コミュニティ政策学会 第9回大会
鼎 談 『地域主権改革』と地方自治、コミュニティ政策のゆくえ
鼎談者 佐藤 克廣(北海学園大学法学部教授) 名和田 是彦(法政大学法学部教授、本学会会長) 高野 馨 (札幌市役所市民自治推進室室長) コーディネーター 中川 幾郎(帝塚山大学大学院教授・当学会副会長) 2010年7月10日(土)於北海学園大学(札幌市) 中川(コーディネーター) それでは鼎談の「『地域主権改革』と地方自治、コミュ ニティ政策のゆくえ」を始めます。まず、少し問題意識を整理しておきます。 表題の『地域主権改革』という言葉にカギ括弧がついています。そもそも地域 主権改革という言葉が大変ムーディーな言葉であって論理的ではないのでは ないかという疑問を持っている人が多いと思われます。私もその1人です。 鳩山政権以来、民主党が掲げている地域主権という言葉は、いわゆる政治学 的に言う主権ではないと。地方分権をもっと強めようという程度じゃないか、 というふうに受け取られている面もあります。そこで国が行おうとしている 地域主権戦略というのは、いったい何なのかということを少しおさらいして おきます。 この6月(2010年)に地域主権戦略大網案が出ました。これは平成24年の夏 に成案にする予定だと書かれています。そこには、「地域主権とは、日本国憲 法の理念の下に、国民に身近な行政は、地方公共団体が自主的かつ総合的に 広く担うようにするとともに、地域住民が自らの判断と責任において地域の 諸課題に取り組むことができるようにするための改革」とあります。ですか らこれは主権というよりは、地方分権の徹底と理解した方が正確ではないか と思います。その後段に書かれているのは、「そのベースは地方自治の本旨に 戻るべきだ」ということです。さらに地方でできることは地方でやる、それ ができなければ国がやるという、国と地方の補完性の原則を確認しています。一方で地域主権戦略大綱を検討する組織として、国において2つの会議が 作られています。1つは「地域主権戦略会議」です。その議論を私が知り得る 限りにおいて整理しますと、4つの部会が動いているということです。 第1の部会は国庫補助金の一括交付金化を検討するものです。新聞紙上で は、公共土木関係の補助金に関しては一括交付金化に踏み切ることが内定し たとありました。第2の部会は地方の出先機関の統合・廃止に関する部会で す。この部会では、ハローワークを地方に移管しようという動きに対して、 こういうものは国の責任においてやるべきではないかという議論があって押 し戻したと言われています。第3の部会は国の法律による枠付け、義務づけ の見直しを担当しています。2000年4月に地方自治法の大改正があり機関委 任事務が廃止されましたが、あれは不完全分権であるという批判もあります ように、様々な協議、同意、許可、認可、承認という枠が多く残存していま した。これを3つの標準で洗い直そうということです。1つ目が絶対に従うべ き基準、2つ目は標準枠としての基準、3つ目が参酌すべき基準です。こうい うものに緩めようという話です。この第3部会の作業内容に対しても、喜ん でいる人達ばかりではありません。例えば保育所の設置基準とか障害者施設 の設置基準等について、国の最低基準ともいうべきナショナルミニマムが外 されてしまうと、水準が一気に悪化する可能性があるのではないかと危惧す る意見が出ています。4つ目の部会は、基礎自治体への権限移譲を担当して います。基礎自治体への権限移譲については、たくさんのリストが出ていま す。このようにある程度地方分権の内容が示されてきています。 一方、総務省所管の地方行財政検討会議では、現在、地方自治法の抜本改 正に関する議論をやっています。その議論の大筋は、地方公共団体の基本構 造のあり方、首長と議会の関係、監査制度、そして財務のあり方と4つの柱 で議論がなされています。この中でも、二元代表制のままでいいのか、今の 議会のあり方はこれでいいのか等の議論の中身も漏れ聞こえております。 そのようなバックグラウンドがありますが、まず、佐藤先生に「コミュニ ティから見た地方政府」という主題で問題提起をいただきたいと思います。 佐藤 「コミュニティ」ということが言われるようになってきた背景は、いわゆ
る農村型コミュニティが無くなってきた、すなわち地域に生活の基盤とする 場が無くなってきたので、何らかの形で再生をしないと、地方政府の運営は もとより、人々の生活がうまくいかないのではないか、という危惧からきて いると思います。 農村では、田んぼを作るにしても畑を作るにしても、必ずしも家族の中だ けで完結するものではなく、地域の助け合いが非常に重要な要素としてあっ たわけです。それがないと農業をやっていけない、生きていけないという観 点からコミュニティが存在していたと思われますが、それが崩壊していって います。 なぜ崩壊したかと言いますと、農業や漁業、林業という従来型のコミュニ ティを支えていた生産の価値というものが低くなったからです。アメリカで は、20世紀に入りましてフレデリック・テーラーの科学的管理法が提唱され ます。生産過程を科学的に分析して、合理的な方法で生産活動をしていくと いう運動が出てきました。効率や有効性といったものを科学的な管理方法に 基づき実現していくことこそが近代化なのだというイメージが出てきます。 しかし、従来型の農村型のコミュニティは、そうした科学的手法からはかけ 離れた、ある種の情緒的な人間同士のつながりに依拠していますので、そう いうやり方では生産性が低くなるというのがテーラー主義の主張です。 現代では、農業や漁業の経済価値が低下してきたのに対し、工業を始めと する第二次産業、第三次産業の経済価値が高まりました。その過程で農村の 役割が小さくなって、コミュニティが縮小していくという動きがあったと思 います。それに加えて、テーラーの科学的管理法のようにその動きをさらに 促進するようなものが出てきたわけです。 ところが行政学の教科書には、科学的管理法を紹介した後に、いわゆるホー ソン実験の人間関係論というものを紹介することになっています。この人間 関係論とは何か。農村部から人を引きはがして工場生産に持ってきて効率性 を図ったが、その効率化が本当に工業生産あるいは経済の発展に役立ったの かどうかを検証しようとしたわけです。その結果、単に科学的に厳密に管理 しただけでは会社はうまく動かない、もっと違う方法が必要だということが 発見されました。それは何かと言えば、実は農村型コミュニティのような濃
