社長は,台湾に 工場を増設して F-5F を海外輸出用に共同生産 するほか,米国政府が F-5G の売却を認めた際 にはそれを台湾で共同生産する考えを示し た(注67)。また,ジェネラル・ダイナミックス社 の工場責任者が台湾を訪問し,F-16 をノース ロップ社と同様の方式で共同生産する考えがあ ることを明らかにした(注68) 1979 年 7 月 3 日,国防省が連邦議会に対し, F-5E 戦闘機 48 機を含む総額 2 億 4060 万ドル 分の武器売却を通知した(注69)。この売却は米中 国交正常化交渉の際,すでに売却決定済みの武 器として中国が容認していたものであり,台湾 関係法に基づく武器売却の「再開」とはいえな かった。同法に基づく武器売却の見通しが不透 明で,かつ,在台米軍の撤退によって双方の軍 事協力関係が疎遠になることを危惧した蔣経国 は,米軍の退役将校を軍事アドバイザーとして 台湾に招聘するほか[黄克武2016,61],中将職 の総統府侍衛長に米国留学経験のある若手の少 将を抜擢するなど[黄克武2016,146-148],米国 との軍事交流を重視した人事配置を行った。解 放軍の台湾侵攻時に来援した米軍と共同作戦を 遂行する際,その実効性を少しでも高めるため, 平素から相互に意思を疎通させ,信頼関係を醸 成するための措置であった。 3.「台湾防衛」型の軍隊への改編 1979 年 7 月 1 日,陸軍の大規模な改編が行 われた。かつて国軍の改編は米国の意向が強く 反映されていたのだが[松田2002,3-4; 五十嵐 2019],この改編案については国府単独で検討 が進められた(注70)。そして改編から 3 日後,蔣 経国は国民党中常会会議において,次のように 注意を促した。 年末に米華共同防衛条約が終了となる。皆

(11)

は米華断交が一段落したと勘違いしているが, 政治,社会,軍事,ひいては国際政治等の各 方面に影響が出ている。したがって,我々は 多方面にわたって準備を施さないといけない。 まずは経済面であり,経済の安定が下半期の 鍵となるため,我々は多くの建設を進めると ともに,空襲に備えて地下化を進めるほか, 島嶼防衛の重要施設を整備しなければならな い。軍事面については,米華相互防衛条約の 終了により,我々は自立自強を求められてい る。独立作戦の精神に基づき,武器,装備, 工事,部隊移動等を強化していくことで,自 らの力で台湾・澎湖・金門・馬祖の安全を確 保する。それを決めるのは正しく軍事面であ り,国防部や武装部隊のみに頼ることなく, 全面作戦を発揮し,動員機能を整備し,敵を 打ち負かすことが重要である(注71) 米華断交後,米国が台湾関係法を制定させた ことで,国府は「台湾」の防衛に関して米国か ら一応の保障を得ることができた。そのため政 府高官のなかには,楽観的な見通しを抱いた者 もいたのであろう。しかし同法は米国の国内法 であり,中国が台湾に対して武力を行使した際 に米国が介入するか否かは,すべて米大統領の 判断にかかっていた。蔣経国が目標としたのは, 国府単独で台湾を防衛する体制であった。 なお,この 1979 年 7 月の改編でもっとも大 きな変更点は,それまで特定の防衛担任地域を 与えず,「王師」作戦の尖兵として大陸に派遣 する態勢を維持させていた陸軍空降特戦司令部 に台湾東部の防衛任務を与え(注72),さらに同月 末日に同司令部隷下の特殊作戦部隊のうち 4 分 の 3 に及ぶ兵力を憲兵司令部に移管したことで ある(注73)。陸軍特殊作戦部隊の憲兵司令部への 移管は,1970 年代に国際社会で存在を増した テロの脅威に鑑み,治安維持機能を強化する目 的で行われたのだが,この移管にともない,こ れまで陸軍の特殊作戦部隊が担ってきた「王師」 作戦の任務については,他の陸軍部隊にロー テーションで担任させることとなった(注74)。従 来,「大陸反攻」作戦の第一波として大陸への 派遣に備えて即応態勢を維持していたのは,陸 軍の特殊作戦部隊に所属するきわめて少数の将 兵に限られていたのだが,その任務を一般の陸 軍部隊が交代で受け持つ体制に変わったことで, 多くの将兵が直接的に「王師」作戦任務に携わ ることとなり,結果的に国軍全体として「大陸 反攻」に対する意識を高める効果につながっ た(注75)。だが,1976 年に共産党の指導者が相次 ぎ他界したことによる大陸の混乱に際し,国府 では「大陸反攻」の機運が高まってはいたもの の(注76),特殊作戦部隊の能力不足もあって「大 陸反攻」を発動できなかったように(注77),それ は一朝一夕でこなせる簡単な任務ではなく,実 質的に「王師」作戦計画の「凍結」を意味して いた。そして,陸軍空降特戦司令部に特定の防 衛担任地域を与えたことは,「大陸反攻」に対 する国府の意思が強くはなくなっていることの 証左でもあった。 この改編直後,澎湖諸島において住民や物資 の動員をともなう大規模な「漢聲」演習が行わ れた(注78)。同演習では,空挺奇襲攻撃を主体と した解放軍の着上陸侵攻を想定し,国府単独で 澎湖諸島を防衛する作戦計画が検証された(注79) この演習を終え,蔣経国の気持ちは少し落ち 着いたのであろう。自らの日記に米華断交から 夏までの情勢を総括し,翌年の展望を綴ってい

