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巖垣月洲の世界観 : 滬公弘道をどうみるか

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巌垣月洲の世界観

福公弘道をどうみるか

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Seiseikaishinhen by Iwagaki Gesshu (1857) has been commented as a source of japanese nationalistic thought since the Meiji era. But, Iwagaki Gesshu criticized the idea of japanese national superiority in the closing days of the Tokugawa government. In Seiseikaishinhen he criticized the idea of japanese national superiority and the principle of excluding foreigners in the context of conditions present during the Ansei era -148一 (13)

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はじめに 巌垣月洲の世界観一泡公弘道をどうみるカトー 本稿では、巌垣月洲﹃西征快心篇﹄を取り上げ、 この作品が当時の擾夷思潮に抗する世界観を提示し ていることを論証していく。 ﹃西征快心篇﹄は、安政四(一八五七)年頃に成 立したと見られる、漢文体で書かれた架空戦記であ る。欧米列強の脅威が迫る東洋の小国・黄華国の副 将軍・橿公弘道が、中国清朝とインドのムガル朝を 巻き込んで、対イギリス戦略を展開する。ロンドン を奇襲した橿公弘道は、英国女王を捕虜にし、事変 処理の国際会議を開催する。これによりイギリス本 島はヨーロッパ諸国の分割統治となり、イギリスの 国体は解体された。大英帝国の版図は消滅し、世界 新秩序が構築される。黄華国及びに濯公弘道は、設 定からそれぞれ日本及び第九代水戸藩主徳川斉昭 ( 一 八

001

一 八 六

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)

の擬称と読める。以上が作品 の 概 要 で あ る 。 巌垣月洲は、幕末京都に在住した町人儒者である。 文化五(一八

O

八)年、儒者岡田南涯の第六子とし て生れる。弘化四(一八四七)年に学習院講師とな るも、まもなく辞職。嘉永三(一八五

O

)

年 、 ﹃ 国 史 略﹄著者である巌垣松苗の逝去を受け、私塾遵古堂 の督学となる。文久元(一八六一)年、前年からの 眼疾により失明。元治元(一八六四)年、禁門の変 (蛤御門の変)での大火災で、月洲は手稿の多くを焼 失・散逸する。明治六(一八七三)年、六十六歳で 没した。以上が略歴である。 月洲には、遺稿集﹃月洲遺稿﹄のほか、﹃骨董録﹄・ ﹃科挙志略﹄などの著作があるとされるが、公刊化さ れたものは少ない。月洲の学風は、﹁経済実践﹂を重 視したとされる。月洲は儒学者よりも洋学者や国学者 と広く交際を持ったとされ、親源編著﹃海国図志﹄を 入手するなど海外事情の学習にも努めた。なお、﹃西 征快心篇﹄では鶏源が登場し、重要な役割を担う。ま た、月洲は﹁江戸防火策﹂なる一文を成したとされ、 京都の防火策についても論じていたとの証言がある。 本稿は次のように展開する。まず、福公弘道の一吉田 -147一 (14)

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第16号 説に、現実世界で比定される徳川斉昭が示す歴史認 識への批判があるのを見る。次に、月洲の諸作品か ら状況認識など分析し、その世界観に迫る。続いて、 月洲の世界観において、福公弘道と徳川斉昭がいか に評価されるか、について検討する。 なお﹃西征快心篇﹄のテキストは、上田駿一郎﹃英 国征服記﹄所収に拠る。 I モデルを批判するキャラクター 言語と文化 ー、巌垣月洲暗殺 巌垣月洲は、援夷派に暗殺されかかったらしい。 月洲門下の杉浦楠陰(正臣)の手による﹁厳垣月洲 停﹂(註こにその旨が次のように記述されている。 文教大学 嘉 永 ・ 安 政 年 間 、 う外交事が起こり、 ﹁ 和 戦 ﹂ 、 アメリカによる開国要求とい 日本の国内は陶桐としていた。 つまり和親開国か譲夷抗戦かの選択にお けるその得失について尋ねられた巌垣月洲は、次 の様に答える。﹁仮に我国が経済的に富裕であり 軍事力も強大であれば、﹁和﹂であれ﹁戦﹂であ れ思いのままに外交対応を選ぶだろう。しかし富 彊ではない我国の現状では、開国論も擾夷論も、 国の将来に過誤を招くに充分である。我国は昇平 より二百余年、今や国力は窮乏し兵力も脆弱だ。 目下の急務として富彊の術を講じるほか無い。開 園、接夷の得失などを論じている暇などない﹂。 当時は暗殺が公然と行われた時代である。この巌 垣月洲の言説を聞き、但怒を抱いた者がいた。月 洲を目標とする襲撃が密かに立案されるも、その 仲間に偶然にも月洲を知る人物がいた。この人物 が襲撃計闘を止めたがゆえに、月洲は遭難を免れ た の で あ る 。 -146一 (15) ( 原 文 は 漢 文 に よ る ) 暗殺計画の真偽はともかく、この挿話で言及され るのは、日米通商条約交渉が進展する嘉永・安政期 に、月洲が示したとされる認識についてである。月 洲の認識とは、主導権を欧米列強に握られている以