密な人間関係だったのです。 私が行政学の講義で話すときは、よく『釣りバカ日誌』を引いて、社長さん と平社員が仕事を離れた関係を持つことが、実は会社をうまく動かすのだと いうことを言っています。ただ、人間関係が良くなれば会社の生産性が上が ると言ったときの動機は何であるかというと、結局は、会社の生産を上げる には、どうやって人間関係をコントロールするかという話でしかなかったの ではないかと思います。しかしながら会社の中に、ある種のコミュニティ類 似の人間関係を入れ込むという考え方は、正に会社をコミュニティにしてし まうという形で、会社の生産性を上げるのに寄与してきたのではないかと言 われています。日本にいますと、「別に当たり前のことを言っているだけじゃ ないか」と思うのですが。日本の会社は、社員あるいは家族まで丸抱えにす るというシステムでもって、会社の生産性を上げるというふうにしてきたわ けです。そのことが農村型コミュニティの崩壊を補完して、社会は崩壊しな かったと言えるかもしれません。 では何でまた、最近コミュニティなのかということですが、結局は会社が 社員ないしは家族まで丸抱えするようなシステムが通用しなくなった、ある いはそこまでの面倒を見きれなくなったということではないかと思います。 また、会社をリタイアされた方々が地域に帰ってきていて、一応お金は持っ ているけれども、隣家の住人も知らないというのが大概の男性の傾向ですか ら、それをどうするのかという問題意識も一方であります。 その年代の人たちは、結局リタイアしても会社という幻影を追い続けてい るのかもしれないと思う一方で、もっと地域に帰って地域の活動をした方が 良いと単純に言えるのだろうかという疑問があります。 もう1つは、現役で働いている人たちは既に核家族化していて、子育てを するにしても、地域はもう子育てができる環境ではないのです。そういうこ ともあって、もう一度コミュニティを見直さなければいけないという議論が 生じているのではないかと思うわけです。 さて、コミュニティとは一体どういう意味か少し調べてみますと、原語は ラテン語の「コミュニス」です。共同生活している集団というのが本来の意味 のようです。英語でもcommunity of interestという例文が出ていて、日本語で
は「利害の一致」ということなんです。 そこで、コミュニティという概念なり考え方を源からたどって、農産型社 会のコミュニティが何で必要だったのかというと、先ほど「生きるためだ」と 言いました。つまり、コミュニティを、「生きていくために必要な人と人との つながり、家族を除く人とのつながりの最小ユニット」と考えてはどうかと 思うわけです。すると、そういう意味でのコミュニティは、必ずしも地域で ある必要はありません。 ですから、コミュニティというのは、一定の地域に縛られているというこ ことだけでなく、1人の人間から見ればあちこちにコミュニティは遍在して おり、1人の人間が複数のコミュニティに属し得る可能性もあると思うわけ です。そうなると、地域というものを前提にしたコミュニティ論では、現在 の社会状況には当てはまらないと思えるわけです。 まちづくりということを、近隣だとか土地といったようなものから少し切 り離して考えてみたらどうか。つまり、土地にしがみついた市の行政の発想 ではコミュニティは復活しないということです。 コミュニティというのは、生きるために人と人がつながる最小のユニット =手段であって、みんなで生きていこうという目的を離れて、従来型の土地 に縛りついた農村型のイメージでコミュニティを論じただけでは、本来手段 であったコミュニティを目的化してしまう可能性があるのではないかという ことです。 そうなりますと、会社の中で生きてきた人間を、会社に頼らない、会社人 間でなくても生きていける道をつくりあげる何らかの政策を政府が考えてい かない限り、コミュニティの再生は無理ではないかと考えます。 要は、そういう政策は、生活全般ということになり、従来の福祉や教育の 問題はたくさん研究もありますが、労働問題からコミュニティを見るという 視点をもう少し強調しても良いのかもしれません。 つまり、コミュニティを担当している部局だけではなくて、地方政府が担 当する政策全般をいかに有機的につなげて、地域の人たちがきちんと生活し ていけるかが基本となります。 政府の政策と言えば、社会に何らかの変化を起こそうとして、社会に働き
かける政府の手段ですから、当然コントロールという要素が入ってきます。 それと地域が生きていくということをどうつなげていくか、その意識が果た してどれぐらいあるのかと思います。 よく言われる「新しい公共」とか「協働」などで意義づけされている自治体政 府の政策が何であるのかをもう一度捉え直さない限り、いくら行政側がコ ミュニティと言っても、現実の我々の生活は良くなりはしない。結局は、自 分たちの自発、あるいは自立として考える問題だと思います。だからこそ、 地域に頼らなくても、地域に限定されなくても大丈夫だと考えられる、そう いう自立、自発と政府によるコントロールをどう結びつけるかということが、 正に重要な今後の課題ではないかと思います。 いわゆる小さな政府にするためには、コミュニティやNPOなどの活動を行 政側から活用することが必要だと言われていますが、果たしてそういう発想 だけで良いのか。じゃあ今さら大きな政府に戻るのかというと、それはコン トロールを強調する政府ですから、大きな政府になるとコミュニティの自律 をむしろ無視するはずです。コミュニティは生きるために必要な手段だとい う意味では、大きな政府が全部面倒を見てくれるということになればコミュ ニティはいらないということになります。 ですから、その中間のどこかに、何らかの形でコミュニティと地方政府と の接点があるはずで、その中間は揺れ動きながらどういうコミュニティがい いのか、今後じっくり考えていかなければいけないということです。 中川 どうもありがとうございました。大変挑戦的な報告でした。それでは名 和田先生からは、テーマに沿ったお話しと、佐藤先生が提起してくださった ことに対するお考えをお聞きできるものと思っております。よろしくお願い します。 名和田 佐藤会員がおっしゃいました「コミュニティとは生きるために結びつ いている人と人の最小ユニット」という定義は、私はそれでいいと思ってお ります。ただ地域に生きるということは、人間にとって本質的な意義がある と考えていますから、コミュニティという言葉を地域コミュニティと同義に