(12)

る。 米華断交によって外交関係はなくなったも のの,相変わらず米国は我々を陥れようとす る計画をもっている。国府を消滅させること を急ぐべく,この後に重要な政治の時期が訪 れる。 国家建設会議と国民党 11 期 4 中全会を開 催した。これから軍事会議を開催し,軍事演 習も行う。米華断交からすでに 1 年近く経ち, 間もなく米華共同防衛条約が終了する。国家 全体の情勢をよい方向へ進めるため,将来へ の方針と計画を決定した。 来年は,米国大統領選が行われ,国際情勢 に大きな変化が起きるであろう。わが国は, 今年以上に危急の立場に立たされることにな る。 (中略) こうした厳しい環境のなか,筋道を通して かたづけていくことで,必ずすべての困難を 克服することができる。そして,自らを自立自 強の精神で奮い立たせることが重要である(注80) 蔣経国は,米華共同防衛条約が終了する時を 大きなターニングポイントとして考え,それを 境に訪れるかもしれない「危機」に備えようと していた。しかし,その先には米国大統領選挙 が控えており,その結果次第ではさらに厳しい 状況が待ち構えていることを覚悟していた。 10 月に入り,蔣経国は,長期的に反共復国 という大きな目的を達成するため,敵に危険を 冒す機会を与えないように軍備を充実させる必 要があるとの結論に至る。そして,30 年とい う長い「時間」をかけて,敵を凌駕する近代国 家に成長したことをふまえ,情勢が大きく変化 した時に,共産党政権が内部から崩壊するのを 待つことを決めた(注81) 11 月 8 日から 13 日までの間,国府は台湾お よびその周辺海・空域において,予備役の動員 をともなう 30 年来最大規模の実員演習を行 い(注82),改編後における国軍の防衛態勢を検証 した。そして 11 月 26 日から 6 日間,8 年ぶり となる大規模な軍事会議が開催された。これは, 蔣経国が総統として初めて主催する軍事会議で あり,蔣経国は国軍将校に意識改革を求め た(注83)。蔣経国は米華共同防衛条約の失効後に 米国が解放軍の台湾侵攻に際して軍を派遣しな いことを想定し,「攻守一体」戦略の重点を完 全に「台湾防衛」へとシフトさせ,国軍を「台 湾防衛」型の軍隊に改編させていくのであった。 4.海軍艦艇輸入先の多角化とカーター政権 の対華武器売却「再開」 1979 年 7 月,国防工業発展政策指導小組の 発足から半年が経ち,国防工業発展基金を用い た新規事業は装甲車,高速艇,戦闘機,対戦車 ミサイルのほか,各種部品の生産や設備投資な ど 15 件に上った(注84)。とりわけ,自主生産が 遅れていた海軍艦艇に関しては(注85),同基金に よって研究開発環境の整備が進むこととなっ た(注86) そして,海軍艦艇のなかでも潜水艦に関して は,中国が着々と配備を進めているのに対し, 国府は対潜訓練の標的用として米国から提供さ れた旧式艦を 2 隻しか保有しておらず,戦力差 が開き続けていることが課題となっていた。そ のため,1978 年末にカナダ在住華僑から提案 があった潜水艦の自主生産計画をもとに,同基