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巌垣月洲の世界観ー沼公弘道をどうみるか 上は﹁和戦皆以って国を誤つに足る﹂(﹁巌垣月洲侍﹂ なお、書き下しは引用者による)というものであっ た と さ れ る 。 月洲は、壌夷派から暗殺対象となったとされる安 政四(一八五七)年頃に、架空戦記﹃西征快心篇﹄ を成していた。その主人公である福公弘道と比定さ れる徳川斉昭は、当時の政局における重要人物の一 人であり、嬢夷論の巨魁と見なされていた。徳川斉 昭は、日米通商条約締結反対の立場から京都朝廷へ の工作を行い、江戸幕府が推進する開国路線に反対 していた。福公弘道はこの斉昭を読者に想起させる 設定である。この主人公が活躍する作品を書いた作 者である巌垣月洲は、なぜ嬢夷派から狙われたのか。 2 、逼公弘道の徳川斉昭批判 これまでの﹃西征快心篇﹄読解の試みでは、橿公 弘道を徳川斉昭の擬称とするのは当然の解釈であっ た。しかし筆者の見るところ、史料からうかがえる 徳川斉昭の視点には見られない、かなり異質の視点 を福公弘道は提示している。また、作品世界の橿公 弘道が現実世界の徳川斉昭を批判するかのような言 説も提示されている。このことは橿公弘道を単なる 徳川斉昭の仮託とする見方に再検討を促する。﹃西征 快心篇﹄読解は、﹁福公弘道﹂を﹁徳川斉昭﹂に置換 して読むだけでは終わらないのである。 まず﹁異質の視点﹂についてみておこう。福公弘 道はロンドンの事変処理のため開催された国際会議 で、ヨーロッパ各国代表の前で演説し、次のように 羽 川 述 べ る 。 利とは天下公共の物なり。而かるに嘆夷之を専ら にす。義とは人清嘗然の行なり。而かるに嘆夷之に 反す。如し互市埠を開けば、他国の人力を費やし、 勢成れば嘆人之を奪ふ。其の割接する所五大州に遍 しも、皆然からざるは無し。此禽獣の心、盗賊の魁 なり。余西書を讃む毎に、久しく不卒を抱く。 (﹃西征快心篇﹄第四国原文は漢文、書き下しは 引用者による。以後の引用も同じ)

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言 語 と 文 化 第16号 このように福公弘道は、正義に適うか否かとの道 義的視点に立って、アヘン戦争のような武力を背景 としたイギリスの植民地拡大の手段を批判している。 このような道義的批判は、幕末日本では古賀伺庵 ( 一 七 八 八

1

一八四八)らが示したアヘン戦争観と共 通する。このイギリスの侵略を非難する道義的視点 は、一部の開明的な思想家の場合を除いて、幕末日 本においては主流とはならなかった。そしてこの視 点は、現実の幕府外交政策担当者、例えばペリ

l

来 航後に海防参与として幕政に参加することになる徳 川斉昭などからは提示されることはなかったのであ る ( 註 二 ) 。 文教大学 次に﹁濯公弘道の徳川斉昭批判﹂についてみてお こ hフ 。 ﹃西征快心篇﹄第七回、西征後の自国の取るべき 方略を、福公弘道は大将軍に提言する。その提言の 中で、福公弘道は、﹁息后・三鱗・桐花氏の捷﹂を自 国の武威の発露として称揚する﹁組人俗士﹂を批判 する。この﹁息后・三鱗・桐花氏の捷﹂とは、神功 皇后伝説や文永・弘安の役、そして文禄・慶長の役 に 比 定 さ れ る 。 ﹁粗人俗士﹂は﹁徒だ虚撃を張り、成敗の寅を考 えず﹂、そして﹁壷く古書を信じ、今日の事勢を察﹂ しない。アメリカがが自国の辺海に閣入しでもなん ら抵抗できない、今日の海防力の劣勢を招いた原因 こそが、これら﹁粗人俗士﹂の意識にあるのだ、と の見解を福公弘道は示す。世界地図から大英帝国を 消滅させた自らの軍功が、﹁組人俗士﹂によって﹁武 威に侍む可し。夷秋慮るに足らず、外冠の至ること 有らば、轍ち之を撃嬢する耳﹂と評価されて、再び ﹁海防を不聞に置く﹂状況を生み出して﹁他年敗亡の 禍を招く﹂ことを、福公弘道は危倶しさえするので -144-(17) あ る ( 章 二 ) 。 福公弘道は、軍事力の弱体を招いた原因を、﹁粗 人俗士﹂の思惟・態度に求めた。躍公弘道の﹁粗人 俗土﹂批判とは、現実世界でのいわゆる日本型華夷 意識に対する批判として読める。ここでいう日本型

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華夷意識とは、武威と天皇の万世一統性に基づく自 国優越観念を指し、中国の華夷観念とは区別される も の で あ る ( 註 四 三 巌垣月洲の世界観ー溜公弘道をどうみるかー 日本型華夷意識とは、皇統の一系性と武威を根拠 にして日本を世界の中心に位置づけて世界を眺める、 という世界観でもある。換言すれば、自国の呼称に 優越意識と結びつく﹁神国﹂などを用いる世界観で ある。こうした世界観を提示する日本型肇夷論者の 範曙に、徳川斉昭は在る。例えば、斉昭は幕末よく 知られていた﹁十条五事建議書﹂(嘉永六(一八五三) 年)で、﹁神国は幅員広大ならず候得共、外夷にては 帝国とあがめ尊び、恐怖致し居候義は、畢寛往古神 功皇后三韓御征伐、中古弘安の蒙古御退治、近古文 禄の朝鮮御征伐、慶長・寛永の切支丹御禁絶等、其 明断御威武海外に振ひ居故にて有レ之候﹂(註五)と、 自国の武威を誇る認識を示していた。 福公弘道は﹁粗人俗土﹂の歴史認識を批判する。 その﹁粗人俗士﹂の歴史認識とは、日本型華夷意識 である。徳川斉昭は日本型華夷論者の範噂にいた。 よって時代の文脈に﹃西征快心篇﹄を据え置いて眺 めるとき、福公弘道は徳川斉昭を批判しているよう に 見 え る 。 幕末の文脈において、濯公弘道と徳川斉昭は対置 される。﹃西征快心篇﹄の読者は、理想の英雄・福公 弘道 H 徳川斉昭という単純な仮託の図式ではなく、 徳川斉昭を相対化する存在として、福公弘道を見る ことになる。いわば、作者である月洲の世界観が、 福公弘道と徳川斉昭を対置するのである。この月洲 の世界観こそが、嬢夷派に暗殺の動機を持たせた要 因だと考えられないだろうか。 これまで月洲は、門人の系譜の側からは開明的知 識人として評価されてきた。しかしながら、残され た月洲の諸作品についての詳しい検証は、今まで殆 どなされてこなかった。改めて月洲の諸作品を検証 し、彼の世界観に迫っていく手掛りとしたい。 -143-(18)