使うのは、それほど不合理ではないと思っています。 そういう観点で地域コミュニティと呼ばせていただきますと、「生きるため に結びつく人と人との最小ユニット」は、実は市町村であるはずなんですね。 この点、日本ではそんなにはっきりしておりません。そもそも自然集落とは 何であるかということについて、大雑把な見取り図を描きますと、日本にお いても欧米においても、「人と人が生きるために結びつく最小ユニット」は市 町村であると、つまり自然集落を近代国家の政府が、「お前たちが最小ユニッ トだ」と位置づけた、これが近代地方自治制度の出発点であったと思うので す。 ところが文明的に生きていくために、その市町村に求められる役割が大き くなりますと、どうしても合併をするということになります。それで日本で は、明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併と、合併を重ねてきたわけ です。しかも日本の場合、非常に特徴的なのは、「生きるために結びつく人と 人との最小ユニット」のところに対して、何の制度的な手当もせずに、その まま市町村が大きくなったという点です。 ヨーロッパなどでは、制度的に合併によって捨て去られる最小ユニットに 対して、それではまずいから、何らかの制度的な位置づけを与えてきました。 都市内分権というのは正にそういう仕組みであったし、農村部ではそのまま 自治体として残すことを認めるという仕組みもたくさん存在しています。 ところが日本では、そういう制度的な手当を何もしないまま3回も合併を やりました。その結果、地方政府とコミュニティの距離が非常に大きくなっ た。だからコミュニティと地方政府の間に、コントロールとか協働といった 相互に異なる2つの実体の関係ができる。私は基本的には、以上のような整 理でいいと思っているのですけれども、最近もう1つ別の話を付け加える必 要があると考えています。 アメリカの60年代の様々な住民運動をリードした流派の中の1つに属して おりますミルトン・コトラーという人の理論として、『近隣政府論』がありま す。これを私なりに咀嚼すると、合併にはもう1つ別の歴史があったと言う わけです。コトラーがアメリカについて言っているところを参照すると、産 業化、工業化のある時期に、巨大な経済力、工業力を持っている、たぶん港
湾も持っている大都市が、自治体の経済政策として、港湾など都市中心の機 能に投資をするために周りを合併して合併してそこから税金を取った、つま り都市中心による周辺部の搾取ということがあったというのです。確かにそ う言われると日本の横浜なんかもそうではなかったかと思われるんですね。 だから合併の主旨の1つは、行政サービスの水準を向上させる、つまり小 学校を経営するとか中学校を経営するとか、という要請があったことは間違 いないけれども、もう1つは、都市中心が周りから搾取するために合併した という歴史があるんじゃないかと思うのです。私はこれを、膨張する資本主 義的都市の一体的管理などと説明していたこともありますが、もう少し政治 支配的なものであったと考えるべきではないかと今は思っているところで す。 さらに、この中心部による周辺自治体の合併というのは、周辺が自立した 自治体であったならば、その自治体が経済的に自立していけるために、地域 の小さい産業や商店街を保護していくといった政策を自立的にできたわけで すが、それが合併によって無くなってしまうと、周辺であったまちが衰退す るわけです。しかし、こうやって周辺部の犠牲において成長した大都市も、 その後ナショナルな規模で一極集中が進むことによって、次第に一極集中の 波に洗われていくということをコトラーは示唆しております。これを読むと、 現在のグローバライゼーションが一国規模で起きていたわけですね。 先ほどの基調講演のお話を振り返りますと、グローバライゼーションの下 で産業地区が限界に突き当たっていくという批判に触れられて、いやそう じゃなくて小企業のグループ化、ネットワーク化という形で残っていくんだ という展望をお話いただいたかと思いますが、こういうグローバル化対コ ミュニティレベルの産業の対抗は歴史的にはもう何回も繰り返されてきたと いうことを私はミルトン・コトラーから得ていましたので、今日のお話は非 常に興味深く伺ったところであります。 基調講演のお話の中で非常に興味深いのは、コーディネーターと称する人 が様々な主体を結びつけてネットワーク化をしていくというイメージです。 本来は先ほどのお話でいきますと、「生きるために結びつく最小ユニット」が もし自治体であるならば、コーディネーターを担うのは地方政府のはずなん
ですね。地方政府の本質は何かというと、基本的には法人格、課税権、条例 制定権を持っているという存在です。こういう存在にして初めて、十全に一 定の地域に秩序をもたらすことができる。ところが合併によって、その最小 ユニットは自治体としての地位を奪われてしまった。今や法人格も課税権も 条例制定権も持っていない。そういう手足をもがれた地域コミュニティが、 新しいグローバライゼーションの下で地域経済を守っていくためには、自治 体がコーディネーターになるという話になるんだなと受け取りました。 高原先生の「地域経済と地域社会のネットワーク概念図」の1番上には自治 体という存在がありますけれども、自治体というものが、最近流行の言葉で 言うとパートナーとして関わっていくというイメージになっていると思いま す。ですから生きるための最小ユニットであったはずの市町村が、最小ユニッ トを置き去りにしたまま非常に大規模になっていることに、大きな危機が今 襲ってきていて、この最小ユニットと大規模化した地方政府がもう1度連携 して何とか乗り切っていくしかない。これが協働と言われている内容だと思 います。ここでようやく主題に結びついてきました。非常に大規模化してし まった地方自治体と、本来は生きるために必要な最小ユニットであるはずの コミュニティがどういう関係に立つかということで、今、提起されているの が「地域主権改革」だとか「協働」だとか「新しい公共」だとかという諸々の政策 理念だと思います。 この話を本来は詳しくするはずだったのですが、大幅に省略して「日本の 市民社会意識」にだけ触れて、発言を締めくくりたいと思います(『コミュニ ティ政策』4号、「日本人の国家意識」参照)。再び先ほどのミルトン・コトラー に戻りますと、彼は中心都市自治体の餌食になって自立性を奪われた周辺の 地域に、もう1度法人格と条例制定権と課税権を持った近隣政府を取り戻す べきだと提案していますが、その第1歩として彼が考えているのは私法人な んです。現在CDC’sとして注目をされていますコミュニティ開発法人がその 具体的な存在です。彼はそういう法人に実際携わっていたので、とりあえず 私法人として、しかし当該地域に責任を持ってそこを経営していくようなイ メージを持っていたのでしょうが、それが公法人として認可されれば、これ こそ近隣政府になっていくと、そういう戦略を持っていたように私は読んで