(13)

金の長期研究プロジェクトとして検討が始まっ た(注87)。この検討は,もっとも造船技術が高い とされた中国造船公司が中心となり,技術者を 米国と西独に派遣して検証が行われたのだが, 同計画が見積りよりも多額の経費を要し,かつ 技術的にも潜水艦を生産する段階には達してい ないとの結論に至り,自主生産は見送られ た(注88)。だが,これを契機に国府は海外からの 潜水艦調達に動き始め(注89),6 月にはイランへ の武器売却がキャンセルとなっていたオランダ 企業が,国府に対して潜水艦などを売却する意 向を示し(注90),1987 年の配備につながる交渉が 水面下で始まった。これと並行し,イタリアや ギリシャの企業からミサイル高速艇を購入する 検討も始まった(注91)。国府は,戦闘機について は保守・管理が煩雑になることを避けるため, 米国への依存を強めたのだが,艦艇に関しては 反対に調達ルートの多角化を進めていった。 一方,1979 年 10 月 14 日にワシントンで行 われた「米中(華―筆者注)文化協会」の晩餐 会において,ディーン AIT 理事長が翌年から 国府に対する武器売却を再開する旨を発表し た(注92)。その頃,米華相互防衛条約の失効後に 国府へ売却する武器の種類と,その発表の時期 について,ヴァンスがカーターに指示を仰いで いた。国府が要望したリストでは,高性能戦闘 機がもっとも優先順位が高かった。だがヴァン スは,F-4,F-16,F-18 といった高性能戦闘機 の売却を拒んだ理由に変更が生じていないため, 老朽化した F-104 の更新として欧州諸国で使用 している F-104G 戦闘機を国府に譲渡する考え を提案した。また,海軍艦艇用の短距離対空ミ サイルのほか,陸軍部隊用として改良ホーク地 対空ミサイルシステムなど総額 2 億 8770 万ド ル分の兵器を取りまとめ,1980 年 1 月初旬に 議会へ通知するとともに対外公表することを カーターに提案した(注93)。そして 1 月 3 日,米 国政府は台湾関係法に基づき,国府に対して F-104G などの「防御性」兵器を供与すること を発表した(注94) この発表を聞いた中国側は,1 月 5 日から訪 中したブラウンに対し,「非常に敏感な問題」 と懸念を示した(注95)。一方で中国側は,米国製 武器の売却を求めたが,ブラウンははっきりと 断ったうえで,航空機搭載用の電子機器など軍 事関連技術の移転については話し合う用意があ る旨を回答した(注96)。そしてブラウン帰国後, 国防省報道官は軍用トラック,通信器材など支 援器材のなかから慎重に選択したものに限り, 中国へ提供する準備があることを発表した(注97) 米中国交正常化にともない停止されていた米 国の対華武器売却は,台湾関係法に拠って早く も 1980 年に「再開」されることとなった。一 方で中国に対しては,「防御性」兵器すら売却 が認められなかった。国府は米華断交といった 危機に見舞われ,独自の国防態勢を早急に構築 しなければならない状況にあったのだが,米国 の武器売却は事実上途切れることなく「継続」 され,断交前とほぼ同じように国防建設を進め ることができるようになった。

Ⅲ レーガン政権への期待と国軍の「大

陸反攻」任務

1.国防工業の発展と次期戦闘機自主開発の 開始 1980 年 2 月,米国政府は,中国への防衛機 器の売却および技術移転について,国内企業に

(14)