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E ﹁漫士﹂のまなざし 第 16号 ー、巌垣月測の自己規定 巌垣月洲の世界観に迫る試みを始めるにあたり、 まずは月洲の社会における自己規定に触れておきた い。そこには、自分を取り巻く社会での居所の無さ を慨嘆する月洲の姿が浮かび上がる。 杉浦重剛編著﹃巌垣月洲﹄では、﹁漫土説﹂の一 篇 が 紹 介 さ れ て い る ( 註 六 ) 。 巌 沼 一 月 洲 は 、 弘 化 四 ( 一 八四七)年に公家子弟の教育機関として設置された 学習院に講師として迎えられるも、程無くしてその 任を辞したという。その参考として、﹃巌垣月洲﹄で は﹁漫土説﹂が紹介されている。なお﹁漫土説﹂の 成立年や出典などの情報は示されていない。 ﹁漫土説﹂で月洲は、自分を取り巻く世界に向け たまなざしに、﹁士﹂における二種、﹁真土﹂と﹁仮 士﹂を捉えている。そして自分は﹁学ぶ所は士道﹂ であるも﹁服する所は単刀﹂であるゆえに、﹁双刀を 侃﹂く﹁真土﹂にはなれぬと諦観する。一方で、﹁学 文教大学言語と文化 ぶ所を棄て而して流俗に拘ふを忍ばず﹂として、﹁仮 士﹂の範曙に自己を置くのも拒否する。よって月洲 は、世界における自分の位置を﹁漫土﹂と規定する のである。﹁士にあらず農にあらず、又商買にあら﹂ ざるのに﹁痛かに士と偽るの道を学﹂んだ自分は﹁漫 然﹂という態度を取らざる得ない、というのが自ら を取り巻く社会に対する月洲の見方なのである。 ﹁漫然﹂には月洲の、自己の理想と現実の社会と の隔たりを意識せざる得ないという状況認識と、そ れに起因する疎外感が込められているのである。そ して同時に、月洲が見るところの﹁仮士﹂に対して の批判でもある。﹁僧家に藷りて保任﹂し、﹁朝家よ り買爵﹂し、または﹁貴人をして賜爵﹂させて﹁仮 士﹂が﹁真土﹂を装うことを、月洲は否定する。﹁仮 士﹂のそうした行為が世人の信頼を損ない、﹁戒律問 ふ可ざる﹂今日の僧よりも儒学者の社会的信用や地 位を庇めているとする。﹁豚官は儒生を信ぜず、而る に惟だ僧のみ是を信ず﹂、つまり天皇も儒者を信用せ ず、僧侶ばかり信頼するのが現状だからこそ﹁当に -142ー (19)

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巌垣月洲の世界観ー沼公弘道をどうみるかー 砥行嘱操して、以て人より信を取るべし﹂だと、月 洲 は 述 べ る 。 ﹁漫士説﹂が何時頃の成立であるかは断定できな い。仮に学習院講師を辞任した頃にその心境を吐露 したものであると想定すると、月洲はその時四十四 歳前後であったことになる。少なくとも彼の後半生 において、町人儒者である巌垣月洲の世界観の基底 には、自らを﹁漫士﹂とみる自己規定が据えられて い た と 考 え ら れ る 。 月洲は儒者として決して惨めな境遇ではなかっ た。月洲は京都に在って、巌垣家の私塾遵古堂の替 学を務めることになる。遵古堂は、当時において名 の通った私塾であり、多くの門下生を全国から集め ていた。月洲は巌垣家に養子に入り遵古堂を継ぐが、 この巌垣家は京都市内に借家を多数所有する素封家 として知られていたという{註七万また略歴でも触 れたが、月洲は学習院設立時に古註学の泰斗として 講師に迎えられている。しかし﹁漫土﹂という自己 規定には、自らの儒者として置かれた位置に充分満 足するというよりも、むしろ自分を取り巻く世界、 社会に対する疎外感を内包している。 なお、儒者としての社会内おける疎外感を提示し たのは巌垣月洲に限ったことではない。江戸期を通 じて、真撃な儒者がこのような慨嘆を抱くという事 態 は 続 い て い た 註 八 } 。 彼の﹁漫士﹂という自らの呼称を、自己輔晦だと 片付ける解釈は可能である。しかしその自称には、 現実社会において儒者たる自分は己が理想に程遠い 位置に在る、いわば無用者だとする自噺を含んでい る。また一方で、この呼称は社会に対する態度表明 とも読める。﹁士道﹂を学んだ自分が﹁庶人﹂である がゆえに﹁真士﹂にはなれぬ、という矛盾を認めて いる。しかし、﹁学ぶ所を棄て而して流俗に桐ふを忍 ばず﹂とあるように、﹁漫土﹂という呼称は、あくま でも自ら信じる﹁士道﹂の規範に拠って実践し、状 況に介入して行く旨の表明でもある。 -141一 (20)