います。 この点、日本の場合は、せっかく合併したものを、法人格と課税権と条例 制定権を戻す、要するにもう1度市町村にするというようなことを政治家は 全く考えないで、コミュニティはそのままで自立的にやっていきなさい、行 政とは協働していきますという話になっているのです。しかしこういう地方 政府とコミュニティとが別の存在として対峙し合いつつ連携をしていくとい うスタイルの地域づくりを、住民の側も受容していると思います。 やはり政府とか国家とか言われるような公的な仕組みに完全には入りきら ないコミュニティのあり方を、少なくとも日本列島に住んでいる人たちは選 択しているように思われます。こういうスタイルで今後も行ってみようと考 えているのではないか。こういった国民的合意で大きな政府にならないよう 社会を維持して、コミュニティプラス中ぐらいの政府でやっていこうとして いる、私はここに日本独特の市民社会意識があると思っています。 そういう環境の下で地域主権改革というのが提起をされていて、そこには そういう環境に規定された独自さがあると思うんですね。「地域主権」の「地 域」というのは、地方公共団体のことであるはずなんですけれども、議論は いつの間にかコミュニティにシフトしていっているんですね。このような独 自性、あるいはもうちょっと批判的に言えば怪しさですね、こうした怪しさ が「新しい公共」という概念の中にも見い出されると思います。 こういう局面の中で、この学会がコミュニティ政策をどのように考えて実 践していくかということが問われているというのが、現状ではないかと思い ます。 中川 ありがとうございました。ここでもう一度平場に話を戻したいと思いま す。「そんなこと言ったって現実的に各地方公共団体は、すでに悪戦苦闘しな がらコミュニティ政策にとり組み始めているじゃないか」という悲鳴が聞こ えてきそうな感じもしますので、後ほど名和田先生には、「協働って何?」「新 しい公共って何?」というご見解もお伺いしたいと思います。 一方で「一体コミュニティって何なの?」という提起も大切なことだと思い ます。例えばインターネットの世界では、○○コミュニティというのがいっ
ぱい出てきて、その中で子ども達は結構自分たちで互いを発見し合っている、 いわば自己実現していると言っていい。家族というコミュニティからも脱落 し、地域コミュニティにも始めから発見されていない若者達が、新たに自分 を見つめ直す場所でもあるということを考えると、そういうコミュニティ概 念を否定はできないという気がするわけです。 さて次は、札幌市の地域コミュニティ政策をご紹介いただき、議論をもう 少し具体的に市民ベースに立って深めていこうと思います。 高野 私は市役所という立場で、現場の実務を通した観点から、札幌市の地域 コミュニティ政策についてお話しいたします。 市民自治によるコミュニティ施策を真に追い求めると、行政はできる限り 邪魔をしない存在にならなければならず、一方で、「市民自治なのだからと…」 全てから行政が手を引くと、結局は何も進まないというのが実態です。現実 には、コミュニティづくりには行政がある程度関与していかなければなかな か進まない。住民に気づきを与えて、活性化を支援するような枠組みを提供 しないと実際には難しいという面があります。こうしたほど良い距離感・バ ランスを取るのが札幌市としても悩むところです。 では、札幌市におけるコミュニティ政策の事例をご紹介いたします。札幌 市では「区役所」、「区民センター」、「地区センター」という地域コミュニティの 基幹施設の他に、概ね人口が1万人から3万人くらいの中学校区ごとに「まち づくりセンター」というものを設置しています。これは全市で87カ所ありま す。現在、このまちづくりセンターを拠点とした地域のまちづくりを推進し ているところです。 このまちづくりセンター設置の経緯ですが、札幌市は昭和47年(1972年)に 政令指定都市になり区制を施行しましたけれども、当時は7区(現在は10区) でスタートしました。区制施行と同時に45カ所設置しておりました出張所を 廃止し、「連絡所」というものを開設しました。住民に身近な行政機関を区役 所へ一元化することに伴う激変緩和という観点と、市民の利便性を確保する という観点で、町内会を中心とした住民組織の振興とか、戸籍あるいは住民 票といった証明書関係の取り次ぎなどを主な業務としていました。しかしな
がら2004年には、現市長の指導の下、この連絡所を地域コミュニティの活性 化の拠点と位置づけて、名称を連絡所からまちづくりセンターに変更して現 在に至っていますが、当該施設の機能として、連絡所当時と比べ、住民組織 などのネットワーク支援、情報交流機能の強化、地域のまちづくり活動の支 援等の機能を追加しております。 この転換のポイントとしては、地域コミュニティと行政がより一体的に なった点があげられると思います。 また、札幌市では2007年4月1日に、札幌市自治基本条例を施行しておりま して、この条例の第28条に、身近な地域のまちづくりの拠点をまちづくりセ ンターと正式に位置づけて、地域のまちづくりを支援、強化していますが、 開設後6年経過した今日では、ほぼこの組織そのものが地域コミュニティに ある程度定着しまして、行政と地域の協働により、地域のまちづくりを活性 化させています。まちづくりセンターが支援した地域のまちづくり活動は、 2006年5月時点の385事例から2010年5月時点では795事例と、4年間で約2倍に 増えています。 次に、札幌市の今後のコミュニティ政策の課題ですが、まず地域コミュニ ティと行政の距離感という問題です。これは国の提唱する地域主権と新しい 公共をめぐる地域コミュニティと行政の関係ということになりますが、現在 の地域コミュニティでは、相互扶助、共助というような縁が尊重される、互 助的な古き良き共同体的コミュニティが希薄になってきています。一方で、 個人が尊重される現代型のコミュニティというものも道半ばであると思いま す。いわばコミュニティの変遷における過渡期と言いますか、すべてにおい て中途半端な状況にあると思います。 札幌市は1972年の政令都市移行以降、人口の増加とともに町内会組織は大 幅に増加していまして、単位町内会が当時から比べると950団体増えており、 現在では市全体で2,189団体あります。それを統括する連合町内会も現在は 110団体あります。同じ町内会という名称でも、その地域の特性により全く 異なったコミュニティ集団で、行政側でも柔軟かつ弾力的に接する体制が必 要になっております。 その場合、行政サイドが時には地域を先導して、時には地域を尊重して任