示す基準の検討を進めていた(注98)。一方,中国 に対する武器売却を認めるべきでないとの意見 が国務省や連邦議会などから上がっていた(注99) また,国府に対する F-104G など「防御性」兵 器の供与を発表していたものの,売却を拒んだ 次期戦闘機に関して国内企業から方針転換の圧 力がかかっており,ブレジンスキーは再検討を 迫られていた(注100) 6 月に入ると,ノースロップ社が国府に対す る次期戦闘機の輸出許可を獲得したことが報じ られた(注101)。これに対して中国は,高性能な戦 闘機の売却は外交関係樹立に関する合意の原則 に違反するものと抗議するとともに,他の武器 についても 1980 年以降の売却継続を発表して いた米国政府を批判した(注102)。だが 7 月 10 日, 国務省報道官は,米華相互防衛条約の失効後に 慎重に選択された防御性の武器を国府に売却す ることは正常化交渉の際に説明しており,双方 了解済みであると反論した。また翌日には訪台 中のジェネラル・ダイナミックス社社長が,米 国政府の基準に合致させるようダウングレード させた F-16 を国府に売却する準備があること を発表した(注103) このように連邦議会議員や企業のみならず, 国務省サイドも国府への武器売却に前向きな姿 勢を示すなか,すでに売却が固まっていた F-104G などに加え,海洋観測艦,浮きドック, 燃料補給艦,哨戒艇の売却案が下院を通過した ことを国防省報道官が発表した(注104)。これら は,あくまで作戦を支援するための補助艦艇で あったが,直接的に戦闘を行う「防御性」兵器 の性能を最大限に発揮するためになくてはなら ない兵器であった。とくに,海洋観測艦は潜水 艦の行動を把握するために重要な役割を果たす 機密性の高い艦艇であることから,国府と米国 の防衛協力を証明するうえで大きな意義がある 決定であった。 一方,8 月ノースロップ社とジェネラル・ダ イナミックス社の技術協力を受けて生産された XAT-3 攻撃/練習機がロールアウトした(注105) また 9 月 26 日,国防部報道官は,国防工業発 展基金を運用してミサイル高速艇を購入し,ミ サイル高速艇中隊を新編したことを発表し た(注106)。同艇は,イスラエルから購入したドボ ラ(Dvora)級をベースに国府が「海鴎級」と して開発・生産したもので,国府が独自開発し た雄風 1 型対艦ミサイルを搭載していた[哈用・ 勒巴克2007,96-97;144-145]。これまで海軍艦艇 は,米国からの払い下げが主体であったため, 軍 機 関 紙 は 技 術 力 の 向 上 を 大 々 的 に 報 じ た(注107) そして,F-104 や F-5E が時代遅れになって いるにもかかわらず,米国が F-16 などの売却 に応じないことに痺れを切らせた蔣経国は,次 期戦闘機の自主開発を命じ,空軍航空工業発展 セ ン タ ー(AeroIndustryDevelopmentCenter: AIDC)が 自 主 生 産 防 御 戦 闘 機(Indigenous DefenseFighter:IDF)のデザインコンセプトの 作成に着手した[黄克武2016,527-528]。戦闘機 については米国からの調達にこだわっていた蔣 経国であったが,XAT-3 で培った技術を基に, 米国企業の技術援助を受けることで自主生産に 踏み切ったのである。 2.国軍の更なる人員削減と任務として残る 「大陸反攻」 1980 年 11 月 5 日,共和党のレーガンが現職 大統領のカーターを制し,米国の政権交代が決

(15)