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2 、﹁自尊の俗﹂批判 次に遍公弘道の﹁俗士粗人﹂批判と同様の視点 を、月洲も提示していたのを見ておこう。﹃月洲遺 第16号 稿﹄(註九)所収の﹁元虜入冠の圃の後に題する﹂と いう漢詩がある。この作品では、﹁武威﹂を国外に発 揮した事例として徳川斉昭が範とする文永・弘安の 役を取り上げる。月洲はここで、斉昭のような歴史 観を否定する。当時元朝が﹁風濡を慨﹂って日本侵 攻を断念しただけあって、戦闘が続行していれば日 本側が勝利したかは分からない。果たして時の執権 北条時宗には、元朝の使者を斬った時点で、対元朝 戦への﹁深謀﹂﹁定算﹂はあったのか。むしろ元冠が 国民に﹁我武威、以て四夷を悟れしむに足る﹂との 誤った﹁自尊の俗﹂を生み出した弊害の方が大きい。 結果﹁海防の戒﹂を廃れさせ、今日の﹁自立の勢を 制﹂し得ない事態を招く。﹁風議を憧らざる﹂欧米列 強の脅威の前に﹁武夫﹂が﹁狼狽、その措を失﹂っ た最大の原因こそが、﹁自ら侍むところを知らざる﹂ ﹁自尊の俗﹂である、との認識を月洲は述べている。 言語と文化 文教大学 ﹁邦を有つ者﹂、つまり国政の担当者らは自侍する ところを本当に理解しているのか、という感歎で、 月洲はこの詩を結んでいる。この作品により、月洲 がいわゆる日本型華夷論者に対し、﹁自尊の俗﹂批判 をしていだのがわかる。 3 、月洲の﹁武夫﹂批判 本稿の I でとりあげた挿話では、安政期に巌垣月 洲は﹁和戦皆以って国を誤つに足る﹂つまり嬢夷論・ 開国論共に批判していた、とするものであった。月 洲自身の言説にそれを確認することができるだろう 、 刀 -140一 (21) ﹃月洲遺稿﹄所収の﹁宋史を読む﹂には﹁二子︹引 用者註│主戦派の張凌と講和派の秦槍を指す︺皆国 を誤る。和戦の罪惟均しくす。国是果し何か在らん。 須く先ず弱貧を医すべし。発舜且つ述ぶるを休め。 管葛の法を尊ぶベし﹂とある。 ﹁宋史を読む﹂と同じ題材、南宋時代の主戦論と 講和論の対立を扱っているのが、﹃月洲遺稿﹄所収の

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巌垣月洲の世界観ー濯公弘道をどうみるかー ﹁ 秦 槍 論 ﹂ で あ る 。 月 洲 は ﹁ 秦 槍 論 ﹂ 識 を 示 す 。 金との講和が成されたのは、ただ秦檎ひとりに原 因するものではない。当時議論の中心となったのが ﹁宋の金に敵せざること明か。弱固より強に敵すべか らず、小固より大に敵すべからず﹂ということだっ た。その時に﹁況んや弱小を以て強大に事ふる、所 調天を畏る者は、未だ必ずしも大義を失はざるをや﹂ という説が流布し、士大夫より万民に至るまで惑は せられた。秦槍はその機を察し、惇然として講和を 推進したのである。いわば、兵争に疲弊した民意が ﹁趨合﹂して秦檎を﹁塑成﹂したのである。よって月 洲は、後世に売国奴として一般に評価される秦槍に 対し、﹁罪するに深くせず﹂とする。 一方の﹁武夫﹂は講和に反対したが、そもそも戦 争が﹁武夫﹂にとって﹁高官大禄﹂を獲得する絶好 の機会だからだ、と月洲は述べる。主戦をとなえる ﹁武夫﹂らは、平和時において充分な俸禄が宛行わら れ、生活が満たされていたならば、容易に講和に騨 で次のような認 いていたであろう。誰が好んで戦闘に加わるだろう か。ところで、当時の﹁将士﹂は禄せられていなか った。時の皇帝・高宗は人心を離反させているも、 しかし﹁将士﹂は公義の何たるかを知っていた。だ からこそ﹁将士﹂は、よく﹁武夫﹂の士気を鼓舞し て敵と当たり、軍功を立てたのである。天下の事は、 かく行なわなれるべきである、と月洲は結ぶ。 月洲は、主戦を主張するその裏に自己の利益獲得 を目論んでいるとして、﹁恢復を唱﹂える﹁武夫﹂は ﹁私情を挟﹂んでいると批判する。この﹁秦槍論﹂の ﹁武夫﹂批判は、嘉永・安政期の文脈において、嬢夷 実行を叫ぶ勢力への批判として読み取れる。そして、 巌垣月洲が期待するのは、公義を知り私情を挟まな い、つまり道義性に根ざし無私の心境で危機に立ち 向かう﹁将土﹂であった(註一 O ) 。 -139一 (22) 4 、﹁将士﹂への期待 主に﹃月洲遺稿﹄に拠って、月洲の自己規定、﹁自 尊の俗﹂批判、﹁武夫﹂批判を見てきた。

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第16号 自らを﹁漫土﹂とする月洲は日本の社会に、海外 に﹁武威﹂を誇る﹁自尊の俗﹂を見い出し、福公弘 道と同様、日本型華夷論者批判をしていた。 また月洲は、﹁戦﹂の志向に﹁禄﹂への我欲を秘 めているとして、﹁主戦﹂派の﹁武夫﹂を批判する。 この﹁主戦﹂派とは、安政期の文脈では鎖国棲夷派 を指す。月洲は状況打開する者として、﹁武夫﹂とは 道義性・無私性の点で区別される﹁将士﹂に期待を 寄せていた。月洲が福公弘道と徳川斉昭にむけるま なざしには、﹁将士﹂か否かという検証が含まれてい る の で あ る 。 言語と文化 文教大学 E ﹁死地﹂の英雄 ー、﹁武夫﹂徳川斉昭 巌垣月洲が﹁和戦皆国を過つ﹂と述べる根底には、 ﹁恢復﹂を唱える﹁武夫﹂が﹁高官大禄﹂への我欲を 秘めているとの認識があった。この﹁武夫﹂批判は、 具体的には徳川斉昭に代表される嬢夷派に向けられ ていると考えられる。 月洲の﹁秦檎論﹂は、その成立年代については未 詳である。しかしその内容から、安政五年の日米修 好通商条約締結の頃には成立したと推定される。こ の﹁秦檎論﹂を斉昭の言説とされた﹁水戸内奏書﹂ を透過して眺めるとき、月洲の﹁武夫﹂批判につい てより明確な輪郭を視認できる。 安政四年頃、京都巷間に流布した﹁水戸内奏 書﹂(註一一)と呼ばれる文書は、水戸藩士豊田小太 郎 に よ っ て 書 か れ た 提 言 書 で あ る ( 註 一 二 ) 。 し か し 、 世間一般はこの文書を徳川斉昭の手によるものとし て 受 容 し た 。 ﹃水戸藩史料﹄によれば、﹁具眼之士﹂には﹁水戸 内奏書﹂が徳川斉昭の手によるものではないと看破 されたという。一方で、水戸に荷担するものはみだ りに﹁水戸内奏書﹂を称賛し、反対に忌悪するもの にはこれを龍構の資とした。﹁水戸内奏書﹂に対する 世人の評価は毅誉褒庇さまざまであったが、結果﹁疑 似の聞に龍者をして口を藷り水戸陰謀といへる誼妄 の説を担造せしむるに至﹂る状況を招いた、と﹃水 -138一 (23)