せるというように、その地域にあったコミュニティを共にイメージして築き 上げていく適度な距離感が必要になってきます。そのために必要な視点とし て、縁と個が交わるような取り組みを実施したり、子どもや学生のコミュニ ティ参加を促すなどいろいろやっています。関わり過ぎると地域主権と逆行 しますし、関わらないとコミュニティの促進が停滞してしまうというジレン マがあります。 特に積極的に市民自治を推進しようとして、行政が地域を主導すればす るほど、ややもすると行政の独り善がり、押し付け、自己満足に陥るだけ で、逆に住民の迷惑になります。つまり、住民はいつもコミュニティ活動に 付き合うほど暇ではありません。参加する方はいつも同じメンバーで、多く は社会の第一線から退いた人々が中心になりまして、そこで行われるコミュ ニティ活動は一部の住民の意見しか反映されないということもよく見られま す。 地域には子育てですとか高齢者・障害者福祉、あるいは教育、防災、交通 安全など様々な課題がありますが、それに対応する市役所の組織は一様に縦 割りです。市役所も地域組織も実際は縦割りという課題があります。こうし た問題に対処するためには、何か横串を通すような横断的な組織と、一定の 財政支援が必要になります。 札幌市ではまちづくりセンターという地域のミニ市役所になり得る行政組 織を設置していますが、やはり、昔の連絡所時代の名残というか旧態依然と した本庁あるいは区役所の統制下にあるような体制が厳然と残っておりまし て、なかなか横串を通した、横断的な組織にはなっていません。 いわゆる三割自治を十割自治に高めていくためには、やはりお金やモノで はなく、そこに住む住民を中心に、まちづくりセンターを拠点にしたコミュ ニティを実現する必要があります。 札幌市としては、まちづくりセンターの組織体制として、現在、地域のこ とは地域でやっていただくという観点から、地域による自主運営化という全 く新しい枠組みを進めています。現在、87カ所あるまちづくりセンターのう ち7カ所が自主運営となっておりまして、今後も増やしていく予定です。 私が以前、まちづくりセンターの所長をやっていたときの経験から少し補
足します。 地域コミュニティにある資源を次世代に引き継いでいくために、今後はコ ミュニティのサスティナビリティを真剣に考える必要がありますが、人材不 足で世代交代がなかなか進まなかったという現状がありました。また、相互 扶助の役割・意識が薄れており、それは町内会の加入率の減少に現れていま す(札幌市ではピーク時に約93%であったが現在では約71%)。まちづくりセ ンターに出入りするのは町内会関係の方がほとんどで、民間企業やNPOの方、 学生などが来ないという現状があります。 したがって、今後は、どのようなベクトルで、市民自治や地域コミュニティ への参加や促進を図っていくか、それが大きなテーマであると考えます。 中川 ありがとうございました。以上でパネリスト全員からご発言いただきま したので、私なりに少し論点を絞らせていただこうと思います。 1つ目は、佐藤先生からご提起のありました「コミュニティ」の概念は、地 域コミュニティに限定する必要はないのではないかということです。私自身 はバーチャル・コミュニティも今日では認めてもいいかなと思っております けども、現在議論されているのは、やはり地縁社会型の地域コミュニティ の再生もしくは活性化であることは間違いないのではないか。そこに論点 を絞っていくならば、そこから洩れているコミュニティというのは、実は NPO、つまりアソシエーションではないのかという気がします。コミュニティ 政策と平行して、アソシエーション政策としてのNPO政策を、市民政策とし てきちんと展開していく必要性があるという、自治体政策の置かれている現 状を、間接的にご指摘いただいたという気がします。 2つ目に、自発、自立と政府によるコントロールというのは、どのような 関係にあるのか。その問題は大きな政府論か小さな政府論かということでも あったわけですが、この中間に解決策があるのではないかと問題提起をいた だきました。これは、高野さんのお話しにありました、行政が先導しなけれ ばならないコミュニティ政策は、住民の自発に委ねると言いながら、一方で はコントロールするという矛盾をどう考えるのかという問題です。 また、従来型のお定まりの発想でコミュニティを論じるのではなく、労働
問題や経済の問題からも切り込まなければいけないのではないかという、こ れも佐藤先生からのご提起です。これにつきましては、先ほどの基調講義で いろいろな示唆をいだだいたと思っていますので、ここら辺りも議論出来れ ばと思います。 次に「協働」という言葉をお三方ともお使いになっておられますが、「協働」 とか「新しい公」というのは、どういう位相で使われるべきなのだろうか、こ の辺についてもう少し議論を深めたいところです。 ここで少し、私自身の意見を述べさせていただきます。自発、自立と政策 コントロールの関係は、実は住民自治という言葉をどう理解するかというこ とと深く関わっています。本来の住民自治は、まずは議会及び行政機構に対 する住民の直接統制を、すなわち住民が団体自治をコントロールする方向を 意味していました。ですから政策によって住民自治がコントロールされてい る事態というのは、あってはならないと思うわけです。住民は最終的に議会 議員を選び首長を選び、そして直接的に条例の改廃・制定請求権、監査請求権、 議会の解散請求権あるいは首長の解職請求権というものを駆使して、直接統 制する権利を持っていますが、自治体の規模が大きくなるに従って、これが 有名無実化していく。これをなんとか回復しようという試みが自治基本条例 ではないかと思っています。ですから自治基本条例の中に住民投票権、住民 による直接参加権などを新たにビルトインする試みがされているという面を 忘れてはならないと思います。この面を私はタテの住民自治と言っています。 もう1つは、住民自治という言葉には、住民の自己統治という意味での地 域自治の権利というものが暗黙の前提として入っていたと思いますが、地方 自治法には、住民自治は地縁による団体の認定のところにしか表れていませ ん。私は、ここが住民自治という概念が曖昧になった原因であると思います。 これを私はヨコの住民自治と言っています。 タテ及びヨコの住民自治に加えて、住民自治を立方体と考えたとき、もう 1つの次元として高さあるいは深さの次元、つまり、市民社会における問題・ 課題の解決にあたって、有志市民が結集して取り組もうという方向です。例 えば障害者の日常の生活支援であるとか、地域に在住する少数外国人に対す る翻訳支援などで、これらに取り組む市民団体がたくさん出てきています。