まった。米中国交正常化の発表直後,レーガン がカーター政権を批判する声明を発表し,蔣経 国に支持を続ける旨を綴った書簡を送っていた こともあり(注108),蔣経国はレーガンに対して速 やかに祝電を送り,外交部報道官は「両国の実 質的関係が強化されていくことを信じる」と発 表した(注109)。また蔣経国は,総統府副秘書長の 宋楚瑜をワシントンに派遣し,宋と旧交のある 新政権のメンバーと接触させた[黄克武2016, 80-82]。そして 28 日には,レーガンの外交政 策顧問となったクラインが台湾を訪問し,空港 で記者団に対して「レーガン新政権は,台湾と の関係を完全かつ公正に執り行うことを約束す る」と語り,旧知の蔣経国との会談に向かっ た(注110)。カーター政権が進めた米中国交正常化 は覆ることは考えられなかったが,国府はレー ガン政権によって米華関係が安定することを期 待した。 1981 年 1 月 20 日,レーガンは第 40 代大統 領に就任した。その 1 週間前,蔣経国は国軍軍 事会議において,当面における国家の基本的立 場を示した(注111)。蔣経国の考えは,共産党が自 滅することを期待するものであり,「大陸反攻」 には言及しなかった。 また,前年末に行われた軍事会談において蔣 経国は,国防予算に占める人件費の割合が 50 パーセントを超えていることを問題視し,人員 を削減して武器等の購入に充てるように指示を していた。台湾海峡の制海権と制空権を重視せ ざるを得ない状況に鑑みると,おもな削減対象 は陸軍兵力であった(注112)。この削減の圧力に対 し,陸軍総司令の郝柏村は「攻守一体」戦略が 当面のところ守勢作戦を重視していることを認 めてはいたものの,「大陸反攻」に必要な戦力 は一朝一夕では築けないと考え,単に予算上の 理由から更なる人員削減に踏み切ることに不満 を抱いていた。だが,蔣経国の指示には従わざ るを得ず,作戦部隊に影響しない形で人員削減 を進める構想を国防部に提起した(注113) 米華相互防衛条約が失効したことで,国府は 単独で「台湾」を防衛することを想定しなけれ ばならなくなったため,「台湾防衛」型の軍隊 へ改編することは不可逆の流れであった。だが, 「大陸反攻」の任務が残る限り,反攻作戦の主 力となる陸軍としては,簡単にはそれを受け入 れることができなかったのである。 3.レーガンの対中・対華武器売却の決断と 国軍の「大陸反攻」イデオロギー 1981 年 1 月 25 日,孫運璿行政院長がニュー ヨークタイムズ紙の取材に応じ,レーガン政権 の速やかな武器売却に期待を示した(注114)。そし て,米国国内でもレーガン政権が新たな戦闘機 を国府に売却することに期待がかかってい た(注115) 4 月 23 日,CCNAA は,米国国防省が連邦 議会に対して FY82 における 5 億ドル相当の対 華武器売却を提案したことを発表した(注116)。し かし,米国政府からの公式発表はなかった。そ してヘイグ国務長官の訪中に先立つ 6 月 4 日, 米国政府は対ソ戦略上の考慮から,中国に武器 を売却する意向を明らかにした(注117)。16 日, 北京でヘイグが中国に対する武器売却禁止の解 除を発表[平松1985,113-116]したことを受け, レーガンは記者からの質問に対し,中国は必ず しも同盟国ではないものの,他の多くの国と同 じように特定の技術や武器を売却することは関 係改善を進めるうえで正常なプロセスであると

(16)

回答した。また,国府に対するレーガン個人の 気持ちが変わっていないことを述べたうえで, 台湾関係法にしたがって防御性兵器を売却する 考えがあることを示した(注118)。レーガン政権 は,国府に対する武器売却よりも先に中国への それを公式に発表したのである。 レーガンの発言に対し,国府側では外交部報 道官が「不幸な決定」だと発表するも,レーガ ンが東アジアおよび太平洋地域の平和と安定の ために採った措置として理解を示した。また, 行政院新聞局長の宋楚瑜は「伝統的な友好関係 は不変であることを確認した」と意見を述べ た(注119)。国府は,レーガン政権が中国に対して 売却する武器以上の性能をもつものを提示して くることを期待し,待つしかなかった。その後, レーガンが国府に対する武器売却に踏み切る意 向を示したのは,12 月 17 日の定例記者会見後, 執務室へ戻る途中で記者から投げかけられた質 問に答えた時のことであった(注120) しかし,レーガンが武器売却を明言する直前, 台湾防衛作戦計画の検証を目的とした「聯強七 号」三軍統合演習を行った国府は,中国が米国 に売却を求めている C-130 輸送機を解放軍が配 備し,空挺作戦能力が大幅に向上した状態を想 定していた(注121)。レーガン政権の中国に対する 武器売却が国府に与えた衝撃は大きく,国軍は 最悪のケースを想定したシナリオを作成してい た。とはいえ同演習間,参謀総長に就任して間 もない郝柏村は,作戦会同において「攻守一体」 と「反攻の好機を創出する」ための具体的措置 について検討を命じ[郝柏村1995,24],国軍全 体で「如何に大陸反攻の好機を創出するか」と いう命題に取り組んでいた(注122)。解放軍の戦力 が台湾本島を脅かすことを想定するようになっ ても,「大陸反攻」は国軍の任務であり続けた。 そして「大陸反攻」のイデオロギーは,国軍で はもはや当たり前の観念として存在していたの であった。 4.レーガン政権による対華武器売却方針の 決定と国府の対応 1981 年の年末,レーガンは FY83 における 国府への武器売却を明言した。しかし,ヘイグ はレーガンに対し,国府に対する武器売却は米 中関係の発展に障害となるため,現状ではカー ター政権のレベルを超えるべきではないと進言 したうえで,「上海コミュニケ」に代わる新た な米中コミュニケの発行を提案した(注123) そして 1982 年 1 月 10 日,レーガンは,F-5E の共同生産を継続し,将来的には老朽更新用と して適切な戦闘機を提供することを決定し た(注124)。翌 11 日,国務省は国府に対する武器 売却を公式に発表するとともに,そのなかに国 府が求めていた高性能戦闘機が含まれないこと を明らかにした(注125)。ただし,国務省の公式発 表では,将来的に F-16 などの高性能戦闘機を 提供する可能性があることは示されなかった。 この発表に対して蔣経国は,レーガン政権が 台湾の防衛のために継続的な支援を表明したこ とに焦点を当てて肯定的な評価を示したうえで, 米国政府に対し,今後も国府の防衛上の必要性 に応じ,戦闘機の提供に関する計画の見直しを 行うことを要望した(注126)。一方,2 月 19 日に 立法院では,米国政府が高性能戦闘機の提供を 拒んだことについて国民党籍の立法委員らが質 問し,これに対して宋長志は,中国が 1980 年 代半ばには第二世代戦闘機を完成させ,1980 年代末期には量産を始めるとの見積りを示した