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巌垣月洲の世界観ー沼公弘道をどうみるかー 戸 藩 史 料 ﹄ は 解 説 す る { 註 一 二 一 ) 。 ﹁水戸内奏書﹂でまず展開されるのは、﹁幕府の諸 役人﹂への批判である。︿徳川斉昭﹀のみるところ、 江戸幕府が開国路線をとるのは諸役人の﹁畢寛戦を 好まず、永く利禄を保ち、無難に事を取計ひ候心術﹂ に起因している。このような幕府諸役人が進める﹁通 和交易﹂による暫時の太平を維持する路線は、後世 に重大な禍根を残す。欧米列強の開国圧力に屈する とあらば、﹁神国の辱めを万国に晒し、国体も不二相 立様相成﹂からである。 だからこそ﹁戦﹂に国論を一決し、﹁我国古来の 風気﹂たる﹁勇猛の気に立帰﹂る必要がある、と︿徳 川斉昭﹀は訴える。条約勅許問題を﹁神州復興の時 会﹂の契機として捉えて、京都朝廷が条約締結反対 の立場を示して江戸幕府を牽制することで、﹁天下有 志の土﹂の﹁憤発﹂を促する。そうすることで﹁神 国﹂の国威﹁恢復﹂が果たされると︿徳川斉昭﹀は ﹁ 水 戸 内 奏 書 ﹂ で 説 く 。 巌垣月洲の﹁秦檎論﹂に目を転じよう。﹁秦槍論﹂ では、﹁量に武夫独り公義に街ひ、文官皆私情を懐か んか﹂という一節がある。この﹁文官﹂とは、幕末 日本に置き換えれば、﹁水戸内奏書﹂でいう﹁幕府の 諸役人﹂に比定されるものと解釈できる。先に見た ように、︿徳川斉昭﹀は﹁通和交易﹂に傾く﹁幕府 の諸役人﹂を﹁畢寛戦を好まず、永く利禄を保ち、 無難に事を取計ひ候心術﹂として批判する。その︿徳 川斉昭﹀の見解に対し、﹁其れ恢復を唱ふる者、亦 私情を挟むと見るべし。講和に与する者、相去るこ と一間耳﹂だと、それに反駁する見方を﹁秦檎論﹂ で月洲は提示する。 ︿徳川斉昭﹀は﹁水戸内奏書﹂で、﹁恢復﹂を唱え る﹁天下有志の士﹂の一人として、﹁戦﹂の一決を主 張する。そして﹁無難に取り計らい、長く利禄を保 つことを謀﹂って開国路線を取る﹁幕府の諸役人﹂ を批判する。一方の月洲は﹁秦槍論﹂で、﹁恢復を唱 ふる者﹂は﹁戦﹂に託けて﹁高官大禄﹂の獲得を目 論んでいると分析し、﹁文官﹂と同様に﹁私情を挟﹂ んでいると批判する。月洲のまなざしは、講和派と -137 (24)

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第16号 主 戦 派 、 換 言 す る と ﹁ 幕 府 の 諸 役 人 ﹂ ( ﹁ 水 戸 内 奏 書 ﹂ ) と﹁天下有志の土﹂(同右)、それぞれの表層を覆う 論法を剥がし、両者に同じ﹁禄﹂への拘泥を抱えて いるのを捉えるのである。 月洲は﹁秦槍論﹂で、﹁禄﹂の獲得への野心を秘 める﹁武夫﹂を批判し、﹁禄﹂に関係無く無私の心性 で欧米列強に戦いに臨む﹁将士﹂への待望感を示し た。よって﹁水戸内奏書﹂において﹁恢復﹂を唱え ﹁天下有志﹂を自称する︿徳川斉昭﹀に、月洲は厳 しいまなざしを向けるものと考えられる。︿徳川斉 昭﹀、さらには徳川斉昭を、月洲は期待される無私 の英雄たる﹁将士﹂とは捉えないのである。 文教大学言語と文化 2、﹁死地﹂に陥れる 徳川斉昭は﹁十条五事建議書﹂で、﹁戦を主と致﹂ し﹁天下の士気引立﹂てるのが急務であり、﹁廟議、 戦の一字に御決着﹂することで﹁武家は勿論、百姓 町人迄覚悟相極、神国惣体の心力一致可レ致﹂くこ とが肝要と説いていた註一四)。︿徳川斉昭﹀も﹁水 戸内奏書﹂で、﹁戦﹂に﹁廟堂の議論さえ一決﹂すれ ば、﹁人気は勇猛の気に立帰り、身命を拠ち御国恩を 報﹂うことは疑いないとする{註一五三このような ﹁戦﹂の呼号は、自国の状況を﹁死地﹂へと転換する 術 策 な の で あ る 。 徳川斉昭および︿徳川斉昭﹀は後期水戸学に依拠 している。その後期水戸学の尊嬢論の代表的なテキ ストが、会沢正志斎(一七八一│一八六三)の﹃新 論﹄(文政八(一八二五)年成立)である。正志斎の ﹃新論﹄は、欧米列強の侵出に対する戦略・戦術論を 提起したものであり、その戦略・戦術論の基本的枠 組 み が ﹃ 孫 子 ﹄ で あ る ( 註 二 ハ } 。 ﹃新論﹄{註一さでは欧米列強から主導権を奪取す る た め に 、 ﹁ 億 兆 心 を 一 に す る ﹂ こ と を 繰 り 返 し 説 く 。 ﹁散地﹂である幕末日本において民心統一を果たし士 気を発揚するために、正士山斎は次の二つの方略を提 示する。ひとつは長期戦略としての尊王を支える祭 政一致の政治制度であり、もうひとつは当面の戦術 としての嬢夷策である。正志斎の戦術援夷策の意図 -136一 (25)