このような課題に対してはコミュニティでは歯が立ちません。こういうもの を私は深さの住民自治と勝手に言っています。こういう団体の自発、自立を 促進していくということも住民の権利でもあるわけですが、それに対して自 分たちが出資している政府が、ペイバックして支援することを要求するのは 住民の権利でもあると思います。 もう1つ違う側面から考えたいと思います。三重県の山奥のある町役場に 行ったときに、「地域でできることは地域でと言われるけれど、そこが辛いん です」と聞いたことがあります。過疎の町で、地域でできることは地域でし てくださいと国から言われる、県から言われる、自分たちも地域住民に言う。 でも「そこからはパワーが出てこないんですよ」と言われて、はっと気がつい たことがあります。私たちは、補完性の原則を安易に口にし過ぎているかも しれない。そうじゃなくて、「地域でしかできないことを地域でやりましょう よ」と言う方が、よほど住民には伝わるんです。「どういう状況になってもこ れは行政にさせるわけにはいかない、行政にしてもらうことじゃないという ことを地域でやる、と。そこからスタートした方がいいのかもしれませんね。」 と話したら、ハッと皆さんの表情が変わったというささやかな体験がありま した。そういうふうに補完性の原則を逆転し、支える必要があるという気が いたしました。 さてそこでお三方には、「協働」についてどう思われるかをお話しいただき たいと思います。高野さんにはそれに加えて、札幌で行われている概ね中学 校区の範域で、住民はコミュニティというものを実感できるのだろうか、と いうことです。それが適度な距離ということなのでしょうか。それとともに、 子育てから防災に至るまで課題は様々で、横断的組織と財政支援が必要だと いう問題提起をされておられます。未だ縦割りの制度が残っているというこ とですが、その次のステップをどのように展望しておられるのか、お聞かせ いただけたらと思います。 佐藤 最初に、「お前が言ったのはコミュニティではなくて、アソシエーション じゃないのか」ということですが、これをなぜ区別しなきゃいけないのかと いうのが私の問題意識です。あえて区別すると、アソシエーションはシング
ルイシューを扱って、コミュニティは地域を前提にしないんだけれども、生 きるための最小限の人と人とのつながりになると考えれば、単一イシューで はないけど地域でもないというものはないのだろうか、という感じでしょう か。現代社会では人と人とのつながりというものを重視すれば、かつては地 域が重要だったけれども、今は地域である必要はないかもしれない。そうす るとコミュニティとアソシエーションを区別するということは、どれぐらい 有効であり得るのか、と考えました。 住民自治のお話は中川先生のご指摘の通りだと思います。主権者としての 住民ということが基本にあるというのは全くその通りです。ただそういう主 権者が集まることによって、一定の統治に必要な政府が簡単にできあがる、 あるいは合意が簡単にできると考えるのは、ややナイーブではないかと思っ ています。なぜなら、価値観が非常に多元化して、従来型の生きていくため には何かを作るしかないという社会とは全く違っているわけですから、単純 に「住民自治」という“お題目”を唱えていていいのか。 ある瞬間だけを見ると、住民自治というのはうまくいっているようで、実 は崩壊の始まりであるという感じがしちゃうんですね。ただ基本は、住民が 政府をきちんとコントロールするというのはその通りだと思います。 おそらく一番難しいのは「協働とは?」ですね。なぜかと言うと、私は「協働」 を使うのはけしからんとは言ってますけど、協働は駄目とは言ってないんで すね。協働が役所の都合のいいように使われている可能性がある。例えば、 行政改革をやって小さな政府にしようと、住民の皆さんにやっていただこう ということになるのですが、そのとき、そもそもその仕事って必要なの、と いうことをまず考えてほしいと思うんです。役所は今までやってきたけど、 もうお金が無いので住民の皆さんでやってくださいという感じの提案がすご く多いわけです。それはちょっと違う。そういう意味で協働という言葉は使 わないでほしいと思うんです。 協働というのはコーオペレーションとかコラボレーションとかコプロダク ションだとか言いますが、要するにそれぞれ本来は価値観が違うし立場も違 う。あるいは同じことを目指していても、それを実現するための戦略、手順 も違う人たちが協力しあうということだろうと思います。それらをあれこれ
考えて、とりあえずまとまったものを皆でやっていくという体制を指すので はないかと。でも、そういうふうに使われていることはほとんどなく、誤解 を招くといけないので使わないことにしています。 地域でできることは地域でというのは辛いというお話ですが、地域ででき ないことは地域でできないと言えばいいだけの話だろうと私は思います。 中川 ありがとうございました。では名和田先生、よろしくお願いします。 名和田 自発とコントロールのジレンマの問題については、中川先生がおっ しゃった通りと思います。住民自治とは、正しく治者と被治者の自同性、民 主主義の原理そのものを地方自治体について言っているだけです。ところが この住民自治という言葉は、今、あまりにも融通無碍に使われています。私 の見るところ、総務省はまだ地方自治法の教科書に書かれている民主主義の 基本概念としての住民自治という概念に、かろうじて固執しています。 しかし、この住民自治という言葉を自治体とかあるいはコミュニティレベ ルで聞きますと、もうほとんど協働とか新しい公共と同じ意味で使われてい るんですね。ただ私は、言葉は発展していくものだから、こう使わなければ いけないということはないと思いますし、中川先生ご自身も住民自治という 言葉に、立体的な広がりを持つように解釈されていますよね。それはそれで 結構なんですけれども、ただあまりにも概念を融通無碍に使ってしまうと、 問題のすり替えが起きてしまうということが非常に困るわけです。 この問題は直接「協働」とか「新しい公共」という言葉の意味をどう考えるか ということに結びついていくと思いますが、そちらの問題に触れる前に、労 働や経済のこともコミュニティ論で考えるべきだということについて一言触 れると、今日の高原先生の基調講演は、その面でも非常に良かったと思いま す。日本ではコミュニティ政策そのものの内容として、伝統的にあまり産業 政策が無いんですね。高原先生のお話は、世の中でコミュニティビジネスと いう言葉で漠然と語られているようなことを非常に明確に、しかも根本的に 言われたので非常に勉強になりましたし、産業政策もコミュニティ自身が考 えていくべきだと思います。