(17)

うえで,台湾海峡の航空優勢を維持していくた め,引き続き F-16 や F-18 といった高性能戦闘 機の提供を求めていく旨を説明した。また,こ の質疑応答において宋は,国府が独自に高性能 戦闘機を生産する計画があることを公表し た(注127) さらに 4 月 12 日,行政院は立法委員からの 文書での質問に対し,武器輸入先の分散を進め ていくなかで,フランスのミラージュ戦闘機の 獲 得 が 第 1 目 標 で あ る こ と を 明 ら か に し た(注128)。そして 5 月,フランスが台湾に代表団 を派遣し,彼らを迎えた郝柏村はミラージュ 2000 やフランスの軍事科学技術に強い関心を 示した[郝柏村2000a,102]。かつて蔣経国は戦 闘機の調達先を米国にこだわっていたが,国府 に友好的な態度を示すレーガンでさえも高性能 戦闘機の売却を渋ったことから,米国以外から の調達に舵を切ろうとしていた。 国府が米国政府に対して F-16 などの高性能 戦闘機を求めると同時に,次期戦闘機として自 主生産や米国以外からの調達をアピールしてい くなか,米国政府は 7 月 16 日,台湾で行われ ている F-5E の共同生産の追加を中国政府に伝 達した(注129)。だが当時,レーガン政権の対華武 器売却政策をめぐり,米中関係は悪化の一途を たどっていた[平松1985,113-118]。そのため, 両国政府間で政治交渉が行われ,8 月 17 日に「台 湾向け武器売却についての米中共同コミュニ ケ」(「第 2 上海コミュニケ」)が発表され,米国 が台湾に売却する武器について性能と数量の面 で制約が課せられることが明記された(注130)。た だし,コミュニケ発表に先立つ 7 月 14 日,レー ガンが蔣経国に対し,米国政府の立場が台湾関 係法に重きを置いており,国府への武器供与政 策に変更はなく,F-5E の共同生産を検討中で あることを伝えていた(「6 つの保証」)(注131)。レー ガンは中国側との合意をひそかに骨抜きにし, 国府への武器供与を継続させた [若林2008,116-117]。そして 8 月 19 日,レーガン政権は連邦 議会に対し,今後 2 年から 2 年半にわたり,台 湾で F-5E と F-5F を共同生産することを正式 に通知した(注132) 米国から最新鋭の高性能戦闘機こそ獲得する ことはできずとも,1973 年以降 F-5E の共同生 産は絶えることなく続いていた。だが,増強を 続ける解放軍の航空戦力に対し,国府独自で台 湾海峡の航空優勢を保つためには,より高性能 な戦闘機を保有する必要があり,自主生産や米 国以外の国からの調達を考えざるを得なかった。 一方,米華断交後の 1980 年から検討を始めて いた「国軍戦力地下化計画」のうち,台湾東部 沿岸に所在する花蓮空軍基地の地下化計画が 1983 年 4 月 12 日の国軍軍事会談において蔣経 国に承認された(注133)。国府は高性能戦闘機の導 入によって航空戦力の増強を目指すのと同時に, もっとも重視する航空戦力を防護するため,そ の施設建設を進めていった。 なお,1983 年 3 月 3 日の参謀会同において, 郝柏村は各軍種の総司令に対し,厳しい要求だ と理解を示しつつ,更なる人員の削減を求め た(注134)。1981 年以降,蔣経国の指示に基づき 進められてきた国軍の人員削減は,そのおもな 対象が陸軍であったため,陸軍総司令であった 郝柏村は「大陸反攻」に必要な兵力まで削がれ ることに不満を抱いていた。だが 1981 年 11 月 に参謀総長へ就任し,さらに翌年に中山科学研 究院院長を兼務することとなった郝柏村は,作 戦のみならず研究開発をも統括する責任者とし