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とは、外患の危機を強調して圏内を戦時体制下に主 導的に陥れ、民心統一を図ることである。つまり、 太平の世に泥む世人を嬢夷策の断行によって覚醒さ せ、必死の士気の高揚を達成するという構想である。 正志斎は﹃新論﹄で、﹁これを死地に陥れ然る後に生 く ﹂ ( 註 一 八 ) と ﹃ 孫 子 ﹄ ﹁ 九 地 ﹂ 篇 の 一 説 を 引 用 し て 、 文政八(一八二五)年に公布された異国船打払令を 擁護する。正志斎にとり嬢夷策とは、﹃孫子﹄兵学で いう﹁散地﹂自国の現状を﹁死地﹂に転じる国内向 けの術策なのである註一九}。 会沢正志斎の嬢夷策は、﹁天朝、武を以て国を建 て、詰成方行せしこと、由来旧﹂(註二 O ) き ﹁ 国 体 ﹂ の優秀性を前提とし、﹁散地﹂状況の日本を﹁死地﹂ への転換を目的とするものであった。徳川斉昭、そ して︿徳川斉昭﹀にみる﹁戦﹂の連呼も、正志斎の 嬢夷策と意図するところは同じである。徳川斉昭、 そして︿徳川斉昭﹀が唱えるところの﹁戦﹂は、﹁死 地﹂招来の方策であった。 徳川斉昭が政策提起したのは、 巌垣月洲の世界観ー沼公弘道をどうみるかー いわゆる﹁内戦外 和﹂論である。圏内では﹁戦﹂を呼号し、対外的に は﹁和﹂を旨とするものであった。﹁十条五事建議書﹂ でも﹁戦は難く和は易く候得ば、戦に御決に相成、 天下一統戦を覚悟致し候上にて、和に相成候へば、 夫程の事はなく﹂とあり、巧妙な避戦論となってい る。嬢夷策は圏内向け対策であり、日本の側から戦 端を開くことは意図してはいなかったのである。日 米通商条約締結後も遂に立ち上がることのなかった 徳川斉昭には、在野の尊嬢派から不満が沸き上がっ た と い う 。 (26) ﹃月洲遺稿﹄には﹁龍蝦を詠む﹂という、徳川斉 昭をイセエビに見立てて﹁若何せん威貌剛腸無きを﹂ と郷撤していると見られる漢詩がある。この﹁死地﹂ を招来しようとするも、決して﹁死地﹂に赴かなか った徳川斉昭を、巌垣月洲は﹁将士﹂とはしないで あ ろ う 。 3、﹁死地﹂に赴く 徳川斉昭と対置される握公弘道は、義勇兵と共に

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文 教 大 学 言 語 と 文 化 第16号 波濡を越えて、覇権国家イギリスの首都ロンドンに 突入する。福公弘道は義勇兵に、﹁余諸君と奥に遠く 高里に来る。深く死地に入り、復た生還するを念じ ず。明日始めて嘆夷と交鋒せん。宜しく黄華刀の光 を殺し、名を海外に留むべし﹂(﹃西征快心篇﹄第三 回)と訓示する。文字通りの﹁死地﹂に橿公弘道は 赴いたのである。福公弘道が目指すのは、﹃西征快心 篇﹄作者序文にある﹁世界の大不平﹂つまりイギリ ス覇権の下での欧米列強による国際市場の支配と植 民地の拡大という国際状況、その転換である。武力 を背景として植民地を拡大し、世界の富を収奪する イギリス覇権について、橿公弘道は﹁余西書を讃む 毎に、久しく不卒を抱﹂(同第四回)いたとする。橿 公弘道は﹁義を以て利となす﹂(同右)状況を招来す る国際新秩序の構築をめざして、﹁死地﹂へと突入し た の で あ る 。 濯公弘道の戦略は、他のヨーロッパ諸国を動かし た。イギリスの国際市場の支配を解消した結果、各 国聞における貿易市場を活性化させて互いの利益を 拡大させ、無益な植民地争奪を休めさせた。そして 清国皇帝をして帰途の途中にある橿公弘道を対等の 礼で迎えさせ、﹁愛に貴園の天討に頼て、永く無事を 得る。互市更に盛んなり。高義を仰欽し、深く人心 に感ず﹂(同第六回)という文言の国書をヨーロッパ 諸国が黄華国に呈することになる。 濯公弘道は、自らの行動は世界に普遍する﹁義﹂ のためであり、﹁寸貨尺地も、我が利とする所無し﹂ (同第五回)と表明する。その言葉通り、旧イギリス 領土の再分配を巡るヨーロッパ諸国聞の議論に福公 弘道は参加しない。そして﹃西征快心篇﹄後半部分 では、各国からの褒賞の受取りを辞退する福公弘道 の姿が語られる。月洲は、正義の所在を知り道義性・ 無私性に根ざした﹁将士﹂の自発的行為への期待を 示していた。濯公弘道はまさに、巌垣月洲のまなざ しにおいて﹁将士﹂と捉えられるのである。 -134一 (27) 4 、月洲の状況認識 月洲のまなざしにおいて、徳川斉昭を﹁武夫﹂、

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巌垣月洲の世界観ー濯公弘道をどうみるかー 橿公弘道を﹁将土﹂と捉えるものと考えられる。 まり徳川斉昭と福公弘道は、巌垣月洲の世界観にお いて明確に区別されていたとみてよい。﹃西征快心 篇﹄の成立は安政四(一八五七)年頃と見られる。 よって巌垣月洲は、通商条約締結問題で江戸幕府と 京都朝廷が対立していく当時に、﹁巌垣月洲停﹂にあ る﹁和戦皆以って国を誤つに足る﹂との状況認識に あったのは確実であろう。 巌垣月洲は安政期に、﹁自尊の俗﹂を危倶し、嬢 夷を訴える勢力を批判していた。時代は、安政五(一 八五八)年の井伊大老主導による通商条約締結調印 強行、そしていわゆる安政の大獄という事態に推移 し、万延元(一八六