「協働」「新しい公共」に戻りますが、協働は英語ではコープロダクション (coproduction)です。プロダクションと非常に正直に言っていることからよ く分かりますように、協働という言葉は公共サービスを、行政と民間、市民 社会の様々な主体との連携によって維持していこうという政策理念です。こ の場合、市民社会の側の公共サービスの担い手のことを「新しい公共」と言っ ています。これについて、私は幾重にも不満を持っています。まずその住民 をサービスの主体としてしか見ないという点に非常に不満です。もっともこ うした不満もありながら、最終的には「協働」について理念的期待を持たない わけではありません。 とは言え、先ほどの住民自治という理念からいけば、住民はむしろ決定主 体であるはずであって、首長、議会を選挙等によってコントロールすること によって、行政にきちっとした仕事をやらせるということが住民自治なんで すね。そのことを曖昧にしたまま、「協働」の名の下に「行政はもうできません から皆さんでやってください」という話だけが出てくるとすると、それは全 くおかしな話です。 現実には協働という理念については、先ほど申しましたように日本人のあ る種の市民社会意識から、それを受容しようとする意識がヨーロッパに比べ て非常に強いと思いますが、他方で、住民は不安感を持っているんですね。 それがどこにあるかというと、行政は「ここまできちんとします。ここから は住民の皆さんが頑張ってください」という明確な協働協定みたいなものが 示されないからですね。この点は横浜市で地域福祉計画に携わっていてもそ う感じます。行政はきちんと下支えをしますという言葉は出てきますけども、 じゃあ何を何%やるのかといったことはなかなか語られない、そこはすごく 問題だと思います。 同じような不満は「新しい公共」についても言えまして、それはこの言葉が 出てきた90年代から鳩山前首相の所信表明演説、施政方針演説に至るまで、 すべて公共という言葉の下に公共サービスだけが語られる。これは公共思想 としては極めて貧困であると思います。公共という言葉には本来、公共的意 志決定という文脈が含まれているわけで、これはつまり住民が意志決定をし 行政はその下で働くという考え方も、公共思想の重要な構成要素であるわけ
です。地方自治で言えば、正に先ほど確認した住民自治ですね。協働を語る ときには、この住民自治という理念が同時に語られなければならない。 さらに言うと、そもそも新しい公共ってそんなに新しくないわけです。む しろ民間側の担う公共の方が古く、国家が担っている公共の方が新しいわけ です。そしてその市民社会の側が担う公共、つまり18、19世紀のヨーロッパ に成立した公共の世界というのは、誰しも顔は見えていなくても尊重される、 ある場なんですね。そこを再建せず、赤の他人ときちんと付き合うことがで きずして、なぜコミュニティで顔の見える関係を取り結ぶことができるのか、 というのが私の今の関心でして、その意味で爆発的に増えております居場所 づくりだとか、コミュニティカフェとか、こういった動きは非常に重要であ ると考えます。これこそ正しく新しい公共の場を再建する試みで、ここから 市民社会を再建していかなければ「公共的意志決定」の担い手も、「公共サービ ス」の担い手も出てこないと考えています。 ではその「協働」とか「新しい公共」とかという理念に全然期待がないのかと いうと、私は多少期待があります。ここで不満から期待に変わるのですけれ ども。住民自身が公共サービスを担うというのは、ある意味途方もない考え で、住民ができることは、かなり身近で軽易なことが主になると思います。 それでもそれを住民自身が行うことによって、大事な社会的理念が共有され るようになるのではないかと期待しています。私は福祉理念に共鳴がありま して、協働の取組みを通じて、福祉で言っているノーマライゼーションとい う理念が共有されるような、この日本社会で福祉理念が根付く1ステップに なるのではないかということを期待しています。そのことは先ほどふれまし た『コミュニティ政策』の4号や8号でも少し書いています。 それから「新しい公共」につきましても、公共という言葉について日本国民 が考えていって、その中で公共サービスだけじゃなくて、公共的意志決定を 民主的で身近なものにするという都市内分権の課題もあるじゃないかとか、 あるいはもっと広くどんな人でも、顔が見えていなくても誰でも人権の担い 手として尊重されるような作法を公共世界で身につけるという課題がある じゃないか、というふうに考え方が広がっていくならば、この「新しい公共」 という言葉が言論界に現れたことは、非常にプラスに作用するだろうと考え
ています。 中川 非常に頭の中がスッキリするお答えを2人からいただきました。協働と いう言葉の向こう側に実は参画というものがあって、だいたいセットになっ ています。参画や協働の基本方針の先発隊は、「横浜コード」とか「あいち協働 ルールブック」とかですが、今はそれを下敷きにしてどんどん前に行ってい ます。その特徴は市民社会に行政がどう協働するかという話だけではなくて、 市民が行政経営にどう協働するのという、団体自治の住民コントロールが俎 上に乗ってきているということです。ですから総合計画審議会などの作り方 も一般市民を大量に公募して、各分科会に分けて着実に議論をして積み上げ ていくというのが始まっています。そういう意味では、行政と市民社会の相 互乗り入れが実は今日的協働の最先端になってきているのではと思っていま す。 ところが、今のところ行政が苦しいから市民と協働したい。安上がりに肩 代わりしてほしいと聞こえる協働もあるということですね。 では高野さんお願いします。 高野 まず、まちづくりセンターが概ね中学校区、人口1万から3万人に1カ所 ということでカバーできるのかという問題です。 このまちづくりセンターには、市の課長職が所長として1人います。他に 地区連絡員という非常勤職員が2人いるだけです。確かに所長1人でこの人口 をどうカバーしていくのかということはありますが、自分1人で抱え込まな いで、地域の人と一緒に悩み、行動するということを目指しています。また、 市役所や区の職員もうまく利用すればいいと言っています。所長は、福祉か ら防犯、交通安全など全部を知っているわけではありませんから、わからな い所は市役所や区役所の担当者の話を聞いたり、実際に現場に来てもらって やってもらうとか。ですから、カバーできないというのは人の人員の問題だ けではないと思います。 当然その地域には、まちづくりセンターだけではなく、区役所、区民セン ター、地区センターなどがありますので、それらと補完し合いながらやって
いけますので、身近な行政機関としてのまちづくりセンターは、ある程度機 能していると思います。それから、距離感の問題は、エリア、守備範囲の問 題ではなくて、市役所としてどこまで地域に関わるのかという問題かと。関 わりすぎると地域主権を阻害しますし、関わらないと住民はなかなか動かな い。そういった意味で、その辺の距離感が難しく、どこまでやればいいのか ということを問題提起したつもりです。 それから他の大都市との比較ですが、札幌市は人口10万人当たりの市の職 員の数がだいたい360人ぐらいでして、ある意味少数精鋭でやっています。 民間企業であれば、例えば銀行なら銀行業務だけをやっていればいいので、 ある意味包括的にできるわけですけれども、地方自治体というのは、交通や 病院、上下水道、福祉等、非常に幅広い分野をやっているわけですから、あ る程度の縦割りはやむを得ないと思っています。 最近では、横断的な取組をプロジェクトチームなどで対応するのですが、 札幌市とまちづくりのパートナー協定を結んでいる会社からは、各部署から バラバラにものを言ってくるので、コンシェルジュ的な総合案内部署が欲し いと言われています。