(18)

て限られた予算を武器購入に費やす必要性を認 め,自ら先頭に立って人件費削減を進めたので ある。そして 1983 年 9 月から 3 年間の計画で, 再び陸軍部隊の大幅な削減が始まった(「陸精 4 号」計画)(注135)

Ⅳ 

「台湾防衛」型の軍隊への変貌と将

来的な「大陸反攻」への望み

1.国軍の究極的な目標「大陸反攻」とその 実態 1984 年 5 月 20 日,中華民国第 7 代総統とし て再任された蔣経国は,就任演説において基本 国策である「反共復国」を絶対不変の大前提と したうえで,「三民主義による中国の統一」を 訴えた(注136)。また,蔣経国の総統再任が決まっ た 3 月の国民大会において,郝柏村が前任の宋 長志と同様に国軍の目標を「復興基地を堅固に し,大陸反攻の好機を創出する」と説明してい るように(注137),究極的な目標が「大陸反攻」で あることも変わりはなかった。 6 月に入ると米国は,中国に対して地対空ミ サイルや対戦車ミサイルなどを売却することを 発表した。しかしその 1 週間後,米国は FY85 で国府に売却する予定の武器に,中国が欲して いた C-130H 輸送機が含まれることを明らかに した(注138)。かつて国府は,大陸に多くの部隊を 送り込むための手段として輸送機や揚陸艇を米 国に要求していたが,「現状維持」を望む米国 はその売却を認めなかった。だが,1984 年の 時点で,国軍はなおも大陸に小規模な突撃部隊 を送り込む「天威」特攻作戦の訓練を行ってい たにもかかわらず(注139),米国は国府に対して C-130H の売却を認めた。ただし,その訓練は, 既に「大陸反攻」を目的としたものから,「台 湾防衛」作戦の準備段階において中国大陸の レーダーサイトやミサイル陣地を攻撃したり, 兵站補給など後方連絡線を遮断したり,解放軍 の戦力発揮の妨害を想定したものに変わってい た(注140) なお,当時の国防予算の配分について郝柏村 が制空 3:制海 2:対着上陸 1 と説明している ように[郝柏村2000a,684],国防建設の重点は 空軍主体の制空作戦能力に置かれており[郝柏 村1995,7-8],航空機や艦艇に比べて装甲車な どの陸軍装備の研究開発が遅れていた。それに 目を付けたシンガポール在住華僑から,西ドイ ツのレオパルド戦車の購入を仲介する申し出が あった。だが,陸軍側は研究開発中の M48H 戦車以外に費やせる予算がないとの説明に加え, レオパルドの重量が台湾本島の地形に適さない と評価し,この提案を断った(注141)。広大な中国 大陸で作戦を行うのであれば,世界屈指の性能 を誇るレオパルドは理想的な戦車であった。だ が,究極的な目標として「大陸反攻」を掲げ続 けていたにもかかわらず,国軍が戦車を運用す る戦場として想定していたのは狭小な「台湾」 であった。 2.厳しい人員削減要求と「制空」・「制海」 を任務とする陸軍部隊の新編 1985 年に入り,1983 年 9 月から 3 カ年の計 画で行われている人員削減は,間もなく折り返 しを迎えようとしていた。だが,各軍種から出 る不満の声は大きく,順調には進んでいなかっ た。1985 年 1 月 14 日,第 2 次参謀会同におい て郝柏村は,各軍種の総司令などに対し,各軍 種が自己本位になり,なにも考えずに一律の割

(19)