O

)

年三月の水戸浪士による井 伊大老暗殺に至る。徳川斉昭も万延元年八月に死去 するが、安政の大獄後の京都では尊皇擾夷派が台頭 す る の で あ る 。 なお、月洲の﹁講和﹂批判は、﹁謀算﹂(﹁元虜入 冠の圃の後に題する﹂)つまり将来への戦略、それを 伴わない単なる戦争の回避の口実としての開国許容 J

論に向けられたものと推測される。﹃西征快心篇﹄で は、橿公弘道の活躍の結果、世界は﹁互市更に盛ん﹂ (﹃西征快心篇﹄第六回)になったとされている。よ って、富彊への寄与という観点から、月洲は開国通 商それ自体については肯定的であったとうかがえる。 おわりに 日本は﹁五大洲に居る帝国のご(﹃西征快心篇﹄ 第一回)、世界中にある帝国の一つでしかない、とい うのが巌垣月洲の自国観である。月洲は、﹁武威﹂を 誇り、日本を世界の中心とみる﹁自尊﹂の意識・観 念を、今日の軍事的劣勢を招いた根本原因だとして、 批判の姐上に載せていた。このような視座に立つ巌 垣月洲は、確かに嬢夷派の標的になり得たであろう。 そして月洲は﹃西征快心篇﹄作者序文で、﹁世界 の大不平﹂つまり欧米列強がアジアに植民地や市場 を争奪し利益を独占するという世界の構造、これを 変革する﹁非常の人﹂(註二二の出現への期待を提示 していた。世界の覇権構造を﹁義﹂の称揚をもって -133一 (28)

(17)

第 16号 変革し、自国の危機を回避しようと﹁死地﹂に赴い た福公弘道は、月洲のまなざしに﹁将土﹂として評 価される存在なのである。この月洲の評価は、圏内 対策として懐夷策、つまり﹁死地﹂転換政策を唱え た徳川斉昭との対比においてなされるものである。 従 来 、 巌 垣 月 洲 を ﹁ 日 本 主 義 ﹂ ( 註 一 一 一 一 ) 者 で あ る と の 見 解 や 、 ﹃ 西 征 快 心 篇 ﹄ を ﹁ 大 和 魂 の 爆 殺 ﹂ ( 註 二 三 ) とする評価がされてきた。しかし本稿でみてきたよ うに、巌垣月洲は幕末当時の日本型華夷意識に抗す る世界観を提示し、﹃西征快心篇﹄にはその世界観が 投影されていた。よって、﹃西征快心篇﹄に日本中心 主義的傾向を見い出そうとする見解は、適当ではな い と 筆 者 は 考 え る 。 文 教 大 学 言 語 と 文 化 ︻ 註 ︼ ︹ 註 二島弘尾編﹃噺耕園叢書﹄第一集一

1

二 頁 。 一一︺前田勉﹃近世日本の儒学と兵学﹄第五章 第 三 節 参 照 。 ︹ 註 ︹ 註 三︺﹃西征快心篇﹄第七回には、躍公弘道の認 識が次のように述べられている。 皇后三韓を征服して自り以来、朝廷 以震へらく敵閣外患は畏るに足らずと。 而して海防を不聞に置く。是を以て蒙古 入冠し、我師敗績す。二島陥波し、西遊 の郡勝皆破らる。破竹の勢に、京畿大い に震ふ。暴風に頼りて虜艦の覆る有る耳。 市して我兵と亦死傷を算ふる無く、秋成 りて犠を告げたり。虜王再び入冠せんと 欲せしも、群臣の多く諌むるを以て果た さず。若し果たして入冠せば、我が創演 未だ痘えず、棋倒未だ輝くせざるに乗じ、 即ち一戦して西謹陥ち、再戦にて京畿敗 れん。園事言ふに忍びざる者有り。甚し き哉海防の疎なると。而れども俗子の識 る無く、妄りに一書を作り、八月の暴風 を稽して紳風と矯し、孤島の質卒を殺す を三鱗氏の功と属す。迭に後人をして四 川 M 川

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(18)

厳垣月洲の世界観ー濯公弘道をどうみるかー 海天聖、紳風侍むべしと謂はしむ。而し て海防を不問に置く。 桐花氏の朝鮮を伐つに至り、兵馬強盛、 猛特林の知し。而かるに朝鮮素より罵弱 と瞭す。又

E

つ太卒に遊惰す。我が兵を 以て之に加ふれば、石の卵を座するが知 し。即ち明を取る能はざるも、亦八道を 取り諸特を分封して、朝鮮を永く版固に 蹄すべし。而れども計此を出ず。此役前 後七年。兵を損なひ財を牒やし、無効に 終はる。亦児戯ならずや。而るに野史の 識る無く、妄りに桐花氏の遠路と誇り、 修に諸持の勇武を談ず。迭に後人をして 武威に侍むべし、夷秋慮るに足らず、外 冠の至ること有らば、轍ち之を撃援する 耳と調はしむ。而して海防を不問に置く。 是を以て花旗人の謹海に闘入するや、 一砲を放つ能はず、一戦を交ふ能はず。 所調撃嬢の具に安にか在る。鳴呼組人 註 俗土。徒だ虚撃を張り、成敗の賞を考 へず。蜜く古書を信じ、今日の事勢を察 せず。故に海防を不聞に置く者、皆皇 后・三鱗・桐花氏の捷する所と属すは誤 なり。今臣令を奉り威を西洋に宣ぶ。窃 かに恐る、後人幕下を稽し、之を皇后・ 三鱗・桐花氏と比するを。市かして復た 海防を不聞に置けば、即ち今日西征の功、 適ま以て他年敗亡の禍を招くに足る。此 臣の大いに摺るる所なり。 四︺荒野泰典﹃近世日本と東アジア﹄および 前田勉﹃近世日本の儒学と兵学﹄序章第 四 節 参 照 。 五︺岩波日本思想大系五六﹃幕末政治論集﹄九 頁。なお﹁十条五事建議書﹂については、 本稿は﹃幕末政治論集﹄所収に拠った。 六︺杉浦重剛編著﹃巌垣月洲﹄六│七頁。原 文は漢文、書き下しは引用者による。以 後 の 引 用 も 閉 じ 。 -131-(30) 註 註