次のステップとしては、そのような企業との連携窓口 も検討していきたいと思っています。それから、まちづくりセンターの地域 による自主運営化も、さらに進めていきたいと思います。 先ほど佐藤先生の話の中に、地域コミュニティの活性化はなかなか難しい という話がありました。というのは、平和で豊かな社会環境になると、やは りコミュニティは停滞してきます。私のいた豊水まちづくりセンターでは、 よさこいソーラン祭の後に北海道神宮祭があるのですが、その時期になると お祭りを中心とした非常に強固な地域コミュニティが出来ます。やはり何か 共通の目的や目標がないと、こういったコミュニティはなかなか発生しない んじゃないかと。ただ地域だからとか、地縁だからとかいった古いコミュニ ティは、今後は難しいのではないかと思います。 それから課題としては、情報提供をすればするほど地域コミュニティが希 薄になっていくというケースもあります。それは「人が集う」という動機づけ が希薄になるからではないかと感じています。結局、「場」に集う皆さんは、 防災・防犯などの危機管理でも交通安全でも、市役所がどんなことを考えて
いるのか、いろいろな情報を知りたいんですね。それによってコミュニティ というのはある程度発生してくるわけですけれども、あまりにも情報提供に 力を入れ、パソコン、ホームページ等で情報を見ることができるようになっ てしまうと、人と人が面と向かって情報交換をするようなコミュニケーショ ンを媒介したコミュニティを形成することが希薄になることがあると思いま す。 中川 例えば、防災、災害対応、防犯などは、情報提供だけで対応できると、 住民の皆さんも行政も思っておられるんですか。要するに、情報を知ってい るからと言って犯罪が防げるわけではない。やはり、顔と名前がある程度わ かり合っている一定のコミュニティの密度がなければ防げませんよ、という ことを知らせないといけないと思います。そういう点で、中学校区というの は大き過ぎないか、というのが私の疑問です。 高野 情報提供だけでは無理で、たとえば防災関係なら消防訓練などの実地活 動は当然伴うものです。また、まちづくりセンターの設置については、行政 としては財政的な制約がありまして、たとえば2,000人程度の範域で施設面 の整備ができるかと言えば困難です。 中川 あえて意地の悪い質問をしました。というのは、政令指定都市は大きい ですから、みな中学校区から始めようとされているのですが、それでいいの か、ということです。中学校区か小学校区のどちらがいいのかということを、 政策論として現場から問題提起していただいたり、比較研究していく必要性 があるのではないか。このような問題提起もこの学会の研究課題ではないか と思いましたので、あえて高野さんにお話しを伺いました。 最後に一巡ご発言お願いします。 佐藤 一言だけ申し上げますと、私は、地域コミュニティではだめだとは言っ ておりません。そうではなく、地域コミュニティを活性化するには何を考え なきゃいけないのか、単純に地域というものだけで括ってコミュニティづく
りを考えていったのでは、うまくいかないのではないか、という問題提起を したということです。 名和田 政策論に直結するエリアの問題は非常に重要と思っています。特に札 幌市が今後、まちづくりセンターという行政機能の「分散」の上に、「分権」と いう仕組みを作られる、つまり、まちづくりセンターに付帯して住民組織を 置いて、何らかの協働と参画の仕組みをそこに作るという方向に進まれるの であれば、エリアの問題は決定的で、中川先生のおっしゃったところと似て きます。 小学校区や連合自治会がより基本になるケースが多いと思います。小学校 区をとるか連合自治会をとるかという選択に直面すれば、大体連合自治会を とっていると思います。いずれにしても中学校区というのは昭和の大合併で 出来てしまった、やや縁遠い政府なんですね。だから中学校区にあまり住民 のアイデンティティがあるわけではないと思います。 中学校区というエリア設定について一言申しますと、もしコミュニティ政 策をそのエリアで展開するとしたら、かなり大きな決意が要るように思いま す。今ちょうど私が関わっているのは横浜市都筑区の取組で、これは青少年、 特に中学生という、もっともコミュニティの中で光が当たっていない人たち に対して、政策的な手を本気で打とうということで、中学校区というエリア 設定になりました。 中学校区というエリアでコミュニティ政策を展開しようとしたら、2つの 非常に困難な条件があると思いました。1つは学校の先生がきちんとそれに 納得されることです。もう1つは自治会連合会長さんたちが、自分たちのエ リアとは違うけれども、子ども達のため、青少年のために協力したいと心底 思ってくださるということです。この2つの条件がなければ中学校区という エリアは、もともと日本列島に住んでいる人にはなじみのない区域なので、 あまりうまくいかないのではないかと思います。これは、昭和の大合併のと きに政府が勝手に作ってしまったエリアに過ぎないと思います。 いずれにしてもコミュニティというものは、もし地域コミュニティとして 展開しようとするならば、エリアをどう設定するかというのは非常に本質的
で、かつ初動期においては新しいコミュニティの仕組みについて地域の方が 納得するかどうかということとも大いに関わっている大事な点だと痛感して おります。 高野 右肩上がりの時代には、予算編成においても市民要望や意見を聞くべき だけれど、お金がない時代においては、実現できるわけではないので、市民 の意見はあまり聞くべきではない、というようなことを昔、言われたことが あります。 ただ、現在は、たとえお金が無くても、いろいろな市民意見を聞くべき だということで、札幌市も市民アンケートやパブリックコメントをしたり、 フォーラムやパネルディスカッション、出前トーク・出前講座などの取組を しています。 しかし、お金が無いことは事実なので、なかなか実現が出来ないというジ レンマがあります。先ほど中学校区ごとのまちづくりセンターについてどう かというお話がありましたけれども、札幌市にも財政的な問題がありまして、 小学校区単位あるいはそれよりも狭い範囲で、そういった行政機関的なもの を作るのは難しい状況にあります。 市民自治にゴールはないと思っています。これは新しい問題でして、札幌 市としては、これからも市民自治、住民自治、そして地域コミュニティの促 進に向けて頑張っていきたいと思っております。 中川 パネリストの皆さんが論点を深めていただき、パネルディスカッション のテーマである「地域主権改革」、「地方自治」、「コミュニティ政策」について、 議論の基点が見えてきたように思います。 佐藤先生、名和田先生、高野さん、ありがとうございました。