合で人員削減を進めている傾向があることを指 摘し,任務上の必要性から削減対象を検討して 厳正に執り行うことを指導した。とりわけ「陸 精 4 号」計画に基づき大幅な人員削減を求めら れている陸軍に理解を示しつつも,確実な執行 を強く要求した(注142) そして 5 月 4 日,郝柏村は陸海空軍の各総司 令部などに対して「無効な兵力」を淘汰する計 画を示した。この計画で示されたのは教育訓練 機関の整理統合などであり,削減対象となった 人数は少なかったが,明示された事項に限らず 更なる削減を要求した(注143)。これ以降,ひと月 当たり 2 ~ 3 回ほど行われる作戦会報において, 参謀本部は時に具体的なポストを示し,各軍種 の 司 令 部 に 人 員 の 削 減 を 求 め 続 け て い っ た(注144) 「陸精 4 号」などの大幅な人員削減計画の完 了まで半年と迫った 1986 年 2 月 6 日,蔣経国 は国防部長,参謀総長,陸海空軍の各総司令に 対し,「現在,三軍の人数は多くはないが,領 域もまた大きくはないので,兵力は十分に足り ている」と削減状況に満足を示しつつも,「表 面上や形式上の規模にとらわれず,少数精鋭の 原則に応じて整備を強化せよ」と暗に更なる削 減を要望した(注145)。蔣経国が示した国軍の行動 する「領域」は,広大な「中国大陸」ではなく, 狭小な「台湾」であった。 この蔣経国の指示に基づき,「陸精 4 号」に 引き続き人員削減を進めるため,新たに「陸精 5 号」計画の検討が始まった(注146)。そして 7 月 1 日,「陸精 4 号」の期日まで 3 カ月ほど残っ ていたが,「陸精 5 号」計画に基づく陸軍部隊 の更なる削減が始まった(注147) このように陸軍部隊が大幅に削減されていく なか,陸軍に地対艦ミサイルの部隊を新編し, 離島に配備した。その部隊には,イスラエルの 「ガブリエル」対艦ミサイルを地上発射式に改 良した「雄風 1 型」が装備された(注148)。そして, さらに射程を延伸させた「雄風 2 型」の配備に 向け,その運用構想の検討を進めた(注149)。また, 米国ヒューズ社の技術援助により自主開発を進 めていた「天弓」防空ミサイルシステムの部隊 新編を進めた(注150)。かつて「大陸反攻」のため に大規模な陸上戦力の維持に努力していた陸軍 が,より遠方で解放軍の侵攻を阻止するため「制 空」および「制海」に重きを置いた「台湾防衛」 型の軍隊へと変貌を遂げようとしていたのであ る。 3.戒厳令の解除と国軍の対応 1986 年 10 月 7 日,蔣経国は 1949 年以来続 く戒厳令を解除する方針を示した[蔣経国先生 全集編輯委員会1991,175-178]。そして 15 日に 開催された国民党中常会会議において,「反乱 鎮定動員時期臨時条項」の改正が全会一致で決 定された(注151) 戒厳令解除に関する検討が続くなか,1987 年 3 月 6 日に行われた立法院第 1 期第 79 会期 の会議において,立法委員からの質問に対して 兪国華行政院長は「政府の大陸政策は,基地建 設を強化し,大陸反攻の好機を創出することで ある」,「我々の大陸政策は,三民主義によって 中国を統一することであり,これは単なるス ローガンではなく,もっとも重要な目標である」 と回答した(注152)。しかし,郝柏村が 5 月 13 日 の日記に「我々は台湾において反共復国の努力 を 40 年近く続けている。大陸光復の任務は未 だ達成できていないが,我々は失敗もしていな

参照

関連したドキュメント

第1事件は,市民団体が,2014年,自衛隊の市内パレードに反対する集会の

Standard domino tableaux have already been considered by many authors [33], [6], [34], [8], [1], but, to the best of our knowledge, the expression of the

The edges terminating in a correspond to the generators, i.e., the south-west cor- ners of the respective Ferrers diagram, whereas the edges originating in a correspond to the

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”

1988 年 の 政 変 は, ビ ル マ 社 会 主 義 計 画 党(Burma Socialist Pro- gramme

主に米国市場においてインフレのピークアウトへの期待の高まりを背景に利上げペースが鈍化するとの思惑