(19)

第 16号 七︺伊藤宗裕﹁近世京都における借家経営﹂ (立命館文学四三三、四三四)、小林丈弘 ﹃明治維新と京都﹄六九頁より重引。 八︺前回勉﹃近世日本の儒学と兵学﹄序章第 三 節 参 照 。 九︺﹃月洲遺稿﹄凡例では、収録された作品の 成立年次について編集時には収録された 作品の成立年次についての情報が失われ ていた、とする。なお、﹃月洲遺稿﹄原文 は漢文であり、引用部分の書き下し文は 引用者にる。以後の引用も同じ。 ︹ 註 一

O

︺﹁将土﹂の語はふつう﹁将校と兵士﹂の意 であるが、﹁秦檎論﹂での用法は、語義に ﹁兵士﹂を含まず、指揮官としての﹁将校﹂ のみを指している。また、﹁禄﹂への我欲 ︹ 註 ︹ 註 ︹ 註 言語と文化 文教大学 を抱く﹁武夫﹂と区別されて使用されて いることから、﹁学徳を備えた将校﹂や﹁士 たる者の履み行うべき道義をわきまえた といった意味が込められていると 将 軍 ﹂ も考えられる。自称を﹁漫土﹂としたこ とからも、巌垣月洲は﹁将士﹂の語に道 義的側面の強調を込めたものと見てよい だ ろ う 。 二﹁水戸内奏書﹂については、日本思想大系 五六﹃幕末政治論集﹄所収に拠った。 ︹ 註 一 一 一 ︺ ﹃ 水 戸 港 史 料 ﹄ 上 坤 二 七

l

四 三 頁 参 照 。 ︹註二ニ︺同右三九│四

O

頁 。 ︹註一四︺日本思想大系五六﹃幕末政治論集﹄ 参 照 。 註 頁 -130一 (31) ︹註一五︺同右七五頁参照。 ︹ 註 一 六 ︺ 前 回 勉 ﹃ 近 世 日 本 の 儒 学 と 兵 学 ﹄ 一 二 六 一 頁 。 [註一七︺﹃新論﹄については、日本思想大系五三 ﹃水戸学﹄所収に拠った。 ︹註一八︺日本思想大系五三﹃水戸学﹄一

O

七頁 ︹註一九︺前回勉﹃近世日本の儒学と兵学﹄第五章第 一 節 参 照 。 ︹ 註 二

O

︺日本思想大系五三﹃水戸学﹄七

O

頁 ︹註二二源了園﹁幕末維新期における ﹁ 豪 傑 ﹂ 的

(20)

綴垣月洲の世界観-~冨公弘道をどうみるかー 人間像の形成│変動期の人間観と人間像 の問題をめぐって│﹂に、幕末維新期に おける英雄豪傑は﹁﹁非常の人﹂であるこ とを自覚した﹁秩序変革型﹂の人物であ る﹂との指摘がある。 ︹註二二︺杉浦重剛編著﹃巌垣月洲﹄三四頁。﹁一面 に於て能く園拳と相交渉し、日本主義を 以て漢撃を修られたること明らかなりと す﹂とある。﹃英国征服記﹄の上田駿一郎 も、杉浦の月洲﹁日本主義﹂者説を継承 している。上回は杉浦の私塾・稽好塾の 門弟であった。 ︹註二三︺岩崎行親﹃西征快心編街義﹄一頁。﹁杉浦 重剛君の醤師巌垣月洲先生の西征快心篇 は、幕末に於ける大和魂の爆殺である。 否日本人の痛痛玉の破裂である﹂とある。 参考文献(引用文献を含む *研究書・一般書 巌 垣 月 洲 ﹃ 月 洲 遺 稿 ﹄ ( 出 版 者 巌 垣 雄 次 郎 、 島弘尾編﹃輔耕園叢書﹄第一集(噺耕園、 杉浦重剛編著﹃巌垣月洲﹄(政教社、一九一八) 岩崎行親﹃西征快心編桁義﹄(敬天舎、一九二七) 千阪粥嘉夫訳﹃西征快心篇﹄(出版者雨森民雄、 一 八 八 七 ) 一 九

O

一 九 四 三 ) -129-(32) 上回駿一郎﹃英国征服記﹄(日本報道社、一九四四) 野口武彦﹃江戸の兵学思想﹄(中央公論社、一九九二 小林丈広﹃明治維新と京都﹄(臨川書底、一九九八) 前回勉﹃近世日本の儒学と兵学﹄(ぺりかん社、 一 九 九 六 ) 金谷治訳注﹃新訂 岩波文庫) 村 山 字 訳 ﹃ 孫 子 ・ 呉 子 ﹄ ( 徳 間 書 底 、 孫子﹄(岩波書店、二

000

、 一 九 九 六 第 三 版 )

(21)

第 16号 *研究論文など 鎌田正﹁非常に処する儒教の権﹂(﹃弘道﹄ 二 、 ニ

OO

一、講義記録) 源了園﹁幕末・維新期における﹁豪傑﹂的人間像 の形成│変動期の人間観と人間像の問題をめ ぐって│﹂(東北大学﹃日本文化研究所研究報 告﹄十九集、一九八三)

O

言語と文化 *史料(岩波書店刊﹁日本思想大系﹂に含まれるも のは﹁大系﹂と略した。また刊行年はすべて省略 し た ) -128-(33) 文教大学 ﹃水戸藩史料﹄(吉川弘文館) ﹃ 幕 末 政 治 論 集 ﹄ ( 大 系 ) ﹃ 水 戸 学 ﹄ ( 大 系 ) ﹃ 渡 辺 畢 山 高 野 長 英 橋本左内﹄(大系) 横井小楠 佐久間象山

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